恵みの雨

Year 2021

みなが聖霊に満たされ

2021年5月9日 ・ のぞみ教会・主日礼拝 

申告告白

聖歌 431 / 433

祈り 木村喜憲牧師

聖歌 540 / 562

聖書 使徒 2:1-4

説教 <みなが聖霊に満たされ>  木村喜憲牧師

聖歌 573 / 607

献金 <献金の祈り>  木村喜憲牧師

聖歌 383 / 376

祝福の祈り  木村喜憲牧師

 

お知らせ。

◆のぞみ教会のOpen Cell Leaderを建て上げることが出来るように祈りましょう。

[6/6 : 機関長祈り会(礼拝後)]

◆新型コロナウィルス感染拡大防止にかかる蔓延防止等重点措置に伴いまして、

5月30日まで非対面礼拝を実施します。 

◆毎週月曜日午後9時、オンライン祈祷会をZOOMで行います。

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◆健康回復のためにお祈りをお願いします。

礼拝のための代表祈り 【 6/6:安永真一兄 】

献金のための代表祈り 【 6/6:高橋文治兄 】

みなが聖霊に満たされ

本文 : 使徒 2 : 1 - 4

1 五旬節(ごじゅんせつ)の日になって、みなが一つ所に集まっていた。

2 すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような(ひび)きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。

3 また、(ほのお)のような分かれた(した)が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。

4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで 話しだした。

イエス様は、弟子たちに、エルサレムを離れないで、父の約束された聖霊を待つことを、 命じられました。そしてその命令に従った人は120名でした。120名の弟子たちはイエス様が上られたオリーブ山から下りて来て、マルコの屋上の間に集まりました。そして、そこで 彼らは、イエス様の命令を覚えながら、十日間祈りに専念しました。

そのように、120名の弟子たちが、祈りに専念する間、五旬節の日になりました。

本文 2節と 3節です。

2 すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような(ひび)きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。

3 また、(ほのお)のような分かれた(した)が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。

120名の弟子たちが、祈りに専念して、十日目になった日、突然、天から激しい風が吹いて来るような響きが起こり、また炎のような分かれた舌が現れて一人一人の上に留まりました。そしてその瞬間、聖霊を待ちながら祈っていた120名みなが、聖霊に満たされる素晴らしい奇跡が起こりました。そしてその時から、弟子たちは、死さえも恐れず、イエス様の命令に従う、イエス様の証人となり、また聖霊様の素晴らしい御業が、弟子たちを通して起こる ようになります。

聖書を読んでみれば、信じる者に現れる、聖霊の働きを表す言葉の中で、代表的に二つが ありますが、一つは聖霊のバプテスマであり、もう一つは聖霊充満という言葉であります。まず聖霊のバプテスマとは、聖霊様が私たちに臨在されて、私たちとともにおられるようになる事件を言います。

使徒 2章 38節と 39節です。

38 そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そしてそれぞれ罪を赦していただくために、イエスキリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物 として聖を受けるでしょう。

39 なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人えられているからです。」

聖霊のバプテスマは、私たちが罪を悔い改めて、イエス様を受け入れる時、神様が私たちにくださる賜物であります。特別な資格が必要でもなく、努力や熱心によって受けられるものでもありません。聖霊のバプテスマは、ただイエス様を救い主として信じる信仰によって 与えられる神様の賜物であります。また聖霊のバプテスマは、特別な体験とか感じを通して証明されるものでもありません。特別な現象がなく、私たちに感じられる変化がないとして、私たちがイエス様を 救い主として受け入れると、その瞬間、聖霊様は、私たちに臨まれ、いつも私たちとともにおられます。これがまさに聖霊のバプテスマであります。

聖霊のバプテスマは、私たちがイエス様を受け入れる時起こる一回的な事件であり、絶対に変わらない事件であります。最近韓国では、リマインドウェディングということが流行(はや)っていますが、夫婦が結婚式をした時の心を思い出して、その時の愛を回復せよという意味で、再び結婚式をすることです。もちろん心は理解できますが、大きな意味はない儀式なんです。一度結婚式をしたら、愛が冷めたり関係がよくないからといって、再び結婚式をする必要はありません。なぜなら結婚式を通して夫婦になったら、いかなる場合でも夫婦という事実に変わりはないからです。聖霊のバプテスマも、これと同じです。私たちに来られた聖霊様は、絶対に私たちを離れず、いつも私たちとともにおられます。だから聖霊のバプテスマは再び受ける必要がないのです。

次に、聖霊充満というのは、現象ではなく、状態を意味する言葉です。過ぎた時間にすでに申し上げた通り、聖霊充満とは、私たちが聖霊様に支配され、治められる状態を意味します。聖霊によってバプテスマを受ける瞬間より、私たちのうちには、聖霊様がともにおられます。しかし聖霊様は、人格的な方なので、私たちに対して、強制的に働かず、私たちが聖霊様を主人として仕えて、従う時まで、ただ待っておられると申し上げました。だから聖霊様に 満たされるためには、私たちの信仰と努力が必要です。

エペソ 5章 18節で、パウロは、こう言いました。

18 また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩(ほうとう)があるからです。御霊に満たされなさい。

聖霊のバプテスマは、一回的な事件であり、絶対に変わらない事件ですが、聖霊充満は、 そうではありません。聖霊充満は、続けて維持するために、励んで努力してこそ可能であることです。すなわち聖霊様が、私たちの主人となって私たちを治めてくださるためには、 続けて聖霊様のみこころに耳を傾けて、従う努力が必要だということです。

ガラテヤ 5章 16節と 17節で、パウロが言いました。

16 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させる ようなことはありません。

17 なぜなら、肉の願うことは御霊に(さか)らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは  互いに対立(たいりつ)していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることが できないのです。

私たちの肉と心が願うものは、いつも聖霊様が願っておられることとは、反対側にあります。だから聖霊に満たされるためには、私たちの心の願いと肉の欲をあきらめて、聖霊の御心に服従しようとする信仰が必要だということです。

また申し上げますが、聖霊充満は、現象ではなく、状態をいう言葉です。すなわち激しい 風の音が聞こえたり、炎みたいなものが現れたりする、表に現れる現象が、聖霊充満の証拠ではないということです。言い換えれば、特別な現象がなくても、聖霊に満たされることができるということです。

それなら本当に聖霊に満たされると、私たちには、どんなことが現れるでしょうか。それは使徒の働きで、聖霊を受けた後、弟子たちに現れた変化を見れば分かります。

まず、聖霊充満は、罪を悔い改めることから始まります。聖霊様は、私たちを治められる 前に、まず私たちの内にある、すべての罪と悪い考えたちを悟らせてくださり、またそれに対して、深く悔い改めさせます。聖霊様が私たちを悔い改めさせる理由は、神様との関係に問題を起こす罪を解決し、その罪を赦してくださるためです。それで深い悔い改めの末には、必ず、赦された喜びと平安が与えられます。

ところで、その喜びと平安が、どれほど大きくて、素晴らしいものなのか、心の中に感謝が溢れ、完全な満足が感じられます。聖霊に満たされると状況と現実は、もはや重要なもの ではありません。状況は少しも変ったことがないとしても、自分が主の内にあり、また主が自分の内におられ、自分を守り導いてくださるという、その事実だけで完全な満足を味わうことができます。

聖霊様が私たちにくださる喜びと平安と満足は、この世にあるものによっては、絶対に経験できない、天国の完全な喜びと平安と満足であります。だから聖霊に満たされている人は、この地で住みながらも、天国を味わうことができるのです。

聖霊に満たされたら現れる、もう一つの変化は、罪に対する恥と拒否感を持つようになるということです。今まで、楽しんで来た、この世の快楽が恥ずかしくなり、平気で犯して来た過ちたちに対して拒否感と恐れを持つようになるということです。それで聖霊に満たされた人は、罪を犯さないだけでなく、言葉と態度にも大きな変化が現れます。

また聖霊に満たされたら、万物に対する愛が満ち溢れます。

そんなに憎んでいた人が、かわいそうに感じられます。なぜならその人に対する自分の感情よりも、その人に向かう神様の愛が、もっと大きく感じられるからです。そのように、その人に対する神様の憐れみと愛が、私たちの心を満たすようになると、その人に対する呪いが祝福に変わり、その人の魂のために、祈らざるを得ないようになります。

また聖霊に満たされたら、神様の命令に従うことが、当然なことになります。

私たちは、神様の御言葉を読みながら、その御言葉が正しいことは分かっても、御言葉の 通りに守って生きることは、難しすぎると感じます。なぜなら人間には、神様の命令に従い、神様の御言葉の通りに生きられる能力がないからです。しかし聖霊に満たされると驚くべき変化が現れますが、それは神様の命令の通りに生きることが、当たり前に感じられるということです。今までは、神様の御言葉の通りに生きることが無理だと思ったのに、聖霊に  満たされると、その無理なことができるということです。

どうやって、こんな変化が可能でしょうか。その理由は聖霊様が私たちの心と思いと意志と決定の主人となって、私たちを神様の御心の通りに導いてくださるからです。言い換えれば、私たちの意志と努力で、主の命令を守ることではなく、聖霊様が私たちを主の命令の通りに生きさせてくださるから、御言葉の通りに生きることが可能になるんだということです。

最後に、聖霊に満たされたら、大胆に福音を宣べ伝えるようになります。

ヨハネ 20章 19節です。

19 その日、すなわち(しゅう)の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、  ユダヤ人を恐れて()がしめてあったが、イエスがられ、彼らの中に立って言われた「平安があなたがたにあるように。」

イエス様が死なれた後、弟子たちは、ユダヤ人を恐れて戸を閉めて、隠れていました。  それが今日の本文の事件より、50日前の状況でした。

ところで50日後、弟子たちの姿は、どう変わったんでしょうか。五旬節の日、120名の弟子たちに、聖霊様が臨んで、彼らが聖霊に満たされると 素晴らしいことが起こりました。 それぞれの人が、聖霊が話させてくださる通りに、他国の言葉で話しだしました。すると、その姿を見たユダヤ人たちは、120名の弟子たちが甘いぶどう酒に酔っているのだと思って、あざけりました。

すると、その時、ペテロと使徒たちが起き上がって、ユダヤ人たちに、イエス・キリストの死と復活に関する福音を宣べ伝えました。そしてペテロが宣べ伝えた福音を聞いた3千名のユダヤ人たちが、悔い改めて、その場で救われました。ペテロに特別な能力があったり、 素晴らしい聖書知識があったからではありまえん。聖霊様がペテロの中で働かれる瞬間、 一生涯漁師として生きてきたペテロが、人々の前で、大胆に十字架の福音を伝えることが できたのであり、またその御言葉を聞いて3千名が救われる、素晴らしい奇跡が起こったということです。

このように聖霊に満たされると、私たちには、驚くべき変化が現れるということです。罪と悪い考えから離れるようになり、言葉と態度が変わるようになります。また状況と条件に 関係なく、イエス・キリストにあって、平安と満足を味わうようになり、愛することが  できなった人を、愛するようになります。御言葉の通りに守って生きることが当然なことになり、人々に福音を宣べ伝えることができるようになります。このすべてのことを可能に する方が、まさに私たちの内におられる聖霊様であります。だから私たちは、いつも聖霊 充満になるために励まなければならないということです。

120名の弟子たちは、聖霊のバプテスマと聖霊充満が同時に起こったケースであります。 すなわち弟子たちは、聖霊様が臨まれることと同時に聖霊様に満たされたということです。それなら120名の弟子たちは、どうやって聖霊に満たされることができたでしょうっか。 今日の本文には、聖霊充満に対する神様の御心がよく表れています。

本文 1節です。

1 五旬節(ごじゅんせつ)の日になって、みなが一つ所に集まっていた。

 

 

聖書は、五旬節の日になったと言います。ここで「日になった、日が来た」と 翻訳されている言葉は、ギリシャ語で、[いっぱいとなった。あるいは、すべてが完成された。] いう意味を持っています。言い換えれば、「五旬節の日になった」という言葉は、聖霊を 注いでくださるために、神様が約束され、計画された その歴史的な日がついに来たという意味なんです。

それなら神様の約束と計画とは、何でしょうか。預言者ヨエルは、聖霊様が臨まれる、その日について、こう予言しました。

ヨエル 2章 28節と 29節です。

28 その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。

29 その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。

神様は、誰に聖霊を注いでくださると約束されましたか。

[わたしは、わたしの霊をすべての人に、またあなたがたの息子と娘に、年寄りと若い男に、そしてしもべと はしために注ぐ。]

