恵みの雨

2021/04

失う者と得る者

2021年4月25日 ・ のぞみ教会・主日礼拝 

申告告白

聖歌 273 / 250

祈り 木村喜憲牧師

聖歌 529 / 551

聖書 使徒 1:12-26

説教 <失う者と得る者>  木村喜憲牧師

聖歌 521 / 539

献金 <献金の祈り>  木村喜憲牧師

聖歌 383 / 376

祝福の祈り  木村喜憲牧師

 

お知らせ。

◆のぞみ教会のOpen Cell Leaderを建て上げることが出来るように祈りましょう。

◆健康回復のためにお祈りをお願いします。

礼拝のための代表祈り 【5/4: 小林哲雄兄】

5/11: 高橋文治兄、 5/18: 山本健太兄、 5/25: 安永真一兄、

献金のための代表祈り  【5/4: 木村喜憲師】

5/11: 山本満代姉、 5/18: 木村喜憲師、 5/25: 高橋文治兄

 

失う者と得る者

本文 : 使徒 1 : 12 - 26

12 そこで、彼らはオリブという山からエルサレムにった。この山は エルサレムの 近くにあって、安息日の道のりほどの距離であった。

13 彼らは町に入ると、()まっている屋上の間に上がった。この人は、ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと  熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。

14 この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念(せんねん)していた。

15 そのころ、百二十名ほどの兄弟たちが集まっていたが、ペテロはその中に立って   こう言った。

16「兄弟たち。イエスを捕らえた者どもの手引(てび)きをしたユダについて、聖がダビデの  口を通して預言された聖書のことばは、成就しなければならなかったのです。

17 ユダは私たちの仲間としてえられており、この(つと)めを受けていました。

18 (ところがこの男は、不正なことをして得た報酬で 地所(じしょ)を手に入れたが、まっさか さまに落ち、からだは()(ぷた)つに()け、はらわたが全部飛び出してしまった。

19 このことが、エルサレムの住民全部に知れて、その地所(じしょ)は彼らの語でアケルダマ、 すなわち『血の地所』と呼ばれるようになった。)

20 は詩篇には、こう書いてあるのです。『彼の住まいは荒れ果てよ、そこには住む者がいなくなれ。』また、『その(しょく)は、ほかの人に取らせよ。』

21 ですから、主イエスが私たちといっしょに生活された間、

22 すなわち、ヨハネのバプテスマから始まって、私たちを離れて天に上げられた日までの間、いつも私たちと行動をともにした者の中から、だれかひとりが、私たちとともに  イエスの復活の証人とならなければなりません。」

 

23 そこで、彼らは、バルサバと呼ばれ 別名(べつめい)をユストというヨセフと、マッテヤとの  ふたりを立てた。

24 そして、こう祈った。「すべての人の心を知っておられる主よ。

25 この務めと使徒職(しとしょく)地位(ちい)()がせるために、このふたりのうちの どちらをお選びに  なるか、お示しください。ユダは自分のところへ行くために脱落(だつらく)して行きましたから。」

26 そしてふたりのためにくじを引くと、くじはマッテヤにたったので、彼は十一人の 使徒たちに(くわ)えられた。

2017年に岡山県でマラソン大会がありました。その大会には、小学生たちも263名が 参加しましたが、驚くべきことは、263名の中で、262名の子どもたちが失格となりました。その理由は、経路(けいろ)を誘導するスタッフの誘導ミスで、262名の子どもたちがコースを間違えて しまったからです。それで262名の子どもたちは、熱心に走ったのにも、失格となりました。ところが、おもしろいことは、その中で一人は、他の子どもたちより、準備が足りなかったので、一人では最後まで走ることができませんでした。それでスタッフが、その子のそばで走りながらゴールまで導いたそうです。その結果先頭で熱心に走った262名の子どもたちは失格となりましたが、遅れて走っていた、その子は、正しいコースを最後まで走って、結局その大会で優勝したそうです。

信仰生活は、しばしばマラソン競技(きょうぎ)にたとえられます。なぜなら信仰生活はマラソン競技と似ている点が多いからです。

使徒パウロも、ピリピ 3章 13節と 14節で、こんな話をしました。

13 兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事(いちじ)に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、

14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠(えいかん)を得るために、目標を目ざして一心(いっしん)に走っているのです。

 

 

