
主任牧師 李鍾賢
-聖書キリスト教会所属牧師
-社団法人パウロ宣教会所属宣教師
-国際バリスタ協会所属珈琲マスター
-国際テコンド宣教会日本支会長
不在地主
本文 : ルカ 20 : 9 - 19
不在地主
本文 : ルカ 20 : 9 - 19
9 また、イエスは、民衆にこのようなたとえを話された。「ある人がぶどう園を造り、 それを農夫たちに貸して、長い旅に出た。
10 そして季節になったので、ぶどう園の収穫の分けまえをもらうために、農夫たちの所へひとりのしもべを遣わした。ところが、農夫たちは、そのしもべを袋だたきにし、何も持たせないで送り帰した。
11 そこで、別のしもべを遣わしたが、彼らは、そのしもべを袋だたきにし、はずかしめたうえで、何も持たせないで送り帰した。
12 彼はさらに三人目のしもべをやったが、彼らはこのしもべにも傷を負わせて追い出した。
13 ぶどう園の主人は言った。『どうしたものか。よし、愛する息子を送ろう。彼らも、 この子はたぶん敬ってくれるだろう。』
14 ところが、農夫たちはその息子を見て、議論しながら言った。『あれはあと取りだ。 あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ。』
15 そして彼をぶどう園の外に追い出して、殺してしまった。こうなるとぶどう園の主人は、どうするでしょう。
16 彼は戻って来て、この農夫どもを打ち滅ぼし、ぶどう園をほかの人たちに与えてしまいます。」これを聞いた民衆は、「そんなことがあってはなりません」と言った。
17 イエスは、彼らを見つめて言われた。「では『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石となった。』と書いてあるのは、何のことでしょう。
18 この石の上に落ちれば、だれでも粉々に砕け、またこの石が人の上に落ちれば、その 人を粉みじんに飛び散らしてしまうのです。」
19 律法学者、祭司長たちは、イエスが自分たちをさしてこのたとえを話されたと気づいたので、この際イエスに手をかけて捕らえようとしたが、やはり民衆を恐れた。
今日の本文でイエス様は、もう一度、比喩を通して御言葉を伝えられました。イエス様が 言われたこの比喩は、私たちにはちょっと非現実的な話として感じられるかもしれません。なぜなら小作人たちがぶどう園を手に入れるために、地主が遣わしたしもべたちと息子まで殺したということが今の時代にはありえないことだからです。しかし当時のユダヤでは、 たまにそんなことがありました。だからイエス様の話を聞いていた人たちはみなイエス様の話がよく理解できました。
当時のユダヤには、[不在地主]という人たちがいました。ユダヤの地に住んではいないが、ユダヤに土地を持っている人が、その地を小作人たちに貸して、その代価として小作料を もらう場合がありましたが、その人たちを不在地主と言います。不在地主の中には外国人もいて、外国に住んでいるユダヤ人もいましたが、遠く離れていたので、時には小作人たちが地主を裏切って、反乱を起こすこともあったそうです。
ところでここで重要なことは、イエス様がこの比喩を話された時期です。過ぎた時間にも 申し上げましたが、その時、イエス様は、キリストとしての使命を成し遂げられるために エルサレムへ上って行かれました。そしてエルサレムでこの比喩を話されました。すなわちイエス様は、キリストとして死ぬために行かれる過程で この比喩を人々に話されたということです。結局この比喩は、イエス様ご自分に対する話だったのです。
本文 9節と 10節です。
9 また、イエスは、民衆にこのようなたとえを話された。「ある人がぶどう園を造り、 それを農夫たちに貸して、長い旅に出た。
10 そして季節になったので、ぶどう園の収穫の分けまえをもらうために、農夫たちの所へひとりのしもべを遣わした。ところが、農夫たちは、そのしもべを袋だたきにし、何も持たせないで送り帰した。
主人はぶどう園を造り、農夫たちに貸して、長い旅に出ました。そして季節になったので 主人は、収穫の分けまえをもらうために、一人のしもべを遣わしました。本文で分けまえ、すなわち小作料というのは、お金以上の意味がありました。小作料は主人が施してくれた 恵みに対する感謝の意味であり、また小作人としての義務でした。そういう意味で小作料をまじめに出すということは、地主の権利を認めるという意味であり、また主人とよい関係を維持しているという意味でもありました。
しかし本文の農夫たちは、主人が遣わしたしもべを袋だたきにして、小作料も払いません でした。それは彼らがふどう園の地主を主人として認めることもなく、また主人との関係に大きな問題があったということを意味します。
本文 11節と 12節です。
11 そこで、別のしもべを遣わしたが、彼らは、そのしもべを袋だたきにし、はずかしめたうえで、何も持たせないで送り帰した。
12 彼はさらに三人目のしもべをやったが、彼らはこのしもべにも傷を負わせて追い出した。
農夫たちの行動は、だんだん邪悪になっていきました。主人が再びしもべを遣わしましたが、農夫たちは、彼にも袋だたきにするたけでなく、さらに彼らを恥ずかしめて追い出したと イエス様が言われました。
聖書を読んでみれば、神様は数千年間、続けて罪人たちに ご自分のしもべたちを遣わされました。多くの預言者たちが来て 人々に神様のみこころを伝えました。神様の民として 神様と良い関係を結ぶことと、神の民としての義務を果たすこととを促したのです。 しかし多くの預言者たちが人々に迫害を受け、命を失いました。
伝えられるところによれば、私たちが良く知っている預言者エレミヤは、石で打ち殺されたそうです。そして預言者イザヤは、のこぎりで切り裂かれたそうです。神様は預言者たちを遣わして人々に神様のみこころを伝えましたが、人々は本文の農夫たちのように彼らを迫害して、殺したということです。
本文 13節と 14節です。
13 ぶどう園の主人は言った。『どうしたものか。よし、愛する息子を送ろう。彼らも、 この子はたぶん敬ってくれるだろう。』
14 ところが、農夫たちはその息子を見て、議論しながら言った。『あれはあと取りだ。 あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ。』
自分が遣わしたしもべたちを 農夫たちが続けて迫害すると主人は結局自分の息子を遣わすことにしました。しかし主人の息子を見ると農夫たちの本心が出ました。彼らは議論して こう言いました。
[あれはあと取りだ。あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ。]
結局農夫たちが 主人のしもべたちを迫害した理由は、小作料を払いたくないからではありませんでした。彼らは初めからそのぶどう園を自分たちの物だと考えていました。そして 彼らは主人の存在を否定して、自分がぶどう園の主人になろうとしたのです。
彼らは主人だけいなければ、自分たちがそのぶどう園の主人になれると思いました。それで主人の命令を拒否して、結局主人の息子まで殺してしまいました。この比喩のように人間は自ら主人になるために預言者たちを殺して、神様の一人子イエス様まで殺してしまいました。残念なことは、このようなことは、人類の歴史の中で、今までも続いているということです。
最初にこんなことをした人はアダムでした。神様がエデンの園の真ん中に善悪の知識の木を置かれた理由は、それを見る時、神様がすべての主人だということを覚えさせるためでした。そしてアダムは、その実を食べるなという命令に従うことによって神様が自分の主人だと いう事実を認めて告白することができました。
しかし結局アダムは、神様のようになりたがる欲望のゆえに、神様の命令を拒否しました。そしてそれを食べることによって、自分の心の中から主人である神様の存在を除去して、 自分が主人になることにしたのです。
イエス様がこの地に来られた時、東方の博士たちが星を見てユダヤの地に来ました。そして当時の王であったヘロデは、まことの王、キリストが生まれたという事実を知るようになりました。しかしヘロデは、王としての地位を守るために結局キリストを捜して除去する方を選択しました。
そしてイエス様が自分たちの王になることを望まなかったユダヤ人たちは、結局イエス様を十字架にかけて殺してしまいました。
このように人間は、神様が自分の主人になることを断りながら、続けて神様の存在を否定 して、神様を除去しようとする努力を重ねたということです。