神様は天地創造の前に、すべての人に聖霊を注いでくださり、また聖霊に満たしてくださることを計画され、それをヨエルを通して約束されました。そして今私たちは聖霊を与えようとされる、神様の計画がいっぱいとなって、完成された時代を生きているということです。というのは、イエス様を信じる者なら、聖霊充満になれない人は誰もいないということです。すなわち私たちに向かう神様のみこころは、私たちみなが、聖霊に満たされることだということです。

本文 1節と 2節です。

1 五旬節(ごじゅんせつ)の日になって、みなが一つ所に集まっていた。

2 すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような(ひび)きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。

五旬節は、イスラエルの3大祭りであって、五旬節になるとイスラエルのすべての男は、 宮に来て、この祭りを守るべき義務がありました。聖霊様がこの地に臨在されたその日も、エルサレムには五旬節を守るために200万名の人たちが集まっていました。しかし聖霊様は屋上の間に集まって祈っていた120名の弟子たちの上に臨まれました。

これが何を意味するのでしょうか。神様は、すべての人のために、聖霊を約束されましたが、だからといって、みなが聖霊を受けることでもなく、またみなが聖霊に満たされることでもないということです。

それなら、120名の弟子たちは、どうやって神様の約束された聖霊を受けて、また聖霊に 満たされることができたのか、これから考えてみます。

使徒 1章 14節と 15節です。

14 この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。

15 そのころ、百二十名ほどの兄弟たちが集まっていたが、ペテロはその中に立ってこう 言った。

父の約束された聖霊を待ちなさいという命令を受けた、120名の弟子たちはマルコの屋上の間に集まりました。そしてみな心を合わせて祈りに専念したと聖書は証言します。すなわち120名の弟子たちは、みな同じ心を持っていたということです。その心は、どんな心だったでしょうか。イエス様が言われたその聖霊様が、約束の通りに自分に臨まれること、そして自分を治めてくださることを慕い求める心で、みな祈りに専念したということです。ここで私たちは、120名の弟子たちを通して、聖霊に満たされる秘訣を学ぶことができます。

聖霊に満たされるためには、一番目に、聖霊充満になることを信じるべきであります。

120名の弟子たちは、イエス様の約束と命令を信じてみな集まって祈りました。イエス様の命令の通りに、祈りながら待っていれば、約束された聖霊が臨まれ、また聖霊に満たされるようになることを信じたということです。そして約束を信じて祈った120名の上に、約束の通りに聖霊様が臨まれたのです。

神様は約束の通りに私たちにも聖霊様を送ってくださいました。そして神様は約束の通りに私たちを聖霊に満たされるはずです。聖霊充満は、この事実を信じる者にだけに起こると いうことです。神様の約束を信じて、聖霊充満になることを祈り続ける私たちになることを主の御名によって祝福いたします。

聖霊に満たされるためには、二番目に、聖霊充満になることを慕い求めるべきであります。

聖書は、120名の弟子たちが、十日間祈りに専念して、結局聖霊を受けたと証言しています。

 

ところが、この御言葉は、聖霊を受けるために、そして聖霊に満たされるためには、少なくとも、十日間は祈らなければならないという意味ではありません。神様の計画は、五旬節に聖霊を注いでくださることでした。すなわち弟子たちの祈りの熱心が神様の心を感動させて聖霊を受けたのではないということです。

それなら弟子たちが十日間、祈りに専念したということは、何を意味するのでしょうか。 それは、彼らが、そんなにまで聖霊を慕い求めていたという意味であります。十日間祈りに専念したというのは、聖霊を受けることを慕い求めていた弟子たちの心が、祈りという  積極的な行動を通して現れたのです。

聖霊に満たされることは、祈りの量にかかっていることではなく、聖霊充満を慕い求める 心にかかっているのです。そしてその心は、祈りという最も積極的な信仰の行動を通して 現れるに決まっています。聖霊に満たされることを慕い求めながら、祈り続ける人は、必ず聖霊に満たされるはずです。これを覚えて、いつも聖霊充満が第一の祈りの課題になる、 私たちになることを主の御名によって祝福いたします。

聖霊に満たされるためには、三番目に、聖霊充満になるまで待つべきであります。

イエス様は弟子たちに父の約束された聖霊が臨まれるまで待っていることを命じられました。そして弟子たちは、聖霊様が臨まれるまで、集まって祈りながら待ちました。

もしその中で、待つことをあきらめて、家に帰った人がいたなら、その人は、どうなった でしょうか。少なくともその日には、聖霊を受けることができなかったでしょう。五旬節の日に、120名の弟子たちが聖霊を受けた理由は、神様が聖霊を注いでくださるまで、彼らが待っていたからです。それと同じく私たちを聖霊に満たしてくださることは神様の喜ばれるみこころであり、約束でありますが、それでも、それが私たちに行われるためには、神様が聖霊に満たしてくださるまで、待たなければならないということです。

弟子たちは、このように、聖霊を受けることを信じました。また聖霊を慕い求めながら祈りました。そして聖霊様が臨まれるまで待ていたので、聖霊様の臨在を経験し、また聖霊に 満たされるようになったということです。

説教をまとめます。

私たちに向かう神様のみこころは、私たちがみな聖霊に満たされることです。すでに神様は、約束された通りに、イエス様を信じる私たちに聖霊様を送ってくださいました。聖霊様は、すでに私たちとともにおられますが、それだけでは十分ではありません。

これから私たちに必要なことは聖霊様が私たちの命と人生との主人になるように、聖霊様に主人の権利を捧げることです。そして聖霊様のみこころに従いながら聖霊充満になるために信仰の努力を続けるべきであります。

聖霊に満たされることは、聖霊充満を約束された神様の約束を信じることから始まります。そして私たちは、その約束を握って、聖霊充満を慕い求めながら、切に祈るべきであります。いつまで祈るべきなんでしょうか。聖霊に満たされるまで祈るべきであります。もちろん、120名の弟子たちのように、何もせず、ただ祈りに専念しなければならないという意味ではありません。聖霊充満になりたがる、私たちの願いと祈りが、決して止まってはいけないということです。

今日の本文で、120名の弟子たちに起こった聖霊の働きが、のぞみ教会にも起こることを 心から祈ります。聖霊充満の約束を信じて、慕いながら、待ち続ける人は、必ず聖霊に  満たされることを信じます。のぞみ家族みなが聖霊に満たされて、イエス様の弟子として、生きるようになることを、イエス・キリストの御名によって祝福いたします。

 

 

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2021/05/09 主日メッセージ   nozomich

無名のキリスト者 

2021年5月2日 ・ のぞみ教会・主日礼拝 

申告告白

聖歌 521 / 539

祈り 木村喜憲牧師

聖歌 570 / 604

聖書 使徒 1:8-14

説教 <無名のキリスト者>  木村喜憲牧師

聖歌 505 / 523

献金 <献金の祈り>  木村喜憲牧師

聖歌 383 / 376

祝福の祈り  木村喜憲牧師

 

お知らせ。

◆のぞみ教会のOpen Cell Leaderを建て上げることが出来るように祈りましょう。

[5/16 : 機関長祈り会(礼拝後)]

◆5月のお誕生日方々おめでとうございます。

[松本末子姉、高橋文治兄、朴恩恵姉、山本恵姉、小林よしえ姉、加藤孝昭兄、千葉清兄]

◆新型コロナウィルス感染拡大防止にかかる蔓延防止等重点措置に伴いまして、

5月9日まで非対面礼拝を実施します。 

◆毎週月曜日午後9時、オンライン祈祷会をZOOMで行います。

   [ 入場ID : 751 809 0278  / パスワード : YCv1GX ]

◆健康回復のためにお祈りをお願いします。

礼拝のための代表祈り 【5/16:小林哲雄兄】

5/23:高橋文治兄、 5/30:山本健太兄、 6/6:安永真一兄 

献金のための代表祈り 【5/16:木村喜憲師】

5/23:山本満代姉、 5/30:木村喜憲師、 6/6:高橋文治兄  

無名のキリスト者

 

本文 : 使徒 1 : 8 - 14

8 しかし、聖があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となり  ます。」

9 こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に()げられ、雲に(つつ)まれて、見えなくなられた。

10 イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。

11 そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。 あなたがたを離れて 天に()げられた このイエスは、天に(のぼ)って行かれるのを あなた がたが 見たときと同じ有様(ありさま)で、またおいでになります。」

12 そこで、彼らはオリブという山からエルサレムにった。この山は エルサレムの 近くにあって、安息日の道のりほどの距離であった。

13 彼らは町に入ると、()まっている屋上の間に上がった。この人は、ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと  熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。

14 この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念(せんねん)していた。

 

復活された後、40日間、弟子たちとともにおられたイエス様は、弟子たちに二つの命令を くださって、天に上られました。その40日間は、弟子たちにとってすばらしい経験でした。イエス様の復活を目撃して、さらにそのイエス様が天に上られることまで見たからです。 弟子たちはイエス様が天に上られた後、イエス様が上られたその空だけを見つめていました。

 

 

信仰生活をしてみると特別な恵みを体験する時があります。御言葉を通して悟りを得る時もあり、聖霊様の深い慰めを体験する時もあります。また聖霊の働きによって病気が治ったり、賜物が臨むことを経験する時もあります。

ところで神様の特別な恵みを体験するようになると、恵みを体験したその場を離れることが易しくありません。なぜなら神様がくださる恵みは、この世では経験できないとても甘くて、素晴らしい経験だからです。だから一度神様がくださる特別な恵みを味わうようになると、その場を離れたくない気がするのです。

本文の弟子たちもそうでした。目の前で素晴らしい奇跡を経験した弟子たちは、その場を 離れることができず、ただイエス様が上られた空だけをずっと見つめていたのです。

すると、本文 10節と 11節で、御使いが言いました。

10 イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。

11 そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。 あなたがたを離れて 天に()げられた このイエスは、天に(のぼ)って行かれるのを あなた がたが 見たときと同じ有様(ありさま)で、またおいでになります。」

天に上られたイエス様は、約束された通りに、再び来られるはずなのに、なぜずっと空だけ見つめているのかということです。すなわち弟子たちのすべきことは、恵みを経験したその場に留まっていることではなく、その恵みを抱きしめて、世の中でイエス様の命令に従う ことだという意味なんです。

私たちの信仰生活は、教会の中に制限されている場合が多いです。言い換えれば、私たちは教会の中でだけ、キリスト者として生きようとする場合が多いということです。しかし、 信仰生活とは宗教生活を意味することではなく、信仰によって生きて行く、信者の生き方をいうことです。だから主日一日間、教会で行う礼拝と奉仕が、私たちの信仰生活の全部に なってはいけません。また日常生活と信仰生活とが分かれてもいけません。私たちが生きて行くすべての瞬間が、信仰によって生きて行く信仰生活になるべきだということです。

キリスト者はこの世から隔離(かくり)されて生きる人ではありません。むしろこの世の真ん中で、 キリストを信じる者として生きる人をキリスト者と言います。イエス様が上られた空を  見つめていた弟子たちに、御使いがした話は、こんな意味を持っているのです。

しかしサタンが支配している世の中で、イエス様を信じる者として生きることは、決して 簡単なことでもなく、弱い私たちとしては不可能なことです。すなわち私たちの力では、 この世の中で信仰を守ることも、御言葉に従うこともできないということです。

11節で、御使いは、弟子たちをこう呼びました。

11 そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。 あなたがたを離れて 天に()げられた このイエスは、天に(のぼ)って行かれるのを あなた がたが 見たときと同じ有様(ありさま)で、またおいでになります。」

[ガリラヤの人たち]

ガリラヤの人たちという言葉は、一言で、[田舎者たちよ]という意味でした。御使いは、弟子たちに、イエス様がくださった使命を果たすべきだと言いながら、一方では弟子たちがどんな存在なのかを、覚えさせているのです。イエス様の復活を経験して、使徒としての 素晴らしい使命が与えられましたが、元々自分たちはガリラヤの人であることも忘れては いけないということでした。

イエス様は、ガリラヤの田舎者に過ぎない弟子たちに、どうしてそんなに素晴らしい使命をくださったのでしょうか。それは、イエス様がくださった使命は、弟子たちが成し遂げる ことではなく、弟子たちを通して聖霊様が成し遂げられるものだからです。そしてそういうわけで、イエス様は弟子たちに、まず父の約束された聖霊を待つことを命じられたのです。なぜならこの世で信仰を守りながらキリスト者として生きることは、ただ聖霊様の恵みと 力によってだけできるからです。

私たちもガリラヤ人であります。出身をいうのではなく私たちも自分の力では何もできない無力な存在であることを忘れてはいけないということです。だから私たちにも聖霊様の力と恵みが必要です。

