恵みの雨

2021/3

なぜ十字架なのか

2021年3月21日 ・ のぞみ教会・主日礼拝 

申告告白

聖歌 417 / 418

祈り 木村喜憲牧師

聖歌 280 / 261

聖書 ルカ 23:13-25

説教 <なぜ十字架なのか>  木村喜憲牧師

聖歌 555 / 579

献金 <献金の祈り>  木村喜憲牧師

聖歌 383 / 376

祝福の祈り  木村喜憲牧師

 

お知らせ。

◆のぞみ教会のOpen Cell Leaderを建て上げることが出来るように祈りましょう。

3月の教会歴及び予定  ◆http://www.nozomich.net◆  

[2/17-4/3 : 四旬節] ― [3/29-4/3 : 受難週間] ― [4/4 : イースター]

[3/11  : 機関長祈祷会(11時に行いました。)]

[3/28 : 牧会協力委員会祈り会(礼拝後)]

◆3月14日から教会での集会礼拝を再開します。 

◆三戸貴史兄(賛美リーダー)のお母さんが、2021年3月17日午後、天に召されました。

 主の慰めのお祈りお願いします。

 

◆新型コロナウイルス感染拡大防止にかかる緊急事態宣言の延長に伴いまして、

非対面礼拝を2週間延長し、3月28日から教会での集会礼拝を再開します。 

◆健康回復のためにお祈りをお願いします。

礼拝のための代表祈り 【3/28:山本健太兄】

4/4:安永真一兄、 4/11:三戸貴史兄

献金のための代表祈り 【3/28:高橋文治兄】

4/4:木村喜憲師、 4/11:山本満代姉

 

 

なぜ十字架なのか

 

本文 : ルカ 23 : 13 - 25

13 ピラトは祭司長たちと指導者たちと民衆とを呼び集め、

14 こう言った。「あなたがたは、この人を、民衆を惑わす者として、私のところに連れてたけれども私があなたがたの前で取り調べたところ、あなたがたが訴えているような罪は別に何も見つかりません。

15 ヘロデとても同じです。彼は私たちにこの人を送り返しました。見なさい。この人は、死罪(しざい)たることは、何一つしていません。

16 だから私は、()らしめたうえで、釈放(しゃくほう)します。」

17 (ない)

18 しかし彼らは、をそろえて叫んだ。「この人を(のぞ)け。バラバを放しろ。」

19 バラバとは、(みやこ)に起こった暴動(ぼうどう)人殺(ひとごろ)しのかどで、牢に入っていた者である。

20 ピラトは、イエスを放しようと思って、彼らに、もう一度呼びかけた。

21 しかし、彼らは叫びけて、「十字架だ。十字架につけろ」と言った。

22 しかしピラトは三度目に彼らにこう言った。「あの人がどんないことをしたという のか。あの人には、死にたる罪は、何も見つかりません。だから私は、懲らしめた うえで、放します。」

23 ところが、彼らはあくまで主張しけ、十字架につけるよう大で要求した。そして ついにそのが勝った。

24 ピラトは、彼らの要求どおりにすることを宣告(せんこく)した。

25 すなわち、暴動と人殺しのかどで牢に入っていた男を願いどおりに放し、イエスを 彼らに引き渡して好きなようにさせた。

 

 

神様は、罪によって死ぬしかない私たちのために一人だけの息子イエス様をキリストとしてこの地に遣わされました。そしてキリストとしてこの地に来られたイエス様が、私たちを 救われた方法は、十字架でした。聖書は、十字架につけられたイエス・キリスト以外には、罪人の私たちが救われる方法がないと証言しています。

今日は、神様が一人子をキリストとして遣わされた理由、そしてイエス様が、十字架の上で死ななければならなかった理由について、皆さんと一緒に考えてみたいと思います。

人間にとって最も大きな絶望はすべての人が罪人として生まれるということです。生まれたばかりの赤ちゃんは、何の罪も犯さなかったのに、なぜすべての人が罪人として生まれるというのでしょうか。十字架と救いを理解するためには、私たちは、まず罪とは何なのかを 理解する必要があります。

初めに神様が創造された人間は、罪人ではありませんでした。創世記 1章 27節は、初めに神様が創造された人間が、どういう存在だったのかを説明します。

27 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

人間は、もともと神様のかたちとして創造された、聖なる存在でした。ところで人類の先祖であるアダムが、サタンの誘惑に陥って、神様が禁じられた、善悪の知識の木の実を取って食べてしまいました。そしてその時から人間は罪人になったのです。

果物一個食べたことが、そんなにまで大きな罪なのかと思われるかもしれません。しかし 聖書を読んでみれば、アダムがそれを食べた理由は、神様のようになりたがる欲望のため だったということが分かります。すなわちアダムが神様の命令を破って、それを食べたのは、神様に対する裏切りであり、また反逆(はんぎゃく)だったということです。

ローマ 5章 12節には、こう書いてあります。

12 そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類(ぜんじんるい)に広がったのと同様に、―それというのも全人類が罪を犯したからです。

人類の先祖アダムが、罪を犯して罪人になった後、アダムを通して生まれた子孫、すなわち全人類は、みんな罪人として生まれるようになって、その罪の代価として死が世界に入ったと聖書は証言しています。一言でアダムの罪が、すべての人類に遺伝(いでん)されたということです。

アダムから罪が遺伝されて、彼のすべての子孫が罪人として生まれるようになったという ことが何を意味するでしょうか。それは、罪というのは、行いの概念でなく、命と存在の 概念だということです。すなわち人間は、罪を犯したから罪人になるのではなく、生まれ ながら罪人という存在として生まれるということです。

最近、生まれて一度も女という存在を見ることができなかった男の物語を聞きました。ある人が生まれてすぐに修道院(しゅうどういん)に捨てられました。彼は修道院中で修道士たちとともに住んで、自分も修道士になって一生涯修道院の中でだけ生きたそうです。それで彼は、82歳で死ぬ時まで、女という存在を一度も見ることができなかった男として記録されたそうです。

ところで生まれながら厳しい修道院で修道士として生きた彼も罪を犯したでしょうか。心の中では、悪い考えをしたかもしれませんが、たぶん行動では、罪を犯さなかったはずです。それなら一度も悪い行いをしたことがない彼は、罪人ではないと言えるでしょうか。

そうではありません。与えられた環境のゆえに罪を犯すことはなかったですが、もし彼も 私たちと同じ環境で生きたなら、私たちと同じく罪を犯したはずです。聖書はすべての人が罪人だとはっきりと証言しています。聖書が言われる罪人とは、罪を犯した人をいうのではなく、罪人の命を持っている存在を意味することです。

初めに神様は、人間を聖なる存在として創造されて、聖なる命を与えられました。しかし 人間が罪を犯した瞬間、人間の命の中に罪が入りました。そのように人間の命は罪によって汚れて、汚染(おせん)されました。そして心も悪魔のように邪悪になってしまいました。その時からこの世には、犯罪と戦いと苦しみと悲しみが続くようになりました。

罪人になった人間は、人間を不幸にするものが罪であることを悟って、罪の問題を解決するために続けて努力しました。良い行いを通して、教育を通して、そして哲学(てつがく)とか修行(しゅぎょう)を 通して、罪から逃れて義人になるためにいろんな努力を続けました。しかし人間のどんな 努力も罪の問題を解決することができませんでした。なぜならどんな方法でも存在を変えることはできないからです。すなわち犬を教育させて、猫に変えることが不可能であるように教育や訓練を通して罪人を義人に変えることは不可能だということです。

ある先生の青年時代の話を聞いたことがあります。その頃先生は田舎から都会に引っ越して、友人と二人で生活していたそうです。まだ仕事もなく、お金もなかったので、電気をつけることもできず、ご飯も存分に食べることができませんでした。おかずは、田舎から持って 来た醤油が全部でした。

先生は、電気が入らない真っ暗な台所に醤油の(つぼ)を置いといて、一か月間、醤油をおかずにしてご飯を食べたそうです。

ところで大掃除をしたある日、台所を掃除していた友たちが、いきなり悲鳴をあげながら、飛び出しました。それでその先生が台所に入ってみると醤油の壺の中にネズミ一匹が落ちて、死んでいましたが、もうかなり時間が過ぎて、毛も全部抜けて色も白くなっていたそうです。二人はそんなことも知らずに、一か月間、その醤油でご飯を食べたのです。

