恵みの雨

2021/01

彼の日に対する準備

2021年1月31日 ・ のぞみ教会・主日礼拝 

申告告白

聖歌 232 / 201

祈り 木村喜憲牧師

聖歌 472 / 489

聖書 ルカ 21:1-4

説教 <彼の日に対する準備>  木村喜憲牧師

聖歌 000 / 000

献金 <献金の祈り>  木村喜憲牧師

聖歌 383 / 376

祝福の祈り  木村喜憲牧師

彼の日に対する準備

 

本文 : ルカ 21 : 5 - 19

5 宮がすばらしい石や奉納物(ほうのうぶつ)(かざ)ってあると話していた人々があった。するとイエスは こう言われた。

6 あなたがたの見ているこれらの物について言えば、石がくずされずに積まれたまま残ることのない日がやって来ます。」

7 彼らは、イエスに質問して言った。「先生。それでは、これらのことは、いつ起こるのでしょう。これらのことが起こるときは、どんな前兆(ぜんちょう)があるのでしょう。」

8 イエスは言われた。「(まど)わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が 大ぜい現れ、『私がそれだ』とか『時は近づいた』とか言います。そんな人々のあとについて行ってはなりません。

9 戦争や暴動(ぼうどう)のことを聞いても、こわがってはいけません。それは、初めに必ず起こる ことです。だが、終わりはすぐには来ません。」

10 それから、イエスは彼らに言われた。「民族は民族に、国は国に敵対(てきたい)して立ち上がり、

11 大地震があり、方々(ほうぼう)疫病(えきびょう)やききんが起こり、恐ろしいことや天からのすさまじい 前兆が現れます。

12 しかし、これらのすべてのことの前に、人々はあなたがたを捕らえて迫害し、会堂や 牢に引き渡し、わたしの名のために、あなたがたを王たちや総督(そうとく)たちの前に引き出す でしょう。

13 それはあなたがたのあかしをする機会となります。

14 それで、どう弁明(べんめい)するかは、あらかじめ考えないことに、心を定めておきなさい。

15 どんな反対者(はんたいしゃ)も、反論(はんろん)もできず、反証(はんしょう)もできないようなことばと知恵を、わたしが あなたがたに与えます。

16 しかしあなたがたは両親、兄弟、親族、友人たちにまで裏切られます。中には殺される者もあり、

17 わたしの名のために、みなの者に憎まれます。

18 しかし、あなたがたの髪の毛一筋(ひとすじ)も失われることはありません。

19 あなたがたは、忍耐によって、自分のいのちを勝ち取ることができます。

イエス様は再び来られると約束して天に昇られました。そしてイエス様が再び来られる日は、この世の終わりの日になるはずです。コロナの状況が悪化されて、それが生活にも多くの 変化をもたらしながら、最近、よく聞くようになる話がありますが、それは、終わりの日が本当に近づいたみたいだという話です。もちろんコロナの以前にも、私たちは、この世の 終わりがいつなのか、そしてイエス様はいつ来られるかという質問を持っていましたが、 今世界中に起こっていることを見ながら、さらにそう思うようになったということです。

いったい世の終わりの日は、いつでしょうか。そしてイエス様はいつ来られるでしょうか。イエス様を信じる人なら、誰もがこんな質問を持っているはずです。今日の本文を読んで みれば、終わりの日のことについて聞いた弟子たちも、イエス様に尋ねました。

本文 7節です。

7 彼らは、イエスに質問して言った。「先生。それでは、これらのことは、いつ起こるのでしょう。これらのことが起こるときは、どんな前兆(ぜんちょう)があるのでしょう。」

弟子たちの関心は、世の終わりの日がいつなのかということでした。しかしイエス様は、 終わりの日がいつなのかについては言われずに、ただその日を待ちながら注意すべきことについて言われました。どうしてイエス様は、終わりの日がいつなのかについてはっきりと 話してくださらなかったのでしょうか。その理由は、私たちに重要なことは、終わりの日がいつなのか、イエス様の再臨がいつなのか、その時期を知ることではなく、どのように準備してかの日を迎えるかということだからです。

本文 5節です。

5 宮がすばらしい石や奉納物(ほうのうぶつ)(かざ)ってあると話していた人々があった。するとイエスは こう言われた。

ある人たちが、宮を指して、その大きさと美しさに対してイエス様に話しました。過ぎた 時間にも申し上げましたが、宮の核心は、神様です。神様が臨在されるところだから、また神様と人間との交わりが行われるところだから宮は意味があったということです。しかし 本文で人々が自慢して褒めていたのは、神様でも、神様の恵みでもなく、宮の大きさと宮の美しい飾りでした。しかし宮がどんなに大きくて美しいとしても、それは彼らの信仰とは 全然関係がなかったし、また助けにもなりませんでした。

 

ユダヤ人たちの問題は、信仰生活の外的な部分に対して自慢しながら、いざ自分の信仰の 問題に対しては、関心を置かなかったということです。一言で言えば、信仰の外的な部分、また形式的な部分だけを見ながら、自分の霊的な問題については目をそらしていたという ことです。ところが、このような姿は、ユダヤ人だけでなく、多くの人に現れます。

ヨハネの福音書を読んでみれば、イエス様がサマリヤのある村に行かれました。そしてある井戸の前で一人の女に出会いました。彼女は複雑な過去を持っていて、傷だらけの人生を 生きていました。それで彼女はできるだけ町の人々に会わないために、いつも誰もいない 昼間の時間に井戸に来て水をくんでいました。

イエス様は彼女の過去もそして心の傷と信仰の問題もすでに知っておられました。そして イエス様は彼女の根本的な問題、すなわち霊的問題と心の問題を解決しようとされました。しかし救いと永遠の命について話されるイエス様に、彼女がこう言いました。

ヨハネ 4章 12節です。

12 あなたは、私たちの父ヤコブよりも(えら)いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸(いど)を 与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」

彼女はイエス様に何を言いたがったのでしょうか。簡単に言えば私の先祖が信仰の人ヤコブであり、この井戸は、そのヤコブに譲られた歴史ある井戸だということです。彼女は先祖の信仰と井戸の歴史を自慢しながら、解決されるべき自分の心の傷と信仰の問題は深く隠してしまったのです。信仰生活の外的な部分に意味を与えて、それを自慢しながら、いざ自分の不幸の原因になる、根本的な問題からは、逃げていたということです。

見たこともない先祖の信仰が、現在を生きている自分と何の関係があるでしょうか。井戸に特別な意味を与えるからといって、罪の問題が解決されるでしょうか。現実で何の恵みも 祝福も味わうことができず、毎日いたしかたなく生きているのに、先祖や井戸が、いったい何の意味があるのかということです。

私たち信者にとって一番重要なことは、現在を生きている自分の信仰なんです。信仰生活の経歴とか教会での職分は、私たちの信仰を証明することができません。大きくてパワフルな教会に通っていることと自分の信仰の深さとは全然関係がありません。現在を生きている 自分が、生活の中で福音の恵みを味わえてないとすれば、何の意味がないということです。

 

 

本文でユダヤ人たちは、自分の霊的な現実がどうであるか、そして自分を待っている未来が何かについては全然悟れず、ただ宮の大きさだけを自慢していました。そしてそんな彼らにイエス様が言われました。

本文 6節です。

6 あなたがたの見ているこれらの物について言えば、石がくずされずに積まれたまま残ることのない日がやって来ます。」

あなたがたが自慢していることは、全然重要なことではないという話でした。イエス様が 死なれて、約40年後にユダヤは、ローマによって滅ぼされました。そしてその時、彼らが そんなにまで自慢していた宮もローマ軍隊によって破壊されます。しかしユダヤ人たちは、そんな日が来ることを知らず、その日に対する準備もできないまま、自分の人生を暮らしていたということです。

イエス様は、ユダヤ人たちの自慢であり、彼らにとっては、救いの象徴でもあった宮が  破壊されると言われました。すなわちユダヤ人たちが大切にしていた信仰生活のシステムと象徴が消えてしまう時が来るということでした。その時が来たら、果たしてあたたがたが 自慢して、頼っていたその大きくて美しい宮が何の意味があるかという御言葉でした。

コロナは、私たちにいろんなことを考えさせます。皆さん、私たちが家でオンライン礼拝を捧げるようになることを誰が知っていましたか。教会に集まって礼拝することができなく なる日が来ることを誰が知っていたでしょうか。

信者たちにとって教会に集まって礼拝することは、信仰生活において最も重要なシステムであり、最も重要な意味であり、また信仰を守る方法でした。しかし教会が数千年間、守って自慢していたそれがコロナによって崩れてしまったのです。もちろん今の話は、オンライン礼拝が良くないという意味ではありません。ただ私たちには、世界中に起こっている現象を見ながら、時を見分ける知恵が必要だということを話しているのです。今世界中の教会に 起こっているこの現象は、決して小さな意味ではないということです。

コロナが本当にイエス様が言われた大患難(だいかんなん)時代の初めを意味することなのかは分かりません。コロナが本当にイエス様の再臨が近づいたという事実を意味することなのかも分かりません。しかしコロナが私たちに警告している明らかな事実があります。それは今私たちが経験しているこの状況は、終わりの時に起こることに対する予告であり、また警告だということです。

