恵みの雨

主日メッセージ

礼拝に命掛ける教会[イザヤ58:13-14]

のぞみ教会 主日礼拝[2019年9月8日] 説教者:李鍾賢牧師

礼拝に命掛ける教会[イザヤ58:13-14]

58:13 もし、あなたが安息日に出歩くことをやめ、わたしの聖日に自分の好むことをせず、安息日を「喜びの日」と呼び、主の聖日を「はえある日」と呼び、これを尊[たっと]んで旅をせず、自分の好むことを求めず、むだ口を慎[つつし]むなら、

 58:14 そのとき、あなたは主をあなたの喜びとしよう。「わたしはあなたに地の高い所を踏「ふ」み行「ゆ」かせ、あなたの父ヤコブのゆずりの地であなたを養う」と主の御口が語られたからである。 

 

 

のぞみ教会 主日礼拝[2019年9月8日] 説教者:李鍾賢牧師

礼拝に命掛ける教会[イザヤ58:13-14]

58:13 もし、あなたが安息日に出歩くことをやめ、わたしの聖日に自分の好むことをせず、安息日を「喜びの日」と呼び、主の聖日を「はえある日」と呼び、これを尊[たっと]んで旅をせず、自分の好むことを求めず、むだ口を慎[つつし]むなら、

 58:14 そのとき、あなたは主をあなたの喜びとしよう。「わたしはあなたに地の高い所を踏「ふ」み行「ゆ」かせ、あなたの父ヤコブのゆずりの地であなたを養う」と主の御口が語られたからである。 

 

本当の祝福というのは霊的目が開ける時のみ、見る事が出来るし、分かるのです。

又、価値のあるものを知り、喜ぶ事に喜び、賛美を捧げるべき方に

賛美を捧げることが出来るのです。こらが本当の祝福であります。

 

私たちが真に恐れるべき方、本当にほめたたえるべきお方は神様であります。

人間は誰かに会い、仕え、頼らなければならない霊的な存在であります。

そうでなければ不安で生きられない存在なのです。

 

私たちが価値のあるものを正しく知ると、正しい所に命を掛けることが出来るのです。

命かけて箱船を作ったノアは、本当の価値が何かを知っていました。

私たちは神様との関係を結び、礼拝を捧げるのがいかに大事なことなのかを知らなければなりません。

 

人間は霊的な存です。霊的な存在なので神様に礼拝を捧げることが出来るのです。

賢いサルも、犬も、猫も礼拝を捧げることが出来ないです。動物はいかに神様についてわかりやすく説明してもわからないのです。

人間だけが霊的な存在なので神様を知り、神様の御言葉を頂いて励まされ、癒され、力を得ます。

 

神様の本質は愛であり、祝福であるからです。

それで礼拝を捧げれば捧げるほど霊的に祝福となります。

 

信仰生活をするのに環境が良い信者が良い信者であるとは言えません。

信仰の基礎が丈夫な人が良い信者であり、最後に勝利をし、実を結びます。

信仰の基礎が成り立たないと、一時的には熱心ですが結局倒れてしまいます。


信仰の価値、霊的価値、信仰の基礎は、言うまでもなく礼拝なのです。

信者は礼拝を尊重し、礼拝に成功する時、人生を勝利します。

 

霊的に永遠な価値、命の価値は信仰と礼拝を通して私たちに寄って来るのです。

本当の価値のあるものをつかまなければなりません。

詩篇84編でダビデは神様を仕える喜び、礼拝の大切な事を知りました。

 

みなさん。ご自分に一番大事な時間はいつなのか。考えるべきです。

私たちの人生の中で多くの時間がありますが、

本当に私たちが祝福される時間は礼拝の時間です。

礼拝を捧げる時に、霊的な世界、価値観、人生の意味が変わります。

 

人間だけ頭が上に向ける存在です。

全ての獣は頭が横に向け、この世を見て生きるようになります。

しかし、人間だけが上に向ける存在です。

真の満足と幸せは上から、神様から来るからです。

神様から来る幸せと真の平安を味わわなければなりません。

 

礼拝というのは天の扉を開くことです。

人間は頑張れば出来ると思うかも知れませんが、

主が守ってくださらなければすべてが無駄になります。

全ての祝福と恵みは上から来るからです。

ヨハネ1:1、14

1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

 

父から一人子が来られ、希望が来ました。

神が人となられました。

正しい礼拝は何でしょうか。誰のための礼拝でしょうか。

正しい信仰とは何でしょうか。

 

自分を喜ばせ、自分のためではなく、まず、神様の栄光、

神様の御旨のために生きる信仰です。

神様を喜ばせるその中には、自分の喜びがあります。

神様を崇め、使えるほど自分に祝福となります。
 

人間はだれでも幸せになることを願っています。

しかし、多くの人が、切に願っている幸せを探す事が出来ず、

むしろ苦しみの中にいます。

家庭の問題、健康の問題、経済の問題、将来の問題、精神の問題、

人間関係の問題などによって絶えず苦しみを受けています。

その理由は何でしょうか。

それは人間が罪を犯し、神様を離れたからです。

 

初めに神様が人間をどう造りましたか。

創世記1:26 そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。

1:27 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

1:28 神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

 

神様が私たちを幸せで永遠に生きるようにお造りになり、

祝福してくださいました。

神様はご自分との交わりがある時に幸いになるようにお造りになったのです。

しかし、人間が神様より悪霊を従うので霊的に不幸な者になりました。
 

礼拝は神様を喜ばせることです。

神様に近寄り、神様を愛し、神様を見上げ、神様に従順に従う時、神様は喜ばれます。

その時、人は幸せになるのです。

 

宮殿にいるダビデは神様を喜ばせるために神殿を建てようと思っただけで、

神様は喜ばれたし、祝福して下さいました。

アブラハムが自分の子供を捧げるその信仰に神様は感動されました。

 

