恵みの雨

主日メッセージ

祝福の確信

のぞみ教会・主日礼拝<2020年5月31日>

祝福の確信 ローマ5:8

 5:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

 

 

のぞみ教会・主日礼拝<2020年5月31日>

祝福の確信 ローマ5:8

 5:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

多くの人々は、神様の愛と恵みを自分の人生で起きている様々な事柄の中で判断します。物事が上手くいくと「神様に愛されていると感じ」環境が悪くなると神様の愛を疑い始めるのです。このような人はまだ、十字架の力によってイエス様を信じている人ではありません。神様の愛は、環境を通してその時その時に確認しなければならないものではなく、すでに確証された真理です。

5:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

 ローマ8:35-39を読んでみると、初代教会の信者たちが大変な迫害に直面していることがわかります。彼らは迫害され、飢え、死の危機が迫っています。状況だけを考えると神様の存在を否定するしかない状態でした。このような現実の中で彼らは「しかし、これらすべての事において、私たちは、私たちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。」と告白しました。彼らが愛の実態であるイエス様をいつも見つめていた確かな証拠です。

十字架は神様の愛を表す最もふさわしい象徴です。この驚くべき愛が一切のものを変えます。私たちが過去にどのような人生を生きたとしても、いかなる罪を犯したとしても現在大変な問題を抱えていたとしても、この愛によって新しくされるのです。

Q ルカ15:11-24に出てくる父の愛はどんな愛ですか。

私たちはこの記事を「放蕩息子」というタイトルで認識しています。弟は父の生前に自身の分け前の遺産を下さいとひどく親不孝なことを言いました。今の時代はこの話を受けいれられるかもしれませんが、当時のユダヤ人の立場によると、この話は父が早く死んでくれないかなと願っているとしか思えないのです。遺産の分け前を与えずに追い出すことも出来ますが、父は弟の願うとおりに遺産の分け前をくれました。放蕩息子の話は弟に集点を合わせたタイトルです。しかし私は父に集点を合わせなければならないと思っています。なぜならこの話は放蕩をしている私たちを罰しないで、戻ってくることを切に待っておられる父なる神様の姿を描いているからです。この父親の姿は私たちがいかに父なる神様の大きな愛を受けているかを教えてくださいます。私たちがこの愛を悟るとき、本当の悔い改めが出来るのです。怒られることを恐れて悔い改めることは全き悔い改めるとは言えません。父なる愛の前に自分の罪を悟って戻ってくることが真の悔い改めです。父は放蕩息子が完全な廃人、完全な失敗者の姿で帰って来た時、彼を抱き、豚のエサまみれの服を着ていた息子にキスをしてくれました。この瞬間放蕩息子罪と苦痛の重荷は取り払われたのです。十字架の力は、私たちに対する神様の偉大な愛を悟らせます。本当の回心は神様の愛を悟るときから始まるのです。十字架に隠されている神様の愛を知れば、不平、不満、落胆、熱心ではなかった信仰生活、もっと献身しなかったことが罪であったと悟るようになります。また、これらの悔い改めようとする心が与えられます。

放蕩生活をしている息子がいる牧師がいました。息子のせいで牧会(牧師)することが出来ず、アメリカに移住しました。しかし、アメリカでも息子の放蕩生活は続きました。ある日、その息子が酔いつぶれて夜遅く家に帰ってきてベッ‐トの上で寝ていると、熱いものが手と腕に落ちてくるのです。酔っている状態で目を開けてみると、黒い影が自分の横にいました。驚いて起きて見ると、父が横で祈っていたのです。「神様、もう息子が帰ってくるようにしてください。

私の命を捧げますので息子を救ってください。」涙を流しながら祈っておられました。この祈りを聞きながら息子も泣きました。「私が悪いことをしているのに、なんでお父さんが死のうとしているのだろう」と、この日以来、息子は本当に回心したのです。後にアメリカのシカゴ大学を卒業して牧師になって自分と同じ放蕩生活をしている悩みを持っている2世たちのために奉仕するようになりました。