それなら、彼らは、その醤油をどうしたでしょうか。ネズミだけ取り出して、再び醤油を 食べたでしょうか。そんなわけがないでしょう。その醤油は、全部捨てなければなりませんでした。なぜならネズミを取り出すとしても、醤油が再びきよくなるのではないからです。ネズミが入った瞬間から、その醤油は、汚染(おせん)されて食べることもできず、清くすることも できなくなったのです。

罪人とは、こういう存在をいうのです。罪に汚染されて、再び清くすることも、直すこともできない命と心を持っている存在がまさに罪人だということです。

人間が罪人になった代価は、残酷(ざんこく)でした。神様との約束を破って、神様を裏切った瞬間から人間は、神様から受けたすべての良いものを失ってしまって、その代わりに、ものすごい 運命を迎えるようになりました。罪人になった代価は、大きく三つでした。

[一番目に、罪人になった代価は、死でした。]

創世記 2章 17節で、神様が言われました。

17 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、 あなたは必ず死ぬ。

神様は罪の代価が罪だと警告されましたが、その死は、アダムが神様との約束を破った瞬間ほんとうに起こってしまいました。ところで聖書には、アダムが930で死んだと書いてあります。神様は、善悪の知識の木の実を食べると必ず死ぬと言われたのに、どうしてアダムは、すぐに死なず、930年も生きて死んだのでしょうか。

神様が言われた死というのは、霊的な死を意味することでした。言い換えれば、罪を犯した代価は、神様に対して死ぬことであって、その結果、罪人になった人間は、神様との関係が、断絶されてしまいました。それで人間は、自分の知恵では神様を知ることもできず、神様と交わることもできなくなってしまったのです。

罪人になった人間は神様がご自分のことを表して、教えてくださらなければ、神様の存在を悟ることも、神様の助けを求めることもできない存在になってしまったということです。 これがまさに神様が警告された死の意味でした。そして神様から断絶された結果、人間は、肉体の死も迎えるようになったのです。

人間は、神様から命と力と知恵と幸せを供給されて生きるように創造された存在であります。しかし神様との関係が断絶された人間は、命と能力を供給されることができず自分が持っている資源だけを持って生きるようになりました。それで自分が持っている資源の限界を解決するために人間は、絶えず競争して、戦いながら生きるようになり、また幸せになることが人生の目標でありながらも、ほんとうに幸せになることができなくなったのです。

[二番目に、罪人になった代価は、呪いでした。]

神様は、人間を世界の王のような存在として創造されましたが、サタンに従った瞬間から 人間は、サタンの奴隷に転落(てんらく)してしまいました。またこの世界は、神様が人間に与えられた祝福と幸せを味わう場所として作られましたが、人間が罪人になった時から世界は呪われて災害と試練と悲しみの場所になってしまいました。

神様が人間に対して建てられた原則は、単純です。神様の律法を守って従えば、祝福を受け、律法を破ったら、呪われます。ところで罪人になった人間の問題は神様のみこころの通りに生きられる能力が全くないということです。神学者たちは、このような罪人の状態に対して全的堕落(ぜんてきだらく)道徳的無能力(どうとくてきむのうりょく)という言葉で説明します。全的堕落というのは心が完全に堕落して良いところが全くない状態を言います。そして道徳的無能力というのは、神様のみこころがなにか、そして正しいことが何かを知りながらも、それを選択することができない状態を 言います。

ローマ 1章 18節と 19節で、使徒パウロは、こう言いました。

18 というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。

19 それゆえ、神について知られることは、彼らに明らかです。それは神が明らかにされたのです。

 

 

すなわち罪人は、神様がどういう方なのか知りながらも神様を信じなく、神様のみこころが何か知りながらも神様のみこころに従わないということです。そして神様に対する敵対感のゆえに神様に従うことを断ることがまさに罪人の状態だということです。そしてその結果、罪人は、自分の選択に対する代価として、約束された呪いを受けながら、不幸せな人生を 生きるしかないということです。

[三番目に、罪人になった代価は、裁きでした。]

へブル 9章 27節は、こう言います。

27 そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、

罪人になった結果として、人間は、いつか必ず肉体の死を迎えるようになります。ところでその死の以後に、罪人は自分の罪に対する代価を払はなければなりませんが、その代価は、永遠の死または、滅亡とも呼ばれる地獄の刑罰であります。罪人は自分の罪に対する代価を地獄で永遠に払わなければならないということです。

このように人間が罪人になった代価は、死と呪いと裁きだということです。ところで問題は、人間には、自分の絶望的な運命を避けることも、変えることもできないということです。

しかし私たちを愛される神様は、私たちが罪によって滅びることを願いませんでした。

ヨハネ 3章 16節です。

16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を  信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

愛が満ち溢れる神様は、罪人の私たちをあまりにも愛されて、一人だけの息子を私たちの ためにキリストとして遣わされることにしました。そしてキリストであられるイエス様は、私たちを罪から救われるために、そして死と呪いと裁きから救われるために十字架の上で 死んでくださいました。

神様は、創造主であり、全能なるお方であるのに、代価を払わずに人間を赦されることは できなかったでしょうか。なぜ罪人を赦すために、神様の息子イエス様が死ななければならなかったでのしょうか。

私たちが覚えるべきことは、神様は、愛の神様でありますが、また正義の神様だということです。神様は私たちに対するご自分の愛をあきらめることができないように、罪に対して 正義を行われることもあきらめることができないお方であります。

ところでイエス・キリストの十字架は、神様の愛と神様の正義とを両方とも成し遂げられる神様の方法でした。

ローマ 5章 8節は証言します。

8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださった ことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

神様は罪人を救われるために、一人子イエス様を十字架の上で裁かれました。そのように キリスト・イエスに、私たちの罪に対する徹底的な裁きを行われることによって、神様は 正義を成し遂げられました。またそのように私たちを救われることによって私たちに対するご自分の愛をも成し遂げられたのです。

また十字架は、私たちを罪と死と呪いと裁きから救われる神様の方法でした。人間は絶対に罪を解決することができません。しかしイエス・キリストが十字架の上で流された血潮が、私たちの罪を解決されました。

へブル 9章 12節です。

12 また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所(せいじょ)に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。

イエス・キリストが私たちのための贖いのいけにえになって私たちの代わりに十字架の上で死んでくださいました。イエス様が私たちのために流されたその血潮によって、私たちの すべての罪が完全に赦されたのです。

また黙示録 1章 5節には、こう書いてあります。

5 ...イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から()(はな)ち、

イエス・キリストが十字架で流された血潮によって、私たちは罪から解放されたということです。ここで[解き放つ]という言葉は、[破壊する]、また[無効化する]という意味を持っているギリシャ語です。すなわちイエス・キリストが十字架で、私たちの代わりに死んでくださったので、私たちを縛っていた、罪の力が破壊されて、罪の影響力が無効化されたということです。結局イエス・キリストが十字架で死んでくださったので、私たちの罪が赦され、私たちが罪から完全に解放されたということです。

このようにイエス様は、十字架を通して私たちの罪の問題を完全に解決してくださいました。

 

イエス様の十字架は、私たちが受けるべきだった、罪の代価も全部解決してくださいました。

先ほど申し上げた通りに、一番目に、罪人になった代価が、死でした。そしてその死というのは、神様に対する死であり、神様との関係が断絶されることを意味します。

ところがⅠペテロ 3章 18節は、こう証言しています。

18 キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったの です。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神の  みもとに導くためでした。

イエス様が私たちのために死なれた理由は、私たちを神様のみもとに導いてくださるためだということです。罪によって神様の敵となった私たちを神様と和解させるためにイエス様が十字架につけられました。イエス様は十字架を通して、断絶された神様と私たちとの関係を再び回復させました。さらにイエス様は、復活の命を私たちに与えてくださって、私たちに神様の子どもとされる素晴らしい特権を与えてくださいました。これがまさにイエス様が 十字架を通して、私たちに与えられた素晴らしい恵みであります。

二番目に罪人になった代価は、呪いでした。

罪人の人生は、一生涯呪いに呪いを重ねる人生であります。それがまさに罪人としての悲劇なんです。しかしイエス様は十字架を通して私たちのすべての呪いを祝福に変えてくださいました。

