恵みの雨

主日メッセージ

生きる希望がなくなった時(Ⅱコリント1:3-11)

1:3 私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。

1:4 神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。

1:5 それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。

 

 

のぞみ教会 主日礼拝 2019年8月4日  作成者及び説教者:李鍾賢牧師 

生きる希望がなくなった時(Ⅱコリント1:3-11)

1:3 私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。

1:4 神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。

1:5 それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。

1:6 もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。もし私たちが慰めを受けるなら、それもあなたがたの慰めのためで、その慰めは、私たちが受けている苦難と同じ苦難に耐え抜く力をあなたがたに与えるのです。

1:7 私たちがあなたがたについて抱いている望みは、動くことがありません。なぜなら、あなたがたが私たちと苦しみをともにしているように、慰めをもともにしていることを、私たちは知っているからです。

1:8 兄弟たちよ。私たちがアジヤで会った苦しみについて、ぜひ知っておいてください。私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危くなり、

1:9 ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。

1:10 ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。

1:11 あなたがたも祈りによって、私たちを助けて協力してくださるでしょう。それは、多くの人々の祈りにより私たちに与えられた恵みについて、多くの人々が感謝をささげるようになるためです。

 

今日、自殺がまるで脱出口(だっしゅつこう)でもあるかのように、自分の人生を自殺で終えようとする人が増えています。

夫の迫害(はくがい)に耐える事が出来ないからと言って自殺してしまう人もいるし、

成績が良くないからといって自殺してしまう人もいます。

また貧しい生活のため自殺してしまう人もいます。

進学に失敗したからといって自殺してしまう人もいます。

会社からやめさせられて、またはいじめられて自殺する人もいます。

警察によりますと、一日に100人ぐらいが自殺しているそうです。

 

また多くの人が一回ぐらいは自殺の誘惑(ゆうわく)を受けたことがあるそうです。

自殺は自分を殺す殺人行為で、その魂も救われません。

勿論、自殺はだれも絶対してはいけない事です。

特に神を知り、イエス・キリストを信じる信者は神様から与えられた命を大事にしなければなりません。

 

神様が与えられた命を自分の命だからと言って自分勝手にしてはいけません。

他人の命を殺す殺人もしてはいけないのは言うまでもないことですが、

自分の命を殺す自殺もしてはいけません。

 

私たちの人生の中で生きる希望がなくなった時に、現れる反応はだいたい三つに分かれて現れます。

一つは試練や苦しみに出会ったとき、全てをあきらめる人です。

 

もう一つのタイプは艱難(かんなん)がある時、全ての艱難を自ら解決しようとする人です。

このようなタイプの人は自分の力で出来ない時には、結局自殺に走る危険のある人です。

 

三つ目のタイプは自分の出あった問題が神様の計画の中にあると信じ、すべての問題を祈りながら、克服(こくふく)しようとするいわゆる信者の態度です。

 

本文を通して、命さえもあやうくなるほど、生きる希望がなくなるほど大変な時に、私たちはどうすれば良いかを考えて頂きたいと思います。

 

私たちが信じる神様は慰めの神様です。

3節を読んで見ますと、“私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。”と書いてあります。

神様は愛という一言で表すことができますが、愛の神様は私たちが艱難の中で苦しんでいる時にもいつも私たちと共におられ、艱難を克服できる力を与えてくださいます。

私たちにはとうてい解決できない問題も、神様には解決出来ない問題がありません。

まことの慰めは神様にあります。 

 

4節に書いてありますように、神はどのような苦しみの時にも、私たちを慰めて下さいます。こうして私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることが出来るのです。

 

パウロは自分が受けた苦難の内容を11:24-28節で紹介しています。

“ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度(ごど)、むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船(なんせん)したことが三度あり、(いっ)昼夜(ちゅうや)、海上を(ただよ)ったこともあります。

幾度(いくど)もたびをし、川の(なん)盗賊(とうぞく)の難、同国民(どうこくみん)から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難にあい、(ろう)し苦しみ、たびたび(ねむ)られぬ()を過ごし、うえかわき、しばしば食べ物もなく、寒さにこごえ、(はだか)でいたこともありました。このような外から来ることのほかに、日々(ひび)私に()しかかるすべての教会への心づかいがあります。”

 

このようなひどい艱難に出あったパウロは神様に慰められました。

普通人々は友達や親せきを通して、または親しい人によって慰められることもありますが、しかし人からの慰めと神から与えられる慰めとは根本的に違います。

 

慰めの神様は私たちを慰めるのはもちろん、未来への希望と新しい力も与えてくださいます。生きる力を与えて下さいます。

生きる希望がなくなって、苦しみがひとければひといほど、もっと神様に近づいて神様に頼り、神様に慰められなければなりません。

 

 

それでは、どうすれば神様に慰められることができましょうか

11節を読んで見ますと“あなたがたも祈りによって、私たちを助けて協力して下さるでしょう。それは、多くの人々の祈りにより私たちに与えられた恵みについて、多くの人々が感謝を奉げるようになるためです。”

 

神様の慰めを体験する一番良い方法は、神様を頼り、祈る事です。

神様は私たちが神様だけを頼る事を願っておられます。

私たちが神様を頼ると言う実際的な行動は祈りです。

逆にいえば、祈らないと言うのは神様を頼ってないことを言います。

 

そういうわけで私たちはいつも祈らなければなりません。

どんなことがあってもまず神様に祈るべきです。

特に、自分が受けている苦しみがあまりにもひど過ぎて生きる希望さえなくなった時も、まず、神様を探し、慰めの神様に祈りますと、必ず慰められ、新しい力を得ます。

 

詩篇42:5“わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。み前で思いみだれているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。み顔の救いを。”

 