創世記8:20 ノアは主に祭壇を築いて、

創世記13:18 アブラハムは天幕を移してその所で主に祭壇を築いた。

師士記6:24 そこでギデオンは主のために祭壇をそこに築いて、

Ⅰサムエル記7:17 またそこで主に祭壇を築いた。

ノアもアブラハムもギデオンもサムエルもダビデも神様のために祭壇を築きました。

 

神様のため、それが本当は自分のための事なのです。

それで自分のために偶像を造らずに主のために祭壇を築きましょう。

主のために祭壇を築いたというのは、礼拝を捧げたということです。

 

まずその国と神の義を求めるべきです。

マタイ6:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。

そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

と言われています。

心を尽くして主を愛するべきです。

そうすると、神様は全てを与えられます。

 

神様は信者お一人一人を礼拝者として呼ばれました。

礼拝は自分のためでありますが、神様のために、その方を喜ばせるためであり、栄光を帰すためであります。

人間を創造された目的も神様の栄光のためであります。

 

パウロはこう告白しています。

ローマ14:8 もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。と告白しています。

そのように生きる時、自分の子供、環境、そして自分が生きるようになります。

礼拝の成功は信仰の成功、信仰の成功は人生の成功となります。

 

のぞみ教会が礼拝に命を掛ける教会になると、日本第一の教会になると思います。

礼拝に命を掛ける教会は神様が喜ばれる教会であり、成長する教会です。

教会は礼拝を捧げる所です。

成長する教会は礼拝が生きている教会です。

その教会は聖霊が働きます。

聖霊の油の注ぎがいっぱいとなります。

のぞみ教会が成長する教会、聖霊の油注ぎがいっぱいとなる教会となるように頑張りましょう。

 

神様は真の礼拝者を捜しておられます。

礼拝を通して恵まれ、礼拝を通して祈りが答えられ、

礼拝を通して献身することができます。

 

礼拝を通してイエス・キリストの秘密が示され、問題を発見され、

回答を得、目標を立てて決断することが出来ます。

礼拝を通して全ての知恵と霊的な祝福が与えられます。

 

主日礼拝を守ることはとても大事なことです。

主日礼拝は神様が私たちに祝福を与えるために守ることを願っておられます。

信者は主日礼拝に縛られて生きるのではありません。

礼拝は私たちが励まされ、霊的に肉的に力を与えるためであります。
 

礼拝は負担になるのではなく、大きな祝福であります。

礼拝は自分が生きるためのものです。

礼拝の時間は自分の運命が変える時間です。

神様は礼拝を喜ばれ、礼拝者を捜しておられます。
 

礼拝の価値と重要性を忘れてはいけません。

伝道より、お祈りより、優先順位が礼拝です。

仕事の前に、勉強の前に、まず礼拝が優先するべきです。

真の信仰の礼拝、神様を知っているゆえの礼拝が重要です。

 

どう礼拝を捧げるべきでしょうか。

出エジプト記20:8-11、

20:8 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

 20:9 六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。

 20:10 しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。―あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜また、あなたの町囲[がこ]みの中にいる在留異国[ざいりゅういこく]人も。―

 20:11 それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。

 

出エジプト記31:13 「あなたはイスラエル人に告げて言え。あなたがたは、必ずわたしの安息を守らなければならない。これは、代々にわたり、わたしとあなたがたとの間のしるし、わたしがあなたがたを聖別する主であることを、あなたがたが知るためのものなのである。

 

ヨハネ4:23-24

4:23 しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。

 4:24 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」

 

礼拝は、形式ではなく、私たちの心を尽くして捧げる時、聖霊が働きます。
旧約時代は羊を殺しましたが、私たちは生活の中で礼拝しながら生きるべきです。

 

良い礼拝者がいる時、良い礼拝となります。

お一人一人が良い礼拝者になる時、良い教会となります。

皆さん! 一生礼拝に成功して生きる人生となりますように祝福します。
 

神様がすでに私たちの救いを喜ばれます。

私たちが神様を喜ばせることは神様に礼拝を捧げることです。

神様は礼拝を捧げる者を通して喜ばれます。

のぞみ教会は神様が喜ばれる教会となるために、頑張りましょう。

中国の地下教会の信者たちは命かけて礼拝を捧げています。

 

備えられた礼拝に神様の栄光がいっぱいとなります。

心尽くして礼拝を準備する分、祝福されます。

だから私たちも礼拝を準備する者になるべきです。

私たちが礼拝を捧げる時、注意しなければならない事があります。

礼拝を受ける神様が見えないからと言って礼拝を軽く思ってはいけないです。

 

私たちは礼拝を何よりも価値のあるものとして、優先順位に置くべきです。

それは神ご自身がそう願っておられるからです。

礼拝は祝福の通路です。

神様が人間をお造りになったのは、礼拝を捧げるためです。

神様が主日を定めったことは、肉的に安息を得、神様に出て礼拝を捧げることによって祝福するために決めた日であります。

 

礼拝は神様の祝福の通路です。礼拝に命を掛ける人に神様は祝福して下さいます。

礼拝は人生の喜びと幸せを与えられます。

礼拝を通して恵みの川が流れる時、全てが回復されます。

礼拝を通して回復の祝福が溢れるように祈ります。

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2019/09/13 主日メッセージ   nozomich

主が喜ばれる礼拝(イザヤ58:13-14)

のぞみ教会・2019年8月25日  作成者及び説教者:李鍾賢牧師  

主が喜ばれる礼拝(イザヤ58:13-14)     

教会に来て礼拝を奉げる時の信者さんの態度にはいくつかあります。

心を尽くして礼拝に集中する人もいれば、礼拝の意味を知らないためか居眠(いねむ)りする人もいます。

何とかして恵みをいただくために神の御言葉に耳を傾ける人もいれば、礼拝を奉げるのが辛いのか早くも自分の世界に入っている人もいます。

神様の御ことばを聞くのが好きで、時間が経つのも知らない人もいれば、時計だけを見る人もいます。

 

 

 

のぞみ教会・2019年8月25日  作成者及び説教者:李鍾賢牧師  

主が喜ばれる礼拝(イザヤ58:13-14)     

