恵みの雨

2021/5

心を一つにして

2021年5月30日 ・ のぞみ教会・主日礼拝 

申告告白

聖歌 232 / 201

祈り 木村喜憲牧師

聖歌 431 / 433

聖書 使徒 2:42-47

説教 <悔い改めて救われなさい>  木村喜憲牧師

聖歌  イエスが愛したように

献金 <献金の祈り>  木村喜憲牧師

聖歌 383 / 376

祝福の祈り  木村喜憲牧師

 

お知らせ。

◆のぞみ教会のOpen Cell Leaderを建て上げることが出来るように祈りましょう。

[6/6 : 機関長祈り会(礼拝後)]

献金のための代表祈り 【 6/6:高橋文治兄 】

◆新型コロナウィルス感染拡大防止にかかる蔓延防止等重点措置に伴いまして、

6月20日まで非対面礼拝を実施します。 

◆毎週月曜日午後9時、オンライン祈祷会をZOOMで行います。

   [ 入場ID : 751 809 0278  / パスワード : YCv1GX ]

◆健康回復のためにお祈りをお願いします。

礼拝のための代表祈り 【6/27:小林哲雄兄】

7/4:高橋文治兄、 7/11:山本健太兄、 7/18:安永真一兄

献金のための代表祈り 【6/27:木村喜憲師】

7/4:山本満代姉、 7/11:木村喜憲師、 7/18:高橋文治兄  

心を一つにして

-愛の実を結ぶ教会-

 

本文 : 使徒 2 : 42 – 47

42 そして、彼らは使徒たちのえを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。

43 そして、一同(いちどう)の心に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行われた。

44 信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有(きょうゆう)にしていた。

45 そして、資産(しさん)や持ち物をっては、それぞれの必要にじて、みなに分配していた。

46 そして日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと心をもって食事をともにし、

47 神を美し、すべての民好意(こうい)を持たれた。主も日救われる人を仲間に加えてくださった

 

イエス様は、十字架の死と復活を通して、この地に教会を建てられました。イエス様は、 教会がまさにイエス・キリストの体であり、イエス様を信じる者一人一人は、イエス様の 体である教会のそれぞれの機関だと言われました。すなわち、イエス様を信じて救われた 私たち信者は、イエス・キリストにあって一つの体になったということです。

今日の本文には、この地に建てられた、最初の教会である、エルサレム教会の姿に対して 記録しています。エルサレム教会は、聖霊充満になった信者たちが、イエス・キリストに あって一つになる時、教会にどれほど美しくて素晴らしい姿が現れるかを、私たちに見せてくれます。

この地上にあるすべての教会は、不完全であります。なぜなら教会は、不完全な人間たちの集まりであり、また生活環境も性格も社会的な地位も違う、それぞれの人たちが集まって 作られた共同体であるからです。

 

もちろんエルサレム教会も完璧な教会ではありませんでした。エルサレム教会も不完全な 人たちが集まった不完全な共同体でしたが、聖霊様が働かれ、またイエス様の愛によって 一つになった時、世の人々が恐れるほど、すばらしい能力が現れました。そしてエルサレム教会の姿は、イエス様が願っておられる教会の姿がどうであるか、また私たちは教会としてどんな目標を持って進むべきかに対して見せてくれます。

今日の本文に記録されたエルサレム教会の姿を一言で言えば、御霊の実が結ばれた教会だということができます。すなわち、エルサレム教会が、模範的で、理想的な教会になったのは、聖霊の働きによるのであり、また信者一人一人に御霊の実が結ばれたからだということです。

ガラテヤ 5章 22節と 23節には、御霊の実について書いてあります。

22 しかし、御は、愛、喜び、平安、寛容(かんよう)、親切、善意(ぜんい)誠実(せいじつ)

23 柔和(にゅうわ)自制(じせい)です。このようなものを禁ずる律法はありません。

御霊の実は、[愛、喜び、平安、寛容(かんよう)、親切、善意(ぜんい)誠実(せいじつ)柔和(にゅうわ)自制(じせい)]の九つ実で 現れますが、それを御霊の実、あるいは聖霊の実と言う理由は、聖霊様が私たちの心の中に  結ばせる良い性質の実であるからです。また御霊の実は、イエス様が持っておられる性質、すなわち品性でもあります。というのは私たちが聖霊に満たされると私たちからイエス様の性質が現れて、私たちがイエス様に似ている人になるということを意味します。

今日からは、何回に渡って、エルサレム教会に現れた、御霊の実に対して調べてみようと 思っておりますが、私と皆さんに御霊の実が結ばれ、またのぞみ教会がイエス様が喜ばれる教会になることを祈る心を持って、一緒に御言葉を調べてみたいと思います。

[エルサレム教会に現れた、一番目の聖霊の実は、愛の実でした。]

聖書は、ペテロが伝えた福音のメッセージを聞いて、三千人ほどが弟子に加えられたと証言しています。そして、イエス・キリストの弟子となった彼らは、使徒たちが教えてくれた イエス様の教えを堅く守ったと聖書に書いてあります。

弟子は、先生から教えてもらったことを、受け継いで、従う人を言います。

イエス様も、ヨハネ 13章 34節と 35節で、弟子たちに、こう言われました。

34 あなたがたに 新しい戒めをえましょう。互いに愛し合いなさい。わたしが あなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

35 もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」

イエス様の教えを実践して、イエス様の命令に従う者は、イエス様の弟子として認められるということです。

イエス様が私たちにくださった、最も大きくて大切な戒めは、互いに愛し合いなさいという戒めであります。この御言葉を聞く時、私たちは、親切で心の優しい人とか他の人をよく 助けてやる人になることを浮かべます。しかしイエス様が私たちにくださったこの戒めは、実は私たちとしては不可能なことです。イエス様が言われました。

[わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい]

イエス様は、私たちにできる愛を命令されたのではなく、イエス様が教えてくださった愛を行うことを命じられました。ルカ 6章 32節で、イエス様が、こう言われました。

32 自分を愛する者を愛したからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。罪人たちでさえ、自分を愛する者を愛しています。

イエス様の愛は、ご自分を裏切った者たちとご自分を十字架につけた者たちのために命を 捨てられた愛でした。すなわち、イエス様は、愛を施すべき理由もなく、愛される資格も ない者たちまでも愛された、完全な愛だったということです。そしてイエス様はそのようにご自分が私たちを愛されたように、私たちも互いに愛し合うべきだと言われました。

私たち人間が持っている愛は、イエス様が十字架を通して私たちに表された愛とは、違う 愛です。初めに神様が人を創造された時、神様は人をご自身の形として作られ、神様の命をくださいました。すなわち人間にも、イエス様と同じ性質をくださって、人間もイエス様のように愛することができる存在として作られたということです。

そういうわけで、もともと人間にとって愛は、自然で当たり前なことであり、努力が必要なことでもありませんでした。なぜなら神様の愛が人間にも与えられたからです。その証拠 として創世記を読んでみれば、神様が作られた最初の人、アダムが、神様が作られた最初の女エバに出会った時、アダムは、エバにこう言いました。

[私の骨からの骨、私の肉からの肉]

エバに対する知識も必要ではなく彼女と親しくなる時間も要りませんでした。エバを愛するための条件も理由も必要ではなかったということです。エバを見る瞬間、アダムは、すぐ エバを愛するようになりました。そしてアダムは、エバを自分と違う別の存在として思わず、自分の体のように愛しました。

しかし善悪の知識の木の実を食べて罪人になった以後、人間には大きな変化が現れましたが、その一つは、神様から与えられた愛が壊れて変質されたということです。

まず神様に対する愛に変化が現れました。神様が罪人になったアダムにやってこられた時、アダムが神様に対して感じた感情は、愛ではなく恐れでした。アダムが罪人になった後にもアダムに向かう神様の愛は、少しも変わりませんでしたが、アダムは神様の愛を知ることも信じることもできず、ただ神様が怖くて隠れてしまいました。自分が持っている愛が壊れて変質されると自分に対する神様の愛も信じることができなくなったのです。

次に罪人になった後人間には、人に対する愛においても変化が現れました。初めに出会った瞬間から、エバを自分自身のように愛して、一つの体として思っていたアダムでしたが、 罪人になった後、アダムは、エバを自分と違う別の存在として認識し始めました。そして 神様の御前で、自分の罪に対する責任をエバに()してしまいました。さらにアダムは自分にエバをくださった神様まで恨みました。

始めに神様がアダムにくださった愛は、自然に行われる愛であり、条件も努力も要らない 完全な愛でしたが、罪人になった後、その愛が壊れて、変質されてしまったということです。なぜなら、神様の命令を破って罪を犯す瞬間、人間は神様の命と神様の形を失ってしまったからです。

愛というのは、愛の源であられる神様の命と神様の形から溢れ出るものであります。だから、神様の命と形を失った瞬間、人間は完全な愛までも失ってしまったことであります。それで、その時から人間は、誰かを愛するためには、条件と理由と資格が必要になってしまいました。

人間にとって、最も絶対的で、無条件的な愛は、子どもに対する親の愛であるはずです。 しかし子どもに対する親の愛も、完全な愛ではありません。第二列王記を読んでみれば、 イスラエルがアラムの軍隊に包囲(ほうい)された時、()えを(しの)ぐことができなかったイスラエルの 民が、自分の子どもを煮て食べたという記録があります。そしてこんな現象は、何年前に 北朝鮮に大飢饉があった時にも同じく起こりました。

また自分の娘に、してはならないことをした父に対するニュースは、こんにち珍しくもないことになってしまいました。結局、子どもに対する親の愛も、完全な愛にではないという ことです。

 

これがまさに人間が持っている愛なんです。人間の愛は、条件的で、計算的であり、また 状況と立場によって変わり続ける、不完全な愛であります。そしてイエス様も私たちの愛が不完全であることと、また私たちには、イエス様のように愛する能力が、全くないという こととをよく知っておられます。それなのになぜイエス様は、イエス様が私たちを愛されたように、私たちも互いに愛し合うことを命じられたのでしょうか。

個人的に、愛がとても足りないと感じている私は、この御言葉を見る時、負担を感じます。人が憎い時は、特別な理由がなくても憎いですね。それだけでなく、人が憎い時には、その人が使う品物までも憎いです。愛することが、イエス様の御心であることを知ってはいるが、それが自分の力では不可能だということを、私たちは経験を通してよく知っています。

それならイエス様の命令の通りに、私たちが他の人を愛するためには、いったい私たちは、どうすれば良いでしょうか。人を愛することができるように祈れば、私たちは憎い人までも愛することができるでしょうか。もちろん、祈りを通して聖霊の助けを求める時、私たちは人を愛することができます。しかし祈りだけでは、人を愛することができません。

それなら、他の人の悪い所は、見ようとせずに、良い所だけを見ようとすれば、私たちは 人を愛することができるでしょうか。いい態度ではありますが、それでもイエス様のように愛することはできません。なぜなら条件による愛は、結局まことの愛になれないし、また いつでも条件によって変わってしまう可能性があるからです。それなら、私たちは、どう すれば、イエス様のように愛せよという命令を守ることができるでしょうか。

Ⅰヨハネ 4章 12節で、使徒ヨハネは、こう言いました。

12 いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、 神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。

この御言葉を読んでみれば、順番がどうなっていますか。神様の愛が私たちのうちに全う されたら、その時から愛しなさいと言いませんでした。

むしろ聖書は、もし私たちが、イエス様の命令に従って、互いに愛し合うなら、その時から神様の愛が私たちのうちに全うされると言います。すなわち、自分ではできなくても、一応イエス様の命令だから、その命令の通りに従おうとする人には、聖霊様がイエス様の命令を守ることができるように、恵みと愛を注いでくださるということです。そして、聖霊様が 私たちに注いでくださる完全な愛によって、私たちはイエス様のように愛することができるようになるということです。

いつかも申し上げたことがありますが、私が大好きな映画の中で、エバン・オールマイティという映画があります。この前に紹介した、ブルース・オールマイティの続編(ぞくへん)映画ですが、その映画で主人公の妻が、神様に自分の家族の親密な(きずな)のために祈ります。するとある日、神様が人の姿を取って、彼女に現れてこう言います。

[もし、ある人が、家族の(きずな)のために神様に祈れば、神様は、あったかい(ぬく)もりをくれるでしょうか? それとも愛し合うチャンスをくれるでしょうか?]