十字架の力で神様の恵みを頂いている人々は、回心とともに祝福の確信も生じます。神様の愛を頂きながら、劣等感、挫折感、落胆に因われている人が多いです。罪の赦しと救いの信仰はあるけれど祝福の信仰を持っていない人が多いです。確かに知らなければなりません。祝福の信仰を持つようになって初めて、その信仰は力となり、奇跡となります。恐れも思い煩いもなくなります。この信仰から本当の感謝が溢れます。

クリスチャンが 等感、挫折感、落胆に陥るのは、条件や状況が良くないからではありません。神様に祝福されることを本当に信じていないからです。イエス様が十字架にかかり死んで下さり、「完全にあなたの罪を赦す」 「わたしの目には高価で尊い」と言ってくださるのに、私自身が「いいえ。私は私の事を赦しません。私は価値のない人間です」と言っていることが罪です。罪にまみれ、みじめな状態から自分の力では立ち上がることが出来ずに絶望した時、イエス様の救いと癒しが私には必要だとわかる時、イエス様のところに行くことが出来るのです。

皆さんは「私は最も大きな祝福を受けた。環境に関係なく神様は私を愛しておられる」という確信がありますか。この点が確か確かな人はイエス様と人格的に会った人であり、十字架の力を知っている人です。

ルカ 15:11 またこう話された。「ある人に息子がふたりあった。 15:12 弟が父に、『おとうさん。私に財産の分け前を下さい。』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。 15:13 それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。 15:14 何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。 15:15 それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。 15:16 彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。 15:17 しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。 15:18 立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。 15:19 もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』 15:20 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。 15:21 息子は言った。『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』 15:22 ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。 15:23 そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。 15:24 この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。

Q/A

Q ルカ15:11-24に出てくる父の愛はどんな愛ですか。

適用と祈り。

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2020/05/31 主日メッセージ   nozomich

他人を裁ける資格はない

マタイ7:1<他人を裁ける資格はない>

7:1 さばいてはいけません。さばかれないためです。

 

 

 

のぞみ教会・主日礼拝(20年5月17日)

マタイ7:1<他人を裁ける資格はない>

7:1 さばいてはいけません。さばかれないためです。

十字架の力は、私たちがいかに罪人であるかを悟らせる力です。ですから、皆さんは自分自身がいかに罪人であるかを悟りましたか。私が十字架の力を知っているか知らないかは、イエス様と会えたのか会わなかったのか、一つの質問で分かります。

もしこの質問によって誰か思い出した人がいたら、皆様はまだ十字架の力を知っているとは言えません。十字架を見ながら霊的な目が開かれた人は誰も、自分を義人だとは考えません。他人を裁くことが出来ないのです。イエス様は誰の罪のために死なれたでしょうか。私の罪のために死なれたのです。ですから、この世で私より悪い人も悪質な人もいないのです。使徒パウロはイエス様を信じる前には自分自身が義人であると考えました。だから彼はピリピの教会の人々に手紙を書きながら、自分の過去についてこのように言っています。<ピリピ 3:5-6 ・ 私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、3:6 その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。>

使徒パウロは自分を義人だと思っていました。自分が持っている基準によってイエス・キリストを信じる人々を判断し、迫害しました。その中でイエス様を信じている人々を捕らえ殺そうとして、ダマスコへ行く道でイエス・キリストと会いました。復活されたイエス様と会ったパウロは、このように告白しています。<Ⅰテモテ1:15 ・  「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。>

使徒パウロは、イエス様と出会う前は自分を義人だと思っていましたが、イエス様と出会った後は自分が罪人の中で最たる者であると告白しました。これが十字架の力であり、自分の罪を悟る人の姿です。ある日、イエス様のお話です。「ルカ18:10-14」 18:10 「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。 18:11 パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。 18:12 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』 18:13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』 18:14 あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

私たちの周りにもバリサイ派の人の霊性を持っている人が多いです。外側は謙遜で御言葉や知識が豊かで教会の奉仕も熱心に行っています。しかし心はバリサイ派の人の心を持っています。「あんな悪い人間がいるかな」「あんな信仰の薄い人はいない」とか、いつも他の人を判断しています。