教会に来て礼拝を奉げる時の信者さんの態度にはいくつかあります。

心を尽くして礼拝に集中する人もいれば、礼拝の意味を知らないためか居眠(いねむ)りする人もいます。

何とかして恵みをいただくために神の御言葉に耳を傾ける人もいれば、礼拝を奉げるのが辛いのか早くも自分の世界に入っている人もいます。

神様の御ことばを聞くのが好きで、時間が経つのも知らない人もいれば、時計だけを見る人もいます。

 

礼拝する者の(そな)えなければならない基本精神は、まず礼拝を奉げる対象がだれなのかをはっきり知ることです。礼拝の対象は創造主であり、今も生きておられる神様です。

そしてどう礼拝を奉げるのかという態度についてですが、ヨハネ4:23では、

『神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません』と言われました。

ある人は礼拝をささげるためではなく、説教を聞くために、または賛美が好きで教会に来る人もいます。もちろんそれらも教会に定着するまでのいいきっかけともなりえますが、しかしそれがいつまでも続くなら礼拝をささげたとはいえません。

礼拝は決して自分満足になってはいけません。礼拝は神様が満足しなければなりません。

 

マタイ2:2では、東方(とうほう)の博士たちがエルサレムにやって来たのはイエス様に拝むためだったと記録しています。彼らは、母マリヤとともにおられる幼子(おさなご)を見て、ひれ伏して拝みました。そして黄金(おうごん)乳香(にゅうこう)、もつ(やく)(おく)り物として奉げました。

礼拝は時間だけささげればいいというものではありません。

献金だけささげればいいというものでもありません。礼拝をささげるという意味はこれらすべて、つまり、時間、心、体、物質、力、愛、すべてを奉げるという意味です。言い換えれば、礼拝は命までもかける心構(こころがま)えができていなければならないのです。

 

 

聖書に出る信仰の人々は自分の全てを奉げた人たちでした。

アブラハムは神様に自分の一人子、イサクをいけにえとしてささげました。  

アブラハムは最高の物を奉げたのです。

神様がアブラハムにイサクを奉げなさいと命じた時には、何か報いを約束をしたのではありません。何の条件もなかったのに、アブラハムはただ神様の御言葉だったので、それに従ってイサクを奉げました。

神様の御こころはアブラハムが神様をどれぐらい愛しているのかを確認するためでした。 

 

創世記22:16-18でこう書いてあります。

『これは主の御告げである。わたしは自分にかけて(ちか)う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を()しまなかったから、わたしは確かにあなたを(おお)いに祝福し、あなたの子孫を、(そら)の星、海辺(うみべ)のすなのように数多く()(くわ)えよう。そして、あなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。

あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたが

わたしの声に聞き従ったからである。』

今も神様はアブラハムのような礼拝者を(さが)しておられます。

 

皆さんは、礼拝を奉げるためにどのような心で来られましたか。 

開かれた心で、心と力と思いを尽くして神様に礼拝していますか。

マルコ14:1-9を見ますと、イエス様がらい病人シモンの家におられた時、食卓に着いておられと、ひとりの女が、純粋(じゅんすい)で、非常に高価なナルド()の入った石膏(せっこう)のつぼを持って来て、そのつぼをわって、イエス様の頭に注ぎました。

すると何人かの者が怒って互いに言いました。

「何のために、香油(こうゆ)をこんなに無駄にしたのか。この香油なら、三百デナり以上に売れて、貧乏な人たちに(ほどこ)しが出来たのに。」そうして、その女を厳しく責めました。

するとイエス様は言われました。

「この女は、自分に出来ることをしたのです。埋葬(まいそう)の用意にと、わたしのからだに、前もって(あぶら)()ってくれたのです。まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう」

 

心を尽くして奉げる礼拝が主が喜んでお受けになる礼拝です。

旧約聖書を見ると分かりますが、神様に奉げるいけにえは最高の物が奉げられました。

礼拝を奉げるために、最善を尽くしますと、その人に神様が必ず祝福してくださいます。

 

  1. なぜ私たちは主日を守らなければならないでしょうか。

    主の日だからです

    私たちがこの世の中で得た全ては本当は主のものですが、しかし、神様はその中で私たちに与えてくださった物の十分の一は主の物であると厳しく(さだ)めました。 

    同じく私たちの全ての時間も主のものですが、しかし神様は私たちに与えてくださった時間の中で、日曜日だけは主のものであると厳しく(さだ)めました。

    徹底(てってい)して日曜日を区別すると他の六日(むいか)間も神様が導いてくださいます。

     

    神様が一番喜ぶのは何でしょうか。それは言うまでもなく神様に向かって礼拝を奉げる事です。

    礼拝を通して神様に賛美をし、お祈りをし、また説教を通して神の前で自分を(ただ)すことができます。神様の恵みを受けます。六日(むいか)間を生きていくための力を得ます。 

    アメリカの12代の大統領に当選したザカリテイロさんは1849年3月4日、自分の大統領の就任式(しゅうにんしき)に出席する事を(ことわ)りました。

    その日は日曜日だったので礼拝を守るためでした。

    大統領として国の(ほう)を守らなければならないとあちこちで強く言われましたが、

    自分は国の法を守るより神様の御言葉を守るのがもっと大事だといって、主日を守ったそうです。

     

    ある人は日曜日に教会にいくと自分に損になると思う人もいます。

    または主日を守ることは自分の自由が制限される事だと思う人もいます。

    神様が私たちに主日を守ることを命じたのは私たちの自由を奪い取るためではありません。私たちに祝福して下さるためです。

     

  2. 主日は救われた人々にとって感謝の日です。

    神様はエジプトから(のが)れたイスラエル民のために10の(いまし)めを与えてくださいました。その中の一つが安息()を守ることですが、エジプトにいる時は安息日はありませんでした。彼らには休みの日もなく、もっぱら奴隷として労動をさせられたからです。