すなわち、私たちが人を愛することができるように祈っても、突然人を愛するようになる 奇跡は起こらないということです。むしろ私たちが、愛のために祈れば、神様は、私たちに愛をくださるのではなく、愛を実践するチャンスをくださるということです。そして、そのチャンスを通して、私たちがイエス様の命令の通りに愛を施せば、聖霊様が私たちの内に、イエス様の愛を注いでくださるということです。

エルサレム教会の弟子たちは、互いに愛し合いなさいと言われた、イエス様の命令に従って、そのようにして人々からイエス様の弟子として認められました。エルサレム教会に集まった三千名の人たちは、初めから親しい関係でもなく、いろんな面でよく合う人でもありませんでした。出身も違って、社会的な地位も違いました。また教育水準も生きて来た生活環境も違う人たちが、三千名も集まりましたが、彼らは、聖霊様の恵みの中で、一つの体になって、互いに愛し合うことができ、結局イエス様の弟子として認められました。

どうやってそれができたんでしょうか。それは、彼らがイエス様の命令の通りにすることを決心したからです。自分にできるかできないかを考えず、イエス様の命令に従って、互いに愛し合うために努力した彼らに、聖霊様がイエス様のまことの愛を注いでくださり、また 御霊の実を結ばせたということです。

このようにイエス様が命じられた愛は、ただ聖霊様の恵みによってだけできるものなんです。なぜなら、愛は、御霊の実であるからです。しかし御霊の実である愛が、私たちに結ばれるためには、まずイエス様の御言葉に従おうとする、私たちの信仰が必要だということです。

すべての信仰生活がこれと同じです。イエス様が私たちに願っておられるのは、できるか、できないかという事実ではありません。イエス様は、イエス様の御言葉の通りに従うことを命じられましたが、私たちに、必ず成功しなければならないとか、失敗してはいけないとは言われませんでした。

時には、御言葉の通りに従っても、良い結果を得ることができない時があります。時には、御言葉に従いながら、長い間頑張ったのに、どうしても状況が良くならなくて、あきらめるようになる時もあります。しかし、イエス様は、私たちの失敗と結果に対して責めたり、 怒られたりする方ではありません。

過ぎた時間にも申し上げましたが、私たちには、初めから主の御言葉の通りに生きていける力が全くありません。それを知っておられるイエス様が、私たちに願っておられるのは、 ただ私たちが従うことであります。主の御言葉の通りに従うことまでが、私たちにできる ことだということです。私たちが主の御言葉に従えば、すべての結果は、イエス様が責任を負ってくださいます。すなわち、私たちには力がないですが、主の御言葉に従おうとすれば、御言葉の通りに生きさせることも、また主の約束を成し遂げられることも、主が行われるということです。

イエス様は、私たちにも、互いに愛し合うこと、そして主の御言葉に従うことを、命じられました。それなら今私たちにできることは何ですか。私たちにできることは、ただ従うことだけなんです。私たちが主の御言葉に従えば、すべての責任は、イエス様が負ってくださり、すべてのことを聖霊様が成し遂げてくださいます。

のぞみ教会が、主の御言葉に従う教会になることを祈ります。それで、美しい御霊の実が のぞみ家族一人一人の内に結ばれることを、主の御名によって祝福いたします。

エルサレム教会が、イエス様の命令に従って、互いに愛し合うことができた、もう一つの 理由があります。それはペテロが宣べ伝えた福音を通して、罪人であった自分たちの存在を悟って、悔い改めたからです。

イエス様が教えてくださった主の祈りで、イエス様は私たちに、こう祈ることを教えてくださいました。

[我らに罪を犯す者を、我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したたまえ]

このように祈ることを教えてくださった、イエス様の御心は何でしょうか。それは、誰かを憎む前に、私たちも死ぬしかない罪人だったという事実、そして、私たちにもイエス様の 赦しの恵みが必要だという事実を、忘れずに覚えなさいということです。なぜなら私たちが死ぬしかない罪人だったという事実、そして、イエス・キリストの恵みによって救われたという事実を覚える時、私たちは、他の人をイエス様の愛によって 愛することができるからです。

罪を赦された恵みと感激で満たされたら、自分が死と裁きから救われた、その恵みと感激があまりにも大きいから、他の人の欠点とか短所などが見えません。

むしろ人に対する憐れみが溢れます、なぜなら、彼らも自分のように死ぬしかない罪人で あったこと、また彼らも自分のようにサタンに騙されて罪の中で生きるしかなかったことを知っているからです。そして、イエス様が自分を愛しておられることのように、イエス様はあの人も愛しておられるという、その事実のゆえに、結局他の人を赦し、また愛するようになるのです。

エルサレム教会の信者たちは、みな福音を聞いて、死ぬしかない自分たちの罪を悟りました。そして彼らは、イエス・キリストを信じて救われ、罪を赦された喜びに満たされていました。三千名の人が、罪と救いに対する、同じ経験と同じ証を持っていたので、彼らは、互いに 赦し合い、また愛し合うことができました。

Ⅰヨハネ 4章 10節と 11節には、こう書いてあります。

10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの 供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた 互いに愛し合うべきです。

愛は、神様から始まりました。私たちがまだ罪人であった時、神様が私たちの罪のために 一人子イエス様を遣わされて、私たちに対する神様の愛が成し遂げられました。真の愛は、ここから始まるのです。自分の罪に対する絶望を悟って、イエス・キリストの恵みによって救われた体験と証がある人だけが、イエス様の愛によって、他の人を愛することができるということです。そういうわけで、私たちは自分の過去を忘れてはいけません。罪責感を持つべきだ言う話ではなく、自分に与えられた赦しと救いが、どれほど大きくて素晴らしい恵みであるかを忘れてはいけないということです。そしてその愛によって救われた私たちは、 またその愛を持って、互いに愛し合うべき使命があるということです。

エルサレム教会は、このように罪に対する絶望と救われた恵みに対する喜びが満ち溢れる 教会だったので、三千名の人たちが、一つになって、互いに愛し合うことができたのです。

説教をまとめます。

エルサレム教会は、聖霊に満たされている教会でした。聖霊に満たされた信者たちが一つの体になって互いに仕える時、素晴らしい奇跡が現れ、また美しい御霊の実が結ばれました。

エルサレム教会には、聖霊が結ばせた、愛の実が現れました。彼らは、同じところよりは、違うところが、もっと多い人たちでしたが、イエス様が互いに愛することを命じられたので、互いに愛し合うことにしました。そしてイエス様の命令に従って、互いに愛し合おうとした彼らに、聖霊様が、神様の内にあるまことの愛を、エルサレム教会に注いでくださいました。

イエス様の愛によって救われた人だけが、イエス様のように愛することができます。

エルサレム教会が、互いに愛し合うことができた、もう一つの理由は、彼らに罪を赦されて、救われた証があったからです。

それと同じく、のぞみ教会の中で、一つになった私たちは、みな死と裁きを避けられない 罪人でしたが、今は、イエス様の恵みによって救われたという共通点があります。

私たちは、誰かを罪に定めて、憎む前に、もともと自分も死ぬしかない罪人だったという 事実、そして今もイエス様の赦しの恵みが必要だという事実を覚えるべきであります。

また、イエス様が私たちを愛しておられるように、イエス様は他の人をも愛しておられ、 彼らのために喜んで命を捨てられたという事実を、私たちは忘れてはいけません。

のぞみ家族みなが、心を一つにして、互いに愛し合いなさいと言われた、主の命令に励む ことを心から祈ります。それでのぞみ教会に愛の実が結ばれて、毎日イエス様に似ていく 一人一人になることを、イエス・キリストの御名によって祝福いたします。

≫ Read More

2021/05/30 主日メッセージ   nozomich

<悔い改めて救われなさい>

2021年5月23日 ・ のぞみ教会・主日礼拝 

申告告白

聖歌 505 / 523

祈り 木村喜憲牧師

聖歌 506 / 524

聖書 使徒 3:36-42

説教 <悔い改めて救われなさい>  木村喜憲牧師

聖歌 465 / 478

献金 <献金の祈り>  木村喜憲牧師

聖歌 383 / 376

祝福の祈り  木村喜憲牧師

 

お知らせ。

◆のぞみ教会のOpen Cell Leaderを建て上げることが出来るように祈りましょう。

[6/6 : 機関長祈り会(礼拝後)]

◆新型コロナウィルス感染拡大防止にかかる蔓延防止等重点措置に伴いまして、

5月30日まで非対面礼拝を実施します。 

◆毎週月曜日午後9時、オンライン祈祷会をZOOMで行います。

   [ 入場ID : 751 809 0278  / パスワード : YCv1GX ]

◆健康回復のためにお祈りをお願いします。

礼拝のための代表祈り 【 6/6:安永真一兄 】

献金のための代表祈り 【 6/6:高橋文治兄 】

悔い改めて、救われなさい。

 

本文 : 使徒 2 : 36 – 42

36 ですから、イスラエルのすべての人は、このことを はっきりと知らなければ なりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」

37 はこれを聞いて心を()され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちは どうしたらよいでしょうか」と言った。

38 そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そしてそれぞれ罪を赦していただくために、イエスキリストの名によって バプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖を受けるでしょう。

39 なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人えられているからです。」

40 ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って彼らに(すす)めた。

41 そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが 弟子に加えられた。

42 そして、彼らは使徒たちのえを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。

聖書は、イエス・キリストを信じる者は、誰も救われると言われます。罪のゆえに滅びる しかない私たちに人間のために、神様が備えてくださった救いの道は、イエス・キリストを信じることです。イエス様を信じると誰でも救われるから、私たちは、この恵みの御言葉を福音と言います。なぜなら、人間にとってこれより大きな祝福のメッセージはないからです。

ところが、神様がこのように条件のない愛を施してくださり、私たちを救いの恵みに招いてくださいましたが、人々はその福音を受け入れようとしません。人々は[本当にそれだけ? 本当にイエス・キリストを信じることだけで救われるのか?]と言いながら、むしろ福音を無視して、受け入れようとしません。なぜなら、救われるための条件が、あまりにも単純で、簡単だからです。

この世に存在するほとんどの宗教は、それなりに救いの道を提示(ていじ)しています。多くの善行(ぜんこう)を行ったり、修養(しゅうよう)苦行(くぎょう)を通して修練(しゅうれん)をしたり、定まっている宗教的な義務を達成(たっせい)すれば、救われると教えます。すなわちこの世にあるほとんどの宗教は、救いが人間の熱心と努力にかかっているんだと教えているということです。しかし神様が私たちにくださった救いは、私たちの熱心と努力によって得られるものではありません。

エペソ 2章 8節と 9節で、パウロは言いました。

8 あなたがたは、みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から 出たことではなく、神からの賜物です。

9 行いによるのではありません。だれも(ほこ)ることのないためです。

神様が私たちに授けてくださった救いの恵みは、ただイエス・キリストを信じる者たちに 与えられる神様の賜物だということです。だから、イエス・キリストを信じる者は、みな 救われますが、誰も自分の熱心と努力によって救われたと誇ることはできないのです。

ところで人々は、キリスト教の救いを、安いもの扱いをする時があります。なぜなら、何の努力も善い行いもなく、ただ信仰によって救われるからです。言い換えれば、代価を払わずただで救われる救いだからキリスト教の救いを安いもの扱いをするということです。そして救われるために自分の方で努力したことが全くないから、イエス様を信じた後にも、自分が本当に救われたのか、そして救いとは何なのかについて、理解できない場合が多いです。

