恵みの雨

2017年06月

フィリピンパウロ宣教会出帆

四 フィリピンパウロ宣教会出帆

 

『パウロ宣教会』出帆一周年ととともに、フィリピンへ派遣された当宣教会の韓道洙宣教師のご労苦によって、フィリピンパウロ宣教会が本会の支部として誕生しました。一九八七年一月十九日、政府の法人登録が終わり、正式に宣教機関としてその機能を発揮することになったのです。

四 フィリピンパウロ宣教会出帆

李東輝牧師著・李鍾賢宣教師翻訳

『パウロ宣教会』出帆一周年ととともに、フィリピンへ派遣された当宣教会の韓道洙宣教師のご労苦によって、フィリピンパウロ宣教会が本会の支部として誕生しました。一九八七年一月十九日、政府の法人登録が終わり、正式に宣教機関としてその機能を発揮することになったのです。

 

導いてくださった神様に感謝を捧げます。これからも第三、第四のパウロ宣教会が世界各所に組織され、宇宙的な宣教協力体制が整えられるのを望みつつ、フィリピンパウロ宣教会に大いに期待する次第です。

 私たちが目標とする宣教師訓練センターを通して、韓国及び第三国の召命者たちを訓練し世界に派遣することや、韓国の若者たちをフィリピンへ招いて現地での適応訓練を受けさせること、さらに神学校及び聖書学校を建て、その現地の教職者を育てることなど、これからはフィリピンへの宣教がすべて可能となるでしょう。

 

 韓国では制限のある宣教も、フィリピンが世界的な足場となって宣教方向が決められることもあります。そういった点で、私たちは東南アジア宣教だけでなく、共産圏、北朝鮮、イスラム教圏などを含む多角的な宣教戦略を樹立しなければなりません。私たちのなすべきことは、その可能性の支えである神様に、最善を尽くしていくことでしょう。

 

3・1運動精神を世界精神へとつなぐため、本会は三月の始めを『宣教の日』と定め、その行事に深い意味を与えていますが、今年後半の頃には、フィリピンでもフィリピンパウロ宣教会とともに宣教の日の行事を持てるように祈っています。このようにして韓道洙宣教師を中心としたフィリピン宣教の、新たらしい場が開かれることを期待しているのです。

宣教の門を開いてくださった神様は、遅れることをお望みではないでしょう。門がいつ閉じてしまうか分からないからです。パウロ宣教会創立一周年を迎え、フィリピンパウロ宣教会が世界に向けた力強い第一歩を踏み出し、呼ばれた者としての使命を果たせるよう切にお祈りする次第です。

                                              

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2017/06/28 その他  

宣教師訓練所の設立に期待しつつ

 宣教師訓練所の設立に期待しつつ

 

 一九八六年九月十四日、当パウロ宣教会は宣教師訓練所の必要性を強く感じて、その設立を決議しました。世界宣教の使命を悟って宣教現場に身を投じようとする、若い韓国人クリスチャンの宣教師候補生たちのために大事な役割を果たせるであろうと考え、まず全州近くに敷地を購入することにして祈ることにしました。このことを神様が導き、恵みを与えてくださるよう祈っています。

 宣教師訓練所の設立に期待しつつ

李東輝牧師著・李鍾賢宣教師翻訳

 一九八六年九月十四日、当パウロ宣教会は宣教師訓練所の必要性を強く感じて、その設立を決議しました。世界宣教の使命を悟って宣教現場に身を投じようとする、若い韓国人クリスチャンの宣教師候補生たちのために大事な役割を果たせるであろうと考え、まず全州近くに敷地を購入することにして祈ることにしました。このことを神様が導き、恵みを与えてくださるよう祈っています。

 

 宣教師訓練所は将来、韓国とフィリピンの二ヵ所に建てて、韓国では基礎訓練、フィリピンでは言語訓練及び適応訓練を行い、世界的な宣教師訓練所として今後発展させていきたいと思っているところです。また、宣教師の訓練だけでなく、安息年《宣教師休暇》を迎えた宣教師の休養所や引退した宣教師の安息先として、さらに宣教精神を韓国の教会に普及する情報センターとしても、大事な役割を果たせると思います。

 

