恵みの雨

主日メッセージ

甦られたイエス・キリスト〈Ⅰコリント15:3-8〉

題目:甦られたイエスキリスト〈Ⅰコリント15:3-8〉

15:3 私があなたがたに最も大切なこととしてえたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、

 15:4 また、葬られたこと、また、聖書にって三日目によみがえられたこと、

 15:5 また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。

 15:6 その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多の者は今なお生きっていますが、すでに眠った者もいくらかいます。

 15:7 その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。

 15:8 そして、最後に、月足らずで生まれた者と同な私にも、現われてくださいました。

のぞみ教会 主日説教(2019年4月21日) 作成及び説教者:李鍾賢牧師

題目:甦られたイエスキリスト〈Ⅰコリント15:3-8〉

15:3 私があなたがたに最も大切なこととしてえたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、

 15:4 また、葬られたこと、また、聖書にって三日目によみがえられたこと、

 15:5 また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。

 15:6 その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多の者は今なお生きっていますが、すでに眠った者もいくらかいます。

 15:7 その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。

 15:8 そして、最後に、月足らずで生まれた者と同な私にも、現われてくださいました。

 

アメリカのオクラハマ大学の研究員が、動物の知能がどこまで発達しているかを調べるため、動物の中で知能が最も発達していると言われるチンパンジーに手話を教えました。苦労のあげく、やっと140個の単語を教えました。

さらに、チンパンジーにこの単語を自由に表現できるようにも教えました。

教えられたそのチンパンジーが初めて表現した言葉は何だと思いますか。

Let me out! お願いだから、私を自由にして!という事でした。

 

このように動物も何かに囲まれていたり、とらわれていたりするのを嫌います。

まして、人間はどうでしようか。

私たちは罪の奴隷になっていては、真の自由を味わうことが出来ないのです。

罪の問題を解決し、束縛からまず抜け出なければなりません。

 

ローマ 5:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。と書いてあります。その御言葉通り、私たちの罪の問題はイエス・キリストだけが解決することが出来、イエス・キリストだけが私たちを自由にすることが出来ます。

 

イエス・キリストはこの世に来られた時、目的を持って来られました。

しかし、私たち人間は生まれる時、イエス様のようにある目的を持って生まれたのではありません。 

人間は生きる事、そして死ぬことへの意味を知らずに生まれました

また、人生がいったいどういうものなのか知らずに生きてました

 

しかし、イエス・キリストはこの世に来られた時、目的をもって来られました。

その目的とは、私たちの罪の問題を解決して自由を与えるためのことでした。

イエス・キリストは死ぬ事と生きる事が何であるかご存知の上、この世に来られました。

 

ヨハネ1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

ヨハネ1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の光を見た。父のみもとからられたひとり子としての光である。この方はみとまことにちておられた。

と書いてある通り、イエス様はこの世に人間の姿で来られましたが、しかしこの方は神様ご自身でした。

 

ヨハネ10:30 わたしと父とは一つです。」

ヨハネ4:8-9 4:8ピリポはイエスに言った。「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば足します。」

14:9 イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください。』と言うのですか。

 

イエス様は人間を救うための目的を持ってこの世に来られました。

ですから私たちの生きる事と、イエス・キリストの生きる事、

又、私たちが死ぬ事と、イエス・キリストが死ぬ事とは根本的に違います。

私たちは必然的に死んでしまいますが、しかしイエス・キリストは自ら死を選ばれました。そして予言された通り、甦られました。

 

ところがイエス・キリストのこの復活の事を始めは誰も信じようとしませんでした。

聖書を読んで見ますと、イエス様の弟子たちは皆、イエス様を裏切って逃げ去ってしまったのです。

 

又、恵みをいただいた人たちも皆、元の不信仰の状態に戻ってしまいました。

そしてペテロもイエス様が甦られたという事を耳にしたにも関わらず、

魚を取るために海に出てしまいました。

 

マリヤもイエス様が甦られる事を信じなかったので、

イエス様の遺体に油を塗るためにお墓に行きました。

なぜ彼らはイエス・キリストが甦られたのを信じようとしなかったでしょうか。

 

その理由は簡単です。人間は復活が出来ないからです。

イエス・キリストは十字架の上で完全に死んでしまったから誰もがイエス・キリストが甦られるとは思わなかったのです。

 

また、イエス・キリストがどういう方なのかを知らなかったからです.

人間が復活するのは科学的にも、医学的にも、生理的にも、不可能な事です.

