恵みの雨

2020/07

キリストと共に生かされた恵み

2:4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、

 2:5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――

 2:6 キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

 2:7 それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした

2:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

 2:9 行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

 2:10 私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。

 

 

のぞみ教会・主日礼拝(2020年7月26日) 説教者:李鍾賢牧師

エペソ2:4-10 キリストと共に生かされた恵み

2:4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、

 2:5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――

 2:6 キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

 2:7 それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした

2:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

 2:9 行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

 2:10 私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。

 

罪人の姿を、神の怒りの下にあるものとして描いた使徒パウロは、それがすべてではなく、神の愛の対象でもあることを示します。

そして自分の犯した罪過と「罪とによって霊的に死んでいたところから、

神がキリストと共に生かしてくださったという事を語るのです。

それが神の憐みであり、愛であり、恵みであると語っています。

 

自分の罪過と罪との中に死んでいた者であった人々をキリストと共に生かしてくださったのは、1:9-20のところで、信じる者たちの内に働くその神の驚くべき力とは、キリストを死人の中から蘇らせた神の御業です。

 

ですから信じる私たちをキリスト・イエスにあって、共に甦らせてくださったわけです。

自分の罪過と罪との中に死んでいた者であった私たちが、霊的に生かされたのは、信仰によってですが、そのことをここでは、キリスト・イエスにあってという言い方で表しております。

この言葉は、使徒パウロの手紙の中に繰り返し出てきます。

 

この言葉は何よりもまずイエス・キリストの霊的一体性を言い表わしております。

聖書では第一のアダムにあって、すべての人は一体であると教えています。そのことは、すべての人が生まれながらにして罪人であるという事を意味しています。

 

しかし同時に第二のアダムであるイエス・キリストを信じる人々は、イエス・キリストと一体だと教えています。

つまり、イエス・キリストにあるすべての霊的祝福を頂くことが出来るという事です。

アダムにあるという事は、すべての人にとって生まれながらの事です。

 

キリストにあるという事は信仰によらなければなりません。

そこで聖書は、いくつかの例を挙げて、キリストと信じる者たちとの関係を説明しています。

 

その一つは、葡萄の幹と枝という関係です。

この関係は、キリストから命が注ぎ込まれていることを表わしています。

 

さらにキリストと教会を新郎と新婦として教える例えからも、ふたりは一体であると教えられます。

このように、キリスト・イエスにあるとは、信仰によるキリストとの一体性を意味し、それゆえに、キリストのあらゆる祝福に与ることが出来るわけです。

 

それではキリストのあらゆる祝福とはどういうものでしょうか。

それはキリストにある命です。

1ヨハネ 5:11 そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。

 5:12 御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。

 5:13 私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。

 

これは、霊的死および神の怒りの下にはもはやいない事を意味します。律法に対して自由にされているという事を意味します。

死んだ者であるという事から自由にされているという事を意味します。

 

しかし、さらに積極的には、キリストの命にあずかることが出来、そのことによってキリストに似る者となることが出来るという事を意味します。

そして新しい命にあって歩くことが出来ることです。

新しい知性、新しい意志をもって歩くことが出来ます。

また新しい心を持つことが出来るのです。

 

使徒パウロが「ここであなた方が救われたのは、恵みによるものであると述べられます。

ここで救われたと言われている言葉は、神の救いの御業が私たちの内になされて、その結果、今救われているという状態を表わしています。

 

キリストと共に天の御座に着かせていただいたという事は、何よりもキリストと共にすべてのものを支配するという事を意味します。

 

へブル10:12-13は次のように記しています。

10:12 しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、

10:13 それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。

 

座に着くとは、完成のしるしがあり、休まれる事を意味します。

私たちもキリストにあるものとして、キリストと共にこの天の座に着くことを許されています。

 

キリストは私たちのために永遠のつぐないを成し遂げてくださいました。

そして神は、天のところへ私たちを招いてくださいました。

ですから、キリストにあって私たちはいま、安全であり、安全な者とされたのです。

私たちはその素晴らしい勝利を本当に喜び味わって生きるべきです。

 

私たちをこのように死から命へ、悪魔の支配下から聖霊の支配下に入れてくださったのは、神の恵みの栄光を表わすためにほか説明出来ません。

使徒パウロは、それをこの素晴らしい豊かな恵みを、キリスト・イエスにあって私たちに下さった素晴らしい神の愛を、来るべきのちの時代において、示すためであると述べています。

 