    しかし彼らが奴隷という身分(みぶん)から救われ、神の子へと変ってからは安息の日が与えられました。つまり安息の日を守ることは救われた者の特権であるわけです。

    この安息の日を守るのか守らないのかによって、救われた神の民なのかそれとも奴隷なのかが区別できます。これはイスラエル民だけではなく、今日(こんにち)の私たちにもあてはまることで、六日(むいか)間は世の中で不信者と一緒に暮らしますが、しかし日曜日になりますと信者なのか不信者なのか自然に分かれてしまいます。

     

    信者にとって日曜日は神様に会い、礼拝を奉げ、霊的な力を得る日です。

    しかし、不信者にとってはただ休むという意味しかありません。

    神様とは関係のない不信者は世の奴隷、罪の奴隷になっています。奴隷には自由がありません。しかし救われた神の民はこの世から本当の自由人(じゆうじん)なのです。

     

    私たちは神様の民です。その神様に礼拝することは当然なことでしょう。

    まことの礼拝をささげることは幸せになる秘訣であり、恵みを受ける秘訣でもあります。

    礼拝こそ最高の祝福をいただくための道です。

    どうか、まことの礼拝を通して素晴らしい神様の祝福を味わいますようお願い致します。

     

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2019/09/13 主日メッセージ   nozomich

生きる希望がなくなった時(Ⅱコリント1:3-11)

1:3 私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。

1:4 神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。

1:5 それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。

 

 

のぞみ教会 主日礼拝 2019年8月4日  作成者及び説教者:李鍾賢牧師 

生きる希望がなくなった時(Ⅱコリント1:3-11)

1:3 私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。

1:4 神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。

1:5 それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。

1:6 もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。もし私たちが慰めを受けるなら、それもあなたがたの慰めのためで、その慰めは、私たちが受けている苦難と同じ苦難に耐え抜く力をあなたがたに与えるのです。

1:7 私たちがあなたがたについて抱いている望みは、動くことがありません。なぜなら、あなたがたが私たちと苦しみをともにしているように、慰めをもともにしていることを、私たちは知っているからです。

1:8 兄弟たちよ。私たちがアジヤで会った苦しみについて、ぜひ知っておいてください。私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危くなり、

1:9 ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。

1:10 ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。

1:11 あなたがたも祈りによって、私たちを助けて協力してくださるでしょう。それは、多くの人々の祈りにより私たちに与えられた恵みについて、多くの人々が感謝をささげるようになるためです。

 

今日、自殺がまるで脱出口(だっしゅつこう)でもあるかのように、自分の人生を自殺で終えようとする人が増えています。

夫の迫害(はくがい)に耐える事が出来ないからと言って自殺してしまう人もいるし、

成績が良くないからといって自殺してしまう人もいます。

また貧しい生活のため自殺してしまう人もいます。

進学に失敗したからといって自殺してしまう人もいます。

会社からやめさせられて、またはいじめられて自殺する人もいます。

警察によりますと、一日に100人ぐらいが自殺しているそうです。

 

また多くの人が一回ぐらいは自殺の誘惑(ゆうわく)を受けたことがあるそうです。

自殺は自分を殺す殺人行為で、その魂も救われません。

勿論、自殺はだれも絶対してはいけない事です。

特に神を知り、イエス・キリストを信じる信者は神様から与えられた命を大事にしなければなりません。

 

神様が与えられた命を自分の命だからと言って自分勝手にしてはいけません。

他人の命を殺す殺人もしてはいけないのは言うまでもないことですが、

自分の命を殺す自殺もしてはいけません。

 

私たちの人生の中で生きる希望がなくなった時に、現れる反応はだいたい三つに分かれて現れます。

一つは試練や苦しみに出会ったとき、全てをあきらめる人です。

 

もう一つのタイプは艱難(かんなん)がある時、全ての艱難を自ら解決しようとする人です。

このようなタイプの人は自分の力で出来ない時には、結局自殺に走る危険のある人です。

 

三つ目のタイプは自分の出あった問題が神様の計画の中にあると信じ、すべての問題を祈りながら、克服(こくふく)しようとするいわゆる信者の態度です。

 

本文を通して、命さえもあやうくなるほど、生きる希望がなくなるほど大変な時に、私たちはどうすれば良いかを考えて頂きたいと思います。

 

私たちが信じる神様は慰めの神様です。

3節を読んで見ますと、“私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。”と書いてあります。

神様は愛という一言で表すことができますが、愛の神様は私たちが艱難の中で苦しんでいる時にもいつも私たちと共におられ、艱難を克服できる力を与えてくださいます。

私たちにはとうてい解決できない問題も、神様には解決出来ない問題がありません。

まことの慰めは神様にあります。 

 

4節に書いてありますように、神はどのような苦しみの時にも、私たちを慰めて下さいます。こうして私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることが出来るのです。

 

パウロは自分が受けた苦難の内容を11:24-28節で紹介しています。

“ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度(ごど)、むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船(なんせん)したことが三度あり、(いっ)昼夜(ちゅうや)、海上を(ただよ)ったこともあります。

幾度(いくど)もたびをし、川の(なん)盗賊(とうぞく)の難、同国民(どうこくみん)から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難にあい、(ろう)し苦しみ、たびたび(ねむ)られぬ()を過ごし、うえかわき、しばしば食べ物もなく、寒さにこごえ、(はだか)でいたこともありました。このような外から来ることのほかに、日々(ひび)私に()しかかるすべての教会への心づかいがあります。”

 

このようなひどい艱難に出あったパウロは神様に慰められました。

普通人々は友達や親せきを通して、または親しい人によって慰められることもありますが、しかし人からの慰めと神から与えられる慰めとは根本的に違います。

 

慰めの神様は私たちを慰めるのはもちろん、未来への希望と新しい力も与えてくださいます。生きる力を与えて下さいます。

生きる希望がなくなって、苦しみがひとければひといほど、もっと神様に近づいて神様に頼り、神様に慰められなければなりません。

 

 

それでは、どうすれば神様に慰められることができましょうか

11節を読んで見ますと“あなたがたも祈りによって、私たちを助けて協力して下さるでしょう。それは、多くの人々の祈りにより私たちに与えられた恵みについて、多くの人々が感謝を奉げるようになるためです。”