しかし、イエス様は予言通り甦られました。

 

ところが、ユダヤ人たちはイエス様の復活について変なうわさをしていました。

たとえば、“イエス様はただを失った態からってだけだ。” 

または、“イエスの弟子たちがお墓からイエスの遺体をんで行って、

空っぽになったお墓を見せてイエスが甦られたとをついているのだ”など言いふらした人もいました。

そして“ある人がイエスを夢の中で見たのを言い降らしているのだ”という

うわさもありました。

 

しかし、イエス様が甦られたのには証拠があります。

それは聖書に書かれてある通りだからです。

イエス様はご自分が、苦しみを受け、死者の内から三日目に甦る事を予言したからです。

もし、イエス様が予言した通りにならなかったらどうなるでしょう。

 

しかし、イエス様の復活については空っぽになったお墓が証拠です。

聖書を読んで見ますと、イエス様の友人たちがその遺体を麻布につつんで石のお墓の中においたと書いてあります。

 

また適であった人たちもお墓の入り口を石で閉じて、かたくその墓を守っていました。そのお墓が空っぽになったのです。

その空っぽになったお墓がイエス様の復活を証しています。

また、実際に見た人々が証しています。

 

実際にイエス様が甦られたのを見た人がいます。〈Ⅰコリント15:3-8〉

15:3 私があなたがたに最も大切なこととしてえたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、

 15:4 また、葬られたこと、また、聖書にって三日目によみがえられたこと、

 15:5 また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。

 15:6 その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多の者は今なお生きっていますが、すでに眠った者もいくらかいます。

 15:7 その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。

 15:8 そして、最後に、月足らずで生まれた者と同な私にも、現われてくださいました。

 

イエス様が甦られなかったら私たちが持っている信仰は無駄であり、

私たちはいつまでも罪の中に留まっている状態になります。

キリスト教は復活の宗教です。また、命の宗教であります。

それでイースターはキリスト教にのみあります。

それで信者は命を持っているので、実は全てを持っているのです。

 

Ⅰヨハネ5:11 そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちをえられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。

 5:12 御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。

 5:13 私が神の御子の名を信じているあなたがたにしてこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。

 

マタイ28:18 イエスは近づいてて、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの威がえられています。

 28:19 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆるの人を弟子としなさい。そして、父、子、聖の御名によってバプテスマを授け、

 28:20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らをえなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

 

 

人生は戦いであります。今も、世界のどこかでは戦いが絶えず続いています。領土を奪い取る戦い、政治的な戦い、経済的な戦い、入試の戦い、交通の戦いなど私たちは常に、何かと戦って生きているのです。

ところが、私たちの人生の中で一番大きな戦いは霊的な戦いなのです。私たちはこの霊的な戦いにおいて、必ず勝利しなければなりません。すべての戦いには勝敗があります。勝利者には栄光と報いが保障されますが、敗北者には恥と苦痛が伴います。

サッカーのワールドカップでも勝利すると、全国民が喜ぶのではないでしょうか。このように戦いも、勝てば喜びと平安が与えられます。そしたら、勝利の秘訣はいったい何でしょうか。

 ヨハネ16:33 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」

すでに世に勝ったイエス・キリスト、 聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれ、葬られ、また、聖書に従って三日目によみがえられたイエス・キリストを通して勝利が出来るのです。

 

今も生きておられるイエス・キリストは十字架にかかって亡くなりましたが、神様の力によって死から甦られました。救い主のイエス・キリストはが、人の罪を赦すために死んで、甦ることは、神様のご計画だったのです。

そしてイエス・キリストは、今も生きておられ、いつも私たちのそばにいて、

お祈りを聞いてくださるお方です。

 

福音書には、イエスが死者を生き返らせる奇跡が幾つか記されています。しかし、その人たちは、再び生きてもまた死にました。イエス様の復活はそのような復活とは違います。死に打ち勝って、肉体の命とは違う、まったく新しい命に生きておられるのです。

 

イエス様を死から甦らせた神は、イエスを信じる者に、同じように新しい命を与えられることを約束してくださいました。ですから、私たちは死んで終わるのではありません。神と神の家族と共に永遠に生きるのです。

 

今も、甦られて生きておられるイエス様がいつも私たちと共におられるからです。

甦られ、今も生きておられるイエス様の恵みが、信じる皆さんの上に、生活の上に、そしてお仕事の上に溢れますようにお祈りするしだいでございます。

 

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2019/04/23 主日メッセージ   nozomich

