恵みの雨

2021/02

信仰の破産

2021年2月28日 ・ のぞみ教会・主日礼拝 

申告告白

聖歌 590 / 628

祈り 木村喜憲牧師

聖歌 506 / 524

聖書 ルカ 22:54-62

説教 <信仰の破産>  木村喜憲牧師

聖歌 606 / 650

献金 <献金の祈り>  木村喜憲牧師

聖歌 383 / 376

祝福の祈り  木村喜憲牧師

 

お知らせ。

◆のぞみ教会のOpen Cell Leaderを建て上げることが出来るように祈りましょう。

2月の教会歴及び予定  ◆http://www.nozomich.net◆  

[2/17-4/13 : 四旬節]

[3/14 : 牧会協力委員会祈り会(礼拝後)]

[3/21 : 機関長祈祷会(礼拝後)]

◆3月14日から教会での集会礼拝を再開します。 

◆入木早紀子姉の姑さんが19日天に召されました。主の慰めを祈ってください。

◆健康回復のためにお祈りをお願いします。

 

信仰の破産

本文 : ルカ 22 : 54 - 62

54 彼らはイエスを捕らえ、引いて行って、大祭司の家に連れて来た。ペテロは遠く離れてついて行った。

55 彼らは中庭(なかにわ)の真ん中に火をたいて、みなすわり込んだので、ペテロも中に()じって腰をおろした。

56 すると、女中(じょちゅう)が、火あかりの中にペテロのすわっているのを見つけ、まじまじと見て言った。「この人も、イエスといっしょにいました。」

57 ところが、ペテロはそれを打ち消して、「いいえ、私はあの人を知りません」と言った。

58 しばらくして、ほかの男が彼を見て、「あなたも、彼らの仲間だ」と言った。しかし ペテロは、「いや、違います」と言った。

59 それから一時間ほどたつと、また別の男が、「確かにこの人も彼といっしょだった。 この人もガリラヤ(じん)だから」と言い張った。

60 しかしペテロは、「あなたの言うことは私にはわかりません」と言った。      それといっしょに、彼がまだ言い終えないうちに、鶏が鳴いた。

61 主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う」と言われた主のおことばを思い出した。

62 彼は、外に出て、激しく泣いた。

破産という言葉がありますね。破産という言葉の辞書的な意味は、[財産をすべて失うこと]であります。ところで信仰生活においても、破産はあります。時には私たちが信仰を失ってまるで信仰が破産されたような経験をする時があるということです。イエス様の弟子ペテロにもそんな経験がありました。それはペテロの人生において最も辛い経験でありながら、 また最も尊い経験でもありました。

今日は、本文を通して信仰が破産された時、私たちがすべきことは何かについて、皆さんと一緒に考えてみたいと思います。

イエス様の弟子たちの中で一番熱情的な人は、ペテロでした。ペテロは、イエス様を愛することだけは、誰にも負けられないと思うほどイエス様を愛しました。そして彼はイエス様といっしょになら、死ぬことまで覚悟されていると告白した人でした。それは彼の本気でした。イエス様に対するペテロの愛は本物であって彼は本当に死ぬまでイエス様に付き従うつもりでした。しかしそう話しているペテロに、イエス様がこう言われました。

ルカ 22章 33節と 34節です。

33 シモンはイエスに言った。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」

34 しかし、イエスは言われた。「ペテロ。あなたに言いますが、きょう(にわとり)()くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」

ペテロの心が本気であることをイエス様もご存じでしたが、イエス様はペテロが、三度も イエス様を知らないと言うはずだと言われました。その時までも自分に何事が起こるか全然知らなかったペテロは、イエス様のその言葉がとても寂しく感じられたかもしれません。 そしてイエス様が、自分の心と信仰を認めてくださらないと思ったかもしれません。

ところで今日の本文で、ペテロは、自分が持っている覚悟と信仰が、死という恐れの前で、粉々に砕け散ることを経験するようになります。死の恐れの前で、ペテロは、自分が持っていた信仰と意志を全部失ってしまうようになります。一言で言えば、ペテロは、信仰が破産される経験をするようになるということです。

イエス様が大祭司の家に引かれて行く時、ペテロは遠く離れてついて行きました。そして イエス様が大祭司の家で裁判を受ける時、ペテロは、人々といっしょに中庭で火に当って いました。ところでその時、そこにいた人の中には、ペテロがイエス様の弟子であることを知っている人がいました。

本文 56節と 57節です。

56 すると、女中が、火あかりの中にペテロのすわっているのを見つけ、まじまじと見て 言った。「この人も、イエスといっしょにいました。」

57 ところが、ペテロはそれを打ち消して、「いいえ、私はあの人を知りません」と言った。

ある女中が、人々の前でペテロはイエス様の弟子だと言いました。すると慌てたペテロは、自分はイエス様を知らないと言ってしまいました。

 

しばらくして、ほかの人がペテロを見ながらペテロは確かにイエス様の仲間だと言いました。するとペテロは、またイエス様を知らないと言いました。そして一時間ほど経って、また 別の男が、ペテロがガリラヤ人だという証拠をあげて間違いなくペテロはイエス様の弟子だと言いました。すると窮地(きゅうち)に追い込まれたペテロは、イエス様を呪いながらまで、自分は イエス様を知らないと言いました。

本文 61節と 62節です。

61 主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う」と言われた主のおことばを思い出した。

62 彼は、外に出て、激しく泣いた。

ペテロが三番目にイエス様を知らないと言い終えないうちに、鶏が鳴きました。イエス様が言われた通りに、鶏が鳴くまでに、ペテロが三度もイエス様を知らないと言ったのです。 鶏の鳴き声を聞いてこそ、初めてペテロは、自分が何をしてしまったのかを悟りました。

[自分はイエス様を知らない]とペテロが三番目に言った時ペテロは自分を見つめておられるイエス様と目が合いました。そしてペテロは、耐えられない罪責感と悲しみのゆえに、外に出て激しく泣いたと聖書は証言します。

ペテロはイエス様の弟子であって、さらに他の弟子たちよりも、もっと多くの奇跡を経験 した人でした。そしてイエス様に向う彼の愛と信仰の告白は本気でした。そんなペテロの 信仰が、死の恐れの前で破産してしまったのです。

本文の出来事は、ペテロには忘れられない記憶であり人生において最も辛い記憶でした。 ところでなぜ聖書は、ペテロの事をこんなに具体的に記録しているのでしょうか。ペテロがどんなに悪い者であるか、彼の信仰がどんなに小さかったのかを表すためなんでしょうか。

聖書はペテロを通して、私たちの姿を見せているのです。なぜなら私たちもペテロのように誘惑と試練の前で、私たちが持っている信仰を全部失ってしまう、信仰の破産を経験する 時があるからです。

聖書は、イエス様を知らないと三度も言ってしまったペテロが、外に出て激しく泣いたと 証言します。というのは、イエス様を裏切ったのは、ペテロの本気ではなかったということです。ペテロも自分に何事が起こっているのか、これから状況がどうなるか知らないままで、大祭司の家までついて行きました。ついて行きながらもし危機の瞬間が訪れたらイエス様を知らないと言おうと計画したのでもありません。

むしろペテロは、その時までも自分はイエス様といっしょになら、死ぬことまでもできると思っていました。

しかし思いがけない危機が訪れて、本当に死ぬかもしれないという恐れが訪れた瞬間、彼は生きるために、本能的にイエス様を裏切ってしまったのです。人の信仰と覚悟というのは、こんなに弱くて不完全なものだということです。

平安な時には、だれも良い信仰を持っているように見えます。そして平安な時の私たちは、自分がイエス様を裏切ったり信仰を捨てるようになるかもしれないとは思いません。しかし私たちの信仰は、誘惑と危機に会ってこそ、初めて実体が現れます。すなわち誘惑と試練が訪れたら、私たちもペテロのように信仰を失ってイエス様を裏切ることもできるし、また 自分の意志とは関係ない選択をすることもできるということです。だから私たちは、自分の信仰を自慢したり、また自分の信仰を信頼したりしてはいけないのです。

また私たちは、他の人の試練と失敗を見ながらその人の信仰に対して判断してもいけません。なぜなら結局人間は、同じ状況を経験してみないとその人の苦しみと恐れについて100% 分かることはできないからです。

私たちが思っている自分の信仰は、実際よりも大きくて、きれいに包装されている場合が 多いです。しかし自分が思う自分の信仰の大きさと深さは、試練と危機を通して証明される前には、実体がある信仰だとは言えません。

アブラハムは神様を信じてまた愛しました。しかし一人だけの息子イサクを全勝のいけにえとして捧げなさいという命令に従った時、その信仰と愛が本物として証明されて実体のある信仰となりました。

私たちが持っている信仰もそれと同じだということです。私たちの信仰は試練を通して証明される前には、その実体を知ることができないので、自分の信仰を自慢したり自分の信仰を信頼してはいけないといことです。むしろ私たちがすべきことは、自分の信仰がどんなに 弱くて、不完全なものなのかを理解して認めることです。そしてどんな誘惑と試練の前でも信仰を守ることができるように、続けて神様の助けを求めながら神様に頼ることが私たちのすべきことであります。

聖書が見せてくれるペテロの姿は、私たちに人間の普遍的(ふへんてき)な姿であります。ペテロを通して聖書は、私たちの弱い意志と不完全な信仰について言われているのです。そして誰も試練と恐れの前でペテロのように信仰の破産を経験する時があるということを言われているのです。

それなら聖書が、ペテロの過去について記録しているのは、ただ私たちがどんなに弱くて、不完全な存在であるかを見せることだけが目的なんでしょうか。そうではありません。  これから私たちに重要なことは、試練の前で信仰の破産を経験した後、私たちはどうすればいいかということが重要なことであります。