 

神様の慰めを体験する一番良い方法は、神様を頼り、祈る事です。

神様は私たちが神様だけを頼る事を願っておられます。

私たちが神様を頼ると言う実際的な行動は祈りです。

逆にいえば、祈らないと言うのは神様を頼ってないことを言います。

 

そういうわけで私たちはいつも祈らなければなりません。

どんなことがあってもまず神様に祈るべきです。

特に、自分が受けている苦しみがあまりにもひど過ぎて生きる希望さえなくなった時も、まず、神様を探し、慰めの神様に祈りますと、必ず慰められ、新しい力を得ます。

 

詩篇42:5“わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。み前で思いみだれているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。み顔の救いを。”

 

ソンキョンエという女の人がいました。結婚して1年ぐらいは幸せな生活が続きましたが、いつからかだんだんと夫は毎日お酒を飲むようになり、結局は浮気(うわき)もし、ほとんど家に帰ってきませんでした。生活も苦しくなる一方でした。そんな中、ある日、お湯の入っている(かま)の中に一歳になった子供が落ちて、ひどいやけどを負いました。幸に命は救われましたが、病院では治療できないといわれました。

彼女は結婚する前に友達と一緒に教会に通ったことを思い出して、娘を()いて教会に行き、牧師とその事について相談しました。

彼女は自分の家に戻って来て子供を寝かし、神様に祈り始めました。 

 

神様!私はこれ以上生きる力はありません。生きる理由も分かりません。

死にたいですと、彼女はその時の心境(しんきょう)を神様に言い始めたのです。

そういう状況の中でも夫は子ともに対して全然関心がありませんでした。

 

しかし彼女は拍車(はくしゃ)をかけ、毎日教会に行って祈ることに決心をして毎日の夜9時に教会に行って祈りました。教会に行って祈ると、心に平安がありました。

しかし、祈って、帰って来ても、娘を見ると再び落ち込んでしまいました。

娘の体全体にある傷跡(きずあと)のためでした。これから娘がどう生きていけるかを考えると先が真っ暗になりました。

 

自分のためにも、又、娘のためにも死ぬ方がいいと思いました。

でも彼女は本当に神様が生きているなら信じたいとも思いました。

それで、彼女は“神様、あなたが本当に生きておられるなら、娘の体のひどい水ぶくれを直してくださいと毎日同じ祈りを10日間続けました。

 

ついに奇跡が現れました。

病院でも治せないと言われたその水ぶくれがなくなったのです。

お祈りの答えを体験した彼女はまた神様に求めました。

娘の頭には髪の毛が一本もありませんと髪の毛のためにも、祈りました。

神様はその祈りにも答えてくださって、6ヶ月が過ぎて娘は完全に治ったそうです。

 

彼女の証しによりますと、神様は、慰めは勿論自分の理解を超えた祝福も与えてくださったそうです。

夫も今はクリスチャンになって一緒に信仰生活をしているそうです。

私たちは(つね)に祈らなければなりませんが、神様は私たちが今でも祈りますと、全ての問題から救ってくださいます。

 

 

なぜ神様は苦しみを与えるでしょうか。

9節を読んで見ましょう

“ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これはもはや自分自身を(たの)まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。”

 

神様が私たちに試練を与えるのは私たちが自分の能力、知恵、実力、地位、財産を頼るのではなく、死者をよみがえらせてくださった神に頼む者とならせるためです。

 

何も問題のない人が神様に会うのは、本当は難しいです。

問題がある時、人は神様を探し求めるからです。

苦難は祝福を受けるための過程でもあります。

 

ですから、信者にとっては苦難は絶望ではなく、もう一つの道でもあります。

祈ることだけが神に会う方法ですし、最高の方法です。

お祈りは慰められるための通路であり、神様を働かせる方法です。

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2019/08/06 主日メッセージ   nozomich

大切な戒め(マタイ22:34-40) 

真に神様を愛するなら十戒の1-4までの戒めを守りますし、隣人を自分の自身のように愛するなら十戒の5-10までの戒めも守ります。

しかし人間は戒めを完全に守ることは出来ないので、イエス・キリストが十字架につけられ死をもって戒めを完成しました。

律法には613の戒めがあります。

積極的な戒めは248項で、人の体の各部分の数と同じです。

消極的な戒めは365項ですが、一年の日数と同じです。

 

 

のぞみ教会・主日礼拝<2019年7月28日> 説教者: 李鍾賢牧師                                

大切な戒め(マタイ22:34-40)  

 22:34 しかし、パリサイ人たちは、イエスがサドカイ人たちを黙らせたと聞いて、いっしょに集まった。

 22:35 そして、彼らのうちのひとりの律法の専門家が、イエスをためそうとして、尋ねた。

 22:36 「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」

 22:37 そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』

 22:38 これがたいせつな第一の戒めです。

 22:39 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。

 22:40 律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」

        

真に神様を愛するなら十戒の1-4までの戒めを守りますし、隣人を自分の自身のように愛するなら十戒の5-10までの戒めも守ります。

しかし人間は戒めを完全に守ることは出来ないので、イエス・キリストが十字架につけられ死をもって戒めを完成しました。

律法には613の戒めがあります。

積極的な戒めは248項で、人の体の各部分の数と同じです。

消極的な戒めは365項ですが、一年の日数と同じです。

 

イエス・キリストが私たちの心を尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよと言われました。

この世のどの国の法も王や大統領を愛せよという法はありません。

忠誠(ちゅうせい)服従(ふくじゅう)は要求してもこの世の権威者たちは、愛は要求しません。

 

イエス・キリストは私たちに忠誠より従順より奉仕よりまず主を愛することを願っておられます。愛すれば忠誠も従順も奉仕も自然にできるからです。

 