 

終わりの時に私たちは一緒に集まって礼拝することができないはずです。もはや声を上げて賛美することも、人々に福音を伝えることもできないはずです。信仰のゆえに信者が迫害を受け、隠れて礼拝しなければならない時がいつか来るということです。その時、私たちは 誰の助けも得ることができず、聖書一冊だけ持って、自分で自分の信仰を守らなければなりません。

それが私たちが迎えるようになる、終わりの時の姿だとすれば、私たちに必要なものは何でしょうか。私たちには、かの日がいつなのかを知ることが重要でしょうか、さもなければ、かの日を準備することが重要なんでしょうか。私たちに必要なことは、かの日の時期を知ることではなく、目を覚まして、時を見分けながら、かの日を準備することだということです。

ユダヤ人たちは、宮が破壊される時を準備しなければなかったし、私たちは自分で自分の 信仰を守らなければならないその時を準備しなければならないということです。私はそれがまさにコロナが私たちに与えた最も大きい教えの一つではないかと思います。

私たちは誰も終わりの日がいつなのか、そしてイエス様がいつ来られるかが分かりません。そういうわけで私たちは、世の人々と同じく生きてはいけません。かの日がもうすぐ来るという事実を覚えながら、目を覚ましていなければなりません。そうしなければ、私たちは 思いがけない時に、準備もできないまま、突然かの日を迎えるようになるからです。

マタイ 24章 38節から 39節で イエス様が言われました。

38 洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、     めとったり、とついだりしていました。

39 そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。

いつかも申し上げましたが、イエス様は神様の裁きが臨む時に、世の姿は、いつも同じだと言われました。ノアの時代に世界が洪水によって滅ぼされる時にも、またソドムとゴモラが火と硫黄とによって滅ぼされる時にも、そして終わりの日、世界が火によって滅ぼされる 時にも、その日を迎える人々の姿は、同じだと言われたのです。それがどんな姿でしょうか。

[飲んだり、食べたり、めとったり、とついだり]

ところで、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりすることが悪いことでしょうか。終わりの日が近づいたから私たちは飲むことも食べることもやめてお祈りばかりしなければならないのでしょうか。

またイエス様が来られるまで、結婚もせずに教会で生活しながら、ずっとイエス様だけを 待たなければならないのでしょうか。そうではありません。飲んだり食べたり、結婚したりすることは悪いことではありません。ただ問題は彼らが神様の裁きが臨んで死ぬ瞬間までも、自分に何が起こっているのかが悟れなかったということが問題でした。

どうしてそんなことができるでしょうか。どうして神様の裁きが臨んで死ぬ瞬間までも  それを悟ることができないのかということです。

今日の本文に続けて言われた、ルカ21章34節(新共同訳)の御言葉にその理由があります。

34放縦(ほうじゅう)深酒(ふかざけ)や生活の(わずら)いで、心が(にぶ)くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意(ふい)(わな)のようにあなたがたを(おそ)うことになる。

自分の情欲を満足させるために生きたり、自分の生活にだけ集中すれば、世界中に行われている霊的なことについては、心が(にぶ)くなってしまうということです。それで神様の裁きが 臨むことも、イエス様が来られることも悟れず、何の準備もできないまま、突然かの日を 迎えるようになるという御言葉であります。

それならこれから私たちは、主の御言葉を通して現在自分の人生を顧みなければなりません。今まで自分に与えられた人生を熱心に生きて来た私たちは、果たして終わりの時に対しては、どれほど準備ができていますか。今すぐ大患難時代が始まるとしても私たちは自分一人で、礼拝して、信仰を守りながら、イエス様が来られる日まで、忍耐することができるかということです。私たちが頼っていた信仰生活のシステムが崩れて、教会が閉鎖(へいさ)されても、絶対に信仰を捨てないほど、準備ができているかということです。

メソジスト教会の創始者である、ジョン・ウェスレー先生に、ある人がこんな質問をした そうです。

[もし、明日主が来られるとすれば、あなたは何をしますか。]

するとウェスレー先生は、自分の手帳を出して、翌日のスケジュールを確認した後、こう 答えたそうです。

[明日も、今日と同じことをするつもりです。]

明日、世の終わりの日が来るとしても、自分は明日も今日のように生きるということです。

 

それが何を意味しますか。彼はいつもイエス様の再臨を準備しながら生きているという意味でした。毎日私たちの生活が、イエス様の再臨を準備する時間になることを心から祈ります。それで突然かの日を迎えることではなく、かの日が訪れることを誰よりも先に見分けて、 多くの人にかの日を準備させるのぞみ家族になることを主の御名によって祝福いたします。

イエス様を信じる信者にとって、目を覚まして主の再臨を待つというのはどういう意味なんでしょうか。台風が来る前に、窓を閉じたり、食糧を準備するみたいに、災難に対比するというような意味なんでしょうか。

本文でイエス様の弟子たちは、終わりの時に対するイエス様の話を聞いて恐れていました。終わりの時に関する御言葉を読んだら、誰も恐れを感じるようになります。なぜなら迫害と艱難が予告されているからです。

終わりの時に、大患難と迫害があることを言われたイエス様は、その時がいつかについては、結局教えてくださいませんでした。イエス様は、私たちが終わりの日まで恐れの中で生きることを願っておられるのでしょうか。

本文 9節と 13節です。

9 戦争や暴動(ぼうどう)のことを聞いても、こわがってはいけません。それは、初めに必ず起こる ことです。だが、終わりはすぐには来ません。」

13 それはあなたがたのあかしをする機会となります。

[戦争や暴動(ぼうどう)のことを聞いても、こわがってはいけません。]

イエス様は、迫害があったり、恐ろしいことやすさまじい前兆が現れたら、それは終わりの日が近づいて来たという印であることを悟りなさいと言われました。

ところでイエス様がこんなことを私たちに教えてくださった理由が何でしょうか。それは [恐れるな]ということです。終わりの日が近づいたことが分かったら、信者たちはそれを 見ながら恐れないで、むしろ印としなさいということです。何の印をいうことでしょうか。

[ついにイエス様が私を救いに来られるんだ。]

[私たちの花婿であられるイエス様が、花嫁の私たちを迎えるために来られるんだ。]と いうことを悟って安心しなさいということです。

 

再臨を待っているのは、私たちだけではありません。イエス様も再臨を待っておられます。最近、ガリラヤの婚礼に現れている再臨の意味を(えが)いた映画を見ました。ガリラヤには、 特別な結婚文化がありましたが、男と女が婚約をすれば、男と女はしばらくの間、離れて別々に過ごします。男は、夫婦が一緒に住む家を建てるために父の家に行きます。そして 女は、結婚式の礼服(れいふく)を準備しながら、夫が帰って来ることを待ちますが、その期間が一年 以上続きます。

ところで花婿がいつ花嫁を迎えに行くかは、花婿の父以外には誰も知りません。甚だしくは花婿さえもその日がいつなのかを知りません。花婿が花嫁を連れて来るすべての準備が  終わっても父が命じるまでは、ただ待たなければなりません。それで花婿は、花嫁を迎えに行く日だけを待ち焦がれます。

花婿の父は、花嫁を連れて来る日を、当日の夜に突然息子に教えてくれたそうです。すると花婿は、夜中にラッパを吹きながら、花嫁を迎えに行きました。それがガリラヤの結婚風習でした。

ところでガリラヤの結婚風習は、イエス様の再臨を意味しています。イエス様の再臨は、 私たちの花婿であられるイエス様が、花嫁の私たちを、父なる神様の家に連れて行くことが目的であります。すなわち再臨は、イエス様と私たちとの結婚式の完成を意味する事件だということです。

イエス様は、私たちのために場所を備えに天に昇られました。そして時になると私たちを 迎えに来られるはずです。

マタイ 24章 36節で、イエス様は、イエス様が再臨についてこう言われました。

36 ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。

イエス様がいつ来られるかは、イエス様ご自身も知らなく、ただ父なる神様だけが知って おられるとイエス様が言われました。それなら再臨を待っておられるイエス様の心は、どうでしょうか。再臨を待っておられるイエス様の心は、まるで花嫁を迎えに行く日を待ち望む花婿の心と同であります。イエス様は、花嫁の私たちを迎えに来られる日だけを、今も待ち焦がれておられるということです。

 

イエス様は、早くこの世を裁いて滅ぼすために再臨されることではありません。邪悪で、 険しいこの世から、花嫁の私たちを救い出されて、父なる神様の家に連れて行かれるために再臨されることなんです。そしてその日を待ち焦がれておられるということです。私たちの花婿イエス様がそういう心で再臨を待っておられるとすれば、花嫁の私たちもそういう心と願いを持って花婿のイエス様を待っているのが当然ではありませんか。

花嫁にとって重要なことは、花婿がいつ来るか、その日を知ることではありませんでした。もし花婿を迎える準備ができていれば、そして花婿を本当に愛しているとすれば、花婿が いつ来ても全然問題にならないのです。

それと同じく、イエス様の花嫁として私たちがイエス様の再臨を迎える準備ができていれば、終わりの日に対する、そしてイエス様の再臨に対する私たちの心は、恐れではなく、喜びと感激、そして希望になるはずです。そういうわけでイエス様は、終わりの時が近づいて来たことを悟っても恐れずに、イエス様が来られることを喜びなさいと言われたのです。

