恵みの雨

2020/03

神を知る

神を知る1:17-19

エペソ1:17 どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。

1:18 また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、

1:19 また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。

 

 

のぞみ教会 主日礼拝[2020年3月22日] 説教者:李鍾賢牧師

神を知る1:17-19

エペソ1:17 どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。

1:18 また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、

1:19 また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。

 

 

使徒パウロは祈りを続けています。

感謝から始まった祈りは、エペソをはじめ、アジヤ州の諸教会の兄弟姉妹たちのために、心から願いを込めた祈りを進んで行きます。

 

そしてまず彼らが神様をよく知る事が出来るために、

神を知るための知恵と啓示の御霊を、与えてくださいますように祈っています。

神様をよく知ることはクリスチャンにとっては大事なことであります。

私たちの信仰の成長は、どれだけ深く神を知っているかによるのです。

神様を本当に知ることによって、私たちは神様の被造物であって、

被造物としての自覚を持って生きることが出来るのです。

 

そうすると、創造主である神様に対する絶対依存の態度が生れてまいります。

このように神様がどのようなお方であるかと言う事は、私たちの信仰の基本です。

聖書にはこう書いてあります。

マタイ1:23 「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。

その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)

1:24 ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、

その妻を迎え入れ、

1:25 そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、

その子どもの名をイエスとつけた。

 

ルカ1:34 そこで、マリヤは御使いに言った。

「どうしてそのようなことになりえましょう。

私はまだ男の人を知りませんのに。」

 

神様を知るという事は、決して神様についての単なる知的認識の事ではありません。

ユダヤ人が知るという場合、それは、決して単なる知的認識ではなく、

人格的、体験的知り方を指しています。

箴言1:7 主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。

9:10 主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。

 

つまり、頭だけで知るという観念的なものではありません。

そこには神様に対する恐れがあると同じに、また愛があり信頼があるというものです。

そしてこれこそ成長したクリスチャン、成長した教会の特徴であると言えるのです。

エペソ4:13 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。

 

神様は霊ですので私たちの目には見えないお方です。

神様は誰にも制限されません。 人に制限されるのは、神様ではなく偶像です。

1コリント10:20 いや、彼らのささげる物は、神にではなくて悪霊にささげられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。 

 

神様は霊なので何でもご存じであり、何でもお出来になるお方です。

人間は霊的な存在なので神様に会うのが救いであります。

人間の霊は肉体の中に止まる時のみ、救いの機会となります。

 

霊である神様は人間を救うために人としてこの世に来られました。

ヨハネ1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

 

へブル 4:15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。

 

ピリピ 2:6 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、

 2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。

 

その方には罪はありません。その方は神様です。その方がイエス・キリストです。

その方は神性と人生を持っているお方です。

 

ところで、この神を知るための知恵と啓示の御霊を、私たちに与えてくださらなければならないと言われています。

私たちが神様をよく知るためには、御霊の助けが必要です。

そのために、神様は私たちに御霊を与えて下さると言うのです。

その御霊は知恵の御霊であり、啓示の御霊です。

 

パウロのこの祈りをよく見て見ますと、御霊と共に、父なる神様と御子イエス・キリストが出てまいります。

この御霊を私たちに与えて、私たちが神をよく知ることが出来るようにして

下さるのは、私たちの主イエス・キリストの神である栄光の父だと言っています。

1:17 どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、

神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように

 

しかし、使徒パウロはすぐに言いかえて、栄光の父と言っているのです。

イエス・キリストは永遠の昔から神と共におられ、又、同時に神であられました。

しかし、またイエス・キリストは父なる神からこの世に遣わされました。

この地上にあって祈られた時、神は天にあって開かれ、又イエス・キリストに

よって栄光を与えられました。

 

【エペソ1:17 どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。

1:18 また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、

1:19 また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。】

 