☞なぜ神様は私たちが心を尽くして愛することを願っておられるのでしょうか。

よく見ますと、人は自分が何を愛するかによってその人生が決まります。

美を愛する人は芸術家(げいじゅつか)になります。

学問を愛する人は学者になります。

権力を愛する人は政治家になります。

お金を愛する人は実業家(じつぎょうか)になります。

本が好きな人は文学者になります。

人が神様を愛すると、愛する分変わります。

 

皆さん、人生の焦点(しょうてん)を主にあわせ、主を愛しましょう。

独裁者(どくさいしゃ)に忠誠し、服従すると奪い取られますが、

神様を愛し、従いますとすばらしい人生へと変わります。

 

バッハは心を尽くして神様を愛した音楽家でした。

その分彼は神様に愛され知恵と力を頂き素晴らしい作品を作る事ができました。

 

ミケランジェロとネオナルド・ダビンチは何よりも神様を愛しました。

彼らはミステナ教会の壁に7年にかけて絵を書いたそうです。

主を愛したので感謝と喜びで完成することができたわけです。

 

主を愛する時、献身も忠誠もできます。

主を愛すると主のための奉仕も喜んでできるのです。

 

ロシアのトストエプスキは“私は主を愛します。イエス・キリストを私の血で書きたいです”と言ったそうです。

彼は神に愛され、恵みをいただき「カラマチョップの兄弟たち」という名作を書きました。

彼らがこのように偉大な作品を残したのは神様を愛したからです。

言い換えれば神様を愛したので、神に愛され、より素晴らしい知恵と力を(くわ)えられたのです。

 

詩篇91:14で、神様はこう言われました。

彼が私を愛しているから、私は彼を助け出そう。

彼が私の名を知っているから、私は彼を高くあげよう

 

なぜ神様は私たちの愛を願っておられるでしょうか。

神様は私たちを愛するからです。

例え、私がAさんを愛しないなら、Aさんが私以外の他の人を愛しても私には関係ありません。

 

しかし、私が本当に A さんを愛しているなら、Aさんがたとえ、私以外の他の人に関心があるようでしたら、私はきっとねたむでしょう。

そのように愛は(ひと)()めしたいものです。

神様が私たちに愛を要求するのは神様がそれだけ私たちを愛しているからです。

 

この前もお話ししましたが、神様は御子イエス・キリストが十字架の上で

“エリ、エリ、レマサバクタニ、わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか。”と叫ぶ時も人をあまりにも愛したため、御子の叫び声にも目をそらしました。

 

☞隣人への愛

あなたの隣人をあなたの自身のように愛せよと言われました。

しかし、どうすれば隣人を愛することができるでしょうか。

まず自分を愛しなければなりません。

自分を愛しないと他人を愛することが出来ないからです。

 

しかし、サタンは私たちが自分自身を愛する事も妨げます。

例えばサタンは沢山の罪を犯したからだと思わせ、落ち込ませます。

サタンは私たちが立ち上がれないようにします。

サタンは私たちを引きこもらせます。

サタンは自分自身を虐待(ぎゃくたい)するようにします。

 

しかし神様はすでに私たちを受け入れてくださって全ての罪を赦してくださいました。

自分が自分を受け入れようとしないし、赦さないのは決して(のぞ)ましいことではありません。

 

サタンにだまされると自分がいやになるし、そういう人は他人も嫌います。

愛がないと人の過ちだけが見えるのです。

そして不平不満を言います。

 

自分を愛する人は自分のために望みを持ちます。希望に満ちた生活をします。

言い換えれば、のぞみを持たないということは自分を愛しないということです。

らい病の治療において世界的な権威者であるリュジョンお医者さんによると、らい病を治療するとき、同じ薬を使うのにある患者さんは回復していき、また、ある患者さんはよりひどくなるか、回復しなかったそうです。

 

自分は治らなければならない、必ず治るという強い希望をもっていた人は回復が早かったのですが、しかし私はだめ、どうせだめだと諦めた人は同じ薬で治療してもそういう効果はなかったそうです。

 

神の人は自分に対してのぞみがなければなりません。

神の人は希望がなければなりません。

ヨシュアとカレブはカナン地を探索して来て、報告しました。

「私たちはぜひとも、上っていってそこを占領しよう。必ずそれができるから。」と言いました。(民14:30)

 

しかし10名の報告は否定的でした。(14:28-33)を読んでいただきます。

否定的な話に(かたむ)いた人は皆、彼らの言った通りに40年間を荒野で過ごし、死にました。

 

ピリピ4:13「私は私を強くして下さる方によってどんなことでもできるのです。」

神様を信じると、頼ると、神様が皆さんの人生を導きます。

 

ヘブル6:14「わたしは必ずあなたを祝福し、あなたを大いにふやす」と約束しました。

神様はアブラハムに「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう」と約束しました。

 

ところがこの御言葉をアブラハムにだけ与えられた約束として理解する人もいます。

しかし、イエス・キリストは昨日も今日もいつまでも同じです。へブル13:8

イエス・キリストを信じる私たちが神様の約束を信じると、アブラハムの祝福は自分のものになります。

 

私たちは自分を愛するように隣人を愛しなければなりません。

<隣人を愛しなさい>ということは隣人に仕えなさいということでもあります。

愛があれば全ての過ちも愛でおうことができます。

 

愛しなさいと神様が言われたので従順に従わなければなりません。

無条件愛するということです。

これからは嫌いな人をもっと愛するようにお祈りしながら頑張りましょう。

近いところから愛しましょう。

家族を愛しましょう。

 

憎むのは、自分は勿論他人まで殺す行為であります。

しかし、愛は、自分は勿論隣人を生かします。

そして神様の愛を味わう方法でもあります。

 

愛するためには言葉が何よりです。

聖書ははっきり示しています。恵みを与える言葉を口にしなさいと私たちに教えています。エペソ4:29節です。

“悪い言葉を、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要な時、人の徳を養う(やしなう)のに役立つ言葉を話し、聞く人に恵みを与えなさい。”

他人に恵みをどう与えることができるでしょうか。

信仰の言葉、いい言葉、(はげ)ましの言葉、誉め言葉、いくらでもあります。

 