 現在の韓国人宣教師の中には、訓練を受けないまま外国で活動している宣教師が多く、訓練を受けた場合でも外国の宣教団体で訓練を受け派遣された場合がほとんどです。数百年の経験を持ち、世界的な宣教ネットワークを持ったそれら団体と、これからも続いて協力宣教を図っていくのは勿論ですし、またたくさんのことを学ばなければならないと思います。しかし一方で、宣教一世紀を迎えた韓国教会は、自主的な宣教をしなければならない時期が到来していますし、その可能性もあると確信しているのです。

 

韓国教会がもつ独特な長所が、外国宣教団体では異質的なものと見なされて、そこで訓練を受ける韓国人宣教師の信仰を弱くしてしまう場合もないとはいえません。したがって、文化と伝統の異なる外国の人々が作った宣教政策のために、膝で身につけてきた韓国人宣教師の信仰が壊れないためにも、これからは自主的な宣教をしなければならないと思うのです。聖書的で世界的な宣教精神を備えながらも、外国人宣教師にはとうてい学ぶことも理解することもできない、これまで育ててきた武器を携えて、宣教戦線へと飛び込まなければならないと思うのです。そして数多くの若い宣教師候補生たちのためにも、宣教師訓練所が韓国にたくさん建てられなければならないと思います。なぜなら収穫が多いので、働き手をたくさん育てなければならないからです。

 

パウロ宣教会員及びこの会誌を読まれる信者の皆様に、このことのため一生懸命祈っていただき、そして最大の協力をしていただきたいと願います。

神様がこの計画を導いてくださるでしょう。そして私たちの誠意が、世界を変化させる道具として用いられるでしょう。ハレルヤ!

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2017/06/28 その他  

宣教の三拍子とそのハーモニー

 二 宣教の三拍子とそのハーモニー

 

どんなに美しい音がたくさんあっても、それらがハーモニーを作らなければ、聞きにくい音楽です。宣教においても宣教会(Mission Society)、支援する母教会(Mother church)、宣教師(Missionary)の三つが必須のもので、この三要素がハーモニーを作るときに、素晴らしい宣教活動を行うことができます。

 二 宣教の三拍子とそのハーモニー

李東輝牧師著・李鍾賢宣教師翻訳

どんなに美しい音がたくさんあっても、それらがハーモニーを作らなければ、聞きにくい音楽です。宣教においても宣教会(Mission Society)、支援する母教会(Mother church)、宣教師(Missionary)の三つが必須のもので、この三要素がハーモニーを作るときに、素晴らしい宣教活動を行うことができます。

 

多くの宣教団体があるにもかかわらず、なぜ韓国は宣教の幼児期といわれるのでしょう。また大勢の宣教師を派遣しているのに、なぜ宣教不在の韓国といわれるのでしょうか。材料は整っていても、料理しなければその材料は在庫になってしまうだけです。互いに相手の価値を認め、宣教の精神で協力するときに、世界第一の宣教国になれるでしょう。

 

韓国には宣教団体協議会に加入した宣教団体が約五十、その他におよそ五百余の宣教会があるといわれます。望むところを言えば、はっきりした宣教政策のない宣教会、宣教活動の妨げになる宣教会、現地の実情も知らずにただ監督権だけを行使する宣教会、有名無実の宣教会にならず、世界的な宣教団体のすばらしい活動を篤実に学んで、世界に誇れる宣教団体が韓国にもたくさんできてほしいのです。こうして我が国の多くの宣教師たちを世界に派遣できる、迫力のある宣教会となることを望む次第なのです。

 

 母教会もやはり支援する教会として、愛をもとにして祈らなければならない責任がありますし、財政の支えとなる後方支援部隊として、その責任は非常に大きいものです。

教会建築の問題や教会の内紛、または担任牧師の移動などで、それまでの宣教を中断する教会、また財政支援を囮に命令する傲慢な教会ではなく、心からその宣教師のために断食と祈りをし、悪霊と戦って支えてあげる、聖霊に満たされた教会が、今は本当に恋しくなる時代です。

その一方で、宣教を教会のもっとも大きな要素として認め、宣教中断は教会の中断であると考える、宣教に基盤をおいた教会が、これからの韓国にたくさん生まれるだろうと堅く信じています。

 