神の驚くべき恵みは、世の終わりまでは、教会を通して表わされています。またそれをこの世に示していくのは、教会の責任であり、使命です。

そればかりでなく、何よりもまず第一に、それは教会の大きな特権なのです。

キリストと共に生かされ、今天の御座にキリストと共に着くことを許されている者たちの特権です。

 

 

恵による救い2:8-10

 2:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

 2:9 行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

 2:10 私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。

 

救いのメッセージは福音であり、その内容はキリストの十字架上の贖いですが、その性格は神の恵みです。

まり、私たちが救われたのは、神の恵みによることです。

その以外は何もありません。

 

使徒パウロは、自分が救われた時の事をよく知っていました。

タソルのサウロと呼ばれた彼は、ユダヤ教の律法学者として、キリスト教の教会を迫害していました。

そのキリストに敵対していた者なのに、神は捨てず、霊的に死んでいた状態から、キリストと共に生かして下さり、悪魔の支配下から聖霊の支配下に入れてくださったのです。

 

私たちが今このようにして罪と悪魔のもとから解放してくださったのは、神の恵みです。

ですから、神の恵みによって救われたことを、使徒パウロは「あなた方が救われたのは、恵みによるのであり、それは信仰を持って受けたからである」と説明しています。

 

救いの源は、けっして私たちの側にはありません。

私たちの信仰にもありません。 救いの源は神様にあります。

つまり、神様の恵みによってのみです。

 

罪の中に霊的に死んでいた私たちに命を与え、愛してくださったのは神様ご自身でありました。

ですから、私たちの誇るべきものは何一つありません。

このようにして、神の驚くべき救いの御業が私たちの身の上に成就しました。

 

使徒パウロは何と言っているのでしょうか。

「私たちは神の作品」であると言っています。

私たちは神によって造られた者たちです。

つまり、私たちが今クリスチャンになったのは、神の御手によってそうされたと言うのです。

 

私たちの業ではなく、神の御業によって、キリスト者にされたのです。

私たちが何か一所懸命に努力した結果、キリスト者になったのではありません。

私たちが何かを決心からではなく、私たちが立派な事をしたからではなく、キリスト者となったのではありません。

 

また私たちがキリストを選んだからではなく、キリスト者になろうと思ってなれたのではありません。

神が私たちを選んでくださり、神が私たちを造り変えて、神がキリスト者にしてくださいました。

 

これはただ単なる使徒パウロの考えではなく、神がそう言われたのです。

私たちがキリストに従うことを決心したからキリスト者とされたのではなく、

神が私たちをキリスト者としてくださったので、キリストに従う決心が出来たのです。

 

キリスト者はキリストを信じる事によって神が新しい被造物として創り直してくださった者たちです。

ですから、この新被造物は、良い業を行なうはずです。

 

神様はこのような者として、私たちを新しく造ってくださいました。

私たちが神によって救われたのは、神の御業によるのです。

 

その信仰すら神が賜物として与えてくださいました。

これが、行いによるのではなく、 神がキリスト・イエスの十字架によって、私たちを救って下さったという事です。

それこそ恵みほかありません。私たちはただ神をほめたたえ、神に感謝するべきです。

 

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2020/07/26 主日メッセージ   nozomich

私たちの希望

のぞみ教会 主日礼拝[2020年7月12日] 説教者:李鍾賢牧師

エペソ 2:4-

2:4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、

私たちの希望

 

 

のぞみ教会 主日礼拝[2020年7月12日] 説教者:李鍾賢牧師

エペソ 2:4-

 

2:4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、

私たちの希望

 

現代世界は、色々面で恐ろしい危機的な時代だと思います。

聖書は事実を土台として、人間はどういう者なのかを教えています。

それはまず、第一に人間が罪人であるという事実と、

霊的に死んだ者であったという事実です。

 

この事実は何を意味するのでしょうか。

生まれながらの罪人である、私たちは絶対に良い事をする事が出来ないという事です。

 

ある人々は、山上説教を守ることにキリスト教の中心があると考えています。

そしてしきりに心の貧しい人になろうとし、また悲しい者になろうとします。

また右の頬打たれたら、左の頬を向けようとします。

自分に敵対する人を愛そうと努めます。

そうすることによって、クリスチャンになりうると考え、また救われるのだと考えます。

 