(ヨハネ8:1-11) 8:1 イエスはオリーブ山に行かれた。 8:2 そして、朝早く、イエスはもう一度宮にはいられた。民衆はみな、みもとに寄って来た。イエスはすわって、彼らに教え始められた。 8:3 すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕えられたひとりの女を連れて来て、真中に置いてから、 8:4 イエスに言った。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。 8:5 モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」 8:6 彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。 8:7 けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」 

8:8 そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。 8:9 彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。 8:10 イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」 8:11 彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」〕

イエス様と出会えると、他人に対して持っていた心の石が降ろせるようになります。自分が義人だとは考えないし、他人を裁けなくなります。自分が罪人の中で最たる者であることを悟るからです。これを悟っている人は、本当に十字架の力を知っている人です。このような人と会うと嬉しくなります。このような人たちが集まり、天国のような家庭、天国のような教会が出来るのです。

私たちは自分も欲望を持っていながら、他人の欲望を判断します。私たちは自分も噓を持っていながら、他人の噓には我慢できないのです。私たちは、自分も自己中心的でありながら、他人の自己中心的なことを裁きます。私たちが十字架の力によって新しく生まれ変わると、最初にこれを悟るようになります。だから、他人について言うことがなくなるのです。

私たちは神様の御前で「私には他人を裁く資格はありません。と祈るべきです。悔い改める姿を見れば、敬虔なクリスチャンほど切に悔い改めます。罪を多く犯している人は、むしろ悔い改めをしないのです。涙の量からすると、敬虔なクリスチャンが多くの罪を犯しているように感じます。しかし敬虔なクリスチャンが切に涙を持って悔い改める理由は多くの自分の罪を悟っているからです。放蕩なものが泣かないで悔い改めないのは、自分の罪を見ていないからです。

Q/A

Q 皆さんは今までじぶんよりもっと悪質な人を見たことがありますか。悪質な人と思った人は誰なのか、

Q ヨハネ8:1-11を見て、次の質問に答えてください。

律法によれば、姦淫を行なった女性はどのようになりましたか。(5節)

書記官たちとバリサイ派の人の質問に、イエス様はどのように答えられましたか。(7節)

イエス様の言葉に人々はどんな反応をしましたか。

皆さんはイエス様を受け入れてから心の石を全部降ろしましたか。

Q マタイ7:1-5で、イエス様はなぜ他人を批判してはならないと言われましたか。

Q 今日、改めて悟った皆さんの罪は何ですか。

 

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2020/05/17 主日メッセージ   nozomich

罪を悟らせる力

<ルカ5:8>罪を悟らせる力

ルカ5:8 これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」と言った。

 

 

のぞみ教会・主日礼拝(20年5月10日)

<ルカ5:8>罪を悟らせる力

ルカ5:8 これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」と言った。

イエス様の十字架は、罪人のための十字架です。地獄に落ちるべき罪人たちを救うために十字架を負われたのです。自分が地獄に行くべき罪人であったことを悟らせるのが十字架の力です。これを悟ることがいかにすごい力であるかを知らなければなりません。この事実を知ると神様との関係だけではなく、ほかの人々との関係も変わってきます。皆さんは自分が罪人である事実を知っていますか。多くのクリスチャンは罪人であると告白してはいますが、自分がいかなる罪人であるかを知っている人は多くありません。「言葉では表せない罪人を赦してください」と祈りますが、その大きさを知らないのです。ダビデはバト・シェバと姦通の罪を犯したあと、その罪を隠すためにウリヤを殺しました。しかし彼は自分が犯した罪が神様の前でいかに大きなものであるかを悟っていませんでした。予言者ナタンが牛と羊を多く所有しているお金持ちが貧しい人の羊一匹を奪い取ってお客さんの接待をしたという話を聞かせた時、ダビデは怒ったのです。ダビデはそのお金持ちに向かって「そんなことをした男は死罪だ・Ⅱサムエル記12:5」と言いました。この話はダビデ自身に当てはまる話でした。他の人の罪に対しては死んで当然だと考えますが、自分がそのような罪人であることは知らないのです。それが私たちの姿です。