私たちはイエス様を信じて受け入れた瞬間、すでに聖霊を受けました。しかし過ぎた時間に申し上げた通りに、ただ聖霊様が私たちの内におられることだけでは、十分ではありません。聖霊様が私たちの人生の主人にならなければ、私たちの生活には、何の変化も現れません。だからガリラヤ人の私たちがすべきことは、聖霊様が私たちの主人になって私たちの人生を治めてくださるように、すべてを聖霊様に委ねて、そのみこころに従うことであります。

 

イエス様は、キリスト者になった私たちを、教会の中ではなく、この世の中で生きさせます。キリスト者がこの世の中で生きるべき理由が何でしょうか。イエス様を信じないこの世界の絶対多数(ぜったいたすう)の人々の中で、キリスト者一人の存在が、何の意味があるでしょうか。

今日の本文には、イエス様も命令に従って聖霊様を待っていた人が、120名だったと書いています。しかしその中で名前が記録された人の数は、20名もなりません。あまりの100名の人たちは、死の日まで無名のキリスト者として生きて死んだはずです。

こんにち、この時代を生きて行くキリスト者たちも同じです。ほとんどのキリスト者たちは、この世が記憶してくれることもなく、歴史に記録されることでもない、無名のキリスト者 として人生を終えるはずです。しかし私たちが覚えるべきことは聖霊を受けたその120名のキリスト者たちを通して、この世界の歴史が変わって、またこの場にいる私たちにまで、 福音が伝われたということです。そしてこの世界は記憶してくれないとしても、イエス様は彼らのすべての労苦と信仰と献身を覚えておられるということです。

神様の御国は、そして宣教の歴史は、このように無名のキリスト者たちを通して、今まで 休まず進行されて来たのです。

19世紀にイギリスのリバイバルを(ひき)いた、チャールズ・ スポルジョン先生は、世界的に 有名な説教者であり、数多くの人たちを影響を及ぼした偉大な信仰の人です。ところが彼は、青年時代に自分の罪に対する罪責感と信仰的な苦悶のゆえに自分が不幸だと感じていました。ところである日、彼は礼拝するために新しい教会を行きましたが、大雪で説教者が教会に 来られませんでした。それで教会の信者の中で人が、御言葉を伝えましたが、スポルジョン先生の話によれば、その人は、神学教育を受けた人でもなく、平凡な労働者でした。さらに彼は言葉が下手な人で、なまりもひどかったそうです。彼は、準備された説教ではなく、 ただ自分が恵まれた聖書の御言葉を読んでから、自分の感想を話しました。ところで彼が 伝えた御言葉を聞いて、青年スポルジョンは、真理を悟って、心が変わりました。そして イギリスのリバイバルを率いた偉大な信仰の人になったそうです。しかしその日、御言葉を伝えたその人の名前は、伝われていません。

メソジスト教会の創始者でありジョン・ウェスレー先生は、宣教のために船に乗って海を 渡っている途中、嵐に会いました。ウェスレーを始め、船に乗っていたすべての人たちが 死の恐怖の中で恐れていました。ところでウェスレーは、死を恐れず、賛美して祈っているある青年たちを見ました。

彼は、嵐の中でも恐れないその青年たちの姿を見て衝撃を受けました。そして真の信仰とは何なのかについて、再び考えるようになりました。そしてその経験がきっかけになって、 彼は結局、世界的な霊的指導者になりました。しかしウェスレーにまことの信仰とは何かについて悟らせたその青年たちの名前は、知られていません。

韓国の信者たちが一番尊敬する日本の宣教師がいますが、その方は曾田嘉伊智(そだかいち)という方です。曾田先生は、若い頃酒と快楽に陥っていました。ある日も酔っぱらった彼は、意識を失って道に倒れていました。ところが彼を発見したある人が、彼を旅館に連れて行って、治療してすべての費用を出してくれました。青年曾田嘉伊智の意識が戻った時には、すでにその人はそこにいませんでした。

命を救ってくれた恩人(おんじん)なのに名前も顔も知ることができませんでした。旅館の主人に聞いたのは、彼が韓国人であり、またキリスト者だったということが全部でした。その以後、曾田嘉伊智は、自分が受けた恵みを返すために韓国に行きました。そしてそこでイエス様を受け入れて、韓国の孤児たちを育てました。彼は、死ぬ瞬間まで、1000名以上の孤児たちの父になってくれて、韓国の宣教師墓地(ぼち)に葬られました。

この世界に、スポルジョンとウェスレーと曾田嘉伊智の名前は、知られていますが、彼らを変化させ、彼らの信仰に影響を及ぼした人たちの名前は、誰も記憶していません。しかし イエス様の命令を実践しながら、無名のキリスト者として生きた彼らは、結局、世界を変化させる神様の御業に用いられました。

彼らが、誰かを変化させたり、影響を与えるために、そうしたでしょうか。そうではあり ません。彼らはただ自分に与えられた一日を信仰によって生きただけであり、また聖霊様の導きに従っただけでした。しかし聖霊のみこころに従うその小さな信仰を通して、聖霊様は、世界を変化させる素晴らしい御業を行われたということです。

たぶん彼らは、自分が神様の御国のために何をしたのかを死ぬ時まで知らなかったはずです。そして天国に行って初めて、神様が自分たちを通して行われた 素晴らしい御業を悟って 感激したでしょう。そして無名のキリスト者として生きて来た、彼らの人生に対する報いをイエス様から受けたはずです。

 

 

イエス様を信じてキリスト者になった私たちは、イエス様から偉大な使命を委任されました。しかし私たちは、相変わらずガリラヤ人に過ぎません。すなわち私たちの力でできることは何もないということです。しかし私たちが大きなことをする必要はありません。私たちは ただ自分に与えられた一日を、聖霊様の導きに従って、信仰によって生きて行くことで十分です。それがガリラヤ人であり、無名のキリスト者である、私たちにとって最善のことです。それだけができれば、聖霊様が、キリスト者として生きて行く私たちを通して、この世界に必要なことを行われるはずです。

キリスト者は、パン種のような存在です。

パンとお菓子の決定的な違いが何でしょうか。それはパン種が入っているか入ってないかの違いであります。ほんの少しのパン種が入っていることだけで生地(きじ)(ふく)らんで、固い菓子がふんわりパンに変わるということです。このように生地がパンになることにおいて決定的な役割をするパン種ですが、パン種がパンの主材料だという人は、誰もいません。

キリスト者も同じです。まことのキリスト者一人は、家庭を変化させ、グループを変化させ、社会を変化させます。キリスト者は、世界の主流(しゅりゅう)でもなく、主役(しゅやく)でもありません。しかしキリスト者には、留まっている所を変化させる力があります。なぜならキリスト者の内には聖霊様が働いておられるからです。聖霊様の導きに従って聖霊様のみこころに従いながら 生きる時、私たちは、パン種のように、私たちが留まっている所と 出会った人たちを変化させる存在になるということです。

何年前に、主任牧師先生がコーヒー講座をする時、キリスト者をコーヒーに例えた時があります。コーヒーの主成分は、水です。しかし誰もコーヒーを水だと言いません。なぜなら コーヒーと水は全然違うものだからです。それなら水をコーヒーに変えたのは、何ですか。1%しか入ってないコーヒー豆の成分が、水をコーヒーと変えたのです。すなわち水を  コーヒーとすることには、1%のコーヒー成分で十分だということです。

日本宣教について話す時、一番難しい部分が、キリスト者の比率です。日本のキリスト教 比率は、1%しかなりません。ところがその1%の中で、健全な神学を持っている福音的な 教会の比率を計算すれば、比率は0.6%になり、また生まれ変わったキリスト者の比率だけ計算すれば、日本のキリスト教比率は、0.2%になってしまいます。比率だけを見れば、 サウジアラビアと北朝鮮よりも、福音を受け入れない、霊的な荒地(あれち)のようなところがまさに日本だということです。

しかし私たちが覚えるべきことは、まことのキリスト者が一人でも存在する所なら、そこに希望があるということです。キリスト者の力は、数にあるのではなく、教会の力は大きさにあるのではありません。ほんの少しのパン種がお菓子をふんわりパンに変えるように、また1%のコーヒー成分が水をコーヒーと変えるように、まことのキリスト者一人だけいれば、家庭とグループと社会は変化が起こるに決まっています。そしてそのためにイエス様が、 私と皆さんを選択され、呼び寄せてくださったということを私たちは忘れてはいけません。

私たちのすべきことは、大きなことでもなく、複雑なことでもありません。スポルジョンとウェスレーと曾田嘉伊智を変化させた、無名のキリスト者たちがしたように、信仰によって自分に与えられた一日を生きればいいということです。そうすれば、変化と奇跡は聖霊様が起こされるはずです。

キリスト者は、塩のような存在です。

マタイ 5章 13節で、イエス様が言われました。

13 あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるの でしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。

イエス様は、私たちがこの地の塩だと言われました。塩には、二つの役割がありますね。 一つは、塩けをつけることであり、もう一つは、腐敗(ふはい)(ふせ)ぐことです。

曾田嘉伊智先生が生きた時代は、戦争の時代であり、貧困の時代でした。人が人として  扱われなかった時代であって、現実の問題があまりにも厳しくて、他の人を顧みるような 余裕がない時代でした。

そんな時代に一人のキリスト者が、酔っぱらって倒れている、曾田嘉伊智を救いました。 そして自分のお金と時間を出して、彼にイエス様の愛を施しました。人生の意味と楽しみを失ってしまった曾田嘉伊智のまずい人生に塩けをつけて、意味と楽しさを回復させた人が まさに一人の無名のキリスト者だったということです。そして曾田嘉伊智は、1000名の孤児たちの父になって、彼らの人生に塩けをつけて、人生の意味と目的と喜びを回復させてくれました。これがまさに、地の塩のようなキリスト者の存在だということです。

また無名のキリスト者は、イエス様の愛を実践することによって、曾田嘉伊智の人生が罪に陥って腐敗していくことを、(ふせ)いでくれました。

 

イエス様は、私たちがこの地の塩だと言われました。聖霊様の導きに従うキリスト者一人の存在は、世の中で塩のような役割をします。塩は、表に現れたり、目に見える材料ではありませんが、存在だけでその役割を十分に成し遂げます。それと同じく目に立つ存在でなく ても、キリスト者一人は、存在だけでも、重要な役割をするということです。

私たちは、世界を変えることはできません。しかし私たちは、福音を通して、一人の人生を変えることはできます。そして福音は、それを悟った人にとって、世界が変わるみたいな 素晴らしい事件であります。そういうわけで、私たちが福音を伝えることによって、また イエス様の愛を実践することによって、誰かが福音を受け入れるとすれば、それはその人の世界を変えることと同じことであります。

私たちが聖霊様の導きに従って、まことのキリスト者として生きれば、私たちを通して、 第2のスポルジョン、第2のウェスレー、第2の曾田嘉伊智が現れるはずです。

最後に本文 14節を読んで、説教をまとめます。

14 この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念(せんねん)していた。

私たちは、自分がガリラヤ人だという事実を忘れてはいけません。

私たちをまことのキリスト者として生きさせる方は、ただ聖霊様だけです。だから私たちは聖霊様の恵みを得て、聖霊様の導きを受けるために、祈りに励まなければなりません。

新しく始まる一週間も、与えられた状況、与えられた所で、キリスト者として生きて行く、私たちになることを心から祈ります。そして聖霊様の恵みによって、私たちの家庭と職場と生活のすべての現場の中で、パン種と塩になる、私と皆さんになることをイエス・キリストの御名によって祝福いたします。

 

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2021/05/02 主日メッセージ   nozomich

失う者と得る者

2021年4月25日 ・ のぞみ教会・主日礼拝 

申告告白

聖歌 273 / 250

祈り 木村喜憲牧師

聖歌 529 / 551

聖書 使徒 1:12-26

説教 <失う者と得る者>  木村喜憲牧師

聖歌 521 / 539

献金 <献金の祈り>  木村喜憲牧師

聖歌 383 / 376

祝福の祈り  木村喜憲牧師

 

お知らせ。

◆のぞみ教会のOpen Cell Leaderを建て上げることが出来るように祈りましょう。

◆健康回復のためにお祈りをお願いします。

礼拝のための代表祈り 【5/4: 小林哲雄兄】

5/11: 高橋文治兄、 5/18: 山本健太兄、 5/25: 安永真一兄、

献金のための代表祈り  【5/4: 木村喜憲師】

5/11: 山本満代姉、 5/18: 木村喜憲師、 5/25: 高橋文治兄

 

失う者と得る者

本文 : 使徒 1 : 12 - 26

12 そこで、彼らはオリブという山からエルサレムにった。この山は エルサレムの 近くにあって、安息日の道のりほどの距離であった。

13 彼らは町に入ると、()まっている屋上の間に上がった。この人は、ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと  熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。