宣教師は宣教における最後の砦です。はっきりした使命感で一生をかけた者、主の力で武装し、十字架で勝利しようと決心した者が、たくさん立ち上がらなければなりません。よく訓練された欧米の宣教師の宣教活動寿命が二十五年である一方で、訓練されていない宣教師の活動寿命は五年という統計がありますが、それはもう二度と繰り返したくない過去の失敗だけで十分だと思います。信仰宣教(Faith Mission)をみな取り入れ、立ち上がっています。しかし険しい宣教の谷にぶつかった時、自分が勝ち抜ける者であるかどうかを考えてみてほしいのです。そして宣教師に最後の期待をかける理由を知っていなければなりません。

 

これまで私たちの宣教は、みなそれぞれの道を歩んできたと思います。そのそれぞれで歩む道が足並みのそろった行列にならなければ、宣教の勝利はあり得ないことを自覚して、謙遜な心で学び、よりよい結束、よりよい関係を保つように努力しなければならないでしょう。

 

パウロ宣教会が出帆して半年たらずで、韓道洙、石仁淑、両宣教師をフィリピン人のための宣教師として派遣できたことを神様に感謝を捧げます。この感謝すべき宣教の進行をすべて神様が守り導くことを信じ、宣教の三拍子というハーモニーの中、キリストにある兵士を送る次第です。ハレルヤ!

 

 

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2017/06/28 その他  

原罪の恐ろしさ

のぞみ教会 主日礼拝(2017年6月18日) 説教者 李鍾賢牧師

原罪の恐ろしさ(8)

 <7:8 しかし、罪はこの戒めによって機会を捕え、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。>

私たちクリススチャンにとって、律法をどう見るかという事は、非常に重要なことです。聖書の教えている正しい律法観を持つ事は、人が救いに至る上でも重要なことです。

またすでに救われたクリスチャンにとっても重要なことです。

のぞみ教会 主日礼拝(2017年6月18日) 説教者 李鍾賢牧師

原罪の恐ろしさ(8)

 <7:8 しかし、罪はこの戒めによって機会を捕え、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。>

私たちクリススチャンにとって、律法をどう見るかという事は、非常に重要なことです。聖書の教えている正しい律法観を持つ事は、人が救いに至る上でも重要なことです。

またすでに救われたクリスチャンにとっても重要なことです。

 

まず<罪>という言葉について考えて見ます。

罪人である人間の本性はいつも律法の教えに抵抗するものです。

例えある子供にあることをしてはいけないと禁じられたものがあれば、かえてその子供には今まで思いもしなかった行動を有発させる場合もあります。

<写真撮影禁止>という内容が貼っているところもあります。

にもかかわらず知らないふりをして写真を撮る人もいます。

こういう行動はなぜ起きるでしょうか。

それはしてはいけないという注意とか表紙が人間の心の中にある欲望を有発させるからです。

人間は根本的に神から遠く離れている限り、罪の支配をされるべきです。

 

個々の罪、それがたとい心の中で犯された罪であったとして、それを認めでも、そんなものぐらいはだれでもやっているのではないかと言う言い訳が出て来るのは、それをこれからはもうしなければよいのだと言う罪観があるからだと思います。

今まで犯して来た罪を、これからも犯し続ける可能性を私たちは持っているのです。

そのことが分かると、どうしようもない罪人としての自分を認識することが出来るのです。

 

例えば、自動車を運転している場合、高速道路で、制限速度が80キロという表示が出ており、それが道路交通取締法による規則です。

しかし、その規則がそこにあると、かえってそれ以上のスピードを出して走ってしまいます。

ちょうどそのように、律法がそこにあると、それを破りたいと言う思いが私たちの内側に起こって来るのです。

それは、原罪が私達のうちに、その律法を支点として働きかけ、むさぼりを生み出すからです。

 

しかし、ここで教えられているように、原罪はありとあらゆるむさぼりを生み出すのです。 

 

今日性的乱(みだ)れには恐れるべきものがあります。

若い未婚の人から、すでに結婚している中年の人に至るまで、性的快楽を求めています。

今日、一般に売り出されている、ありとあらゆる雑誌は、月刊誌も週刊誌も、セックスに関するものを載せていないものはありません。

スポーツ新聞は毎日これを載せています。

 

それは、ほとんどすべての人の興味と関心がそれにあるからです。

男性だけではなく女性も同じです。

それらがいけないという事を知っているからこそ、それに対する反発がこのむさぼりを起こさせるのです。

 