イエス様は、ペテロを弟子とされる前から、ペテロが自分を裏切るようになることを知っておられました。それにも関わらず、イエス様がペテロを弟子として選択されたというのは、どういう意味なんでしょうか。それはイエス様に重要なことはペテロがイエス様を裏切るかどうかということではなかったということです。

信仰が破産されたペテロに、イエス様が何を願っておられたのかというのは私たちにとても重要です。なぜなら信仰を失ったペテロにイエス様が願われたのは、信仰を失った私たちに願っておられることでもあるからです。

イエス様は、復活された後、再び弟子たちにやって来られました。

ヨハネ 20章 19節です。

19 その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。  「平安があなたがたにあるように。」

[一番目に、イエス様が弟子たちとペテロに願っておられたのは、彼らの平安でした。]

復活されたイエス様が弟子たちに来られて、最初に言われた言葉は、[平安があなたがたにあるように。] という言葉でした。ここで平安という言葉には、二つの意味がありますが、一つは、平安という意味で、もう一つは、平和という意味であります。

イエス様を裏切った弟子たちにとって一番辛いことは、何だったでしょうか。弟子たちは イエス様がキリストであることを知っていました。しかしキリストであられるイエス様を 最後まで付き従うことができず、恐れのゆえに裏切ってしまいました。さらに自分たちが 裏切ったそのイエス様が復活されて目の前に現れた時、弟子たちは何を思ったでしょうか。

[私は、天国には行けないだろう。]

[私は、絶対にイエス様に赦されないだろう。]

たぶん弟子たちは、こんな思いのゆえに悲しくて、怖かったはずです。

 

しかしイエス様は、そんな弟子たちの心をあまりにもよく知っておられ、それが弟子たちをどんなに苦しめているかもよく知っておられました。それで弟子たちに来られたイエス様は、一番最初にこう言われました。

[平安があなたがたにあるように。]

イエス様は、弟子たちが過ぎた過去の過ちのゆえに苦しんでいることを願わなかったということです。罪責感につまずいて、自らイエス様を離れるようになることを望まなかったと いうことです。むしろイエス様が弟子たちに望んでおられたのは、イエス様が約束の通りに復活されたという事実のゆえに喜びながら、平安を味わうことでした。

そしてそれができるように、イエス様は弟子たちの前で平和を宣言されたのです。すなわち裏切られたイエス様が、裏切った弟子たちに来られて、先に和解の手を伸ばしてくださったということです。聖書を読んでみれば、イエス様は復活された後、天に昇られるまで40日間、弟子たちとともにおられましたが、弟子たちがイエス様を裏切ったことに対しては、一度も言われませんでした。

私たちも人生の中で訪れる試練と恐れのゆえに信仰の破産を経験する時があります。時には誘惑に陥って罪を犯す時もあり、時には試練と失敗のゆえに信仰を完全に失ってしまう時もあります。そして気が付いてみるともうイエス様から遠ざかっている自分を見つけるようになります。私たちの信仰が破産されて、イエス様から遠ざかった時、イエス様が私たちに 願われることは何でしょうか。それはまさに平安であり、また平和だということです。

私たちが罪を犯したり、失敗したとき、最後まで私たちを赦してくれない存在がいますが、それはまさに自分自身です。しかし私たちが覚えるべきことはイエス様は私たちを呼ばれる前に、私たちがイエス様をどれほどたくさん裏切って罪を犯すようになるかをすでに知っておられたという事実です。

エペソ 1章 4節と 5節(新共同訳)で、パウロは言います。

4 天地創造(てんちそうぞう)の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者に しようと、キリストにおいてお選びになりました。

5 イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。

パウロは、神様が私たちを天地創造の前にキリストにおいて選んでくださったと証言します。ところでキリストにおいて私たちを選ばれたという言葉は、どういう意味なんでしょうか。いつかも申し上げましたが、キリストというのは、イエス様の職分であり、イエス様の役割でした。ところでキリストというのは、ひたすら人の罪を贖うために存在する職分でした。

すなわち神様が、天地を創造される前に、キリストにおいて私たちを選ばれたというのは、私たちが罪を犯すことも、また神様を裏切ることも、そして何回も信仰の破産を経験する ことも全部知っておられたということです。そしてそんな私たちを赦されて助けてくださるために、先にキリストを備えておいてから、天地を創造されたということです。

イエス様が私たちに願っておられるのは、罪責感でもなく、私たちが自ら自分を罪に定めることでもありません。イエス様はいかなる場合でも私たちがイエス様との親密な関係の中で平安を味わうようになることを願っておられます。それがまさに私たちに向うイエス様の みこころであることを、私たちは忘れてはいけません。

[二番目に、イエス様がペテロに願っておられたのは、立ち直ることでした。]

ルカ 22章 31節と 32節です。

31 シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。

32 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。

イエス様はペテロが三度もイエス様を知らないと言うことを知っておられました。ところが自分を裏切るその弟子のためにイエス様のなされたことが何だったでしょうか。イエス様は、ペテロが罪責感のゆえに信仰を失って、イエス様を離れることがないようにペテロのために祈られました。そしてイエス様は、ペテロにこう言われました。

[あなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。]

イエス様は、ペテロが信仰を失うとしても必ず立ち直らなければならないと言われました。立ち直るという言葉は、もとの所に戻ってくるというい意味があるギリシャ語です。

イエス様はしばらくの間、ペテロが自分に失望してイエス様から遠ざかるようになることを知っておられました。そして信仰を失って、さまようようになることも知っておられました。しかしイエス様は、ペテロに絶対にイエス様を裏切ってはならないとか、絶対に失敗してはいけないとは言われませんでした。

 

むしろイエス様はペテロが失敗するしかない弱い存在であることを理解してくださいました。イエス様はペテロに言われました。

[あなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。]

これがどういう意味なんでしょうか。

[あなたは、信仰を守ることに失敗するでしょう。私を裏切るしかないはずです。しかし、それでも絶対にあきらめずに、私に戻って来なさい。]という意味でした。

ペテロが人々の前で、イエス様を知らないと三番目に言った時、ペテロは自分を見つめて おられるイエス様と目が合いました。しかしペテロを見つめておられるイエス様の目つきは、冷たい目つきではありませんでした。自分を非難したり失望した目つきもありませんでした。むしろイエス様の目つきはペテロが何ども見てきたことでした。罪人に福音を宣べ伝える時、病人を憐れんでくださる時、そして絶望した人に希望を与える時、イエス様から見たその 目つきでした。イエス様は、その目つきで、ペテロに[大丈夫]と話しておられました。また絶対にあきらめてはいけないと話していました。その目つきが話しているイエス様の心を あまりにも良く知っていたので、ペテロは悲しくて激しく泣くしかなかったのです。

聖書がペテロの失敗に対して私たちに言われるのは、イエス様は、私たちがどんなに弱い 存在であるかを理解しておられるということです。そしてペテロを罪に定められなかった イエス様は、私たちの信仰が破産されて、イエス様から遠ざかった時にも、私たちを罪に 定められないということです。そして最後の瞬間にも、ペテロのために祈られたイエス様は、今も私たちのために祈っておられるということを私たちに言われているのです。

イエス様が私たちに望んでおられることは私たちが失敗しないことではありません。時には信仰を守ることに失敗して、時には信仰が破産される時もあるでしょう。しかしそれでも 再びイエス様に戻って行くこと、それがイエス様が私たちに本当に願っておられることです。

イエス様は、ペテロを赦されて、彼を罪に定めなかったですが、ペテロは自分を赦すことができませんでした。それでペテロは、再び漁師の生活に戻るために、他の弟子たちと一緒にガリラヤ湖に行きました。

ペテロは、相変わらずイエス様を愛していましたが、もはや誰の前でも自分がイエス様を 愛しているとは言えませんでした。そしてイエス様の右の座に座ろうという期待は、なく なってしまって、やはり自分は、漁師にふさわしい存在だと思いました。

そのようにペテロは自ら自分を罪に定めて、イエス様に付き従うことをあきらめましたが、イエス様はそんなペテロに再びやって来られました。弟子たちが舟から降りて地に着くと イエス様が火を()いて、その上に魚とパンを焼いておかれました。

大祭司の中庭で、火にあたっていたペテロは、三度もイエス様を知らないと言いました。 そして火にあたっているペテロに、イエス様が尋ねられました。

[あなたは、この人たちの以上に、わたしを愛しますか。]

するとペテロが、イエス様に答えました。

[主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。]

イエス様は、ペテロに三度同じ質問をされて、ペテロはイエス様に三度同じく答えました。なぜイエス様は、三度も同じ質問をされたのでしょうか。

イエス様を三度も知らないと言ったペテロは、本当に自分がイエス様を愛しているか自信もなく、もはや人の前でイエス様を愛すると言うこともできませんでした。しかしそれでも 明らかな事実は、もはやペテロは、イエス様がなければ生きていけない存在になったということでした。

イエス様は、そんなペテロの心をしっておられました。それでペテロのために同じ質問を 三度も言われたのです。イエス様はペテロの告白を通して、ペテロの愛が本物であることをみんなの前で認めてくださったのです。そしてイエス様がペテロにこう言われました。

[私の小羊を飼いなさい。私の羊を牧しなさい。私の羊を飼いなさい。]

[イエス様がペテロに願っておられたこと三番目は、信仰の兄弟たちを顧みることでした。]

