恵みの雨

主の名を呼ぶ者は
2021/05/16

2021年5月16日 ・ のぞみ教会・主日礼拝 

申告告白

聖歌 232 / 201

祈り 木村喜憲牧師

聖歌 540 / 516

聖書 使徒 2:14-21

説教 <主の御名を呼ぶものは>  木村喜憲牧師

聖歌 498 / 607

献金 <献金の祈り>  木村喜憲牧師

聖歌 383 / 376

祝福の祈り  木村喜憲牧師

 

お知らせ。

◆のぞみ教会のOpen Cell Leaderを建て上げることが出来るように祈りましょう。

[6/6 : 機関長祈り会(礼拝後)]

◆新型コロナウィルス感染拡大防止にかかる蔓延防止等重点措置に伴いまして、

5月30日まで非対面礼拝を実施します。 

◆毎週月曜日午後9時、オンライン祈祷会をZOOMで行います。

   [ 入場ID : 751 809 0278  / パスワード : YCv1GX ]

◆健康回復のためにお祈りをお願いします。

礼拝のための代表祈り 【 6/6:安永真一兄 】

献金のための代表祈り 【 6/6:高橋文治兄 】

 

主の名を呼ぶ者は

 

本文 : 使徒 2 : 14 – 21

14 そこで、ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々にはっきりとこう言った。「ユダヤの人々、ならびにエルサレムに住むすべての人々。あなたがたに知っていただき  たいことがあります。どうか、私のことばに耳を貸してください。

15 今は朝の九時ですから、あなたがたの思っているようにこの人たちは酔っているのではありません。

16 これは、預言者ヨエルによって語られた事です。

17『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。するとあなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。

18 その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは   預言する。

19 また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。それは、血と火と立ち(のぼ)(けむり)である。

20 主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。

21 しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。』

 

私たちは、この世界が否定的に変わっていくことを見る時、またこの世界に良くなる希望がないと感じる時、[世の終わりの時が来た。]という話をします。ところで実は、私たちは、すでに[世の終わりの時]に生きています。

本文17節で、ペテロは、預言者ヨエルの予言を引用して、こう言いました。

17『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。するとあなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。

神様が人々に聖霊を注いでくださる、その時がまさに終わりの日だということです。

 

終わりの日とは、イエス様がこの地に来られた日から、イエス様が再び来られる日までの 期間を言います。

すなわち終わりの日は、イエス様がこの地に来られた時始まって、イエス様が再臨される 日が本当にこの世の最後の日になるはずだということです。だから私たちはすでに終わりの時に生きていますが、間もなく訪れる終わりの時の終わりを準備しながら生きているのです。

終わりの日には、人々に正反対の現象が現れます。一つは、神様が人々に聖霊を注いでくださる素晴らしい恵みが臨むということで、もう一つは、この世に苦しみと裁きが臨むということです。

本文 19節と 20節です。

19 また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。それは、血と火と立ち(のぼ)(けむり)である。

20 主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。

終わりの日に一方では、人々が救われて、聖霊を賜物として受けることが現れますが、もう一方では、すさまじい前兆(ぜんちょう)とともに神様の裁きが臨むということです。言い換えれば世の終わりの日は、ある人には素晴らしい恵みと栄光の時間ですが、ある人には絶望と裁きの 時間になるはずだということです。

イエス様が天に上られる前に、マルコ 16章で、弟子たちに、こう言われました。

マルコ 16章 15節と 16節です。

15 それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。

16 信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。

イエス様が私たちにくださった福音は、両刃の剣と同じです。すなわち福音を受け入れる 人に、福音は、神様からの救いの宣言になりますが、反対に、福音を受け入れない人に、 福音は、神様からの裁きの宣告になるということです。終わりの日には、このように救いと裁きが同時に行われます。

 

この世の終わりの日に、世界は、火で裁かれることが定まっていますが、その裁きは、この地に住んでいるすべての人に臨むはずです。すなわちこの地に住んでいるすべての人は、 神様の怒りの裁きの前に置かれている、絶望的な存在だということです。

ところが、ぺてろは、本文21節で、こう言います。

21 しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。

この世の終わりの日は、この地に住んでいるすべての人に、苦しみと裁きの時になりますが、主の名を呼ぶむ者だけは、みな救われるということです。

しかし問題は、誰もが主の御名を信じられることでもばく、誰もが主の御名を呼べること でもないということです。イエス・キリストの御名は、世界で一番有名な名であり、最も 多くの人が知っている名であります。しかしその中でイエス・キリストの御名を信じて、 その御名を呼ぶ者は、とても少ないです。それは、イエス・キリストを知っているからと いってその御名を呼べることではないということです。もちろんイエス・キリストの恵みは、すべての人に与えられて、その御名を呼ぶことに資格はいりません。ただ人々がその御名を信じようとも、呼ぼうともしないということが問題です。