律法は決して悪いものではありません。

それは聖く正しい神の律法です。

しかし、生まれながら原罪を持っている私たちは、律法の戒めを見る時、かえってそれに反することをしてしまいます。

 

悪魔は実に私たちの生まれながらのものに働きかけて、そうさせます。

ですから、律法を知るまでは、眠っていたような罪が、律法を見て、活動を始め、私たちを罪の奴隷としてしまいます。

 

律法を守ることによって救われるという考えは、結局みじめな敗北(はいぼく)をもって終わることになります。

律法によって、私たちは罪を知り、また罪の力の恐ろしさを知ります。

 

死んでしまった罪(9)

<7:9 私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。>

<私は死にました>とはどういう事でしょうか。

神をも知らない、自分の本当の姿も知らないうちは、私たちは生き生きとし、元気よく生活したように見えるのですが、自分の罪を知った時、自分の力では何一つ善いことが出来ない事を知りました。

使徒パウロは<弱かった時>とか<不敬虔な者たち>という言い方をしています。

それは言うまでもなく死んでしまった人の姿です。

勿論、霊的に死んでしまった人の姿であります。

 

イエス様は次のように語っています。<健康な人には医者は必要ではない。しかし、病人には必要である。わたしは義人を招くために来たのではなく、むしろ罪人を招くためである>と言われました。

確かにこの世の中には義人がいるわけではなく、すべての人は罪人のはずです。

ですから、<健康な人には医者は必要ではない。しかし、病人には必要である。わたしは義人を招くために来たのではなく、むしろ罪人を招くためである>と仰せられました。

 

医者に行くのは確かに病人です。

しかし、病人であっても医者に行こうとしない人がいます。

自分が病人であることを自覚していないからです。

全ての人は罪人ですが、自分が罪人であることを認めようとしない人は、

決してイエス様のところに行かないでしょう。

 

それと同様に、救われていない人は、誰でもみな霊的に死んでいるのですが、自分が本当に霊的に死んでいるとは思っていない人がほとんどです。

 

罪の欺き(10-11)

<7:10 それで私には、いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることが、わかりました。

 7:11 それは、戒めによって機会を捕えた罪が私を欺き、戒めによって私を殺したからです。>

 

多くの人々は罪の恐ろしさが分かりません。

罪について、罪の恐ろしさ、その実体が分かると、救いについても良くわかるはずですし、喜びにあふれる信仰生活を送る事が出来ると思います。

 

罪はそれ自身、魅力的であるかのような様相を持って、私たちを欺きます。

エバがその木を見ると、その木は、真に食べるのにも良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかったのです。

もし罪にこのような魅力がなかったら、いったい誰がそれにひかれて行くでしょうか。

聖書は教えています。

Ⅱコリント11:14

そして、私たちの心を惑わし、知性は暗くという有様にしてしまします。

ですから、私たちは罪の恐ろしさについて、よく知らなければなりません。

罪の恐ろしさを知らない人は、罪のために、死に至る道を歩いて行ってしまわなければなりません。

そして、この罪を死からの救いこそ、イエス・キリストの十字架上の身代わりの贖いほかなりません。

 

 

律法についての正しい認識(12-13)

7:12 ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。

 7:13 では、この良いものが、私に死をもたらしたのでしょうか。絶対にそんなことはありません。それはむしろ、罪なのです。罪は、この良いもので私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされ、戒めによって、極度に罪深いものとなりました。

 

9-11使徒パウロはユダヤ社会において大きな影響力がある人でした。

<使徒28:6 島の人々は、彼が今にも、はれ上がって来るか、または、倒れて急死するだろうと待っていた。しかし、いくら待っても、彼に少しも変わった様子が見えないので、彼らは考えを変えて、「この人は神さまだ。」と言いだした。>

マルタと呼ばれる島であったことです。

島の人々は使徒パウロ一行に非常に親切にしてくれました。おりから雨が降りだして寒かったので、彼らは火をたいてパウロ一行をもてなしてくれました。

パウロがひとかかえの柴をたばねて火にくべると、熱気のために、一匹のまむしがはい出して来て、彼の手に取りついたのです。

島の人々は、この生き物がパウロの手から下がっているのを見て、「この人はきっと人殺しだ。海からはのがれたが、正義の女神はこの人を生かしてはおかないのだ。」と互いに話し合ったのです。