残念なことは、私たちも彼らと同じことをしているということです。私たちはどうですか。私たちは一日中、何回も選択の分かれ道に立つようになります。主の御言葉の通りに従うかさもないと自分の心の望むままを行うか。そして時には、自分が願うことを行うために心の中で、神様のみこころを取り除いてしまう時が少なくありません。
アダムとヘロデとユダヤ人たちの共通点は、自分が主人となり、王となり、また神様となるために、神様の存在を取り除いてしまったということです。そしてそれがまさに主の御心に従わない私たちの姿だということです。私たちが罪を犯したり、主の御言葉を知りながらも従わないすべての瞬間に、私たちは 自分の心の中で主人であられる神様の存在を否定していることだということです。
ところで本文の中で、理解できないことは、主人の行動であります。
本文 13節で 主人はこう言います。
13 ぶどう園の主人は言った。『どうしたものか。よし、愛する息子を送ろう。彼らも、 この子はたぶん敬ってくれるだろう。』
主人は[どうしたものか]と言いながら、悩んでいました。主人の悩みは何だったでしょうか。どうすれば、あの悪い農夫たちからぶどう園を取り戻すことができるかという悩みだったでしょうか。もしそれが目的だったら、わざわざ悩む必要もありませんでした。律法と力で 解決することは、主人には簡単なことだったからです。しかし、ここで主人が悩んでいたということは、主人が願っていることは、小作料をもらったり、ぶどう園を取り戻すことではなかったということです。それなら主人が願っていたこと、そして主人が悩んでいたことはいったい何だったでしょうか。
主人の関心は、お金やぶどう園ではなく農夫たちにありました。どうすれば、農夫たちとの関係が再び回復されるかということに対する悩みだったということです。
一番目のしもべを袋だたきにして追い出した時、すでに農夫たちの本音は漏らされました。彼らは主人の存在を認めなかったし主人の命令に従う気もありませんでした。それを主人が分からないはずがありませんでした。主人は再びしもべを遣わしたらどんな結果が出るかも知っていましたが、それにも二番目のしもべを遣わして、三番目のしもべまで遣わしました。そしてついには自分の息子まで遣わしました。
農夫たちの悪い心も知っていて、結果がどうなるかも知っていた主人は、なぜ農夫たちを あきらめなかったでしょうか。それは、彼らに対するあわれみと愛のゆえでした。彼らに 対する主人の愛が、主人をして農夫たちをあきらめることができないようにしたということです。
私はたまに自分をみながら、自分が情けないと感じる時があります。なぜなら自分に対してあまりにもよく知っているからです。ところで私も自分がどんな人間であるかをよく知っているのに、神様は私がどんな人間であるかを知らないでしょうか。私がどれほどたくさん 神様を裏切って、どれほど多くの罪を犯し、どれほどしつこく変わらない人間であるかを 神様が知らないだろうかということです。神様は全てを知っておられます。はなはだしくは、 神様は私たちの人生が どういうふうに終わるかもすでに知っておられます。
詩篇 139篇 16節には こう書いてあります。
16 あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。
私たちが生きている この世界の時間と空間という枠は、神様が私たちのために造られた物です。だから神様は時間と空間の制限を受けられません。すなわち神様には私たちの過去と現在と未来を同時に見ておられる方だということです。そういうわけで神様は、私たちの ために作られた日々が、一日もないうちに、私たちのすべてを知っておられ、また私たちの人生の最後まで知っておられるということです。
ところで私たちのすべてを知っておられるにも関わらず、神様が私たちに再び機会を与えてくださり、再び私たちに語ってくださり、再び私たちに恵みを授けてくださる理由は、ただ愛のゆえだということです。
ホセア 11章 8節には 私たちに対する 神様の愛について こう書いてあります。
8 エフライムよ。どうしてあなたを 見捨てることができようか。どうしてわたしは あなたをアデマのように引き渡すことができようか。どうしてあなたを ツェボイムのようにすることができようか。わたしの心は わたしのうちで沸き返り、わたしは あわれみで胸が熱くなっている。
神様の律法と神様の正義によれば、私たちをあきらめて、私たちを捨てて、私たちを裁く ことが当たり前だけど、神様の愛が、神様をして私たちをあきらめることができないようにするということです。そしてその愛が、全能なる神様を[どうしたものか]としながら悩む ようにするということです。これがまさに私たちに対する神様の愛であります。
しかし私たちに人間が、ほんとうに愚かな存在である理由は、私たちは神様のその愛さえも利用しようとするからです。神様が自分を最後まで愛され、絶対に自分をあきらめないと いうことを信じて、続けて罪を犯したり、最後まで悔い改めないものが私たち人間だということです。
ところが私たちが誤解してはいけない事実があります。それは神様が私たちに対する愛を あきらめないということは、私たちが続けて罪を犯したり神様の御心の通りに生きなくても救われるという意味ではないということです。
私たちが覚えるべきことは、イエス様は、ユダがご自身を売るために、出かける直前にも ユダの足を洗ってくださったということです。
ヨハネ 13章 1節(口語訳)には こう書いてあります。
1 過越の祭の前に、イエスは、この世を去って 父のみもとに行くべき自分の時がきた ことを知り、世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された。
イエス様は、ユダが自分を裏切ることも知っておられる、結局ユダが地獄にいくようになることも知っておられました。それにもイエス様は最後までユダを愛されたということです。
イエス様は命が尽きる最後の瞬間まで ユダに対する愛をあきらめませんでした。しかし イエス様がユダを最後まで愛されたという事実のゆえにユダが滅ぼされなかったのではありません。イエス様はご自分の命を捨てるまでユダを愛され、最後まで彼を愛されました。 しかしイエス様のその愛を受け入れて、悔い改めることは結局ユダが選択すべきことでした
イエス様が私たちを最後まで愛されるという事実は、私たちに罪を犯せる事由が与えられたという意味ではありません。肉と心の望むままを行っても良いという意味でもありません。イエス様が最後まで私たちを愛されるという事実は、私たちが悔い改めてイエス様に戻って行ける門は、最後まで開いているという事実を意味することです。
私たちは神様が任せてくださったものを持って人生を耕す小作人たちです。私たちにある すべてのものは全部神様の物であります。神様は私たちに健康と時間と能力と財産みたいなものを任せてくださり、それらを神様のみこころの通りに使うことを願っておられます。
私たちは自分の主人が誰なのかを覚えなければなりません。そして私たちは自分が主人ではなく、主が任せられた人生を耕す小作人であることを忘れてはいけません。そうしなければ、私たちも本文の農夫たちのように主人であられる神様の存在を否定するようになるはずです。
新しく始まるこの一週間も、主人であられるイエス様の存在を覚えて、認める私たちになることを祈ります。それで主の御心に従って自分の人生を耕し、主が分けまえを求められる時、喜んで捧げることができる私たちになることをイエス・キリストの御名によって祝福いたします。
神様の家
本文 : マタイ 21 : 12 - 17
12 それから、イエスは宮に入って、宮の中で売り買いする者たちをみな追い出し、 両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。
13 そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。 それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」
のぞみ教会・主日礼拝(2021年1月10日) 説教者:木村喜憲牧師
神様の家
本文 : マタイ 21 : 12 - 17