ここでは、心の目が明らかにされるという事がまず言われますが、知恵と啓示との御霊が与える時、私たちの心の目は明らかにされます。

心とは、聖書においては、単に感情の座なのではありません。

知・情・意の全人格の中心の占める座なのです。

 

この心の目が明らかにされる時、神をさらに良く知る事が出来るようになります。それについて、使徒パウロはここで三つのものを挙げています。

第一に、神の召しによって与えられる望みです。

第二に、生徒たちの受け継ぐべき御国栄光の富です。

第三に、私たち信者のうちに働く神の偉大な力です。

 

この三つのものは、よく見ると、過去、未来、現在について神の恵みであると言う事です。

第一のものは、神が私たちをキリストの救いに召し入れて下さった時に与えられた望みです。その望みというのは、その内容について言えば、将来のことですが、

その望みが与えられた時期について言えば、もう与えられているわけで、

過去のものです。

 

しかし、その望みがどんなに素晴らしいものなのか言いますと、一度与えられただけで終わるものではありません。

使徒パウロはその素晴らしさをわかることを願い、祈っています。

 

第二のものは、私たちクリスチャンが世の終わりに、受け継ぐようにと備えられている御国の栄光に輝いた素晴らしさです。

これについては、すでに11節、14節のところで申し上げました。

 

しかし、神の御国に行くことが出来るというだけではなく、神の国の相続人とされていることの素晴らしさは、常に味わうべきです。

過去と将来にだけ神の恵みがあるのではありません。

神の恵みは、現在においても十分あります。

それが第三のものとして述べられていることです。

 

それは、私たち信仰のうちに働く神の偉大な力です。

それらをあるいはかさね、あるいは繰り返すことによって、

使徒パウロは、神が私たち信じる者たちのうちに成して下さる働きが、

どんなに驚くべきものであるかを述べようとしています。

それは、たしかに信じる者たちのうちになされる神の働きです。

 

パウロが、このように神の驚くべき力が今信じる者たちのうちに働いているという事を述べているのです。

彼の疲れを知らない働きの秘訣は、実に彼のうちに生きて働いている神ご自身の働きであったのです。

 

信者になる時、それ以前の生活とは全く変わってしまうのは、この点においてです。イエス・キリストを信じる事により、それ以来、神が内に働いてくださることによって全く違った勝利の生活を送ることが出来るようになるのは、この神の驚くべき力によります。

 

果たして私たちはそれを本当に経験しているのでしょうか。

それは、キリストを死人の中から蘇らせることが出来た神の全能の力です。

それを神は今、信じる私たちのうちに働かせて、キリストの復活の場合と同様、

まったく驚くべき事を成してくださいます。

 

それを、皆さんは心から信じているでしょうか。

もしもまだ十分に信じる事が出来ないなら、それは、その神の力をまだよく知らないのではないでしょうか。

使徒パウロは、神をさらに良く知ることが出来るならば、この私たちのうちに働かれる神の力をも知ることが出来ると言っています。

そうするとき、超自然的な驚くべき力のある生活を送ることが出来るのです。

 

使徒パウロが神様の驚くべき力が今信じる者たちのうちに働いているという事実を述べ、それがエペソを始めアジヤ教会の兄弟姉妹たちが知るように祈っている事は、これを知ることによって、どんなに信仰生活が力強いものになるかを、

彼は知っているからです。

 

イエス・キリストは生まれる数百年前から、どこで、どのように生まれるのかが予言されました。

又、死んだ後甦ることによって、ご自身が神であり、救い主であることを証明されました。

イエス・キリストを信じる私たちは確信を持って証人となる一週間となりますように祈ります。

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2020/03/28 主日メッセージ   nozomich

御霊の保証

のぞみ教会 主日礼拝(2020年3月8日) 説教者 李鍾賢牧師

エペソ1:13-16 御霊の保証

 1:13 またあなたがたも、キリストにあって、真理のことば、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。

1:14 聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。

1:15 こういうわけで、私は主イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対する愛とを聞いて、

1:16 あなたがたのために絶えず感謝をささげ、あなたがたのことを覚えて祈っています。

 