しかし準備ができてない花嫁は、花婿が来る日を知っているとしても、それが喜びではなく、恐れになるはずです。だから私たちに重要なことは、かの日がいつなのかを知ることでは なく、その日を準備することだということです。

終わりの時には、恐ろしいことやすさまじい前兆が現れ、信者に対する迫害もあるはずです。しかしイエス様の花嫁である私たちに、心配する必要はありません。

イエス様が 本文 18節と 19節で こう言われました。

18 しかし、あなたがたの髪の毛一筋(ひとすじ)も失われることはありません。

19 あなたがたは、忍耐によって、自分のいのちを勝ち取ることができます。

イエス様は、私たちが終わりの時に、信仰を守って、喜びの中でイエス様を迎えることが できるように私たちを守り導いてくださるはずです。私たちのすべきことは、悪に負けずに最後まで信仰を守りながら私たちの主を待ち望むことであります。

コロナのゆえに私たちは、キリスト教の歴史上、類を見ない方法と形とによって礼拝して います。しかし私たちは、家で礼拝を捧げるとしても、また自分を見ている人がいなくても、心を尽くして礼拝を捧げなければならないし、より徹底的に礼拝しなければなりません。 なぜなら今この時間は、いつか私たちが迎えるようになる、この世の終わりの時に対する 練習でもあるからです。

 

イエス様が再臨される日、この世には、二つの姿が現れるはずです。そしてその姿がまさに私たちがイエス様の花嫁であるかどうかを証明するはずです。

ルカ 21章 26節と 27節です。

26 人々は、その住むすべての所を(おそ)おうとしていることを予想(よそう)して、恐ろしさのあまり 気を失います。天の万象(ばんしょう)()り動かされるからです。

27 そのとき、人々は、人の子が力と(かがや)かしい栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るの です。

皆さんもご存じの、[主が来られる日まで]という賛美がありますね。イエス様が来られると私たちは、その賛美が実際に行われることを見るようになるはずです。その時、信じない 者たちは、イエス様が来られることを見て、恐ろしさのあまり気を失うはずです。しかし イエス様の花嫁である私たちは、栄光の雲に乗って来られるイエス様を見ながら、人々の 前で喜び叫ぶでしょう。なぜなら私たちは、イエス様が来られた理由が、私たちを迎える ためであることを知っているからです。

説教をまとめます。

ジョン・ウェスレー先生が受けた質問を、私たちに投げかけてみたいと思います。

[もし、あした主が来られるとすれば、皆さんは、何をしますか。]

もし、明日主が来られるとしても、皆さんは、明日も今日のように生きることができますか。

私たちがほんとうにイエス様を愛して、待ち焦がれるイエス様の花嫁になることを祈ります。イエス様が私たちを迎えに来られた時、私たちのみすぼらしい愛を見て、失望されかったらいいです。

この一週間も聖霊様が私たちを守ってくださり、私たちがイエス様の花嫁として準備されるように導いてくださるはずです。私たちの心が鈍くならないように生活の煩いはイエス様に委ねて、信仰を守りながらかの日を準備する私と皆さんになることを、イエス・キリストの御名によって祝福いたします。

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2021/01/31 主日メッセージ   nozomich

レプタ銅貨二つ

レプタ銅貨二つ

本文 : ルカ 21 : 1 - 4

2021124日・のぞみ教会・主日礼拝 

申告告白

聖歌 503 521

祈り 木村喜憲牧師

聖歌 503 521

聖書 ルカ 21:1-4

説教 <レプタの銀貨二つ>  木村喜憲牧師

聖歌 322 309

献金 <献金の祈り>  木村喜憲牧師

聖歌 383 376

祝福の祈り  木村喜憲牧師

 

レプタ銅貨二つ

 

本文 : ルカ 21 : 1 - 4

1 さてイエスが、目を上げてご覧になると、金持ちたちが献金箱に献金を投げ入れていた。

2 また、ある貧しいやもめが、そこにレプタ銅貨二つを投げ入れているのをご覧になった。

3 それでイエスは言われた。「わたしは真実(しんじつ)をあなたがたに告げます。この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん投げ入れました。

4 みなは、あり余る中から献金を投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、持っていた生活費の全部を投げ入れたからです。

ある日、イエス様が宮の中で、人々が献金箱に献金を投げ入れることを見ておられました。宮の中には、婦人の庭という空間がありましたが、そこには13個の献金箱があったそうです。13個の献金箱には、それぞれその献金が使われる用途(ようと)が書いてありました。1番と2番の 献金箱は、神殿税を入れる献金箱であり、3番と4番は全勝のいけにえとして捧げる鳩の 料金を入れる献金箱でした。5番は祭壇の上で使われる焚き木を準備するための献金箱で あり、6番は(こう)(だん)で使われる香りの高い香を準備するための献金箱でした。またハンセン病者たちを助けるための献金箱と貧しい子どもたちを助けるための献金箱もありました。 簡単に言えば、宮にあった13個の献金箱は、大きく分けて宮の仕事と維持のための献金箱と貧しい人たちに施すための献金箱があったということです。

ところで人々が献金箱に献金を投げ入れることを見ておられたイエス様が、あるやもめが 投げ入れた献金を見て、感動されました。

本文 2節と 3節です。

2 また、ある貧しいやもめが、そこにレプタ銅貨二つを投げ入れているのをご覧になった。

3 それでイエスは言われた。「わたしは真実(しんじつ)をあなたがたに告げます。この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん投げ入れました。

 

1節を読んでみれば、イエス様は、金持ちたちが献金を投げ入れることを見ておられました。やはり生活に余裕がある人が、献金もたくさん捧げました。金持ちたちが献金箱に献金を 投げ入れる時には、多くの銀貨たちがうるさい音を出しながら転がり込みました。

ところであるやもめが来て、ひそかに献金を投げ入れました。そして彼女が献金を捧げる ことをご覧になったイエス様は、人々の前で彼女の信仰をほめられました。イエス様は  彼女がその場にいたどの人よりも たくさん投げ入れたと言われました。いったい彼女は どれほどたくさんの献金を捧げて、イエス様にほめられたのでしょうか。

本文2節には、彼女が捧げた献金が レプタ銅貨二つだったと書いてあります。それなら レプタの銅貨二つは、どれぐらい大きいお金だったでしょうか。すでに申し上げたことが ありますが、当時に一般労働者の一日給料は、1デナリであって、1デナリは、今の価値で一万円ぐらいの価値がありました。ところでレプタ銅貨二つは、1デナリの64分の1しか ならない小さいお金でした。今の価値で換算すれば、150円ぐらいのお金だったということです。彼女が献金箱に投げ入れた献金は、ほかの人たちが捧げた献金とは比べることさえ できないほど小さいお金でした。それなのになぜイエス様は、そのやもめが どの人よりもたくさんの献金を投げ入れたと言われたのでしょうか。

本文 4節で イエス様が その理由を話してくださいました。

4 みなは、あり余る中から献金を投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、持っていた生活費の全部を投げ入れたからです。」

金持ちたちは、あり余る中から献金を捧げたが、やもめは 乏しい中から自分が持っていた生活費の全部を投げ入れたから、どの人よりもたくさんの献金だったということです。

今日の本文の物語は、献金とは どのように捧げるべきかについて私たちに話しています。その日イエス様が、献金を捧げた人の中で、金持ちではなく、やもめの信仰をほめられたという事実は、私たちに何を話しているのでしょうか。それは神様が喜ばれるまことの献金になるためには、お金を捧げること以上の信仰と心の態度が必要だということです。

それならこれからは、私たちの献金が、神様に受け入れられる献金になるために、私たちが備えるべきことが何かについて一緒に考えてみたいと思います。 

 

 

 

やもめの献金がイエス様を喜ばせた理由は、大きく二つで考えることができますが、

一番目に、やもめの献金は、価値のある物を捧げた献金だったからです。

本文 4節です。

4 みなは、あり余る中から献金を投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、持っていた生活費の全部を投げ入れたからです。」

イエス様は金持ちたちの献金とやもめの献金とを比べながら言われましたが、イエス様が 比べられたのは、献金の金額ではなく、献金の価値でした。

金額で比べれば、やもめの献金は、金持ちたちの献金とは比べることができないほど小さなものでした。しかしその献金が持つ価値、すなわちその献金を神様に捧げた者たちにとってそのお金の価値は正反対でした。金持ちたちは、あり余る中から一部を捧げた物でしたが、やもめにとってそのレプタ銅貨二つは、自分が持っている全部でした。すなわち それは やもめが持っている一番良いものであり、彼女にとっては最も価値のあるものだったということです。それを知っておられたので、イエス様は、やもめの信仰をほめられたのです。

もちろんこの話は、金持ちたちが捧げた献金が価値のない物だったり、彼らの献金を神様が喜ばれなかったという意味ではありません。ただイエス様はやもめの献金に込められている信仰と価値を知っておられたので、褒められたということです。