人間的な方法〔創世記16:1-9〕

のぞみ教会主日礼拝<2019年4月7日> 説教者:李鍾賢牧師

人間的な方法〔創世記16:1-9〕

今日の本文では私たちの信仰のモデルであるアブラハムが悩んでいる様子が出て来ます。その時、もっともつらい悩みといえば子供もないままふけて行くのでした。

私たちが今日の本文を通して幾つかを教わる事が出来ます。

その一つは信仰の深いと言われるアブラハムさえも乗り越えにくい問題があったと言う事です。

のぞみ教会主日礼拝<2019年4月7日> 説教者:李鍾賢牧師

人間的な方法〔創世記16:1-9〕

今日の本文では私たちの信仰のモデルであるアブラハムが悩んでいる様子が出て来ます。その時、もっともつらい悩みといえば子供もないままふけて行くのでした。

私たちが今日の本文を通して幾つかを教わる事が出来ます。

その一つは信仰の深いと言われるアブラハムさえも乗り越えにくい問題があったと言う事です。

 

人々はとても簡単に“信仰をもって乗り越えればいいよ”と言うかもしれませんが、しかし、その本人自身にはそう簡単に受け入れられません。

 

もう一つはアブラハムがこの問題を信仰ではなく、人間的な方法に頼った時、その問題は泥沼に入り込んでしまい結局つらい目にあってしまう事が

分かります。

神様を知らない者にはそう言った人間的な方法が通じるかも知れません。

 

しかし、神の民であるアブラハムにはそれが赦されませんでした。

神様はご自分の民が最後まで神様の働きを待たずに人間の意志でやって行くのを喜ばれません。

 

この世の神様を知らない人々の間では通じると言い、それでだれもがやっている方法だとしても、しかし、神の民たちがその人間的な意志に頼る時には、

うまくいかない時があります。それは自分に対する神様の特別な計画が別にあるという意味です。

 

三つ目は私たちが様々な苦しみの中でうまくいかずにつまずいたり、

又は、大きな間違いを起こした時も神様はご自分の意志で私たちを導きます。

神様は時々試練を通して私たちの信仰を図る時もあります。

私たちを苦しめる問題を通してはたして自分の信仰がどれほどであるかを確かめる機会を与える時もあります.

 

アブラハムとイサクがカナン地に来て11年目に向かう時までも子供がいませんでした。

その時,彼らは神様に対する信仰が揺れ初めました。

神様ご自分が自ら空の星のように数えられないほどの子供を約束したのに10年が過ぎた今もまだ一人も与えられていません。

 

彼らにとっては約束をまだ行っていない神様が分かりませんでした.

後になって神様が約束した息子が並みの息子ではない事が分かりました。

特に彼らから生まれた息子はイエス・キリストの象徴でありました。

また、この息子を通して生まれる星のような多くの子孫と言うのは肉体からの子孫ではなく信仰の子孫だったのです。  

 

神様はアブラハムとイサクがもっと衰えるのを待っていました。

そうなると神様の方法で息子を産むことが出来るからです.

しかし、この夫婦はだんだん不安になり、神様に対する信仰が薄くなっていきました。

 

このような不安な様子はサライからもっと現れました.

人間的な方法を用いるのに主役あったのはサライでした。

サライはアブラハムがもっと衰えるまえに何とかしてでも息子を産まなければならないと思っていました。

 

一方、アブラハムはサライのそう言った考えが正しくないのを知っていながらもその提案に賛成しています。

ここで私たちは神様の御言葉を正しく理解しなければならない事を改めて分かります。

つまり神様がアブラハムに息子を与えるとの約束はめかけではなく、サライを通してであると言う意味です。

 

2.人間的な方法がもたらした結果

神様に頼りながら待っているのに、どんな証拠もない時、頭をもたげるのは人間的な手段であります。

10年を待っても何も証拠もないのでサライは自分のもとにいる若い女奴隷をアブラハムに妻として与え、息子を得ようとしました。

 

このような方法は今の時代は非難されますが、しかし、その当時は一般的な方法の一つでした。

私たちがこの世に生きて行きながら人間的な手段をまったく使わない事はあり得ません。もし、人間的な全ての要素を捨てるべきだとしたら学校も行ってはいけないし、電話も勿論、病院へも行ってはいけません。

しかし、ある部分においては神様が人間的な方法を強く拒む時があります。

すなわち、神様からの救いと関わりのある所がそうです。

救いは人間側から成し遂げられるものではありません。

 

結局、サライの女奴隷を通して息子を得るのは神様の喜ばれることであったらこのような事は起きなかったでしょう。

これは神様の計画といわゆる神様の時を待たずに結局人間的な手段を用いたサライに与えられた報いでした。

 

また、サライはアブラハムに対してひどく怒っています.。

サライがアブラハムに怒られた時、アブラハムの反応はどうでしたか。(6)

アブラハムは自分の位置を明らめています。勿論、アブラハムはサライが心理的にどんなに苦しめられているのかを知っていたし、これ以上この問題でサライを苦しめたくなかったとおもいます。“あなたの好きなようにしなさい。”と言いました。

 