しかし、パウロは、その生き物を火の中に振り落として、何の害も受けなかったのです。

<使徒26:5> 使徒パウロは、宗教の最も厳格な派に従って、パリサイ人として生活してまいりました。

 

 ピリピ3:6 彼の熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者でした。

しかし、パウロがイエス様に出会う前には罪が何か悟りませんでした。

 

使徒9:1 さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて、大祭司のところに行き、

 9:2 ダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれるよう頼んだ。それは、この道の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。

 9:3 ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。

 9:4 彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞いた。

 9:5 彼が、「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。

 9:6 立ち上がって、町にはいりなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」

 9:7 同行していた人たちは、声は聞こえても、だれも見えないので、ものも言えずに立っていた。

 9:8 サウロは地面から立ち上がったが、目は開いていても何も見えなかった。そこで人々は彼の手を引いて、ダマスコへ連れて行った。

 9:9 彼は三日の間、目が見えず、また飲み食いもしなかった。

 9:10 さて、ダマスコにアナニヤという弟子がいた。主が彼に幻の中で、「アナニヤよ。」と言われたので、「主よ。ここにおります。」と答えた。

 9:11 すると主はこう言われた。「立って、『まっすぐ』という街路に行き、サウロというタルソ人をユダの家に尋ねなさい。そこで、彼は祈っています。

 9:12 彼は、アナニヤという者がはいって来て、自分の上に手を置くと、目が再び見えるようになるのを、幻で見たのです。」

 9:13 しかし、アナニヤはこう答えた。「主よ。私は多くの人々から、この人がエルサレムで、あなたの聖徒たちにどんなにひどいことをしたかを聞きました。

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2017/06/28 主日メッセージ  

死んでしまった者

のぞみ教会 主日礼拝(2017年6月4日) 説教者 李鍾賢牧師

死んでしまった者<7:9>

ローマ7:9 私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。

のぞみ教会 主日礼拝(2017年6月4日) 説教者 李鍾賢牧師

死んでしまった者<7:9>

ローマ7:9 私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。

 

ここで使徒パウロは確かに語ります。

<ローマ7:9 私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、

罪が生き、私は死にました。>と述べます。

使徒パウロが<ローマ7:9 私はかつて律法なしに生きていました>とは、

どういう事でしょうか。

ここで<生きていました>と言っているのは、この文章の最後にある<私は死にました>と対照的な言い方で、<戒めが来たときに、罪が生き>と言っているのも、みな同様に象徴的で、相対的な表現です。

 

ガラテヤ1:13-14

1:13 以前ユダヤ教徒であったころの私の行動は、あなたがたがすでに聞いているところです。私は激しく神の教会を迫害し、これを滅ぼそうとしました。

 1:14 また私は、自分と同族で同年輩の多くの者たちに比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり、先祖からの伝承に人一倍熱心でした。

 

今日、私たちの周りにいる未信者で、神なしに元気よく働いている人々の姿はみなこの通りです。

彼らはみな頭では一応、何が善であり何が悪であるかという事を知っています。

しかし、それは彼らにとってそれほど深刻な問題ではなく、特に一般に道徳的であると思われている人々ほど、自分のわざに過信していて、生き生きとしているように見えます。

 

それは、主が語られた、祈りのために宮に上がったバリサイ派の男の祈りの中に、いかんなく表さられています。

彼はこう祈りました。

ルカ 18:11 パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。

『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。

18:12 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、

その十分の一をささげております。』

 

もう一人の取税人より、はるかに生き生きとしているように見えます。

しかし、彼はまだ神の聖い律法の前に立ったことのない気の毒な罪人でした。

 

今日でも、多くの未信者は、クリスチャンの事を批判しています。

神を知らず、神の御前における自分の本当の姿も知らない人間は、クリスチャン対してはいかにも無力的であると思っているでしょうか。

 

私たちも、かつてはそうでありました。

しかし、クリスチャンでありながら同じような考え方をしているとしたら、

祈るために宮に上ったバリサイ派の男と少しも変わらないと思います。

 

次に<私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。>とは、どういう事でしょうか。

私たちが戒めについて知っているという時、その多くは次の点で知っているのです。

 

それは、戒めの言っていることを文字の上で知っているという事です。

例えば、<殺してはならない>という戒めについて考えて見ますと、実際に手を下して人殺しをしていなければ、自分はこの戒めを犯してはいないと考える事です。

 