いつかも申し上げたことがありますが、英語で礼拝を[Worship]と言いますが、[Worship] という言葉は、[価値]という意味の[worth]と [行い、または状態]を意味する [-ship]が 組み合わせられた言葉であります。すなわち礼拝とは、神様に価値のある物を捧げることだとも解釈することもできるし、また神様に最高の価値を捧げることだとも解釈することが できます。まとめれば、礼拝とは、私たちに価値のある物を神様に捧げることによって、 神様こそ、私たちにとって最高の価値であり、尊い方だということを告白することだということです。そういう意味で、自分の全部を神様に捧げた、このやもめの行動は、ただ単に、献金を捧げたことではなく、まことの礼拝だったともいうことができます。

それなら私たちは本文のやもめのようにいつも持っている物全部を献金として捧げなければならないのでしょうか。私たちはどうすれば、価値のある物を捧げて神様に礼拝することができるでしょうか。

 

創世記4章には、カインとアベルのいけにえに対する物語が書いてありますが、この物語を通して、私たちは価値のある献金とは何かについて理解することができます。

創世記4章3節と4節です。

3 ある時期になって、カインは、地の作物(さくもつ)から主へのささげ物を持って来たが、

4 アベルもまた彼の羊の初子(ういご)の中から、それも最上(さいじょう)のものを持って来た。主はアベルと そのささげ物とに目を()められた。

アダムの二人の息子、カインとアベルが、それぞれ自分が働いて得た物で神様にいけにえを捧げました。ところが神様はアベルが捧げた物は、受け入れてくださいましたが、カインが捧げた物は、受け入れてくださいませんでした。なぜでしょうか。カインは、羊ではなく、穀物を捧げたからでしょうか。そうではありません。カインもアベルも熱心に働き、苦労 して取り入れた物で、神様にいけにえを捧げました。しかし間違ったのは、方法ではなく、心でした。礼拝に失敗したカインに、神様がこう言われました。

7 あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行って いないのなら、罪は、戸口(とぐち)で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。

カインの捧げものが受け入れられなく、カインの礼拝が失敗した理由は、彼が罪を治める ことに失敗したからだということです。すなわち正しいことを行ったのか、罪を犯したのかというのが、礼拝の成功と失敗を決めたということです。

アベルは、神様のみこころに従って正しいことを行いながら羊を飼う仕事にも最善を尽くしました。すなわちアベルは、神様のみこころに従い、罪と戦いながら、信仰によって生きる生活の中で取り入れた実りを神様に捧げたということです。しかしカインの捧げものは違いました。カインは肉の欲に従って罪を犯しながら、ただ熱心に働いて取り入れた物を神様に捧げたのです。

もしかしたら、カインの仕事がアベルの仕事よりもっと大変だったかもしれません。農業は朝から晩まで、本当に忙しくて、手がかかる仕事です。さらにカインは、いばらとあざみが生じる 呪われた土地で農業を始めなければならなかったので もっと大変だったはずです。

 

しかしそれにも関わらず、神様はアベルの捧げ物だけ受け入れてくださいました。それは、神様が願っておられたもの、そして神様が喜ばれたものは、カインの熱心と労苦ではなく、神様のみこころに従おうとするアベルの信仰だったということです。アベルが神様に捧げた捧げ物の中には、神様に向う愛がありました。罪と戦っているアベルの信仰が込められて いて、神様のみこころの通りに生きようとする忠実な心も捧げものとともに神様に捧げられました。そういうわけで神様がアベルの礼拝と捧げものとを受け入れてくださったのです。

預言者マラキが活動していた時、祭司長たちは、神様に捧げ物としてふさわしくない物を 捧げました。汚れたパンを捧げて、盲目の獣や足のなえた獣で いけにえを捧げました。 彼らは神様に向う愛も、また御言葉に対する信仰もなく、ただ儀式だけを行っていたのです。

それなら汚れたパンと病気になった獣が意味することは何でしょうか。それは罪を悔い改めなく捧げる献金、そして神様の御言葉に従おうとする心なく、ただ儀式と習慣とによって 捧げる献金を意味します。

そんなことが続くと結局神様がマラキ1章10節でこう言われました。

10 あなたがたのうちにさえ、あなたがたがわたしの祭壇に、いたずらに火を(てん)ずることがないように、戸を()じる人は、だれかいないのか。わたしは、あなたがたを喜ばない。―万軍の主は仰せられる― わたしは、あなたがたの手からのささげ物を受け入れない。

罪の中で捧げる献金、そして信仰も愛もなく形式的に捧げる献金を人々が持ってくることができないように宮の戸を閉じてしまったほうがいいということです。

私たちは、毎週、供え物としてふさわしいものを準備して献金を捧げていますか。私たちが神様に捧げる献金袋には、何が入っていますか。カインの熱心ですか、さもないとアベルの信仰ですか。献金袋の中に入られるべきことは、お金ではなく罪と戦いながら信仰を守って来た私たちの証と信仰告白です。神様が見ておられるのは、献金の金額ではありません。 神様は私たちがたくさんの献金を捧げたからといって喜ばれる方でもなく、小さなお金を 捧げたからといって怒られる方でもありません。しかし一つ明らかなことは、信仰なしに、形式的に捧げる献金には、神様が怒られるということです。

レプタ銅貨二つを捧げたやもめが、イエス様に褒められた理由は、その細かいお金の中には信仰によって生きて来た彼女の生活が込められていたからであり、また神様に向う彼女の 愛の告白が込められていたからです。そしてたとい小さなお金だとしても、そのお金に、 自分の最高の価値を込めて神様に捧げたので、イエス様は彼女の信仰を喜ばれたのです。

やもめの献金がイエス様を喜ばせた理由は、

二番目の理由は、やもめの献金は、神様に頼る信仰によって捧げた献金だったからです。

やもめにとってレプタ銅貨二つは彼女の全財産でした。それを神様に捧げたらその以後には、現実の問題を解決する対策もなく計画もありませんでした。現実的にみれば、それを神様に捧げたやもめには、明日がありませんでした。

それなら彼女は、それを神様に捧げて、飢え死にするつもりだったでしょうか。そうでは ありません。もし彼女が飢え死にすることを覚悟して、その献金を捧げたら、イエス様は 彼女の信仰をほめることよりは、いつもの通りに憐れみを施してくださったはずです。

それなら彼女は何のつもりで、全財産を神様に捧げたのでしょうか。そのやもめには信仰がありました。最後に残ったお金を神様に捧げれば、自分のことは、神様が責任を負ってくださるだろうという信仰があったので全財産を神様に捧げることができたのです。

Ⅱコリント 9章 10節で パウロは こう言いました。

10 蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え、それをふやし、あなたがたの義の実を()(くわ)えてくださいます。

神様は私たちに必要なすべてのものを備えてくださいます。ところで神様が私たちに備えてくださるものの中には、食べる物もあり、また蒔くべき物もあります。そして私たちが蒔くべきものがまさに献金であります。

収穫を期待せずに種を蒔く農夫はいないでしょう。農夫が種まきをする理由は、その実りを刈り取れるという期待と確信があるからです。ところで聖書は、献金は神様の御前に信仰を蒔くことだと言われます。というのは、献金には、必ず祝福の実りが約束されているということです。

だから私たちが献金を捧げることは、神様が責任を負ってくださるという信仰を蒔くことであり、また聖書に約束された祝福が、その通りに行われることを信じる信仰を蒔くことです。だから神様に献金を捧げる時には、献金を捧げる信仰も必要ですが、また蒔いた通りに刈り取ることを信じる信仰も必要なんです。この二つの信仰がある時、私たちが捧げる献金を 神様が喜んで受け取ってくださるのです。

ところで今日の本文でやもめの信仰が、他の人たちよりもっと特別な信仰だった理由は、 彼女は、食べることをあきらめて、自分の全財産を神様の約束の上に蒔いたからです。

レプタ銅貨二つは、やもめの全財産でしたが貧しい彼女にも十分ではない小さなお金でした。それで彼女は、それを神様に捧げるか、さもなければ一切れのパンを買って食べるかを選択しなければなりませんでした。しかし結局彼女は、信仰によってそれを神様に捧げることにしました。神様の約束の上に信仰の種を蒔くことにしたということです。イエス様が彼女の献金をほめられた理由はこのように彼女が神様を自分の良い父として信頼していたからです。毎週、礼拝を通して神様に献金を捧げる私たちにも、このような信仰が与えられることを 主の御名によって祝福いたします。

ところで私は今日の本文の御言葉を読みながら、このやもめの状況が、今私たちの状況と 似ていると思いました。もちろんこれは、経済的な部分に関して話すことではありません。今私たちはみな、大変な状況の中にいます。コロナのせいで、みんなが経済的にも、心理的にも、信仰的にも大変で、余裕がない時期を過ごしています。神様は私たちに食べる物と 蒔く物とを備えてくださいますが、今私たちが置かれている状況はまるでレプタ銅貨二つが全財産だったやもめのように、自分の現実を解決するにも余裕がない状況だということです。

それなら神様がやもめを通して私たちに話そうとされるのは何でしょうか。本文の御言葉が私たちに言われるのは、賢い選択に関することです。食べることと蒔くこと、二つともすることができない状況の中で、より賢い選択は何なのかについて話しているということです。、すなわちやもめのレプタ銅貨二つのように、十分ではない私たちの力と与件をを通して  私たちは何をすれば良いかということです。