ソンキョンエという女の人がいました。結婚して1年ぐらいは幸せな生活が続きましたが、いつからかだんだんと夫は毎日お酒を飲むようになり、結局は浮気(うわき)もし、ほとんど家に帰ってきませんでした。生活も苦しくなる一方でした。そんな中、ある日、お湯の入っている(かま)の中に一歳になった子供が落ちて、ひどいやけどを負いました。幸に命は救われましたが、病院では治療できないといわれました。

彼女は結婚する前に友達と一緒に教会に通ったことを思い出して、娘を()いて教会に行き、牧師とその事について相談しました。

彼女は自分の家に戻って来て子供を寝かし、神様に祈り始めました。 

 

神様!私はこれ以上生きる力はありません。生きる理由も分かりません。

死にたいですと、彼女はその時の心境(しんきょう)を神様に言い始めたのです。

そういう状況の中でも夫は子ともに対して全然関心がありませんでした。

 

しかし彼女は拍車(はくしゃ)をかけ、毎日教会に行って祈ることに決心をして毎日の夜9時に教会に行って祈りました。教会に行って祈ると、心に平安がありました。

しかし、祈って、帰って来ても、娘を見ると再び落ち込んでしまいました。

娘の体全体にある傷跡(きずあと)のためでした。これから娘がどう生きていけるかを考えると先が真っ暗になりました。

 

自分のためにも、又、娘のためにも死ぬ方がいいと思いました。

でも彼女は本当に神様が生きているなら信じたいとも思いました。

それで、彼女は“神様、あなたが本当に生きておられるなら、娘の体のひどい水ぶくれを直してくださいと毎日同じ祈りを10日間続けました。

 

ついに奇跡が現れました。

病院でも治せないと言われたその水ぶくれがなくなったのです。

お祈りの答えを体験した彼女はまた神様に求めました。

娘の頭には髪の毛が一本もありませんと髪の毛のためにも、祈りました。

神様はその祈りにも答えてくださって、6ヶ月が過ぎて娘は完全に治ったそうです。

 

彼女の証しによりますと、神様は、慰めは勿論自分の理解を超えた祝福も与えてくださったそうです。

夫も今はクリスチャンになって一緒に信仰生活をしているそうです。

私たちは(つね)に祈らなければなりませんが、神様は私たちが今でも祈りますと、全ての問題から救ってくださいます。

 

 

なぜ神様は苦しみを与えるでしょうか。

9節を読んで見ましょう

“ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これはもはや自分自身を(たの)まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。”

 

神様が私たちに試練を与えるのは私たちが自分の能力、知恵、実力、地位、財産を頼るのではなく、死者をよみがえらせてくださった神に頼む者とならせるためです。

 

何も問題のない人が神様に会うのは、本当は難しいです。

問題がある時、人は神様を探し求めるからです。

苦難は祝福を受けるための過程でもあります。

 

ですから、信者にとっては苦難は絶望ではなく、もう一つの道でもあります。

祈ることだけが神に会う方法ですし、最高の方法です。

お祈りは慰められるための通路であり、神様を働かせる方法です。

≫ Read More

2019/08/06 主日メッセージ   nozomich

大切な戒め(マタイ22:34-40) 

真に神様を愛するなら十戒の1-4までの戒めを守りますし、隣人を自分の自身のように愛するなら十戒の5-10までの戒めも守ります。

しかし人間は戒めを完全に守ることは出来ないので、イエス・キリストが十字架につけられ死をもって戒めを完成しました。

律法には613の戒めがあります。

積極的な戒めは248項で、人の体の各部分の数と同じです。

消極的な戒めは365項ですが、一年の日数と同じです。

 

 

のぞみ教会・主日礼拝<2019年7月28日> 説教者: 李鍾賢牧師                                

大切な戒め(マタイ22:34-40)  

 22:34 しかし、パリサイ人たちは、イエスがサドカイ人たちを黙らせたと聞いて、いっしょに集まった。

 22:35 そして、彼らのうちのひとりの律法の専門家が、イエスをためそうとして、尋ねた。

 22:36 「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」

 22:37 そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』

 22:38 これがたいせつな第一の戒めです。

 22:39 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。

 22:40 律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」

        

真に神様を愛するなら十戒の1-4までの戒めを守りますし、隣人を自分の自身のように愛するなら十戒の5-10までの戒めも守ります。

しかし人間は戒めを完全に守ることは出来ないので、イエス・キリストが十字架につけられ死をもって戒めを完成しました。

律法には613の戒めがあります。

積極的な戒めは248項で、人の体の各部分の数と同じです。

消極的な戒めは365項ですが、一年の日数と同じです。

 

イエス・キリストが私たちの心を尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよと言われました。

この世のどの国の法も王や大統領を愛せよという法はありません。

忠誠(ちゅうせい)服従(ふくじゅう)は要求してもこの世の権威者たちは、愛は要求しません。

 

イエス・キリストは私たちに忠誠より従順より奉仕よりまず主を愛することを願っておられます。愛すれば忠誠も従順も奉仕も自然にできるからです。

 

☞なぜ神様は私たちが心を尽くして愛することを願っておられるのでしょうか。

よく見ますと、人は自分が何を愛するかによってその人生が決まります。

美を愛する人は芸術家(げいじゅつか)になります。

学問を愛する人は学者になります。

権力を愛する人は政治家になります。

お金を愛する人は実業家(じつぎょうか)になります。

本が好きな人は文学者になります。

人が神様を愛すると、愛する分変わります。

 

皆さん、人生の焦点(しょうてん)を主にあわせ、主を愛しましょう。

独裁者(どくさいしゃ)に忠誠し、服従すると奪い取られますが、

神様を愛し、従いますとすばらしい人生へと変わります。

 

バッハは心を尽くして神様を愛した音楽家でした。

その分彼は神様に愛され知恵と力を頂き素晴らしい作品を作る事ができました。

 

ミケランジェロとネオナルド・ダビンチは何よりも神様を愛しました。

彼らはミステナ教会の壁に7年にかけて絵を書いたそうです。

主を愛したので感謝と喜びで完成することができたわけです。

 