いつかも申し上げましたが、ユダヤ人たちにとって一番呪われた死は、木にかかって死ぬ ことでした。木にかかって死ぬことは、最も大きな恥であり、また一番大きな呪いでした。ところでイエス様がつけられたその十字架は、木で作られた十字架でした。

ガラテヤ 3章 13節です。

13 キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。

イエス様は、一番呪われて恥ずかしい死を迎えられました。人類を救われるキリストの死は、崇高(すうこう)な死でも、美しい死でもなかったということです。イエス・キリストは最も悲惨な死を迎えられました。ところで聖書は、イエス様が呪いの十字架で死なれた理由は、私たちを すべての呪いから贖い出してくださるためだったと証言しています。すなわちイエス様は 私たちの代わりに呪われるために、自ら十字架の死を選択されたということです。

もし、イエス様の死が崇高(すうこう)で、美しい死だったならば、私たちは呪いから逃れることができなかったということです。そのように十字架のイエス様を通して、罪人の私たちが受ける べき、すべての呪いが完全に解決されたのです。

また全的に堕落して、道徳的に無能力な罪人である私たちは、絶対に神様のみこころに従うことも正しい道を選択することもできない存在です。すなわち罪に汚染した命と心を持っている人間は、生きて行きながら、続けて罪を犯し、呪いに呪いを重ねるしかないということです。

ところでローマ 6章 6節で、使徒パウロは言いました。

6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、 私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知って  います。

使徒パウロは、私たちの古い人が、キリストとともに十字架につけられたと証言してます。イエス様が十字架につけられた時、罪人である私たち、すなわち罪に汚染した私たちの命と心をイエス様の十字架にともにつけてくださったということです。そしてイエス様が復活 された時、イエス様の復活の命を信じる者たちに与えてくださって、もはや信じる私たちはイエス・キリストにあって神様のみこころの通りに生きることができるようになりました。なぜなら罪人の命と心が十字架につけられて死んだからです。これがイエス様が十字架を 通して私たちに与えてくださった素晴らしい恵みであります。

三番目に、罪人になった代価は、裁きでした。

ところで、ヨハネ 5章 24節で、イエス様が言われました。

24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを  遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死から  いのちに移っているのです。

イエス様を信じてイエス様を自分の主人として受け入れた者には、永遠の命が与えられます。そしてその瞬間から私たちの運命は、死と裁きから永遠の命と祝福に移ります。なぜなら、罪人の私たちが受けるべき裁きをイエス・キリストが代わりに受けてくださったからです。イエス様の十字架は、罪人に対する神様の正義の裁きが行われる所でした。罪人に対する 神様の怒りが注がれる所であって、裁き主である神様が罪人の私たちに死刑を宣告される 所でした。そして十字架は、罪人に対して少しの憐れみや慈悲も赦されない所でした。

ところで私たちが受けるべき、その怒りの裁きを、イエス様が私たちの代わりに受けてくださったということです。そしてイエス様が私たちの代わりに、そのものすごい裁きを受けてくださったので、私たちが今日、平安の中で主の御前でその御恵を賛美することができるのです。これがまさにイエス様が十字架を通して、私たちに与えてくださった素晴らしい恵みであります。

説教をまとめます。

イエス様の十字架は、私たちをすべての罪から解放させる神様の方法でした。イエス様の 十字架は、霊的に死んでいた私たちを、神様の子どもとして生まれ変わらせる、神様の能力でした。イエス様の十字架は、私たちをすべての呪いから贖われるための神様の知恵でした。そしてイエス様の十字架は、私たちを怒りの裁きから永遠の命に移された、神様の驚くべき御業でした。このすべてのことは、十字架のイエス様を通して私たちに与えてくださった、神様の素晴らしい恵みだったということです。

イエス・キリストは、すべての人類のために、この素晴らしい恵みを授けてくださいました。しかし十字架の恵みはすべての人が味わえるものではありません。ただイエス・キリストを信じてイエス様を自分の主人として受け入れた者だけが、この恵みを味わうことができます。

また、信者だからといって、みんなが十字架の恵みを味わえることでもありません。   フィガルという先生は、こう言いました。

[十字架の恵みは、私たちが信仰を行使(こうし)する時だけ、体験できる恵みだ。]

イエス・キリストを信じて、私たちが救われたという事実は、変わらない事実であります。しかし救われた後にも私たちは罪を犯します。そしてイエス様を信じているのにも私たちは、相変わらず罪の影響力の中で生きて行きます。なぜでしょうか。それは私たちが信仰を行使(こうし)しなかったからだということです。

私たちが罪より解放されることは、私たちの古い人が死んだという事実を信じて認める時、実際になることです。自分の思いと欲望に従って生きた過去の自分は、イエス様とともに 十字架に死んだという事実を信じて認める時、そしてイエス様を自分の主人として認めて、従う時、私たちは罪の影響力から完全に解放されるということです。

 

 

多くの信者がイエス様を信じながらも、相変わらず自ら自分の人生の主人になろうとします。そして自分の思いと欲望に従って、神様と関係ない人生を生きて行きます。そういう人は、まだ自分の古い人が十字架に死んだという事実を受け入れてないことです。そして自分の 古い人が死んだことを信じない人は、信者でありながらも、依然として罪の影響力の中で、罪人のように生きるしかないということです。

十字架の恵みは、信仰を行使(こうし)する時だけ、味わえる恵みです。十字架の上で死んだのは、 イエス・キリストだけでなく私たちの古い人もともに死んだという事実を、絶対に忘れてはいけません。

イエス様の十字架は、私たちの人生の主人を変えました。もはや私たちの人生の主人は、 イエス・キリストであられることを覚え、いつも信仰の中で、十字架の恵みを豊かに味わう私たちになることを、イエス・キリストの御名によって祝福いたします。

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2021/03/21 主日メッセージ   nozomich

三つの十字架

2021年3月14日 ・ のぞみ教会・主日礼拝 

申告告白

聖歌 417 / 418

祈り 木村喜憲牧師

聖歌 540 / 562

聖書 ルカ 23:1-12

説教 <三つの十字架>  木村喜憲牧師

聖歌 593 / 631

献金 <献金の祈り>  木村喜憲牧師

聖歌 383 / 376

祝福の祈り  木村喜憲牧師

 

お知らせ。

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3月の教会歴及び予定  ◆http://www.nozomich.net◆  

[2/17-4/3 : 四旬節] ― [3/29-4/3 : 受難週間] ― [4/4 : イースター]

[3/11  : 機関長祈祷会(11時に行いました。)]

[3/28 : 牧会協力委員会祈り会(礼拝後)]

◆3月14日から教会での集会礼拝を再開します。 

◆新型コロナウイルス感染拡大防止にかかる緊急事態宣言の延長に伴いまして、

非対面礼拝を2週間延長し、3月28日から教会での集会礼拝を再開します。 

◆健康回復のためにお祈りをお願いします。

礼拝のための代表祈り 【3/28:山本健太兄】

4/4:安永真一兄、 4/11:三戸貴史兄

献金のための代表祈り 【3/28:高橋文治兄】

4/4:木村喜憲師、 4/11:山本満代姉

三つの十字架

 

本文 : ルカ 23 : 1 - 12

1 そこで、彼らは全員が立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った。

2 そしてイエスについて訴え始めた。彼らは言った。「この人はわが国民を惑わし、  カイザルに税金を(おさ)めることを禁じ、自分は王キリストだと言っていることがわかり ました。」

3 するとピラトはイエスに「あなたは、ユダヤ人の王ですか」と尋ねた。イエスは答えて、「そのとおりです」と言われた。

4 ピラトは祭司長たちや群集に、「この人には何の罪も見つからない」と言った。

5 しかし彼らはあくまで言い張って、「この人は、ガリラヤからここまで、ユダヤ全土で教えながら、この民を扇動(せんどう)しているのです」と言った。

6 それを聞いたピラトは、この人はガリラヤ人かと尋ねて、

7 ヘロデの支配下にあるとわかると、イエスをヘロデのところに送った。ヘロデもその ころエルサレムにいたからである。

8 ヘロデはイエスを見ると非常に喜んだ。ずっと前からイエスのことを聞いていたので、イエスに会いたいと思っていたし、イエスの行う何かの奇蹟を見たいと考えていたからである。