ペテロはイエス様と一緒に十字架にかかることはできませんでした。しかし結局ペテロは、イエス様のように十字架にかかって死ぬようになります。

私たちの信仰は、誘惑と試練を通して実体が現れます。しかし私たちが信仰を失って信仰が破産されるとしても、再びイエス様に戻って行けば、イエス様は、私たちの弱くて不完全な信仰が、実体のあるまことの信仰になるように助けてくださるはずです。そのように多くの信仰の危機と試練と失敗を通して、私たちの信仰はますます成長して、鍛錬されるのです。

 

 

そして私たちは、立ち直った後、私たちが経験したその失敗と回復の経験を通して、試練の中にいる兄弟たちそしてさまざまな理由によって信仰が破産された兄弟たちを助けなければなりません。失望した人は慰めて、倒れた人を支えながら、彼らを立ち直らせることが、 私たちのすべきことです。そして彼らに向うイエス様のみこころが何なのかを教えてくれることが、イエス様が私たちに願っておられることであります。

イエス様の愛によって立ち直ったペテロは、Ⅰペテロ 1章 6節と 7節で、こう告白します。

6 そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、

7 あなたがたの信仰の試練は、火で精錬(せいれん)されつつなお()ちて行く金よりも(たっと)く、イエス・キリストの現れのときに称賛(しょうさん)光栄(こうえい)栄誉(えいよ)になることがわかります。

私たちに訪れる試練と危機は、私たちを恐れさせ、時には失敗させます。しかしペテロは、それでも喜びなさいと言います。なぜならそんな試練と危機の瞬間を通して私たちの信仰は成長して、精錬されるからです。そしてそのように成長した私たちの信仰は、イエス様が 来られる日、称賛と光栄と名誉になるからだとペテロは言います。

そして最後にペテロは、Ⅱペテロ 3章 18節で、こう言います。

18 私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。このキリストに、栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。アーメン。

私たちは、イエス・キリストの恵みと知識において成長しなければなりません。イエス様がどんな愛によって私たちを愛しておられるか、私たちはもっと深く知っていかなければなりません。

イエス・キリストの恵みと知識において、この一週間も喜びと平安を味わうのぞみ家族に なることを主の御名によって祝福いたします。

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2021/02/27 主日メッセージ   nozomich

イエス様の祈り

2021年2月21日 ・ のぞみ教会・主日礼拝 

申告告白

聖歌 607 / 651

祈り 木村喜憲牧師

聖歌 465 / 478

聖書 ルカ 22:39-46

説教 <イエス様の祈り>  木村喜憲牧師

聖歌 423 / 424

献金 <献金の祈り>  木村喜憲牧師

聖歌 383 / 376

祝福の祈り  木村喜憲牧師

 

お知らせ。

♣新型コロナウィルス感染拡大防止にかかる緊急宣言延長に伴いまして、非対面礼拝を3月7日まで延長します。

2月の教会歴及び予定  ◆http://www.nozomich.net◆  

[2/17-4/13 : 四旬節]

 

イエス様の祈り

 

本文 : ルカ 22 : 39 - 46

39 それからイエスは出て、いつものようにオリーブ山に行かれ、弟子たちも従った。

40 いつもの場所に着いたとき、イエスは彼らに、「誘惑に陥らないように祈っていなさい」と言われた。

41 そしてご自分は、弟子たちから石を投げて届くほどの所に離れて、ひざまずいて、こう祈られた。

42「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」

43 すると、御使いが天からイエスに現れて、イエスを力づけた。

44 イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に  落ちた。

45 イエスは祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに来て見ると、彼らは悲しみの 果てに、眠り込んでしまっていた。

46 それで、彼らに言われた。「なぜ、眠っているのか。起きて、誘惑に陥らないように 祈っていなさい。」

皆さんは人生の最後の瞬間が訪れたら、その最後の時間に何をしますか。誰にも死を前に して最後に残っている時間は、人生において最も大切な時間であるはずです。だからその 時間は、一番重要なことをすることに使うはずです。

本文のイエス様も十字架の死を前にしておられました。イエス様が最後の時間に何をした のかを見れば、イエス様が一番大切に思われたことが何かを知ることができるはずです。

本文 39節です。

39 それからイエスは出て、いつものようにオリーブ山に行かれ、弟子たちも従った。

イエス様は祈るために弟子たちと一緒にオリーブ山に行かれました。十字架の死を前にしてイエス様が最後になされたことは、祈りだったということです。

それは、イエス様がキリストとしてこの地におられる間、一番大切に思われたことがまさに祈りだったということです。

今日の本文は、祈られるイエス様に対して、そして祈りについて言われるイエス様に対して記録しています。今日は、本文を通して、祈りに対して一緒に考えてみたいと思います。

[一番目に、祈りは、イエス様の習慣でした。]

本文には、イエス様がいつものようにオリーブ山に行かれたと書いてあります。韓国語聖書には、イエス様が習慣に従って祈るためにオリーブ山に行かれたと翻訳されています。  すなわちオリーブ山に行って祈ることは、イエス様の習慣だったということです。聖書を 読んでみれば、イエス様は、キリストとしての働きを始められる時にも40日間断食しながら祈られました。そしてイエス様は、いかに忙しいことがあっても、いつも習慣的に祈られて、公生涯の最後の働きも祈りを通して終えられました。すなわちイエス様がキリストとしての使命を成し遂げられることができた秘訣と原動力は、お祈りだったということです。

私たちが覚えるべきことがありますが、それはこの地におられる間、イエス様は神様として生きられたのではなかったということです。そしてイエス様は、神様としての能力も全然 使いませんでした。イエス様は、私たちと全く同じ人間となってこの地に来られ、私たちと同じ弱さを持ってこの地で生きられました。それなのにどうやってイエス様は、そんなに すばらしい奇跡を起こすことができたでしょうか。それはイエス様が祈られたからです。

イエス様は私たちと同じ人間として生きられたので、いつも神様の助けと導きが必要でした。それでイエス様は、いつもお祈りを通して神様のみこころを尋ね求められました。そして 祈りを通して、神様の能力がこの地に臨むようにされました。そのようにしてイエス様は、この地におられる間、数多くの奇跡を起こされたのです。イエス様は、そのようにキリストとしての働きを果たされたのであって、それを可能にしたのがまさに習慣的な祈りだったということです。

イエス様がそのような人生を生きられた理由は、私たちもそのように生きさせるためでした。すなわち神様であられるイエス様が、ご自分の能力を使わずに、ただ祈りを通して父なる 神様に頼りながら生きられた理由は、信者がどのように生きるべきか、その模範を見せて くださるためだったということです。

 

 

聖書は、イエス様が習慣に従って、祈るためにオリーブ山に行かれたと証言します。習慣という言葉はあまりにも慣れてしまって自然に行われる行動を言います。ところで違う意味で習慣という言葉は、その行動が習慣になるまで、続けて練習と訓練が必要だという意味でもあります。お祈りがイエス様の習慣だったという言葉は、イエス様もこの地におられる間、祈りが習慣となるまで、努力と訓練を続けられたということを意味することです。

Ⅰテモテ 4章 7節と 8節です。

7 俗悪(ぞくあく)()にもつかぬ空想話(くうそうばなし)()けなさい。むしろ、敬虔(けいけん)のために自分を鍛錬(たんれん)しなさい。

8 肉体の鍛錬もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている  敬虔は、すべてに有益です。

信仰生活は絶対に自然にできることではありません。敬虔になる生活、すなわち信仰生活は必ず練習と鍛錬が必要だということです。練習と訓練を通して新しい習慣をつけることは 決して簡単なことではありません。なぜならそれは、今まで自分に慣れてしまった過去の 習慣を捨てて慣れてない新しい習慣を身につけることだからです。しかしそれにも関わらず、敬虔のために訓練しなければならない理由について、使徒パウロはこう言いました。

[敬虔(けいけん)のために自分を鍛錬(たんれん)しなさい。今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。]

すなわち敬虔は、私たちの命がかかっている問題であるから練習と訓練を通して必ず習慣をつけなければならないということです。祈りはイエス様の習慣であって、イエス様は死を 前にした最後の瞬間でさえ習慣に従って祈られました。そしてイエス様はキリストとしての使命を成し遂げられました。

祈りは私たちをして、神様の知恵と神様の能力によって生きさせる唯一の方法であります。そして祈りはイエス様が何よりも大切に思われたイエス様の習慣でした。私たちにも祈りが習慣になることを心から祈ります。また敬虔になる訓練を通して、イエス様のように神様の能力によってこの世を生きて行く、私たちになることを主の御名によって祝福いたします。

[二番目に、祈りは、最高の解決策でありながら、また最高の対応策であります。]

信者の私たちは、サタンの試みに陥ったり苦難に会ったら、祈り始めます。もし私たちが サタンの誘惑と苦難中で、イエス様に頼り、祈ることができるなら、それは何よりも大きな祝福であります。

詩篇 50篇 15節には、こう書いてあります。

15 苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしを あがめよう。

神様は、私たちが苦難の中で神様に頼り、神様に祈れば、私たちをすべての苦難から助け 出してくださると約束されました。

イエス様を信じて救われた後、私たちの人生は、多くの部分において変わります。ところで本当に大きな変化の中で一つは、信仰がもたらす態度の変化ではないかと思います。

人は誰も苦難に会います。それはイエス様を信じた後にも同じです。しかしイエス様を信じ救われた後に変わることがありますがそれは問題と苦難に対処する私たちの態度であります。信者はどんな苦難に会っても神様が解決してくださると信じます。そしてすべての状況の 中には、きっと神様のみこころと計画があるということを信じます。それを信じているから私たちは大変な状況の中で、神様に祈るようになるのです。