 

のぞみ教会 主日礼拝(2020年3月8日) 説教者 李鍾賢牧師

エペソ1:13-16 御霊の保証

 1:13 またあなたがたも、キリストにあって、真理のことば、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。

1:14 聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。

1:15 こういうわけで、私は主イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対する愛とを聞いて、

1:16 あなたがたのために絶えず感謝をささげ、あなたがたのことを覚えて祈っています。

 

父なる神による世界創造以前からの選びについて述べ、

続いて御子イエス・キリストによる今から2000年余り前の十字架上の贖いについて述べた後、使徒パウロは今や第三階段落(だんらく)について、

聖霊による来るべき御国への保証について述べようとしています。

 

三位一体の神の御業を述べることによって、この神の栄光をほめたたえようと言うのが使徒パウロの目的であります。

ここは、前の12節でユダヤ人キリスト者のことを <私たち>と述べたことと対照的(たいしょうてき)に、<あなたがたもまた>と言って異邦人キリスト者、具体的にはエペソをはじめ、アジア州の異邦人キリスト者に言っています。

 

ユダヤ人キリスト者も異邦人キリスト者もいずれも約束の霊性によって

証印(しょういん)を押されましたと語っています。

それは、キリストにあって、真理の言葉である福音を聞き、また信じた事によるのです。

 

約束の霊性によって「証印を押されました」というのは、旧約聖書において約束されていた聖霊による証印という意味であり、イエス・キリストによって約束された聖霊という意味でもあります。

 

それでは、どうすることによって、この救いの確かな印が与えられたでしょうか。

それは真理の言葉である救いの福音を聞き、また信じたことによってです。私たちが救われるのは、福音を聞き、そしてそれを信じる事によってです。

その福音のことをここでは真理の言葉と言っています。

 

福音が信じるに値するのは、それが真理であるからです。

世の多くの人々は、真理というものを学校で学ぶ学問的なものだけ思うがいですが、人間の理性だけで追求(ついきゅう)できるものが真理ではありません。

 

真理とは、本来、神の属するものであって、神を離れては、真理なるものは存在しないことを覚えなければなりません。

しかし、使徒パウロはここで単に真理一般のことを述べているのではなく、真理の言葉である救いの福音と言っているのです。

 

それはただ単に人間理性で受け止められるものではなく、

人間の全存在によって受け止めるべき救いの真理なのです。

つまり、それは私たちを救う福音なのです。

罪深い私たちに救いをもたらす神様の愛と哀れみのメッセージなのです。

 

私たちはこの福音を聞き、そして信じることによって救われました。

まずこの福音の真理を聞かなければ、その聞いた事が信仰に至らなければ、 無駄に終わってしまいます。

それでどうしても信仰に至るようにしなければなりません。

 

しかし、神様は私たちが信じることが出来るように御霊によって

私たちのうちに働いてくださいます。

 

しかしこの聖霊はそれだけのことを意味するのではなく、

この聖霊は、私たちが御国を受け継ぐことの保証なのです。

ここで言われている私たちはとは、12節の私たちとは違い、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者を一緒にした<私たちキリスト者>の事です。

ここではこの両者を締めくくって<私たち>と言っています。

<御国を受け継ぐこと>という言葉はそのすく前の11節にも出てきます。

 

【1:11 私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者ともなったのです。私たちは、みこころによりご計画のままをみな実現される方の目的に従って、このようにあらかじめ定められていたのです。】

この聖書が保証で与えられているのは、私たちが御国を受け継ぐためであって、やがて神様に属する者たちが贖われる時がやってくるのです。

私たちすべてのキリスト者は、その時を待ち望んでいるのです。

神様は私たちをご自身の特別な民として選んでくださいました。

 

そればかりか、キリスト者は、キリストの血によって買い取られたという

意味で、神様のもの、神様に属するものなのです。

神様に属する者だから、神様は最後の時に、完全に贖ってくださいます。

贖いという言葉もすでに7節に出ています。

【1:7 私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。】

 