14 この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念(せんねん)していた。

15 そのころ、百二十名ほどの兄弟たちが集まっていたが、ペテロはその中に立って   こう言った。

16「兄弟たち。イエスを捕らえた者どもの手引(てび)きをしたユダについて、聖がダビデの  口を通して預言された聖書のことばは、成就しなければならなかったのです。

17 ユダは私たちの仲間としてえられており、この(つと)めを受けていました。

18 (ところがこの男は、不正なことをして得た報酬で 地所(じしょ)を手に入れたが、まっさか さまに落ち、からだは()(ぷた)つに()け、はらわたが全部飛び出してしまった。

19 このことが、エルサレムの住民全部に知れて、その地所(じしょ)は彼らの語でアケルダマ、 すなわち『血の地所』と呼ばれるようになった。)

20 は詩篇には、こう書いてあるのです。『彼の住まいは荒れ果てよ、そこには住む者がいなくなれ。』また、『その(しょく)は、ほかの人に取らせよ。』

21 ですから、主イエスが私たちといっしょに生活された間、

22 すなわち、ヨハネのバプテスマから始まって、私たちを離れて天に上げられた日までの間、いつも私たちと行動をともにした者の中から、だれかひとりが、私たちとともに  イエスの復活の証人とならなければなりません。」

 

23 そこで、彼らは、バルサバと呼ばれ 別名(べつめい)をユストというヨセフと、マッテヤとの  ふたりを立てた。

24 そして、こう祈った。「すべての人の心を知っておられる主よ。

25 この務めと使徒職(しとしょく)地位(ちい)()がせるために、このふたりのうちの どちらをお選びに  なるか、お示しください。ユダは自分のところへ行くために脱落(だつらく)して行きましたから。」

26 そしてふたりのためにくじを引くと、くじはマッテヤにたったので、彼は十一人の 使徒たちに(くわ)えられた。

2017年に岡山県でマラソン大会がありました。その大会には、小学生たちも263名が 参加しましたが、驚くべきことは、263名の中で、262名の子どもたちが失格となりました。その理由は、経路(けいろ)を誘導するスタッフの誘導ミスで、262名の子どもたちがコースを間違えて しまったからです。それで262名の子どもたちは、熱心に走ったのにも、失格となりました。ところが、おもしろいことは、その中で一人は、他の子どもたちより、準備が足りなかったので、一人では最後まで走ることができませんでした。それでスタッフが、その子のそばで走りながらゴールまで導いたそうです。その結果先頭で熱心に走った262名の子どもたちは失格となりましたが、遅れて走っていた、その子は、正しいコースを最後まで走って、結局その大会で優勝したそうです。

信仰生活は、しばしばマラソン競技(きょうぎ)にたとえられます。なぜなら信仰生活はマラソン競技と似ている点が多いからです。

使徒パウロも、ピリピ 3章 13節と 14節で、こんな話をしました。

13 兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事(いちじ)に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、

14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠(えいかん)を得るために、目標を目ざして一心(いっしん)に走っているのです。

 

 

目標を目指して一心に走った選手は競技で優勝します。そして優勝した選手は、表彰台(ひょうしょうだい)の上に召されて、栄冠(えいかん)を得るようになります。それが運動選手として 最高の栄誉でした。 ところでパウロは、まるでマラソン選手が、その栄冠を得るために、目標を目指して一心に走るみたいに、自分は、神様がくださる栄光の冠を得るために、目標を目指して一心に信仰生活をしていると告白したのです。

ところが、熱心に走ったからといって、みなが栄冠を得るのではありません。間違えた道を走った262名の子どもたちが、熱心に走っても失格となりました。それと同じく信仰生活は、熱心に走ることも重要ですが、少し遅れても正しい目標を目指して走ることは、もっと重要なんです。

聖書を読んでみれば、歴史的に重要な瞬間ごとに、繰り返して現れる現象がありました。 それは、重要な瞬間に、貪りと不信仰のゆえに、神様の恵みと祝福を失う者がいて、反対に重要な瞬間に信仰を認められて、神様の恵みと祝福を得る者もいるということです。そして聖書は、神様の恵みと祝福を失う者と得る者との姿を 対照的に表しています。

40年間、荒野での生活を終えた、イスラエルの民は、やっと神様が約束されたカナンの地に入るようになりました。イスラエルの民には、カナンの異邦民族たちを征服して、その地を占領(せんりょう)すべき使命がありました。そしてカナンの地での最初の戦いはエリコとの闘いでした。エリコは、大きく、強い町でしたが、神様が命じられた通りに従えば、神様がイスラエルのために戦ってくださって、勝利をくださると約束されました。ところで神様がイスラエルに厳しく命じられたことがありましたが、それは、エリコを征服した後に、そこにある物は、何も持たずに、全部神様に捧げなさいという命令でした。

しかしアカンという人は、エリコで見た財物と派手な着物に心を奪われました。それでその中で一部を持って帰って、地に隠しました。この行動のゆえにアカンは、神様が約束された祝福の地に入ったのにも、それを味わえず、裁かれるようになりました。

反対に、その時、エリコには、ラアブという女が住んでいました。ラハブは、エリコの遊女でした。しかし彼女は、エジプトからイスラエルを救われた神様の噂を聞いて神様を恐れていて、神様を信じました。そしてその信仰によってイスラエルの民がエリコを偵察する時に、それを助けてくれました。そして、その代価として、彼女は、エリコが征服される時に、 家族とともに命を救うことができました。さらにラハブは、ユダ部族のサルモンという人と結婚して、イエス様の系図に入る祝福まで得るようになります。

イスラエルの民であったアカンは、貪りと不信仰のゆえに、自分に与えられた祝福を失って異邦人たちとともに滅ぼされましたが、異邦人だったラハブは、信仰によって神様の民に なり、イスラエルとともに祝福と救いを得るようになったということです。

次に、サムエル書を読んでみれば、神様がサウルをイスラエルの王とされました。サウルは有力な家門の子孫であって、容貌(ようぼう)から能力まで、王としての資格が十分な人でした。

イスラエルの王として最も重要な使命は、神様の命令に従うことによって、神様がまさに イスラエルのまことの王であられることを、民に教えて表すことでした。しかしサウルは、自分がイスラエルの王になろうとして、続けて神様の命令に従いませんでした。その結果、サウルは神様に裁かれ、イスラエルの王座も失ってしまいました。

反対に、その時、ベツレヘムには、ダビデという人が住んでいました。ダビデは、自分の 家族にも無視されていた、無名の羊飼いであって、王になるような能力も資格も全くない 人でした。しかしダビデは信仰の人であって、徹底的に神様に従う人でした。そして神様はそんなダビデをイスラエルの王としてくださって、さらにイエス・キリストの先祖になる 特別な祝福をくださいました。

王として十分な能力と資格を持っていたサウルは、自分に与えられた神様の恵みと祝福を 失ってしまいましたが、誰にも認められなかったダビデは、イスラエルの王としてイエス・キリストの先祖になる祝福を得たということです。

こんなことは、イエス様の弟子たちの中でもありました。イエス様は、公生涯を始められた後、12名の弟子を任命されて、3年半の間、彼らとともに生活されました。しかしその中で、イスカリオテ・ユダは、銀貨三十枚をもらって、イエス様を売ってしまいました。ところでその結果が何だったでしょうか。最後まで悔い改めなかったユダは、罪責感のゆえに自殺をして地獄に行きました。イエス様の12弟子として選択されましたが、その素晴らしい栄光と祝福を失ってしまったということです。

ところで、今日の本文を読んでみれば、イスカリオテ・ユダが失ってしまった、その栄光と祝福をマッテヤ、他の弟子が得るようになります。イエス様が天に上られて、聖霊の時代が始まる、この歴史的な瞬間にイスカリオテ・ユダは、イエス様の恵みと祝福を失う者となり、マッテヤは得る者となったということです。

 

 

今まで私たちが調べてみたように、神様の救いの歴史において重要な瞬間ごとに、神様の 恵みと祝福を失う者もいれば、得る者もいるということです。そしてそのようなことは、 私たちにも、いくらでも起こることができるということです。

自分に与えられた神様の恵みと祝福を失った者たちは、何が問題だったでしょうか。何が 彼らをして、神様の恵みと祝福を失わせたのかということです。

本文 25節に、その答えがあります。

25 この務めと使徒職(しとしょく)地位(ちい)()がせるために、このふたりのうちの どちらをお選びに  なるか、お示しください。ユダは自分のところへ行くために脱落(だつらく)して行きましたから。」

イスカリオテ・ユダが使徒職を失って、裁かれた理由が何でしょうか。それは彼が、自分に与えられた使命を捨てて、[自分のところ]へ行ったからです。すなわち神様が命じられた所、そして神様のみこころがある所へ行かずに、自分が行きたい所そして自分の欲望が導く所へ行ったからだということです。一言で言えば、神様が定められた目標を目指して行かずに、自分が行きたい目標を目指していったので、約束さえた祝福も救いも失って、栄光の冠も 得ることができなかったということです。

それなら、これから考えてみることは、信仰生活というマラソン競技で、最後まで完走(かんそう)して、冠を得るために、私たちのすべきことは何かということです。すなわちどうすれば私たちは神様の恵みと祝福を失う者にならなく、得る者になれるかということです。これに関して 三つに分けて考えてみたいと思います。

[一番目に、得る者になるためには、目標をはっきり知るべきであります。]

Ⅰコリント 9章 26節です。

26 ですから、私は決勝点(けっしょうてん)がどこか わからないような走り方はしていません。(くう)を打つような拳闘(けんとう)もしてはいません。

使徒パウロは、続けて信仰生活を運動競技にたとえて語ります。パウロは、自分は冠を得るために一心に走っているが、目標がどこかわからないような走り方はしてないと言いました。すなわちどこを向って走るべきなのか、また何のために走るべきなのか、その目標と目的をはっきり知って走ったということです。

 

この世界では、熱心と最善は、良いものだと思われます。しかし私たちが覚えるべきことは、熱心と最善は、神様のみこころと命令のもとにある時だけ、よいものだということです。

サウルは、自分なりに自分の人生に最善を尽くしました。イスラエルの民の心を得るために政治力を発揮して、戦争に勝つために軍師力を強化(きょうか)しました。イスラエルの王として生きる間、サウルは、すべての瞬間に熱心と最善を尽くしましたが、残念ながら、神様に捨てられました。なぜなら彼の熱心と最善は、いつも神様のみこころの反対側にあったからです。 すなわち彼は熱心と最善を尽くしましたが、その目標と目的が間違っていたということです。彼は自分の欲望を満たそうとする目標のために 最善を尽くして、結局神様と関係ない  その熱心のゆえに堕落して裁かれました。

パウロも自分の人生に最善を尽くした人でしたが、彼は、正しい目標を持っていました。 彼の人生の目標と目的は、いつもイエス・キリストにありまして、イエス様の恵みを得て、イエス様のみこころを行うために、熱心と最善を尽くしたのです。

またパウロは、戦う時にも、(くう)を打つような拳闘(けんとう)はしなかったと言いました。久しぶりに 軍隊の話をしますが、韓国の軍隊では、訓練する時、彼我識別(ひがしきべつ)バンドというものを付けます。これをどこに付けるかということによって、敵と味方を区別できるようにするバンドが  彼我識別バンドであります。なぜなら敵と味方が、はっきり区別されてこそ自分が戦うべき対象が誰なのかが、明らかに現れるからです。

エペソ 6章 12節で、パウロは言いました。

12 私たちの格闘(かくとう)血肉(けつにく)に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。

パウロは、私たち信者に、彼我識別をすることを言います。すなわち私たちが力を合わせるべき対象が誰で、私たちが戦うべき対象が誰なのかをはっきり区別せよということです。 そしてパウロは、私たちが戦うべき、目標がだれなのかを言いました。

[主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。]

 

 

 

私たちの敵は、そして私たちが戦うべき目標は、私たちのそばにいる人ではないということです。私たちをいじめる職場の上司でもなく、私たちを憎んでいる隣人でもないということです。私たちが戦うべき対象は、私たちを苦しめる人ではなく、私たちが御言葉の通りに 生きることを妨げる、サタンとその群れだと言うことです。

もし私たちがこの事実を悟ることができず、戦うべき目標をはっきり区別できないとすれば、結局私たちの霊的戦いは、いつもサタンの勝利で終わるようになるはずです。そして戦う べき相手を、間違えた私たちは、みな致命傷(ちめいしょう)を受けるようになるでしょう。

信仰生活という競走(きょうそう)完走(かんそう)して、栄光の冠を得るためには、目標をはっきり知らなければなりません。私たちが熱心と最善を尽くすべき目標が何であり、私たちが戦うべき目標が 何であるかをはっきり知らなければならないということです。私たちが最善を尽くすべき 目標は、イエス・キリストであり、私たちが戦うべき目標は、サタンであります。目標を はっきり知って、最後まで勝利する、私たちになることを主の御名によって祝福いたします。