それなら人は、いつ主の御名を呼ぶようになるでしょうか。

創世記 4章 26節には、こう書いてあります。

26 セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、 人は主の御名によって祈ることを始めた。

アダムの息子セツがエノシュを生んだ時は、この世界が創造されて235年が経った後でした。ところでその時まで、この世の人々は神様の御名を呼びませんでした。すなわち235年の間、人々は、神様を信じることもなく、神様に祈ることもなかったということです。

なぜ人々は神様の存在を信じようともせず、神様の御名を呼ぶこともしなかったでしょうか。その理由は、当時の人々が死ぬしかない自分の運命を悟れなかったからであり、また神様の助けと恵みが必要だと思わなかったからです。人々は、自分の力と努力によって、十分に 生きていけると思いました。また800歳になるまで、死ななかった当時の人々に、死という問題は、肌で感じられる問題ではなかったので、誰も死の前に置かれている自分の運命に ついて実感(じっかん)できませんでした。

 

しかしセツが105歳に、エノシュという息子を生む頃、人々は人間の力では、解決できない大きな悲しみと絶望を経験するようになります。そしてそれによって、自分たちはいつか 死という運命を迎えるべきだということを悟ります。それでセツは、その時、息子を生んでその名をエノシュと付けました。すでに何度も申し上げましたが、エノシュという名前は、[死ぬしかない存在]という意味を持っている言葉であります。すなわちセツとその周りの人たちは、その時、大きな試練を経験して、死と裁きを避けられない、自分たちの絶望的な運命を悟るようになったということです。

彼らにとっては、大きな悲しみと絶望に陥ってしまった、とても辛い経験だったでしょう。ところが、聖書は、その時、初めて人々が主の御名によって祈ることを始めたと証言します。すなわち自分の力で解決できない死と裁きの運命を悟ってこそ、初めて人々は、主の御名を呼びながら、主に頼り始めたということです。そして彼らが神様の御名を呼び始めた時、 初めて彼らは、死と裁きという絶望的な運命から逃れることができました。

人間の大きな問題の一つは、自分がエノシュという事実、すなわち死ぬしかない絶望的な 存在であることを悟れずに生きていくということです。

神様を信じるセツの子孫たちが神様の御名を呼びながら、神様に頼って生きる間、神様を 信じないカインの子孫たちは、自分を守るために町を建てて、技術と文明を発展させました。この地上での人生が、まるで永遠に続くかのように、自分の町を建て、自分の所有を増やしながら、ただこの地のものだけ考えながら生きたということです。

この世界を支配したのは、カインの子孫たちでした。彼らは地上で多くの成功を収めて、 願うものは、何でも手に入れました。しかし彼らの成功を祝福とは言えない理由は、彼らは、結局その成功のゆえに、そして成功を通して得た自身感のゆえに、神様の存在を必要とせず、それで神様の御名を呼ぶことができなかったからです。

人間にとって最も大きな祝福は、主の御名を呼ぶことです。主の御名を呼ぶというのは、 神様の存在を認めることであり、神様を自分の人生の主人として仕えるという意味なんです。そして神様の御名を呼ぶというのは、神様が私たちの人生を治めてくださるように、委ねることを言います。

聖書は、私たちが主の御名を呼ぶ時、私たちに救いが臨み、神様の恵みと平安が与えられると言われます。すなわち、主の御名を呼ぶと私たちのすべての問題が解決されるということです。だから人間にとって最も大きな祝福は主の御名を呼ぶことであり、また人間にとって最も重要なことも主の御名を呼ぶことだということです。

しかし、そうなるためには、まず自分の霊的な無力さと無能さを悟って、自分に対して絶望しなければなりません。なぜなら先ほど申し上げた通りに、人間は、絶望と限界にぶつからない限り、絶対に神様に頼らない存在だからです。

この世界の知恵は、人間の内にある可能性と能力で何でもできると教えます。しかし聖書の教えはそれと反対です。私たちは聖書の教えを誤解してはいけません。聖書の目的は教育と訓練を通して人間を改善(かいぜん)したり、発展させることではありません。聖書の示すことは、人間には、全く希望がないということです。もし人間に希望があったり、良くなる可能性が  あったなら、イエス様が私たちの古い人を十字架につけられる必要がなかったでしょう。 聖書は、人間には全く希望がないから、早く自分の不可能と絶望を悟って、イエス様に頼れと教えます。 