神様が私たちにくださった福音と救いは、私たちには、ただで与えられますが、絶対に安いものでもなく、代価を払わなかったものでもありません。むしろ神様が私たちにくださった、この救いは、この世の何によっても返すことのできない最も高い救いであります。なぜなら、私たちを救うために、神様の一人子が、ご自分の命で私たちの罪の代価を払われたからです。

また、人々は、キリスト教の救いは、あいまいなものだと思います。人々は、なぜイエス・キリストを信じるだけで人が救われるのか、その理由が理解できません。それは、イエス・キリストを信じるというのが、どういう意味なのかが、よく分からないからです。

イエス様を信じるという言葉の意味を理解できなければ、私たちは、イエス・キリストを 信じながらも、救いの価値も知ることができず、なぜ自分が救われなければならないのか、その理由も悟ることができません。またイエス様を信じるという意味を知らなければ、人は、自分が救われたことについて、続けて疑うしかありません。

それでイエス様を信じるということが、どういう意味なのかを理解できなければ、適当に 信仰生活をしながら、昔の生活を離れず、続けて罪を犯すしかありません。また別に願ったこともなく、必要だとも思わなかった救いを、ただで受けたと思うから、救われたことに 対する喜びもなく、信仰生活に生命力(せいめいりょく)も現れません。

それでこれからは本文の御言葉を通して、イエス様を信じるというのが何であり、救いとは何なのかについて、一緒に聖書を調べてみたいと思います。

新約聖書に出る言葉の中で、ギリシャ語でケリュグマという言葉があります。ケリュグマは神様より受けた 福音のメッセージを意味する言葉でもあり、またその福音のメッセージを宣べ伝える行為を意味する言葉でもあります。聖書には、いろんな人たちのケリュグマが 記録されていますが、それぞれの人たちによって宣べ伝えられましたが、彼らが宣べ伝えたケリュグマは、すべて同じ内容でした。それは[悔い改めてイエスを信じなさい、あるいは悔い改めて洗礼を受けなさい。]という内容のメッセージでした。

今日の本文でペテロも聖霊を受けた後、そこに集まったユダヤ人たちに福音のメッセージを宣べ伝えました。ペテロが宣べ伝えた福音のメッセージとそれを受け入れた人たちに現れた反応は、イエス様を信じるというのは、どういう意味であり、また救いは、どのように  行われるかを、私たちにみせてくれます。

まず、イエス様を信じるというのは、

[一番目に、御言葉を通して、自分の罪を悟ることから始まります。]

本文 36節と 37節です。

36 ですから、イスラエルのすべての人は、このことを はっきりと知らなければ なりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」

37 はこれを聞いて心を()され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちは どうしたらよいでしょうか」と言った。

ペテロが、ユダヤ人たちの前に立って、十字架につけられたイエス様がまさに、まことの キリストであったことを表しました。ペテロの話を聞いて、イエス様を殺せと叫んだ人たち、そしてイエス様は死んでしかるべき罪人だと思っていた人たちは、心を通され、[私たちはどうしたらよいでしょうか] と言いながら苦しみました。

ユダヤ人たちは、自分たちのせいで、キリストであるイエス様が、十字架につけられたと いう事実のゆえに、心に耐えられない辛さを感じました。なぜなら救い主であるキリストを自分の手で殺したということは、裁きを避けることができないという意味だったからです。彼らは、(わら)にもすがる思いで、弟子たちに尋ねました。

[私たちはどうしたらよいでしょうか]

ユダヤ人たちは、裁かれるしかない自分たちの罪を悟ってこそ、神様の赦しと救いの恵みを慕い求めるようになったのです。

イエス様が、マタイ 9章 12節で、言われました。

12 イエスはこれを聞いて言われた。「者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。

病気にかかった人だけが、医者を必要とするように、自分が裁かれるしかない罪人である ことを悟った人だけが、救い主、イエス・キリストを必要とし、その恵みを求めることが できるということです。

だからイエス様を信じるというのは、自分が罪人であることを悟ることから始まるという ことです。というのは、自分が罪人であることを悟れない人は、イエス様を信じることが できないという意味でもあります。

本文 38節です。

38 そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そしてそれぞれ罪を赦していただくために、イエスキリストの名によって バプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖を受けるでしょう。

イエス様を信じるというのは、

[二番目に、悔い改めのバプテスマを通して行われます。]

自分の罪と裁きの運命を悟って、辛がっているユダヤ人たちに、ペテロが言いました。

[悔い改めなさい。そしてそれぞれ罪を赦していただくために、イエスキリストの名に よってバプテスマを受けなさい]

悔い改めというのは、ただ単に、私たちが犯した罪に対して、反省することを言うのでは ありません。悔い改めにおいて、それよりもっと根本的で重要なことは、自分が罪人であることを認めることにあります。

すでに何回か比喩を通して申し上げましたが、リンゴの木にリンゴが結ばれるのは、実りの問題ではなく木の問題です。すなわちリンゴの木だから、リンゴが結ばれるのだということです。それと同じく、人間は、罪を犯したので罪人になるのではなく、本質的に罪人だから、罪という実を結ぶようになるのです。だから人間は罪人という存在の問題を解決しない限り、罪から逃れることができません。リンゴの木を切り倒さなければリンゴが結び続けるように、罪人の私たちが死ななければ、私たちは罪を犯し続けるしかないということです。

そういうわけで、私たちの罪の問題を解決して、救いを得るためには、必ず悔い改めが必要です。なぜなら悔い改めというのは罪人の自分に対して死刑宣告をくだすことです。一言で言えば、自分が死んで然るべき罪人だという事実を悟って、認めることがまさに悔い改めだということです。

ところが、悔い改めは、自分の意志でできることではありません。まことの悔い改めは、 神様の御言葉を通して、自分がどれほど邪悪で、汚れている存在なのかを悟る時できます。本文のユダヤ人たちもペテロが伝えた御言葉を聞いて、自分たちの罪を悟りました。そして自分たちが神様の裁きを避けることのできない罪人であることを悟りました。

そんな彼らにペテロが言いました。

[悔い改めなさい。そしてそれぞれ罪を赦していただくために、イエスキリストの名に よってバプテスマを受けなさい]

悔い改めが自分に対して死刑宣告を下すことであれば、バプテスマ、すなわち洗礼は、葬式だということができます。

コロサイ 2章 12節です。

12 あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた 神の力を信じる信仰によって、キリストとともに よみがえらされたのです。

今の洗礼儀式は、牧師が手を()らして、人の頭に押し付ける形で行われますが、もともと 洗礼は、川で行いました。まず、洗礼を授ける人が、洗礼を受ける人の頭に手を置いて按手(あんしゅ)します。そして洗礼を受ける人の全身を水に浸します。

これは罪人であった私たちの古い人の死を宣言することです。

 

そして彼が再び、水から出る時、彼はイエス・キリストにあって、新しい人として生まれ 変わることです。これがまさに洗礼、すなわちバプテスマという儀式の意味であります。

どうやって水の中に入って、出ることだけで、人が生まれ変わることができるのでしょうか。それは、イエス様が行われた救いの御業とそれを信じる私たちの信仰によってできるのです。イエス様は、十字架につけられる時、罪人であった私たちの古い人もともに十字架につけてくださいました。そしてイエス様は、復活されて、イエス様の復活の命を私たちにくださいました。

そして私たちが信仰で洗礼を受ける時、信仰によって私たちの古い人はイエス様の十字架に死んで、また信仰によって私たちは、イエス様の復活の命で生まれ変わるようになるのです。これがまさに洗礼の意味であります。そういうわけで、私たちは、罪人であった私たちの 古い人の葬式である洗礼を通して、罪から逃れるようになり、また神の御子の命によって 生まれ変わったので、神様の子どもとなる素晴らしい特権を得るようになるのです。そしてその時から、生まれ変わった私たちの内に神様の霊である聖霊様が来られ、私たちとともにおられるようになるのです。これを救いと言います。

ところで、ペテロは、ユダヤ人たちに、こう言いました。

38 そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そしてそれぞれ罪を赦していただくために、イエスキリストの名によって バプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖を受けるでしょう。

[それぞれ罪を赦していただくために、イエスキリストの名によって バプテスマを受けなさい]

ペテロは、自分の罪を悟ったユダヤ人たちに、悔い改めて、洗礼を受けることを言いながら[それぞれ] という言葉を強調しました。それが何を意味するでしょうか。信仰生活は、 教会という信仰の共同体を通して行われますが、悔い改めて救われることは、あくまでも イエス様と自分自身の間に行われる、個人的な体験だということです。

大きくて、熱情的な教会に通っていることが、私たちの信仰の水準を証明してくれません。有名な牧師先生の素晴らしい説教を聞いたからといって、その牧師の信仰が自分の信仰に なるのでもありません。また信者の家庭で生まれた子どもだからと言って、自然に信じる者として育つことでもないということです。

 

信じる者には、それぞれ死ぬしかない自分の罪を悟り、それぞれ悔い改め、それぞれ洗礼を受けて救われる信仰の体験が必要だということです。なぜなら救いは、イエス・キリストに対するそれぞれの信仰によって受けることだからです。

本文 40節です。

40 ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って彼らに(すす)めた。

悔い改めと洗礼に対して、ユダヤ人たちに勧めた後、続けてペテロは、こう言いました。

[この曲がった時代から救われなさい。]

私たちに必要な救いは、裁きと刑罰からの救いだけではないということです。

イエス・キリストの御名によって罪と裁きから救われた私たちは、この曲がった時代からも救われなければなりません。

ローマ 6章 4節で(新共同訳)、パウロは、こう言いました。

4 わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって 死者の中から復活させられたように、わたしたちも 新しい命に生きるためなのです。

洗礼とは罪人であった私たちの古い人の葬式だと申し上げました。ところで葬式が何ですか。葬式は、一人の人間としての人生が完全に終わったという事実を公式的に宣言する儀式です。だから洗礼というのは、イエス様を信じる前に罪人だった私たちの人生、木村喜憲あるいは、自分の名前で生きて来た、私たちの人生が終わったという事実を、公式的に宣言する儀式がまさに洗礼だということです。だから洗礼を受けた瞬間から、もはや木村喜憲という存在は存在しなく、ただ私たちの内におられる、イエス様が私たちの内に生きておられるのです。

それで、パウロは、ガラテヤ 2章 20節で、こう告白しました。

20 私はキリストとともに 十字架につけられました。もはや 私が生きているのではなく、キリストが 私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し 私のために ご自身をお捨てになった 神の御子を信じる 信仰によって いるのです。

 

 

この御言葉はパウロの信仰が深くてこう告白したのではありません。洗礼を受けたすべての信者の人生がこうなるべきだということを語っている御言葉であります。私たちが洗礼を 受けたのは、自分の人生の主人としての権利を、イエス様にささげたことです。

アメリカの映画を見れば、もう死んだのに死なない存在をアンデッド、あるいはゾンビと 言います。ところで教会の中にも多くのゾンビがいます。多くの人たちが洗礼を受けた後も相変わらず、自分のための人生をあきらめようとしないということです。

しかし聖書は私たちが洗礼によってキリストとともに葬られたと宣言します。もはや自分のために生きて来た私たちは死んで、自分の名によって生きて来た人生は、公式的に終わったということです。人生の目的も、人生の目標も、また生き方も、すべてがイエス・キリスト中心に変わるべきだということです。それがまさにイエス・キリストを信じるという言葉の意味であります。ペテロは言いました。

[この曲がった時代から救われなさい。]

私たちは今まで、この曲がった時代の中で、この曲がった時代の人々と同じ道を 歩いて 来ました。しかしペテロは、救われた私たちに、この時代の人々の思いと価値観から、また彼らが生きていく姿から離れて、この曲がった時代から救われなさいと言います。なぜならこの曲がった時代の人たちが歩んでいる、その道の終わりには、裁きと滅亡が待っている からです。

ローマ 14章 8節と 9節です。

8 もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。

9 キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、 死んで、また生きられたのです。

イエス様が十字架で死んで、復活された理由は、私たちの主となるためだということです。そして主のものになった私たちは、生きるのも、主のために生き、死ぬのも、主のために 死ぬ存在だということです。