主を愛する時、献身も忠誠もできます。

主を愛すると主のための奉仕も喜んでできるのです。

 

ロシアのトストエプスキは“私は主を愛します。イエス・キリストを私の血で書きたいです”と言ったそうです。

彼は神に愛され、恵みをいただき「カラマチョップの兄弟たち」という名作を書きました。

彼らがこのように偉大な作品を残したのは神様を愛したからです。

言い換えれば神様を愛したので、神に愛され、より素晴らしい知恵と力を(くわ)えられたのです。

 

詩篇91:14で、神様はこう言われました。

彼が私を愛しているから、私は彼を助け出そう。

彼が私の名を知っているから、私は彼を高くあげよう

 

なぜ神様は私たちの愛を願っておられるでしょうか。

神様は私たちを愛するからです。

例え、私がAさんを愛しないなら、Aさんが私以外の他の人を愛しても私には関係ありません。

 

しかし、私が本当に A さんを愛しているなら、Aさんがたとえ、私以外の他の人に関心があるようでしたら、私はきっとねたむでしょう。

そのように愛は(ひと)()めしたいものです。

神様が私たちに愛を要求するのは神様がそれだけ私たちを愛しているからです。

 

この前もお話ししましたが、神様は御子イエス・キリストが十字架の上で

“エリ、エリ、レマサバクタニ、わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか。”と叫ぶ時も人をあまりにも愛したため、御子の叫び声にも目をそらしました。

 

☞隣人への愛

あなたの隣人をあなたの自身のように愛せよと言われました。

しかし、どうすれば隣人を愛することができるでしょうか。

まず自分を愛しなければなりません。

自分を愛しないと他人を愛することが出来ないからです。

 

しかし、サタンは私たちが自分自身を愛する事も妨げます。

例えばサタンは沢山の罪を犯したからだと思わせ、落ち込ませます。

サタンは私たちが立ち上がれないようにします。

サタンは私たちを引きこもらせます。

サタンは自分自身を虐待(ぎゃくたい)するようにします。

 

しかし神様はすでに私たちを受け入れてくださって全ての罪を赦してくださいました。

自分が自分を受け入れようとしないし、赦さないのは決して(のぞ)ましいことではありません。

 

サタンにだまされると自分がいやになるし、そういう人は他人も嫌います。

愛がないと人の過ちだけが見えるのです。

そして不平不満を言います。

 

自分を愛する人は自分のために望みを持ちます。希望に満ちた生活をします。

言い換えれば、のぞみを持たないということは自分を愛しないということです。

らい病の治療において世界的な権威者であるリュジョンお医者さんによると、らい病を治療するとき、同じ薬を使うのにある患者さんは回復していき、また、ある患者さんはよりひどくなるか、回復しなかったそうです。

 

自分は治らなければならない、必ず治るという強い希望をもっていた人は回復が早かったのですが、しかし私はだめ、どうせだめだと諦めた人は同じ薬で治療してもそういう効果はなかったそうです。

 

神の人は自分に対してのぞみがなければなりません。

神の人は希望がなければなりません。

ヨシュアとカレブはカナン地を探索して来て、報告しました。

「私たちはぜひとも、上っていってそこを占領しよう。必ずそれができるから。」と言いました。(民14:30)

 

しかし10名の報告は否定的でした。(14:28-33)を読んでいただきます。

否定的な話に(かたむ)いた人は皆、彼らの言った通りに40年間を荒野で過ごし、死にました。

 

ピリピ4:13「私は私を強くして下さる方によってどんなことでもできるのです。」

神様を信じると、頼ると、神様が皆さんの人生を導きます。

 

ヘブル6:14「わたしは必ずあなたを祝福し、あなたを大いにふやす」と約束しました。

神様はアブラハムに「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう」と約束しました。

 

ところがこの御言葉をアブラハムにだけ与えられた約束として理解する人もいます。

しかし、イエス・キリストは昨日も今日もいつまでも同じです。へブル13:8

イエス・キリストを信じる私たちが神様の約束を信じると、アブラハムの祝福は自分のものになります。

 

私たちは自分を愛するように隣人を愛しなければなりません。

<隣人を愛しなさい>ということは隣人に仕えなさいということでもあります。

愛があれば全ての過ちも愛でおうことができます。

 

愛しなさいと神様が言われたので従順に従わなければなりません。

無条件愛するということです。

これからは嫌いな人をもっと愛するようにお祈りしながら頑張りましょう。

近いところから愛しましょう。

家族を愛しましょう。

 

憎むのは、自分は勿論他人まで殺す行為であります。

しかし、愛は、自分は勿論隣人を生かします。

そして神様の愛を味わう方法でもあります。

 

愛するためには言葉が何よりです。

聖書ははっきり示しています。恵みを与える言葉を口にしなさいと私たちに教えています。エペソ4:29節です。

“悪い言葉を、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要な時、人の徳を養う(やしなう)のに役立つ言葉を話し、聞く人に恵みを与えなさい。”

他人に恵みをどう与えることができるでしょうか。

信仰の言葉、いい言葉、(はげ)ましの言葉、誉め言葉、いくらでもあります。

 

私たちの暮らしの中でまず言葉を変えなければなりません。

さらに言葉に、より深い信仰を込めて、その信仰のことばによって主の力を体験するようお願い申し上げます。

 

言葉は命に(ひと)しいものです。

<創世記1:1> 初めに、神が天と地を創造した。神様は言葉で天地を作り、

<ヨハネ1:1、1:14>1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。 

 1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

 

またイエス様も言葉が人となってこの地に来られました。

また聖霊様も御言葉で人間を救い、そして天のメッセージも言葉をもって教えて下さいました。

 