だから信仰生活を一言で定義すれば、信仰生活とは、自分の限界と絶望を悟って、イエス・キリストの御名を呼ぶ過程だと定義することができます。信仰生活は、自分の限界と絶望を続けて探し出す過程であります。御言葉を通して、祈りを通して、そして御言葉に従って 生きるために努力する過程を通して、自分がどれほど無力で絶望的な存在なのかを発見して、悟っていくことです。そして自分の限界と絶望を通して、イエス・キリストだけが、自分の唯一の希望だという結論を下すことがまさに信仰生活であります。

神様が私たちに律法と戒めをくださった理由が何でしょうか。

ローマ 3章 20節で、パウロは、こう言いました。

20 なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。

私たちが、どれほど汚れている存在であり、どれほど希望のない罪人であるかを悟らせる ことが、律法と戒めをくださった理由だということです。そしてそれを悟って、イエス・ キリストに助けを求め、イエス・キリストの御名を呼ばせるために、私たちに律法と戒めをくださったのです。

また神様が私たちを懲らしめたり、私たちに試練をくださる理由は何でしょうか。申命記を読んでみれば、モーセがイスラエルの民に警告のメッセージを伝えました。もし祝福の地に定着した後、イスラエルが神様を離れて、偶像に仕えると神様がイスラエルを、国々の民の中に散らされると警告しました。それは、イスラエルの国と民族を地上でなくしてしまうということと同じ意味の言葉でした。

それなら神様は、罪を犯した自分の民を捨てられるつもりだったのでしょうか。

警告のメッセージを伝えた後、モーセは続けてこう言いました。

申命記 4章 29節と 30節です。

29 そこから、あなたがたは、あなたの神、主を慕い求め、主に会う。あなたが、心を   尽くし、精神を尽くして切に求めるようになるからである。

30 あなたの苦しみのうちにあって、これらすべてのことが後の日に、あなたに臨むなら、あなたは、あなたの神、主に立ち返り、御声に聞き従うのである。

神様が自分の民を懲らしめて、時には、試練を与えられる理由は、裁かれるためではなく、再び神様の御名を呼ばせるためだということです。神様の御名だけが、人間にとって唯一の希望であり、神様の御名を呼ぶことが人間にとって最も大きな祝福であるから、もし神様の民が、神様から離れたら、試練と懲らしめを通してでも、再び神様に立ち返らせ、神様の 御名を呼ばせるということです。

今までの話をまとめれば、人間にとって最も大きな祝福も、また一番重要なことも、神様の御名を呼ぶことだということです。なぜなら人間のすべての問題は、私たちが神様の御名を呼ぶ時、解決されるからです。しかし残念ながら、人間は、絶望と限界にぶつからない限り、神様を捜すこともせず、神様の御名を呼ぶこともしないということです。だから神様は、 私たちが、死と裁きの問題そして人生のすべての問題から救われるために、御言葉を通して、試練を通して、私たちに絶望と限界を悟らせるということです。絶望と限界にぶつかる時、私たちは、初めて神様の御名を呼ぶようになるからです。

だから詩編の記者は、119編 71節で、こう告白しました。

71 苦しみにったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてをびました。

豊かな生活を維持して心配のない人生を生きることが幸せではなく、苦しみに会ったことが自分に幸せだったということです。なぜでしょうか。私たちに神様の御名を呼ばせることは、富と平安ではなく、むしろ苦難と試練だからです。

本文 21節で、ペテロは言いました。

21 しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。

 

今私たちを苦しめる現実が、本当に呪いとか、悲劇だと言えるでしょうか。むしろ私たちは、私たちに訪れたその試練を通して、イエス様の御名を呼ぶようになったのではありませんか。もしそうであれば、今私たちを苦しめる苦難と試練は、新しい祝福の始めだと言うことが できます。なぜなら私たちを苦しめるその問題と試練が、私たちがエノシュだという事実を悟らせて、私たちにイエス様の御名を呼ばせるからです。

最近、私が聞いている賛美の中で[主が働かれる]という賛美があります。韓国語の賛美 ですが、歌詞を内容だけ翻訳すれば、適当にこういう内容です。

日が暮れる時、荒野を歩む時、その時が神様の時。

自分ではできないとき、手ぶらになった時、我は告白する、アドナイ・イルエ。

主が働かれる。主が働かれる。主を信頼しつつ歩む者に。

現実が暗くて未来が見えない時、どこにも頼れる所がない時、そして不可能にふつかった時、その時がまさに、神様が働き始められる神様の時だということです。

神様は、なぜ私たちに暗い現実と不可能な状況にぶつからせるのでしょうか。それは我らの苦しみに知らないふりをしたり、私たちを放っておかれるためではありません。むしろ主が私たちの生活と問題に介入(かいにゅう)されるという意味であり、私たちの主人となって、私たちを 祝福の道に導いてくださるという意味であります。だから苦難と試練の中で私たちのすべきことは、不平と恨みではなく、神様の御名を呼ぶことです。なぜなら主の御名を呼ぶ者は、みな救われるからです。