私たちは、何の努力もせず、神様の賜物として救われました。しかし救いを味わうことも ただではありません。イエス様がご自分の全部を与えて私たちをくださったので、私たちも私たちの全部を捧げて、イエス様を主人として仕えるべきであります。

これがまさにイエス様を信じるという意味なんです。

最後に今日の本文42節にはそのようにイエス様を信じて救われた者の変わった生活に対して書いてあります。

42 そして、彼らは使徒たちのえを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。

その日ペテロが宣べ伝えた福音のメッセージを聞いて、3千名のユダヤ人たちが悔い改めて、洗礼を受け、救われました。聖書は、イエス様を信じて救われた彼らが、使徒たちの教えを堅く守ったと証言します。

[交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。]

交わりをするというのは、ともに共有して、分かち合うという意味を持っている言葉です。イエス様を信じて救われた者たちは、キリストにあって一つの体になった存在です。だから喜びも悲しみもまた栄光も苦難もともに共有して、分かち合う存在になるべきであります。イエス・キリストが十字架を通してこの地に教会を建てられた理由は、イエス・キリストを信じる者たちが一つの体になって、互いに顧みながら、助け合い、支え合わせるためであります。だから教会の中で信者たちが交わることは、イエス様が命じられ、使徒たちが教えてくれた、信者としての義務だということです。

次に、パンを裂くというのは、礼拝を意味します。今は特別な時に聖餐式を行いますが、 当時のすべての礼拝は、聖餐式を中心にして行われました。信じる者たちが一緒に集まってパンを食べて、ぶどう酒を飲みながら、イエス様の救いの恵みを記念することが礼拝だったということです。そしてイエス・キリストの肉を食べ、イエス・キリストの血を飲む、この聖餐式を通して、すべての信じる者が、キリストにあって一つになったという事実を覚えることが礼拝でした。

礼拝に励むことは、信者としての当然な義務であります。礼拝しない信者は、信者という ことができません。今私たちは、それぞれの所で、オンラインで礼拝を捧げています。誰もオンライン礼拝は、教会に集まって礼拝することより、もっと自由で、楽な心で礼拝する ことができるはずです。ところが私たちが覚えるべきことは今それぞれの所で礼拝を捧げている、私たちの心と態度が、現在私たちの信仰の水準と状態を表しているという事実です。オンラインで礼拝するほど、私たちはもっと心を尽くし、力を尽くし、精神を尽くして、 私たちの礼拝が神様に受け入れられるように励まなければなりません。なぜなら礼拝は、 イエス様を信じる者として、私たちの守るべき使命であるからです。

 

最後に救われたユダヤ人たちは、祈ることに熱心でありました。彼らが祈りに励んだ理由は信仰によって生きるためでした。祈りを通して聖霊様の恵みと助けを受けなければイエス・キリストの弟子として生きることができなく、またこの曲がった時代から逃れることができないからです。私たちがイエス様を信じる者として生きることも、またこの曲がった時代で罪を犯さず、主の御心の通りに生きることも、ただ祈りにかかっています。祈りによって 聖霊様の助けを求め、聖霊様の導きを受ける時、可能になるということです。

このようにペテロが宣べ伝えた福音のメッセージを聞いて救われた3千名のユダヤ人たちは、使徒たちの教えを守って、交わりと礼拝と祈りに励みながら、イエス様を信じる者として 生き始めたということです。イエス様を信じるということ、そしてイエス様を信じる者の 生活とは、こういうものだということです。

説教をまとめます。

イエス様を信じるというのは教会に通っているという意味ではありません。またイエス様の存在を認めるという意味でもありません。イエス様を信じるというのは、罪人であった、 私たちの古い人が、イエス様とともに死んだことを信じること、そしてイエス様の復活の 命によって生まれ変わったことを信じることを意味します。そしてイエス様を主人として 仕え、その命令に従って生きることをイエス様を信じることだと言います。

神様がイエス・キリストを通してくださった救いは、決してあいまいなものではありません。この世の何よりも明確な真実であります。

私たちはイエス・キリストを信じて救われました。そしてイエス・キリストの御名によって洗礼を受けました。それならもはや私たちには救われた者のように、またイエス様を信じる者らしく生きるべき責任と使命があります。

このためにイエス様が私たちをのぞみ教会に呼び寄せてくださいました。のぞみ教会の中で、我らはイエス様の愛で交わり、イエス様の命で礼拝し、イエス様の御名によって祈りながら、私たちに与えられた、信じる者としての使命を果たすべきであります。

私たちが祈りを通して聖霊様の助けを求め、そのみこころに従えば、聖霊様が私たちを助け、恵みを授けてくださるはずです。この一週間も、私たちに与えられたすべての時間を信じる者として生きていく、私と皆さんになることを、主の御名によって祝福いたします。

≫ Read More

2021/05/22 主日メッセージ   nozomich

主の名を呼ぶ者は

2021年5月16日 ・ のぞみ教会・主日礼拝 

申告告白

聖歌 232 / 201

祈り 木村喜憲牧師

聖歌 540 / 516

聖書 使徒 2:14-21

説教 <主の御名を呼ぶものは>  木村喜憲牧師

聖歌 498 / 607

献金 <献金の祈り>  木村喜憲牧師

聖歌 383 / 376

祝福の祈り  木村喜憲牧師

 

お知らせ。

◆のぞみ教会のOpen Cell Leaderを建て上げることが出来るように祈りましょう。

[6/6 : 機関長祈り会(礼拝後)]

◆新型コロナウィルス感染拡大防止にかかる蔓延防止等重点措置に伴いまして、

5月30日まで非対面礼拝を実施します。 

◆毎週月曜日午後9時、オンライン祈祷会をZOOMで行います。

   [ 入場ID : 751 809 0278  / パスワード : YCv1GX ]

◆健康回復のためにお祈りをお願いします。

礼拝のための代表祈り 【 6/6:安永真一兄 】

献金のための代表祈り 【 6/6:高橋文治兄 】

 

主の名を呼ぶ者は

 

本文 : 使徒 2 : 14 – 21

14 そこで、ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々にはっきりとこう言った。「ユダヤの人々、ならびにエルサレムに住むすべての人々。あなたがたに知っていただき  たいことがあります。どうか、私のことばに耳を貸してください。

15 今は朝の九時ですから、あなたがたの思っているようにこの人たちは酔っているのではありません。

16 これは、預言者ヨエルによって語られた事です。

17『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。するとあなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。

18 その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは   預言する。

19 また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。それは、血と火と立ち(のぼ)(けむり)である。

20 主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。

21 しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。』

 

私たちは、この世界が否定的に変わっていくことを見る時、またこの世界に良くなる希望がないと感じる時、[世の終わりの時が来た。]という話をします。ところで実は、私たちは、すでに[世の終わりの時]に生きています。

本文17節で、ペテロは、預言者ヨエルの予言を引用して、こう言いました。

17『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。するとあなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。

神様が人々に聖霊を注いでくださる、その時がまさに終わりの日だということです。

 

終わりの日とは、イエス様がこの地に来られた日から、イエス様が再び来られる日までの 期間を言います。

すなわち終わりの日は、イエス様がこの地に来られた時始まって、イエス様が再臨される 日が本当にこの世の最後の日になるはずだということです。だから私たちはすでに終わりの時に生きていますが、間もなく訪れる終わりの時の終わりを準備しながら生きているのです。

終わりの日には、人々に正反対の現象が現れます。一つは、神様が人々に聖霊を注いでくださる素晴らしい恵みが臨むということで、もう一つは、この世に苦しみと裁きが臨むということです。

本文 19節と 20節です。

19 また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。それは、血と火と立ち(のぼ)(けむり)である。

20 主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。

終わりの日に一方では、人々が救われて、聖霊を賜物として受けることが現れますが、もう一方では、すさまじい前兆(ぜんちょう)とともに神様の裁きが臨むということです。言い換えれば世の終わりの日は、ある人には素晴らしい恵みと栄光の時間ですが、ある人には絶望と裁きの 時間になるはずだということです。

イエス様が天に上られる前に、マルコ 16章で、弟子たちに、こう言われました。

マルコ 16章 15節と 16節です。

15 それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。

16 信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。

イエス様が私たちにくださった福音は、両刃の剣と同じです。すなわち福音を受け入れる 人に、福音は、神様からの救いの宣言になりますが、反対に、福音を受け入れない人に、 福音は、神様からの裁きの宣告になるということです。終わりの日には、このように救いと裁きが同時に行われます。

 

この世の終わりの日に、世界は、火で裁かれることが定まっていますが、その裁きは、この地に住んでいるすべての人に臨むはずです。すなわちこの地に住んでいるすべての人は、 神様の怒りの裁きの前に置かれている、絶望的な存在だということです。

ところが、ぺてろは、本文21節で、こう言います。

21 しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。

この世の終わりの日は、この地に住んでいるすべての人に、苦しみと裁きの時になりますが、主の名を呼ぶむ者だけは、みな救われるということです。

しかし問題は、誰もが主の御名を信じられることでもばく、誰もが主の御名を呼べること でもないということです。イエス・キリストの御名は、世界で一番有名な名であり、最も 多くの人が知っている名であります。しかしその中でイエス・キリストの御名を信じて、 その御名を呼ぶ者は、とても少ないです。それは、イエス・キリストを知っているからと いってその御名を呼べることではないということです。もちろんイエス・キリストの恵みは、すべての人に与えられて、その御名を呼ぶことに資格はいりません。ただ人々がその御名を信じようとも、呼ぼうともしないということが問題です。

それなら人は、いつ主の御名を呼ぶようになるでしょうか。

創世記 4章 26節には、こう書いてあります。

26 セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、 人は主の御名によって祈ることを始めた。

アダムの息子セツがエノシュを生んだ時は、この世界が創造されて235年が経った後でした。ところでその時まで、この世の人々は神様の御名を呼びませんでした。すなわち235年の間、人々は、神様を信じることもなく、神様に祈ることもなかったということです。

なぜ人々は神様の存在を信じようともせず、神様の御名を呼ぶこともしなかったでしょうか。その理由は、当時の人々が死ぬしかない自分の運命を悟れなかったからであり、また神様の助けと恵みが必要だと思わなかったからです。人々は、自分の力と努力によって、十分に 生きていけると思いました。また800歳になるまで、死ななかった当時の人々に、死という問題は、肌で感じられる問題ではなかったので、誰も死の前に置かれている自分の運命に ついて実感(じっかん)できませんでした。

 

しかしセツが105歳に、エノシュという息子を生む頃、人々は人間の力では、解決できない大きな悲しみと絶望を経験するようになります。そしてそれによって、自分たちはいつか 死という運命を迎えるべきだということを悟ります。それでセツは、その時、息子を生んでその名をエノシュと付けました。すでに何度も申し上げましたが、エノシュという名前は、[死ぬしかない存在]という意味を持っている言葉であります。すなわちセツとその周りの人たちは、その時、大きな試練を経験して、死と裁きを避けられない、自分たちの絶望的な運命を悟るようになったということです。

彼らにとっては、大きな悲しみと絶望に陥ってしまった、とても辛い経験だったでしょう。ところが、聖書は、その時、初めて人々が主の御名によって祈ることを始めたと証言します。すなわち自分の力で解決できない死と裁きの運命を悟ってこそ、初めて人々は、主の御名を呼びながら、主に頼り始めたということです。そして彼らが神様の御名を呼び始めた時、 初めて彼らは、死と裁きという絶望的な運命から逃れることができました。

人間の大きな問題の一つは、自分がエノシュという事実、すなわち死ぬしかない絶望的な 存在であることを悟れずに生きていくということです。

神様を信じるセツの子孫たちが神様の御名を呼びながら、神様に頼って生きる間、神様を 信じないカインの子孫たちは、自分を守るために町を建てて、技術と文明を発展させました。この地上での人生が、まるで永遠に続くかのように、自分の町を建て、自分の所有を増やしながら、ただこの地のものだけ考えながら生きたということです。