9 それで、いろいろと質問したが、イエスは彼に何もお答えにならなかった。

10 祭司長たちと律法学者たちは立って、イエスを激しく訴えていた。

11 ヘロデは、自分の兵士たちといっしょにイエスを侮辱(ぶじょく)したり嘲弄(ちょうろう)したりしたあげく、はでな衣を着せて、ピラトに送り返した。

12 この日、ヘロデとピラトは仲よくなった。それまでは互いに敵対(てきたい)していたのである。

 

 

今日の本文には、まるで誰が一番罪深い者なのかを(きそ)う、競演大会(きょうえんたいかい)みたいだという思いがするほど、多くの悪人たちが登場しまうす。本文に出てくる人々の姿には、真実もなく、 正義もなく、愛も感じられません。ただみんなが、自分のためにうそをつきながら真実から目をそらすだけです。

ところで、私たちが本文の御言葉を通して見る人々の姿は、十字架につけられる前に、  イエス様が最後に見ておられた人間の姿でした。人類のために十字架を背負って行かれる イエス様が最後に見ておられた人間の姿は、愛らしい姿でもなく、かわいそうな姿でもありませんでした。十字架の前でイエス様が見られた人間の姿は、あまりにも邪悪で、利己的な姿であって、イエス様はそんな人間たちのために十字架を負わなければならなかったのです。

人間の愛には、理由が必要です。すなわち愛すべき理由があってこそ愛を施すことが人間であり、また愛される資格がある存在だけが愛されるのが、私たち人間の愛だということです。ところで、人類のために十字架を背負って行かれるイエス様が見ておられた人間の姿は、 愛すべき理由もなく、愛される資格もない、完全な罪人の姿だったということです。

エペソ 2章 2節と3節で、使徒パウロは、私たち人間がどういう存在であるかを説明します。

2 そのころは、それらの罪の中にあって この世の流れに従い、空中(くうちゅう)の権威を持つ支配者として 今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。

3 私たちもみな、かつては 不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら 御怒りを受けるべき子らでした。

罪人である私たち人間は、自分では罪から逃れることも、より良い存在になる可能性もない存在だということです。一言で、罪に染まった命と腐っている心で続けて罪を犯し、一生涯悪魔に従って生きて、ついには悪魔とともに滅ぼされるしかない存在がまさに人間だということです。それがまさに聖書が言われる罪人という存在であります。

しかし感謝すべきことは、それにもかかわらず、神様は、愛される資格が全くない私たちを愛してくださるということです。

エペソ 2章 4節と 5節で、使徒パウロは、続けて証言します。

4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、

5 罪過(ざいか)の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、―あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです―

イエス様が私たちの代わりに十字架にかかって死なれたのは、私たちに少しでも愛される ような資格があったり、より良い存在になれる可能性があったからではありませんでした。神様が私たちを愛された理由は、ただ一つでした。それは神様が憐れみ深く愛が満ち溢れるお方だったからです。すなわち愛が満ち溢れる神様が、愛される資格がない私たちを愛することに決められたから、私たちが救われるようになったということです。

5節でパウロは、私たちが救われたのは、ただ恵みによるのだと証言しました。私たちが 恵みによって救われたというのは、救いに関する重要な事実を表しています。

聖書で[恵み]という言葉の定義は、[受ける資格のない者に与えられる、神様の贈り物]という意味です。すなわち私たちが恵みによって救われたという言葉は、私たちに救われる ような資格があったからでなく、ただ神様の恵みであり、また神様からの一方的な贈り物 だったということです。すなわち私たちの救いにおいて、私たちが寄与(きよ)したり、貢献(こうけん)した ことが全くないということです。

どうして神様は、愛される資格も理由もない私たちを、そんなにまで愛されて、甚だしくは私たちを愛されるために、一人子イエス様までも私たちに与えることができたでしょうか。私たちの考えと知識としては、神様の愛を理解することもできず、その恵みの深さを測る こともできませんが、使徒ヨハネは、その理由を一言で説明します。

Ⅰヨハネ 4章 16節です。

16 私たちは、私たちにする神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。

神様が私たちを、そんなにまで愛された理由は、神様は愛だからだということです。神様は愛その自体であり、愛の始めであり、愛に満たされておられるお方だから、死んで然るべき罪人である私たちまでも、ご自分の全部を与えてくださるほどに、愛されたということです。すなわち私たちが救われた唯一の理由は、神様が愛であられるからだったということです。

続けてヨハネは、神様からそんな愛を受けた私たちには、守るべき命令があると言いました。

Ⅰヨハネ 4章 21節です。

21 神を愛する者は兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。

神様の条件のない愛によって救われた私たちは、もはや私たちが神様から受けた通りに、 兄弟を愛しなければならないということです。

私たち人間は、人を愛するためには確実な理由が必要ですが、人を憎むことには特に理由が必要ではありません。韓国のことわざの中で[嫁のかかとが、卵みたいだ。]という言葉があります。ある女が自分の嫁、すなわち息子の妻をとても憎みました。それを見てある人が、いったいなぜそんなにまで嫁を憎むのか、彼女に尋ねました。すると彼女の答えがまさに [嫁のかかとが、卵みたいだから]だったそうです。ところでそれが嫁を憎むような理由になるでしょうか。かかとが卵みたいになめらかなことは、むしろ長所ですね。カメの甲羅(こうら) みたいなかかとよりは、卵みたいになめらかなかかとがいいじゃないですか。

[嫁のかかとが、卵みたいだ] ということわざは、人を憎むことには、特に理由が必要ではないという意味です。すなわち人を憎み始めると憎むような理由がなくても憎いということです。

なぜ私たちは、他の人を愛するためには条件が必要ですが、他の人を憎むことにおいては、理由と条件がなくても憎むようになるのでしょうか。それは私たちの心に残っている罪の 本姓が続けて憎みを作り出すからです。だから私たちは、私たちの心が導く通りに生きる ようになると私たちは続けて憎みと罪の実を結ぶしかないのです。

神様が私たちを愛された通りに、私たちも他の人を愛するためには、まず私たちの心が、 神様の愛と恵みで満たされなければなりません。

いつかも申し上げたことがありますが、あるラビが弟子とともにいる時、ならず者たちが 来て彼を嘲弄(ちょうろう)しながら侮辱(ぶじょく)しました。しかしそのラビは、彼らの行いに対応せず、むしろ彼らを祝福したそうです。彼らが離れた後、ならず者たちに対するラビの対応が不満だった弟子がラビに聞きました。

[あいつらは、先生を嘲弄(ちょうろう)して侮辱(ぶじょく)を与えたのに、なぜ先生は、あいつらを祝福されたのですか。]

するとそのラビが、弟子にこう言ったそうです。

[人は誰も、自分が持っているものだけを、他の人に与えることができるのです。]

私たちは、自分が持っているものだけを他の人に与えることができます。他の人を憎んで いるというのは、現在自分の心に憎みがあるという証拠なんです。もちろん、他の人が先に私たちを憎んだり、害を与えたから、憎むようになったかもしれません。

しかし原因が誰にあるか、また誰のせいなのかということとは関係なく、私たちが誰かを 憎んでいるというのは、すくなくとも憎んでいる間は、私たちの心を憎みが満たしているということを表すということです。しかし、もし私たちの心が神様の恵みと愛で満たされて いるとすれば、私たちはあえで意識しなくても、他の人に愛と恵みを施すようになるということです。

神様の条件のない愛によって救われた私たちには、他の人を愛すべき命令が与えられました。ところで、そうするためには、まず私たちの心が神様の愛で満たされなければならないと いうことです。

それなら私たちは、どうやって自分の心を神様の愛と恵みで満たすことができるでしょうか。私たちの心が神様の愛と恵みで満たされるためには、まずすべきことがありますが、それは、もともと自分がどういう存在だったのかを覚えることです。

私の記憶によれば、私がのぞみ教会でした説教の中で、最もたくさん話した言葉は、  [私たちは、死ぬしかない罪人だ。]という言葉であります。イエス様を信じて受け入れた私たちは、すでに罪を赦され、救われました。すでにイエス様を信じて救われたのに、なぜ私たちが罪人だったという事実を思い出させるのでしょうか。なぜなら神様の恵みは自分の罪と霊的な無力さを告白するところに注がれるからです。