私たちの暮らしの中でまず言葉を変えなければなりません。

さらに言葉に、より深い信仰を込めて、その信仰のことばによって主の力を体験するようお願い申し上げます。

 

言葉は命に(ひと)しいものです。

<創世記1:1> 初めに、神が天と地を創造した。神様は言葉で天地を作り、

<ヨハネ1:1、1:14>1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。 

 1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

 

またイエス様も言葉が人となってこの地に来られました。

また聖霊様も御言葉で人間を救い、そして天のメッセージも言葉をもって教えて下さいました。

 

一言で戦いがあり、一言で平和があります。

個人と個人との関係、国と国との関係も言葉によって多くのものが左右(さゆう)されます。

言葉には力があります。

言葉には良い言葉でも良くない言葉でも力があります。

マタイ12:37にはあなたが正しいとされるのは、あなたの言葉によるのであり、罪に定めるのも、あなたの言葉によるのです。と書いてあります。

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2019/08/06 主日メッセージ   nozomich

からの器(Ⅱ列王記4:1~7)

 

 

からの器(Ⅱ列王記4:1~7)   

4:1 預言者のともがらの妻のひとりがエリシャに叫んで言った。「あなたのしもべである私の夫が死にました。ご存じのように、あなたのしもべは、主を恐れておりました。ところが、貸し主が来て、私のふたりの子どもを自分の奴隷にしようとしております。」

 4:2 エリシャは彼女に言った。「何をしてあげようか。あなたには、家にどんな物があるか、言いなさい。」彼女は答えた。「はしための家には何もありません。ただ、油のつぼ一つしかありません。」

 4:3 すると、彼は言った。「外に出て行って、隣の人みなから、器を借りて来なさい。からの器を。それも、一つ二つではいけません。

 

 

のぞみ教会 主日説教(2019年7月21日) 作成及び説教者:李鍾賢牧師

からの器(Ⅱ列王記4:1~7)   

4:1 預言者のともがらの妻のひとりがエリシャに叫んで言った。「あなたのしもべである私の夫が死にました。ご存じのように、あなたのしもべは、主を恐れておりました。ところが、貸し主が来て、私のふたりの子どもを自分の奴隷にしようとしております。」

 4:2 エリシャは彼女に言った。「何をしてあげようか。あなたには、家にどんな物があるか、言いなさい。」彼女は答えた。「はしための家には何もありません。ただ、油のつぼ一つしかありません。」

 4:3 すると、彼は言った。「外に出て行って、隣の人みなから、器を借りて来なさい。からの器を。それも、一つ二つではいけません。

 4:4 家にはいったなら、あなたと子どもたちのうしろの戸を閉じなさい。そのすべての器に油をつぎなさい。いっぱいになったものはわきに置きなさい。」

 4:5 そこで、彼女は彼のもとから去り、子どもたちといっしょにうしろの戸を閉じ、子どもたちが次々に彼女のところに持って来る器に油をついだ。

 4:6 器がいっぱいになったので、彼女は子どもに言った。「もっと器を持って来なさい。」子どもが彼女に、「もう器はありません。」と言うと、油は止まった。

 4:7 彼女が神の人に知らせに行くと、彼は言った。「行って、その油を売り、あなたの負債を払いなさい。その残りで、あなたと子どもたちは暮らしていけます。」

     

本文はエリシャ時代の主のしもべ、今ので言えば、牧師の家族に関する話です。

どんな理由からお金を借りたのかは聖書に出てないので分かりません。

ある主のしもべが借金を残しては、亡くなってしまいました。

 

何とかして返さなければなかったのですが、当時は借りたお金を返せない場合は自分の子供を奴隷として6年間、働かせなければなりませんでした。

夫は亡くなって、子供は奴隷として売られるは事になったのです。

この時の母親の気持ちを想像するのは難しくないと思います。

 

しかし、彼女はまったく解決策の見えない状況の中でも絶望しませんでした。

この問題にぶつかってまず彼女が訪ねたところはどこだったでしょか。

人間的な思いにより手を打つ前に、まず彼女は預言者のところに行きました。

当時の預言者だったエリシャを訪ね、事情を話し、どうしたらいいかを聞きました。

 

その話を聞いたエリシャは「心配するな、神の助けがあるから。」と言って、

きっと彼女を慰めたでしょう。それからエリシャは彼女に家にどんな物があるかと聞きました。すると彼女は油のつぼ一つしかないと答えています。

またエリシャは彼女に外に出て行って、からの器を借りてくることを言いま

そして神の奇跡が現れてから、その油で借金を返し、その残りで生計費(せいけいひ)として子供と暮らして生きていくようにと言いました。

この本文は簡単に言うと、人間的な方法でははく、神の方法で問題を解決しなければならないということです。

 

神様の方法で解決すると、問題がむしろ祝福のチャンスにもなります。

私たちにある問題はすべてが私たちに不幸をもたらすものではありません。

むしろそのような問題をとおして以前よりさらによくなる場合もあります。

聖書には神様の祝福をいただいた様々な人々について書いてありますが、

そのような人たちにもやはり問題がありました。

 

ハンナという女の人は神様の祝福をいただいた人ですが、彼女に問題がなかったわけではありません。問題がありましたが、その問題をハンナは祈りをもって解決しました。

ヒゼキヤ王も民族と国が大きな危険にさらされているとき、信仰でその問題を解決しました。

その他にもヨセフ、ダニエルなど多くの人がいます。

 

1.まず主の前に進みましょう。

この女の人は自分の問題のことで絶望したり諦めたりしませんでした。

まず神様の前に進み、信仰をもって、神様の恵みで問題を解決しようとしました。

確かに目の前にある現実は絶望的なものですが、しかし神様が助けてくださるだろうという信仰で進みました。私たちにこのような彼女の信仰が必要です。

主に頼る信仰が必要です。彼女はエリシャを訪ねましたが、彼女はこれからの神様の助けを信じていました。

 