目標を目指して一心に走った選手は競技で優勝します。そして優勝した選手は、表彰台(ひょうしょうだい)の上に召されて、栄冠(えいかん)を得るようになります。それが運動選手として 最高の栄誉でした。 ところでパウロは、まるでマラソン選手が、その栄冠を得るために、目標を目指して一心に走るみたいに、自分は、神様がくださる栄光の冠を得るために、目標を目指して一心に信仰生活をしていると告白したのです。

ところが、熱心に走ったからといって、みなが栄冠を得るのではありません。間違えた道を走った262名の子どもたちが、熱心に走っても失格となりました。それと同じく信仰生活は、熱心に走ることも重要ですが、少し遅れても正しい目標を目指して走ることは、もっと重要なんです。

聖書を読んでみれば、歴史的に重要な瞬間ごとに、繰り返して現れる現象がありました。 それは、重要な瞬間に、貪りと不信仰のゆえに、神様の恵みと祝福を失う者がいて、反対に重要な瞬間に信仰を認められて、神様の恵みと祝福を得る者もいるということです。そして聖書は、神様の恵みと祝福を失う者と得る者との姿を 対照的に表しています。

40年間、荒野での生活を終えた、イスラエルの民は、やっと神様が約束されたカナンの地に入るようになりました。イスラエルの民には、カナンの異邦民族たちを征服して、その地を占領(せんりょう)すべき使命がありました。そしてカナンの地での最初の戦いはエリコとの闘いでした。エリコは、大きく、強い町でしたが、神様が命じられた通りに従えば、神様がイスラエルのために戦ってくださって、勝利をくださると約束されました。ところで神様がイスラエルに厳しく命じられたことがありましたが、それは、エリコを征服した後に、そこにある物は、何も持たずに、全部神様に捧げなさいという命令でした。

しかしアカンという人は、エリコで見た財物と派手な着物に心を奪われました。それでその中で一部を持って帰って、地に隠しました。この行動のゆえにアカンは、神様が約束された祝福の地に入ったのにも、それを味わえず、裁かれるようになりました。

反対に、その時、エリコには、ラアブという女が住んでいました。ラハブは、エリコの遊女でした。しかし彼女は、エジプトからイスラエルを救われた神様の噂を聞いて神様を恐れていて、神様を信じました。そしてその信仰によってイスラエルの民がエリコを偵察する時に、それを助けてくれました。そして、その代価として、彼女は、エリコが征服される時に、 家族とともに命を救うことができました。さらにラハブは、ユダ部族のサルモンという人と結婚して、イエス様の系図に入る祝福まで得るようになります。

イスラエルの民であったアカンは、貪りと不信仰のゆえに、自分に与えられた祝福を失って異邦人たちとともに滅ぼされましたが、異邦人だったラハブは、信仰によって神様の民に なり、イスラエルとともに祝福と救いを得るようになったということです。

次に、サムエル書を読んでみれば、神様がサウルをイスラエルの王とされました。サウルは有力な家門の子孫であって、容貌(ようぼう)から能力まで、王としての資格が十分な人でした。

イスラエルの王として最も重要な使命は、神様の命令に従うことによって、神様がまさに イスラエルのまことの王であられることを、民に教えて表すことでした。しかしサウルは、自分がイスラエルの王になろうとして、続けて神様の命令に従いませんでした。その結果、サウルは神様に裁かれ、イスラエルの王座も失ってしまいました。

反対に、その時、ベツレヘムには、ダビデという人が住んでいました。ダビデは、自分の 家族にも無視されていた、無名の羊飼いであって、王になるような能力も資格も全くない 人でした。しかしダビデは信仰の人であって、徹底的に神様に従う人でした。そして神様はそんなダビデをイスラエルの王としてくださって、さらにイエス・キリストの先祖になる 特別な祝福をくださいました。

王として十分な能力と資格を持っていたサウルは、自分に与えられた神様の恵みと祝福を 失ってしまいましたが、誰にも認められなかったダビデは、イスラエルの王としてイエス・キリストの先祖になる祝福を得たということです。

こんなことは、イエス様の弟子たちの中でもありました。イエス様は、公生涯を始められた後、12名の弟子を任命されて、3年半の間、彼らとともに生活されました。しかしその中で、イスカリオテ・ユダは、銀貨三十枚をもらって、イエス様を売ってしまいました。ところでその結果が何だったでしょうか。最後まで悔い改めなかったユダは、罪責感のゆえに自殺をして地獄に行きました。イエス様の12弟子として選択されましたが、その素晴らしい栄光と祝福を失ってしまったということです。