ローマ 5章 20節で、使徒パウロは、こう言いました。

20 律法が入って来たのは、違反が()(くわ)わるためです。しかし、罪の増し加わるところ には、恵みも満ちあふれました。

神様の律法がする役割は、私たちの罪を悟らせることです。私たちの心の中に隠されている罪を悟らせて、私たちが死ぬしかない罪人であることを悟らせることがまさに律法の役割だということです。そして律法は、自分の罪を悟った私たちを、イエス・キリストの十字架の前に連れて行きます。すなわち自分の罪のゆえにイエス様が代わりに死なれたという事実、また自分は、ただイエス・キリストの愛と恵みによって救われたという事実を思い出させることがまさに律法の役割だということです。

御言葉を通して自分がどれほど邪悪で、弱くて、不完全な存在なのかを悟るようになると 私たちはイエス様に頼るしかないし、イエス様の助けを求めるしかありません。そして  イエス様の十字架の恵みは、そのように自分の罪と霊的な無力さを認めて、イエス様に頼る者、そしてイエス様の助けを求める者の上に注がれるということです。

十字架の恵みは、ただ自分が罪人であることを覚える者にだけ与えられる恵みです。自分が死ぬしかない罪人だったという事実を覚える時、イエス・キリストが自分のために授けて くださった愛と救いが、素晴らしい恵みだという事実も覚えることができるということです。

私が10年前に見た映画の中で、印象深(いんしょうぶか)かった場面がありました。ある人が、犯罪人たちに新しい人生を生きさせるために、小さな村を作りました。そして死刑囚たちを救い出して、彼らに新しい人生を生きられる機会を与えました。

彼らは、昼には農業を営んで、夜には聖書を学びながら、新しい人生を始めました。死ぬ しかない運命から逃れて、新しい機会を得るようになった彼らの心には、感謝が溢れました。しかし時間が経ちながら、彼らは自分たちがもともとどういう存在だったのかも忘れて、 また自分たちが過去に犯した罪も忘れてしまいました。死ぬしかない死刑囚だった自分の 過去を忘れると彼らは再び罪を犯し始めました。彼らに新しい機会を与えた人が、彼らの 罪を責めながら、悔い改めることを話すと彼らはこう言いました。

[そんな話は、もうやめてください。あなたの話を聞いていれば、まるで自分が罪人にでもなったような気分になって、気持ちが良くありません。]

自分たちが死ぬしかない死刑囚だったことを覚えている間、彼らに与えられた新しい生活は、恵みと感謝が溢れました。しかし自分の過去を忘れた瞬間からは、自分に与えられた恵みも感謝も消えてしまったということです。

キリスト教の象徴が十字架である理由は、私たちが死ぬしかない罪人だったという事実を 思い出させるためです。十字架を見ながら、私たちが覚えるべき事実が二つあります。  一つは、イエス・キリストが私たちのために十字架の上で死なれたという事実、そしてもう一つは、その十字架は、もともと私たちがかかるべき十字架だったという事実です。

罪人であった過去を覚えるべきだという言葉は、罪責感を持って生きなければならないと いう意味ではありません。自分に与えられた救いと永遠の命が、イエス・キリストの恵みによって与えられたという事実を覚えるために、そして私たちの心が、十字架の愛と恵みで 満たされるために、私たちはもともと自分がどういう存在だったのかを覚えるべきだということです。今までの話をまとめます。神様の愛によって救われた私たちには、受けた通りに他の人をも愛すべき使命が与えられました。しかし他の人を愛するためには、まず私たちの心が神様の愛と恵みで満たされなければなりません。なぜなら私たちは、自分が持っている物だけを他の人に与えることができるからです。

ところで私たちの心をイエス・キリストの愛と恵みで満たすためには、もともと自分がどういう存在だったのかを忘れてはいけません。なぜなら御言葉を通して、自分の罪と霊的な 無力さを悟って、イエス様に頼り、イエス様の助けを求める時、十字架の愛と恵みが、  私たちの心に注がれるからです。

ある先生は、毎日イエス様の恵みで満たされるために、自分は、毎朝ゴルコタの丘に登ると言います。それがどういう意味なんでしょうか。ゴルコタはイエス様が十字架につけられた所であり、また罪人の私たちが死ぬべきだった所です。その先生は、神様の御言葉を通して毎日自分が死ぬべき理由、すなわち自分の心に隠されている罪を捜して、告白するそうです。なぜなら使徒パウロが言った通りに、罪の増し加わる所には、恵みも満ちあふれるからです。

私たちもゴルコタの丘に登ることから、一日を始めるようになることを祈ります。聖書の 御言葉を通して、毎日私たちが死ぬべき理由を発見し、自分の罪と霊的な無力さに対する 絶望を持って、もっと固くイエス様に頼るようになることを祈ります。それで私たちの心に十字架の愛と恵みが満ち溢れて、その愛と恵みによって、私たちも隣人を愛するようになることを、主の御名によって祝福いたします。

再び本文に戻ります。十字架につけられる前にイエス様が見ておられた人間の姿は、邪悪で利己的な姿でした。

お金をもらってイエス様を売ってしまった、イスカリオテ・ユダ。

イエス様を三度も知らないと言った、ペテロ。

自分の利益を守るためにイエス様を殺そうとした、宗教指導者たち。

イエス様を訴えるために偽証をした、ユダヤ人たち。

そしてイエス様に罪がないことを知りながらも政治的な目的でイエス様を十字架につけた、ポンテオ・ピラト。

皆さんの考えには、この中で、一番罪深い者は、誰だと思われますか。そして聖書は何を 言われるために、こんなに悪い者たちの姿を聖書に記録しているのでしょうか。本文で、 多くの悪人たちの姿を現している聖書が、結局私たちを連れて行く所はゴルコタの丘です。ゴルコタの丘には、三つの十字架が立っていました。

 

 

ルカ 23章 32節と 33節です。

32 ほかにもふたりの犯罪人(はんざいにん)が、イエスとともに死刑にされるために、引かれて行った。

33「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架に つけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。

イエス様の十字架の左と右には二人の犯罪人もともに十字架につけられました。他の福音書には、彼らが強盗(ごうとう)だったと証言しています。強盗という言葉の通りに、彼らは一生涯多くの罪を犯した人たちであり、死んで然るべき人たちでした。ところが死を目前にした、最後の瞬間に、二人の人生は、正反対に流れてしまいます。

ルカ 23章 42節と 43節です。

42 そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い 出してください。」

43 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」

左側の強盗は、最後までイエス様を非難し、人々を呪いながら死にました。そして彼は、 地獄で自分が犯した罪の代価を自分で払うようになりました。

しかしイエス様の右側の強盗は、最後の瞬間に自分の罪を悔い改め、イエス様を受け入れて天国に行きました。右の強盗も死んで然るべき罪人であり、救われる資格のない人でした。そんな彼が救われたのは、使徒パウロが言った通りに、ただイエス様の恵みによるのでした。

聖書が十字架につけられたイエス様とともに、二人の強盗の姿を、私たちに見せてくれる 理由が何でしょうか。イエス様の左と右にいた強盗の姿は、イエス様の十字架の前に立っている人類の二つの姿を意味します。

結局聖なる神様の御前では、すべての人が罪人だということです。そして誰の罪がもっと 大きいか、誰がもっと罪深い者なのかというのは、あまり重要ではないということです。 神様の御前では、ただイエス様を受け入れた罪人とイエス様を受け入れなかった罪人がいるだけなんです。

イエス様を受け入れた罪人は、自分の救いのために寄与したり、貢献したことがなくても 神様の御前で義と認められて、天国に入るようになります。なぜならイエス・キリストの 恵みによって、すべての罪が赦されて、すべての罪の代価が完全に払われたからです。

しかしイエス様を受け入れなかった罪人は、地獄で自分の罪の代価を自分で払わなければ なりません。なぜなら聖書が言われた通りに、罪の代価は死であり、死後には裁きを受けることが定まっているからです。

今日の本文には、邪悪で利己的な多くの悪人たちの姿が記録されています。その中で誰の 罪が一番大きいでしょうか。そしてその中で誰が一番罪深い者なんでしょうか。

ゴルコタの丘に立っていた三つの十字架は、この質問に対して私たちに確実に答えています。この世で一番大きな罪は、イエス様を十字架につけた罪ではありません。そしてこの世界で一番罪深い者は、イエス様を裏切った者でも、またイエス様を十字架につけた者でもあり ません。