自分には方法がないけど、しかし全能なる方が十分解決してくださると信じてエリシャを訪ねたのです。この時、奇跡が起きました。

エリシャが彼女にからの器を借りてくることを言いましたが、借りて来た器、すべてに油がいっぱいになったのです。

 

神様はいつも信者たちの助けになることを望んでおられます。

本文の2節の、“何をしてあげようか。”というエリシャの質問は、つまり神様が信者たちに聞いておられるのと同じで、信者たちの問題、苦難をご存知の神様が信者を助けるための準備をすでにしておられるということが分かります。

 

イエス様もヨハネ10:10節でこのように仰せられました。

“わたしが来たのは、羊が命を得、またそれを豊かにもつためです。”

神様は求める者に常にすべてのことで満たし、豊かにしてあげるのを喜ぶお方でます。

 

2.器を準備しましょう。

エリシャが彼女にからの器を借りてくることを言いましたが、それも一つ二つではなく、たくさんの器を借りるようにしました。

本文でもみるように、油は借りて来た器にいっぱいになってからは止まってしまいました。もしうつわがもっとあったら、油はさらに出たでしょう。

 

このことから分かるのは、神様は信者の信仰と従順のぶん、満たしてくださるということです。

ですからたくさん準備すればするほど、神様は満たしてくださるのです。

逆に神様は信者さんにいっぱい満たしてあげることを願っておられるのに、

信者が信仰の器を準備しないと、満たしてあげることができないわけです。

 

神様は私たちを祝福するのに、いやいやながら仕方なく与えてくださる方ではありません。

溢れるように、豊かに与えてくださることを願っておられる方です。

 

詩篇81:10 わたしが、あなたの神、主である。わたしはあなたをエジプトの地から連れ上った。あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう。

ヨブ記8:5 もし、あなたが、熱心に神に求め、全能者にあわれみを請うなら、

8:6 もし、あなたが純粋で正しいなら、まことに神は今すぐあなたのために起き上がり、あなたの義の住まいを回復される。

8:7 あなたの始めは小さくても、その終わりは、はなはだ大きくなる。

 

信じる信仰で生きましょう。

例えば皆さんは今日、誰かにひどい扱いを受けたとします。

声を出してこう言って見てください。

<神様あなたの恵みが新しい形で訪れ、状況を変えてくださると信じています。きっとあの人たちも私に対する態度を変えてくださるでしょう。ありがとうございます。>

 

経済問題を抱えていることでも,健康の問題を抱えていることでも,仕事の問題を抱えていることでも,家族の問題を抱えていることでも,将来の問題を抱えていることでも声を出してこう言って見てください

<神様、あなたの恵みが新しい形で訪れ、状況を変えてくださると信じています。期待します。>

 

信じる心を持ち続ければ聖書に出て来る人物のように間もなく皆さんにも神様の恵みが現れます。

暗黒の日々の中でも神様の恵みを信じる心を持ち続ければ何事にも打ちのめされることはありません。

 

もし、今、皆さんは自分が厳しいところにいると思っているかもしれません。

しかし、そこで神様の恵みを信じる心を諦めてはいけません。

神様の恵みがほんの少しでも与えられると全ては変わるのです。

聖書には<聖なる恵みが訪れることを最後まで求め続けよ。>と書いてあります。

 

要するに決して諦めてはいけないということです。

信じ、求め、祈り続けましょう。

恵みを信じて生きていれば神様は応じてくださるのです。

すぐに変化が表れなくても皆さんが求め続ければ神様の恵みは必ず表れます。

その時こそ、すべてが変わるのです。

 

皆さんを苦しめている問題は解決されます。

現状がどうであれ、<神様!あなたの恵みが近づいて来ていると信じます>と声を出して言い続けましょう。諦めなければ神の恵みは必ず表れます。

聖書にはこう書いてあります。

ピリピ2:14 すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。と書いてあります。

 

つらい時にも、自分は神様の恵みを受ける特別な人間だと思い、信仰を持って進みましょう。

へブル11:1 信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。と書いてあります。

心の中でこんな声がしませんか。

<うまくいくわけがない。きっと今日は最悪の日になる。良いことなんか何一つない。最初から期待なんかしないほうががっかりしなくて済むだけましだ>

そんなでたらめに耳を貸してはいけません。

希望がなくては、信仰は成り立ちません。

この場合、希望とは確信のある期待の事です。

私たちは神様の恵みを期待して毎朝目覚めなくてはなりません。

チャンスのドアが開かれることを期待してください。

試練を超えられると期待してください。

 

期待度を上げましょう。

成功したいなら夢を追いかけなくてはいけない。とよく言われます。

人は自分が求めたものを手にします。

プラス考え方を持っている人の人生は前向きの 人生を送ることになります。

マイナス考え方を持っている人は後ろ向きの人生を送ることになります。

 

人の中では様々な問題で頭の中がいっぱいになっている人もいます。

健康のことや家族のことや仕事のことや経済のことや人間関係のことや複雑である時にも良い事が起こると信じてください。

もし病気がもっとひどくなっていても癒される聖霊の働きを信じてください。

必ずその通りになります。

 

この女の人のように信仰をもって神様の前に進むと、神様は必ず私たちの助けとなってくださいます。

現実は絶望的なものであっても、目を神様のほうに回してください。

 

そして常に信仰の器を準備してください。器が準備できてないと、祝福をいただくことができません。なるべく大きな器、たくさんの器を準備して溢れる祝福をいただくようにとお願い申し上げます。

 

最後に、聖書を元にしたある歌の歌詞を紹介して終わりにしたいと思います。

主は道のないところに道を設ける。主は私の見えないところで働いておられる。

主は私のため道を設ける。主はわが助けとなる。 主は道を設ける。

主は私を近づかせ、愛と力で抱いてくださる。

主は荒野に道を、荒地に川を設ける。

天地はなくなっても主の御言葉はあいかわらず残る。

主は今日、新しいことをする。主は道を設ける。主は道を設ける。

今週も主と共に歩む一週間となりますよう、お願いいたします。

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2019/07/25 主日メッセージ   nozomich