やもめは、自分にあるレプタ銅貨二つを自分より大変な人、そして自分より弱い人のために使うことにしました。もとろん十分ではなかったですが、助けになりたがる願いを持って 自分の小さな力を信仰とともに献金箱に投げ入れたということです。

私たちも本文のやもめのように、自分より大変な人のために 自分のレプタ銅貨二つを使うことができたら、どんなに良いでしょうか。これはただ献金に対する話だけではありません。今私たちが持っているレプタ銅貨二つのような現実は何ですか。

私たちは以前のように一緒に集まって礼拝したり、一緒に交わることができなくなりました。しかしその分、私たちは、主日の午後に余裕時間ができました。私たちは自分に与えられたその時間を家で休むことに使うこともできるし、信仰の種を蒔くことに使うこともできます。

 

 

ある先生がコロナのゆえに、教会で集まることも交わることもできない状況の中で、信者がすべきことが何かについて話したことがあります。今の状況は、教会として何もできない ように状況のように見えますが、ある面では、教会がキリストの愛を表す最高の機会だと いうことでした。

小さな力だとして、自分より大変な隣人を顧みて助けることに使うことができたらどんなに良いでしょうか。短い時間でも、寂しい人たちに愛と親切を施すことに使うことができたらどんなに良いでしょうか。今の状況の中で、私たちにできることは、あまり多くありません。しかしやもめのレプタ銅貨のように、小さな力でも神様のみこころを行うことに使うことができたら、神様がどんなに喜ばれるかということです。もしそれができれば私たちは一緒に集まって礼拝することができない間にも、隣の人々にイエス・キリストの愛を証することはできるはずです。そしてたとい小さなことだとしても、今私たちが信仰によって蒔いた愛の種は、いつかすばらしい命の実を結ぶはずです。もとろん生活防疫の努力をしなくても良いという意味ではありません。ただ私たちが持っているレプタ銅貨のような小さな力と余裕をキリストの愛を表すことに使おうということです。

今はどこでも人々が集まれば、コロナの話で初め、コロナの話で対話が終わります。そして結論はいつも心配とため息ばかりです。しかし自分では、何もできない現実を心配するより、神様の恵みを覚えて、賛美することに使うことができたらどんなに良いでしょうか。そして今私たちに与えられた余裕時間を聖書を読んたり、神様を知っていくことに使うことができたら、どんなに良いでしょうか。

韓国のことわざの中で、こんな言葉があります。

[農夫は、飢え死にしても、種は食べない。]

賢い農夫は、どんなに大変な状況に会っても、種だけは絶対に食べないということです。 なぜなら種を食べることは結局自分の未来を食べてしまうことと同じだからです。どんなに現実が大変だとしても、種を蒔いたらより良い未来に対する希望が生じます。そして苦難の中で蒔いたその種は、いつか必ず良い実を結ぶはずです。

だから信者は、大変な状況の中にいるほど、また明るい未来が見えないほど、神様の御前に信仰の種を蒔くことを止めてはいけません。神様の約束されたすべての祝福は、信仰の種によって結ばれる実りであることを、絶対に忘れない私たちになることを主の御名によって 祝福いたします。

説教をまとめます。

貧しいやもめは、最後に残ったレプタ銅貨二つを神様に捧げたら、その日から食べることができませんでした。しかし、もしそのお金を自分のために使ったなら、彼女の大変な現実がより良くなったでしょうか。自分のために生きることは、決して自分のためのことではありません。

やもめがイエス様に褒められた理由は、彼女が状況ではなく神様の約束を眺めたからであります。また暗い現実ではなく、より良い未来を期待しながら神様の約束の上に信仰を蒔いたからです。そして信仰の献金を捧げて、神様こそ自分にとって、最高の価値がある方であられることを信仰によって告白したので褒められたのです。

聖書には記録されてないですが、私は、神様がそのやもめの残った人生を顧みてくださり、責任を負ってくださったはずだと信じます。そして彼女の一生の間、神様が、どれほど良い父であられるかを確実に見せてくださったはずです。

神様が私たちに願っておられるのは、お金ではなく、愛であり、また信仰であります。  私たちは神様の約束の上に、私たちが持っているレプタの銅貨を蒔かなければなりません。私たちの力と才能と時間を、神様を知ることに蒔き、また隣人に愛を施すことに蒔けば、 いつか私たちが蒔いた、信仰の種は、必ず美しい実りとなって私たちに戻ってくるはずです。

この信仰を持って、この一週間も神様の約束の上に、信仰の種を蒔く私たちになることを イエス・キリストの御名によって祝福いたします。

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2021/01/24 主日メッセージ   nozomich

不在地主

不在地主

本文 : ルカ 20 : 9 - 19

不在地主

本文 : ルカ 20 : 9 - 19

9 また、イエスは、民衆にこのようなたとえを話された。「ある人がぶどう園を造り、 それを農夫たちに貸して、長い旅に出た。

10 そして季節になったので、ぶどう園の収穫の分けまえをもらうために、農夫たちの所へひとりのしもべを遣わした。ところが、農夫たちは、そのしもべを袋だたきにし、何も持たせないで送り帰した。

11 そこで、別のしもべを遣わしたが、彼らは、そのしもべを袋だたきにし、はずかしめたうえで、何も持たせないで送り帰した。

12 彼はさらに三人目のしもべをやったが、彼らはこのしもべにも傷を負わせて追い出した。

13 ぶどう園の主人は言った。『どうしたものか。よし、愛する息子を送ろう。彼らも、 この子はたぶん(うやま)ってくれるだろう。』

14 ところが、農夫たちはその息子を見て、議論(ぎろん)しながら言った。『あれはあと取りだ。 あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ。』

15 そして彼をぶどう園の外に追い出して、殺してしまった。こうなるとぶどう園の主人は、どうするでしょう。

16 彼は戻って来て、この農夫どもを打ち滅ぼし、ぶどう園をほかの人たちに与えてしまいます。」これを聞いた民衆は、「そんなことがあってはなりません」と言った。

17 イエスは、彼らを見つめて言われた。「では『家を建てる者たちの見捨てた石、それが(いしずえ)の石となった。』と書いてあるのは、何のことでしょう。

18 この石の上に落ちれば、だれでも粉々に砕け、またこの石が人の上に落ちれば、その 人を粉みじんに飛び散らしてしまうのです。」

19 律法学者、祭司長たちは、イエスが自分たちをさしてこのたとえを話されたと気づいたので、この際イエスに手をかけて捕らえようとしたが、やはり民衆を恐れた。

 

今日の本文でイエス様は、もう一度、比喩を通して御言葉を伝えられました。イエス様が 言われたこの比喩は、私たちにはちょっと非現実的な話として感じられるかもしれません。なぜなら小作人(こさくにん)たちがぶどう園を手に入れるために、地主が遣わしたしもべたちと息子まで殺したということが今の時代にはありえないことだからです。しかし当時のユダヤでは、 たまにそんなことがありました。だからイエス様の話を聞いていた人たちはみなイエス様の話がよく理解できました。

当時のユダヤには、[不在地主]という人たちがいました。ユダヤの地に住んではいないが、ユダヤに土地を持っている人が、その地を小作人たちに貸して、その代価として小作料を もらう場合がありましたが、その人たちを不在地主と言います。不在地主の中には外国人もいて、外国に住んでいるユダヤ人もいましたが、遠く離れていたので、時には小作人たちが地主を裏切って、反乱(はんらん)を起こすこともあったそうです。

ところでここで重要なことは、イエス様がこの比喩を話された時期です。過ぎた時間にも 申し上げましたが、その時、イエス様は、キリストとしての使命を成し遂げられるために エルサレムへ上って行かれました。そしてエルサレムでこの比喩を話されました。すなわちイエス様は、キリストとして死ぬために行かれる過程で この比喩を人々に話されたということです。結局この比喩は、イエス様ご自分に対する話だったのです。

本文 9節と 10節です。

9 また、イエスは、民衆にこのようなたとえを話された。「ある人がぶどう園を造り、 それを農夫たちに貸して、長い旅に出た。

10 そして季節になったので、ぶどう園の収穫の分けまえをもらうために、農夫たちの所へひとりのしもべを遣わした。ところが、農夫たちは、そのしもべを袋だたきにし、何も持たせないで送り帰した。

主人はぶどう園を造り、農夫たちに貸して、長い旅に出ました。そして季節になったので 主人は、収穫の分けまえをもらうために、一人のしもべを遣わしました。本文で分けまえ、すなわち小作料というのは、お金以上の意味がありました。小作料は主人が施してくれた 恵みに対する感謝の意味であり、また小作人としての義務でした。そういう意味で小作料をまじめに出すということは、地主の権利を認めるという意味であり、また主人とよい関係を維持しているという意味でもありました。

 

しかし本文の農夫たちは、主人が遣わしたしもべを袋だたきにして、小作料も払いません でした。それは彼らがふどう園の地主を主人として認めることもなく、また主人との関係に大きな問題があったということを意味します。