しかし、それは問題への解決には全く役に立ちませんでした。

サライの女奴隷ハガルが妊娠したまま逃げてしまいました。

アブラハムの家庭は崩れて行きました。

信者の家庭が聖霊により満たされないと神様を知らない家庭と同じです。

アブラハムの家庭はめちゃくちゃになってしまいました。

 

その時、神様が御手を延ばされました。

神様はサライやアブラハムを叱られませんでした。

なぜならば今までの苦しみで彼らは十分それに当たる罰を受けたからです。

神様の民にとって一番つらいのは聖霊様の働きがない時です。

 

ハカルは逃げるとどうなるかを知らずに逃げてしまったのです。

逃げたハガルを待っているのは荒野の激しい寒さと飢えでした.

ハガルが家を出たのはもっと大きな問題をもたらす恐れがありましだ。

 

ハガル、“あなたはどこから来てどこへ行くのか.尋ねました。

神様のハガルに対するこの質問が全ての問題を元に戻しました。

神様はハガルに“あなたが今、行くと死んでしまう。

あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして彼女のもとで身を低くしなさい。これがあなたにとって最善の道である。”と言われてハガルの相談者になって

下さいました。

 

今日の御言葉の中で私たちは信仰の先祖と言われるアブラハムとサライも神の時を待つ事が大変だったと言う事が分かります。

私たちは神様の時が来る前にも疲れ果ててしまいます。

 

神様が一人一人を呼ぶ時はわけもなく呼んだのではありません。

皆さんに対する大事な計画を持ってお呼びになりました。

他の人々はみんなうまく行くのになぜ私だけうまく出来ないのか。

 

イエス・キリストを信じればうまく行くと思ったのにそうではないと疑問があるかも知れません。 

それは神様が特別な計画を持っておられ、他の人と自分を異なった目で見守っていると言う意味であります。

 

今日の本文では怒りと言うものが全てを破壊する事を知らせています。

怒りは美しいものを破壊します。サライの怒りは御言葉の力と神様の小さな国である家庭をだめにしてしまいました。

神様の命令に従い、ハガルが元へ戻る事によってこの問題は解決されました。

 

自分自身は完璧であると思っている人がいるなら、その人は多くの人をつまずかせる人であります。

私たちは完全な人ではありません。私たちはまだ足りないものであります。

みなさん、怒りが込み上がる時、質問を自分自身にして見て下さい。

自分はだれなのか。〔神の子〕であることを忘れてはいけません。

 

今、私が怒っているのが正しいのか。私がなぜ怒っているのかを質問して見て下さい。もし、自分が怒っている対象が人であるなら、いくらその理由があるとしてもそれは罪を犯しているのです。

私たちのすべての問題を主に委ねましょう。アブラハムの家の問題を解決して下さった神様が私たちの問題も解決して下さいます。

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2019/04/07 主日メッセージ   nozomich

神の予定の目的

のぞみ教会 主日礼拝[2019年3月24日] 説教者:李鍾賢牧師

神の予定の目的

エペソ1:5 神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。

1:6 それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。

のぞみ教会 主日礼拝[2019年3月17日] 説教者:李鍾賢牧師

神の予定の目的

エペソ1:5 神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。

1:6 それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。

 

神様のご計画は、私たちが全く知らない時に

私たちの益を計っていてくださるものなのです。

そればかりか、1:5 神様は私たちを御心のままに、イエス・キリストによって

私たちをご自分の子にしようと、決めておられました。

 

ここで神様が私たちをご自分の子にしようと、決めておられたのは、

1:6 神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、

ほめたたえられるためであります。

その神様の御心は、私たちが罪から救われ、神様の子供とされるという事です。

 

私たちは、いかに考えて見ても神の憐れみを受ける資格はありません。
そのような者に、神は一方的な好意を示して下さいました。

立派な家の子供として生まれることは誇りでもあります。

 

皆さん! もし、私たちが再び生まれる事が出来るなら、

皆さんはどんな家庭で生まれたいですか。

有名な政治家の家ですか。それともお金持ちの家ですか。
勿論私たちが生れる時、家庭や親を選ぶことは絶対できません。

それは有り得ない事なのです。

 

しかし、聖書ではもっと素晴らしくて立派に生まれ変わることについて

知らせています。(ヨハネ1:12)に書いてある通りです。
しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子供とされる特権をお与えになった。”と記録しています。

 

黙示録3:20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

ご一緒におられる事を約束しました。


つまりイエス・キリストを信じることによって私たちは新しくなりました。
神の子供になったからです。これこそ最高の祝福なのです。

(Ⅱコリント5:17)でも、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。と記録しています。

 