ルカ5:8で、イエス様の言葉通りに数えきれない魚を獲ったペテロの告白が思い出します。ペテロは魚をいっぱい獲りましたが、喜ぶことより自分が罪人であることを告白しています。どうしてこのような告白をしたのでしょうか。ペテロが急にさらに大きな罪を犯したからではありません。彼はイエス様の御言葉を通して奇跡が起こったのを見た瞬間、霊的な目が開かれたのです。霊的な目が開かれ、イエス様がキリストであることを知ったとき、自分が罪人であることを悟ったのです。自分の罪を深く知った瞬間「主よ。私から離れてください」と告白するしかなかったペテロでしたが、この日を境に全てを捨ててイエス様に従う弟子となりました。イエス様を十字架につけた人々は、自分たちのしていることがいかに大きな罪を犯しているかを知りませんでした。イエス様が復活し、昇天された後、五旬節に約束の聖霊が注がれました。聖霊の満たしを受けたペテロはイエス様を十字架につけた人々に向かってこのように叫びました。「使徒2:36・ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」

そしてこの説教を聞いていたユダヤ人たちの心に、急に罪悪感が生じました。彼らは「兄弟たち、私たちはどうしたらよいのですか」と言って、ペテロの前に出てイエス・キリストを救い主として受け入れました。この時、彼らは十字架のイエス様と出会えた瞬間となりました。18世紀にアメリカで大リバイバルが起きました。このリバイバルの火はジョナサン・エドワーズの説教から始まりました。ある日の主日にエドワードは「怒っておられる神様の手に捕らえられた罪人たち」というタイトルの説教を準備し、主日礼拝の時に説教の原稿を読みました。この説教を聞いていた人々たちが悔い改めを始めました。1600年代、1700年代のアメリカの人々が私たちよりも多くの罪を犯していたでしょうか。違います。彼らは御言葉を通して近づき、光になられたイエス様と出会いました。これから彼らの罪を悟らせる結果となりました。彼らはその罪がその晩に解決されないかぎり、眠ることが出来ないと思っていたのです。リバイバルはそのようにして起こったのです。十字架のイエス様と人格的に出会うことによって罪を悟ることが出来ます。自分の罪を悟ることが新しく生まれる事への始まりであり、弟子にあることへの始まりです。自分がいかに罪人であるかを悟ることこそ、十字架の力を知っていることになります。

昔ドイツにある画家がいました。彼は未信者でしたが、教会から「十字架にかけられたキリスト」という題目の絵を依頼されていました。 画家はちょうど同じ時期に、「踊り子」という絵も手かけていました。

彼のアトリエで、ジプシーの女の子をモデルにして「踊りの子」の絵を描いている途中、モデルをしている女の子が、教会から依頼された絵を見て言いました。「あの絵の人はなぜ、苦しんでいるのか?」 画家は初めては無視していましたが、あまりにしつこく聞いて来るので、昔教会で聞いた十字架の話をしました。するとその女の子は感動して、次の日教会に行って、クリスチャンになったのでした。嬉しくなった女の子は、絵のモデルをするたびに画家に向かって「先生、イエス様は先生のためにも十字架にかかりました」と言いました。そんなある日、画家は自分が描いているイエス様が、自分に迫って来るような気がしたのです。彼もイエス様を受け入れて、女の子同様クリスチャンになりました。キリストの絵が完成した時、画家は絵の下に「私はあなたのためにこのことをした。あなたは私のために何をしたか」と書き加えました。この絵はデュッセルドルフ美術館に飾られ、多くの人々をキリストへの献身に導きました。モラビア兄弟団を創設したツィンツェンドルフ伯爵もその一人です。

☞ Q・A

Q ルカ5:8で、イエス様の言葉通りに数えきれない魚を獲ったペテロは何と告白しましたか。

Q 皆さんは、自分が地獄に行くことが定まっている罪人である事実を悟ったことがありますか。それはいつのことですか。

 

参考聖句

ルカ5:8 これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」と言った。

「使徒2:36・ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」

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2020/05/10 主日メッセージ   nozomich

十字架の力は何なのか。

のぞみ教会・主日礼拝(2020年5月3日)