私たちは、今世の終わりの時を生きています。そして今私たちは、短い時間に多くのものが変わっていくことを経験しています。

中国の小さい町で始まった、コロナ・ウイルスが、半年もならないうちに全世界に広がり ました。誰も予想できず、誰も準備できなかったこの事態を通して、今世界中が大混乱に 陥って、すでに多くのものが変わってしまいました。専門家たちは、もうコロナ以前の生活には、戻れないと言っています。

最近、有名な人の言葉一言で、世界中の株式市場(かぶしきしじょう)が影響を受けて、人々が金持ちになったり、破産(はさん)されたりする現象を見ることも、珍しいことではありません。

また新しい知識と情報が地球の反対側まで伝えられることに、5分もかからない時代を、 私たちは生きています。

一言で言えば、終わりの時は、すべてが早く変わるから、何も信じられず、何も頼れない 時代だということです。これからも、この世のすべては、続けて変わり、またもっと早く 変わっていくはずです。このように休まず変わっていくこの世界で、私たちはどうやって 未来を準備し、何に頼るべきでしょうか。

私たちは、絶対に変わらないものを握って、それに頼るべきであります。この世界が創造 された後、今まで変わらないことがありますが、それはまさに、私たちに向かう神様の愛であり、また私たちにくださった神様の御言葉であります。変わらないイエス・キリスト、 変わらない福音だけが、終わりの時を生きていく私たちを救うことができるということです。

イエス様は、私たちに何が必要なのかを、誰よりもよく知っておられます。そしてイエス様だけが、私たちが幸せになることを、本当に願っておられます。イエス様は私たちの人生のすべての問題を解決してくださるために、この地に来られ、また復活されました。そして 私たちの主人になるために、聖霊様を私たちに送ってくださいました。

終わりの時を生きていく私たちのすべきことはイエス様の御名を呼ぶことです。イエス様を自分の主人として仕え、イエス様に自分の人生を委ねることが、終わりの日に、苦難と試練から、そして厳しい現実から救われる、唯一の道だということです。

Ⅰペテロ 5章 7節(口語訳)で、ペテロは、こう言いました。

7 神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、   いっさい神にゆだねるがよい。

イエス様は、私たちの問題と思い煩いを、いっさいイエス様に委ねることを命じられました。自分でできることは、自分で解決して、自分でできないことだけ、主に委ねることではありません。イエス様はすべてのことを、いっさいイエス様に委ねなさいと言われます。するとイエス様が私たちを顧みてくださるということです。言い換えれば、私たちが自分の問題と思い煩いをイエス様に委ねないから、そして主の御名を呼ばないから、私たちの生活に思い煩いが離れないという話と同じです。

本文で、ペテロは、言いました。

21 しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。

そして、ローマ 10章 13節で、使徒パウロも言いました。

13 主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。

 

誰でも主の御名を呼ぶ者は、みな救われます。私たちの人生のすべての問題に対する救いがイエス・キリストの御名にかかっているということです。同じ言葉を言いましたがぺてろもパウロも、別に条件を付けませんでした。深い信仰が必要だとも言わず、信仰生活の経歴が必要だとも言いませんでした。また罪のない人でなければならないとも言いませんでした。

[だれでも]

イエス様を信じてイエス様の御名を呼ぶ者、自分の問題と思い煩いをイエス様に委ねる者は、誰でも救われます。それがまさに、終わりの日を生きていく私たちにくださったイエス様の約束であります。

皆さんの生活に解決できない問題がありますか。いかに努力しても状況が良くなりませんか。もうできることがなくて、あきらめたいと思っていますか。もしそうであれば、今がまさに神様が働かれる、神様の時であります。私たちの希望は、イエス様だけなんです。私たちのすべきことは、すべてをイエス様に委ねて、イエス様の御名を呼ぶこと、それが私たちが 今の状況から救われる唯一の道であり、また最も確実な祝福の道であります。

イエス様の御名を呼ぶ、のぞみ家族一人一人に、素晴らしい救いの御業が行われることを、我らの主、イエス・キリストの御名によって祝福いたします。

 

≪ みなが聖霊に満たされ  |  <悔い改めて救われなさい> ≫