ところで、今日の本文を読んでみれば、イスカリオテ・ユダが失ってしまった、その栄光と祝福をマッテヤ、他の弟子が得るようになります。イエス様が天に上られて、聖霊の時代が始まる、この歴史的な瞬間にイスカリオテ・ユダは、イエス様の恵みと祝福を失う者となり、マッテヤは得る者となったということです。

 

 

今まで私たちが調べてみたように、神様の救いの歴史において重要な瞬間ごとに、神様の 恵みと祝福を失う者もいれば、得る者もいるということです。そしてそのようなことは、 私たちにも、いくらでも起こることができるということです。

自分に与えられた神様の恵みと祝福を失った者たちは、何が問題だったでしょうか。何が 彼らをして、神様の恵みと祝福を失わせたのかということです。

本文 25節に、その答えがあります。

25 この務めと使徒職(しとしょく)地位(ちい)()がせるために、このふたりのうちの どちらをお選びに  なるか、お示しください。ユダは自分のところへ行くために脱落(だつらく)して行きましたから。」

イスカリオテ・ユダが使徒職を失って、裁かれた理由が何でしょうか。それは彼が、自分に与えられた使命を捨てて、[自分のところ]へ行ったからです。すなわち神様が命じられた所、そして神様のみこころがある所へ行かずに、自分が行きたい所そして自分の欲望が導く所へ行ったからだということです。一言で言えば、神様が定められた目標を目指して行かずに、自分が行きたい目標を目指していったので、約束さえた祝福も救いも失って、栄光の冠も 得ることができなかったということです。

それなら、これから考えてみることは、信仰生活というマラソン競技で、最後まで完走(かんそう)して、冠を得るために、私たちのすべきことは何かということです。すなわちどうすれば私たちは神様の恵みと祝福を失う者にならなく、得る者になれるかということです。これに関して 三つに分けて考えてみたいと思います。

[一番目に、得る者になるためには、目標をはっきり知るべきであります。]

Ⅰコリント 9章 26節です。

26 ですから、私は決勝点(けっしょうてん)がどこか わからないような走り方はしていません。(くう)を打つような拳闘(けんとう)もしてはいません。

使徒パウロは、続けて信仰生活を運動競技にたとえて語ります。パウロは、自分は冠を得るために一心に走っているが、目標がどこかわからないような走り方はしてないと言いました。すなわちどこを向って走るべきなのか、また何のために走るべきなのか、その目標と目的をはっきり知って走ったということです。

 

この世界では、熱心と最善は、良いものだと思われます。しかし私たちが覚えるべきことは、熱心と最善は、神様のみこころと命令のもとにある時だけ、よいものだということです。

サウルは、自分なりに自分の人生に最善を尽くしました。イスラエルの民の心を得るために政治力を発揮して、戦争に勝つために軍師力を強化(きょうか)しました。イスラエルの王として生きる間、サウルは、すべての瞬間に熱心と最善を尽くしましたが、残念ながら、神様に捨てられました。なぜなら彼の熱心と最善は、いつも神様のみこころの反対側にあったからです。 すなわち彼は熱心と最善を尽くしましたが、その目標と目的が間違っていたということです。彼は自分の欲望を満たそうとする目標のために 最善を尽くして、結局神様と関係ない  その熱心のゆえに堕落して裁かれました。

パウロも自分の人生に最善を尽くした人でしたが、彼は、正しい目標を持っていました。 彼の人生の目標と目的は、いつもイエス・キリストにありまして、イエス様の恵みを得て、イエス様のみこころを行うために、熱心と最善を尽くしたのです。

またパウロは、戦う時にも、(くう)を打つような拳闘(けんとう)はしなかったと言いました。久しぶりに 軍隊の話をしますが、韓国の軍隊では、訓練する時、彼我識別(ひがしきべつ)バンドというものを付けます。これをどこに付けるかということによって、敵と味方を区別できるようにするバンドが  彼我識別バンドであります。なぜなら敵と味方が、はっきり区別されてこそ自分が戦うべき対象が誰なのかが、明らかに現れるからです。

エペソ 6章 12節で、パウロは言いました。

12 私たちの格闘(かくとう)血肉(けつにく)に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。

パウロは、私たち信者に、彼我識別をすることを言います。すなわち私たちが力を合わせるべき対象が誰で、私たちが戦うべき対象が誰なのかをはっきり区別せよということです。 そしてパウロは、私たちが戦うべき、目標がだれなのかを言いました。

[主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。]

 

 

 

私たちの敵は、そして私たちが戦うべき目標は、私たちのそばにいる人ではないということです。私たちをいじめる職場の上司でもなく、私たちを憎んでいる隣人でもないということです。私たちが戦うべき対象は、私たちを苦しめる人ではなく、私たちが御言葉の通りに 生きることを妨げる、サタンとその群れだと言うことです。