Ⅰコリント1:18 【十字架の力は何なのか。】

Ⅰコリント1:18 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。

世界的な伝道者ビリー・グラハム先生の働きが終わりに近づいた頃、ある記者が質問しました。「先生、今まで多くの国と地域で福音を伝えてこられたと思いますが、その働きの中で心残りはありますか。」ビリー・グラハム先生は答えられました。「私は福音が教会の外にだけ必要だと考えていました。しかし、今改めて考えさせられるのは、教会の中に福音を必要している人々がもっと多くいるという事実です」

 

のぞみ教会・主日礼拝(2020年5月3日) 

皆さんは、イエス・キリストの十字架の福音を信じていますか。たぶん多くの人はこの質問に「はい」と答えるでしょう。「はい」と答えた皆さんの生き方は変わりましたか。多くの人が十字架の福音を信じていると言いながら、本当の生き方は変わっていないのです。本当に十字架の福音は、私たちン生き方一つ変えられないほど無力なものなのでしょうか。救い主としてイエス・キリストを信じた人々に約束された生き方は、本当に驚くべきものです。

何も不足を感じられないほど満足できる生き方「ヨハネ4:14」・・・決して渇かないという約束の御言葉は、何も不足しないという意味です。皆さんにイエス・キリストの約束が成し遂げられると、今何も足りなさを感じられないほど満足することが出来るのです。

周りに大きな影響力を与える生き方「ヨハネ7:37-38」・・・生ける水の川が流れるとは、周りに大きな影響力を与えるという事です。従って皆さんにイエス様の約束が成し遂げられたら、家庭、職場に驚くほどの恵みを与えて生きるべきです。

試練に遭う時、乗り越える生き方「ローマ8:35-37」・・・クリスチャンは大きな試練に遭っても、いかなる恐れと苦難に襲われても、十分に勝利することが出来ます。父なる神様の愛の中で私たちと神様を引き離すものはないからです。

生徒たちになされた神様の約束は驚くばかりです。しかし残念ながら多くの生徒の信仰生活は神様の約束とは違い、挫折と落胆の時が多く生じています。どうしてこのようなことが起きるのでしょうか。十字架の力が神様の力であることをよく理解していないからです。

イエス様の十字架は、ある人には愚かに見えるが、ある人には神様の力に見えると聖書に書いてあります。皆さんは十字架が神様の力だという事実を知っておられますか。多くの生徒たちが教会に通ってはいるが、イエス様との人格的な交わりもなく、証しすることもない信仰生活をしています。そのような人々にとって十字架は神様の力ではなく、宗教的な想像に過ぎないのです。十字架の福音は本当に驚くほどのものです。イエス様が私の罪の代わりに十字架にかかり死んだという真理を信じるなら、みんな救われます。福音の中の福音です。多分皆さんも「私は十字架の贖いの恵みを信じます」と告白すると思います。しかし、もう一度考えなければならないことがあります。「私たちが本当に信じているのか」です。私たちはあまりにも簡単に信仰について話をしますが、信仰は考えられないほどの力です。神様は罪人の私たちを救うためにイエス様を十字架につけたのです。皆さんは、この愛を本当に信じますか。信じているなら、私の敵も愛し、愛することが出来るはずです。皆さんのうちにイエス様がおられることを本当に信じていますか。それなら隠してある罪は一つもない状態が正常です。皆さんは天国があると本当に信じますか。それなら苦難も恐れず、逆に感謝する心が生じることが正常です。十字架は神様の力です。しかし、私たちはどうして憎んでいる人を赦すことが出来ず、恐れと思い煩いで、いつも喜び感謝しながら生きることが出来ないのでしょうか。実は十字架の力を知らないからです。十字架の力を知って信じると思っていますが、本物ではないという事になります。

神様はただ教会に通っているひとを用いません。神様が注目し用いようとする人は、本当にイエス様を信じている人、つまり十字架が神様の力であると信じている人です。19世紀のロシアにはクリスチャンが9千万人(9,000万人)聖職者も6万人いました。しかし、共産党員5万4千人(54,000人)の手に国が巻き込まれてしまったのです。その理由はクリスチャンが十字架の力を知らなかったからです。私たちはお金の力はみんな知っています。お金があれば何でも出来ると考えている人も大勢います。だから韓国では有銭無罪という言葉もあります。皆さんは十字架が神様の力であるという事実を知っていますか。