しかし、聖書は決してそのような事が生まれながらの人間に出来るとは教えていません。

もしも私たちが自分の力で立派な人間になれるとしたら、

キリストの十字架の贖いは全く無用の長物と化してしまうでしょう。

私たちが自分の力で自分を救う事が出来ないからこそ、キリストの贖いがあったのです。

そのことを、聖書ははっきりと教えます。

私たちは罪過と罪の中に死んでいた者であると言っているのです。

 

死んでいるという断定は私たちが自分の力で自分を罪の中から救い出すことの出来ない者であるという事、つまり自分の力で、心の貧しい人や悲しむ者になろうとしても、

到底不可能なこと、また右の頬を打たれた時に左の頬を向けようとしても、出来ない事たとい出来たとしても、その相手を愛することは出来ない事を言ってのけているのです。

 

そして私たちがそのような有様であるのは、悪魔の支配下にある存在だからなのです。私たちは、どうして自分がこんなに善に対して弱く、悪への誘惑にすぐ負けてしまうのか不思議に思う事があります。

それは超人間的存在である悪魔が私たちのうちに働いているからです。

 

私たちはすぐに他の人と争い、戦おうとします。

人類の歴史が戦争の繰り返しの歴史であったのは、私たちがそのような存在であるという事を証しています。

そのことについて、ヤコブはその手紙の中で、次のように教えています。

 

 

私たちは、自分が決して立派な者ではなく、むしろ利己的な者であり、

どんなに根強い者であるかという事を知っています。

 

しかもそれが、ただ単に悪いというような法則性のものであるだけではなく、

悪魔という超人間的実在によって支配され、その奴隷となってしまっているという事に気付かされるべきです。

 

ですから、私たちにもしも希望があるとするならば、

それは私たち人間の内側にあるのではなく、人間とは別のところに求めるべきです。

 

神様は私たち人間をお創りになりました。

愛情を傾けて私たちをお創りになったのです。

ところが、人間はその神の愛と信頼と期待を裏切ってしまいました。

そのような者に対して、神様は何の未練がありましょうか。

 

ノラ犬に手をかまれたとしても、それはやむを得ないことです。

しかし、自分が愛情を傾け尽くして来た飼い犬に手をかまれたということになると、

もう赦すことは出来ません。   

ちょうどそれと同じように、神はたちどころに、

神への反逆者である人間をたち滅ぼしてしまってもよかったはずです。  

 

しかし神はそれをなさいませんでした。神は長く待たれたのです。

その間、何も手を打たれなかったのではなく、

神はその尊い一人子イエス・キリストをこの世に遣わし、私たちを罪から救い出すために、そのイエス・キリスト十字架につけ、永遠の贖いを成し遂げるように

着々と準備をなさいました。  

 

多くの予言者を通して、そのことを語られました。

予言した通りそのことをエルサレムのゴルゴタで成し遂げられました。

ここに神の私たちに対する存分の愛が示されました。

 

私たち罪人のうちには何一つ希望もありませんし、またその可能性すらありません。

しかし、そのことによって、私たちは絶望する必要がありません。

私たち人間の側には何一つ望みはなくとも、私たちをお創りになさった神が私たちを見捨てられなかった以上、私たちにも望みは残されています。

 

現代は確かに八方<はっぽう>ふさがりの世界です。

まことに暗黒な世界です。

 

しかし、この暗世界にあっても、私たちには望みがあります。

それこそ神ご自身です。

 

 

私たちの造り主であり、私たちを罪から救い出してくださる救い主の神が

私たちを見守って下さるという事、この事以上どこに、私たちの望みがありますか。

 

この罪の世における唯一の希望は、この世界の造り主であります。

唯一の生ける真の神、またイエス・キリストにおいてご自身を表してくださったお方にあります。

 

セルマ・トムソンの「輝ける城壁」という小説があります。彼女は作家ではなく主婦でしたが、「輝ける城壁」を書き、アメリカでベストセラー作家になりました。  

彼女の話がとても興味深いです。

第二世界大戦当時20代だった彼女は軍人と結婚しました。

 

今も健在であればだいぶ年を召しているでしょう。20代で結婚した陸軍士官の夫の派遣先はカリフォルニア東部のモハーウェ砂漠の近くの基地でその近くに住まざるを得ない状況になりました。

 

今モハーウェ砂漠の近くには村が出来てレストランもあり、エアコンもありますが、1945年頃だったらエアコンもなかったし、砂漠での生活はたやすくなかったはずです。昼間は50度越え、朝晩は冷え込みます。

周囲は原住民とメキシコ人ばかりでアメリカ人はいません。

 