12 それから、イエスは宮に入って、宮の中で売り買いする者たちをみな追い出し、 両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。
13 そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。 それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」
14 また、宮の中で、盲人や足のなえた人たちが みもとに来たので、イエスは彼らを いやされた。
15 ところが、祭司長、律法学者たちは、イエスのなさった驚くべきいろいろのことを見、また宮の中で子どもたちが「ダビデの子にホサナ」と言って叫んでいるのを見て 腹を立てた。
16 そしてイエスに言った。「あなたは、子どもたちが何と言っているか、お聞きですか。」イエスは言われた。「聞いています。『あなたは幼子と乳飲み子たちの口に賛美を用意された』とあるのを、あなたがたは読まなかったのですか。
17 イエスは彼らをあとに残し、都を出てベタニアに行き、そこに泊まられた。
本文 12節もう一度読みます。
12 それから、イエスは宮に入って、宮の中で売り買いする者たちをみな追い出し、 両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。
イエス様は、キリストとしての使命を成し遂げられるために エルサレムへ上って行かれ ました。そしてイエス様がそこで一番最初になされたことは、宮を清めることでした。
イエス様の当時の神殿の中には、大祭司の家門が運営していた商店がありました。そこでは牛や羊、そしてオリーブ油など、いけにえに必要な物を売っていて、また手数料をもらって神殿に出す税金を両替してくれることもやっていました。
ところで今日の本文で、宮に入ったイエス様は、激しく憤られました。そして宮の中で、 売買する者たちをみな追い出し、両替人の台や、商売する者たちの腰掛けを倒されました。いけにえに必要な品物を売る店だったのに、どうしてイエス様はそんなにまで怒られたのでしょうか。
本文 13節でイエス様がその理由を言われました。
13 そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。 それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」
宮の中で商売する人たちのせいで、神様の家が強盗の巣になってしまったということです。さっき申し上げた通りに、その店は、大祭司の家門の人たちが運営していました。しかし 彼らがその店を運営していたのは、いけにえを助けるためではありませんでした。大祭司はいけにえに必要なすべての物はその店でだけ購入させました。すなわちそこで売る物だけがいけにえに適う物として認められたということです。そして大祭司は、そのように店を運営しながら暴利を取って自分の財産を増やしていました。だからイエス様はそんなに憤られたのです。
しかし本文の核心は、当時の大祭司がどれほど悪者だったのかということではありません。今日の本文を通して 私たちが考えてみるべきことは、聖書で神様の家と言われた宮とは、いったいどういう所なのか、そして私たちにとって宮というのは、どんな意味なのかということです。それでこれからはイエス様の御言葉を通して 神様の家である宮について一緒に聖書を調べてみようと思っております。
まず、本文 13節もう一度読みます。
13 そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。 それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」
[一番目に、宮は、神様の家です。]
私の家には、一年一回、同期宣教師の家族が訪問します。それで一泊二日間、一緒に泊まりながら、交わっていますが、彼らが家に来る日になると 私たちが一番最初にすることが ありますがそれは大掃除です。掃除をしながら、自慢したい物は、目につく所に出して置き、見せたくない物は、押し入れの中に隠しておきます。なぜなら家は、私たちについて多くの部分を表しているからです。
家というのは、その主人の特徴が最も良く表れている場所です。すなわち家という空間には主人の生活習慣とか性格、そして趣味や価値観などがそのまま表れているということです。
ところで聖書は宮について神様の家だと言います。宮が神様の家だという言葉が 何を意味するでしょうか。それは神様がどんな方であられるかを最もよく見せてくれることの一つがまさに宮だということです。
ソロモンが宮を建てる前には、イスラエルに幕屋があって宮の役割をしました。だから今日、説教の中で宮と幕屋は同じ意味だと考えてもいいです。ところで聖書を読んでみれば神様がモーセに幕屋を造ることを命じられた時、どのように造るかを具体的にモーセに教えてくださいました。そして教えてくださった通りに造ることをも命じられました。なぜなら幕屋も宮も、キリストを表す模型だったからです。
いつか出エジプト記の御言葉を調べてみる機会があるでしょうが、神様が命じられた幕屋のすべての部分は、デザインも材料も模様もすべてがキリストを表しています。キリストが どういう方なのか、またキリストは何事を行われる方なのかが幕屋に具体的に啓示されて いるということです。だからユダヤ人たちにとって幕屋と宮はとても特別で重要な意味が ありました。
それなのに神様の愛と恵みを表すべき宮の中で、大祭司の人たちが商売をしていたのです。それも不正な方法を通して暴利を取りながら強盗のように人々のお金を騙し取っていました。だからイエス様はそんなに憤られたのです。
[二番目に、宮は、祈りの家です。]
また本文13節です。
13 そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。 それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」
祈りというのは、私たちにはすばらしい祝福であり、また特権であります。たまに主任牧師先生がこんな話をしたことがありますが、全然知らない子どもがやって来て、お金を求めるとすれば、喜んで与える人はいないでしょう。しかし自分の子が何かを求めれば、喜んで 与えます。なぜですか。それは親子という特別な関係があるからです。
私たちが神様に祈るというのは、ただ願いが答えられるという点で意味があるのではありません。それより重要なことは、神様に何かを祈り求めることができるほどに私たちが神様と特別な関係だという事実にまことの意味があるのです。
聖書で神様はイスラエルの民に幕屋を造ることと そこで神様にいけにえを捧げることとを命じられました。それは神様がイスラエルの民に授けてくださったすばらしい恵みでした。すべての人は罪人であります。そして罪人にとって最も大きな絶望は、罪のゆえに神様との関係が断絶されたこと、また罪のゆえに滅ぼされるしかないということです。
ところで神様がイスラエルの民に幕屋を造ることを命じられました。それが何を意味する 事件だったでしょうか。それは聖なる神様が罪人たちにやって来られ、罪人たちと関係を 結ぶことにされたという意味であります。またいけにえを通して罪を赦してくださることにされたという意味でした。これは罪人にとっては最高の恵みでした。これがまさに幕屋と いけにえに関する命令が意味することでした。結局宮は、罪人と神様との関係が回復される所であり、罪人と神様との交わりが行われる場所だという点で特別な意味があるのです。
出エジプト記 29章 42節で 神様がこう言われました。
42 これは、主の前、会見の天幕の入口で、あなたがたが代々にわたって、絶やすことの ない全焼のいけにえである。その所でわたしはあなたがたに会い、その所であなたと 語る。
神様は幕屋、すなわち宮でご自分の民に会ってくださり、また語られると約束されました。そして神様の民は、その約束を信じて神様の御前に進んで行きました。
それなら私たちが神様の御前に進んで行く理由は何ですか。皆さんは、何を期待して礼拝の場に進んで行きますか。
[その所でわたしはあなたがたに会い、その所であなたと語る。]