【参考聖句】

Ⅰコリント1:18 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。

「ヨハネ4:14」 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」

「ヨハネ7:37-38」 7:37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。 7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」

「ローマ8:35-37」 8:35 私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。 8:36 「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。 8:37 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。

Q イエス様が約束された生き方と皆さんの生き方を比べて見てください。皆さんの約束された生き方をしておられますか。

Q Ⅰコリント1:18を読んで、次の質問に答えてください。

十字架の言葉は救われていない人々にはどのように思われると書いてありますか。

十字架の言葉は救われた人、クリスチャンにはどのように思われると書いてありますか。

Q 皆さんにとってイエス様の十字架はどのような力だと考えていますか。正直に書いてみてください。

<適用と祈り>

 

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2020/05/04 主日メッセージ   nozomich

神を知る

神を知る1:17-19

エペソ1:17 どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。

1:18 また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、

1:19 また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。

 

 

のぞみ教会 主日礼拝[2020年3月22日] 説教者:李鍾賢牧師

神を知る1:17-19

エペソ1:17 どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。

1:18 また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、

1:19 また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。

 

 

使徒パウロは祈りを続けています。

感謝から始まった祈りは、エペソをはじめ、アジヤ州の諸教会の兄弟姉妹たちのために、心から願いを込めた祈りを進んで行きます。

 

そしてまず彼らが神様をよく知る事が出来るために、

神を知るための知恵と啓示の御霊を、与えてくださいますように祈っています。

神様をよく知ることはクリスチャンにとっては大事なことであります。

私たちの信仰の成長は、どれだけ深く神を知っているかによるのです。

神様を本当に知ることによって、私たちは神様の被造物であって、

被造物としての自覚を持って生きることが出来るのです。

 

そうすると、創造主である神様に対する絶対依存の態度が生れてまいります。

このように神様がどのようなお方であるかと言う事は、私たちの信仰の基本です。

聖書にはこう書いてあります。

マタイ1:23 「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。

その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)

1:24 ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、

その妻を迎え入れ、

1:25 そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、

その子どもの名をイエスとつけた。

 

ルカ1:34 そこで、マリヤは御使いに言った。

「どうしてそのようなことになりえましょう。

私はまだ男の人を知りませんのに。」

 

神様を知るという事は、決して神様についての単なる知的認識の事ではありません。

ユダヤ人が知るという場合、それは、決して単なる知的認識ではなく、

人格的、体験的知り方を指しています。

箴言1:7 主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。

9:10 主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。

 

つまり、頭だけで知るという観念的なものではありません。

そこには神様に対する恐れがあると同じに、また愛があり信頼があるというものです。

そしてこれこそ成長したクリスチャン、成長した教会の特徴であると言えるのです。

エペソ4:13 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。

 

神様は霊ですので私たちの目には見えないお方です。

神様は誰にも制限されません。 人に制限されるのは、神様ではなく偶像です。

1コリント10:20 いや、彼らのささげる物は、神にではなくて悪霊にささげられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。 

 

神様は霊なので何でもご存じであり、何でもお出来になるお方です。

人間は霊的な存在なので神様に会うのが救いであります。

人間の霊は肉体の中に止まる時のみ、救いの機会となります。

 

霊である神様は人間を救うために人としてこの世に来られました。

ヨハネ1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

 

へブル 4:15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。

 

ピリピ 2:6 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、

 2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。

 

その方には罪はありません。その方は神様です。その方がイエス・キリストです。

その方は神性と人生を持っているお方です。

 

ところで、この神を知るための知恵と啓示の御霊を、私たちに与えてくださらなければならないと言われています。

私たちが神様をよく知るためには、御霊の助けが必要です。

そのために、神様は私たちに御霊を与えて下さると言うのです。

その御霊は知恵の御霊であり、啓示の御霊です。

 

パウロのこの祈りをよく見て見ますと、御霊と共に、父なる神様と御子イエス・キリストが出てまいります。

この御霊を私たちに与えて、私たちが神をよく知ることが出来るようにして

下さるのは、私たちの主イエス・キリストの神である栄光の父だと言っています。

1:17 どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、

神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように

 