一言で戦いがあり、一言で平和があります。

個人と個人との関係、国と国との関係も言葉によって多くのものが左右(さゆう)されます。

言葉には力があります。

言葉には良い言葉でも良くない言葉でも力があります。

マタイ12:37にはあなたが正しいとされるのは、あなたの言葉によるのであり、罪に定めるのも、あなたの言葉によるのです。と書いてあります。

≫ Read More

2019/08/06 主日メッセージ   nozomich

からの器(Ⅱ列王記4:1~7)

 

 

からの器(Ⅱ列王記4:1~7)   

4:1 預言者のともがらの妻のひとりがエリシャに叫んで言った。「あなたのしもべである私の夫が死にました。ご存じのように、あなたのしもべは、主を恐れておりました。ところが、貸し主が来て、私のふたりの子どもを自分の奴隷にしようとしております。」

 4:2 エリシャは彼女に言った。「何をしてあげようか。あなたには、家にどんな物があるか、言いなさい。」彼女は答えた。「はしための家には何もありません。ただ、油のつぼ一つしかありません。」

 4:3 すると、彼は言った。「外に出て行って、隣の人みなから、器を借りて来なさい。からの器を。それも、一つ二つではいけません。

 

 

のぞみ教会 主日説教(2019年7月21日) 作成及び説教者:李鍾賢牧師

からの器(Ⅱ列王記4:1~7)   

4:1 預言者のともがらの妻のひとりがエリシャに叫んで言った。「あなたのしもべである私の夫が死にました。ご存じのように、あなたのしもべは、主を恐れておりました。ところが、貸し主が来て、私のふたりの子どもを自分の奴隷にしようとしております。」

 4:2 エリシャは彼女に言った。「何をしてあげようか。あなたには、家にどんな物があるか、言いなさい。」彼女は答えた。「はしための家には何もありません。ただ、油のつぼ一つしかありません。」

 4:3 すると、彼は言った。「外に出て行って、隣の人みなから、器を借りて来なさい。からの器を。それも、一つ二つではいけません。

 4:4 家にはいったなら、あなたと子どもたちのうしろの戸を閉じなさい。そのすべての器に油をつぎなさい。いっぱいになったものはわきに置きなさい。」

 4:5 そこで、彼女は彼のもとから去り、子どもたちといっしょにうしろの戸を閉じ、子どもたちが次々に彼女のところに持って来る器に油をついだ。

 4:6 器がいっぱいになったので、彼女は子どもに言った。「もっと器を持って来なさい。」子どもが彼女に、「もう器はありません。」と言うと、油は止まった。

 4:7 彼女が神の人に知らせに行くと、彼は言った。「行って、その油を売り、あなたの負債を払いなさい。その残りで、あなたと子どもたちは暮らしていけます。」

     

本文はエリシャ時代の主のしもべ、今ので言えば、牧師の家族に関する話です。

どんな理由からお金を借りたのかは聖書に出てないので分かりません。

ある主のしもべが借金を残しては、亡くなってしまいました。

 

何とかして返さなければなかったのですが、当時は借りたお金を返せない場合は自分の子供を奴隷として6年間、働かせなければなりませんでした。

夫は亡くなって、子供は奴隷として売られるは事になったのです。

この時の母親の気持ちを想像するのは難しくないと思います。

 

しかし、彼女はまったく解決策の見えない状況の中でも絶望しませんでした。

この問題にぶつかってまず彼女が訪ねたところはどこだったでしょか。

人間的な思いにより手を打つ前に、まず彼女は預言者のところに行きました。

当時の預言者だったエリシャを訪ね、事情を話し、どうしたらいいかを聞きました。

 

その話を聞いたエリシャは「心配するな、神の助けがあるから。」と言って、

きっと彼女を慰めたでしょう。それからエリシャは彼女に家にどんな物があるかと聞きました。すると彼女は油のつぼ一つしかないと答えています。

またエリシャは彼女に外に出て行って、からの器を借りてくることを言いま

そして神の奇跡が現れてから、その油で借金を返し、その残りで生計費(せいけいひ)として子供と暮らして生きていくようにと言いました。

この本文は簡単に言うと、人間的な方法でははく、神の方法で問題を解決しなければならないということです。

 

神様の方法で解決すると、問題がむしろ祝福のチャンスにもなります。

私たちにある問題はすべてが私たちに不幸をもたらすものではありません。

むしろそのような問題をとおして以前よりさらによくなる場合もあります。

聖書には神様の祝福をいただいた様々な人々について書いてありますが、

そのような人たちにもやはり問題がありました。

 

ハンナという女の人は神様の祝福をいただいた人ですが、彼女に問題がなかったわけではありません。問題がありましたが、その問題をハンナは祈りをもって解決しました。

ヒゼキヤ王も民族と国が大きな危険にさらされているとき、信仰でその問題を解決しました。

その他にもヨセフ、ダニエルなど多くの人がいます。

 

1.まず主の前に進みましょう。

この女の人は自分の問題のことで絶望したり諦めたりしませんでした。

まず神様の前に進み、信仰をもって、神様の恵みで問題を解決しようとしました。

確かに目の前にある現実は絶望的なものですが、しかし神様が助けてくださるだろうという信仰で進みました。私たちにこのような彼女の信仰が必要です。

主に頼る信仰が必要です。彼女はエリシャを訪ねましたが、彼女はこれからの神様の助けを信じていました。

 

自分には方法がないけど、しかし全能なる方が十分解決してくださると信じてエリシャを訪ねたのです。この時、奇跡が起きました。

エリシャが彼女にからの器を借りてくることを言いましたが、借りて来た器、すべてに油がいっぱいになったのです。

 

神様はいつも信者たちの助けになることを望んでおられます。

本文の2節の、“何をしてあげようか。”というエリシャの質問は、つまり神様が信者たちに聞いておられるのと同じで、信者たちの問題、苦難をご存知の神様が信者を助けるための準備をすでにしておられるということが分かります。

 

イエス様もヨハネ10:10節でこのように仰せられました。

“わたしが来たのは、羊が命を得、またそれを豊かにもつためです。”

神様は求める者に常にすべてのことで満たし、豊かにしてあげるのを喜ぶお方でます。

 