[二番目に、得る者になるためには、欲望を自制すべきであります。]

Ⅰコリント 9章 25節です。

25 また闘技(とうぎ)をする者は、あらゆることについて自制(じせい)します。彼らは()ちる(かんむり)を受ける ためにそうするのですが、私たちは()ちない(かんむり)を受けるためにそうするのです。

アカンは、神様の民でした。神様の民として、祝福の地カナンに入れる資格があって、約束されたすべての祝福と救いを味わう資格のある人でした。しかし彼は、神様の民なのにも、自分の欲望を自制することができず、その結果すべての祝福と約束を失ってしまいました。

ギリシャ語で、自制という言葉は、[強い力で、押さえる]という言葉から由来した言葉です。すなわち、私たちの内に起こる欲求と欲望を、それより大きく強い力で押さえることが  まさに自制だということです。というのは、自制ができるためには、本能と欲望を押さえて、支配できるほど、より大きくて強い力が必要だという意味であります。

運動選手はいつも訓練をやめて休みたい欲望と戦うようになります。しかしそれを押さえて訓練を続けることができる理由は、休みたい欲望より、ずっと大きな勝利に対する渇望(かつぼう)が あるからです。

 

結婚した男は、どんなにきれいな女が自分を誘惑しても絶対に誘惑に陥りません。なぜなら妻に対するより大きくて強い愛が、誘惑と欲望を押さえてしまうからです。より大きな力によって、自分の中にある本能と欲望を押さえることがまさに自制だということです。

だから、自制は、愛を表す証拠でもあります。結婚した男は、不適切な欲望に対する自制を通して、自分の妻に対する愛を証明するようになります。それと同じく、私たちの間違った欲望を自制して、神様の御言葉に従うことによって、私たちは神様に対する私たちの愛を 証明するようになるのです。

それでイエス様は、ヨハネ 14章 21節で、こう言われました。

21 わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人は わたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現します。

私たちが自分の欲望を自制して、神様の御言葉に従う時、私たちの愛が証明されるという ことです。それは、言い換えれば、自制できなく、神様の御言葉に従わない者は、神様の 御前で、その愛と信仰を本物として認められることができないという意味でもあります。

使徒パウロは、勝利の冠を願う選手はあらゆることについて自制すると言いました。それと同じく、私たちは、あらゆることについて自制しなければなりません。その理由は神様から()ちない冠を受けるためであります。

神様に向う大きくて強い愛が、私たちの心に満ち溢れることを祈ります。それで神様に向うその愛が私たちの間違った欲望を押さえて、すべてのことについて自制できるようになる ことを祈ります。そのように私たちの愛と信仰が、神様から本物として認められて、神様の御国で、朽ちない冠を受ける、私と皆さんになることを、主の御名によって祝福致します。

[三番目に、得る者になるためには、チームワークが大切です。]

マラソンは、一人で走るスポーツみたいに見えますが、実はチームスポーツであります。 競技に出るまでは、コーチの計画に従って、食事から訓練まで徹底的に管理されて、競技に対して具体的な戦略を指導されます。

そして競技の間には、ともに走るペースメーカーという人がありますが、ペースメーカーは、選手が良いペースを維持しながら、最後まで完走できるように助ける人を言います。選手が興奮(こうふん)して無理したり、早く疲れ果てたりすることがないように、選手の前を走りながら  ペースを調節することがペースメーカーの役割であります。

また状況によっては、選手のペースを引き上げて、先頭のグループを保つようにすることもペースメーカーの役割です。そして競技の中で起こる、いろんな突発的(とっぱつてき)な状況をうまく乗り越えることができるように助けることもペースメーカーの役割であります。ところで信仰のマラソンを走る、私たち信者にもペースメーカーが必要です。

へブル 10章 24節と 25節です。

24 また、互いに勧め合って、愛と善行を(うなが)すように 注意し合おうではありませんか。

25 ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。

教会の信者たちは、みんなが互いに対してペースメーカーになるべきであります。互いに (すす)め合って、愛と善行を促しながら、一緒に天国に入らなければなりません。イエス様が この地に教会を建てられた理由がまさに、ここにあります。イエス様は、どこにもおられるから、一人で礼拝して自分一人で信仰生活をしても大丈夫じゃないかと言われる方もいます。もちろん今のように、コロナのせいで、オンライン礼拝を捧げるしかない場合もありますが、基本的にイエス様が願っておられるのは、教会に集まって信仰生活をすることです。

ソロモンは、伝道者の書で、こう言いました。

伝道者の書 4章 9節から 12節までです。

9 ふたりはひとりよりもまさっている。ふたりが労苦すれば、良い報いがあるからだ。

10 どちらかが倒れるとき、ひとりがその仲間を起こす。倒れても起こす者のいないひとりぼっちの人は かわいそうだ。

11 また、ふたりがいっしょに寝ると暖かいが、ひとりでは、どうして暖かくなろう。

12 もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる。三つ()りの(いと)は 簡単には切れない。

信仰生活は、霊的戦いであって、私たちの敵であるサタンは、人間の力としては、絶対に 勝つことができない強い存在であります。だから私たち信者は、必ずチームになって、  サタンとの霊的戦いをしなければなりません。なぜならソロモンが言った通りに、一人では打ち負かされる可能性が多いし、倒れても起こす者のいない人は、かわしそうだからです。他の聖書には、倒れても起こす者のいない人は、わざわいだと翻訳されています。

 

イエス様は、私たちが信仰生活というマラソンを完走することができるように、また絶対にサタンに負けないように、私たちに教会というペースメーカーをくださいました。私たちはみんなが互いに対してペースメーカーとなって助け合い、支え合い、起こすべきであります。そして私たちの目標が何かを、絶対に忘れないように、互いに教え合うべきであります。 そうしてこそ、私たちは、この信仰のマラソンを最後まで完走することができます。

またイエス様は、私たちのために、聖霊様という最高のコーチを送ってくださいました。

ヨハネ 14章 26節で、イエス様が言われました。

26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によって お遣わしになる聖霊は、あなたがたに すべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話した すべてのことを 思い起こさせてくださいます。

聖霊様は、私たちの行くべき道と走る方法を、私たちに教えてくださるお方であります。 そして私たちに力と知恵をくださる方も聖霊様であります。聖霊様の恵みと助けがなければ私たちは、絶対に信仰生活を最後まで完走することもできず、正しい目標を目指して走る こともできません。

そういうわけで、信仰生活は、チームワークが何よりも大切だということです。のぞみ教会で出会うようになった一人一人は、神様が明らかな目的と計画を持って遣わしてくださった私たちのペースメーカーです。そして私たちが、キリスト・イエスにおいて、上に召して くださる神様の栄冠(えいかん)を得るためには、隣にいる兄弟姉妹の助けとチームワークが、必ず必要です。のぞみ教会がイエス・キリストにあって、一つになることを祈ります。それで一人も脱落(だつらく)せずに、みんなが神様の御国に入って、栄光の冠を得るようになることを、主の御名によって祝福いたします。

説教をまとめます。

私たちは、神様の恵みと祝福を失う者になってはいけません。信仰によって神様の恵みと 祝福を得る者になるべきであり、また朽ちない栄光の冠を得る者にならなければなりません。

神様が私たちにくださる栄冠は、一等でゴールに到達した人にだけ与えられるものではありません。信仰を持って最後まで完走した者なら、誰もが得られる冠であります。だから他人より少し遅れても大丈夫です。時には、道を迷う時もあり、倒れて起きることを繰り返す 時もあるかもしれまえんが、それでも大丈夫です。

聖霊様の導きに従って、走り続ければ、そしてのぞみ教会というペースメーカーとともに 走れば、必ず信仰のマラソンを完走することができます。

この一週間も、互いに対してペースメーカーになって、支え合い、助け合い、祈り合い、 慰め合いながら、主が備えられた恵みと祝福を得る、私と皆さんになることを イエス・ キリストの御名によって、祝福いたします。

 

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2021/04/25 主日メッセージ   nozomich

なぜ十字架なのか

2021年3月21日 ・ のぞみ教会・主日礼拝 

申告告白

聖歌 417 / 418

祈り 木村喜憲牧師

聖歌 280 / 261

聖書 ルカ 23:13-25

説教 <なぜ十字架なのか>  木村喜憲牧師

聖歌 555 / 579

献金 <献金の祈り>  木村喜憲牧師

聖歌 383 / 376

祝福の祈り  木村喜憲牧師

 

お知らせ。

◆のぞみ教会のOpen Cell Leaderを建て上げることが出来るように祈りましょう。

3月の教会歴及び予定  ◆http://www.nozomich.net◆  

[2/17-4/3 : 四旬節] ― [3/29-4/3 : 受難週間] ― [4/4 : イースター]

[3/11  : 機関長祈祷会(11時に行いました。)]

[3/28 : 牧会協力委員会祈り会(礼拝後)]

◆3月14日から教会での集会礼拝を再開します。 

◆三戸貴史兄(賛美リーダー)のお母さんが、2021年3月17日午後、天に召されました。

 主の慰めのお祈りお願いします。

 

◆新型コロナウイルス感染拡大防止にかかる緊急事態宣言の延長に伴いまして、

非対面礼拝を2週間延長し、3月28日から教会での集会礼拝を再開します。 

◆健康回復のためにお祈りをお願いします。

礼拝のための代表祈り 【3/28:山本健太兄】

4/4:安永真一兄、 4/11:三戸貴史兄

献金のための代表祈り 【3/28:高橋文治兄】

4/4:木村喜憲師、 4/11:山本満代姉

 

 

なぜ十字架なのか

 

本文 : ルカ 23 : 13 - 25

13 ピラトは祭司長たちと指導者たちと民衆とを呼び集め、

14 こう言った。「あなたがたは、この人を、民衆を惑わす者として、私のところに連れてたけれども私があなたがたの前で取り調べたところ、あなたがたが訴えているような罪は別に何も見つかりません。

15 ヘロデとても同じです。彼は私たちにこの人を送り返しました。見なさい。この人は、死罪(しざい)たることは、何一つしていません。

16 だから私は、()らしめたうえで、釈放(しゃくほう)します。」

17 (ない)

18 しかし彼らは、をそろえて叫んだ。「この人を(のぞ)け。バラバを放しろ。」

19 バラバとは、(みやこ)に起こった暴動(ぼうどう)人殺(ひとごろ)しのかどで、牢に入っていた者である。

20 ピラトは、イエスを放しようと思って、彼らに、もう一度呼びかけた。

21 しかし、彼らは叫びけて、「十字架だ。十字架につけろ」と言った。

22 しかしピラトは三度目に彼らにこう言った。「あの人がどんないことをしたという のか。あの人には、死にたる罪は、何も見つかりません。だから私は、懲らしめた うえで、放します。」

23 ところが、彼らはあくまで主張しけ、十字架につけるよう大で要求した。そして ついにそのが勝った。

24 ピラトは、彼らの要求どおりにすることを宣告(せんこく)した。

25 すなわち、暴動と人殺しのかどで牢に入っていた男を願いどおりに放し、イエスを 彼らに引き渡して好きなようにさせた。

 

 

神様は、罪によって死ぬしかない私たちのために一人だけの息子イエス様をキリストとしてこの地に遣わされました。そしてキリストとしてこの地に来られたイエス様が、私たちを 救われた方法は、十字架でした。聖書は、十字架につけられたイエス・キリスト以外には、罪人の私たちが救われる方法がないと証言しています。

今日は、神様が一人子をキリストとして遣わされた理由、そしてイエス様が、十字架の上で死ななければならなかった理由について、皆さんと一緒に考えてみたいと思います。

人間にとって最も大きな絶望はすべての人が罪人として生まれるということです。生まれたばかりの赤ちゃんは、何の罪も犯さなかったのに、なぜすべての人が罪人として生まれるというのでしょうか。十字架と救いを理解するためには、私たちは、まず罪とは何なのかを 理解する必要があります。

初めに神様が創造された人間は、罪人ではありませんでした。創世記 1章 27節は、初めに神様が創造された人間が、どういう存在だったのかを説明します。

27 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

人間は、もともと神様のかたちとして創造された、聖なる存在でした。ところで人類の先祖であるアダムが、サタンの誘惑に陥って、神様が禁じられた、善悪の知識の木の実を取って食べてしまいました。そしてその時から人間は罪人になったのです。

果物一個食べたことが、そんなにまで大きな罪なのかと思われるかもしれません。しかし 聖書を読んでみれば、アダムがそれを食べた理由は、神様のようになりたがる欲望のため だったということが分かります。すなわちアダムが神様の命令を破って、それを食べたのは、神様に対する裏切りであり、また反逆(はんぎゃく)だったということです。