神様は私たちに会ってくださり、私たちに語られるために私たちを呼ばれます。それなら 私たちも神様と同じ目的を持って神様に進み、礼拝していますか。神様の家は祈りの家だとイエス様が言われました。すなわち宮は聖なる神様と罪人との出会いが行われる所であり、また神様と私たちが特別な関係を結ぶ所だということです。だから宮では、必ず神様との 出会いと神様の御言葉を聞くこととが行わなければなりません。私たちの礼拝が神様が喜ばれるまことの礼拝になるためには、必ずこの信仰と期待とを持って神様に進んで行くことが必要だということです。
[三番目に、宮は、宣教の中心です。]
今日の本文13節の御言葉は、イエス様がイザヤ56章の御言葉を引用されたことだったですが、
イザヤ56章6節と7節には こう書いてあります。
6 また、主に連なって主に仕え、主の名を愛して、そのしもべとなった外国人がみな、 安息日を守ってこれを汚さず、わたしの契約を堅く保つなら、
7 わたしは彼らをわたしの聖なる山に連れて行き、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のいけにえやその他のいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。 わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。
[わたしの家は、すべての民の祈りの家だ。]
宮が幕屋と違う点が一つありますが、それは宮には[異邦人の庭]という場所があったということです。いけにえが行われる神殿の外の庭には異邦人たちも入って来られる別途の空間がありましたが、そこがまさに[異邦人の庭]でした。
すなわち神様がダビデとソロモンを通して建てられた宮は、イスラエルの民だけでなく、 あらゆる民族、すべての人がキリストの救いの恵みを受けるようにする目的で建てられたということです。そしてあらゆる民族が神様の御前に来て、救いの恵みを味わうようにする ことを宣教と言います。だから宮は、宣教が行われる中心だということです。
ところで今日の本文で問題になったのは、宮の商店があった所がまさに異邦人の庭だったということです。すなわち大祭司は、自分の利益のために、またユダヤ人たちは自分の便利のために、異邦人たちが宮に入ってくる道を阻んで、彼らが神様と特別な関係を結ぶ機会を 奪ってしまったということです。これがイエス様が憤られた理由でした。
それなら、これから私たちが考えてみることは、今の時代を生きて行く私たちにとって、 またユダヤ人でもない私たちにとって、いったい宮が何の意味があるかということです。
イエス様が復活されて、聖霊様が来られた後、旧約時代の宮は、その概念が完全に変わってしまいました。宮の核心は神様です。すなわち宮は、神様が臨在される場所だから特別な 意味があったということです。旧約時代には、神様が宮の中にある至聖所という所にだけ 臨在されました。
ところがイエス様が復活された後、神様は聖霊として信者の心の中に宿つておられます。 そういうわけで、今この時代には、宮というのは、場所とか建物の概念ではありません。 聖霊様が宿っておられる私たち、神様の家になった私たち信者がまさにこの時代の宮であり、また信者の集まりである教会が まさに宮になりました。
Ⅰコリント 3章 16節にはこう書いてあります。
16 あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。
神様の御霊が私たちに宿っておられるから、もはや信者の私たちが神様の神殿になったと いうことです。というのは、今まで皆さんと一緒に調べてみた、宮に対する三つのことは、新しく神殿になった私たちに対する御言葉として解釈しなければならないということです。それなら私たちが神様の家、すなわち宮だという事実を覚えながら、今までの御言葉をもう一度考えてみましょう。
[一番目に、宮である私たちは、自分が神様の家だという事実を覚えなければなりません。]
家はその主人の特徴が最もよく現れている空間だと先ほど申し上げました。すなわち神様の家である私たちは私たちの主、イエス・キリストを人々に表して見せてくれる存在だということです。幕屋と宮のデザインと材料と模様、一つ一つがキリストを表して見せてくれる ように、私たちのすべてがイエス・キリストの愛と恵みを表さなければならないということです。
私たちの周りの人が見ている私たちの姿はどうですか。彼らが私たちを通して見ているのはイエス・キリストの姿ですか、さもないと宮の商店のように貪りと世の価値観に染まっている一人の罪人の姿ですか。
私たちはイエス・キリストが宿っておられる宮です。私たちの言葉が、私たちの行動が、 そして私たちの思いと顔の表情までも全部イエス・キリストを表すようになることを祈ります。それで私たちを通して多くの人がイエス様を知るようになり、イエス様の宮に入って来るようになることを主の御名によって祝福いたします。
[二番目に、宮である私たちは、自分が祈りの家だという事実を覚えなければなりません。]
Ⅰテサロニケ 5章16節から18節までの御言葉で、使徒パウロはこう言いました。
16 いつも喜んでいなさい。
17 絶えず祈りなさい。
18 すべての事について感謝しなさい。これがキリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
私たちに向う神様のみこころは、私たちがいつも喜んでいて、絶えず祈って、すべての事について感謝することだとパウロは言いました。すばらしい御言葉ですが、すごく負担になる御言葉でもあります。どうやって人が絶えず祈ることができるでしょうか。もちろん この御言葉は、熱心に、そして続けて祈ることを励ます御言葉であります。
ところがこの御言葉は、ただ単に祈りの義務に対して言われる御言葉だけではありません。先ほど申し上げましたが、私たちにとって祈りが持つ最も重要な意味は、神様に祈って、 答えられるほどに、私たちが神様と特別な関係だという事実にあります。そういう意味で、絶えず祈りなさいという御言葉は、私たちに宿っておられる神様との特別な関係をもっと 積極的に味わいなさいという意味でもあります。
先ほど読んだ、 出エジプト記 29章 42節です。
42 これは、主の前、会見の天幕の入口で、あなたがたが代々にわたって、絶やすことの ない全焼のいけにえである。その所でわたしはあなたがたに会い、その所であなたと 語る。
神様は幕屋でご自分の民に会ってくださり、またご自分の民と語られると約束されました。ところで今私たちは宮になりました。というのは、私たちにはいつも神様に会うことができ、神様の御言葉を聞くことができる 特権と恵みが与えられたということです。またそれは 神様と交わって、神様の御言葉を聞くことは、私たちの生活の中でいつも起こるべきことだという意味でもあります。そしてそれを可能にすることがまさに祈りであります。
私と皆さんの生活の中で、イエス様との交わりが日常になることを祈ります。また神様の 御言葉を悟って御言葉の恵みの中で生きることが当然なことになることを祈ります。祈りと御言葉を通して聖なる神様の家として建てられていく私たちになることを主の御名によって祝福いたします。
[三番目に、宮である私たちは、自分が宣教の中心であることを忘れてはいけません。]
大祭司は自分の利益のために異邦人の庭に商店を建てました。そしてユダヤ人たちは異邦人たちが救われることより、自分が楽に信仰生活することをもっと大切に思いました。自分の信仰生活は徹底的に守っていましたが、神様の御心が行われることには全く関心がなかったということです。しかし神様ははっきりと言われました。
[わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。]
これが何を意味しますか。神様の家である私たちには、すべての民が神様と特別な関係を 結ぶようにすべき使命があるということです。
使徒の働き 1章 8節でイエス様が言われました。
8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまでわたしの証人となります。
[聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、私たちがイエス様の証人となる。]
すなわち私たちが、聖霊様が宿っておられる宮になった理由は、宣教の使命を果たすためだということです。私たちの心と私たちの生活の中には異邦人の庭が備えられていますか。 自分の生活が忙しくて、自分の信仰生活が最優先だから、周りの異邦人たちに出してくれるような心の空き地は、いつの間にかなくなったのではありませんか。