この世界を支配したのは、カインの子孫たちでした。彼らは地上で多くの成功を収めて、 願うものは、何でも手に入れました。しかし彼らの成功を祝福とは言えない理由は、彼らは、結局その成功のゆえに、そして成功を通して得た自身感のゆえに、神様の存在を必要とせず、それで神様の御名を呼ぶことができなかったからです。

人間にとって最も大きな祝福は、主の御名を呼ぶことです。主の御名を呼ぶというのは、 神様の存在を認めることであり、神様を自分の人生の主人として仕えるという意味なんです。そして神様の御名を呼ぶというのは、神様が私たちの人生を治めてくださるように、委ねることを言います。

聖書は、私たちが主の御名を呼ぶ時、私たちに救いが臨み、神様の恵みと平安が与えられると言われます。すなわち、主の御名を呼ぶと私たちのすべての問題が解決されるということです。だから人間にとって最も大きな祝福は主の御名を呼ぶことであり、また人間にとって最も重要なことも主の御名を呼ぶことだということです。

しかし、そうなるためには、まず自分の霊的な無力さと無能さを悟って、自分に対して絶望しなければなりません。なぜなら先ほど申し上げた通りに、人間は、絶望と限界にぶつからない限り、絶対に神様に頼らない存在だからです。

この世界の知恵は、人間の内にある可能性と能力で何でもできると教えます。しかし聖書の教えはそれと反対です。私たちは聖書の教えを誤解してはいけません。聖書の目的は教育と訓練を通して人間を改善(かいぜん)したり、発展させることではありません。聖書の示すことは、人間には、全く希望がないということです。もし人間に希望があったり、良くなる可能性が  あったなら、イエス様が私たちの古い人を十字架につけられる必要がなかったでしょう。 聖書は、人間には全く希望がないから、早く自分の不可能と絶望を悟って、イエス様に頼れと教えます。 

だから信仰生活を一言で定義すれば、信仰生活とは、自分の限界と絶望を悟って、イエス・キリストの御名を呼ぶ過程だと定義することができます。信仰生活は、自分の限界と絶望を続けて探し出す過程であります。御言葉を通して、祈りを通して、そして御言葉に従って 生きるために努力する過程を通して、自分がどれほど無力で絶望的な存在なのかを発見して、悟っていくことです。そして自分の限界と絶望を通して、イエス・キリストだけが、自分の唯一の希望だという結論を下すことがまさに信仰生活であります。

神様が私たちに律法と戒めをくださった理由が何でしょうか。

ローマ 3章 20節で、パウロは、こう言いました。

20 なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。

私たちが、どれほど汚れている存在であり、どれほど希望のない罪人であるかを悟らせる ことが、律法と戒めをくださった理由だということです。そしてそれを悟って、イエス・ キリストに助けを求め、イエス・キリストの御名を呼ばせるために、私たちに律法と戒めをくださったのです。

また神様が私たちを懲らしめたり、私たちに試練をくださる理由は何でしょうか。申命記を読んでみれば、モーセがイスラエルの民に警告のメッセージを伝えました。もし祝福の地に定着した後、イスラエルが神様を離れて、偶像に仕えると神様がイスラエルを、国々の民の中に散らされると警告しました。それは、イスラエルの国と民族を地上でなくしてしまうということと同じ意味の言葉でした。

それなら神様は、罪を犯した自分の民を捨てられるつもりだったのでしょうか。

警告のメッセージを伝えた後、モーセは続けてこう言いました。

申命記 4章 29節と 30節です。

29 そこから、あなたがたは、あなたの神、主を慕い求め、主に会う。あなたが、心を   尽くし、精神を尽くして切に求めるようになるからである。

30 あなたの苦しみのうちにあって、これらすべてのことが後の日に、あなたに臨むなら、あなたは、あなたの神、主に立ち返り、御声に聞き従うのである。

神様が自分の民を懲らしめて、時には、試練を与えられる理由は、裁かれるためではなく、再び神様の御名を呼ばせるためだということです。神様の御名だけが、人間にとって唯一の希望であり、神様の御名を呼ぶことが人間にとって最も大きな祝福であるから、もし神様の民が、神様から離れたら、試練と懲らしめを通してでも、再び神様に立ち返らせ、神様の 御名を呼ばせるということです。

今までの話をまとめれば、人間にとって最も大きな祝福も、また一番重要なことも、神様の御名を呼ぶことだということです。なぜなら人間のすべての問題は、私たちが神様の御名を呼ぶ時、解決されるからです。しかし残念ながら、人間は、絶望と限界にぶつからない限り、神様を捜すこともせず、神様の御名を呼ぶこともしないということです。だから神様は、 私たちが、死と裁きの問題そして人生のすべての問題から救われるために、御言葉を通して、試練を通して、私たちに絶望と限界を悟らせるということです。絶望と限界にぶつかる時、私たちは、初めて神様の御名を呼ぶようになるからです。

だから詩編の記者は、119編 71節で、こう告白しました。

71 苦しみにったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてをびました。

豊かな生活を維持して心配のない人生を生きることが幸せではなく、苦しみに会ったことが自分に幸せだったということです。なぜでしょうか。私たちに神様の御名を呼ばせることは、富と平安ではなく、むしろ苦難と試練だからです。

本文 21節で、ペテロは言いました。

21 しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。

 

今私たちを苦しめる現実が、本当に呪いとか、悲劇だと言えるでしょうか。むしろ私たちは、私たちに訪れたその試練を通して、イエス様の御名を呼ぶようになったのではありませんか。もしそうであれば、今私たちを苦しめる苦難と試練は、新しい祝福の始めだと言うことが できます。なぜなら私たちを苦しめるその問題と試練が、私たちがエノシュだという事実を悟らせて、私たちにイエス様の御名を呼ばせるからです。

最近、私が聞いている賛美の中で[主が働かれる]という賛美があります。韓国語の賛美 ですが、歌詞を内容だけ翻訳すれば、適当にこういう内容です。

日が暮れる時、荒野を歩む時、その時が神様の時。

自分ではできないとき、手ぶらになった時、我は告白する、アドナイ・イルエ。

主が働かれる。主が働かれる。主を信頼しつつ歩む者に。

現実が暗くて未来が見えない時、どこにも頼れる所がない時、そして不可能にふつかった時、その時がまさに、神様が働き始められる神様の時だということです。

神様は、なぜ私たちに暗い現実と不可能な状況にぶつからせるのでしょうか。それは我らの苦しみに知らないふりをしたり、私たちを放っておかれるためではありません。むしろ主が私たちの生活と問題に介入(かいにゅう)されるという意味であり、私たちの主人となって、私たちを 祝福の道に導いてくださるという意味であります。だから苦難と試練の中で私たちのすべきことは、不平と恨みではなく、神様の御名を呼ぶことです。なぜなら主の御名を呼ぶ者は、みな救われるからです。

私たちは、今世の終わりの時を生きています。そして今私たちは、短い時間に多くのものが変わっていくことを経験しています。

中国の小さい町で始まった、コロナ・ウイルスが、半年もならないうちに全世界に広がり ました。誰も予想できず、誰も準備できなかったこの事態を通して、今世界中が大混乱に 陥って、すでに多くのものが変わってしまいました。専門家たちは、もうコロナ以前の生活には、戻れないと言っています。

最近、有名な人の言葉一言で、世界中の株式市場(かぶしきしじょう)が影響を受けて、人々が金持ちになったり、破産(はさん)されたりする現象を見ることも、珍しいことではありません。

また新しい知識と情報が地球の反対側まで伝えられることに、5分もかからない時代を、 私たちは生きています。

一言で言えば、終わりの時は、すべてが早く変わるから、何も信じられず、何も頼れない 時代だということです。これからも、この世のすべては、続けて変わり、またもっと早く 変わっていくはずです。このように休まず変わっていくこの世界で、私たちはどうやって 未来を準備し、何に頼るべきでしょうか。

私たちは、絶対に変わらないものを握って、それに頼るべきであります。この世界が創造 された後、今まで変わらないことがありますが、それはまさに、私たちに向かう神様の愛であり、また私たちにくださった神様の御言葉であります。変わらないイエス・キリスト、 変わらない福音だけが、終わりの時を生きていく私たちを救うことができるということです。

イエス様は、私たちに何が必要なのかを、誰よりもよく知っておられます。そしてイエス様だけが、私たちが幸せになることを、本当に願っておられます。イエス様は私たちの人生のすべての問題を解決してくださるために、この地に来られ、また復活されました。そして 私たちの主人になるために、聖霊様を私たちに送ってくださいました。

終わりの時を生きていく私たちのすべきことはイエス様の御名を呼ぶことです。イエス様を自分の主人として仕え、イエス様に自分の人生を委ねることが、終わりの日に、苦難と試練から、そして厳しい現実から救われる、唯一の道だということです。

Ⅰペテロ 5章 7節(口語訳)で、ペテロは、こう言いました。

7 神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、   いっさい神にゆだねるがよい。

イエス様は、私たちの問題と思い煩いを、いっさいイエス様に委ねることを命じられました。自分でできることは、自分で解決して、自分でできないことだけ、主に委ねることではありません。イエス様はすべてのことを、いっさいイエス様に委ねなさいと言われます。するとイエス様が私たちを顧みてくださるということです。言い換えれば、私たちが自分の問題と思い煩いをイエス様に委ねないから、そして主の御名を呼ばないから、私たちの生活に思い煩いが離れないという話と同じです。

本文で、ペテロは、言いました。

21 しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。

そして、ローマ 10章 13節で、使徒パウロも言いました。

13 主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。

 

誰でも主の御名を呼ぶ者は、みな救われます。私たちの人生のすべての問題に対する救いがイエス・キリストの御名にかかっているということです。同じ言葉を言いましたがぺてろもパウロも、別に条件を付けませんでした。深い信仰が必要だとも言わず、信仰生活の経歴が必要だとも言いませんでした。また罪のない人でなければならないとも言いませんでした。

[だれでも]

イエス様を信じてイエス様の御名を呼ぶ者、自分の問題と思い煩いをイエス様に委ねる者は、誰でも救われます。それがまさに、終わりの日を生きていく私たちにくださったイエス様の約束であります。

皆さんの生活に解決できない問題がありますか。いかに努力しても状況が良くなりませんか。もうできることがなくて、あきらめたいと思っていますか。もしそうであれば、今がまさに神様が働かれる、神様の時であります。私たちの希望は、イエス様だけなんです。私たちのすべきことは、すべてをイエス様に委ねて、イエス様の御名を呼ぶこと、それが私たちが 今の状況から救われる唯一の道であり、また最も確実な祝福の道であります。

イエス様の御名を呼ぶ、のぞみ家族一人一人に、素晴らしい救いの御業が行われることを、我らの主、イエス・キリストの御名によって祝福いたします。

 

≫ Read More

2021/05/16 主日メッセージ   nozomich

みなが聖霊に満たされ

2021年5月9日 ・ のぞみ教会・主日礼拝 

申告告白

聖歌 431 / 433

祈り 木村喜憲牧師

聖歌 540 / 562

聖書 使徒 2:1-4

説教 <みなが聖霊に満たされ>  木村喜憲牧師

聖歌 573 / 607

献金 <献金の祈り>  木村喜憲牧師

聖歌 383 / 376

祝福の祈り  木村喜憲牧師

 

お知らせ。

◆のぞみ教会のOpen Cell Leaderを建て上げることが出来るように祈りましょう。

[6/6 : 機関長祈り会(礼拝後)]

◆新型コロナウィルス感染拡大防止にかかる蔓延防止等重点措置に伴いまして、

5月30日まで非対面礼拝を実施します。 

◆毎週月曜日午後9時、オンライン祈祷会をZOOMで行います。

   [ 入場ID : 751 809 0278  / パスワード : YCv1GX ]