ローマ 5章 12節には、こう書いてあります。

12 そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類(ぜんじんるい)に広がったのと同様に、―それというのも全人類が罪を犯したからです。

人類の先祖アダムが、罪を犯して罪人になった後、アダムを通して生まれた子孫、すなわち全人類は、みんな罪人として生まれるようになって、その罪の代価として死が世界に入ったと聖書は証言しています。一言でアダムの罪が、すべての人類に遺伝(いでん)されたということです。

アダムから罪が遺伝されて、彼のすべての子孫が罪人として生まれるようになったという ことが何を意味するでしょうか。それは、罪というのは、行いの概念でなく、命と存在の 概念だということです。すなわち人間は、罪を犯したから罪人になるのではなく、生まれ ながら罪人という存在として生まれるということです。

最近、生まれて一度も女という存在を見ることができなかった男の物語を聞きました。ある人が生まれてすぐに修道院(しゅうどういん)に捨てられました。彼は修道院中で修道士たちとともに住んで、自分も修道士になって一生涯修道院の中でだけ生きたそうです。それで彼は、82歳で死ぬ時まで、女という存在を一度も見ることができなかった男として記録されたそうです。

ところで生まれながら厳しい修道院で修道士として生きた彼も罪を犯したでしょうか。心の中では、悪い考えをしたかもしれませんが、たぶん行動では、罪を犯さなかったはずです。それなら一度も悪い行いをしたことがない彼は、罪人ではないと言えるでしょうか。

そうではありません。与えられた環境のゆえに罪を犯すことはなかったですが、もし彼も 私たちと同じ環境で生きたなら、私たちと同じく罪を犯したはずです。聖書はすべての人が罪人だとはっきりと証言しています。聖書が言われる罪人とは、罪を犯した人をいうのではなく、罪人の命を持っている存在を意味することです。

初めに神様は、人間を聖なる存在として創造されて、聖なる命を与えられました。しかし 人間が罪を犯した瞬間、人間の命の中に罪が入りました。そのように人間の命は罪によって汚れて、汚染(おせん)されました。そして心も悪魔のように邪悪になってしまいました。その時からこの世には、犯罪と戦いと苦しみと悲しみが続くようになりました。

罪人になった人間は、人間を不幸にするものが罪であることを悟って、罪の問題を解決するために続けて努力しました。良い行いを通して、教育を通して、そして哲学(てつがく)とか修行(しゅぎょう)を 通して、罪から逃れて義人になるためにいろんな努力を続けました。しかし人間のどんな 努力も罪の問題を解決することができませんでした。なぜならどんな方法でも存在を変えることはできないからです。すなわち犬を教育させて、猫に変えることが不可能であるように教育や訓練を通して罪人を義人に変えることは不可能だということです。

ある先生の青年時代の話を聞いたことがあります。その頃先生は田舎から都会に引っ越して、友人と二人で生活していたそうです。まだ仕事もなく、お金もなかったので、電気をつけることもできず、ご飯も存分に食べることができませんでした。おかずは、田舎から持って 来た醤油が全部でした。

先生は、電気が入らない真っ暗な台所に醤油の(つぼ)を置いといて、一か月間、醤油をおかずにしてご飯を食べたそうです。

ところで大掃除をしたある日、台所を掃除していた友たちが、いきなり悲鳴をあげながら、飛び出しました。それでその先生が台所に入ってみると醤油の壺の中にネズミ一匹が落ちて、死んでいましたが、もうかなり時間が過ぎて、毛も全部抜けて色も白くなっていたそうです。二人はそんなことも知らずに、一か月間、その醤油でご飯を食べたのです。

それなら、彼らは、その醤油をどうしたでしょうか。ネズミだけ取り出して、再び醤油を 食べたでしょうか。そんなわけがないでしょう。その醤油は、全部捨てなければなりませんでした。なぜならネズミを取り出すとしても、醤油が再びきよくなるのではないからです。ネズミが入った瞬間から、その醤油は、汚染(おせん)されて食べることもできず、清くすることも できなくなったのです。

罪人とは、こういう存在をいうのです。罪に汚染されて、再び清くすることも、直すこともできない命と心を持っている存在がまさに罪人だということです。

人間が罪人になった代価は、残酷(ざんこく)でした。神様との約束を破って、神様を裏切った瞬間から人間は、神様から受けたすべての良いものを失ってしまって、その代わりに、ものすごい 運命を迎えるようになりました。罪人になった代価は、大きく三つでした。

[一番目に、罪人になった代価は、死でした。]

創世記 2章 17節で、神様が言われました。

17 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、 あなたは必ず死ぬ。

神様は罪の代価が罪だと警告されましたが、その死は、アダムが神様との約束を破った瞬間ほんとうに起こってしまいました。ところで聖書には、アダムが930で死んだと書いてあります。神様は、善悪の知識の木の実を食べると必ず死ぬと言われたのに、どうしてアダムは、すぐに死なず、930年も生きて死んだのでしょうか。

神様が言われた死というのは、霊的な死を意味することでした。言い換えれば、罪を犯した代価は、神様に対して死ぬことであって、その結果、罪人になった人間は、神様との関係が、断絶されてしまいました。それで人間は、自分の知恵では神様を知ることもできず、神様と交わることもできなくなってしまったのです。

罪人になった人間は神様がご自分のことを表して、教えてくださらなければ、神様の存在を悟ることも、神様の助けを求めることもできない存在になってしまったということです。 これがまさに神様が警告された死の意味でした。そして神様から断絶された結果、人間は、肉体の死も迎えるようになったのです。

人間は、神様から命と力と知恵と幸せを供給されて生きるように創造された存在であります。しかし神様との関係が断絶された人間は、命と能力を供給されることができず自分が持っている資源だけを持って生きるようになりました。それで自分が持っている資源の限界を解決するために人間は、絶えず競争して、戦いながら生きるようになり、また幸せになることが人生の目標でありながらも、ほんとうに幸せになることができなくなったのです。

[二番目に、罪人になった代価は、呪いでした。]

神様は、人間を世界の王のような存在として創造されましたが、サタンに従った瞬間から 人間は、サタンの奴隷に転落(てんらく)してしまいました。またこの世界は、神様が人間に与えられた祝福と幸せを味わう場所として作られましたが、人間が罪人になった時から世界は呪われて災害と試練と悲しみの場所になってしまいました。

神様が人間に対して建てられた原則は、単純です。神様の律法を守って従えば、祝福を受け、律法を破ったら、呪われます。ところで罪人になった人間の問題は神様のみこころの通りに生きられる能力が全くないということです。神学者たちは、このような罪人の状態に対して全的堕落(ぜんてきだらく)道徳的無能力(どうとくてきむのうりょく)という言葉で説明します。全的堕落というのは心が完全に堕落して良いところが全くない状態を言います。そして道徳的無能力というのは、神様のみこころがなにか、そして正しいことが何かを知りながらも、それを選択することができない状態を 言います。

ローマ 1章 18節と 19節で、使徒パウロは、こう言いました。

18 というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。

19 それゆえ、神について知られることは、彼らに明らかです。それは神が明らかにされたのです。

 

 

すなわち罪人は、神様がどういう方なのか知りながらも神様を信じなく、神様のみこころが何か知りながらも神様のみこころに従わないということです。そして神様に対する敵対感のゆえに神様に従うことを断ることがまさに罪人の状態だということです。そしてその結果、罪人は、自分の選択に対する代価として、約束された呪いを受けながら、不幸せな人生を 生きるしかないということです。

[三番目に、罪人になった代価は、裁きでした。]

へブル 9章 27節は、こう言います。

27 そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、

罪人になった結果として、人間は、いつか必ず肉体の死を迎えるようになります。ところでその死の以後に、罪人は自分の罪に対する代価を払はなければなりませんが、その代価は、永遠の死または、滅亡とも呼ばれる地獄の刑罰であります。罪人は自分の罪に対する代価を地獄で永遠に払わなければならないということです。

このように人間が罪人になった代価は、死と呪いと裁きだということです。ところで問題は、人間には、自分の絶望的な運命を避けることも、変えることもできないということです。

しかし私たちを愛される神様は、私たちが罪によって滅びることを願いませんでした。

ヨハネ 3章 16節です。

16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を  信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

愛が満ち溢れる神様は、罪人の私たちをあまりにも愛されて、一人だけの息子を私たちの ためにキリストとして遣わされることにしました。そしてキリストであられるイエス様は、私たちを罪から救われるために、そして死と呪いと裁きから救われるために十字架の上で 死んでくださいました。

神様は、創造主であり、全能なるお方であるのに、代価を払わずに人間を赦されることは できなかったでしょうか。なぜ罪人を赦すために、神様の息子イエス様が死ななければならなかったでのしょうか。

私たちが覚えるべきことは、神様は、愛の神様でありますが、また正義の神様だということです。神様は私たちに対するご自分の愛をあきらめることができないように、罪に対して 正義を行われることもあきらめることができないお方であります。

ところでイエス・キリストの十字架は、神様の愛と神様の正義とを両方とも成し遂げられる神様の方法でした。

ローマ 5章 8節は証言します。

8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださった ことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

神様は罪人を救われるために、一人子イエス様を十字架の上で裁かれました。そのように キリスト・イエスに、私たちの罪に対する徹底的な裁きを行われることによって、神様は 正義を成し遂げられました。またそのように私たちを救われることによって私たちに対するご自分の愛をも成し遂げられたのです。

また十字架は、私たちを罪と死と呪いと裁きから救われる神様の方法でした。人間は絶対に罪を解決することができません。しかしイエス・キリストが十字架の上で流された血潮が、私たちの罪を解決されました。

へブル 9章 12節です。

12 また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所(せいじょ)に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。

イエス・キリストが私たちのための贖いのいけにえになって私たちの代わりに十字架の上で死んでくださいました。イエス様が私たちのために流されたその血潮によって、私たちの すべての罪が完全に赦されたのです。

また黙示録 1章 5節には、こう書いてあります。

5 ...イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から()(はな)ち、

イエス・キリストが十字架で流された血潮によって、私たちは罪から解放されたということです。ここで[解き放つ]という言葉は、[破壊する]、また[無効化する]という意味を持っているギリシャ語です。すなわちイエス・キリストが十字架で、私たちの代わりに死んでくださったので、私たちを縛っていた、罪の力が破壊されて、罪の影響力が無効化されたということです。結局イエス・キリストが十字架で死んでくださったので、私たちの罪が赦され、私たちが罪から完全に解放されたということです。

このようにイエス様は、十字架を通して私たちの罪の問題を完全に解決してくださいました。

 

イエス様の十字架は、私たちが受けるべきだった、罪の代価も全部解決してくださいました。

先ほど申し上げた通りに、一番目に、罪人になった代価が、死でした。そしてその死というのは、神様に対する死であり、神様との関係が断絶されることを意味します。

ところがⅠペテロ 3章 18節は、こう証言しています。

18 キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったの です。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神の  みもとに導くためでした。

イエス様が私たちのために死なれた理由は、私たちを神様のみもとに導いてくださるためだということです。罪によって神様の敵となった私たちを神様と和解させるためにイエス様が十字架につけられました。イエス様は十字架を通して、断絶された神様と私たちとの関係を再び回復させました。さらにイエス様は、復活の命を私たちに与えてくださって、私たちに神様の子どもとされる素晴らしい特権を与えてくださいました。これがまさにイエス様が 十字架を通して、私たちに与えられた素晴らしい恵みであります。

二番目に罪人になった代価は、呪いでした。

罪人の人生は、一生涯呪いに呪いを重ねる人生であります。それがまさに罪人としての悲劇なんです。しかしイエス様は十字架を通して私たちのすべての呪いを祝福に変えてくださいました。

いつかも申し上げましたが、ユダヤ人たちにとって一番呪われた死は、木にかかって死ぬ ことでした。木にかかって死ぬことは、最も大きな恥であり、また一番大きな呪いでした。ところでイエス様がつけられたその十字架は、木で作られた十字架でした。

ガラテヤ 3章 13節です。

13 キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。

イエス様は、一番呪われて恥ずかしい死を迎えられました。人類を救われるキリストの死は、崇高(すうこう)な死でも、美しい死でもなかったということです。イエス・キリストは最も悲惨な死を迎えられました。ところで聖書は、イエス様が呪いの十字架で死なれた理由は、私たちを すべての呪いから贖い出してくださるためだったと証言しています。すなわちイエス様は 私たちの代わりに呪われるために、自ら十字架の死を選択されたということです。