私たちは宮です。そして神様が私たちを宮とされた理由は、私たちを宣教の中心にならせるためです。すべての信者が宣教師になる必要はありません。しかし信じる者であるなら誰も宣教的な人生を生きなければなりません。
私たちが宣教に参与する方法は、いろいろあります。隣人に福音を伝えることも宣教であり、他の国とその民の救いのために祈ることも宣教であります。また宣教のために献金を捧げることも宣教する方法の一つであります。方法はいろいろありますが何よりも重要なことは、自分に宣教の使命があるという事実を覚えること、そしてどんな方法によってでも 宣教の使命を果たそうとする心であります。
神様の家として、またこの時代の宮として主が任せられた宣教の使命を果たす私たちになることを主の御名によって祝福いたします。
説教をまとめます。
今日の本文でイエス様は、宮を汚していた者たちをみな追い出して、倒されることによって宮を清められました。そして宮の価値と意味について教えてくださいました。
この時代に私たちは神様が宿っておられる宮になりました。私たちの心の中にはイエス様が追い出して、倒されるべき汚れているものはありませんか。私たちが宮になったのは神様の恵みでもありますが、また使命でもあります。
新しい一週間も私たちを通して多くの人たちがイエス様を知るようになることを祈ります。そして私たちを通して、また別の人が神様の宮として建てられることをイエス・キリストの御名によって祝福いたします。
2:4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
2:5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――
2:6 キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。
2:7 それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした
2:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
2:9 行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
2:10 私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。
のぞみ教会・主日礼拝(2020年7月26日) 説教者:李鍾賢牧師
エペソ2:4-10 キリストと共に生かされた恵み
2:4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
2:5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――
2:6 キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。
2:7 それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした
2:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
2:9 行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
2:10 私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。
罪人の姿を、神の怒りの下にあるものとして描いた使徒パウロは、それがすべてではなく、神の愛の対象でもあることを示します。
そして自分の犯した罪過と「罪とによって霊的に死んでいたところから、
神がキリストと共に生かしてくださったという事を語るのです。
それが神の憐みであり、愛であり、恵みであると語っています。
自分の罪過と罪との中に死んでいた者であった人々をキリストと共に生かしてくださったのは、1:9-20のところで、信じる者たちの内に働くその神の驚くべき力とは、キリストを死人の中から蘇らせた神の御業です。
ですから信じる私たちをキリスト・イエスにあって、共に甦らせてくださったわけです。
自分の罪過と罪との中に死んでいた者であった私たちが、霊的に生かされたのは、信仰によってですが、そのことをここでは、キリスト・イエスにあってという言い方で表しております。
この言葉は、使徒パウロの手紙の中に繰り返し出てきます。
この言葉は何よりもまずイエス・キリストの霊的一体性を言い表わしております。
聖書では第一のアダムにあって、すべての人は一体であると教えています。そのことは、すべての人が生まれながらにして罪人であるという事を意味しています。
しかし同時に第二のアダムであるイエス・キリストを信じる人々は、イエス・キリストと一体だと教えています。
つまり、イエス・キリストにあるすべての霊的祝福を頂くことが出来るという事です。
アダムにあるという事は、すべての人にとって生まれながらの事です。
キリストにあるという事は信仰によらなければなりません。
そこで聖書は、いくつかの例を挙げて、キリストと信じる者たちとの関係を説明しています。
その一つは、葡萄の幹と枝という関係です。
この関係は、キリストから命が注ぎ込まれていることを表わしています。
さらにキリストと教会を新郎と新婦として教える例えからも、ふたりは一体であると教えられます。
このように、キリスト・イエスにあるとは、信仰によるキリストとの一体性を意味し、それゆえに、キリストのあらゆる祝福に与ることが出来るわけです。
それではキリストのあらゆる祝福とはどういうものでしょうか。
それはキリストにある命です。
1ヨハネ 5:11 そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。
5:12 御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。
5:13 私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。
これは、霊的死および神の怒りの下にはもはやいない事を意味します。律法に対して自由にされているという事を意味します。
死んだ者であるという事から自由にされているという事を意味します。
しかし、さらに積極的には、キリストの命にあずかることが出来、そのことによってキリストに似る者となることが出来るという事を意味します。
そして新しい命にあって歩くことが出来ることです。
新しい知性、新しい意志をもって歩くことが出来ます。
また新しい心を持つことが出来るのです。
使徒パウロが「ここであなた方が救われたのは、恵みによるものであると述べられます。
ここで救われたと言われている言葉は、神の救いの御業が私たちの内になされて、その結果、今救われているという状態を表わしています。
キリストと共に天の御座に着かせていただいたという事は、何よりもキリストと共にすべてのものを支配するという事を意味します。
へブル10:12-13は次のように記しています。
10:12 しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、
10:13 それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。
座に着くとは、完成のしるしがあり、休まれる事を意味します。
私たちもキリストにあるものとして、キリストと共にこの天の座に着くことを許されています。
キリストは私たちのために永遠のつぐないを成し遂げてくださいました。
そして神は、天のところへ私たちを招いてくださいました。
ですから、キリストにあって私たちはいま、安全であり、安全な者とされたのです。
私たちはその素晴らしい勝利を本当に喜び味わって生きるべきです。
私たちをこのように死から命へ、悪魔の支配下から聖霊の支配下に入れてくださったのは、神の恵みの栄光を表わすためにほか説明出来ません。
使徒パウロは、それをこの素晴らしい豊かな恵みを、キリスト・イエスにあって私たちに下さった素晴らしい神の愛を、来るべきのちの時代において、示すためであると述べています。
神の驚くべき恵みは、世の終わりまでは、教会を通して表わされています。またそれをこの世に示していくのは、教会の責任であり、使命です。