◆健康回復のためにお祈りをお願いします。

礼拝のための代表祈り 【 6/6:安永真一兄 】

献金のための代表祈り 【 6/6:高橋文治兄 】

みなが聖霊に満たされ

本文 : 使徒 2 : 1 - 4

1 五旬節(ごじゅんせつ)の日になって、みなが一つ所に集まっていた。

2 すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような(ひび)きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。

3 また、(ほのお)のような分かれた(した)が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。

4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで 話しだした。

イエス様は、弟子たちに、エルサレムを離れないで、父の約束された聖霊を待つことを、 命じられました。そしてその命令に従った人は120名でした。120名の弟子たちはイエス様が上られたオリーブ山から下りて来て、マルコの屋上の間に集まりました。そして、そこで 彼らは、イエス様の命令を覚えながら、十日間祈りに専念しました。

そのように、120名の弟子たちが、祈りに専念する間、五旬節の日になりました。

本文 2節と 3節です。

2 すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような(ひび)きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。

3 また、(ほのお)のような分かれた(した)が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。

120名の弟子たちが、祈りに専念して、十日目になった日、突然、天から激しい風が吹いて来るような響きが起こり、また炎のような分かれた舌が現れて一人一人の上に留まりました。そしてその瞬間、聖霊を待ちながら祈っていた120名みなが、聖霊に満たされる素晴らしい奇跡が起こりました。そしてその時から、弟子たちは、死さえも恐れず、イエス様の命令に従う、イエス様の証人となり、また聖霊様の素晴らしい御業が、弟子たちを通して起こる ようになります。

聖書を読んでみれば、信じる者に現れる、聖霊の働きを表す言葉の中で、代表的に二つが ありますが、一つは聖霊のバプテスマであり、もう一つは聖霊充満という言葉であります。まず聖霊のバプテスマとは、聖霊様が私たちに臨在されて、私たちとともにおられるようになる事件を言います。

使徒 2章 38節と 39節です。

38 そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そしてそれぞれ罪を赦していただくために、イエスキリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物 として聖を受けるでしょう。

39 なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人えられているからです。」

聖霊のバプテスマは、私たちが罪を悔い改めて、イエス様を受け入れる時、神様が私たちにくださる賜物であります。特別な資格が必要でもなく、努力や熱心によって受けられるものでもありません。聖霊のバプテスマは、ただイエス様を救い主として信じる信仰によって 与えられる神様の賜物であります。また聖霊のバプテスマは、特別な体験とか感じを通して証明されるものでもありません。特別な現象がなく、私たちに感じられる変化がないとして、私たちがイエス様を 救い主として受け入れると、その瞬間、聖霊様は、私たちに臨まれ、いつも私たちとともにおられます。これがまさに聖霊のバプテスマであります。

聖霊のバプテスマは、私たちがイエス様を受け入れる時起こる一回的な事件であり、絶対に変わらない事件であります。最近韓国では、リマインドウェディングということが流行(はや)っていますが、夫婦が結婚式をした時の心を思い出して、その時の愛を回復せよという意味で、再び結婚式をすることです。もちろん心は理解できますが、大きな意味はない儀式なんです。一度結婚式をしたら、愛が冷めたり関係がよくないからといって、再び結婚式をする必要はありません。なぜなら結婚式を通して夫婦になったら、いかなる場合でも夫婦という事実に変わりはないからです。聖霊のバプテスマも、これと同じです。私たちに来られた聖霊様は、絶対に私たちを離れず、いつも私たちとともにおられます。だから聖霊のバプテスマは再び受ける必要がないのです。

次に、聖霊充満というのは、現象ではなく、状態を意味する言葉です。過ぎた時間にすでに申し上げた通り、聖霊充満とは、私たちが聖霊様に支配され、治められる状態を意味します。聖霊によってバプテスマを受ける瞬間より、私たちのうちには、聖霊様がともにおられます。しかし聖霊様は、人格的な方なので、私たちに対して、強制的に働かず、私たちが聖霊様を主人として仕えて、従う時まで、ただ待っておられると申し上げました。だから聖霊様に 満たされるためには、私たちの信仰と努力が必要です。

エペソ 5章 18節で、パウロは、こう言いました。

18 また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩(ほうとう)があるからです。御霊に満たされなさい。

聖霊のバプテスマは、一回的な事件であり、絶対に変わらない事件ですが、聖霊充満は、 そうではありません。聖霊充満は、続けて維持するために、励んで努力してこそ可能であることです。すなわち聖霊様が、私たちの主人となって私たちを治めてくださるためには、 続けて聖霊様のみこころに耳を傾けて、従う努力が必要だということです。

ガラテヤ 5章 16節と 17節で、パウロが言いました。

16 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させる ようなことはありません。

17 なぜなら、肉の願うことは御霊に(さか)らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは  互いに対立(たいりつ)していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることが できないのです。

私たちの肉と心が願うものは、いつも聖霊様が願っておられることとは、反対側にあります。だから聖霊に満たされるためには、私たちの心の願いと肉の欲をあきらめて、聖霊の御心に服従しようとする信仰が必要だということです。

また申し上げますが、聖霊充満は、現象ではなく、状態をいう言葉です。すなわち激しい 風の音が聞こえたり、炎みたいなものが現れたりする、表に現れる現象が、聖霊充満の証拠ではないということです。言い換えれば、特別な現象がなくても、聖霊に満たされることができるということです。

それなら本当に聖霊に満たされると、私たちには、どんなことが現れるでしょうか。それは使徒の働きで、聖霊を受けた後、弟子たちに現れた変化を見れば分かります。

まず、聖霊充満は、罪を悔い改めることから始まります。聖霊様は、私たちを治められる 前に、まず私たちの内にある、すべての罪と悪い考えたちを悟らせてくださり、またそれに対して、深く悔い改めさせます。聖霊様が私たちを悔い改めさせる理由は、神様との関係に問題を起こす罪を解決し、その罪を赦してくださるためです。それで深い悔い改めの末には、必ず、赦された喜びと平安が与えられます。

ところで、その喜びと平安が、どれほど大きくて、素晴らしいものなのか、心の中に感謝が溢れ、完全な満足が感じられます。聖霊に満たされると状況と現実は、もはや重要なもの ではありません。状況は少しも変ったことがないとしても、自分が主の内にあり、また主が自分の内におられ、自分を守り導いてくださるという、その事実だけで完全な満足を味わうことができます。

聖霊様が私たちにくださる喜びと平安と満足は、この世にあるものによっては、絶対に経験できない、天国の完全な喜びと平安と満足であります。だから聖霊に満たされている人は、この地で住みながらも、天国を味わうことができるのです。

聖霊に満たされたら現れる、もう一つの変化は、罪に対する恥と拒否感を持つようになるということです。今まで、楽しんで来た、この世の快楽が恥ずかしくなり、平気で犯して来た過ちたちに対して拒否感と恐れを持つようになるということです。それで聖霊に満たされた人は、罪を犯さないだけでなく、言葉と態度にも大きな変化が現れます。

また聖霊に満たされたら、万物に対する愛が満ち溢れます。

そんなに憎んでいた人が、かわいそうに感じられます。なぜならその人に対する自分の感情よりも、その人に向かう神様の愛が、もっと大きく感じられるからです。そのように、その人に対する神様の憐れみと愛が、私たちの心を満たすようになると、その人に対する呪いが祝福に変わり、その人の魂のために、祈らざるを得ないようになります。

また聖霊に満たされたら、神様の命令に従うことが、当然なことになります。

私たちは、神様の御言葉を読みながら、その御言葉が正しいことは分かっても、御言葉の 通りに守って生きることは、難しすぎると感じます。なぜなら人間には、神様の命令に従い、神様の御言葉の通りに生きられる能力がないからです。しかし聖霊に満たされると驚くべき変化が現れますが、それは神様の命令の通りに生きることが、当たり前に感じられるということです。今までは、神様の御言葉の通りに生きることが無理だと思ったのに、聖霊に  満たされると、その無理なことができるということです。

どうやって、こんな変化が可能でしょうか。その理由は聖霊様が私たちの心と思いと意志と決定の主人となって、私たちを神様の御心の通りに導いてくださるからです。言い換えれば、私たちの意志と努力で、主の命令を守ることではなく、聖霊様が私たちを主の命令の通りに生きさせてくださるから、御言葉の通りに生きることが可能になるんだということです。

最後に、聖霊に満たされたら、大胆に福音を宣べ伝えるようになります。

ヨハネ 20章 19節です。

19 その日、すなわち(しゅう)の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、  ユダヤ人を恐れて()がしめてあったが、イエスがられ、彼らの中に立って言われた「平安があなたがたにあるように。」

イエス様が死なれた後、弟子たちは、ユダヤ人を恐れて戸を閉めて、隠れていました。  それが今日の本文の事件より、50日前の状況でした。

ところで50日後、弟子たちの姿は、どう変わったんでしょうか。五旬節の日、120名の弟子たちに、聖霊様が臨んで、彼らが聖霊に満たされると 素晴らしいことが起こりました。 それぞれの人が、聖霊が話させてくださる通りに、他国の言葉で話しだしました。すると、その姿を見たユダヤ人たちは、120名の弟子たちが甘いぶどう酒に酔っているのだと思って、あざけりました。

すると、その時、ペテロと使徒たちが起き上がって、ユダヤ人たちに、イエス・キリストの死と復活に関する福音を宣べ伝えました。そしてペテロが宣べ伝えた福音を聞いた3千名のユダヤ人たちが、悔い改めて、その場で救われました。ペテロに特別な能力があったり、 素晴らしい聖書知識があったからではありまえん。聖霊様がペテロの中で働かれる瞬間、 一生涯漁師として生きてきたペテロが、人々の前で、大胆に十字架の福音を伝えることが できたのであり、またその御言葉を聞いて3千名が救われる、素晴らしい奇跡が起こったということです。

このように聖霊に満たされると、私たちには、驚くべき変化が現れるということです。罪と悪い考えから離れるようになり、言葉と態度が変わるようになります。また状況と条件に 関係なく、イエス・キリストにあって、平安と満足を味わうようになり、愛することが  できなった人を、愛するようになります。御言葉の通りに守って生きることが当然なことになり、人々に福音を宣べ伝えることができるようになります。このすべてのことを可能に する方が、まさに私たちの内におられる聖霊様であります。だから私たちは、いつも聖霊 充満になるために励まなければならないということです。

120名の弟子たちは、聖霊のバプテスマと聖霊充満が同時に起こったケースであります。 すなわち弟子たちは、聖霊様が臨まれることと同時に聖霊様に満たされたということです。それなら120名の弟子たちは、どうやって聖霊に満たされることができたでしょうっか。 今日の本文には、聖霊充満に対する神様の御心がよく表れています。

本文 1節です。

1 五旬節(ごじゅんせつ)の日になって、みなが一つ所に集まっていた。

 

 

聖書は、五旬節の日になったと言います。ここで「日になった、日が来た」と 翻訳されている言葉は、ギリシャ語で、[いっぱいとなった。あるいは、すべてが完成された。] いう意味を持っています。言い換えれば、「五旬節の日になった」という言葉は、聖霊を 注いでくださるために、神様が約束され、計画された その歴史的な日がついに来たという意味なんです。

それなら神様の約束と計画とは、何でしょうか。預言者ヨエルは、聖霊様が臨まれる、その日について、こう予言しました。

ヨエル 2章 28節と 29節です。

28 その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。

29 その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。

神様は、誰に聖霊を注いでくださると約束されましたか。

[わたしは、わたしの霊をすべての人に、またあなたがたの息子と娘に、年寄りと若い男に、そしてしもべと はしために注ぐ。]

神様は天地創造の前に、すべての人に聖霊を注いでくださり、また聖霊に満たしてくださることを計画され、それをヨエルを通して約束されました。そして今私たちは聖霊を与えようとされる、神様の計画がいっぱいとなって、完成された時代を生きているということです。というのは、イエス様を信じる者なら、聖霊充満になれない人は誰もいないということです。すなわち私たちに向かう神様のみこころは、私たちみなが、聖霊に満たされることだということです。