イエス様を受け入れない罪が一番大きな罪であり、イエス様を受け入れなった者が、一番 罪深い者であります。イエス様を裏切っても、またイエス様を十字架につけて殺しても  悔い改めて、イエス様だけ受け入れると赦されて天国に行きます。しかしイエス様を受け 入れない人は、絶対に赦されることも、救われることもできません。

これがまさに、ゴルコタの丘にある三つの十字架が私たちに与えるメッセージであります。

説教をまとめます。

私たちは神様の偉大な愛のゆえに救われました。私たちには、神様に愛される資格もなく、救われるような資格も全くありませんでしたが、ただ神様の恵みによって救われました。 そのように神様から条件のない愛と恵みを受けた私たちには、新しい命令が与えられました。それは、私たちが神様に受けた通りに、私たちも兄弟に愛を施すことです。

この使命を果たすことができるように、まず毎日聖書の御言葉を通して、自分が死ぬべき 理由を捜しましょう。そして自分の罪と霊的な無力さを悟ったならそれを持ってイエス様の御前に進み、もっと固くイエス様に頼りましょう。自分の罪を悟って、イエス様に頼り、 助けを求める人の上に、イエス・キリストが十字架の愛と恵みを注いでくださるはずです。

私と皆さんを通して、より多くの人がイエス様を受け入れて十字架の恵みを悟るようになることを祈ります。イエス・キリストの恵みによって救われたすべての人が、その素晴らしい愛と恵みの中で、永遠の命を味わうようになることを、イエス・キリストの御名によって 祝福いたします。

 

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2021/03/14 主日メッセージ   nozomich

あなたがキリストなら

2021年3月7日 ・ のぞみ教会・主日礼拝 

申告告白

聖歌 425 / 427

祈り 木村喜憲牧師

聖歌 570 / 604

聖書 ルカ 22:63-71

説教 <あなたがキリストなら>  木村喜憲牧師

聖歌 608 / 653

献金 <献金の祈り>  木村喜憲牧師

聖歌 383 / 376

祝福の祈り  木村喜憲牧師

 

お知らせ。

◆のぞみ教会のOpen Cell Leaderを建て上げることが出来るように祈りましょう。

2月の教会歴及び予定  ◆http://www.nozomich.net◆  

[2/17-4/13 : 四旬節]

[3/14 : 牧会協力委員会祈り会(礼拝後)]

[3/28 : 機関長祈祷会(礼拝後)]

◆3月14日から教会での集会礼拝を再開します。 

◆新型コロナウイルス感染拡大防止にかかる緊急事態宣言の延長に伴いまして、

非対面礼拝を2週間延長し、3月28日から教会での集会礼拝を再開します。 

◆健康回復のためにお祈りをお願いします。

礼拝のための代表祈り 【3/28:山本健太兄】

4/4:安永真一兄、 4/11:三戸貴史兄

献金のための代表祈り 【3/28:高橋文治兄】

4/4:木村喜憲師、 4/11:山本満代姉

あなたがキリストなら

 

本文 : ルカ 22 : 63 - 71

63 さて、イエスの監視人どもは、イエスをからかい、むちでたたいた。

64 そして目隠(めかく)しをして。「言いててみろ。今たたいたのはだれか」と聞いたりした。

65 また、そのほかさまざまな悪口(あっこう)をイエスに()びせた。

66 夜が明けると、民の長老、それに祭司長、律法者たちが集まった。彼らはイエスを議会(ぎかい)に連れ出し、

67 こう言った。「あなたがキリストなら、そうだと言いなさい。」しかしイエスは   言われた。「わたしが言っても、あなたがたは決して信じないでしょうし、

68 わたしが尋ねても、あなたがたは決して答えないでしょう。

69 しかし今から後、人の子は、神の大能(たいのう)の右の座に着きます。

70 彼らはみなで言った。「ではあなたは神の子ですか。」すると、イエスは彼らに  「あなたがたの言うとおり、わたしはそれです」と言われた。

71 すると彼らは「これでもまだ証人が必要でしょうか。私たち自身が彼の口から直接  それを聞いたのだから」と言った。

イエス様は、大祭司の家で裁判を受けられました。ユダヤ人の宗教指導者たちがイエス様を訴えた内容は、イエス様が神聖冒涜(しんせいぼうとく)をしたということでした。そしてイエス様を死刑にするために、イエス様に対する偽証をする多くの人の証言を聞きましたが、確実な証拠は何も 見つかりませんでした。

マルコ 14章 55節と56節です。

55 さて、祭司長たちと全議会(ぜんぎかい)は、イエスを死刑にするために、イエスを(うった)える証拠を つかもうと(つと)めたが、何も見つからなかった。

56 イエスに対する偽証(ぎしょう)をした者は多かったが、一致(いっち)しなかったのである。

大祭司がイエス様を死刑にするためには証明するべきことが二つでした。一つはイエス様が自分を神の子だと言ったのか、もう一つはイエス様が自分をキリストだと言ったのかということでした。しかし多くの人が偽証をしてもイエス様を罪に定める証拠を見つからなかった大祭司は、イエス様に自白させるしかありませんでした。結局大祭司がイエス様に直接尋ねました。

マタイ 26章 63節と 64節です。

63 しかし、イエスは(だま)っておられた。それで大祭司はイエスに言った。「私は、生ける 神によって、あなたに命じます。あなたは神の子キリストなのか、どうか。その答えを言いなさい。」

64 イエスは彼に言われた。「あなたの言うとおりです。...

イエス様は、ご自分が神の子キリストだという事実を認められました。するとそれを聞いた人々は、神聖冒涜したイエス様は死刑に当たると叫びました。イエス様は、ご自分に対して真実を言われましたが、その代価は、死刑でした。

この裁判で宗教指導者たちが願っていたのは、イエス様から真実を聞くことではありませんでいた。彼らが願ったのは、イエス様から自分たちが願っている答えを聞くことでした。 彼らが聞きたかった答えは、イエス様がご自分は、キリストでもなく、神の子でもないと いう答えでした。なぜなら宗教指導者たちにとってイエス様は、絶対にキリストであってはいけない存在だったからです。しかしイエス様は、ご自分がキリストであることを認めて、彼らはイエス様を殺すことにしました。

結局イエス様が、その裁判で死刑判決を受けられた理由は、彼らから、キリストとして  認められなかったからです。すなわち宗教指導者たちは、イエス様をキリストであられる ことを信じなかったので、イエス様を殺すことにしたということです。

なぜ当時の宗教指導者たちは、イエス様を信じることができなかったでしょうか。彼らは イエス様の御言葉を聞いたことがなかったのでしょうか。そしてイエス様が起こさせる  素晴らしい奇跡を見たことがなかったからでしょうか。

大祭司にもそして他の宗教指導者にも、イエス様を信じる機会が与えられました。聖書を 読んでみれば、彼らも時には、イエス様が奇跡を起こさせる現場にいました。そして彼らはいつも監視人を遣わしてイエス様が何事を行われ、何を言われたのか、それを全部聞いて いました。

すなわち宗教指導者たちも、イエス様が行われた奇跡を見て、イエス様の御言葉を聞いたということです。それにも関わらず、彼らは、イエス様を最後まで信じなく、キリストとして認めることもできませんでした。なぜなら彼らの基準によれば、イエス様はキリストになるような資格がない人だったからです。

宗教指導者たちが最初にイエス様に対する話を聞いたのは、東方の博士たちを通してでした。マタイの福音書を読んでみれば、ある日、東の方から博士たちが来て、ユダヤ人の王であるキリストが生まれたことを知らせました。するとその話を聞いて、エルサレムが大騒ぎに なりました。

恐れ(まど)ったヘロデ王は、祭司長たちと律法学者たちを集めて、キリストは、どこで生まれるのかと聞きました。すると宗教指導者たちは、預言者の預言を通して、キリストがユダヤのベツレヘムで生まれることを教えてくれました。