しかし、もう少し深く考えれば、実際に手を下して人を殺さなくても、自分が相手に言った言葉が、その人の心にグサリとささり、それがもとでその人が生きる望みを失い、ついに死んでいったという場合、それは人殺しにはならないのでしょうか。

 

また、自分がある人を憎み、その人が死ぬことを願うほどに憎み、ついにその人が生きる望みを失い、死を選んだ場合、それは殺人にはならないでしょうか。

ですから、イエス様は、兄弟に対して怒る者、<ばか者>という者も人殺しの罪を犯しているのだと教えられました。

 

 <マタイ5:21 昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。

 5:22 しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。>

 

このことは何を意味するのかと言いますと、私たちが聖い神の御前に立つとき、

だれ一人として神の戒めを犯していないとは言えないものであるという事です。

神の御前に立つとき、罪がはっきりと表れてまいります。

罪なしと思っていた自分の目に、はっきりと罪が見えてきます。

それが<戒めが来たときに、罪が生き>という事です。

 

それでは、<私は死にました>とは、どういう事でしょうか。

神も自分の本当の姿も知らないうちは、私たちは生き生きとし、元気よく生活していたように見えたのですが、自分の罪を知った時、自分の力では何一つ善い事が出来ない事を知りました。

 

救われる前の人間はみな、<エペソ2:1 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって>これは救われる前のすべての人間の姿であると言っています。

<マタイ9:12 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。

9:13 『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」>

 

確かにこの世の中には義人などのいるわけではなく、すべての人は罪人であります。

だからイエス様は<わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。>仰せられました。

 

医者に行くのは確かに病人です。

しかし、病人であっても医者に行こうとしない人がいます。

自分が病人であることを自覚していないからです。

全ての人は罪人ですが、自分が罪人であることを認めようとしない人は、決してイエス様のところに行かないでしょう。

 

それと同様に、救われていない人は、誰でもみな霊的に死んでいるのですが、自分が本当に霊的に死んでいるとは思っていない人がほとんどです。

そういう人でも、神の戒めの前に立ち、自分の罪がよくわかると、もう今までのようにから元気でいる事は出来なくなります。

自分は神の裁きによって滅ぶべき者であることが分かるのです。

 

自分の力で何かが出来ると考えている間、私たちは決してキリストの恵みによる救いが分かりません。

イエス・キリストを信じる前の私たちは死んだものでした。

そこにあるのは、罪だけでした。

だれでも、自分が死んでいる者である事が分かる人だけが、キリストの救いによって、いのちを与えられました。

ヨハネ1:12に書いてある御言葉通りイエス・キリストを信じることにより、救われ神の子となりました。

神との関係は親子の関係になり、本当に生き生きとした人生に入ることが出来るのです。

 

神様は人を通して働かれます。

従って神様の関心は人にあります。

人間の体を持ってこの世に来られたイエス・キリストは、公生涯を始められながら12名の弟子を選ばれ、召されました。

しかし、イエス様はご自身の元に進み出るものを誰でも弟子に選ばれ、立てたりはなさらなかったです。

イエス様は弟子を立てるために山に登り祈られました。

ルカ6:12

人を立てることはあまりにも重要なことなのでイエス様は夜を明かして祈られました。

祈りの内容は何だのか。天のお父様、誰を弟子として選ぶべきでしょうか。

神様の弟子として選ばれた者たちは誰でしょうか。

そして、夜明けになってイエス様は、祈りの答えに従って12名の弟子を選び、

立てられました。

 

私たちは、イエス・キリストを通して神様から多くの恵みを受けました。

死んだ者が命が与えられた者となりました。

私たちが生きていること自体が恵みなのです。

私たちは、日々神様が造られた自然の恵みを受けて生き、神様の子供として

神様が与えて下さる驚くべき祝福を味わいながら生きていきます。

 

時には、何もしてくれないと不平を言う子供たちが両親の恵みを知っていても知らなくても両親は、子供に犠牲と愛で恵みを与えるように、神様は私たちに恵みを与えて下さいます。

 

しかし、恵みの中の恵、恵みの上の恵みがあります。

それは神に選ばれた事であり、神様の歴史の道具として用いられる事であります。

モーセは神に選ばれました。

それは彼の人生で最も大きい恵みでありました。

 

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2017/06/28 主日メッセージ