結婚した後でしたので、息が詰まるような状況の中で一日二日、

一か月二か月と暮らしても耐えられなくなり、父親に手紙を書きました。

「これ以上ここでは暮らせないから全部置いて家に帰りたいです」

 

父親が送った返事の手紙には二行の簡単なものでした。

「二人の男性が牢獄の中から小さな窓の外を見ていた。

一人はぬかるみをみており、もう一人は星を見ていた」

 

この手紙を受け取って20代の娘は何度も読み返し父親が伝えたかった事を悟り、

自分の間違いを悟ったのです。

 

それから彼女は考えを変え始めました。

自分はぬかるみの中にいるのではなく、ここで何かできるだろうと考え、

言葉は通じなくても源住民と関係を築き始めました。

 

そのうちに彼らは砂漠の生活に彼女を引き込んだのです。

虫を見せてくれたり、砂漠に連れて行きこれまで見ることの出来なかった美しい自然や砂漠から見る空の星などを見るようになりました。

 

彼らの生活の中に入って何かを学んだり彼らからのプレゼントをもらったりしながら

彼女に大きな変化が訪れました。

その経験をもとに小説を書くことになりました。

出版サイン会で彼女はこのように話しました。

「砂漠で生きる間<お前は不幸で孤独だ希望なんでない>というサタンのささやきと何と幸いな人だろうあなたをここに導いたのは神であるここで新しい夢を見なさい>という神の御声も聴きました。

 

でも私はサタンの声には耳を塞ぎ神の御声を聴きながら今日ここに立ているのです」

そう告白したのです。

彼女はクリスチャンでした。彼女の父親もクリスチャンだったのです。

 

自分に与えられた状況が誰のせいなのかも問うべきです。

しかし、神の前で自分の状況と時についてなぜそれが起きたのかと誰かを恨み批判する前に神が私に与えた状況からこの事を通して神が成そうとされるのかという信仰で状況を見る人でなければ神が約束されたこの上なくよい人生を歩むことが出来ません。

 

神様は私たちが喜んで幸せに生きることを願っておられます。

今皆さんの心にはどんな考えが浮かびますか。

 

「この状態で神が語るこの上ない良い人生を生きるためには余計なことは言わないで口座に百憶円入れてくだされば何の心配もせず余裕を持って人に仕えて生きるだろう」と私たちは考えます。

 

そんな人を見て神様は何と言うでしょうか。

「百憶円を使い切ったらどうするんだ」「百憶円あれば死んでも残る」本当にそうですか。

 

お金さえあれば老後の問題もなく子供も立派に育てられるから余計なことは言わず十分なお金を下さるならこの上ない人生を生きられる」そう思うならすでに神を信じようとはせずにお金を神のように信じているのです。

 

もし何かを求めるなら自分のためにではなく、他人のために神のために求めるべきです。

「すべてが整えられた上に神が居れば最高だ」ではなく、何も持たないようでも神が共におられる事ですべてを持つ者のように神を喜んで生きる人生を神が私たちに教えておられます。

 

神に立てられたその場所で神によって喜び、神が許された状況に絶望し恨むのではなく、ここで成そうとされる何かがあるはずだと考え喜ぶ人になることがこの上なく良い人生に入る門となるのです。

 

環境を変えてくださいと祈る前に私を変えてくださいと祈りましょう。

のぞみ教会の信者として又自分の仕事場、今生きている場所が神の許された場所なのです。

 

 

環境が変えることよりも自分が変えることが重要です。私たちが変り、強くなれば

環境は問題になりません。

私たちが先です。

 

神様は永遠に変わらないお方です。

私たちに与えられた状況と時は、ふさわしく与えられたものであり、

その中に神の祝福が隠されているのです。

このような神を知るなら恐れるしかありません。

 

偉大な神を見る時、すべてを完璧に成し遂げる神を見る時、失敗のない神を見る時、

めちゃくちゃにした人生でもその状況さえも祝福の機会に変えてくださる神を見る時、神を敬い恐れるしかない者へと変えられる。

そんな態度を持つ者でなければ今日与えられた事に喜びこの上なく良い人生を歩むことが出来ないのです。

 

水が入ったコップを傾てれば水が出ます。コーラならコーラが出てくるように

私たちの心に何があるかによって言葉が決まるのです。

ですから、主の恵みを頂いて励ましの言葉を語り、神に愛され、これから希望のある

人生を歩みましょう。

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2020/07/12 主日メッセージ   nozomich