ところでここでちょっとおかしいことは、キリストに対して誰よりも良く知っていた当時の宗教指導者たちは、驚いたのでもなく、キリストを捜しに行ったのでもなかったということです。彼らは、キリストを待ち望まなかったのでしょうか。そうではありません。彼らも 他のユダヤ人たちと同様に、キリストを待ち望んでいました。それならなぜ彼らは、東方の博士たちの話を聞いて、キリストを捜そうとしなかったのでしょうか。その理由は、彼らが博士たちの話を信頼しなかったからです。

宗教指導者たちは、自分たちよりキリストに対して良く知っている人もなく、自分たちより聖書の預言について良く知っている人もないと思いました。また自分たちより神様と親密な人もないと思いました。それで、もしキリストが来られる時には、それを一番最初に知る ようになるのは、自分たちだと思いました。

そんな彼らに、外国で来た異邦人に過ぎない博士たちの話が、信じられるはずがありませんでした。結局当時の宗教指導者たちは、信仰的な高慢のゆえにキリストの誕生を悟ることもできず、キリストを迎えることもできなかったということです。そしてその以降にも彼らはその高慢のゆえに、イエス様をキリストとして認めることができませんでした。

彼らはイエス様がキリストになる資格がないと思いました。なぜならイエス様はガリラヤのナザレという(とぼ)しい田舎(いなか)の出身だったからです。またイエス様は、権勢のある家で生まれた人でもなく、有名なラビのもとで学んだ人でもなかったからです。すなわちイエス様には、彼らが認めるような条件が、たった一つもなかったということです。

もちろんイエス様が行われた奇跡は素晴らしかったし、イエス様の教えは特別でしたが、 イエス様の出身と条件のゆえにイエス様をキリストとして認めることができなかったということです。それで彼らは、論理的に説明できないイエス様の能力は悪霊の力だと結論を下し、イエス様の教えは、律法を良く知らない人の思い違いに過ぎないと無視してしまったのです。

結局宗教指導者たちは、最後までイエス様をキリストとして認めませんでした。イエス様と同じ時代を生きながら、キリストであられるイエス様を直接見て、イエス様の御言葉を直接聞いたのにも、結局救われなかったということです。

これは私たちにとても重要な事実を表しています。それは、高慢な人は、イエス様の奇跡を自分の目で見てイエス様の御言葉を自分の耳で聞くとしても、その高慢のゆえに悟ることができないということです。高慢というのは、こんなに怖い罪だということです。

イエス様の当時にも、そして今も、人々はイエス様にしるしを求めます。イエス様を信じることができるように奇跡とか特別な霊的体験を経験させてくださることを祈ります。そして奇跡を見せてくだされば、今よりもっと熱心に信じて、良い信者になると言います。しかし奇跡や特別な霊的体験は、しばらくの間私たちの信仰を助けることはできますが、私たちをしてイエス様を信じさせることはできません。

人類の歴史上、一番多くの奇跡を経験した人たちは、荒野で生活したイスラエルの民でした。彼らは、神様が(とお)(わざわ)いを通してエジプトを裁かれて、自分たちを救い出される奇跡を 経験しました。何もない荒野で40年間マナを食べて、自分たちを守っている、雲の柱と火の柱を40年間見ながら生きました。また彼らは、目の前で(あし)(うみ)が分かれることを目撃して、神様が自分たちのために戦ってくださることを見ました。

それなら、そんなに数多くの奇跡を経験したイスラエルの民は人類の歴史上、最も信仰深い信者になったでしょうか。そうではありません。彼らは、奇跡の現場で生きながらも続けて神様の約束を疑い、不平不満を重ねながら、再びエジプトの奴隷の生活に戻って行こうと しました。奇跡は、そして特別な霊的体験は、私たちの信仰を助けることはできますが、 イエス様を信じさせることはできないということです。

結局大祭司をはじめ、当時の宗教指導者たちが、イエス様を信じなかった理由は、奇跡を 経験しなかったからでもなく、御言葉を聞けなかったからでもなかったということです。 彼らの心の高慢のゆえに、イエス様をキリストとして信じることもできず、またキリストを必要ともしなかったということです。

それならイエス様が神の子であられることを悟った人たち、そしてイエス様がキリストで あることを信じた人たちは、どんな人たちだったでしょうか。

ヨセフとマリヤを除いて、キリストがお生まれになったことを一番先に知るようになった 人たちは、羊飼いたちでした。野宿(のじゅく)夜番(よばん)をしながら羊の群れを見守っていた羊飼いたちは、御使いから、キリストがお生まれになったという知らせを受けました。すると羊飼いたちは、急いでベツレヘムに行って、飼い葉おけに寝ておられるイエス様に敬拝(けいはい)し、神様を賛美したと聖書は証言しています。ところでなぜ神様は、イエス様の誕生をユダヤの王や宗教指導者たちではなく、羊飼いたちに一番先に知らせてくださったのでしょうか。

イエス様の当時にユダヤの主要産業(しゅようさんぎょう)は、農業でした。カナンの地に定着した後にユダヤが農耕社会(のうこうしゃかい)に変わりながら、羊飼いたちは、だんだんユダヤの社会から疎外(そがい)され、無視されるようになりました。そしてイエス様の当時に至っては羊飼いたちは人々からホームレスとか浮浪者(ふろうしゃ)扱いをされたそうです。すなわちユダヤ社会で羊飼いたちは、一番無視される人たちであって最も貧しい人たちだったということです。甚だしくは当時の羊飼いたちは裁判所で証人として認められることさえもできないほどにイメージが良くなかったそうです。それ なのに神様は、ユダヤ社会で最も貧しくて、無視されていた羊飼いたちにキリストの誕生を一番先に知らせてくださったということです。

またイエス様が公生涯を始められた後、最も積極的に福音を受け入れて、救われた人たちも宗教指導者たちではなく、罪人と貧しい人、そして病気になった人たちでした。この事実が私たちに与えるメッセージは何でしょうか。結局自分に対して自慢するようなことのない 人たちが、先に福音を悟って救われたということです。

だからと言って、イエス様が貴族たちや宗教指導者たちには、福音を伝えなかったり恵みを授けてくださらなかったことではありません。羊飼いたちが、一番先にキリストの誕生に ついて聞きましたが、ヘロデ王と宗教指導者たちも、東方の博士たちを通して、キリストの誕生について聞きました。

またイエス様は収税人と罪人の友になってくださいましたが、宗教指導者たちもイエス様の御言葉を聞いて、イエス様が起こされる奇跡を見ました。すなわち、イエス様をキリスト として信じる機会は、すべての人に与えられたということです。

 

しかしそれにも関わらず、結局イエス様を信じて救われた人たちのほとんどは自分に対して自慢するようなことのない人たちだったということです。なぜなら自分に対して自慢する ようなことがない人たちには、自分の霊的な無力さを認める謙遜な心があったし、また  イエス様が自分の唯一の希望だと信じる、貧しい心があったからです。

結局私たちの信仰生活において最も必要なものは、奇跡もなく、特別な体験でもないということです。イエス様の恵みを豊かに味わうために、私たちに必要なことは、謙遜で、貧しい心だということです。

イエス様が福音書で、種を蒔く人の比喩を言われました。

ルカ 8章 5節から 8節までです。

5 「種を蒔く人が 種蒔きに出かけた。蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。 すると、人に踏みつけられ、空の鳥がそれを 食べてしまった。

6 また、別の種は岩の上に落ち、()()たが、水分(すいぶん)がなかったので、()れてしまった。

7 また、別の種は いばらの中に落ちた。ところが、いばらも いっしょに生え出て、それを()しふさいでしまった。

8 また、別の種は 良い地に落ち、生え出て、百倍のを結んだ。」イエスは、これらのことを話しながら「聞く耳のある者は聞きなさい。」と(さけ)ばれた。

種を蒔く人が蒔いた種は、良い地にだけでなく、道ばたにも、岩の上にも、そしていばらの中にも落ちました。しかし種が実を結んだ地は、良い地だけだとイエス様が言われました。

ここで四つの地は、私たちの心を意味します。すなわちすべての人に福音の恵みが与えられますが、ただ謙遜で、貧しい、良い心を持っている人だけが、イエス様の恵みを悟ることができるし、またその恵みを通して美しい実を結ぶことができるということです。

それなら種が落ちた四つの地は、それぞれ違う畑だったでしょうか。そうではありません。道ばたも、岩も、いばらも、良い地も、全部同じ畑の中にある土地でした。ただ決定的な 違いは、その地が、耕されたのか耕されなかったのかということにありました。