2.器を準備しましょう。

エリシャが彼女にからの器を借りてくることを言いましたが、それも一つ二つではなく、たくさんの器を借りるようにしました。

本文でもみるように、油は借りて来た器にいっぱいになってからは止まってしまいました。もしうつわがもっとあったら、油はさらに出たでしょう。

 

このことから分かるのは、神様は信者の信仰と従順のぶん、満たしてくださるということです。

ですからたくさん準備すればするほど、神様は満たしてくださるのです。

逆に神様は信者さんにいっぱい満たしてあげることを願っておられるのに、

信者が信仰の器を準備しないと、満たしてあげることができないわけです。

 

神様は私たちを祝福するのに、いやいやながら仕方なく与えてくださる方ではありません。

溢れるように、豊かに与えてくださることを願っておられる方です。

 

詩篇81:10 わたしが、あなたの神、主である。わたしはあなたをエジプトの地から連れ上った。あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう。

ヨブ記8:5 もし、あなたが、熱心に神に求め、全能者にあわれみを請うなら、

8:6 もし、あなたが純粋で正しいなら、まことに神は今すぐあなたのために起き上がり、あなたの義の住まいを回復される。

8:7 あなたの始めは小さくても、その終わりは、はなはだ大きくなる。

 

信じる信仰で生きましょう。

例えば皆さんは今日、誰かにひどい扱いを受けたとします。

声を出してこう言って見てください。

<神様あなたの恵みが新しい形で訪れ、状況を変えてくださると信じています。きっとあの人たちも私に対する態度を変えてくださるでしょう。ありがとうございます。>

 

経済問題を抱えていることでも,健康の問題を抱えていることでも,仕事の問題を抱えていることでも,家族の問題を抱えていることでも,将来の問題を抱えていることでも声を出してこう言って見てください

<神様、あなたの恵みが新しい形で訪れ、状況を変えてくださると信じています。期待します。>

 

信じる心を持ち続ければ聖書に出て来る人物のように間もなく皆さんにも神様の恵みが現れます。

暗黒の日々の中でも神様の恵みを信じる心を持ち続ければ何事にも打ちのめされることはありません。

 

もし、今、皆さんは自分が厳しいところにいると思っているかもしれません。

しかし、そこで神様の恵みを信じる心を諦めてはいけません。

神様の恵みがほんの少しでも与えられると全ては変わるのです。

聖書には<聖なる恵みが訪れることを最後まで求め続けよ。>と書いてあります。

 

要するに決して諦めてはいけないということです。

信じ、求め、祈り続けましょう。

恵みを信じて生きていれば神様は応じてくださるのです。

すぐに変化が表れなくても皆さんが求め続ければ神様の恵みは必ず表れます。

その時こそ、すべてが変わるのです。

 

皆さんを苦しめている問題は解決されます。

現状がどうであれ、<神様!あなたの恵みが近づいて来ていると信じます>と声を出して言い続けましょう。諦めなければ神の恵みは必ず表れます。

聖書にはこう書いてあります。

ピリピ2:14 すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。と書いてあります。

 

つらい時にも、自分は神様の恵みを受ける特別な人間だと思い、信仰を持って進みましょう。

へブル11:1 信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。と書いてあります。

心の中でこんな声がしませんか。

<うまくいくわけがない。きっと今日は最悪の日になる。良いことなんか何一つない。最初から期待なんかしないほうががっかりしなくて済むだけましだ>

そんなでたらめに耳を貸してはいけません。

希望がなくては、信仰は成り立ちません。

この場合、希望とは確信のある期待の事です。

私たちは神様の恵みを期待して毎朝目覚めなくてはなりません。

チャンスのドアが開かれることを期待してください。

試練を超えられると期待してください。

 

期待度を上げましょう。

成功したいなら夢を追いかけなくてはいけない。とよく言われます。

人は自分が求めたものを手にします。

プラス考え方を持っている人の人生は前向きの 人生を送ることになります。

マイナス考え方を持っている人は後ろ向きの人生を送ることになります。

 

人の中では様々な問題で頭の中がいっぱいになっている人もいます。

健康のことや家族のことや仕事のことや経済のことや人間関係のことや複雑である時にも良い事が起こると信じてください。

もし病気がもっとひどくなっていても癒される聖霊の働きを信じてください。

必ずその通りになります。

 

この女の人のように信仰をもって神様の前に進むと、神様は必ず私たちの助けとなってくださいます。

現実は絶望的なものであっても、目を神様のほうに回してください。

 

そして常に信仰の器を準備してください。器が準備できてないと、祝福をいただくことができません。なるべく大きな器、たくさんの器を準備して溢れる祝福をいただくようにとお願い申し上げます。

 

最後に、聖書を元にしたある歌の歌詞を紹介して終わりにしたいと思います。

主は道のないところに道を設ける。主は私の見えないところで働いておられる。

主は私のため道を設ける。主はわが助けとなる。 主は道を設ける。

主は私を近づかせ、愛と力で抱いてくださる。

主は荒野に道を、荒地に川を設ける。

天地はなくなっても主の御言葉はあいかわらず残る。

主は今日、新しいことをする。主は道を設ける。主は道を設ける。

今週も主と共に歩む一週間となりますよう、お願いいたします。

≫ Read More

2019/07/25 主日メッセージ   nozomich

今でも祈ると(創世記32:22-32)

のぞみ教会 主日礼拝<201962日> 説教者 李鍾賢牧師

今でも祈ると(創世記32:22-32)

 32:22 しかし、彼はその夜のうちに起きて、ふたりの妻と、ふたりの女奴隷と、十一人の子どもたちを連れて、ヤボクの渡しを渡った。

 32:23 彼らを連れて流れを渡らせ、自分の持ち物も渡らせた。

 32:24 ヤコブはひとりだけ、あとに残った。すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。

 

 