本文 11節と 12節です。

11 そこで、別のしもべを遣わしたが、彼らは、そのしもべを袋だたきにし、はずかしめたうえで、何も持たせないで送り帰した。

12 彼はさらに三人目のしもべをやったが、彼らはこのしもべにも傷を負わせて追い出した。

農夫たちの行動は、だんだん邪悪になっていきました。主人が再びしもべを遣わしましたが、農夫たちは、彼にも袋だたきにするたけでなく、さらに彼らを恥ずかしめて追い出したと イエス様が言われました。

聖書を読んでみれば、神様は数千年間、続けて罪人たちに ご自分のしもべたちを遣わされました。多くの預言者たちが来て 人々に神様のみこころを伝えました。神様の民として 神様と良い関係を結ぶことと、神の民としての義務を果たすこととを(うなが)したのです。  しかし多くの預言者たちが人々に迫害を受け、命を失いました。

伝えられるところによれば、私たちが良く知っている預言者エレミヤは、石で打ち殺されたそうです。そして預言者イザヤは、のこぎりで切り裂かれたそうです。神様は預言者たちを遣わして人々に神様のみこころを伝えましたが、人々は本文の農夫たちのように彼らを迫害して、殺したということです。

本文 13節と 14節です。

13 ぶどう園の主人は言った。『どうしたものか。よし、愛する息子を送ろう。彼らも、 この子はたぶん(うやま)ってくれるだろう。』

14 ところが、農夫たちはその息子を見て、議論(ぎろん)しながら言った。『あれはあと取りだ。 あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ。』

自分が遣わしたしもべたちを 農夫たちが続けて迫害すると主人は結局自分の息子を遣わすことにしました。しかし主人の息子を見ると農夫たちの本心が出ました。彼らは議論して こう言いました。

[あれはあと取りだ。あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ。]

 

結局農夫たちが 主人のしもべたちを迫害した理由は、小作料を払いたくないからではありませんでした。彼らは初めからそのぶどう園を自分たちの物だと考えていました。そして 彼らは主人の存在を否定して、自分がぶどう園の主人になろうとしたのです。

彼らは主人だけいなければ、自分たちがそのぶどう園の主人になれると思いました。それで主人の命令を拒否(きょひ)して、結局主人の息子まで殺してしまいました。この比喩のように人間は自ら主人になるために預言者たちを殺して、神様の一人子イエス様まで殺してしまいました。残念なことは、このようなことは、人類の歴史の中で、今までも続いているということです。

最初にこんなことをした人はアダムでした。神様がエデンの園の真ん中に善悪の知識の木を置かれた理由は、それを見る時、神様がすべての主人だということを覚えさせるためでした。そしてアダムは、その実を食べるなという命令に従うことによって神様が自分の主人だと いう事実を認めて告白することができました。

しかし結局アダムは、神様のようになりたがる欲望のゆえに、神様の命令を拒否しました。そしてそれを食べることによって、自分の心の中から主人である神様の存在を除去して、 自分が主人になることにしたのです。

イエス様がこの地に来られた時、東方の博士たちが星を見てユダヤの地に来ました。そして当時の王であったヘロデは、まことの王、キリストが生まれたという事実を知るようになりました。しかしヘロデは、王としての地位を守るために結局キリストを捜して除去する方を選択しました。

そしてイエス様が自分たちの王になることを望まなかったユダヤ人たちは、結局イエス様を十字架にかけて殺してしまいました。

このように人間は、神様が自分の主人になることを断りながら、続けて神様の存在を否定 して、神様を除去しようとする努力を重ねたということです。

残念なことは、私たちも彼らと同じことをしているということです。私たちはどうですか。私たちは一日中、何回も選択の分かれ道に立つようになります。主の御言葉の通りに従うかさもないと自分の心の望むままを行うか。そして時には、自分が願うことを行うために心の中で、神様のみこころを取り除いてしまう時が少なくありません。

 

 

アダムとヘロデとユダヤ人たちの共通点は、自分が主人となり、王となり、また神様となるために、神様の存在を取り除いてしまったということです。そしてそれがまさに主の御心に従わない私たちの姿だということです。私たちが罪を犯したり、主の御言葉を知りながらも従わないすべての瞬間に、私たちは 自分の心の中で主人であられる神様の存在を否定していることだということです。

ところで本文の中で、理解できないことは、主人の行動であります。

本文 13節で 主人はこう言います。

13 ぶどう園の主人は言った。『どうしたものか。よし、愛する息子を送ろう。彼らも、 この子はたぶん(うやま)ってくれるだろう。

主人は[どうしたものか]と言いながら、悩んでいました。主人の悩みは何だったでしょうか。どうすれば、あの悪い農夫たちからぶどう園を取り戻すことができるかという悩みだったでしょうか。もしそれが目的だったら、わざわざ悩む必要もありませんでした。律法と力で 解決することは、主人には簡単なことだったからです。しかし、ここで主人が悩んでいたということは、主人が願っていることは、小作料をもらったり、ぶどう園を取り戻すことではなかったということです。それなら主人が願っていたこと、そして主人が悩んでいたことはいったい何だったでしょうか。

主人の関心は、お金やぶどう園ではなく農夫たちにありました。どうすれば、農夫たちとの関係が再び回復されるかということに対する悩みだったということです。

一番目のしもべを袋だたきにして追い出した時、すでに農夫たちの本音は()らされました。彼らは主人の存在を認めなかったし主人の命令に従う気もありませんでした。それを主人が分からないはずがありませんでした。主人は再びしもべを遣わしたらどんな結果が出るかも知っていましたが、それにも二番目のしもべを遣わして、三番目のしもべまで遣わしました。そしてついには自分の息子まで遣わしました。

農夫たちの悪い心も知っていて、結果がどうなるかも知っていた主人は、なぜ農夫たちを あきらめなかったでしょうか。それは、彼らに対するあわれみと愛のゆえでした。彼らに 対する主人の愛が、主人をして農夫たちをあきらめることができないようにしたということです。

 

私はたまに自分をみながら、自分が(なさ)けないと感じる時があります。なぜなら自分に対してあまりにもよく知っているからです。ところで私も自分がどんな人間であるかをよく知っているのに、神様は私がどんな人間であるかを知らないでしょうか。私がどれほどたくさん 神様を裏切って、どれほど多くの罪を犯し、どれほどしつこく変わらない人間であるかを 神様が知らないだろうかということです。神様は全てを知っておられます。はなはだしくは、 神様は私たちの人生が どういうふうに終わるかもすでに知っておられます。

詩篇 139篇 16節には こう書いてあります。

16 あなたの目は胎児(たいじ)の私を見られ、あなたの書物(しょもつ)にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。

私たちが生きている この世界の時間と空間という(わく)は、神様が私たちのために造られた物です。だから神様は時間と空間の制限を受けられません。すなわち神様には私たちの過去と現在と未来を同時に見ておられる方だということです。そういうわけで神様は、私たちの ために作られた日々が、一日もないうちに、私たちのすべてを知っておられ、また私たちの人生の最後まで知っておられるということです。

ところで私たちのすべてを知っておられるにも関わらず、神様が私たちに再び機会を与えてくださり、再び私たちに語ってくださり、再び私たちに恵みを授けてくださる理由は、ただ愛のゆえだということです。

ホセア 11章 8節には 私たちに対する 神様の愛について こう書いてあります。

8 エフライムよ。どうしてあなたを 見捨てることができようか。どうしてわたしは  あなたをアデマのように引き渡すことができようか。どうしてあなたを ツェボイムのようにすることができようか。わたしの心は わたしのうちで()(かえ)り、わたしは  あわれみで胸が熱くなっている。

神様の律法と神様の正義によれば、私たちをあきらめて、私たちを捨てて、私たちを裁く ことが当たり前だけど、神様の愛が、神様をして私たちをあきらめることができないようにするということです。そしてその愛が、全能なる神様を[どうしたものか]としながら悩む ようにするということです。これがまさに私たちに対する神様の愛であります。

 

 

しかし私たちに人間が、ほんとうに愚かな存在である理由は、私たちは神様のその愛さえも利用しようとするからです。神様が自分を最後まで愛され、絶対に自分をあきらめないと いうことを信じて、続けて罪を犯したり、最後まで悔い改めないものが私たち人間だということです。

ところが私たちが誤解してはいけない事実があります。それは神様が私たちに対する愛を あきらめないということは、私たちが続けて罪を犯したり神様の御心の通りに生きなくても救われるという意味ではないということです。

私たちが覚えるべきことは、イエス様は、ユダがご自身を売るために、出かける直前にも ユダの足を洗ってくださったということです。

ヨハネ 13章 1節(口語訳)には こう書いてあります。

1 過越の祭の前に、イエスは、この世を去って 父のみもとに行くべき自分の時がきた ことを知り、世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し(とお)された。

イエス様は、ユダが自分を裏切ることも知っておられる、結局ユダが地獄にいくようになることも知っておられました。それにもイエス様は最後までユダを愛されたということです。

イエス様は命が尽きる最後の瞬間まで ユダに対する愛をあきらめませんでした。しかし イエス様がユダを最後まで愛されたという事実のゆえにユダが滅ぼされなかったのではありません。イエス様はご自分の命を捨てるまでユダを愛され、最後まで彼を愛されました。 しかしイエス様のその愛を受け入れて、悔い改めることは結局ユダが選択すべきことでした