時には、祈っても状況が全然良くならない時もあります。しかし祈りながら苦難に耐えて いる信者たちと話してみれば、共通的に告白する言葉があります。それは、頼れる神様が おられるということが、そして神様に祈れるということが、どれほど大きな祝福であるか 分からないという告白です。

問題が解決されてないのに、どうしてこんな告白ができるのでしょうか。何も良くなった ことがないのに、いったい何が感謝だというのでしょうか。その理由は信仰のゆえです。 神様が自分の祈りに答えてくださり、必ず恵みを授けてくださることを信じるから、信者は苦難の中でも平安を味わうことができるのです。そして今は大変でも、ついには、神様が すべての過程を通して、きっと祝福の道へ導いてくださることを信じるから感謝ができるのです。

理性と論理では理解も説明もできませんが、これがまさに信仰の力であり、またこの信仰があるから私たちは苦難の中で祈ることです。そして私たちがその信仰を持って祈れば神様は、約束の通りに私たちを助け出して、必ず私たちを最善の道へ導いてくださるはずです。  だから祈りは、最高の解決策になるのです。

ところで私たちにとって苦難を解決するための祈りより、もっと重要な祈りがありますが、それは苦難に対比する祈りであります。

 

イエス様が本文 40節で言われました。

40 いつもの場所に着いたとき、イエスは彼らに、「誘惑に陥らないように祈っていなさい」と言われた。

イエス様は弟子たちに誘惑に陥らないように祈ることを言われました。

誘惑と苦難の中で、イエス様に祈れる信仰があるというのは、私たちにとって素晴らしい 祝福と特権であります。しかし信者にとってそれよりもっと重要な祈りは、誘惑と苦難が 訪れる前に、前もって祈りながら対比することであります。

もちろん私たちが前もって祈ったからといって誘惑と苦難が訪れないことではありません。しかし祈りによって対比されないまま誘惑と苦難に会えば、私たちは、あまりにも多くの ものを失うかもしれません。神様に失望して信仰を失うかもしれないし心に深い傷を受けるかもしれません。また準備されない私たちに、突然訪れる苦難は、私たちの心から平安を 奪い去って、その場に恐れを植えます。そして誘惑と苦難の中で心の余裕を失えば私たちの内に隠れていた荒い本姓が出て来て、人間関係に問題が起こったり、罪を犯すようになる こともできます。

ところが、もし私たちが祈りを通して前もって誘惑と苦難に対比することができるなら、 どうなるでしょうか。祈りを通して対比することができれば、誘惑と苦難を通して受ける 衝撃を最小化(さいしょうか)することもできるし、また苦難の中でも心の平安を保つことができるはずです。そして神様のみこころと摂理を信じる信仰が準備されているから、いかなる場合でも信仰が揺るいだり、絶望することがないはずです。そして祈りを通して対比されていれば、苦難の中で、ただ苦しんでいるのではなく、霊的な分別力を持って霊的な状況を見分けながら、 苦難の過程を過ぎることができます。そういうわけで誘惑と苦難が訪れる前に目を覚まして対比しながら祈ることは、最高の対応策になるのです。

ところで誘惑と苦難がいつ訪れるか分からないのに、どうやって前もって対比することが できるでしょうか。だから私たちに必要なことが祈りが習慣になることです。祈りが習慣になれば、私たちは、いつも誘惑と苦難に対比することができるということです。

残念ながらイエス様の弟子たちは、誘惑と苦難に対比することができませんでした。

本文 45節と 46節です。

45 イエスは祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに来て見ると、彼らは悲しみの 果てに、眠り込んでしまっていた。

46 それで、彼らに言われた。「なぜ、眠っているのか。起きて、誘惑に陥らないように 祈っていなさい。」

弟子たちは、自分たちに訪れる誘惑に対比することもできませんでした。誘惑に陥らない ようにイエス様と一緒に祈るべきだったですが、それができませんでした。その結果がどうだったでしょうか。十字架の前で弟子たちはみなイエス様を捨てて逃げ出してしまいました。もちろんイエス様は、復活された後、弟子たちにやって来られて、彼らを慰め、励まして くださいました。それで彼らは、結局偉大な使徒になることができました。

しかしそうなるまで弟子たちは、深い悲しみと絶望に落ちました。イエス様を裏切ったと いう罪責感のゆえに苦しんで、自分たちはイエス様に赦されないだろうと思いました。そのようにすべての希望を失って、イエス様がくださった約束も忘れたまま、再び漁師の生活に戻ろうとしました。このように対比誘惑と苦難は、対比されない弟子たちからあまりにも 多くのものを奪い去って、あまりにも深い傷を残してしまったということです。

今日の本文でイエス様は、誘惑に陥らないように祈ることを弟子たちに二回も言われました。それなら今の私たちはどうですか。私たちは、どんな誘惑と苦難にも対比されているほどに毎日目を覚まして祈っていますか、さもないと苦難に会い、誘惑に陥ってこそ、初めて  祈らなければならないと思いますか。

祈りは最高の解決策です。誘惑と苦難を祈りによって乗り越えようとする人は。すばらしい祝福を受けた人であります。ところで祈りは、最高の対応策でもあります。祈りを通して 誘惑と苦難に対比されている人は、最も賢い人であり、またどんな苦難も乗り越えられる 最も強い人でもあります。

神様が私たちに与えてくださったこの素晴らしい祈りの特権を積極的に使う私と皆さんに なることを主の御名によって祝福いたします。

[三番目に、祈りは、神様のみこころを実現させる道具であります。]

本文 42節です。

42「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」

この御言葉を通して私たちはイエス様の祈りの目的が何かを知ることができます。イエス様にも願い事がありました。イエス様はできれば、十字架の道を避けたいと思われでした。 それが人間としてイエス様が願っておられることでした。

しかしイエス様は、ご自分の願いではなく神様のみこころの通りになることを祈られました。なぜならそれがみんなのための最善の事であり、また人類を罪から救える唯一の方法であることを知っておられたからです。

ある先生が、祈りについてこんな話をしたことがあります。

[お祈りとは、私たちが神様のみこころに説得されることだ。]

祈りの目的は、私たちの願いが叶うことではなく神様のみこころが行われることにあります。なぜなら神様のみこころの通りに行われることが、みんなのための最善のことだからです。

2003年度に上映した、ブルース・オールマイティというコメディ映画があります。ブルースという人が失敗を重ねるようになると神様を恨み、つぶやきました。すると神様は彼の前に現れて、しばらくの間、彼が神様の役割を代行するように神様の仕事を任せました。

その日からブルースには世界中の人々から祈りのメールが届きますが、彼はすべての祈りを叶えてくれることにします。すると40万名の人が宝くじに当たるようになります。しかし 宝くじに当たったのに、当選金(とうせんきん)を17ドルしかもらえなかった人々は、暴動(ぼうどう)を起こしてしまいます。単純なコメディ映画ですが、私たちの願いの通りに行われることが果たして私たちに最善のことなのかを考えさせる映画です。

信者にとって祈りとは、すばらしい恵みであり、また特権であります。イエス様が私たちに祈りという特権をくださったのは、ある面では神様がブルースに神様の仕事を任せたことと同じことであります。

ヨハネ 14章 14節で、イエス様がこう言われました。

14 あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれを   しましょう。

イエス様は、私たちがイエス様の御名によって求めるなら、それをしてくださると約束されました。ところでこの約束は、私たちの願いは何でも叶えてくださるという意味でしょうか。この御言葉で私たちが注目すべき部分は、[わたしの名によって] という部分であります。イエス様の御名によって祈るというのは、どういう意味なんでしょうか。それは、私たちがイエス様の権限代行(けんげんだいこう)として、イエス様の権威を持って、イエス様の仕事を代行するという 意味があります。すなわちイエス様は、私たちが祈りという特別な能力を通してこの地で イエス様の仕事をして、イエス様のみこころを行うことを願っておられるということです。

もちろんこれは個人的な願いのために祈ってはいけないという意味ではありません。ただ 神様が私たちに祈りの特権をくださった目的、そして私たちの祈りの一番目の目的は、  イエス様のみこころがこの地に行われるようにすることだという話であります。

祈りには必ず信仰が必要です。どんな信仰が必要なのかと言えば、神様を神様として信じる信仰が必要です。神様を神様として信じる信仰が何なのかを三つに分けて申し上げます。

一番目に、神様の正しさと愛に対する信仰であります。

神様は正しい方です。そして神様は私たちを愛しておられます。祈りを捧げる私たちには この信仰が必要です。時には、私たちが祈った通りに答えられない時があり、また長い間 答えられない時もあります。しかし神様の正しさと愛に対する信仰があれば私たちは神様が必ず最善の道へ導いてくださるという信仰の中で、平安を保つことができます。

だからある願いを持って祈る時、私たちには、自分が祈った通りになることを信じる信仰も必要ですが、そうならないとしても、今この状況は、神様が自分のために許された最善だということを信じる信仰も必要です。どんな場合でも神様のみこころが正しくて神様の選択が最善だと信じることがまさに神様を神様として信じる信仰だということです。そして神様に祈る私たちには、この信仰が必要だということです。

二番目に、神様を神様として信じる信仰とは、神様の能力と摂理を信じる信仰であります。

神様は全知全能のお方であられます。神様は、すべてのこと知っておられ、またすべての ことをご自分のみこころと計画の通りに行うことのできる方だということです。

私たちが祈った通りにならない時、私たちは(あわ)てます。私たちの祈りが失敗したと思われ、状況が悪くなったと思われる時もあります。いったい神様がどんな思いを持っておられるか理解できない時もあります。