もし、イエス様の死が崇高(すうこう)で、美しい死だったならば、私たちは呪いから逃れることができなかったということです。そのように十字架のイエス様を通して、罪人の私たちが受ける べき、すべての呪いが完全に解決されたのです。

また全的に堕落して、道徳的に無能力な罪人である私たちは、絶対に神様のみこころに従うことも正しい道を選択することもできない存在です。すなわち罪に汚染した命と心を持っている人間は、生きて行きながら、続けて罪を犯し、呪いに呪いを重ねるしかないということです。

ところでローマ 6章 6節で、使徒パウロは言いました。

6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、 私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知って  います。

使徒パウロは、私たちの古い人が、キリストとともに十字架につけられたと証言してます。イエス様が十字架につけられた時、罪人である私たち、すなわち罪に汚染した私たちの命と心をイエス様の十字架にともにつけてくださったということです。そしてイエス様が復活 された時、イエス様の復活の命を信じる者たちに与えてくださって、もはや信じる私たちはイエス・キリストにあって神様のみこころの通りに生きることができるようになりました。なぜなら罪人の命と心が十字架につけられて死んだからです。これがイエス様が十字架を 通して私たちに与えてくださった素晴らしい恵みであります。

三番目に、罪人になった代価は、裁きでした。

ところで、ヨハネ 5章 24節で、イエス様が言われました。

24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを  遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死から  いのちに移っているのです。

イエス様を信じてイエス様を自分の主人として受け入れた者には、永遠の命が与えられます。そしてその瞬間から私たちの運命は、死と裁きから永遠の命と祝福に移ります。なぜなら、罪人の私たちが受けるべき裁きをイエス・キリストが代わりに受けてくださったからです。イエス様の十字架は、罪人に対する神様の正義の裁きが行われる所でした。罪人に対する 神様の怒りが注がれる所であって、裁き主である神様が罪人の私たちに死刑を宣告される 所でした。そして十字架は、罪人に対して少しの憐れみや慈悲も赦されない所でした。

ところで私たちが受けるべき、その怒りの裁きを、イエス様が私たちの代わりに受けてくださったということです。そしてイエス様が私たちの代わりに、そのものすごい裁きを受けてくださったので、私たちが今日、平安の中で主の御前でその御恵を賛美することができるのです。これがまさにイエス様が十字架を通して、私たちに与えてくださった素晴らしい恵みであります。

説教をまとめます。

イエス様の十字架は、私たちをすべての罪から解放させる神様の方法でした。イエス様の 十字架は、霊的に死んでいた私たちを、神様の子どもとして生まれ変わらせる、神様の能力でした。イエス様の十字架は、私たちをすべての呪いから贖われるための神様の知恵でした。そしてイエス様の十字架は、私たちを怒りの裁きから永遠の命に移された、神様の驚くべき御業でした。このすべてのことは、十字架のイエス様を通して私たちに与えてくださった、神様の素晴らしい恵みだったということです。

イエス・キリストは、すべての人類のために、この素晴らしい恵みを授けてくださいました。しかし十字架の恵みはすべての人が味わえるものではありません。ただイエス・キリストを信じてイエス様を自分の主人として受け入れた者だけが、この恵みを味わうことができます。

また、信者だからといって、みんなが十字架の恵みを味わえることでもありません。   フィガルという先生は、こう言いました。

[十字架の恵みは、私たちが信仰を行使(こうし)する時だけ、体験できる恵みだ。]

イエス・キリストを信じて、私たちが救われたという事実は、変わらない事実であります。しかし救われた後にも私たちは罪を犯します。そしてイエス様を信じているのにも私たちは、相変わらず罪の影響力の中で生きて行きます。なぜでしょうか。それは私たちが信仰を行使(こうし)しなかったからだということです。

私たちが罪より解放されることは、私たちの古い人が死んだという事実を信じて認める時、実際になることです。自分の思いと欲望に従って生きた過去の自分は、イエス様とともに 十字架に死んだという事実を信じて認める時、そしてイエス様を自分の主人として認めて、従う時、私たちは罪の影響力から完全に解放されるということです。

 

 

多くの信者がイエス様を信じながらも、相変わらず自ら自分の人生の主人になろうとします。そして自分の思いと欲望に従って、神様と関係ない人生を生きて行きます。そういう人は、まだ自分の古い人が十字架に死んだという事実を受け入れてないことです。そして自分の 古い人が死んだことを信じない人は、信者でありながらも、依然として罪の影響力の中で、罪人のように生きるしかないということです。

十字架の恵みは、信仰を行使(こうし)する時だけ、味わえる恵みです。十字架の上で死んだのは、 イエス・キリストだけでなく私たちの古い人もともに死んだという事実を、絶対に忘れてはいけません。

イエス様の十字架は、私たちの人生の主人を変えました。もはや私たちの人生の主人は、 イエス・キリストであられることを覚え、いつも信仰の中で、十字架の恵みを豊かに味わう私たちになることを、イエス・キリストの御名によって祝福いたします。

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2021/03/21 主日メッセージ   nozomich

三つの十字架

2021年3月14日 ・ のぞみ教会・主日礼拝 

申告告白

聖歌 417 / 418

祈り 木村喜憲牧師

聖歌 540 / 562

聖書 ルカ 23:1-12

説教 <三つの十字架>  木村喜憲牧師

聖歌 593 / 631

献金 <献金の祈り>  木村喜憲牧師

聖歌 383 / 376

祝福の祈り  木村喜憲牧師

 

お知らせ。

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3月の教会歴及び予定  ◆http://www.nozomich.net◆  

[2/17-4/3 : 四旬節] ― [3/29-4/3 : 受難週間] ― [4/4 : イースター]

[3/11  : 機関長祈祷会(11時に行いました。)]

[3/28 : 牧会協力委員会祈り会(礼拝後)]

◆3月14日から教会での集会礼拝を再開します。 

◆新型コロナウイルス感染拡大防止にかかる緊急事態宣言の延長に伴いまして、

非対面礼拝を2週間延長し、3月28日から教会での集会礼拝を再開します。 

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礼拝のための代表祈り 【3/28:山本健太兄】

4/4:安永真一兄、 4/11:三戸貴史兄

献金のための代表祈り 【3/28:高橋文治兄】

4/4:木村喜憲師、 4/11:山本満代姉

三つの十字架

 

本文 : ルカ 23 : 1 - 12

1 そこで、彼らは全員が立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った。

2 そしてイエスについて訴え始めた。彼らは言った。「この人はわが国民を惑わし、  カイザルに税金を(おさ)めることを禁じ、自分は王キリストだと言っていることがわかり ました。」

3 するとピラトはイエスに「あなたは、ユダヤ人の王ですか」と尋ねた。イエスは答えて、「そのとおりです」と言われた。

4 ピラトは祭司長たちや群集に、「この人には何の罪も見つからない」と言った。

5 しかし彼らはあくまで言い張って、「この人は、ガリラヤからここまで、ユダヤ全土で教えながら、この民を扇動(せんどう)しているのです」と言った。

6 それを聞いたピラトは、この人はガリラヤ人かと尋ねて、

7 ヘロデの支配下にあるとわかると、イエスをヘロデのところに送った。ヘロデもその ころエルサレムにいたからである。

8 ヘロデはイエスを見ると非常に喜んだ。ずっと前からイエスのことを聞いていたので、イエスに会いたいと思っていたし、イエスの行う何かの奇蹟を見たいと考えていたからである。

9 それで、いろいろと質問したが、イエスは彼に何もお答えにならなかった。

10 祭司長たちと律法学者たちは立って、イエスを激しく訴えていた。

11 ヘロデは、自分の兵士たちといっしょにイエスを侮辱(ぶじょく)したり嘲弄(ちょうろう)したりしたあげく、はでな衣を着せて、ピラトに送り返した。

12 この日、ヘロデとピラトは仲よくなった。それまでは互いに敵対(てきたい)していたのである。

 

 

今日の本文には、まるで誰が一番罪深い者なのかを(きそ)う、競演大会(きょうえんたいかい)みたいだという思いがするほど、多くの悪人たちが登場しまうす。本文に出てくる人々の姿には、真実もなく、 正義もなく、愛も感じられません。ただみんなが、自分のためにうそをつきながら真実から目をそらすだけです。

ところで、私たちが本文の御言葉を通して見る人々の姿は、十字架につけられる前に、  イエス様が最後に見ておられた人間の姿でした。人類のために十字架を背負って行かれる イエス様が最後に見ておられた人間の姿は、愛らしい姿でもなく、かわいそうな姿でもありませんでした。十字架の前でイエス様が見られた人間の姿は、あまりにも邪悪で、利己的な姿であって、イエス様はそんな人間たちのために十字架を負わなければならなかったのです。

人間の愛には、理由が必要です。すなわち愛すべき理由があってこそ愛を施すことが人間であり、また愛される資格がある存在だけが愛されるのが、私たち人間の愛だということです。ところで、人類のために十字架を背負って行かれるイエス様が見ておられた人間の姿は、 愛すべき理由もなく、愛される資格もない、完全な罪人の姿だったということです。

エペソ 2章 2節と3節で、使徒パウロは、私たち人間がどういう存在であるかを説明します。

2 そのころは、それらの罪の中にあって この世の流れに従い、空中(くうちゅう)の権威を持つ支配者として 今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。

3 私たちもみな、かつては 不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら 御怒りを受けるべき子らでした。

罪人である私たち人間は、自分では罪から逃れることも、より良い存在になる可能性もない存在だということです。一言で、罪に染まった命と腐っている心で続けて罪を犯し、一生涯悪魔に従って生きて、ついには悪魔とともに滅ぼされるしかない存在がまさに人間だということです。それがまさに聖書が言われる罪人という存在であります。

しかし感謝すべきことは、それにもかかわらず、神様は、愛される資格が全くない私たちを愛してくださるということです。

エペソ 2章 4節と 5節で、使徒パウロは、続けて証言します。

4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、

5 罪過(ざいか)の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、―あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです―

イエス様が私たちの代わりに十字架にかかって死なれたのは、私たちに少しでも愛される ような資格があったり、より良い存在になれる可能性があったからではありませんでした。神様が私たちを愛された理由は、ただ一つでした。それは神様が憐れみ深く愛が満ち溢れるお方だったからです。すなわち愛が満ち溢れる神様が、愛される資格がない私たちを愛することに決められたから、私たちが救われるようになったということです。

5節でパウロは、私たちが救われたのは、ただ恵みによるのだと証言しました。私たちが 恵みによって救われたというのは、救いに関する重要な事実を表しています。

聖書で[恵み]という言葉の定義は、[受ける資格のない者に与えられる、神様の贈り物]という意味です。すなわち私たちが恵みによって救われたという言葉は、私たちに救われる ような資格があったからでなく、ただ神様の恵みであり、また神様からの一方的な贈り物 だったということです。すなわち私たちの救いにおいて、私たちが寄与(きよ)したり、貢献(こうけん)した ことが全くないということです。

どうして神様は、愛される資格も理由もない私たちを、そんなにまで愛されて、甚だしくは私たちを愛されるために、一人子イエス様までも私たちに与えることができたでしょうか。私たちの考えと知識としては、神様の愛を理解することもできず、その恵みの深さを測る こともできませんが、使徒ヨハネは、その理由を一言で説明します。

Ⅰヨハネ 4章 16節です。

16 私たちは、私たちにする神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。

神様が私たちを、そんなにまで愛された理由は、神様は愛だからだということです。神様は愛その自体であり、愛の始めであり、愛に満たされておられるお方だから、死んで然るべき罪人である私たちまでも、ご自分の全部を与えてくださるほどに、愛されたということです。すなわち私たちが救われた唯一の理由は、神様が愛であられるからだったということです。

続けてヨハネは、神様からそんな愛を受けた私たちには、守るべき命令があると言いました。

Ⅰヨハネ 4章 21節です。

21 神を愛する者は兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。

神様の条件のない愛によって救われた私たちは、もはや私たちが神様から受けた通りに、 兄弟を愛しなければならないということです。

私たち人間は、人を愛するためには確実な理由が必要ですが、人を憎むことには特に理由が必要ではありません。韓国のことわざの中で[嫁のかかとが、卵みたいだ。]という言葉があります。ある女が自分の嫁、すなわち息子の妻をとても憎みました。それを見てある人が、いったいなぜそんなにまで嫁を憎むのか、彼女に尋ねました。すると彼女の答えがまさに [嫁のかかとが、卵みたいだから]だったそうです。ところでそれが嫁を憎むような理由になるでしょうか。かかとが卵みたいになめらかなことは、むしろ長所ですね。カメの甲羅(こうら) みたいなかかとよりは、卵みたいになめらかなかかとがいいじゃないですか。

[嫁のかかとが、卵みたいだ] ということわざは、人を憎むことには、特に理由が必要ではないという意味です。すなわち人を憎み始めると憎むような理由がなくても憎いということです。