イエス様が私たちを最後まで愛されるという事実は、私たちに罪を犯せる事由が与えられたという意味ではありません。肉と心の望むままを行っても良いという意味でもありません。イエス様が最後まで私たちを愛されるという事実は、私たちが悔い改めてイエス様に戻って行ける門は、最後まで開いているという事実を意味することです。

私たちは神様が任せてくださったものを持って人生を耕す小作人たちです。私たちにある すべてのものは全部神様の物であります。神様は私たちに健康と時間と能力と財産みたいなものを任せてくださり、それらを神様のみこころの通りに使うことを願っておられます。

私たちは自分の主人が誰なのかを覚えなければなりません。そして私たちは自分が主人ではなく、主が任せられた人生を耕す小作人であることを忘れてはいけません。そうしなければ、私たちも本文の農夫たちのように主人であられる神様の存在を否定するようになるはずです。

新しく始まるこの一週間も、主人であられるイエス様の存在を覚えて、認める私たちになることを祈ります。それで主の御心に従って自分の人生を耕し、主が分けまえを求められる時、喜んで捧げることができる私たちになることをイエス・キリストの御名によって祝福いたします。

 

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2021/01/17 主日メッセージ   nozomich

神様の家

本文 : マタイ 21 : 12 - 17

12 それから、イエスは宮に入って、宮の中でり買いする者たちをみな追い出し、   両替人(りょうがえにん)の台や、(はと)る者たちの腰掛けを倒された。

13 そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。   それなのに、あなたがたはそれを強盗(ごうとう)()にしている。」

のぞみ教会・主日礼拝(2021110) 説教者:木村喜憲牧師

本文 : マタイ 21 : 12 - 17

12 それから、イエスは宮に入って、宮の中でり買いする者たちをみな追い出し、   両替人(りょうがえにん)の台や、(はと)る者たちの腰掛けを倒された。

13 そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。   それなのに、あなたがたはそれを強盗(ごうとう)()にしている。」

14 また、宮の中で、盲人や足のなえた人たちが みもとにたので、イエスは彼らを  いやされた。

15 ところが、祭司長、律法者たちは、イエスのなさった驚くべきいろいろのことを見、また宮の中で子どもたちが「ダビデの子にホサナ」と言って叫んでいるのを見て 腹を立てた。

16 そしてイエスに言った。「あなたは、子どもたちが何と言っているか、お聞きですか。」イエスは言われた。「聞いています。『あなたは幼子(おさなご)乳飲み子(ちの ご)たちの口に美を用意された』とあるのを、あなたがたはまなかったのですか。

17 イエスは彼らをあとにし、(みやこ)を出てベタニアに行き、そこに泊まられた。

 

本文 12節もう一度読みます。

12 それから、イエスは宮に入って、宮の中でり買いする者たちをみな追い出し、   両替人(りょうがえにん)の台や、(はと)る者たちの腰掛けを倒された。

イエス様は、キリストとしての使命を成し遂げられるために エルサレムへ上って行かれ ました。そしてイエス様がそこで一番最初になされたことは、宮を(きよ)めることでした。 

イエス様の当時の神殿の中には、大祭司の家門が運営していた商店がありました。そこでは牛や羊、そしてオリーブ油など、いけにえに必要な物を売っていて、また手数料をもらって神殿に出す税金を両替してくれることもやっていました。

ところで今日の本文で、宮に入ったイエス様は、激しく憤られました。そして宮の中で、 売買する者たちをみな追い出し、両替人の台や、商売する者たちの腰掛けを倒されました。いけにえに必要な品物を売る店だったのに、どうしてイエス様はそんなにまで怒られたのでしょうか。

本文 13節でイエス様がその理由を言われました。

13 そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。   それなのに、あなたがたはそれを強盗(ごうとう)()にしている。」

宮の中で商売する人たちのせいで、神様の家が強盗の巣になってしまったということです。さっき申し上げた通りに、その店は、大祭司の家門の人たちが運営していました。しかし 彼らがその店を運営していたのは、いけにえを助けるためではありませんでした。大祭司はいけにえに必要なすべての物はその店でだけ購入させました。すなわちそこで売る物だけがいけにえに(かな)う物として認められたということです。そして大祭司は、そのように店を運営しながら暴利(ぼうり)を取って自分の財産を増やしていました。だからイエス様はそんなに憤られたのです。

しかし本文の核心は、当時の大祭司がどれほど悪者だったのかということではありません。今日の本文を通して 私たちが考えてみるべきことは、聖書で神様の家と言われた宮とは、いったいどういう所なのか、そして私たちにとって宮というのは、どんな意味なのかということです。それでこれからはイエス様の御言葉を通して 神様の家である宮について一緒に聖書を調べてみようと思っております。

まず、本文 13節もう一度読みます。

13 そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。   それなのに、あなたがたはそれを強盗(ごうとう)()にしている。

[一番目に、宮は、神家です。]

私の家には、一年一回、同期宣教師の家族が訪問します。それで一泊二日間、一緒に泊まりながら、交わっていますが、彼らが家に来る日になると 私たちが一番最初にすることが ありますがそれは大掃除です。掃除をしながら、自慢したい物は、目につく所に出して置き、見せたくない物は、押し入れの中に隠しておきます。なぜなら家は、私たちについて多くの部分を表しているからです。

家というのは、その主人の特徴が最も良く表れている場所です。すなわち家という空間には主人の生活習慣とか性格、そして趣味や価値観などがそのまま表れているということです。

ところで聖書は宮について神様の家だと言います。宮が神様の家だという言葉が 何を意味するでしょうか。それは神様がどんな方であられるかを最もよく見せてくれることの一つがまさに宮だということです。

ソロモンが宮を建てる前には、イスラエルに幕屋があって宮の役割をしました。だから今日、説教の中で宮と幕屋は同じ意味だと考えてもいいです。ところで聖書を読んでみれば神様がモーセに幕屋を造ることを命じられた時、どのように造るかを具体的にモーセに教えてくださいました。そして教えてくださった通りに造ることをも命じられました。なぜなら幕屋も宮も、キリストを表す模型だったからです。

いつか出エジプト記の御言葉を調べてみる機会があるでしょうが、神様が命じられた幕屋のすべての部分は、デザインも材料も模様もすべてがキリストを表しています。キリストが どういう方なのか、またキリストは何事を行われる方なのかが幕屋に具体的に啓示されて いるということです。だからユダヤ人たちにとって幕屋と宮はとても特別で重要な意味が ありました。

それなのに神様の愛と恵みを表すべき宮の中で、大祭司の人たちが商売をしていたのです。それも不正な方法を通して暴利を取りながら強盗のように人々のお金を騙し取っていました。だからイエス様はそんなに憤られたのです。

 

[二番目に、宮は、祈りの家です。]

また本文13節です。

13 そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。   それなのに、あなたがたはそれを強盗(ごうとう)()にしている。」

祈りというのは、私たちにはすばらしい祝福であり、また特権であります。たまに主任牧師先生がこんな話をしたことがありますが、全然知らない子どもがやって来て、お金を求めるとすれば、喜んで与える人はいないでしょう。しかし自分の子が何かを求めれば、喜んで 与えます。なぜですか。それは親子という特別な関係があるからです。

 

私たちが神様に祈るというのは、ただ願いが答えられるという点で意味があるのではありません。それより重要なことは、神様に何かを祈り求めることができるほどに私たちが神様と特別な関係だという事実にまことの意味があるのです。

聖書で神様はイスラエルの民に幕屋を造ることと そこで神様にいけにえを捧げることとを命じられました。それは神様がイスラエルの民に授けてくださったすばらしい恵みでした。すべての人は罪人であります。そして罪人にとって最も大きな絶望は、罪のゆえに神様との関係が断絶されたこと、また罪のゆえに滅ぼされるしかないということです。

ところで神様がイスラエルの民に幕屋を造ることを命じられました。それが何を意味する 事件だったでしょうか。それは聖なる神様が罪人たちにやって来られ、罪人たちと関係を 結ぶことにされたという意味であります。またいけにえを通して罪を赦してくださることにされたという意味でした。これは罪人にとっては最高の恵みでした。これがまさに幕屋と いけにえに関する命令が意味することでした。結局宮は、罪人と神様との関係が回復される所であり、罪人と神様との交わりが行われる場所だという点で特別な意味があるのです。

出エジプト記 29章 42節で 神様がこう言われました。

42 これは、主の前、見の天幕の入口で、あなたがたが代にわたって、()やすことの ない全焼のいけにえである。その所でわたしはあなたがたに会、その所であなたと 語る。

神様は幕屋、すなわち宮でご自分の民に会ってくださり、また語られると約束されました。そして神様の民は、その約束を信じて神様の御前に進んで行きました。

それなら私たちが神様の御前に進んで行く理由は何ですか。皆さんは、何を期待して礼拝の場に進んで行きますか。

[その所でわたしはあなたがたに会、その所であなたと語る。]