ここでは、神様が罪の奴隷状態から神の民を自由に解き放ってくださるという事です。

7節では、贖い、すなわち罪の赦しを受けていると言っているのに、

どうしてここでは、やがて神様に属する者たちが贖われと、

将来のこととして述べているのかと言いますと、

それは救いがまだ完成していないからです。

 

神様の救いは、キリストによる十字架上の贖いの完成と、

私たちがそれを信じ、受ける時に与えられる救いと、二つの面があります。

この両者を厳密に区別すれば、前者の神の客観的な御業のことを贖いと

称(しょう)し、後者の私たちの受けるべきものを救いと称しますが、時にはこのどちらをも救いと言ったり、また贖いと言ったりすることがあります。

 

永遠の昔における父なる神の恵みの選び、御子イエス・キリストによる贖いと救い、そして御霊による来るべき御国への保証を使徒パウロは述べて来ました。

使徒パウロと共に心から神の栄光をほめたたえなければなりません。

 

 

15-16主への信仰と兄弟たちへの愛

1:15 こういうわけで、私は主イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対する愛とを聞いて、

1:16 あなたがたのために絶えず感謝をささげ、あなたがたのことを覚えて祈っています。

使徒パウロは神のみ旨について思い出して、神をほめたたえています。今度は、手紙を書いている相手のことを考え、感謝に溢れています。

この頌栄と感謝とは、神の祝福に対する自然の現れです。

 

神様の私たちに対する御心は、キリストにあって私たちを永遠の昔において選んでくださったことであり、子供としてくださることであり、罪の赦しを与えて下さることであり、また私たちが神の大きなご計画をしることであり、さらに聖霊を賜物としてくださることでありました。

 

このように素晴らしい霊的祝福を覚える時、神様を賛美しなくではいられませんでした。しかも今、使徒パウロが手紙を書こうとしている時、その人々のキリストにある素晴らしい信仰と愛の評判を聞き、このことを神に感謝しなければなりませんでした。

 

賛美も感謝も神に対するものであり、神様の驚くべき霊的祝福に対する

人間の側の精一杯の答えなのです。

使徒パウロは、よくその手紙のはじめに相手の人々の信仰生活の優れた

事を述べ、それについて感謝を捧げています。

 

これは、愛の目を持ってみた時、自然と使徒パウロの目に映ったからです。使徒パウロの関心はいつもほかのクリスチャンたちの霊的成長にあるので、このように優れた点を見出した時、その心はいつも喜びに満たされていました。

 

それを、彼はいつでも祈りの中で表現しています。

ここに、彼の信仰の特徴があると言えると思います。

そしてそれは感謝となって表れていったのです。

 

ほかの人の良いところを認めると言うことは、その人の心が主によって豊かにされていない限り、出来るものではありません。

人間というものは、あくまでも自己中心的ですから、ほかのひとが何かの点で優れたものを持つと、すなおにそれを認めたり、喜んだりすることが出来ないという欠点を持っています。

 

ですから、喜ぶものと共に喜び、泣くものと共に泣くことのできる人は、

キリストによって心が豊かにされた人以外にはできません。

使徒パウロはそれが出来たのです。

彼の心がいかにキリストによって満たされていたかということが、

このことによって良くわかります。

 

しかもほかの人の良いところを認めるという事は、

その人の良いところをさらに良くする方法です。

教育において重要なことは、決して相手を甘やかすことではありません。

むしろ相手が気付いていないところを気付かせてあげ、よくないところを本人が自覚的に取り除くようになります。

 

使徒パウロは、いつも相手の良いところを認め、それを主からの恵みの賜物と考えていました。

そう考えることによって、神様に感謝を表わしていたのです。

使徒パウロは、いつも心の中に感謝がありました。

もちろん、パウロにしても、悲しいこと、苦しいこと、寂しいことがなかったわけではありません。

しかし彼はその中ても、神様を見上げていました。

 