しかし目の前で行われている状況がいかに最悪だとしても、神様が働き始める瞬間、状況は完全に逆転されます。ヤコブの息子ヨセフは、夢とビジョンを持っている人であって神様の御前で正しい人でした。しかし彼は、突然エジプトの奴隷になってしまい、さらにそこでも()(ぎぬ)を着せられて監獄(かんごく)に入られてしまいます。

ヨセフの人生を見ながら希望や祝福という言葉を浮かべる人がいるでしょうか。彼の人生を見ながら神様が働いておられると考える人がいるかということです。誰が見てもヨセフの 人生は、完全に失敗した人生であって、最も呪われた人生でした。

しかしヨセフの主人であられる神様は、全能の神様でした。神様はヨセフを監獄から救い 出されて、彼をエジプトの総理とならせました。

結局神様の働きと計画は、神様が表されるまでは、誰も悟ることができないということです。そういうわけで私たちは、目の前で行われている状況を見ながら、簡単に成功と失敗を判断してはいけません。私たちの目には見えなくても、神様は私たちのために今も休まず働いておられ、私たちを最善の道へ導いておられるという事実を私たちは忘れてはいけないのです。

神様を神様として信じるというのは、神様の知恵と能力を信じることです。そして私たちはこの信仰を持って神様に祈らなければならないということです。

三番目に、神様を神様として信じる信仰とは、神様が主人であられることを信じる信仰で あります。

最近、早天祈祷会で士師記の御言葉を読みましたが、その時代のイスラエルの民を一言で 言えば、信仰生活に失敗した信者だということができます。なぜ彼らは、信仰生活に失敗 したでしょうか。その理由について聖書はこう証言しています。

士師記 21章 25節です。

25 そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを  行っていた。

すなわちイスラエルの民が信仰生活に失敗した理由は、イスラエルに王がなかったからだということです。ところでイスラエルには、ほんとうに王がなかったでしょうか。そうでは ありません。イスラエルに王は、いつも神様でした。神様がイスラエルの王であり、また 彼らの主人であられました。

しかしイスラエルの民は、神様を自分たちの王としても、また主人としても認められませんでした。むしろ自分たちが自分の人生の主人になって、神様を自分の願いを叶えてくれる 道具として利用しようとしました。その結果、彼らは罪を犯して堕落してしまいました。 彼らが堕落した理由を一言で言えば、神様が主人だという事実を忘れたからです。

神様を神様として信じるというのは、神様が自分の主人であり、自分はその方のみこころに従うべきしもべであることを覚えることです。神様が主人であって、私たちはしもべだから祈りにおいて一番重要なことは主人であられる神様のみこころが行われることだということです。すなわち私たちの主人であられる神様のみこころと計画の前で私たちの願いと思いをあきらめることができなければならないということです。

これがまさに神様を神様として信じる信仰であります。そして私たちの祈りにはこの信仰が必要だということです。

説教をまとめます。

祈りは神様が私たちにくださった最も素晴らしい能力であります。私たちにこの素晴らしい特権が与えられた一番目の目的は、私たちがイエス様の御名によってイエス様の仕事をするためであります。だから私たちは、祈りの目的が何かを忘れてはいけません。そして祈りの特権をうまく活用するために、祈りが習慣となる必要があります。

私たちが祈りの特権をよく使えば、私たちは神様の力と知恵によってこの世を生きることができます。そして私たちが行うすべてのことが神様の働きになるはずです。

新しく始まるこの一週間も祈りを通して勝利し、信仰によって神様のみこころを行う私と 皆さんになることを、主の御名によって祝福いたします。

 

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2021/02/21 主日メッセージ   nozomich

御国の価値観と秩序

本文 : ルカ 22 : 24 - 30

御国の価値観と秩序

 

本文 : ルカ 22 : 24 - 30

24 また、彼らの間には、この中でだれが一番偉いだろうかという論議(ろんぎ)も起こった。

25 すると、イエスは彼らに言われた。「異邦人の王たちは人を支配し、また人の上に権威(けんい)を持つ者は守護者(しゅごしゃ)と呼ばれています。

26 だが、あなたがたは、それではいけません。あなたがたの間で一番偉い人は一番年の 若い者のようになりなさい。また、治める人は仕える人のようでありなさい。

27 食卓に着く人と給仕(きゅうじ)をする者と、どちらが偉いでしょう。むろん食卓に着く人でしょう。しかしわたしは、あなたがたのうちにあって給仕する者のようにしています。

28 けれども、あなたがたこそ、わたしのさまざまの試練(しれん)の時にも、わたしについてて くれた人たちです。

29 わたしの父がわたしに王権(おうけん)えてくださったように、わたしもあなたがたに王を えます。

30 それであなたがたは、わたしのでわたしの食卓に着いて食事をし、王座に着いて、 イスラエルの十二の部族(ぶぞく)をさばくのです。

過ぎた時間に私たちは、イエス様が弟子たちと一緒に行われた最初の聖餐式に対して聖書の御言葉を調べました。イエス様と弟子たちとの最後の食事の場所で行われたこの聖餐式は、私たちを花嫁として迎えるためのイエス様のプロポーズだったと申し上げました。

ところで、そんなに厳粛(げんしゅく)で感動的な聖餐式がまだ終わらないうちに、また弟子たちの間に争いが始まりました。

本文 24節です。

24 また、彼らの間には、この中でだれが一番偉いだろうかという論議(ろんぎ)も起こった。

 

弟子たちの間には、いつも論議と争いがありましたが、それは、だれが一番偉いだろうかということに対する争いでした。たぶんこんな争いは、食事をする時、よく起こったはずです。なぜなら ユダヤ人たちの食卓には、上席と末席が確実に分かれていたからです。

皆さんは、イエス様と弟子たちとの最後の夕食と言えば、どんなイメージが浮かびますか。普通私たちが浮かべるイメージは、レオナルド・ダ・ヴィンチの最後の晩餐という絵であるはずです。しかし実は、この絵は、ヨーロッパ人の文化とヨーロッパ人の観点から想像した最後の晩餐でした。イエス様の当時に食事する姿は、ダ・ヴィンチの絵とは違いました。 

当時のユダヤ人たちは、こんな形の 食卓に着いて食事をしたそうです。 ところで、この食卓で一番上席は、 左の三つの席の中で真ん中の席でした。そしてその次の上席は、上席の右の席、そしてその次が上席の左の席でした。

ところで弟子たちは、イエス様の右と左の席に座るために、いつもだれが一番偉いだろうか争い続けたということです。そしてイエス様との聖餐式が行われたその場でも彼らは、その問題で争っていたということです。

イエス様と一緒に聖餐式を行った弟子たちの心は、本気ではなかったのでしょうか。信仰で契約のぶどう酒を飲んだ弟子たちの姿と信仰はいったいどこへ行ってしまったのでしょうか。

弟子たちのこんな姿を通して、聖書が私たちに言われることがあります。それは、私たちにイエス様を救い主として信じる信仰があるとしても、私たちの価値観が変わらなければ、 私たちは信仰によって生きることも、また神様のみこころの通りに生きることもできないということです。

ピリピ 3章 20節で、パウロは、こう言いました。

20 けれども、私たちの国籍(こくせき)は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。

イエス様を信じて救われた私たちは、もはやこの世に属した人ではなく神様の御国に属した存在だということです。というのは、イエス様を信じて救われた私たちは、御国の価値観と秩序とに従って生きるべき存在になったということです。

 

価値観と信仰とは絶対に分離できません。すなわち人は、自分が価値があると認めることを信じて、それに従いながら生きるしかないということです。例えば、価値観がお金にある 人は、何よりもお金を信頼し、お金がすべての選択の基準になります。またそんな人には、成功と失敗、祝福と呪いに対する価値判断においてもお金が基準になります。

それと同じく、信者がイエス様を信じて、イエス様の御言葉に従う理由が何ですか。それは価値観がイエス・キリストにあるからです。すなわちイエス様に最高の価値があると信じるからです。イエス様こそ最も正しい方であり、その方の御言葉が真理であることを信じる からいかなる場合にもイエス様とその御言葉を信頼することです。そして御言葉に従って 生きることが、命と祝福に至る道であることを信じるから私たちはイエス様の御言葉に従うことです。このように信仰と価値観とは、いつも同じ方向を向いているから、絶対に分離できないということです。

だからイエス様を信じて、イエス様を救い主として受け入れたとしても、私たちの価値観が変わらなければ私たちの姿と人生の態度も変わりません。ところが価値観が変わらなければ、私たちは信者でありながらも、信じない人たちと同じ姿で生きるしかありません。価値観が変わらなければ、信者なのに信仰によって生きることはできない、変な信者になってしまうということです。

弟子たちはこの世の価値観と秩序から逃れることができず、偉い者になり上席に座るために争っていました。そんな弟子たちの姿を見ながらイエス様は弟子たちのための最後の授業を進めることにしました。

本文 25節と 26節です。

25 すると、イエスは彼らに言われた。「異邦人の王たちは人を支配し、また人の上に権威(けんい)を持つ者は守護者(しゅごしゃ)と呼ばれています。

26 だが、あなたがたは、それではいけません。あなたがたの間で一番偉い人は一番年の 若い者のようになりなさい。また、治める人は仕える人のようでありなさい。

この世の価値観は何ですか。偉い人になり、より高い地位を占めることに価値を置くことがまさにこの世の価値観です。そしてそんな人になるためには、他の人よりもっと多くの物を手に入れなければならないし、他の人との競争から勝たなければなりません。それで人々は偉い人になり、高い地位を占めるために、一生涯勉強して、働いて、競争(きょうそう)しながら生きて行きます。