神様の子供とされるという事は、イエス・キリストを信じる者に与えられた祝福です。天のお父なる神様と呼ぶことが出来るようにしてくださいました。

 

私たちが神の子共とされたという事は、素晴らしいことです。

神様が私たちを選び、神の子共にして下さったのは、

私たちのうちに何かそれに値するものがあったからではありません。

あくまでも神様の御心によるのです。

 

神の予定の目的があります。

それは、イエス様の最後の願いであります。(マルコ16:15―16) 

16:15 それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。

16:16 信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。

 

私たちはなぜ生きていくのかを知るべきです。

生まれたからしかたがないから生きて行くのか、

それとも命があるから生きて行くのか。

 

生きて行く目的がないと生きる意味もありません。

もちろん喜びもないし、空しいだけです。

 

しかし、聖書は生きる理由があると教えてくださいました。

私たちは神様の子供として神様の栄光のために生きるのです。

その神様の栄光のために、私たちはイエス様が願っておられることをしなければなりません。

 

それはマルコの最後の16:15に書かれてある通り、

全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音をのべ伝えることです。

 

マタイの最後の28:18-20にもこう書いてあります。

『あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。

そして、父、子、聖霊のみ名によってバプテスマを授け、

また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、

彼らを教えなさい。』これがイエス様の願うことです。

 

  1. 福音を伝えるためにはまず祈るべきです。

    伝道は自分の能力で出来るものではありません。

    伝道は聖霊の力で出来るのです。

    聖霊の働きを望むなら、私たちは祈らなければならないのです。

     

    お祈りをしますと神様は働きます

    お祈りをしますと神様は人の心の扉を開いてくださるのです。

    お祈りをしますと神様は伝道が出来るようになさいます。

    伝道をするためには、まず私たちに証拠がなければならないでしょう。

     

    サタンが一番怖がっている人は祈る人です。

    それでサタンは常に祈りができないように妨げます。

    サタンはいつも私たちが祈ることが出来ないように疲れをもたらします

    あるいは問題をもたらします

     

    聖書にはこう書いてあります。

    サタンを追い出せなかった弟子たちにイエス様は『この種のものは、祈りによらなければ何によっても追い出せるものではありません。』と言われました。

    お祈り以外にはサタンに打ち勝てません。

    サタンの支配の中にいる人々を伝道するので、

    まずお祈りを優先すべきです。

     

    神様が私たちを選ばれた目的があります。

    アブラハムを選ばれた神様は、あらゆる民族を救うためです。

    ヨナを選ばれた神様は、二ネベを救うためです。

    イエス様が12弟子を選んだのも、全世界のために、あらゆる国の人々のためなのです。

     

    マルコ 16:15 それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。

     

    マタイ 28:18 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています

    28:19 それゆえ、あなたがたは行ってあらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、

    28:20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

     

    イエス・キリストが共におられるので、奇跡が伴います。

    マルコ 16:17 信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し新しいことばを語り

    16:18 蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」

     

    伝道は人を生かすことで、神様がもっとも喜ばれることであり、

    イエス様の願うことです。

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2019/03/26 主日メッセージ   nozomich

神は私の羊飼ひつじかい

のぞみ教会 主日礼拝(2019年3月10日)説教者:李鍾賢牧師

詩篇23編1−6 

23:1 主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。

 23:2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。

 23:3 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。

のぞみ教会 主日礼拝(2019年3月10日)説教者:李鍾賢牧師

詩篇23編1−6 

23:1 主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。

 23:2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。

 23:3 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。

 23:4 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。

 23:5 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。

 23:6 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。

 

1.神は私の羊飼(ひつじか)

聖書は神様について様々な表現で表わしています。

ある時には統治する王として表したり、農夫(のうふ)として表現したりします。

これを私たちと神様との関係で言えば、切っても切れない関係であると言えます。

羊が羊飼いを離れては生きていけないし、農夫の手がかからなくては、実を期待出来ないのです。

 

神様を離れては私たちの存在理由も生きる目的も(さが)す事が出来ません。

本文はダビデの詩でありますが、筆者ダビデは、元々は羊飼いでした。

羊飼いだったので羊については当然(くわ)しかったし、

 

それで彼は“神は私の羊飼いです。”と詩を造りました。

これは研究して書いたものではありません。

自分の生活の中でありのままを書いたものです。

これはダビデの生活であり、又、信仰だったのです。

 

2.牧場(まきば)にふさせる

私たちの羊飼いになる神様はどんな方でしょうか

本文には伴う、導くという言葉があります。

神様は私たちをいつも導いて下さるし、何のことにおいても導いて下さる方です。

神様が私たちの羊飼いであり、私たちを導いて下さるのなら、

私たちには(とぼ)しい事がありません。

 