のぞみ教会 主日礼拝<201962日> 説教者 李鍾賢牧師

今でも祈ると(創世記32:22-32)

 32:22 しかし、彼はその夜のうちに起きて、ふたりの妻と、ふたりの女奴隷と、十一人の子どもたちを連れて、ヤボクの渡しを渡った。

 32:23 彼らを連れて流れを渡らせ、自分の持ち物も渡らせた。

 32:24 ヤコブはひとりだけ、あとに残った。すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。

 32:25 ところが、その人は、ヤコブに勝てないのを見てとって、ヤコブのもものつがいを打ったので、その人と格闘しているうちに、ヤコブのもものつがいがはずれた。

 32:26 するとその人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」しかし、ヤコブは答えた。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」

 32:27 その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は答えた。「ヤコブです。」

 32:28 その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。

 32:29 ヤコブが、「どうかあなたの名を教えてください。」と尋ねると、その人は、「いったい、なぜ、あなたはわたしの名を尋ねるのか。」と言って、その場で彼を祝福した。

 32:30 そこでヤコブは、その所の名をペヌエルと呼んだ。「私は顔と顔とを合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた。」という意味である。

 32:31 彼がペヌエルを通り過ぎたころ、太陽は彼の上に上ったが、彼はそのもものためにびっこをひいていた。

 32:32 それゆえ、イスラエル人は、今日まで、もものつがいの上の腰の筋肉を食べない。あの人がヤコブのもものつがい、腰の筋肉を打ったからである。

私たちはたまに自分が何を持っているかよく分からない時があります。

貴重(きちょう)なダイヤモンドをお酒と交換した昔のインディアンのように、

または百、二百円のお菓子を得るために一万円札もためらわず投げてしまう子供のような時があります。

 

神様が私たちにくださったお祈りに対する約束と言うものがどんなに大きな価値があるのかを知っているなら、自分がどんなに幸せな者であるかを分かるでしょう。

 

失敗と苦難に見舞(みま)われて、多くのものを失った時、普通多くの人は挫折(ざせつ)したり絶望したりしますが、しかし神様がくださったお祈りに対する約束は、失ったものより、より大きなものであることを知っていなければなりません。

 

偉大な信仰をもっていた人たち皆が、祈る人であったことを聖書からすぐ見つけることができます。

信仰とお祈りは非常(ひじょう)親密(しんみつ)な関係にあることが分かります。

これは信仰を持つことによってやがて祈りの価値も分かるという意味でもあります。

 

また祈ると信仰を持つようになるという意味でもあります。

ただ価値を知っている人だけがそのお祈りの価値を十分味わっているのです。

 

それで知恵ある者は、人々のうらやむ地位とコネを持っていてもまず祈ります。

苦難に見舞(みま)われてから祈らなかったことを後悔するより、

祈るのを持ち()さない

知恵の者にならなければなりません。

 

常に祈らなければなりませんでしたが、しかし今でも祈ると答えてくださると、

神様は言われます。

祈らなかったので、苦難に見舞われてしまいましたが、

しかし今、他に方法がないから祈るといっても、神様はその祈りにも答えてくださるということです。

 

兄、エサウに会わなければならなかったヤコブは恐れていました。

逃げることもできなかったので、ただ恐れているばかりでした。

他に方法がないと思ったヤコブは祈りました。

やがて彼は神様の恵みをいただきました。

 

今でも、祈ると神みをいただくことができます。

☞ ヤコブがイスラエルになります。(28

問題の解決のために祈る人たちに神様はそのお祈りに対する答えとして、

まず問題に対する自分の考え方と姿勢を変えてくださいます。

自分の子供のために祈りましたが、先に神様は祈るお母さんをまず変えてくださいます。

 

夫のためにひざをつきましたが、神様はまず変るべき自分の姿に気付くようになさいます。

それが祈りに対する答えです。

 

☞ 祈ると神みをいただくことができますが、神えます。

祈っていたヤボクの所の名前が変わりました。

神様に出会ったということでそのところの名をペヌエルと呼びました。

恐れながら、ひざをつきましたが、神様は祈っていたヤコブに会ってくださったのです。

思い(わずら)っていると意欲(いよく)もなくなります。

しかし祈ると再び立ち上がる力が与えられます。

ため息と(なげ)きの場が(あか)しの場に変わります。

 

☞ エサウがわりました。

ヤコブを殺すために追いかけてきたエサウでした。

だがヤコブを(こころよ)く迎えてくれました。

口づけし、二人は泣きました。

それからエサウが自らこれからの旅を案内してあげるとも言いました。

 

ヤコブが夜明(よあ)けまで祈ったのでエサウが変ったのです。

どんなに(かたく)な人でも、彼らのために祈ると神様は彼らの心を動かしてくださいます。悪者(わるもの)でも協力者になるようになさいます。

 

☞ 祝福してくださいました。

(さき)の見えない現実の中でヤコブはひざですがりつきました。

問題の解決のために祈るヤコブに先が(ひら)く恵みが与えられたのです。

祝福のある人生はお祈りから始まります。

お祈りなしに祝福はありません。

神様がくださる祝福は祈ることによって得られます。

 

ヤコブはどうやって祈りましたか。

☞ 彼は一人で祈りました。

多くの人がいるところで祈る事もありますが、他人を気にしないで、まことに、率直(そっちょく)に祈りたいなら、一人で祈る方法もあります。

 

しかしどこでどう祈っても、お祈りには(かざ)()があってはなりません。

イエス様も(つね)に人の群れの中におられました。

しかし一日も神様の前に一人でいる時間を忘れませんでした。

 

 ☞ ヤコブは夜通(よどお)し祈りました。

たくさんの時間、祈らなければ答えがないという意味ではありません。

答えがあるまで祈ったという意味です。

祈ることを実践(じっせん)するのも簡単なことではありません。

しかし失望しないで、最後まで祈るのがもっと大事なことです。

祈っても答えがないとしたら、それはもっと祈りなさいという意味であって、

(あきら)めなさいという意味ではありません。

 