もし私たちがこの事実を悟ることができず、戦うべき目標をはっきり区別できないとすれば、結局私たちの霊的戦いは、いつもサタンの勝利で終わるようになるはずです。そして戦う べき相手を、間違えた私たちは、みな致命傷(ちめいしょう)を受けるようになるでしょう。

信仰生活という競走(きょうそう)完走(かんそう)して、栄光の冠を得るためには、目標をはっきり知らなければなりません。私たちが熱心と最善を尽くすべき目標が何であり、私たちが戦うべき目標が 何であるかをはっきり知らなければならないということです。私たちが最善を尽くすべき 目標は、イエス・キリストであり、私たちが戦うべき目標は、サタンであります。目標を はっきり知って、最後まで勝利する、私たちになることを主の御名によって祝福いたします。

[二番目に、得る者になるためには、欲望を自制すべきであります。]

Ⅰコリント 9章 25節です。

25 また闘技(とうぎ)をする者は、あらゆることについて自制(じせい)します。彼らは()ちる(かんむり)を受ける ためにそうするのですが、私たちは()ちない(かんむり)を受けるためにそうするのです。

アカンは、神様の民でした。神様の民として、祝福の地カナンに入れる資格があって、約束されたすべての祝福と救いを味わう資格のある人でした。しかし彼は、神様の民なのにも、自分の欲望を自制することができず、その結果すべての祝福と約束を失ってしまいました。

ギリシャ語で、自制という言葉は、[強い力で、押さえる]という言葉から由来した言葉です。すなわち、私たちの内に起こる欲求と欲望を、それより大きく強い力で押さえることが  まさに自制だということです。というのは、自制ができるためには、本能と欲望を押さえて、支配できるほど、より大きくて強い力が必要だという意味であります。

運動選手はいつも訓練をやめて休みたい欲望と戦うようになります。しかしそれを押さえて訓練を続けることができる理由は、休みたい欲望より、ずっと大きな勝利に対する渇望(かつぼう)が あるからです。

 

結婚した男は、どんなにきれいな女が自分を誘惑しても絶対に誘惑に陥りません。なぜなら妻に対するより大きくて強い愛が、誘惑と欲望を押さえてしまうからです。より大きな力によって、自分の中にある本能と欲望を押さえることがまさに自制だということです。

だから、自制は、愛を表す証拠でもあります。結婚した男は、不適切な欲望に対する自制を通して、自分の妻に対する愛を証明するようになります。それと同じく、私たちの間違った欲望を自制して、神様の御言葉に従うことによって、私たちは神様に対する私たちの愛を 証明するようになるのです。

それでイエス様は、ヨハネ 14章 21節で、こう言われました。

21 わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人は わたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現します。

私たちが自分の欲望を自制して、神様の御言葉に従う時、私たちの愛が証明されるという ことです。それは、言い換えれば、自制できなく、神様の御言葉に従わない者は、神様の 御前で、その愛と信仰を本物として認められることができないという意味でもあります。

使徒パウロは、勝利の冠を願う選手はあらゆることについて自制すると言いました。それと同じく、私たちは、あらゆることについて自制しなければなりません。その理由は神様から()ちない冠を受けるためであります。

神様に向う大きくて強い愛が、私たちの心に満ち溢れることを祈ります。それで神様に向うその愛が私たちの間違った欲望を押さえて、すべてのことについて自制できるようになる ことを祈ります。そのように私たちの愛と信仰が、神様から本物として認められて、神様の御国で、朽ちない冠を受ける、私と皆さんになることを、主の御名によって祝福致します。

[三番目に、得る者になるためには、チームワークが大切です。]

マラソンは、一人で走るスポーツみたいに見えますが、実はチームスポーツであります。 競技に出るまでは、コーチの計画に従って、食事から訓練まで徹底的に管理されて、競技に対して具体的な戦略を指導されます。

そして競技の間には、ともに走るペースメーカーという人がありますが、ペースメーカーは、選手が良いペースを維持しながら、最後まで完走できるように助ける人を言います。選手が興奮(こうふん)して無理したり、早く疲れ果てたりすることがないように、選手の前を走りながら  ペースを調節することがペースメーカーの役割であります。

また状況によっては、選手のペースを引き上げて、先頭のグループを保つようにすることもペースメーカーの役割です。そして競技の中で起こる、いろんな突発的(とっぱつてき)な状況をうまく乗り越えることができるように助けることもペースメーカーの役割であります。ところで信仰のマラソンを走る、私たち信者にもペースメーカーが必要です。