そればかりでなく、何よりもまず第一に、それは教会の大きな特権なのです。
キリストと共に生かされ、今天の御座にキリストと共に着くことを許されている者たちの特権です。
恵による救い2:8-10
2:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
2:9 行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
2:10 私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。
救いのメッセージは福音であり、その内容はキリストの十字架上の贖いですが、その性格は神の恵みです。
まり、私たちが救われたのは、神の恵みによることです。
その以外は何もありません。
使徒パウロは、自分が救われた時の事をよく知っていました。
タソルのサウロと呼ばれた彼は、ユダヤ教の律法学者として、キリスト教の教会を迫害していました。
そのキリストに敵対していた者なのに、神は捨てず、霊的に死んでいた状態から、キリストと共に生かして下さり、悪魔の支配下から聖霊の支配下に入れてくださったのです。
私たちが今このようにして罪と悪魔のもとから解放してくださったのは、神の恵みです。
ですから、神の恵みによって救われたことを、使徒パウロは「あなた方が救われたのは、恵みによるのであり、それは信仰を持って受けたからである」と説明しています。
救いの源は、けっして私たちの側にはありません。
私たちの信仰にもありません。 救いの源は神様にあります。
つまり、神様の恵みによってのみです。
罪の中に霊的に死んでいた私たちに命を与え、愛してくださったのは神様ご自身でありました。
ですから、私たちの誇るべきものは何一つありません。
このようにして、神の驚くべき救いの御業が私たちの身の上に成就しました。
使徒パウロは何と言っているのでしょうか。
「私たちは神の作品」であると言っています。
私たちは神によって造られた者たちです。
つまり、私たちが今クリスチャンになったのは、神の御手によってそうされたと言うのです。
私たちの業ではなく、神の御業によって、キリスト者にされたのです。
私たちが何か一所懸命に努力した結果、キリスト者になったのではありません。
私たちが何かを決心からではなく、私たちが立派な事をしたからではなく、キリスト者となったのではありません。
また私たちがキリストを選んだからではなく、キリスト者になろうと思ってなれたのではありません。
神が私たちを選んでくださり、神が私たちを造り変えて、神がキリスト者にしてくださいました。
これはただ単なる使徒パウロの考えではなく、神がそう言われたのです。
私たちがキリストに従うことを決心したからキリスト者とされたのではなく、
神が私たちをキリスト者としてくださったので、キリストに従う決心が出来たのです。
キリスト者はキリストを信じる事によって神が新しい被造物として創り直してくださった者たちです。
ですから、この新被造物は、良い業を行なうはずです。
神様はこのような者として、私たちを新しく造ってくださいました。
私たちが神によって救われたのは、神の御業によるのです。
その信仰すら神が賜物として与えてくださいました。
これが、行いによるのではなく、 神がキリスト・イエスの十字架によって、私たちを救って下さったという事です。
それこそ恵みほかありません。私たちはただ神をほめたたえ、神に感謝するべきです。
のぞみ教会 主日礼拝[2020年7月12日] 説教者:李鍾賢牧師
エペソ 2:4-
2:4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
私たちの希望
のぞみ教会 主日礼拝[2020年7月12日] 説教者:李鍾賢牧師
エペソ 2:4-
2:4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
私たちの希望
現代世界は、色々面で恐ろしい危機的な時代だと思います。
聖書は事実を土台として、人間はどういう者なのかを教えています。
それはまず、第一に人間が罪人であるという事実と、
霊的に死んだ者であったという事実です。
この事実は何を意味するのでしょうか。
生まれながらの罪人である、私たちは絶対に良い事をする事が出来ないという事です。
ある人々は、山上説教を守ることにキリスト教の中心があると考えています。
そしてしきりに心の貧しい人になろうとし、また悲しい者になろうとします。
また右の頬打たれたら、左の頬を向けようとします。
自分に敵対する人を愛そうと努めます。
そうすることによって、クリスチャンになりうると考え、また救われるのだと考えます。
しかし、聖書は決してそのような事が生まれながらの人間に出来るとは教えていません。
もしも私たちが自分の力で立派な人間になれるとしたら、
キリストの十字架の贖いは全く無用の長物と化してしまうでしょう。
私たちが自分の力で自分を救う事が出来ないからこそ、キリストの贖いがあったのです。
そのことを、聖書ははっきりと教えます。
私たちは罪過と罪の中に死んでいた者であると言っているのです。
死んでいるという断定は私たちが自分の力で自分を罪の中から救い出すことの出来ない者であるという事、つまり自分の力で、心の貧しい人や悲しむ者になろうとしても、
到底不可能なこと、また右の頬を打たれた時に左の頬を向けようとしても、出来ない事たとい出来たとしても、その相手を愛することは出来ない事を言ってのけているのです。
そして私たちがそのような有様であるのは、悪魔の支配下にある存在だからなのです。私たちは、どうして自分がこんなに善に対して弱く、悪への誘惑にすぐ負けてしまうのか不思議に思う事があります。
それは超人間的存在である悪魔が私たちのうちに働いているからです。
私たちはすぐに他の人と争い、戦おうとします。
人類の歴史が戦争の繰り返しの歴史であったのは、私たちがそのような存在であるという事を証しています。
そのことについて、ヤコブはその手紙の中で、次のように教えています。
私たちは、自分が決して立派な者ではなく、むしろ利己的な者であり、
どんなに根強い者であるかという事を知っています。
しかもそれが、ただ単に悪いというような法則性のものであるだけではなく、
悪魔という超人間的実在によって支配され、その奴隷となってしまっているという事に気付かされるべきです。
ですから、私たちにもしも希望があるとするならば、
それは私たち人間の内側にあるのではなく、人間とは別のところに求めるべきです。
神様は私たち人間をお創りになりました。
愛情を傾けて私たちをお創りになったのです。
ところが、人間はその神の愛と信頼と期待を裏切ってしまいました。
そのような者に対して、神様は何の未練がありましょうか。
ノラ犬に手をかまれたとしても、それはやむを得ないことです。
しかし、自分が愛情を傾け尽くして来た飼い犬に手をかまれたということになると、
もう赦すことは出来ません。
ちょうどそれと同じように、神はたちどころに、
神への反逆者である人間をたち滅ぼしてしまってもよかったはずです。
しかし神はそれをなさいませんでした。神は長く待たれたのです。
その間、何も手を打たれなかったのではなく、
神はその尊い一人子イエス・キリストをこの世に遣わし、私たちを罪から救い出すために、そのイエス・キリスト十字架につけ、永遠の贖いを成し遂げるように
着々と準備をなさいました。
多くの予言者を通して、そのことを語られました。
予言した通りそのことをエルサレムのゴルゴタで成し遂げられました。
ここに神の私たちに対する存分の愛が示されました。
私たち罪人のうちには何一つ希望もありませんし、またその可能性すらありません。
しかし、そのことによって、私たちは絶望する必要がありません。
私たち人間の側には何一つ望みはなくとも、私たちをお創りになさった神が私たちを見捨てられなかった以上、私たちにも望みは残されています。
現代は確かに八方<はっぽう>ふさがりの世界です。
まことに暗黒な世界です。
しかし、この暗世界にあっても、私たちには望みがあります。
それこそ神ご自身です。
私たちの造り主であり、私たちを罪から救い出してくださる救い主の神が
私たちを見守って下さるという事、この事以上どこに、私たちの望みがありますか。
この罪の世における唯一の希望は、この世界の造り主であります。