しかし、使徒パウロはすぐに言いかえて、栄光の父と言っているのです。

イエス・キリストは永遠の昔から神と共におられ、又、同時に神であられました。

しかし、またイエス・キリストは父なる神からこの世に遣わされました。

この地上にあって祈られた時、神は天にあって開かれ、又イエス・キリストに

よって栄光を与えられました。

 

【エペソ1:17 どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。

1:18 また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、

1:19 また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。】

 

ここでは、心の目が明らかにされるという事がまず言われますが、知恵と啓示との御霊が与える時、私たちの心の目は明らかにされます。

心とは、聖書においては、単に感情の座なのではありません。

知・情・意の全人格の中心の占める座なのです。

 

この心の目が明らかにされる時、神をさらに良く知る事が出来るようになります。それについて、使徒パウロはここで三つのものを挙げています。

第一に、神の召しによって与えられる望みです。

第二に、生徒たちの受け継ぐべき御国栄光の富です。

第三に、私たち信者のうちに働く神の偉大な力です。

 

この三つのものは、よく見ると、過去、未来、現在について神の恵みであると言う事です。

第一のものは、神が私たちをキリストの救いに召し入れて下さった時に与えられた望みです。その望みというのは、その内容について言えば、将来のことですが、

その望みが与えられた時期について言えば、もう与えられているわけで、

過去のものです。

 

しかし、その望みがどんなに素晴らしいものなのか言いますと、一度与えられただけで終わるものではありません。

使徒パウロはその素晴らしさをわかることを願い、祈っています。

 

第二のものは、私たちクリスチャンが世の終わりに、受け継ぐようにと備えられている御国の栄光に輝いた素晴らしさです。

これについては、すでに11節、14節のところで申し上げました。

 

しかし、神の御国に行くことが出来るというだけではなく、神の国の相続人とされていることの素晴らしさは、常に味わうべきです。

過去と将来にだけ神の恵みがあるのではありません。

神の恵みは、現在においても十分あります。

それが第三のものとして述べられていることです。

 

それは、私たち信仰のうちに働く神の偉大な力です。

それらをあるいはかさね、あるいは繰り返すことによって、

使徒パウロは、神が私たち信じる者たちのうちに成して下さる働きが、

どんなに驚くべきものであるかを述べようとしています。

それは、たしかに信じる者たちのうちになされる神の働きです。

 

パウロが、このように神の驚くべき力が今信じる者たちのうちに働いているという事を述べているのです。

彼の疲れを知らない働きの秘訣は、実に彼のうちに生きて働いている神ご自身の働きであったのです。

 

信者になる時、それ以前の生活とは全く変わってしまうのは、この点においてです。イエス・キリストを信じる事により、それ以来、神が内に働いてくださることによって全く違った勝利の生活を送ることが出来るようになるのは、この神の驚くべき力によります。

 

果たして私たちはそれを本当に経験しているのでしょうか。

それは、キリストを死人の中から蘇らせることが出来た神の全能の力です。

それを神は今、信じる私たちのうちに働かせて、キリストの復活の場合と同様、

まったく驚くべき事を成してくださいます。

 

それを、皆さんは心から信じているでしょうか。

もしもまだ十分に信じる事が出来ないなら、それは、その神の力をまだよく知らないのではないでしょうか。

使徒パウロは、神をさらに良く知ることが出来るならば、この私たちのうちに働かれる神の力をも知ることが出来ると言っています。

そうするとき、超自然的な驚くべき力のある生活を送ることが出来るのです。

 

使徒パウロが神様の驚くべき力が今信じる者たちのうちに働いているという事実を述べ、それがエペソを始めアジヤ教会の兄弟姉妹たちが知るように祈っている事は、これを知ることによって、どんなに信仰生活が力強いものになるかを、

彼は知っているからです。

 

イエス・キリストは生まれる数百年前から、どこで、どのように生まれるのかが予言されました。

又、死んだ後甦ることによって、ご自身が神であり、救い主であることを証明されました。

イエス・キリストを信じる私たちは確信を持って証人となる一週間となりますように祈ります。

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2020/03/28 主日メッセージ   nozomich