神様は私たちに会ってくださり、私たちに語られるために私たちを呼ばれます。それなら 私たちも神様と同じ目的を持って神様に進み、礼拝していますか。神様の家は祈りの家だとイエス様が言われました。すなわち宮は聖なる神様と罪人との出会いが行われる所であり、また神様と私たちが特別な関係を結ぶ所だということです。だから宮では、必ず神様との 出会いと神様の御言葉を聞くこととが行わなければなりません。私たちの礼拝が神様が喜ばれるまことの礼拝になるためには、必ずこの信仰と期待とを持って神様に進んで行くことが必要だということです。

[三番目に、宮は、宣中心です。]

今日の本文13節の御言葉は、イエス様がイザヤ56章の御言葉を引用されたことだったですが、

イザヤ56章6節と7節には こう書いてあります。

6 また、主に(つら)なって主に(つか)え、主の名を愛して、そのしもべとなった外国人がみな、 安息(あんそく)()を守ってこれを(けが)さず、わたしの契約(けいやく)堅く(かた  )保つ(たも  )なら、

7 わたしは彼らをわたしの(せい)なる山に連れて行き、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼(ぜんしょう)のいけにえやその他のいけにえは、わたしの祭壇(さいだん)の上で受け入れられる。 わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。

[わたしの家は、すべての民の祈りの家だ。]

宮が幕屋と違う点が一つありますが、それは宮には[異邦人の庭]という場所があったということです。いけにえが行われる神殿の外の庭には異邦人たちも入って来られる別途の空間がありましたが、そこがまさに[異邦人の庭]でした。

すなわち神様がダビデとソロモンを通して建てられた宮は、イスラエルの民だけでなく、 あらゆる民族、すべての人がキリストの救いの恵みを受けるようにする目的で建てられたということです。そしてあらゆる民族が神様の御前に来て、救いの恵みを味わうようにする ことを宣教と言います。だから宮は、宣教が行われる中心だということです。

ところで今日の本文で問題になったのは、宮の商店があった所がまさに異邦人の庭だったということです。すなわち大祭司は、自分の利益のために、またユダヤ人たちは自分の便利のために、異邦人たちが宮に入ってくる道を阻んで、彼らが神様と特別な関係を結ぶ機会を 奪ってしまったということです。これがイエス様が憤られた理由でした。

 

それなら、これから私たちが考えてみることは、今の時代を生きて行く私たちにとって、 またユダヤ人でもない私たちにとって、いったい宮が何の意味があるかということです。

イエス様が復活されて、聖霊様が来られた後、旧約時代の宮は、その概念が完全に変わってしまいました。宮の核心は神様です。すなわち宮は、神様が臨在される場所だから特別な 意味があったということです。旧約時代には、神様が宮の中にある()聖所(せいじょ)という所にだけ 臨在されました。

ところがイエス様が復活された後、神様は聖霊として信者の心の中に宿つておられます。 そういうわけで、今この時代には、宮というのは、場所とか建物の概念ではありません。 聖霊様が宿っておられる私たち、神様の家になった私たち信者がまさにこの時代の宮であり、また信者の集まりである教会が まさに宮になりました。

Ⅰコリント 3章 16節にはこう書いてあります。

16 あなたがたは神の神殿(しんでん)であり、神の御霊があなたがたに宿(やど)っておられることを知らないのですか。

神様の御霊が私たちに宿っておられるから、もはや信者の私たちが神様の神殿になったと いうことです。というのは、今まで皆さんと一緒に調べてみた、宮に対する三つのことは、新しく神殿になった私たちに対する御言葉として解釈しなければならないということです。それなら私たちが神様の家、すなわち宮だという事実を覚えながら、今までの御言葉をもう一度考えてみましょう。

[一番目に、宮である私たちは、自分が神様の家だという事実を覚えなければなりません。]

家はその主人の特徴が最もよく現れている空間だと先ほど申し上げました。すなわち神様の家である私たちは私たちの主、イエス・キリストを人々に表して見せてくれる存在だということです。幕屋と宮のデザインと材料と模様、一つ一つがキリストを表して見せてくれる ように、私たちのすべてがイエス・キリストの愛と恵みを表さなければならないということです。

私たちの周りの人が見ている私たちの姿はどうですか。彼らが私たちを通して見ているのはイエス・キリストの姿ですか、さもないと宮の商店のように(むさぼ)りと世の価値観に染まっている一人の罪人の姿ですか。

私たちはイエス・キリストが宿っておられる宮です。私たちの言葉が、私たちの行動が、 そして私たちの思いと顔の表情(ひょうじょう)までも全部イエス・キリストを表すようになることを祈ります。それで私たちを通して多くの人がイエス様を知るようになり、イエス様の宮に入って来るようになることを主の御名によって祝福いたします。

 

 

 

[二番目に、宮である私たちは、自分が祈りの家だという事実を覚えなければなりません。]

Ⅰテサロニケ 5章16節から18節までの御言葉で、使徒パウロはこう言いました。

16 いつも喜んでいなさい。

17 ()えず祈りなさい。

18 すべての事について感謝しなさい。これがキリスト・イエスにあって神があなたがたに(のぞ)んでおられることです。

私たちに向う神様のみこころは、私たちがいつも喜んでいて、絶えず祈って、すべての事について感謝することだとパウロは言いました。すばらしい御言葉ですが、すごく負担になる御言葉でもあります。どうやって人が絶えず祈ることができるでしょうか。もちろん この御言葉は、熱心に、そして続けて祈ることを励ます御言葉であります。

ところがこの御言葉は、ただ単に祈りの義務に対して言われる御言葉だけではありません。先ほど申し上げましたが、私たちにとって祈りが持つ最も重要な意味は、神様に祈って、 答えられるほどに、私たちが神様と特別な関係だという事実にあります。そういう意味で、絶えず祈りなさいという御言葉は、私たちに宿っておられる神様との特別な関係をもっと 積極的に味わいなさいという意味でもあります。

先ほど読んだ、 出エジプト記 29章 42節です。

42 これは、主の前、見の天幕の入口で、あなたがたが代にわたって、()やすことの ない全焼のいけにえである。その所でわたしはあなたがたに会、その所であなたと 語る。

神様は幕屋でご自分の民に会ってくださり、またご自分の民と語られると約束されました。ところで今私たちは宮になりました。というのは、私たちにはいつも神様に会うことができ、神様の御言葉を聞くことができる 特権と恵みが与えられたということです。またそれは 神様と交わって、神様の御言葉を聞くことは、私たちの生活の中でいつも起こるべきことだという意味でもあります。そしてそれを可能にすることがまさに祈りであります。

私と皆さんの生活の中で、イエス様との交わりが日常になることを祈ります。また神様の 御言葉を悟って御言葉の恵みの中で生きることが当然なことになることを祈ります。祈りと御言葉を通して聖なる神様の家として建てられていく私たちになることを主の御名によって祝福いたします。

[三番目に、宮である私たちは、自分が宣教の中心であることを忘れてはいけません。]

大祭司は自分の利益のために異邦人の庭に商店を建てました。そしてユダヤ人たちは異邦人たちが救われることより、自分が楽に信仰生活することをもっと大切に思いました。自分の信仰生活は徹底的に守っていましたが、神様の御心が行われることには全く関心がなかったということです。しかし神様ははっきりと言われました。

[わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。]

これが何を意味しますか。神様の家である私たちには、すべての民が神様と特別な関係を 結ぶようにすべき使命があるということです。

使徒の働き 1章 8節でイエス様が言われました。

8 しかし、聖霊があなたがたの上に(のぞ)まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土(ぜんど)、および地の()てにまでわたしの証人(しょうにん)となります。

[聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、私たちがイエス様の証人となる。]

すなわち私たちが、聖霊様が宿っておられる宮になった理由は、宣教の使命を果たすためだということです。私たちの心と私たちの生活の中には異邦人の庭が備えられていますか。 自分の生活が忙しくて、自分の信仰生活が最優先だから、周りの異邦人たちに出してくれるような心の空き地は、いつの間にかなくなったのではありませんか。

私たちは宮です。そして神様が私たちを宮とされた理由は、私たちを宣教の中心にならせるためです。すべての信者が宣教師になる必要はありません。しかし信じる者であるなら誰も宣教的な人生を生きなければなりません。

私たちが宣教に参与する方法は、いろいろあります。隣人に福音を伝えることも宣教であり、他の国とその民の救いのために祈ることも宣教であります。また宣教のために献金を捧げることも宣教する方法の一つであります。方法はいろいろありますが何よりも重要なことは、自分に宣教の使命があるという事実を覚えること、そしてどんな方法によってでも 宣教の使命を果たそうとする心であります。

神様の家として、またこの時代の宮として主が任せられた宣教の使命を果たす私たちになることを主の御名によって祝福いたします。

 

説教をまとめます。

今日の本文でイエス様は、宮を汚していた者たちをみな追い出して、倒されることによって宮を清められました。そして宮の価値と意味について教えてくださいました。

この時代に私たちは神様が宿っておられる宮になりました。私たちの心の中にはイエス様が追い出して、倒されるべき汚れているものはありませんか。私たちが宮になったのは神様の恵みでもありますが、また使命でもあります。

新しい一週間も私たちを通して多くの人たちがイエス様を知るようになることを祈ります。そして私たちを通して、また別の人が神様の宮として建てられることをイエス・キリストの御名によって祝福いたします。

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2021/01/10 主日メッセージ   nozomich