なぜ私たちは、他の人を愛するためには条件が必要ですが、他の人を憎むことにおいては、理由と条件がなくても憎むようになるのでしょうか。それは私たちの心に残っている罪の 本姓が続けて憎みを作り出すからです。だから私たちは、私たちの心が導く通りに生きる ようになると私たちは続けて憎みと罪の実を結ぶしかないのです。

神様が私たちを愛された通りに、私たちも他の人を愛するためには、まず私たちの心が、 神様の愛と恵みで満たされなければなりません。

いつかも申し上げたことがありますが、あるラビが弟子とともにいる時、ならず者たちが 来て彼を嘲弄(ちょうろう)しながら侮辱(ぶじょく)しました。しかしそのラビは、彼らの行いに対応せず、むしろ彼らを祝福したそうです。彼らが離れた後、ならず者たちに対するラビの対応が不満だった弟子がラビに聞きました。

[あいつらは、先生を嘲弄(ちょうろう)して侮辱(ぶじょく)を与えたのに、なぜ先生は、あいつらを祝福されたのですか。]

するとそのラビが、弟子にこう言ったそうです。

[人は誰も、自分が持っているものだけを、他の人に与えることができるのです。]

私たちは、自分が持っているものだけを他の人に与えることができます。他の人を憎んで いるというのは、現在自分の心に憎みがあるという証拠なんです。もちろん、他の人が先に私たちを憎んだり、害を与えたから、憎むようになったかもしれません。

しかし原因が誰にあるか、また誰のせいなのかということとは関係なく、私たちが誰かを 憎んでいるというのは、すくなくとも憎んでいる間は、私たちの心を憎みが満たしているということを表すということです。しかし、もし私たちの心が神様の恵みと愛で満たされて いるとすれば、私たちはあえで意識しなくても、他の人に愛と恵みを施すようになるということです。

神様の条件のない愛によって救われた私たちには、他の人を愛すべき命令が与えられました。ところで、そうするためには、まず私たちの心が神様の愛で満たされなければならないと いうことです。

それなら私たちは、どうやって自分の心を神様の愛と恵みで満たすことができるでしょうか。私たちの心が神様の愛と恵みで満たされるためには、まずすべきことがありますが、それは、もともと自分がどういう存在だったのかを覚えることです。

私の記憶によれば、私がのぞみ教会でした説教の中で、最もたくさん話した言葉は、  [私たちは、死ぬしかない罪人だ。]という言葉であります。イエス様を信じて受け入れた私たちは、すでに罪を赦され、救われました。すでにイエス様を信じて救われたのに、なぜ私たちが罪人だったという事実を思い出させるのでしょうか。なぜなら神様の恵みは自分の罪と霊的な無力さを告白するところに注がれるからです。

ローマ 5章 20節で、使徒パウロは、こう言いました。

20 律法が入って来たのは、違反が()(くわ)わるためです。しかし、罪の増し加わるところ には、恵みも満ちあふれました。

神様の律法がする役割は、私たちの罪を悟らせることです。私たちの心の中に隠されている罪を悟らせて、私たちが死ぬしかない罪人であることを悟らせることがまさに律法の役割だということです。そして律法は、自分の罪を悟った私たちを、イエス・キリストの十字架の前に連れて行きます。すなわち自分の罪のゆえにイエス様が代わりに死なれたという事実、また自分は、ただイエス・キリストの愛と恵みによって救われたという事実を思い出させることがまさに律法の役割だということです。

御言葉を通して自分がどれほど邪悪で、弱くて、不完全な存在なのかを悟るようになると 私たちはイエス様に頼るしかないし、イエス様の助けを求めるしかありません。そして  イエス様の十字架の恵みは、そのように自分の罪と霊的な無力さを認めて、イエス様に頼る者、そしてイエス様の助けを求める者の上に注がれるということです。

十字架の恵みは、ただ自分が罪人であることを覚える者にだけ与えられる恵みです。自分が死ぬしかない罪人だったという事実を覚える時、イエス・キリストが自分のために授けて くださった愛と救いが、素晴らしい恵みだという事実も覚えることができるということです。

私が10年前に見た映画の中で、印象深(いんしょうぶか)かった場面がありました。ある人が、犯罪人たちに新しい人生を生きさせるために、小さな村を作りました。そして死刑囚たちを救い出して、彼らに新しい人生を生きられる機会を与えました。

彼らは、昼には農業を営んで、夜には聖書を学びながら、新しい人生を始めました。死ぬ しかない運命から逃れて、新しい機会を得るようになった彼らの心には、感謝が溢れました。しかし時間が経ちながら、彼らは自分たちがもともとどういう存在だったのかも忘れて、 また自分たちが過去に犯した罪も忘れてしまいました。死ぬしかない死刑囚だった自分の 過去を忘れると彼らは再び罪を犯し始めました。彼らに新しい機会を与えた人が、彼らの 罪を責めながら、悔い改めることを話すと彼らはこう言いました。

[そんな話は、もうやめてください。あなたの話を聞いていれば、まるで自分が罪人にでもなったような気分になって、気持ちが良くありません。]

自分たちが死ぬしかない死刑囚だったことを覚えている間、彼らに与えられた新しい生活は、恵みと感謝が溢れました。しかし自分の過去を忘れた瞬間からは、自分に与えられた恵みも感謝も消えてしまったということです。

キリスト教の象徴が十字架である理由は、私たちが死ぬしかない罪人だったという事実を 思い出させるためです。十字架を見ながら、私たちが覚えるべき事実が二つあります。  一つは、イエス・キリストが私たちのために十字架の上で死なれたという事実、そしてもう一つは、その十字架は、もともと私たちがかかるべき十字架だったという事実です。

罪人であった過去を覚えるべきだという言葉は、罪責感を持って生きなければならないと いう意味ではありません。自分に与えられた救いと永遠の命が、イエス・キリストの恵みによって与えられたという事実を覚えるために、そして私たちの心が、十字架の愛と恵みで 満たされるために、私たちはもともと自分がどういう存在だったのかを覚えるべきだということです。今までの話をまとめます。神様の愛によって救われた私たちには、受けた通りに他の人をも愛すべき使命が与えられました。しかし他の人を愛するためには、まず私たちの心が神様の愛と恵みで満たされなければなりません。なぜなら私たちは、自分が持っている物だけを他の人に与えることができるからです。

ところで私たちの心をイエス・キリストの愛と恵みで満たすためには、もともと自分がどういう存在だったのかを忘れてはいけません。なぜなら御言葉を通して、自分の罪と霊的な 無力さを悟って、イエス様に頼り、イエス様の助けを求める時、十字架の愛と恵みが、  私たちの心に注がれるからです。

ある先生は、毎日イエス様の恵みで満たされるために、自分は、毎朝ゴルコタの丘に登ると言います。それがどういう意味なんでしょうか。ゴルコタはイエス様が十字架につけられた所であり、また罪人の私たちが死ぬべきだった所です。その先生は、神様の御言葉を通して毎日自分が死ぬべき理由、すなわち自分の心に隠されている罪を捜して、告白するそうです。なぜなら使徒パウロが言った通りに、罪の増し加わる所には、恵みも満ちあふれるからです。

私たちもゴルコタの丘に登ることから、一日を始めるようになることを祈ります。聖書の 御言葉を通して、毎日私たちが死ぬべき理由を発見し、自分の罪と霊的な無力さに対する 絶望を持って、もっと固くイエス様に頼るようになることを祈ります。それで私たちの心に十字架の愛と恵みが満ち溢れて、その愛と恵みによって、私たちも隣人を愛するようになることを、主の御名によって祝福いたします。

再び本文に戻ります。十字架につけられる前にイエス様が見ておられた人間の姿は、邪悪で利己的な姿でした。

お金をもらってイエス様を売ってしまった、イスカリオテ・ユダ。

イエス様を三度も知らないと言った、ペテロ。

自分の利益を守るためにイエス様を殺そうとした、宗教指導者たち。

イエス様を訴えるために偽証をした、ユダヤ人たち。

そしてイエス様に罪がないことを知りながらも政治的な目的でイエス様を十字架につけた、ポンテオ・ピラト。

皆さんの考えには、この中で、一番罪深い者は、誰だと思われますか。そして聖書は何を 言われるために、こんなに悪い者たちの姿を聖書に記録しているのでしょうか。本文で、 多くの悪人たちの姿を現している聖書が、結局私たちを連れて行く所はゴルコタの丘です。ゴルコタの丘には、三つの十字架が立っていました。

 

 

ルカ 23章 32節と 33節です。

32 ほかにもふたりの犯罪人(はんざいにん)が、イエスとともに死刑にされるために、引かれて行った。

33「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架に つけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。

イエス様の十字架の左と右には二人の犯罪人もともに十字架につけられました。他の福音書には、彼らが強盗(ごうとう)だったと証言しています。強盗という言葉の通りに、彼らは一生涯多くの罪を犯した人たちであり、死んで然るべき人たちでした。ところが死を目前にした、最後の瞬間に、二人の人生は、正反対に流れてしまいます。

ルカ 23章 42節と 43節です。

42 そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い 出してください。」

43 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」

左側の強盗は、最後までイエス様を非難し、人々を呪いながら死にました。そして彼は、 地獄で自分が犯した罪の代価を自分で払うようになりました。

しかしイエス様の右側の強盗は、最後の瞬間に自分の罪を悔い改め、イエス様を受け入れて天国に行きました。右の強盗も死んで然るべき罪人であり、救われる資格のない人でした。そんな彼が救われたのは、使徒パウロが言った通りに、ただイエス様の恵みによるのでした。

聖書が十字架につけられたイエス様とともに、二人の強盗の姿を、私たちに見せてくれる 理由が何でしょうか。イエス様の左と右にいた強盗の姿は、イエス様の十字架の前に立っている人類の二つの姿を意味します。

結局聖なる神様の御前では、すべての人が罪人だということです。そして誰の罪がもっと 大きいか、誰がもっと罪深い者なのかというのは、あまり重要ではないということです。 神様の御前では、ただイエス様を受け入れた罪人とイエス様を受け入れなかった罪人がいるだけなんです。

イエス様を受け入れた罪人は、自分の救いのために寄与したり、貢献したことがなくても 神様の御前で義と認められて、天国に入るようになります。なぜならイエス・キリストの 恵みによって、すべての罪が赦されて、すべての罪の代価が完全に払われたからです。

しかしイエス様を受け入れなかった罪人は、地獄で自分の罪の代価を自分で払わなければ なりません。なぜなら聖書が言われた通りに、罪の代価は死であり、死後には裁きを受けることが定まっているからです。

今日の本文には、邪悪で利己的な多くの悪人たちの姿が記録されています。その中で誰の 罪が一番大きいでしょうか。そしてその中で誰が一番罪深い者なんでしょうか。

ゴルコタの丘に立っていた三つの十字架は、この質問に対して私たちに確実に答えています。この世で一番大きな罪は、イエス様を十字架につけた罪ではありません。そしてこの世界で一番罪深い者は、イエス様を裏切った者でも、またイエス様を十字架につけた者でもあり ません。

イエス様を受け入れない罪が一番大きな罪であり、イエス様を受け入れなった者が、一番 罪深い者であります。イエス様を裏切っても、またイエス様を十字架につけて殺しても  悔い改めて、イエス様だけ受け入れると赦されて天国に行きます。しかしイエス様を受け 入れない人は、絶対に赦されることも、救われることもできません。

これがまさに、ゴルコタの丘にある三つの十字架が私たちに与えるメッセージであります。

説教をまとめます。

私たちは神様の偉大な愛のゆえに救われました。私たちには、神様に愛される資格もなく、救われるような資格も全くありませんでしたが、ただ神様の恵みによって救われました。 そのように神様から条件のない愛と恵みを受けた私たちには、新しい命令が与えられました。それは、私たちが神様に受けた通りに、私たちも兄弟に愛を施すことです。

この使命を果たすことができるように、まず毎日聖書の御言葉を通して、自分が死ぬべき 理由を捜しましょう。そして自分の罪と霊的な無力さを悟ったならそれを持ってイエス様の御前に進み、もっと固くイエス様に頼りましょう。自分の罪を悟って、イエス様に頼り、 助けを求める人の上に、イエス・キリストが十字架の愛と恵みを注いでくださるはずです。

私と皆さんを通して、より多くの人がイエス様を受け入れて十字架の恵みを悟るようになることを祈ります。イエス・キリストの恵みによって救われたすべての人が、その素晴らしい愛と恵みの中で、永遠の命を味わうようになることを、イエス・キリストの御名によって 祝福いたします。

 

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2021/03/14 主日メッセージ   nozomich