羊はどんな羊飼いに会うかによって幸せかそうでないかが決まります。

このように羊飼いが羊を守ってくれる時、

羊に乏しい事がないのと同じく神様が私たちを守って下さる時、

私たちに乏しい事がありません。

 

これがまた、ダビデの告白です。

羊飼いは朝、起きると、まず羊を牧場(ぼくじょう)に導きます。

おなかいっぱい草を食べさせるためです。

 

ダビデの告白から分かるのは、私たちが羊で、神様は羊飼いであることです。

そして牧場(まきば)は教会で、草は神様の御言葉であるという事です。

私たちのたましいは神様の御言葉でなければ、豊かになりません。

神のみ言葉は国会で聞く事ができません。

市場(いちば)なんかに行っても聞く事ができません。

学校に行っても聞く事ができません。

神の御言葉が溢れる所は教会だけです。

緑の牧場(ぼくじょう)に導かれ、私たちがいっぱい食べて安らかにおられる所は教会だけです。

神様は今日、神の御言葉で私たちを満たすために教会へ導いておられます。

 

3.いこいの水のほとりに伴う

羊たちはわりとおとなしいので急流(きゅうりゅう)では水をのめません

それで(ゆる)やかな水辺(みずべ)に導かなければなりません。

羊は草だけでは生きていけないので必ず水を飲まなければなりません。

 

このように牧場(ぼくじょう)に必ず水があるのと同じく、教会には恵みがあります。

神様はこの恵みを与えるために私たちを教会へ導いておられます。

詩篇48:14を読んでみましょう。

“この方こそまさしく神。世限りなくわれらの神であられる。神は私たちをとこしえに導かれる。”と書いてあります。

これは皆さんに向けての神様の約束です。神様は皆さんを導く良い羊飼いです。

 

4.共におられる神

神様が御一緒におられるという事は最高の祝福です。

羊は自分の羊飼いが自分の目に見えなくても、羊飼いが自分たちのまわりにいるかいないかを知っているそうです。

 

羊飼いがいないと羊はとても不安になるそうです。

草も食べないし、良く(ねむ)れないし、ちちも出ないそうです。

しかし、羊飼いが近くにいるのを分かると、草もたくさん食べるし、良く寝るし、ちちも良く出るそうです。

 

ダビデはこのようなことを良く知っていました。

それで彼は自分を羊に、神様を羊飼いに例えました。

そして“例え、死の(かげ)(たに)く事があってもわざわいを恐れません”と告白しています。

 

羊飼いは必ず杖ともう一つの(ぼう)を持っています。杖はとても長くて、

頭の方が()がった形をしていますが、それは(まん)(いち)、羊が(いけ)や穴などに落ちた場合、杖を羊の首にかけて()()り出すためです。

 

また、棒は羊を他の(けもの)から守るために持っているものです。

それで羊たちは、例え羊飼いが棒を手で()(まわ)すふりをしても羊たちは(こわ)がりません。

棒がどこに使われる物かを知っているからです。

 

ここで杖はイエス・キリストがかけられた十字架を意味しています。

そして棒はイエス。キリストの権威を意味しています。

 

ヨハネ5章1〜9節を見ても分かるように、

イエス様は羊を飼うように、疎外された人々、弱い人々とも共にして下さいました。

神が共にしてくださるのが、恵みというものです。

イエス様はエルサレムにある宮へ行くのが目的だったのですが、ベテスダ池に行きました。

 

このべテスダ池は健康な人が行くところではありません。

病気を直すために病人たちが集まっている所で、ひどい(にお)いがして、苦しんで、

うめいているところです。そんな所は、家族でもなかなか行けないところでした。

 

しかしその場所にイエス様が行かれ、38年もの間、病気にかかっていた人に会ってくださいました。

もう生きる力も、希望も持てそうにもない人に、イエス様は共にしてくださいました。

彼にとってはイエス様が共にしてくださったのが何より大きな祝福でした。

 

神様は導きの神様です。

みどりの牧場に導いて下さり、いこいの水のほこりに伴われます。

義の道に導かれます。いつも共におられる神様です。苦しい時、うれしい時、

いつでも、どこにでも共におられます。

また、良いものを良い時期に与えて下さる方です。

その方が私たちの羊飼いです。

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2019/03/26 主日メッセージ   nozomich

取り成しの祈り(使徒12:5)

のぞみ教会 主日説教(2019年2月17日) 作成及び説教者:李鍾賢牧師

取り成しの祈り(使徒12:5)

ある日の夜、ある姉妹から電話が掛かって来ました。「先生、うちの母が一人で店を経営していますが、最近、何度も怖いと言うのです。黒い服を着た人たちが自分の周りにいるのが見えるらしくて、とても怖がっているのです。それで母は私に早く店に来るように言うのです。先生。うちの母の為に祈ってください。」そう言って、電話を切りました。