本文 1節と 2節です。

1 五旬節(ごじゅんせつ)の日になって、みなが一つ所に集まっていた。

2 すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような(ひび)きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。

五旬節は、イスラエルの3大祭りであって、五旬節になるとイスラエルのすべての男は、 宮に来て、この祭りを守るべき義務がありました。聖霊様がこの地に臨在されたその日も、エルサレムには五旬節を守るために200万名の人たちが集まっていました。しかし聖霊様は屋上の間に集まって祈っていた120名の弟子たちの上に臨まれました。

これが何を意味するのでしょうか。神様は、すべての人のために、聖霊を約束されましたが、だからといって、みなが聖霊を受けることでもなく、またみなが聖霊に満たされることでもないということです。

それなら、120名の弟子たちは、どうやって神様の約束された聖霊を受けて、また聖霊に 満たされることができたのか、これから考えてみます。

使徒 1章 14節と 15節です。

14 この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。

15 そのころ、百二十名ほどの兄弟たちが集まっていたが、ペテロはその中に立ってこう 言った。

父の約束された聖霊を待ちなさいという命令を受けた、120名の弟子たちはマルコの屋上の間に集まりました。そしてみな心を合わせて祈りに専念したと聖書は証言します。すなわち120名の弟子たちは、みな同じ心を持っていたということです。その心は、どんな心だったでしょうか。イエス様が言われたその聖霊様が、約束の通りに自分に臨まれること、そして自分を治めてくださることを慕い求める心で、みな祈りに専念したということです。ここで私たちは、120名の弟子たちを通して、聖霊に満たされる秘訣を学ぶことができます。

聖霊に満たされるためには、一番目に、聖霊充満になることを信じるべきであります。

120名の弟子たちは、イエス様の約束と命令を信じてみな集まって祈りました。イエス様の命令の通りに、祈りながら待っていれば、約束された聖霊が臨まれ、また聖霊に満たされるようになることを信じたということです。そして約束を信じて祈った120名の上に、約束の通りに聖霊様が臨まれたのです。

神様は約束の通りに私たちにも聖霊様を送ってくださいました。そして神様は約束の通りに私たちを聖霊に満たされるはずです。聖霊充満は、この事実を信じる者にだけに起こると いうことです。神様の約束を信じて、聖霊充満になることを祈り続ける私たちになることを主の御名によって祝福いたします。

聖霊に満たされるためには、二番目に、聖霊充満になることを慕い求めるべきであります。

聖書は、120名の弟子たちが、十日間祈りに専念して、結局聖霊を受けたと証言しています。

 

ところが、この御言葉は、聖霊を受けるために、そして聖霊に満たされるためには、少なくとも、十日間は祈らなければならないという意味ではありません。神様の計画は、五旬節に聖霊を注いでくださることでした。すなわち弟子たちの祈りの熱心が神様の心を感動させて聖霊を受けたのではないということです。

それなら弟子たちが十日間、祈りに専念したということは、何を意味するのでしょうか。 それは、彼らが、そんなにまで聖霊を慕い求めていたという意味であります。十日間祈りに専念したというのは、聖霊を受けることを慕い求めていた弟子たちの心が、祈りという  積極的な行動を通して現れたのです。

聖霊に満たされることは、祈りの量にかかっていることではなく、聖霊充満を慕い求める 心にかかっているのです。そしてその心は、祈りという最も積極的な信仰の行動を通して 現れるに決まっています。聖霊に満たされることを慕い求めながら、祈り続ける人は、必ず聖霊に満たされるはずです。これを覚えて、いつも聖霊充満が第一の祈りの課題になる、 私たちになることを主の御名によって祝福いたします。

聖霊に満たされるためには、三番目に、聖霊充満になるまで待つべきであります。

イエス様は弟子たちに父の約束された聖霊が臨まれるまで待っていることを命じられました。そして弟子たちは、聖霊様が臨まれるまで、集まって祈りながら待ちました。

もしその中で、待つことをあきらめて、家に帰った人がいたなら、その人は、どうなった でしょうか。少なくともその日には、聖霊を受けることができなかったでしょう。五旬節の日に、120名の弟子たちが聖霊を受けた理由は、神様が聖霊を注いでくださるまで、彼らが待っていたからです。それと同じく私たちを聖霊に満たしてくださることは神様の喜ばれるみこころであり、約束でありますが、それでも、それが私たちに行われるためには、神様が聖霊に満たしてくださるまで、待たなければならないということです。

弟子たちは、このように、聖霊を受けることを信じました。また聖霊を慕い求めながら祈りました。そして聖霊様が臨まれるまで待ていたので、聖霊様の臨在を経験し、また聖霊に 満たされるようになったということです。

説教をまとめます。

私たちに向かう神様のみこころは、私たちがみな聖霊に満たされることです。すでに神様は、約束された通りに、イエス様を信じる私たちに聖霊様を送ってくださいました。聖霊様は、すでに私たちとともにおられますが、それだけでは十分ではありません。

これから私たちに必要なことは聖霊様が私たちの命と人生との主人になるように、聖霊様に主人の権利を捧げることです。そして聖霊様のみこころに従いながら聖霊充満になるために信仰の努力を続けるべきであります。

聖霊に満たされることは、聖霊充満を約束された神様の約束を信じることから始まります。そして私たちは、その約束を握って、聖霊充満を慕い求めながら、切に祈るべきであります。いつまで祈るべきなんでしょうか。聖霊に満たされるまで祈るべきであります。もちろん、120名の弟子たちのように、何もせず、ただ祈りに専念しなければならないという意味ではありません。聖霊充満になりたがる、私たちの願いと祈りが、決して止まってはいけないということです。

今日の本文で、120名の弟子たちに起こった聖霊の働きが、のぞみ教会にも起こることを 心から祈ります。聖霊充満の約束を信じて、慕いながら、待ち続ける人は、必ず聖霊に  満たされることを信じます。のぞみ家族みなが聖霊に満たされて、イエス様の弟子として、生きるようになることを、イエス・キリストの御名によって祝福いたします。

 

 

≫ Read More

2021/05/09 主日メッセージ   nozomich

無名のキリスト者 

2021年5月2日 ・ のぞみ教会・主日礼拝 

申告告白

聖歌 521 / 539

祈り 木村喜憲牧師

聖歌 570 / 604

聖書 使徒 1:8-14

説教 <無名のキリスト者>  木村喜憲牧師

聖歌 505 / 523

献金 <献金の祈り>  木村喜憲牧師

聖歌 383 / 376

祝福の祈り  木村喜憲牧師

 

お知らせ。

◆のぞみ教会のOpen Cell Leaderを建て上げることが出来るように祈りましょう。

[5/16 : 機関長祈り会(礼拝後)]

◆5月のお誕生日方々おめでとうございます。

[松本末子姉、高橋文治兄、朴恩恵姉、山本恵姉、小林よしえ姉、加藤孝昭兄、千葉清兄]

◆新型コロナウィルス感染拡大防止にかかる蔓延防止等重点措置に伴いまして、

5月9日まで非対面礼拝を実施します。 

◆毎週月曜日午後9時、オンライン祈祷会をZOOMで行います。

   [ 入場ID : 751 809 0278  / パスワード : YCv1GX ]

◆健康回復のためにお祈りをお願いします。

礼拝のための代表祈り 【5/16:小林哲雄兄】

5/23:高橋文治兄、 5/30:山本健太兄、 6/6:安永真一兄 

献金のための代表祈り 【5/16:木村喜憲師】

5/23:山本満代姉、 5/30:木村喜憲師、 6/6:高橋文治兄  

無名のキリスト者

 

本文 : 使徒 1 : 8 - 14

8 しかし、聖があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となり  ます。」

9 こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に()げられ、雲に(つつ)まれて、見えなくなられた。

10 イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。

11 そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。 あなたがたを離れて 天に()げられた このイエスは、天に(のぼ)って行かれるのを あなた がたが 見たときと同じ有様(ありさま)で、またおいでになります。」

12 そこで、彼らはオリブという山からエルサレムにった。この山は エルサレムの 近くにあって、安息日の道のりほどの距離であった。

13 彼らは町に入ると、()まっている屋上の間に上がった。この人は、ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと  熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。

14 この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念(せんねん)していた。

 

復活された後、40日間、弟子たちとともにおられたイエス様は、弟子たちに二つの命令を くださって、天に上られました。その40日間は、弟子たちにとってすばらしい経験でした。イエス様の復活を目撃して、さらにそのイエス様が天に上られることまで見たからです。 弟子たちはイエス様が天に上られた後、イエス様が上られたその空だけを見つめていました。

 

 

信仰生活をしてみると特別な恵みを体験する時があります。御言葉を通して悟りを得る時もあり、聖霊様の深い慰めを体験する時もあります。また聖霊の働きによって病気が治ったり、賜物が臨むことを経験する時もあります。

ところで神様の特別な恵みを体験するようになると、恵みを体験したその場を離れることが易しくありません。なぜなら神様がくださる恵みは、この世では経験できないとても甘くて、素晴らしい経験だからです。だから一度神様がくださる特別な恵みを味わうようになると、その場を離れたくない気がするのです。

本文の弟子たちもそうでした。目の前で素晴らしい奇跡を経験した弟子たちは、その場を 離れることができず、ただイエス様が上られた空だけをずっと見つめていたのです。

すると、本文 10節と 11節で、御使いが言いました。

10 イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。

11 そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。 あなたがたを離れて 天に()げられた このイエスは、天に(のぼ)って行かれるのを あなた がたが 見たときと同じ有様(ありさま)で、またおいでになります。」

天に上られたイエス様は、約束された通りに、再び来られるはずなのに、なぜずっと空だけ見つめているのかということです。すなわち弟子たちのすべきことは、恵みを経験したその場に留まっていることではなく、その恵みを抱きしめて、世の中でイエス様の命令に従う ことだという意味なんです。

私たちの信仰生活は、教会の中に制限されている場合が多いです。言い換えれば、私たちは教会の中でだけ、キリスト者として生きようとする場合が多いということです。しかし、 信仰生活とは宗教生活を意味することではなく、信仰によって生きて行く、信者の生き方をいうことです。だから主日一日間、教会で行う礼拝と奉仕が、私たちの信仰生活の全部に なってはいけません。また日常生活と信仰生活とが分かれてもいけません。私たちが生きて行くすべての瞬間が、信仰によって生きて行く信仰生活になるべきだということです。

キリスト者はこの世から隔離(かくり)されて生きる人ではありません。むしろこの世の真ん中で、 キリストを信じる者として生きる人をキリスト者と言います。イエス様が上られた空を  見つめていた弟子たちに、御使いがした話は、こんな意味を持っているのです。

しかしサタンが支配している世の中で、イエス様を信じる者として生きることは、決して 簡単なことでもなく、弱い私たちとしては不可能なことです。すなわち私たちの力では、 この世の中で信仰を守ることも、御言葉に従うこともできないということです。

11節で、御使いは、弟子たちをこう呼びました。

11 そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。 あなたがたを離れて 天に()げられた このイエスは、天に(のぼ)って行かれるのを あなた がたが 見たときと同じ有様(ありさま)で、またおいでになります。」

[ガリラヤの人たち]

ガリラヤの人たちという言葉は、一言で、[田舎者たちよ]という意味でした。御使いは、弟子たちに、イエス様がくださった使命を果たすべきだと言いながら、一方では弟子たちがどんな存在なのかを、覚えさせているのです。イエス様の復活を経験して、使徒としての 素晴らしい使命が与えられましたが、元々自分たちはガリラヤの人であることも忘れては いけないということでした。

イエス様は、ガリラヤの田舎者に過ぎない弟子たちに、どうしてそんなに素晴らしい使命をくださったのでしょうか。それは、イエス様がくださった使命は、弟子たちが成し遂げる ことではなく、弟子たちを通して聖霊様が成し遂げられるものだからです。そしてそういうわけで、イエス様は弟子たちに、まず父の約束された聖霊を待つことを命じられたのです。なぜならこの世で信仰を守りながらキリスト者として生きることは、ただ聖霊様の恵みと 力によってだけできるからです。