そしてこの世は、その競争から勝利した者、すなわち権力と地位を持っている人によって 支配されます。それがこの世の秩序であります。

しかし神様の御国に属した私たちは、この世の価値観と秩序に従ったり、それを求めては いけません。その理由は、この世の価値観と秩序は神様が造られたものではなく、サタンが作ったものであるからです。

神様の御国の価値観と秩序は、この世のそれとは、正反対です。

イエス様が 26節で言われました。

26 だが、あなたがたは、それではいけません。あなたがたの間で一番偉い人は一番年の 若い者のようになりなさい。また、治める人は仕える人のようでありなさい。

イエス様は、偉い人は、若い者のようになるべきだと言われました。本文には、[若い者]と翻訳されていますが、この単語は[子ども]を意味するギリシャ語です。すなわちイエス様は偉い人は子どものようにならなければならないと言われたのです。

偉い人と子どもの違いが何でしょうか。いろいろあるでしょうが、その中で一つは、自分に対する認識であります。偉い人は、すべての人に認められるだけでなく自分も自分に対して偉いと思います。しかし子どもは、自分の無能さと弱さに対してよく知っています。これが偉い人と子どもとの違いであります。ところでイエス様は、偉い人は、子どものようになるべきだと言われました。言い換えれば神様の御国では、偉い人や地位の高い人が認められることではなく、むしろ謙遜な心で自分を低くする者が認められるということです。御国の 価値観は、権力と地位にあるのではなく自分をへりくだる謙遜な心にあるということです。

またイエス様は、治める人は、仕える人のようになるべきだとも言われました。人々が高い地位を占めようとする理由が何でしょうか。それは他の人を自分の心の通りにコントロールして、支配するためです。すなわち地位の高い者が人々を支配して地位の低い者が偉い者を仕えるのがまさにこの世界の秩序だということです。しかし御国の秩序は、地位の高い人が仕える者になることだとイエス様が言われました。

神様の御国の価値観を一言で言えば、イエス・キリストに似ることだということができます。すなわち御国で一番大切な価値は、イエス様に似ている人になることであって、御国では、イエス様に似ている人ほど、偉い人として認められるということです。そして仕えることによって治められるのがまさに御国の秩序だということです。

 

このように弟子たちに御国の価値観と秩序に対して教えてくださったイエス様は、言葉だけではなく、行動を通してそれがどういう意味なのかを直接見せてくださいました。

ヨハネ 13章 4節と 5節一緒に読みます。

4 夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。

5 それから、たらいに水を入れ弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。

御国の価値観と秩序に対して言われて後イエス様が席から立ち上がりました。そして上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれてから、たらいに水を入れて弟子たちの足を洗い始めました。そのように十二の弟子たちの足を全部洗ってくださったイエス様が弟子たちにこう言われました。

ヨハネ13章 14節と 15節です。

14 それで、主であり()であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、   あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。

15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範(もはん)(しめ)したのです。

[私があなたがたに仕えた通りに、あなたがたも仕える者になりなさい。なぜならそうすることが、正しいことであり、また当然なことであるからだ。]

これがイエス様が弟子たちに与えられた最後の教えであり、また最も重要な教えでした。 というのは、御国で一番大切な価値は、仕えることだということです。なぜならイエス様がこの地におられる間、そんな人生を生きられたからです。

今まで何回も申し上げましたが聖書に記されているすべての律法と命令を一言で要約すれば、それは、[愛せよ]という命令であります。愛がすべての律法と命令の核心であり、結論だということです。それは、例えていえば、これと同じです。

子どもを育ててみれば、小言(こごと)()えます。私も息子が三人だから朝から晩まで小言を言う間、一日が過ぎます。親は、いろんな戒めと訓戒(くんかい)を通して子どもたちに正しい道を教えます。

 

[友たちと仲良くしなさい]、[他の人の物を盗んではならない]、[うそをついてはいけない]などいろんな戒めと訓戒によって子どもを教えます。ところで子どもたちに教えるいろんな戒めを一言で言えば結論が何でしょうか。親が子どもに願っているのが何かということです。いろんな小言を言いましたが、結論は、一つです。

[正しくて良い人になれ。]

友たちと仲良くすることも、盗まないことも、うそをつかないことも、結局正しく良い人になるために守るべき規則なんです。親が本当に願っているのは、子どもが正しい人になる ことであり、そうなるためにいろんな戒めと訓戒を通して教えることです。

それと同じく、神様が聖書を通して、私たちに数多くの律法と戒めをくださいましたが、 神様が私たちに願っておられるのは、[私たちが神様を愛し、隣人を愛することだ]という ことです。そういうわけで、私たちが神様と隣人を愛すれば、私たちは結局すべての律法と戒めを全部守ることになるのです。だから愛が律法の核心であり、結論だということです。

ところで私たちがその愛を実践する具体的な方法がまさに、仕えることだということです。だからイエス様は私たちに他の人に仕えることを命じられ、またどのように仕えるべきかを直接見せてくださったのです。

私たちがイエス様が教えてくださった通りに人に仕えると、私たちは隣人を愛せよという 律法を守ることができます。そしてそうすることによって私たちは御国の価値観と秩序とに従って生きることができるのです。

ところで私たちが絶対に忘れてはいけないことがあります。それは、仕えることにおいて 重要なことは、行動ではなく、心の位置だということです。皆さん、弟子たちの足を洗う イエス様の姿が想像してみたことがありますか。イエス様の上着は、ワンピースでした。 聖書は弟子たちの足を洗うためにイエス様が上着を脱いだと証言します。多分イエス様は肩脱(かたぬ)ぎして、手ぬぐいとともに腰にまとわれたはずですが、とにかくその姿は、弟子たちが願っていた偉い人の姿ではありませんでした。

それならイエス様の姿勢はどうだったでしょうか。腰をしゃんと伸ばして他の人の足を洗うことができるでしょうか。そうではありません。腰をかがめて、ひざまづかなければ、他の人の足を洗うことができません。

 

弟子たちの足を洗ってくださったイエス様の姿は、まさにこの絵のようでした。

その日、弟子たちの足を洗ってくださるイエス様の姿は、神様の姿でもなく偉い人の姿でもありませんでした。尊敬される先生の姿でも、友たちの姿でもありませんでした。その日、イエス様の姿は、誰が見てもしもべの姿でした。イエス様は、弟子たちのしもべの位置まで自分を低くされて、一人一人の足を洗ってくださったということです。

弟子たちの足を洗ってくださるイエス様の姿が、私たちに何を話しているのでしょうか。

[仕えることは、しもべの位置まで自分を低くすることだ。] ということです。すなわち 他の人を助ける行動が仕えることではないということです。

他の人に仕えることにおいて私たちが注意すべきことがありますが、それは、[(なさ)けを施すこと][仕えること]とは、全然違うことだということです。他の人を助けたり情けを施すことは、わざわざ自分を低くしなくてもできます。むしろ多くの場合、私たち人間は、他の人を助けたり情けを施すことを通して、自分がその人より優れていると思う時が少なくありません。

しかしイエス様が教えてくださった仕えることは、相手より優越(ゆうえつ)な立場でできることでは ありません。イエス様がひざまづいて弟子たちの足を洗ってくださったように、他人の前で私たちの心がしもべの位置まで低くなる時まことに人に仕えることができるということです。

結局イエス様が教えてくださった人に仕えるという言葉の本質は、助けたり施したりする 行いにあるのではなく、私たちの心が[しもべの位置まで、低くなること]にあるという ことです。簡単に言えば、仕えることは、他の人のしもべになることを意味するということです。マタイ 20章28節で、イエス様が言われました。

28 人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、  多くの人のための、(あがな)いの代価(だいか)として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。

イエス様は私たちに仕えるために、この地に来られたと言われました。イエス様が私たちにどういうふうに仕えられたのかについて、使徒パウロは、こう証言しています。

ピリピ 2章 6節から 8節までです。

6 キリストは神の御姿(みすがた)である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、

7 ご自分を()にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質(せいしつ)をもって現れ、

8 自分を(いや)しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。

イエス様は神様であられます。しかしイエス様は、神様として私たちに仕えられたのでは ありません。イエス様は私たちに仕えるために、神様としての栄光と栄光の御座とを自ら 捨てられました。そして創造主であられるイエス様が、被造物に過ぎない私たちと同じ姿を取ってこの地に来られました。そんなにまでご自分を低くしたイエス様は、さらに私たちの前でもご自分を低くされ、甚だしくは、しもべの位置で弟子たちの足を洗ってくださったということです。

イエス様は、ご自分の人生を通して、御国の秩序について見せてくださったことです。最も尊い存在が仕える者になる国、そして権力によって支配することではなく、愛によって  治められる国がまさに神様の御国だということを、仕える人生を通して見せてくださったということです。

弟子たちは、イエス様の右と左の席に座るために争い続けました。しかしイエス様の右と 左に誰が座るようになるかは、今もまだ決まっていません。すなわち私たちにも機会があるということです。それなら、私たちはどうすれば、イエス様の右と左に座ることができるでしょうか。どうすれば、私たちは神様の御国で偉い者となり、治める者になることができるでしょうか。

マルコ 10章 43節と 44節で、イエス様が言われました。

43 しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で(えら)くなりたいと 思う者は、みなに仕える者になりなさい。

44 あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。

神様の御国で偉い者になる条件は、偉い人になったり高い地位を占めることではありません。実力と能力をつけることでもありません。むそり御国では、他の人のしもべになって仕える者が偉い者として認められるとイエス様が言われました。すなわちイエス様の右と左の席に座れる人は、イエス様の心と性質に一番似ている人になるはずだということです。