唯一の生ける真の神、またイエス・キリストにおいてご自身を表してくださったお方にあります。
セルマ・トムソンの「輝ける城壁」という小説があります。彼女は作家ではなく主婦でしたが、「輝ける城壁」を書き、アメリカでベストセラー作家になりました。
彼女の話がとても興味深いです。
第二世界大戦当時20代だった彼女は軍人と結婚しました。
今も健在であればだいぶ年を召しているでしょう。20代で結婚した陸軍士官の夫の派遣先はカリフォルニア東部のモハーウェ砂漠の近くの基地でその近くに住まざるを得ない状況になりました。
今モハーウェ砂漠の近くには村が出来てレストランもあり、エアコンもありますが、1945年頃だったらエアコンもなかったし、砂漠での生活はたやすくなかったはずです。昼間は50度越え、朝晩は冷え込みます。
周囲は原住民とメキシコ人ばかりでアメリカ人はいません。
結婚した後でしたので、息が詰まるような状況の中で一日二日、
一か月二か月と暮らしても耐えられなくなり、父親に手紙を書きました。
「これ以上ここでは暮らせないから全部置いて家に帰りたいです」
父親が送った返事の手紙には二行の簡単なものでした。
「二人の男性が牢獄の中から小さな窓の外を見ていた。
一人はぬかるみをみており、もう一人は星を見ていた」
この手紙を受け取って20代の娘は何度も読み返し父親が伝えたかった事を悟り、
自分の間違いを悟ったのです。
それから彼女は考えを変え始めました。
自分はぬかるみの中にいるのではなく、ここで何かできるだろうと考え、
言葉は通じなくても源住民と関係を築き始めました。
そのうちに彼らは砂漠の生活に彼女を引き込んだのです。
虫を見せてくれたり、砂漠に連れて行きこれまで見ることの出来なかった美しい自然や砂漠から見る空の星などを見るようになりました。
彼らの生活の中に入って何かを学んだり彼らからのプレゼントをもらったりしながら
彼女に大きな変化が訪れました。
その経験をもとに小説を書くことになりました。
出版サイン会で彼女はこのように話しました。
「砂漠で生きる間<お前は不幸で孤独だ希望なんでない>というサタンのささやきと何と幸いな人だろうあなたをここに導いたのは神であるここで新しい夢を見なさい>という神の御声も聴きました。
でも私はサタンの声には耳を塞ぎ神の御声を聴きながら今日ここに立ているのです」
そう告白したのです。
彼女はクリスチャンでした。彼女の父親もクリスチャンだったのです。
自分に与えられた状況が誰のせいなのかも問うべきです。
しかし、神の前で自分の状況と時についてなぜそれが起きたのかと誰かを恨み批判する前に神が私に与えた状況からこの事を通して神が成そうとされるのかという信仰で状況を見る人でなければ神が約束されたこの上なくよい人生を歩むことが出来ません。
神様は私たちが喜んで幸せに生きることを願っておられます。
今皆さんの心にはどんな考えが浮かびますか。
「この状態で神が語るこの上ない良い人生を生きるためには余計なことは言わないで口座に百憶円入れてくだされば何の心配もせず余裕を持って人に仕えて生きるだろう」と私たちは考えます。
そんな人を見て神様は何と言うでしょうか。
「百憶円を使い切ったらどうするんだ」「百憶円あれば死んでも残る」本当にそうですか。
お金さえあれば老後の問題もなく子供も立派に育てられるから余計なことは言わず十分なお金を下さるならこの上ない人生を生きられる」そう思うならすでに神を信じようとはせずにお金を神のように信じているのです。
もし何かを求めるなら自分のためにではなく、他人のために神のために求めるべきです。
「すべてが整えられた上に神が居れば最高だ」ではなく、何も持たないようでも神が共におられる事ですべてを持つ者のように神を喜んで生きる人生を神が私たちに教えておられます。
神に立てられたその場所で神によって喜び、神が許された状況に絶望し恨むのではなく、ここで成そうとされる何かがあるはずだと考え喜ぶ人になることがこの上なく良い人生に入る門となるのです。
環境を変えてくださいと祈る前に私を変えてくださいと祈りましょう。
のぞみ教会の信者として又自分の仕事場、今生きている場所が神の許された場所なのです。
環境が変えることよりも自分が変えることが重要です。私たちが変り、強くなれば
環境は問題になりません。
私たちが先です。
神様は永遠に変わらないお方です。
私たちに与えられた状況と時は、ふさわしく与えられたものであり、
その中に神の祝福が隠されているのです。
このような神を知るなら恐れるしかありません。
偉大な神を見る時、すべてを完璧に成し遂げる神を見る時、失敗のない神を見る時、
めちゃくちゃにした人生でもその状況さえも祝福の機会に変えてくださる神を見る時、神を敬い恐れるしかない者へと変えられる。
そんな態度を持つ者でなければ今日与えられた事に喜びこの上なく良い人生を歩むことが出来ないのです。
水が入ったコップを傾てれば水が出ます。コーラならコーラが出てくるように
私たちの心に何があるかによって言葉が決まるのです。
ですから、主の恵みを頂いて励ましの言葉を語り、神に愛され、これから希望のある
人生を歩みましょう。
のぞみ教会 主日礼拝[2020年6月28日] 説教者:李鍾賢牧師
エペソ 2:1-3
2:1 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、
2:2 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。
2:3 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
のぞみ教会 主日礼拝[2020年6月28日] 説教者:李鍾賢牧師
エペソ 2:1-3
2:1 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、
2:2 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。
2:3 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
キリストなき人生
第一章において、使徒パウロは神の驚くべき祝福について語りました。
彼はまず神はキリストにあって、神のもろもろの霊的祝福を持って、
私たちを祝福してくださったと語り始めました。
その祝福がどのようなものであったのかという事について、
過去現在将来にわたり、父なる神と、子なる神と、聖霊なる神の三位一体の
神様の驚くべき御業について語ったのです。
その神の祝福の御業を、さらに具体的に語ろうとしているのが、この2章なのです。
ことに1-10節では、そのことがはっきりと語られています。
それはまた、1:19-23に述べられている、信じる者たちのうちに働く神の力、
つまりキリストを死人の中から蘇らせた力についての具体的説明でもあります。
言葉を変えて言えば、信じる者たちのうちに働く神の力は、
人を死から命に変える力なのです。
そしてこの1-3節においては、キリストのない人生、
神から離れた人間の姿を描いています。
これはまた、神を知らない人間の現実でもあります。
私たちが神を知らなかった時、それがどのようなものであったのかという事について、はっきりと私たちに教えている個所です。
そこで、今日はこのキリストなき人生の現実について教えられます。
キリストなき人生の現実の第一は、自分の犯した罪過と罪との中に死んでいるという
事です。
生きているように見えながら、それは死んでいるのです。
死んでいると聖書が言う場合、それは決して死滅しているというのではありません。
人間は、神によって造られ、神によって存在させられる者です。
聖書が死という場合、それは神から離れ、霊的に死んでいることを表わします。
逆に、命という場合、それは神の祝福です。
ですから、神を離れて生きることは出来ません。
従って神を離れた存在は結局死んでいるのであり、人間として生きているのではありません。
肉体的には生きていても、それは本当の命から離れた存在であり、
まるで糸の切れた凧のように、どこへ行くのかわからないのです。
どうしてそんなことになってしまうのでしょうか。
それが自分の犯した罪過と罪のためなのです。
罪過と訳された言葉は、<もともと道を踏み外す>という意味です。
神様は、私たちを完全な人間としてお創りになりました。
ですから、私たちは本当に愛に溢れた、りっぱな人間になろうと思えば