のぞみ教会 主日説教(2019年2月17日) 作成及び説教者:李鍾賢牧師

取り成しの祈り(使徒12:5)

ある日の夜、ある姉妹から電話が掛かって来ました。「先生、うちの母が一人で店を経営していますが、最近、何度も怖いと言うのです。黒い服を着た人たちが自分の周りにいるのが見えるらしくて、とても怖がっているのです。それで母は私に早く店に来るように言うのです。先生。うちの母の為に祈ってください。」そう言って、電話を切りました。

 

電話を切った後、私は怖がっていると言う姉妹のお母さんの為に祈り始めました。私は、心を尽くして一所懸命祈りました。祈っていると、心が言いようもなく震えて来ました。私は、これは聖霊の働きであると確信しました。

 

私はすぐその姉妹に電話をして「今晩一緒にお母さんのいるお店に行けないか」と尋ねました。彼女は先約があって無理だそうです。それで私は一人で行く事にしてお店の場所とお名前を聞きました。すると、その姉妹は心配だったのか「やはり、一緒に行く事にします」と、また電話が掛けて来ました。

 

その姉妹のお母さんがやっているお店は、私の家から、一時間ぐらい離れた

ところにありました。家を出てお店に着いた時は、夜10時を少し過ぎた頃でした。お店に入ると、彼女は待っていたかのように話し始めました。

いきなり「ほら、あっちを見てください」彼女は入口の方を指さしながら言いました。

 

「黒い服を着ている人たちがいっぱいいるでしょう。あの人たちがいつも私を取り囲んで狙っているのです」私には何も見えないのに、彼女には見えるようでした。恐怖におののいている姉妹の母親の姿は、どう見ても正常ではありませんでした。

 

一階はお店で、二階が生活している部屋でしたが、二階には怖くて上る事が出来ず、使われていませんでした。

それは、彼女を脅かす悪霊の仕業でした。サタンの働きだったのです。

それで私たちはすぐその場所で礼拝を捧げました。賛美して祈り、神の御言葉を伝えました。そうしているうちに、聖霊がその場に臨み、彼女はイエス・キリストを受け入れました。

 

また、そこには先祖を祀る仏壇がありましたが、

私は彼女に遇像を拝むのは、神に大きな罪を犯す事であると説明して、

彼女の承諾を得て、仏壇を全部取り外してしましました。

それから、私は毎日家内と共に彼女のお店を尋ねて礼拝を捧げ、御言葉を伝えました。彼女は顔色も良くなり、だんだん回復して行きました。いつも喜び、彼女の口からは感謝が溢れていました。

 

ところがそれから一週間後、またその方の娘から電話がありました。お母さんが亡くなったという電話でした。私にとってはあまりにも大きな衝撃でした。

毎日、礼拝を捧げながら、あんなに喜んでいたのに、もう正常に戻ったと思っていた彼女が亡くなったというのは、私にとってはとても大きなショックでした。

 

私は家内と急いでお店の方に行きました。前は怖くて上がれなかった二階は、キレイに掃除していました。また彼女は新しい服に着替えており、聖書を前にして座ったまま亡くなっていました。そして、彼女は平安な顔をしていました。

私は座ったまま亡くなったのを見たのは生まれて初めてだし、聞いたこともありませんでした。

 

それから驚いたことに、聖書の中には、彼女のお名前が書いてある封筒が挟んであり、その封筒の中には献金が入っていたのです。

ヨブ記 34:14 もし、神がご自分だけに心を留め、その霊と息をご自分に集められたら、

34:15 すべての肉なるものは共に息絶え、人はちりに帰る。と書いてあります。

 

一週間前までは、悪霊たちが彼女の魂を奪おうとしましたが、幸いにも彼女は救われ天国に行かれました。もし、私が彼女にイエス・キリストを伝えなかったなら、彼女は間違いなく地獄に行ったに違いありません。

 

しかし、神様は彼女が亡くなる前に、彼女を救うために、私を用いて下さいました。神様は私に、一人の魂がサタンの支配から救われるという劇的な感動を与えてくださいました。神様は日本を愛しておられます。彼らを救うために私たちを召してくださいました。私にとっては来日して初めて経験する葬式となり、葬式は遺族の願う通り千葉にある式場で行いました。

 

私たちのすべき事は何でしょうか。まず日本人方々が救われるための取り成しの祈りです。出て行ってイエス・キリストを伝えることです。

 