今日、私たちは、どんな価値観を持って生きていますか。そして私たちは、どんな秩序に 従って生きていますか。多くの人が神様の働きのために実力をつけるべきだと言います。 また神様の栄光のために自分は成功しなければならないと言います。しかし実力と能力は、あえて私たちが持っていなくても大丈夫です。なぜならそんなものは、全能なる神様に  いくらでもあるからです。

私たちがこの世で偉い人になったり地位の高い人になる必要もありません。なぜなら我らの主人は、いと高き神であられる、イエス・キリストであるからです。

神様の御国に必要な人、イエス様が捜しておられる人は、御国の価値観を持ってイエス様の御言葉の通りに生きる人であります。神様の御国で偉い者はイエス様に似ている者だという事実を私たちは忘れてはいけません。

新しく始まるこの一週間、仕える生活を通して、イエス様に似ていく私たちになることを 心から祈ります。私たちの最高の価値は、イエス・キリストにあるという事実を覚えて、 いつもイエス様の御言葉に従う私たちになることを主の御名によって祝福いたします。

 

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2021/02/14 主日メッセージ   nozomich

イエス様のプロポーズ

2021年2月7日 ・ のぞみ教会・主日礼拝 

申告告白

聖歌 476 / 493

祈り 木村喜憲牧師

聖歌 498 / 516

聖書 ルカ 22:14-20

説教 <イエス様のプロポーズ>  木村喜憲牧師

聖歌 521 / 539

献金 <献金の祈り>  木村喜憲牧師

聖歌 383 / 376

祝福の祈り  木村喜憲牧師

 

お知らせ。

♣新型コロナウィルス感染拡大防止にかかる緊急宣言延長に伴いまして、非対面礼拝を3月7日まで延長します。

イエス様のプロポーズ

 

本文 : ルカ 22 : 14 - 20

14 さて時間になって、イエスは食卓に着かれ、使徒たちもイエスといっしょに席に着いた。

15 イエスは言われた。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか。

16 あなたがたに言いますが、過越が神の国において成就するまでは、わたしはもはや  二度と過越の食事をすることはありません。」

17 そしてイエスは、杯を取り、感謝をささげて後、言われた。「これを取って、互いに 分けて飲みなさい。

18 あなたがたに言いますが、今から、神の国が来る時までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」

19 それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを 行いなさい。」

20 食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される わたしの血による新しい契約です。

今日の本文でイエス様は、十字架を負うべき時になったことを悟りました。本文の御言葉は、福音書に記録されているイエス様と弟子たちとの物語の中で、最も厳粛(げんしゅく)な場面でしたが、本文の御言葉を一言で言えば、イエス様のプロポーズと言うことができます。

イエス様は30歳になった時から十字架で死なれるまでの3年半の間、個人的な人生ではなく、キリストとしての公的な人生を生きられした。その3年半の時間をイエス様の公生涯(こうしょうがい)と 言います。

そのように3年半の公生涯が終わって後、イエス様は十字架で死なれて、三日目に復活されました。そして復活された後には、私たちのために場所を備えに天に昇られました。そしてイエス様は、私たちを花嫁として迎えるために再び来られるはずです。

福音書に記されているイエス様のすべての働きと約束は、私たちを花嫁として迎えるための結婚式の過程だと言うことができます。今日は、過ぎた時間に続けてガリラヤの結婚風習を通して、イエス様がなされたことと私たちに与えられた約束の意味について考えてみたいと思います。

ガリラヤに住んでいるある男が一人の女を見て恋に落ちました。そして彼女との結婚しようと決心した彼は、自分の父に結婚の計画を話して、助けを求めます。すると父は、息子の 婚礼のためにお金を出してくれますが、男はそのお金を持って女の家に行きます。そして 女の父に、[娘さんと結婚させてください。]と言います。

もし彼に自分の娘を与えてもいいと思ったら、女の父は、その男が宴会を開けるように許します。すると親戚たちと町の人々を招いて、一週間、結婚のための宴会が開かれます。男は父にもらったお金で、美味しい料理を準備して、ぶどう酒も十分に準備します。この婚礼で一番重要なものは、ぶどう酒でしたが、その理由はガリラヤの婚礼はぶどう酒を飲むことによって始まり、ぶどう酒を飲むことによって終わるからです。

すべての準備ができたら最初に花婿が準備したぶどう酒をみんなで一緒に飲むことによって婚礼が始まります。そしてその時から結婚の承諾(しょうだく)をもらうための宴会が七日間続きますが、七日間宴会をすることには目的がありました。それは男が女に自分との結婚生活を前もって味わわせるためでした。自分との結婚生活は、この宴会のように楽しくて幸せであるはずだということを女に味わわせるのがまさにこの宴会の目的だったということです。また自分がどんなに良い人なのか、そして彼女をどれほど愛しているかを表すことが宴会の目的でした。

イエス様が人となってこの地に来られた理由は、私たちを花嫁として迎えるためでした。 イエス様は、父なる神様のみこころに従うために、せめて来られたことでもなく、人類に 対する自己犠牲的(じこぎせいてき)な決断として来られたことでもありません。イエス様がこの地に来られた理由は、私たちを愛されたからです。

私たちに対する父なる神様の愛が、子どもに対する親の愛であれば、イエス様の愛は、恋人としての愛だと言うことができます。イエス様は、私たちを花嫁として迎えるために、神様としての栄光を捨ててこの地に来られました。そして命を捨てるまで私たちを愛されました。これが 私たちに対するイエス様の愛でした。

 

 

私たちに対する愛のゆえにこの地に来られたイエス様も、私たちを花嫁として迎えるための婚礼を始められましたが、その婚礼がまさにイエス様がキリストとして働かれた、3年半の公生涯でした。言い換えれば、福音書に記されているイエス様に関するすべての御言葉、 そしてすべての出来事は、私たちを花嫁として迎えるための婚礼の過程だったということ です。

ヨハネ 2章 1節と 2節です。

1 それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた。

2 イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれた。

先ほど申し上げましたが、ガリラヤの婚礼は、花婿が準備したぶどう酒をみんなで一緒に 飲むことによって始まりました。そしてイエス様と私たちの婚礼は、ヨハネの福音書2章に書いてある、ガリラヤのカナの婚礼で始まりました。

ある日、イエス様と弟子たちがある婚礼に招かれましたが、婚礼の途中問題が起こりました。なぜなら婚礼がまだ終わらなかったのに、ぶどう酒がなくなったからです。先ほど申し上げましたが、ガリラヤの婚礼でぶどう酒は、一番重要なものでした。ぶどう酒がなくなったということは、婚礼を始めたけど、終えることができない状況になったことを意味します。 するとイエス様の母、マリヤがイエス様に助けを求めて、イエス様は水をぶどう酒に変える奇跡を起こされます。

ヨハネ 2章 7節から 9節までです。

7 イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを(ふち)まで  いっぱいにした。

8 イエスは彼らに言われた。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役(せわやく)のところに  持って行きなさい。」彼らは持って行った。

9 宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、 知らなかったので、しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた

イエス様はその家のしもべたちに、水がめの水をくんで、人々に持っていくことを命じられました。そしてしもべたちがイエス様の御言葉に従って、水をくんで人々に持って行ったら、その瞬間、水がぶどう酒に変える奇跡が起こりました。そのようにイエス様が造られた  ぶどう酒によってその婚礼は、無事に終わることができました。これがまさにイエス様が 起こされた最初の奇跡でした。

ところで福音書に記されているこの出来事で重要なことは、水がぶどう酒になるすばらしい奇跡が起こったということではありません。この出来事は、私たちにとってとても重要な 意味がある出来事でした。

婚礼でぶどう酒を用意するのは、花婿のすべきことでした。ところでイエス様がその場で 水をぶどう酒に変えて、またそのぶどう酒をみんなで一緒に飲んだということです。それが意味することが何でしょうか。それは花婿であられるイエス様が私たちを花嫁として迎えるために婚礼を始められたということを意味することでした。

先ほど婚礼が始まったら、七日間開かれる宴会の目的について申し上げました。男が女に 自分との結婚生活がどれほど楽しく幸せであるかを味わわせることが宴会の目的でした。 また自分がどれほどいい人であり、どれほど彼女を愛しているかを表すことが目的でした。

カナの婚礼でぶどう酒を造ることによって婚礼を始められたイエス様も、その時から宴会を本格的に開かれました。

マタイ 9章 35節です。

35 それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやされた。

ルカ 7章 22節も読みます。

22 そして、答えてこう言われた。「あなたがたは行って、自分たちの見たり聞いたりしたことをヨハネに報告しなさい。目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに(おか)された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。

イエス様は公生涯の3年半の間、多くのことを行われました。人々に福音を宣べ伝えました。また人々に神様の御言葉を教えてくださいました。そして悪霊につかれた多くの人たちを 解放させ、多くの人の病気を直してくださいました。イエス様がそうされた目的が何だったでしょうか。それはイエス様とともに生きる人生がどれほど楽しくて幸せな人生になるかを私たちに味わわせるためでした。

またイエス様がどれほどすばらしくて偉大な方なのか、そしてそんなイエス様が私たちを どれほど愛しておられるかを表されたのが、まさに3年半の間イエス様が行われた公生涯の目的だったということです。

イエス様は多くの病人たちを癒されることによってイエス様と一緒なら、病と苦しみの人生から逃れられるということを見せてくださいました。大麦のパン五つと魚二匹で五千名を 食べさせたベツサイだの奇跡を通しては、イエス様とともに生きる人生がどれほど豊かで、満足な人生であるかを経験させてくださいました。また悪霊につかれた人たちには自由と 平安をくださって、死んだ人を生き返らせることによって復活と永遠の命に対する希望を 与えてくださいました。