へブル 10章 24節と 25節です。

24 また、互いに勧め合って、愛と善行を(うなが)すように 注意し合おうではありませんか。

25 ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。

教会の信者たちは、みんなが互いに対してペースメーカーになるべきであります。互いに (すす)め合って、愛と善行を促しながら、一緒に天国に入らなければなりません。イエス様が この地に教会を建てられた理由がまさに、ここにあります。イエス様は、どこにもおられるから、一人で礼拝して自分一人で信仰生活をしても大丈夫じゃないかと言われる方もいます。もちろん今のように、コロナのせいで、オンライン礼拝を捧げるしかない場合もありますが、基本的にイエス様が願っておられるのは、教会に集まって信仰生活をすることです。

ソロモンは、伝道者の書で、こう言いました。

伝道者の書 4章 9節から 12節までです。

9 ふたりはひとりよりもまさっている。ふたりが労苦すれば、良い報いがあるからだ。

10 どちらかが倒れるとき、ひとりがその仲間を起こす。倒れても起こす者のいないひとりぼっちの人は かわいそうだ。

11 また、ふたりがいっしょに寝ると暖かいが、ひとりでは、どうして暖かくなろう。

12 もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる。三つ()りの(いと)は 簡単には切れない。

信仰生活は、霊的戦いであって、私たちの敵であるサタンは、人間の力としては、絶対に 勝つことができない強い存在であります。だから私たち信者は、必ずチームになって、  サタンとの霊的戦いをしなければなりません。なぜならソロモンが言った通りに、一人では打ち負かされる可能性が多いし、倒れても起こす者のいない人は、かわしそうだからです。他の聖書には、倒れても起こす者のいない人は、わざわいだと翻訳されています。

 

イエス様は、私たちが信仰生活というマラソンを完走することができるように、また絶対にサタンに負けないように、私たちに教会というペースメーカーをくださいました。私たちはみんなが互いに対してペースメーカーとなって助け合い、支え合い、起こすべきであります。そして私たちの目標が何かを、絶対に忘れないように、互いに教え合うべきであります。 そうしてこそ、私たちは、この信仰のマラソンを最後まで完走することができます。

またイエス様は、私たちのために、聖霊様という最高のコーチを送ってくださいました。

ヨハネ 14章 26節で、イエス様が言われました。

26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によって お遣わしになる聖霊は、あなたがたに すべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話した すべてのことを 思い起こさせてくださいます。

聖霊様は、私たちの行くべき道と走る方法を、私たちに教えてくださるお方であります。 そして私たちに力と知恵をくださる方も聖霊様であります。聖霊様の恵みと助けがなければ私たちは、絶対に信仰生活を最後まで完走することもできず、正しい目標を目指して走る こともできません。

そういうわけで、信仰生活は、チームワークが何よりも大切だということです。のぞみ教会で出会うようになった一人一人は、神様が明らかな目的と計画を持って遣わしてくださった私たちのペースメーカーです。そして私たちが、キリスト・イエスにおいて、上に召して くださる神様の栄冠(えいかん)を得るためには、隣にいる兄弟姉妹の助けとチームワークが、必ず必要です。のぞみ教会がイエス・キリストにあって、一つになることを祈ります。それで一人も脱落(だつらく)せずに、みんなが神様の御国に入って、栄光の冠を得るようになることを、主の御名によって祝福いたします。

説教をまとめます。

私たちは、神様の恵みと祝福を失う者になってはいけません。信仰によって神様の恵みと 祝福を得る者になるべきであり、また朽ちない栄光の冠を得る者にならなければなりません。

神様が私たちにくださる栄冠は、一等でゴールに到達した人にだけ与えられるものではありません。信仰を持って最後まで完走した者なら、誰もが得られる冠であります。だから他人より少し遅れても大丈夫です。時には、道を迷う時もあり、倒れて起きることを繰り返す 時もあるかもしれまえんが、それでも大丈夫です。

聖霊様の導きに従って、走り続ければ、そしてのぞみ教会というペースメーカーとともに 走れば、必ず信仰のマラソンを完走することができます。

この一週間も、互いに対してペースメーカーになって、支え合い、助け合い、祈り合い、 慰め合いながら、主が備えられた恵みと祝福を得る、私と皆さんになることを イエス・ キリストの御名によって、祝福いたします。

 

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2021/04/25 主日メッセージ   nozomich