耕すことは何ですか。道ばたのように固くなった土は、すき起こして、やわらかい土にして、土の中にある岩とかいばらを取り除いて、良い地にすることがまさに耕すという意味です。

 

ところで預言者ホセアは、ホセア 10章 12節(新共同訳)でこう言いました。

12 恵みの(わざ)をもたらす種を蒔け愛の実りを刈り入れよ。新しい土地を(たがや)せ。主を求める時が来た。ついに主が(おとず)れて恵みの雨を注いでくださるように。

預言者ホセアは、神様が授けてくださる恵みを受けるために、新しい土地のような私たちの心を耕せと言いました。新改訳聖書には、新しい土地と翻訳されていますが、元の意味は、耕されてない、古い土地という意味であります。すなわち罪と不信仰でいっぱいとなって いる私たちの高慢な心を、耕して良い心に変えなさいということです。

それなら私たちは、どうやって私たちの心を耕すことができるでしょうか。私たちは神様の御言葉という[(すき)]を通して、私たちの心を耕すことができます。神様の御言葉は、私たちの心の中にある、不信仰の岩と思い煩いのいばらを見つけさせ、それを取り除ける信仰を与えます。また神様の御言葉は、罪によって固くなり、忙しい生活の中で鈍くなった私たちの 心を、恵みと悔い改めを通して、すき起こします。そのように私たちは、神様の御言葉を 通して、また祈りを通して、私たちの心を耕すことができるのです。

そしてそのように神様の御言葉によって私たちの心が耕されると、神様が私たちの心に  恵みの雨を注いでくださるということです。神様の御言葉を通して私たちの心を耕す作業を、デボーションと言います。そして私たちの心を耕すこの作業は、私たちが天国に行くまで、続けなければなりません。

信仰生活は、神様の御言葉によって私たちを変化させ、神様のみこころに私たちを合わせて行く過程であります。そういうわけで、神様の御前に進む時、私たちはいつも自分の変化に対する覚悟を持って行かなければなりません。

イエス様の当時の宗教指導者たちは、誰よりも聖書の御言葉を良く知っている人たちであり、誰よりも聖書をたくさん読んで、研究する人たちでした。それなのになぜ彼らはイエス様の御言葉を悟ることができなかったのでしょうか。彼らは心の畑に種はいっぱい蒔きましたが、神様の御言葉で自分の心を耕そうとはしなかったからです。神様の御言葉に対する知識は、ありましたが、その御言葉の通りに変化する覚悟はなかったということです。彼らは神様の御言葉によって自分を変化させようとはせず、むしろ神様の御言葉を、自分の状況と立場に有利な方向に解釈しました。そのように神様の御言葉の前で高慢な心と態度を捨てなかった彼らに、イエス様が宣べ伝える御国の福音が、悟られるわけがなかったのです。

 

神様は、御言葉によって耕された、謙遜な心に恵みの雨を降り注いでくださいます。そして福音の種も、耕された心に蒔かれた時、美しい実を結びます。

いつも謙遜な心で神様の御言葉を聞く、私と皆さんになることを祈ります。そしていつも 神様の御言葉の通りに変化されようという決心を持って神様に礼拝する私たちになることを主の御名によって祝福いたします。

宗教指導者たちは、高慢のゆえに、結局イエス様を神の子としても、またキリストとしても信じることができませんでした。それなら最後に一緒に考えてみたいことは、イエス様を 神の御子として、またキリストとして信じるというのは、どういう意味なんでしょうか。

聖書を読んでみれば、イエス様がどんな方なのかについて最も正確に話した人がいましたが、それはペテロでした。

マタイ 16章 16節でペテロは、こう告白しました。

16 シモンペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」

ペテロの言葉は、一言の短い告白でしたが、その中には、私たちが持つべき、重要な信仰の告白が入っていました。そしてペテロの告白は、イエス様を信じるというのがどういう意味なのかをよく表しています。

[一番目に、ペテロは、イエス様がキリストであられることを信じました。]

過ぎた時間にも申し上げましたが、イエス様の職分であるキリストというのは、ただ人類の罪を贖うために存在する職分でした。キリストという存在は、ただ罪人を救うための存在であります。そういうわけで自分が罪人であることを認めない人に、キリストという存在は、必要も意味もないということです。だからキリストを信じるというのは、自分が死ぬしか ない罪人であることを認める人にだけできることです。

ペテロがイエス様をキリストとして信じたというのは、イエス様がどんな方なのかを知っていたという事実より先に、自分が罪人であることを悟ったということを意味します。そして罪人である自分の絶望的な運命を知っていたので、彼はキリストであられるイエス様を受け入れて、自分のすべてをイエス様に委ねたのです。そしてすべてを捨てて、イエス様に付き従いました。なぜならイエス・キリストを失うことこそ、すべてを失うことだという事実を、ペテロは知っていたからです。イエス様をキリストとして信じるということは、このように自分が死ぬしかない罪人であることを認めて、ただイエス様にすべての希望をかけるという意味があるのです。

[二番目に、ペテロは、イエス様が神様の子どもであられることを信じました。]

イエス様が神の御子だという言葉の意味は、イエス様がまさに神様だという言葉と同じ意味であります。イエス様は、生きておられる神様であられます。そして今も私たちとともに おられるインマヌエルの神様であります。そのイエス様に解決できない問題はありません。イエス様は、私たちに必要なものが何かを、誰よりも良く知っておられ、またそれを折に 適って、私たちに与えられる力があるお方であります。

イエス様は、私たちを最善の道へ導いてくださるお方であり、私たちの試練と悲しみまでも、祝福に変えることのできるお方であります。イエス様は、すべてのことを働かせてご自分の計画を成し遂げられる全能の神様であられます。イエス様が神様だから私たちはイエス様に私たちのすべてを委ねることができるのです。

私たちはイエス様に何かを求める先に、私たちの祈りに答えてくださるイエス様が、どんな方であられるかを覚えなければなりません。神様であられるイエス様は全能なる神様らしく働かれます。イエス様は私たちの祈りに答えてくださいますが、私たちが願っていること よりもっと素晴らしい計画を持って働いてくださいます。それでイエス様の働きは、時には、私たちの考えとは違う時がありますが、それは、イエス様が私たちの祈りよりもっと大きな計画を持っておられるからなんです。

イエス様の当時に多くの人たちがイエス様に健康を求めましたが、イエス様が魂を救われる救い主であることは知りませんでした。大勢の人が、イエス様に来て、奇跡のパンを求め ましたが、イエス様がまさに永遠の命をくださる、命のパンであられることは知りません でした。しかしペテロは、イエス様がまさに生ける神の御子であり、また神様であられる ことを信じました。だからペテロは、自分の人生をイエス様に委ねて、イエス様に付き従うことができたのです。

人生のすべての問題の答えがイエス様にあります。そういうわけで、何が何でも、私たちが必ず受けるべきことは、イエス様の恵みであります。そしてどんな試練の中にあるとしてもイエス様だけ握っていれば、そしてイエス様に頼りながら祈れば、私たちは必ず祝福の道に行くことができます。イエス様は私たちに、問題と悩みを持って、イエス様に来いと言われました。そして求めて祈れば、与えてくださるとも約束されました。イエス様が、神様の 御子であられることを信じるというのは、私たちの人生のすべてをイエス様に委ねる信仰を意味します。すべてをイエス様に委ねて、イエス様の御言葉に耳を傾け、イエス様に従う ために努力することが、イエス様を神の御子として信じる、私たちのすべきことであります。

大祭司と宗教指導者たちは、イエス様が神の御子であることも、またキリストであることも信じませんでした。それで彼らは、イエス様の御言葉を聞いてイエス様の奇跡を見たのにも滅びました。

私たちは、イエス様が神様の御子、キリストだという事実を信じて、イエス様を私たちの 主人として受け入れました。そのように救われた私たちは、その信仰の告白にふさわしい 人生を生きなければなりません。

神様の御言葉が私たちの人生を変化させるように、毎日御言葉を通して心を耕す私たちに なることを祈ります。そして謙遜で貧しい心を持って、ただイエス様だけを自慢する、私と皆さんになることを、イエス・キリストの御名によって祝福いたします。

 

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2021/03/07 主日メッセージ   nozomich