多くの人たちが、イエス様が授けてくださったこの宴会を通して天国の喜びを味わうように なりまして、また天国に対する希望を抱くようになりました。そしてイエス様こそまことのキリストだという事実を悟るようになりました。このようにイエス様が私たちのために  開かれた宴会は、3年半の間続きました。

再びガリラヤの婚礼に戻ります。七日間の宴会が終わると最後にその婚礼で一番重要な瞬間だけが残りますが、それは花婿のプロポーズでした。みんな息をひそめて見守っている中で男が杯にぶどう酒を注いでそれを女に渡します。もし女がそのぶどう酒を飲んだら、それはその男のプロポーズを受け入れるという意味であって、それを飲まないとすれば、それは 男のプロポーズを断るという意味でした。男のプロポーズを受け入れて彼の花嫁になるか、さもないとそれを断るかは、ただ女の選択にかかっていました。

もし女が男のプロポーズを受け入れて、そのぶどう酒を飲んだら、男はそこにいるみんなの前で二人が夫婦になったことを宣言します。その時から二人は、法的に夫婦となるのです。そして花婿は花嫁にこう約束しました。

[わたしの父の家で、あなたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で 造った物を飲むことはありません。]

こんな約束をする理由は、花婿が花嫁と一緒に住む家を備えるために、しばらくの間花嫁を離れなければならないからです。

今日の本文でイエス様は、弟子たちを離れるべき時になったことを悟られました。すると イエス様は、弟子たちと聖餐式を行われました。イエス様とともに生活した3年半の間、 弟子たちはイエス様がどんな方であるか、何のために来られた方であるかを知るようになりました。そしてイエス様がまことのキリストであることを悟るようになりました。

そのようにイエス様とともに生活した3年半の時間が過ぎて、もはや弟子たちがイエス様の愛に答えるべき時間が訪れました。ガリラヤのカナで、水をぶどう酒に変えることによって始まったイエス様の婚礼も、もう一番重要な最高の瞬間だけを残していました。イエス様は、弟子たちとの最後の食事の場で、弟子たちに契約のぶどう酒を渡されました。

マタイ 26章 27節と 28節です。

27 また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この 杯から飲みなさい。

28 これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。

花婿が花嫁にプロポーズのぶどう酒を渡すことのようにイエス様は弟子たちにプロポーズのぶどう酒を渡されたのです。そして弟子たちがそれを酒を飲むとイエス様が言われました。

29節です。

29 ただ、言っておきます。わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。

ガリラヤ出身だった弟子たちは、イエス様が授けられたその聖餐式が何の意味であるかを よく知っていました。そしてこれから自分たちが何をすべきか、またどんな人生を生きる べきかもよく知っていました。

過ぎた時間に申し上げた通りに、婚礼を通して夫婦になると花婿と花嫁は1年以上離れて 別々に暮らすようになります。この時間の間、花婿は父の家のそばに花嫁と一緒に住む家を備えます。そして花嫁は花婿が自分を迎えに来ることを待ちながら礼服を造ります。そして礼服ができあがったら、花嫁は寝る時にもその礼服を着て眠ったそうです。なぜなら花婿が いつ来るか分からないからです。そのように花嫁はいつも花婿を迎える準備をしていたと いうことです。

ヨハネ 14章 2節と 3節です。

2 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに  言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。

3 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしの  もとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。

イエス様は、私たちと一緒に住む場所を備えに、天に昇られました。そして場所を備えて、父なる神様が命じられたら、また来て、私たちを父なる神様の家に連れて行かれるはずです。そして花婿のイエス様と花嫁の私たちとの結婚披露宴(ひろうえん)が天国で開かれるようになるのです。

その時まで、イエス様の花嫁である私たちには、すべきことがあります。

黙示録 19章 7節と 8節です。

7 私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻(こんいん)の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。

8 花嫁は、光り輝く、きよい麻布(あさぬの)の衣を着ることを許される。その麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。

私たちのすべきことは、いつも礼服を着て花婿のイエス様を待つことです。聖書は私たちが着るべき礼服が麻布(あさぬの)の衣だと言われます。ここで麻布の衣というのは、礼服の生地(きじ)をいうのではなく、霊的な意味であります。聖書は麻布とは、聖徒たちの正しい行いだと言われます。すなわち私たちは正しい行いを通して花婿のイエス様にふさわしい花嫁として準備していくべきだということです。また正しい行いによって信仰を守りながら、イエス様が来られる ことを待たなければならないということです。それがまさにイエス様の花嫁である私たちがすべきことであります。

イエス様の花嫁になった私たちは、イエス様に会う以前の生活から離れなければなりません。結婚する前には、いろんな人と付き合いながら、思った通りに生きたとしても、結婚した 後には、イエス様の花嫁らしく生きなければなりません。なぜなら結婚した瞬間から夫婦は完全に一つの体となるからです。

創世記 2章 24節で、神様は、アダムとエバに言われました。

24 それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体(いったい)となるのである。

結婚は二人が法的に家族となるというほどの意味ではなく、完全に一体となる霊的な儀式だということです。それで結婚した後には、もはや自分の人生から配偶者(はいぐうしゃ)を分離して考える ことができません。すなわち花婿の栄光が花嫁の栄光であり、花婿のすべてが花嫁のものだということです。

だから男であれ女であれ、一番愚かな行いは他人の前で自分の配偶者の悪口をいうことです。また信者として最も愚かな行いは、他人の前で教会に対する不平をすることであります。 なぜならそれは、結局天に向かって(つば)()くことと同じことだし、またキリストにあって 夫婦とは何なのか、そして教会とは何なのか、その意味を全然理解してないという証拠だ  です。

イエス様と夫婦として一つになった私たちは[キリスト者またはクリスチャン]と呼ばれます。それは、もはや私たちの人生からイエス様を分離することも、またイエス様を除いて考えることもできないということを意味します。イエス様のすべてが私たちのものであり、また イエス様の栄光が私たちの栄光になるのです。

また夫婦は同じビジョンと目標を共有する関係であります。だから人類を救われるキリストとしてイエス様のビジョンと目標は私たちのビジョンと目標になりました。だから私たちはこの地で福音を宣べ伝える使命を持って生きるのです。これがまさにイエス様の花嫁になるという意味であり、またイエス様を信じる信者になったという言葉の意味であります。

説教者としていつも私が悩んでいるのは、この御言葉が今現在を生きている私たちにどんな意味があるかということです。率直に言えば、忙しくて大変な現実を生きて行きるように なれば、また様々な問題を解決しながら心の余裕がなくなれば、イエス様の再臨が遠く感じられるのが事実です。いま早く解決すべき現実の問題が目の前にあるのに、いつなのかも 知らないイエス様の再臨が肌で感じられるかということです。私も同じです。イエス様の 再臨よりは、解決すべき現実の問題がもっと大きく感じられ、来週の説教を準備することがもっと忙しく感じられます。

ところがこの説教を準備しながら神様が私の心の中で、こう言われました。それは、  [いかなる場合にも、花婿が来ることが一番重要だと思うものがまさに花嫁だ。] という ことでした。すなわちいかなる状況の中にあるとしても、花嫁には、花嫁がくることが、 一番重要な問題であり、また最も大きな希望だということです。そしてそういう存在が  まさに花嫁だということです。

ガリラヤで花婿を待っている花嫁たちにも現実の問題はあったでしょう。部屋の中に座って花婿だけ待っていたのではなかったはずです。いつものように家事もしなければならないし、畑仕事(はたしごと)もしなければならなかったはずです。

もしかしたら、今この時代を生きている私たちよりも、もっと険しい現実の中で、肉体的にもっと大変で忙しい生活をしながら花婿を待っていたかもしれません。

しかしそれにもガリラヤの花嫁たちには、花婿が来ることが一番重要なことだったという ことです。来る時になれば、来るだろうと思いながら待っていたのではありません。一日も早く花婿が来ることだけを待ち焦がれたので、寝る時にも礼服を()がなかったのです。

重要なことは、現実や状況ではなく花婿を慕い求める花嫁の心なんでしょう。現実の問題が一番重要だと思う花嫁には、花婿が来る日までも、現実の問題を解決することが一番重要であるはずです。しかし花婿が来ることを慕い求める花嫁は、いかなる場合にも花婿が来る ことが一番重要な問題であり、また切なる願いであるはずだということです。そして花婿に対するその愛が花嫁をして目を覚まして花婿を待ち望ませたということです。

説教をまとめます。

私たちも信仰によって、イエス様のプロポーズを受け入れた人たちです。私たちは福音を 聞いてイエス様を自分の主人として受け入れ、洗礼を受けました。またそれを記念しながら聖餐式を行います。洗礼と聖餐式は、教会のメンバーになる儀式ではありません。それは 私たちがイエス様の花嫁になったという意味であり、またイエス様と一つになった存在だという意味であります。そしてそれは、私たちにイエス様の花嫁として生きるべき義務があるという意味でもあります。

私たちにとって一番重要な問題、そして最も切なる願いは、イエス様が来られることですか。私たちは、その日を期待しながら、礼服を着て花婿を待っている花嫁ですか。

正しい行いを通して礼服を準備する私たちになることを祈ります。そしていかなる場合にもイエス様が来られることが一番重要なことになる私たちになることを祈ります。

イエス様の花嫁としてふさわしい私たちになって、みすぼらしくない愛と信仰とをもって 花婿のイエス様を迎えるようになることを、イエス・キリストの御名によって祝福致します。

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2021/02/07 主日メッセージ   nozomich