私たちもガリラヤ人であります。出身をいうのではなく私たちも自分の力では何もできない無力な存在であることを忘れてはいけないということです。だから私たちにも聖霊様の力と恵みが必要です。

私たちはイエス様を信じて受け入れた瞬間、すでに聖霊を受けました。しかし過ぎた時間に申し上げた通りに、ただ聖霊様が私たちの内におられることだけでは、十分ではありません。聖霊様が私たちの人生の主人にならなければ、私たちの生活には、何の変化も現れません。だからガリラヤ人の私たちがすべきことは、聖霊様が私たちの主人になって私たちの人生を治めてくださるように、すべてを聖霊様に委ねて、そのみこころに従うことであります。

 

イエス様は、キリスト者になった私たちを、教会の中ではなく、この世の中で生きさせます。キリスト者がこの世の中で生きるべき理由が何でしょうか。イエス様を信じないこの世界の絶対多数(ぜったいたすう)の人々の中で、キリスト者一人の存在が、何の意味があるでしょうか。

今日の本文には、イエス様も命令に従って聖霊様を待っていた人が、120名だったと書いています。しかしその中で名前が記録された人の数は、20名もなりません。あまりの100名の人たちは、死の日まで無名のキリスト者として生きて死んだはずです。

こんにち、この時代を生きて行くキリスト者たちも同じです。ほとんどのキリスト者たちは、この世が記憶してくれることもなく、歴史に記録されることでもない、無名のキリスト者 として人生を終えるはずです。しかし私たちが覚えるべきことは聖霊を受けたその120名のキリスト者たちを通して、この世界の歴史が変わって、またこの場にいる私たちにまで、 福音が伝われたということです。そしてこの世界は記憶してくれないとしても、イエス様は彼らのすべての労苦と信仰と献身を覚えておられるということです。

神様の御国は、そして宣教の歴史は、このように無名のキリスト者たちを通して、今まで 休まず進行されて来たのです。

19世紀にイギリスのリバイバルを(ひき)いた、チャールズ・ スポルジョン先生は、世界的に 有名な説教者であり、数多くの人たちを影響を及ぼした偉大な信仰の人です。ところが彼は、青年時代に自分の罪に対する罪責感と信仰的な苦悶のゆえに自分が不幸だと感じていました。ところである日、彼は礼拝するために新しい教会を行きましたが、大雪で説教者が教会に 来られませんでした。それで教会の信者の中で人が、御言葉を伝えましたが、スポルジョン先生の話によれば、その人は、神学教育を受けた人でもなく、平凡な労働者でした。さらに彼は言葉が下手な人で、なまりもひどかったそうです。彼は、準備された説教ではなく、 ただ自分が恵まれた聖書の御言葉を読んでから、自分の感想を話しました。ところで彼が 伝えた御言葉を聞いて、青年スポルジョンは、真理を悟って、心が変わりました。そして イギリスのリバイバルを率いた偉大な信仰の人になったそうです。しかしその日、御言葉を伝えたその人の名前は、伝われていません。

メソジスト教会の創始者でありジョン・ウェスレー先生は、宣教のために船に乗って海を 渡っている途中、嵐に会いました。ウェスレーを始め、船に乗っていたすべての人たちが 死の恐怖の中で恐れていました。ところでウェスレーは、死を恐れず、賛美して祈っているある青年たちを見ました。

彼は、嵐の中でも恐れないその青年たちの姿を見て衝撃を受けました。そして真の信仰とは何なのかについて、再び考えるようになりました。そしてその経験がきっかけになって、 彼は結局、世界的な霊的指導者になりました。しかしウェスレーにまことの信仰とは何かについて悟らせたその青年たちの名前は、知られていません。

韓国の信者たちが一番尊敬する日本の宣教師がいますが、その方は曾田嘉伊智(そだかいち)という方です。曾田先生は、若い頃酒と快楽に陥っていました。ある日も酔っぱらった彼は、意識を失って道に倒れていました。ところが彼を発見したある人が、彼を旅館に連れて行って、治療してすべての費用を出してくれました。青年曾田嘉伊智の意識が戻った時には、すでにその人はそこにいませんでした。

命を救ってくれた恩人(おんじん)なのに名前も顔も知ることができませんでした。旅館の主人に聞いたのは、彼が韓国人であり、またキリスト者だったということが全部でした。その以後、曾田嘉伊智は、自分が受けた恵みを返すために韓国に行きました。そしてそこでイエス様を受け入れて、韓国の孤児たちを育てました。彼は、死ぬ瞬間まで、1000名以上の孤児たちの父になってくれて、韓国の宣教師墓地(ぼち)に葬られました。

この世界に、スポルジョンとウェスレーと曾田嘉伊智の名前は、知られていますが、彼らを変化させ、彼らの信仰に影響を及ぼした人たちの名前は、誰も記憶していません。しかし イエス様の命令を実践しながら、無名のキリスト者として生きた彼らは、結局、世界を変化させる神様の御業に用いられました。

彼らが、誰かを変化させたり、影響を与えるために、そうしたでしょうか。そうではあり ません。彼らはただ自分に与えられた一日を信仰によって生きただけであり、また聖霊様の導きに従っただけでした。しかし聖霊のみこころに従うその小さな信仰を通して、聖霊様は、世界を変化させる素晴らしい御業を行われたということです。

たぶん彼らは、自分が神様の御国のために何をしたのかを死ぬ時まで知らなかったはずです。そして天国に行って初めて、神様が自分たちを通して行われた 素晴らしい御業を悟って 感激したでしょう。そして無名のキリスト者として生きて来た、彼らの人生に対する報いをイエス様から受けたはずです。

 

 

イエス様を信じてキリスト者になった私たちは、イエス様から偉大な使命を委任されました。しかし私たちは、相変わらずガリラヤ人に過ぎません。すなわち私たちの力でできることは何もないということです。しかし私たちが大きなことをする必要はありません。私たちは ただ自分に与えられた一日を、聖霊様の導きに従って、信仰によって生きて行くことで十分です。それがガリラヤ人であり、無名のキリスト者である、私たちにとって最善のことです。それだけができれば、聖霊様が、キリスト者として生きて行く私たちを通して、この世界に必要なことを行われるはずです。

キリスト者は、パン種のような存在です。

パンとお菓子の決定的な違いが何でしょうか。それはパン種が入っているか入ってないかの違いであります。ほんの少しのパン種が入っていることだけで生地(きじ)(ふく)らんで、固い菓子がふんわりパンに変わるということです。このように生地がパンになることにおいて決定的な役割をするパン種ですが、パン種がパンの主材料だという人は、誰もいません。

キリスト者も同じです。まことのキリスト者一人は、家庭を変化させ、グループを変化させ、社会を変化させます。キリスト者は、世界の主流(しゅりゅう)でもなく、主役(しゅやく)でもありません。しかしキリスト者には、留まっている所を変化させる力があります。なぜならキリスト者の内には聖霊様が働いておられるからです。聖霊様の導きに従って聖霊様のみこころに従いながら 生きる時、私たちは、パン種のように、私たちが留まっている所と 出会った人たちを変化させる存在になるということです。

何年前に、主任牧師先生がコーヒー講座をする時、キリスト者をコーヒーに例えた時があります。コーヒーの主成分は、水です。しかし誰もコーヒーを水だと言いません。なぜなら コーヒーと水は全然違うものだからです。それなら水をコーヒーに変えたのは、何ですか。1%しか入ってないコーヒー豆の成分が、水をコーヒーと変えたのです。すなわち水を  コーヒーとすることには、1%のコーヒー成分で十分だということです。

日本宣教について話す時、一番難しい部分が、キリスト者の比率です。日本のキリスト教 比率は、1%しかなりません。ところがその1%の中で、健全な神学を持っている福音的な 教会の比率を計算すれば、比率は0.6%になり、また生まれ変わったキリスト者の比率だけ計算すれば、日本のキリスト教比率は、0.2%になってしまいます。比率だけを見れば、 サウジアラビアと北朝鮮よりも、福音を受け入れない、霊的な荒地(あれち)のようなところがまさに日本だということです。

しかし私たちが覚えるべきことは、まことのキリスト者が一人でも存在する所なら、そこに希望があるということです。キリスト者の力は、数にあるのではなく、教会の力は大きさにあるのではありません。ほんの少しのパン種がお菓子をふんわりパンに変えるように、また1%のコーヒー成分が水をコーヒーと変えるように、まことのキリスト者一人だけいれば、家庭とグループと社会は変化が起こるに決まっています。そしてそのためにイエス様が、 私と皆さんを選択され、呼び寄せてくださったということを私たちは忘れてはいけません。

私たちのすべきことは、大きなことでもなく、複雑なことでもありません。スポルジョンとウェスレーと曾田嘉伊智を変化させた、無名のキリスト者たちがしたように、信仰によって自分に与えられた一日を生きればいいということです。そうすれば、変化と奇跡は聖霊様が起こされるはずです。

キリスト者は、塩のような存在です。

マタイ 5章 13節で、イエス様が言われました。

13 あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるの でしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。

イエス様は、私たちがこの地の塩だと言われました。塩には、二つの役割がありますね。 一つは、塩けをつけることであり、もう一つは、腐敗(ふはい)(ふせ)ぐことです。

曾田嘉伊智先生が生きた時代は、戦争の時代であり、貧困の時代でした。人が人として  扱われなかった時代であって、現実の問題があまりにも厳しくて、他の人を顧みるような 余裕がない時代でした。

そんな時代に一人のキリスト者が、酔っぱらって倒れている、曾田嘉伊智を救いました。 そして自分のお金と時間を出して、彼にイエス様の愛を施しました。人生の意味と楽しみを失ってしまった曾田嘉伊智のまずい人生に塩けをつけて、意味と楽しさを回復させた人が まさに一人の無名のキリスト者だったということです。そして曾田嘉伊智は、1000名の孤児たちの父になって、彼らの人生に塩けをつけて、人生の意味と目的と喜びを回復させてくれました。これがまさに、地の塩のようなキリスト者の存在だということです。

また無名のキリスト者は、イエス様の愛を実践することによって、曾田嘉伊智の人生が罪に陥って腐敗していくことを、(ふせ)いでくれました。

 

イエス様は、私たちがこの地の塩だと言われました。聖霊様の導きに従うキリスト者一人の存在は、世の中で塩のような役割をします。塩は、表に現れたり、目に見える材料ではありませんが、存在だけでその役割を十分に成し遂げます。それと同じく目に立つ存在でなく ても、キリスト者一人は、存在だけでも、重要な役割をするということです。

私たちは、世界を変えることはできません。しかし私たちは、福音を通して、一人の人生を変えることはできます。そして福音は、それを悟った人にとって、世界が変わるみたいな 素晴らしい事件であります。そういうわけで、私たちが福音を伝えることによって、また イエス様の愛を実践することによって、誰かが福音を受け入れるとすれば、それはその人の世界を変えることと同じことであります。

私たちが聖霊様の導きに従って、まことのキリスト者として生きれば、私たちを通して、 第2のスポルジョン、第2のウェスレー、第2の曾田嘉伊智が現れるはずです。

最後に本文 14節を読んで、説教をまとめます。

14 この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念(せんねん)していた。

私たちは、自分がガリラヤ人だという事実を忘れてはいけません。

私たちをまことのキリスト者として生きさせる方は、ただ聖霊様だけです。だから私たちは聖霊様の恵みを得て、聖霊様の導きを受けるために、祈りに励まなければなりません。

新しく始まる一週間も、与えられた状況、与えられた所で、キリスト者として生きて行く、私たちになることを心から祈ります。そして聖霊様の恵みによって、私たちの家庭と職場と生活のすべての現場の中で、パン種と塩になる、私と皆さんになることをイエス・キリストの御名によって祝福いたします。

 

≫ Read More

2021/05/02 主日メッセージ   nozomich