1.神様の力が現れる方法

ヨシュアがイスラエル軍をつれてアマレクと戦う時、モーセは山に登って祈っていました。

モーセが手を上げて祈るとイスラエルが優勢(ゆうせい)になり、疲れて手を降ろすと、 

アマレクが優勢になりました。それでアロンとフルは、ひとりはこちら側、

ひとりはあちら側から、モーセの手をささえました。すると彼の手は日が(しず)むまで、しっかりそのままでいたので、イスラエルはアマレクとの戦いで打ち勝ちました。

 

この簡単な話から私たちは一つ学ぶべきことがあります。

ヨシュアはモーセが祈る間に命をかけて戦いました。しかしモーセの手が上がるか降りるかによって戦いの勝負(しょうぶ)が分かれたのをみると、結局この戦いはお祈りで勝利した戦争です。 

 

取り成しの祈りは何でしょうか。取り成しの祈りは他人の代わりに神様に進むことです。

ウイタインクという人は“神様は全能者である。お祈りは私たちを変化させると同時に神様の御胸も変えるチャネルだ。”と言いました。

 

取り成しの祈りについてもっと積極的な場面は、モーセが神様から御言葉を頂くために山に登った時、イスラエル民が偶像を作って拝んだ時のことです。

その時、神様は(いか)ってこう言われました。

「今はただ、私のするままにせよ。わたしの(いか)りが彼らに向かって燃え上がって、わたしが彼らを立ち滅ぼすためだ。しかし、わたしはあなたを大いなる国民としよう。」と言われました。

 

その時、モーセは神様に取り成しの祈りを捧げました。(出エジプト記32:11-12)

「しかしモーセは、彼の神、主に嘆願(たんがん)して言った。“主よ。あなたが偉大な力と力強(ちからづよ)い御手をもって、エジプトの地から連れ出されたご自分の民に向かって、どうして、あなたは御怒りを燃やされるのですか。また、どうしてエジプト人が『神は彼らを山地で殺し、地の面から立ち滅ぼすために、悪意(あくい)をもって彼らを連れ出したのだ』と言うようにされるのですか。どうか、あなたの燃える怒りをおさめ、あなたの民へのわざわいを思い直してください。」

 

このモーセの取り成しの祈りをお聞きになった神様はこういわれました。( 出エジプト記 32:14)

「すると、主はその民に(くだ)すと仰せられたわざわいを思い直された。」と書いてあります。

モーセはイスラエル民を生かすために切実なお祈りをしたのです。(32:32)

「しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物(しょもつ)から、私の名を消し去って下さい。」

この必死の取り成しの祈りは神様の御心を動かしました。

 

2.新約聖書での取り成しの祈り

新約聖書を読んで見ますと、イエス・キリストこそ取り成しの祈りの方であったのが分かります。

(ヘブル7:25)「したがって、御自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」と書いてあるとおりイエス様はいつも私たちのために祈っておられます。

 

ヤコブ5:16を読みますとヤコブは「ですから、あなたがたは互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。」と言っています。のぞみ家族の皆さんが互いに愛するための一番いい方法は互いのために祈ることだと思います。

 

使徒12:1-23を読んで見ますと、ヘロデ王はユダヤ人の関心を得るため、  クリスチャンを迫害しました。

ペテロが(ろう)に閉じ込められていた時、信者さんたちはペテロのために、神に熱心に祈りつづけて、ペテロは救われました。一方ヘロデ王は御使いによって、虫にかまれて死んだのです。

ペテロ自身も勿論お祈りをしたと思いますが、聖書には教会の信者さんたちの取り成しの祈りについて話しています。

 

パウロは取り成しの祈りをしてくれるよう、聖書ところどころで次のように頼んでいます。

パウロは1デサロニケ1:2で“私たちは、いつもあなたがた全てのために神に感謝し、祈りのときにあなたがたを覚え、”と言いながら1デサロニヶ5:25では“兄弟たち。私たちのためにも祈ってください。”と取り成しの祈りを頼んでいます。

 

またローマ15:30では

“兄弟たち。私たちの主イエス・キリストによって、また、御霊の愛によって切にお願いします。私のために私とともに力を尽くして神に祈って下さい。”とお祈りを頼んでいます。 

 

Ⅱコリント1:11でも

“あなたがたも祈りによって、私たちを助けて協力してくださるでしょう。  それは、多くの人々の祈りにより私たちに与えられた恵みについて、多くの人々が感謝を捧げるようになるためです。”と取り成しの祈りを頼んでいます。

 

お祈りは神様に向かって、私たちの愛を表現する道であり、私たちのための神の愛を頂く道です。これからはのぞみ家族みなさんは自分だけではなく、お互いのためにも時間をあけて祈りましょう。それでもっと暖かい家族の愛と神様の祝福を味わいましょう。

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2019/02/17 主日メッセージ   nozomich