なることが出来たのです。
立派な夫にも、立派な妻にも、また立派な親にも、立派な子供にも、
なろうと思えば、なることが出来たのです。
しかし、私たちは神から離れたために、神の祝福を頂くことが出来ず、
神の呪いの下にあって、つまり死んでいる状態になりました。
死んでいることは、何も出来ないという事です。
少なくとも良いことをすることは出来ません。
良いことを行なうように造られた人間が、
良いことを行なうことが出来なくなったという事は死んでいるという意味です。
ですから、聖書は、キリストなき人生は、霊的に死んでいる人生であるという事です。
それは、単に霊的に痛める人生なのではなく、死んだ人生なのです。
キリストなき人生の第2は、それらの罪の中にあって、この世のやり方に従い、
今も、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいるという事です。
空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、
歩んでいたという事は悪魔の事です。
悪魔は、今も不従順な者たちの中に働いていると言われています。
悪魔の力が不信者の中に働いているのです。
キリストなき人生は、悪魔の支配下にある人生なのです。
ですから、人間の内的いのちは、神の働きに従うか、
それとも悪魔の力に従うかのどちらかです。
キリストなき人生は、悪魔に従って歩んでいる人生です。
それは、悪魔が今支配しているこの世のやり方に従った生き方であることは言うまでもありません。
魔の支配しているこの世の人々にならうことほど恐ろしいことはありません。
2:2 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。
歩いていたと言っているのは、人間生活のことを表しています。
ユダヤ教では、生活行動に関する律法のことを、ハラカ―と呼びました。
これは歩くという意味の言葉です。使徒パウロは、クリスチャンの生活行動を、
やはり歩くという言葉で表していますが、クリスチャンの生活の仕方のことです。
しかし、ここでは、悪魔に従った者の生活描写に使われています。
キリストなき人生の第3は、 2:3 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、
生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
自分の肉欲に生き、肉とその思いのままを行なって、
生まれながら怒りを受けるべき子らでしたという事です。
神から離れた人間は、霊的に死んでおり、悪魔の支配下にあるばかりでなく、
肉欲のとりこになっております。
ここで言われている肉というのは、単に肉体の事ではなく、
生まれながらのいっさいのものを指しています。
生まれ変わっていない人間の思いも言葉も行いも、
すべては肉と呼ばれるものなのです。
神から離れた人間は、だれでもみなその肉の欲望と肉の思いによって行動しています。
そういう人間の姿は、神の目から見ると、生まれながら怒りを受けるべき子らでした。
この「怒りを受けるべき子」というのは、神の怒りに価する子らという意味です。
神の怒りは聖なる神の罪に対する裁きです。
聖なる神は、罪を決していいかげんにはなさいません。
当時に神は罪を犯した罪人に対する恵みと愛とを持っておられます。
神は罪を憎まれるからこそ、罪人を憐れまれるのです。
同時に神の愛は、みじめな罪人を見放すことが出来ません。
すべての人は生まれながら罪人です。
ですから、生まれながら神の怒りに価するわけです。
罪は人生のある時期に人生のうちに入り込んで来たものではありません。
罪の中に生まれて来ます。
ですから、「義人はいない一人もいない」と言われるのです。
ここで「他の人たちと同じように、」と言われているのは、
「ほかの不信者たちと同じように」という意味です。
使徒パウロはここにキリストなき人生の特徴を三つ挙げています。
しかし、よく見ると、使徒パウロは、1,2節では「あなた方は」と言いますが、
3節では「私たちもみな」と注意深く言っています。
つまり、1,2節では、異邦人の姿を挙げながら、
3節では、異邦人もユダヤ人もすべて、神の怒りに価しない人生を送っていると
言っているのです。
ですから、他の人々と、この3節で言っているのは、
ユダヤ人も異邦人も含めた神から離れたすべての人間のことを指しているわけです。
神から離れた人生、キリストなき人生がどんなにみじめで、
つまらないものなのかわかると思います。
そこには、喜びもなく、希望もありません。
滅びの道を真っすぐに進んでいるしかありません。
しかしそれにもかかわらず、なお多くの人々が、そのみじめさを知らず生きるのは
どういうわけでしょうか。
心の目が雲らされており、霊的に死んでいるからです。
この死から生き返らせることの出来るお方は、
ただ一人、命の根源あるこの天地万物の造り主です。
イエス・キリストを死人の中から蘇らせたお方以外にはありません。
ですから、私たちの望みは、ただこのお方にかかっているのです。
わたしもあなたの中にいます。
ヨハネ 15:4 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
クリスチャンとはイエス様を心に受け入れた人々を言います。
私達がイエス様を心に受け入れた時、イエス様は私たちの中に来られ、共におられます。
イエス様は「インマヌエル」と呼ばれます。
神様が私たちと共におられるという意味です。
福音の中の福音は、神様であるイエス様が私たちと共におられるという事です。
皆さんが「イエス様は私の中にいます」と告白されたら、それは正しいことです。
ならば、イエス様が皆さんの中に証拠は何だと思いますか。
多くの人は自分の中で感じる平安、愛、恩恵をその証拠だと話します。
それも証拠の一部でしょう。
しかし問題は、どんなに満たされているクリスチャンであっても、
常にこのような状態を維持するのは難しいです。
では、私たちが落胆し悲しみに陥っている時、
イエス様は私たちから離れているのでしょうか。
多くのクリスチャンは、小さな苦難に遭うだけで「神様、どうして私を苦しませるのですか」とつぶやきます。
私たちと共におられるイエス様に対して確かな確信がないからです。
私たちはイエス様が私たちと共におられることを知っています。
聖書がそのように語っているからです。
しかしそれを知識として知っているのと、
私と共におられるイエス様を人格的に知っていることとは別の問題です。
クリスチャンとはイエス・キリストを救い主として受け入れ、イエス・キリストと人格的に交わりをしている人です。
しかし多くの人々はイエス・キリストを受け入れていないから、イエス様が共におられることを知らないです。
イエス様が私たちのなかにおられることを知っているふりをし、信じているふりをしているだけです。
人格的に知ること、人格的に交わりについては知らないのです。
私たちはイエス様が私たちと共におられることを信じます。
この言葉を数えられないほど聞きました。
聖書も知っているし、天国も知っています。
しかし心に感動がありません。性質一つ変えられません。
不平、不満、恐れ、思い煩いがなくなりません。理由は一つです。
今私たちと共におられるイエス様を人格的に知らなければ、生き方に決して変化は現れないのです。
多くの人が一人でいる時に性的な罪の誘惑を受けます。
そしてその罪に倒されます。
その罪の力が強いからでしょうか。違います。
隣に人がいるだけでわいせつな映像を見る人はほどんどいません。
イエス様が私の中におられると本当に信じていないから、罪の誘惑になるのです。
多くの人は、他人の目を避ければ誰も見ていないと思います。
だから、人が見ていないと思うと、あらゆる言葉と行動をします。
でも、そうではありません。
イエス様を救い主として受け入れた人々にはイエス様がいつも共におられます。
この事実を知っている人だけが、聖なる生き方が出来るのです。
私たちの意志だけでは、罪に勝ち、聖なる生き方をすることは出来ません。
聖なる生き方が出来るかできないかは、私たちの意志や強弱にかかっているのではなく、本当にイエス様を見つめている者であるのか、そうでないかによるのです。
いつもイエス・キリストを見つめることによってイエス様が私の中におられると知っている人が聖なる生き方をするのです。