☞ 彼は格闘(かくとう)しました。

受験生(じゅけんせい)たちは勉強と戦うといいます。

ヤコブはお祈りと戦いました。力を尽くした祈りです。

力ある限り、すがりつきました。

イエス様もゲツセマネという所で汗が血のしずくのようになるまで祈りました。

 

だんだんと夜が()け始めていた頃は、

ヤコブはより必死(ひっし)に祈らなければなりませんでした。

汗びっしょりになって祈っているヤコブを想像(そうぞう)してみてください。

 

なぜ神はもものつがいを打ったのでしょうか。

そこまでしてまで答えてくださる理由は何でしょうか。その理由がありました。

もものつがいが(はず)れたにもかかわらず、すがりつくヤコブの信仰をご覧になりました。

ヤコブが(くる)しい立場でも祈ることができたのは力ではなく、信仰であることをご覧になったのです。

 

つまり神様が見たかったのは信仰なのです。

本当の変化を望む人であるなら、信仰をもって祈らなければなりません。

普通苦難に見舞(みま)われてから、過去に祈らなかったことを後悔します。

 

しかし、だからといって方法がないわけではありません。

(あつ)かましいですが、しかしあいかわらず神様には愛と(あわ)れみがあります。

今でも祈ると神様の答えがあります。

 

変化があります。

自分の中で変化が起きます。

他人にも変化があります。

また神様に会う霊的な新しい経験をすることができます。

 

現在の危機から(のが)れ、見えなかった先も(ひら)かれる恵みがあります。

今でも祈りましょう。

まだ終わりではありません。

祈ることに集中(しゅうちゅう)してください。

()しみなく、信仰をもって力を尽くしてください。  

 

皆さん、神様は何度も私たちに“できる”と言われているのに、なぜ私たちが

“できない”と言うのでしょうか。

イエス様もこう言われました。(マルコ1:27)

「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。

どんなことでも、神にはできるのです。

 

神様と私たち人間は同じではありません。

神様を自分に合わせないように、自分を神様に合わせるように今週もお願いいたします。

 

 

詩篇81:10 わたしが、あなたの神、主である。わたしはあなたをエジプトの地から連れ上った。あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それをたそう。

もし、今、皆さんは自分が厳しいところにいると思っているかもしれません。

しかし、そこで神様の恵みを信じる心を諦めてはいけません。

神様の恵みがほんの少しでも与えられると全ては変わるのです。

恵みを信じて生きていれば神様は応じてくださるのです。

すぐに変化が表れなくても皆さんが求め続ければ神様の恵みは必ず表れます。

皆さんを苦しめている問題は解決されます。

 

又、恵みをいささかも疑わずに待ち望んでいなさい。と書いてあります。

今までなら望まなかったような事も望めるようになるのです。

つらい時にも、自分は神様の恵みを受ける特別な人間だと思い、信仰を持って進みましょう。

 

期待度を上げましょう。

人は自分が求めたものを手にします。

プラス考え方を持っている人は前向きの人生を送ることになります。

マイナス考え方を持っている人は後ろ向きの人生を送ることになります。

≫ Read More

2019/06/02 主日メッセージ   nozomich

お祈りは不可能に挑戦することである。<Ⅱ列王記20章 1-6>

のぞみ教会 主日説教(2019/5/19) 作成及び説教者:李鍾賢牧師

お祈りは不可能に挑戦することである。  <Ⅱ列王記20章 1-6>  

20:1 そのころ、ヒゼキヤは病気になって死にかかっていた。そこへ、アモツの子、預言者イザヤが来て、彼に言った。「主はこう仰せられます。『あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。直らない。』」

20:2 そこでヒゼキヤは顔を壁に向けて、主に祈って、言った。

20:3 「ああ、主よ。どうか思い出してください。私が、まことを尽くし、全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたがよいと見られることを行なってきたことを。」こうして、ヒゼキヤは大声で泣いた。

 

 

のぞみ教会 主日説教(2019/5/19) 作成及び説教者:李鍾賢牧師

お祈りは不可能に挑戦することである。  <Ⅱ列王記20章 1-6>  

20:1 そのころ、ヒゼキヤは病気になって死にかかっていた。そこへ、アモツの子、預言者イザヤが来て、彼に言った。「主はこう仰せられます。『あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。直らない。』」

20:2 そこでヒゼキヤは顔を壁に向けて、主に祈って、言った。

20:3 「ああ、主よ。どうか思い出してください。私が、まことを尽くし、全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたがよいと見られることを行なってきたことを。」こうして、ヒゼキヤは大声で泣いた。

20:4 イザヤがまだ中庭を出ないうちに、次のような主のことばが彼にあった。

20:5 「引き返して、わたしの民の君主ヒゼキヤに告げよ。あなたの父ダビデの神、主は、こう仰せられる。『わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ。わたしはあなたをいやす。三日目には、あなたは主の宮に上る。

20:6 わたしは、あなたの寿命にもう十五年を加えよう。わたしはアッシリヤの王の手から、あなたとこの町を救い出し、わたしのために、また、わたしのしもべダビデのためにこの町を守る。』」

 

お祈りは不可能に挑戦することである。  Ⅱ列王記20章 1-6     

詩篇48:14 この方こそまさしく神。世々限りなくわれらの神であられる。神は私たちをとこしえに導かれる。

 

マタイ11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

ところが、神様は私たちに要求するものがあります。それは祈ることです。

 

祈りは?―――自分を否定して、神様を認めることであります。

病気のこと、仕事のこと、子供のこと、夫のこと、経済のこと、人間関係のこと、様々な問題、自分は出来ないと認め、神様なら解決出来ると信じ、思い願う事が祈りです。

 