私たちの周りを見る時、そこには困難しか見えないです。

自分を見つめる時、そこには絶望しか見えないです。

しかし神様を見上げる時、そこには限りない喜びと感謝が湧いて来るのです。

 

しかも信仰の目を持って見る時、艱難や困難の中にあっても、

神様の憐みの御手を見ることが出来るのです。

そこには感謝が湧いて来ます。

使徒パウロは、今牢獄(ろうごく)の中にあって、

感謝という言葉を口にすることさえふさわしくないように見えました。

 

しかし彼はエペソをはじめとする小アジヤの諸教会の信仰と愛について

聞いた時、感謝しなければならなかったのです。

神様が生きて働いておられることを知ったからです。

使徒パウロの関心はいつも神様にあったのです。

また使徒パウロはよく祈っていました。

 

しかも祈りの時、愛する信者、同労者たちの名前を一人一人あげて、

それらの人々のために祈っていたのです。

世界伝道という大きな幻を持っている使徒パウロは、同時に、個人の魂についても深い関心を持っていました。

祈りの中で人々のことを覚えることは良いことです。

 

私たちの信仰の対象は神様であり、人であるイエス・キリストです。

このイエス・キリストという言葉によって、神と人との唯一の道としての

救い主を述べようとしています。この信仰から愛の業が出てきます。

信仰から出た愛の業でなければ、それは相手を愛している愛ではなく

自分を愛している自己愛にほかなりません。

 

そして主に対する信仰と人に対する愛とは、いつもともに手をたずさえていることを覚えたいものです。

人に対する愛を伴わない信仰は、冷たい死んだ信仰で、

その信仰によってだれかを裁き、つまずかせるはずです。

 

またどんなに愛が深くても、信仰から出たものでないならば、

相手を生かすところか、傷つかせるのです。

ですから、ヨハネもヤコブも次のように教えています。

 

ヤコブ2:14-17 2:14 私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。

2:15 もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、

2:16 あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい。」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。

2:17 それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。

 

Ⅰヨハネ4:20 神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。

 

ヨハネ13:34-35 13:34 あなたがたに新しい戒めを与えましょう。

あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

13:35 もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、

あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」

 

真のクリスチャンは、イエス様に忠誠と同時にまた兄弟たちへの愛を教えています。

それではアジヤ州のキリスト者がどうして「すべての生徒たちに対する愛」を持っていたと言えるでしょうか。

 

彼らが自分の身の周りにいる人たちを、本当に愛していたからです。

自分の近くにいる人を愛することが出来なくて、どうして遠くにいる人を愛することが出来ましょうか。

遠くにいる人を愛していると思っているのは、実は幻想像(げんそうてき)に過ぎないのです。

 

アジヤ州のクリスチャンたちが、そこでお互いに心から愛し会っている姿を牢獄の中で聞いた時、使徒パウロは彼らがそれ以外の人々をも愛する事の出来る人である事を知りました。

そして、「すべての生徒たちに対する愛を聞いた」のだと言い切ることが出来たのです。

 

しかしそれだけではありません。彼らは、当時まだ会ったこともないクリスチャンたちを現に愛しておりました。

それは、当時、エルサレムには、貧しいユダヤ人クリスチャンたちがいたのですが、そのことを知ると、彼らは喜んで愛の捧げものをエルサレムのユダヤ人クリスチャンたちに送っているのです。

ですから、確かに彼らはすべての信者たちに対する愛を持っていたと言うことが出来るのです。

 

私たちは、本当にお互いに愛し会っているでしょうか。

ご自分の周りに、自分の教会の中には愛することの出来ない人もいるかも知れません。

まことに自分の近くにいる人を愛することが出来なくて、

どうしてまだ見たこともない人を愛することが出来るでしょうか。

愛は、実に具体的な隣人に対してこそ向けられるものなのです。

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2020/03/13 主日メッセージ   nozomich