いつもお話しましたが、神様の法則は祈る時、与えられるということです。

祈ると言っても、疑わず、求める時こそ、答えられます。

祈りは神の子供たちに与えられた特権であります。

お祈りは父なる神様との会話であり、交わりであります。

お祈りは神様に捧げる捧げ物であります。

お祈りはイエス・キリストのお名前によって求める事です。

お祈りは聖霊の助けによってするものであります。

マルコ9:17-28

マルコ9:17 すると群衆のひとりが、イエスに答えて言った。「先生。おしの霊につかれた私の息子を、先生のところに連れてまいりました。

 9:18 その霊が息子に取りつきますと、所かまわず彼を押し倒します。そして彼はあわを吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせてしまいます。それでお弟子たちに、霊を追い出してくださるようにお願いしたのですが、お弟子たちにはできませんでした。」

 9:19 イエスは答えて言われた。「ああ、不信仰な世だ。いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。その子をわたしのところに連れて来なさい。」

 9:20 そこで、人々はイエスのところにその子を連れて来た。その子がイエスを見ると、霊はすぐに彼をひきつけさせたので、彼は地面に倒れ、あわを吹きながら、ころげ回った。

 9:21 イエスはその子の父親に尋ねられた。「この子がこんなになってから、どのくらいになりますか。」父親は言った。「幼い時からです。

 9:22 この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」

 9:23 するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」

 9:24 するとすぐに、その子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」

 9:25 イエスは、群衆が駆けつけるのをご覧になると、汚れた霊をしかって言われた。「おしとつんぼの霊。わたしが、おまえに命じる。この子から出て行きなさい。二度と、はいってはいけない。」

 9:26 するとその霊は、叫び声をあげ、その子を激しくひきつけさせて、出て行った。するとその子が死人のようになったので、多くの人々は、「この子は死んでしまった。」と言った。

 9:27 しかし、イエスは、彼の手を取って起こされた。するとその子は立ち上がった。

 9:28 イエスが家にはいられると、弟子たちがそっとイエスに尋ねた。「どうしてでしょう。私たちには追い出せなかったのですが。」

 9:29 すると、イエスは言われた。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません。」

 

マルコ9:23 するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」

 

信仰があるなら、パウロのような信仰告白が出来るのです。

パウロはこのような告白が出来ました。

ピリピ4:13 に書いてある通りです。

私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。

 

今日の本文は「死ぬ」と死形宣告されたヒゼキヤがお祈りを通して、神様の思いを変え、答えられた内容が記録されています。

 

1.お祈りは不可能に挑戦することです。

1節で「ヒゼキヤは病気になって死にかかっていた」と書いてあります。

死形宣告です。そして「あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。直らない。」

と神様が言われました。

 

そこでヒゼキヤがどうしたのでしょうか。

「はい、分かりました。今まで生きてきたのも神様の恵みです。これから家を整理し、死を迎える準備をします」と答えたでしょうか。

 

勿論そうすることもできたでしょうが、当時38歳だったヒゼキヤはそうしませんでした。

3節に書いてあるとおり、ヒゼキヤは神様に切に祈りました。

私たちにもこのような問題がないとは決して言えません。

 

先が見えない時があるかもしれません。

病気のことで、仕事のことで、子供のことで、夫のことで、経済のことで、

人間関係のことで、様々な問題にぶつかる時があるかも知れません。

しかしどんな問題でも皆さんはヒゼキヤがお会いした神様に会いますようにお祈りしつつ頑張りましょう。

 

例え、問題にぶつかった時、神様の御心だからと受け入れることもできますが、

しかし、ここでヒゼキヤはお祈りで神様の御心まで変えました。

つまり不可能なことに挑戦しました。

 

悩んでいる方、何か問題を抱えている方、信仰のお祈りで不可能なことに挑戦できますようにお祈りしつつ頑張りましょう。

 

あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。(Ⅰペテロ5:7)

 

 

2.お祈りは御言葉の上に立ってしなければなりません。

3節「主よ、どうか思い出してください。私がまことを尽くし、全き心を持って、

あなたの御前に歩み、あなたがよいと見られることを行ってきたことを。」と、

ヒゼキヤは祈っています。

神様の御心にあうことを行ったので、ヒゼキヤのお祈りは神様に聞き入れられたのです。

 

神様の御言葉とお祈りは切っても切れない関係にあります。

神様の御言葉、いわゆる聖書は人間に対する神様ご自身を表すものであります。

ところがお祈りは神様に対する人間、自分自身を表すものであります。

 

聖書と祈りはまるで電車の二本の線路のように大事な関係であります。

一本では電車が走ることが出来ないのです。

だから神様の御言葉とお祈りは切っても切れない関係にあります。

 

御言葉に従い、生きること、これがすなわち信仰の生き方です。

御言葉の中に生き、御言葉の約束の中でするお祈りは非常に大きな力があります。

 

3.答えられるまで祈ることです。

5節を見ますと、「私はあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ。私はあなたの寿命にもう十五年を加えよう。」と神様はイザヤを通して、ヒゼキヤの願いを聞き入れてくださったのが分かります。

 

皆さん、今も神様は皆さんのお祈りをすべてお聞きになり、全てご存知です。

ヒゼキヤのように涙が出るほど、切に祈りますと必ず神様に聞き入れられます。

ヒゼキヤはお祈りで、神様の思いを変えました。

不可能な状況でも、約束の御言葉を信じ、信仰を持って挑戦できますよう、お願い致します。

 

ヨハネ14:12「まことに、まことに、あなたがたに告げます。私を信じる者は私の行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。」

これが信仰の力です。そしてお祈りについて言われています。

13節「あなたがたが私の名によって求めることは何でも、それをしましょう」

14 あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。

 

マタイ7:7 求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。

7:8 だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。

7:9 あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。

7:10 また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。

7:11 してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。

 

信仰のお祈りは働く力が非常に大きいです。

願いが聞き入れられるまでねばり強く祈ってください。

マタイ16:19“何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。”

≫ Read More

2019/05/21 主日メッセージ   nozomich