恵みの雨

主日メッセージ

キリストと共に生かされた恵み

2:4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、

 2:5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――

 2:6 キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

 2:7 それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした

2:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

 2:9 行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

 2:10 私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。

 

 

のぞみ教会・主日礼拝(2020年7月26日) 説教者:李鍾賢牧師

エペソ2:4-10 キリストと共に生かされた恵み

2:4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、

 2:5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――

 2:6 キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

 2:7 それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした

2:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

 2:9 行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

 2:10 私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。

 

罪人の姿を、神の怒りの下にあるものとして描いた使徒パウロは、それがすべてではなく、神の愛の対象でもあることを示します。

そして自分の犯した罪過と「罪とによって霊的に死んでいたところから、

神がキリストと共に生かしてくださったという事を語るのです。

それが神の憐みであり、愛であり、恵みであると語っています。

 

自分の罪過と罪との中に死んでいた者であった人々をキリストと共に生かしてくださったのは、1:9-20のところで、信じる者たちの内に働くその神の驚くべき力とは、キリストを死人の中から蘇らせた神の御業です。

 

ですから信じる私たちをキリスト・イエスにあって、共に甦らせてくださったわけです。

自分の罪過と罪との中に死んでいた者であった私たちが、霊的に生かされたのは、信仰によってですが、そのことをここでは、キリスト・イエスにあってという言い方で表しております。

この言葉は、使徒パウロの手紙の中に繰り返し出てきます。

 

この言葉は何よりもまずイエス・キリストの霊的一体性を言い表わしております。

聖書では第一のアダムにあって、すべての人は一体であると教えています。そのことは、すべての人が生まれながらにして罪人であるという事を意味しています。

 

しかし同時に第二のアダムであるイエス・キリストを信じる人々は、イエス・キリストと一体だと教えています。

つまり、イエス・キリストにあるすべての霊的祝福を頂くことが出来るという事です。

アダムにあるという事は、すべての人にとって生まれながらの事です。

 

キリストにあるという事は信仰によらなければなりません。

そこで聖書は、いくつかの例を挙げて、キリストと信じる者たちとの関係を説明しています。

 

その一つは、葡萄の幹と枝という関係です。

この関係は、キリストから命が注ぎ込まれていることを表わしています。

 

さらにキリストと教会を新郎と新婦として教える例えからも、ふたりは一体であると教えられます。

このように、キリスト・イエスにあるとは、信仰によるキリストとの一体性を意味し、それゆえに、キリストのあらゆる祝福に与ることが出来るわけです。

 

それではキリストのあらゆる祝福とはどういうものでしょうか。

それはキリストにある命です。

1ヨハネ 5:11 そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。

 5:12 御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。

 5:13 私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。

 

これは、霊的死および神の怒りの下にはもはやいない事を意味します。律法に対して自由にされているという事を意味します。

死んだ者であるという事から自由にされているという事を意味します。

 

しかし、さらに積極的には、キリストの命にあずかることが出来、そのことによってキリストに似る者となることが出来るという事を意味します。

そして新しい命にあって歩くことが出来ることです。

新しい知性、新しい意志をもって歩くことが出来ます。

また新しい心を持つことが出来るのです。

 

使徒パウロが「ここであなた方が救われたのは、恵みによるものであると述べられます。

ここで救われたと言われている言葉は、神の救いの御業が私たちの内になされて、その結果、今救われているという状態を表わしています。

 

キリストと共に天の御座に着かせていただいたという事は、何よりもキリストと共にすべてのものを支配するという事を意味します。

 

へブル10:12-13は次のように記しています。

10:12 しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、

10:13 それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。

 

座に着くとは、完成のしるしがあり、休まれる事を意味します。

私たちもキリストにあるものとして、キリストと共にこの天の座に着くことを許されています。

 

キリストは私たちのために永遠のつぐないを成し遂げてくださいました。

そして神は、天のところへ私たちを招いてくださいました。

ですから、キリストにあって私たちはいま、安全であり、安全な者とされたのです。

私たちはその素晴らしい勝利を本当に喜び味わって生きるべきです。

 

私たちをこのように死から命へ、悪魔の支配下から聖霊の支配下に入れてくださったのは、神の恵みの栄光を表わすためにほか説明出来ません。

使徒パウロは、それをこの素晴らしい豊かな恵みを、キリスト・イエスにあって私たちに下さった素晴らしい神の愛を、来るべきのちの時代において、示すためであると述べています。

 

神の驚くべき恵みは、世の終わりまでは、教会を通して表わされています。またそれをこの世に示していくのは、教会の責任であり、使命です。

そればかりでなく、何よりもまず第一に、それは教会の大きな特権なのです。

キリストと共に生かされ、今天の御座にキリストと共に着くことを許されている者たちの特権です。

 

 

恵による救い2:8-10

 2:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

 2:9 行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

 2:10 私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。

 

救いのメッセージは福音であり、その内容はキリストの十字架上の贖いですが、その性格は神の恵みです。

まり、私たちが救われたのは、神の恵みによることです。

その以外は何もありません。

 

使徒パウロは、自分が救われた時の事をよく知っていました。

タソルのサウロと呼ばれた彼は、ユダヤ教の律法学者として、キリスト教の教会を迫害していました。

そのキリストに敵対していた者なのに、神は捨てず、霊的に死んでいた状態から、キリストと共に生かして下さり、悪魔の支配下から聖霊の支配下に入れてくださったのです。

 

私たちが今このようにして罪と悪魔のもとから解放してくださったのは、神の恵みです。

ですから、神の恵みによって救われたことを、使徒パウロは「あなた方が救われたのは、恵みによるのであり、それは信仰を持って受けたからである」と説明しています。

 

救いの源は、けっして私たちの側にはありません。

私たちの信仰にもありません。 救いの源は神様にあります。

つまり、神様の恵みによってのみです。

 

罪の中に霊的に死んでいた私たちに命を与え、愛してくださったのは神様ご自身でありました。

ですから、私たちの誇るべきものは何一つありません。

このようにして、神の驚くべき救いの御業が私たちの身の上に成就しました。

 

使徒パウロは何と言っているのでしょうか。

「私たちは神の作品」であると言っています。

私たちは神によって造られた者たちです。

つまり、私たちが今クリスチャンになったのは、神の御手によってそうされたと言うのです。

 

私たちの業ではなく、神の御業によって、キリスト者にされたのです。

私たちが何か一所懸命に努力した結果、キリスト者になったのではありません。

私たちが何かを決心からではなく、私たちが立派な事をしたからではなく、キリスト者となったのではありません。

 

また私たちがキリストを選んだからではなく、キリスト者になろうと思ってなれたのではありません。

神が私たちを選んでくださり、神が私たちを造り変えて、神がキリスト者にしてくださいました。

 

これはただ単なる使徒パウロの考えではなく、神がそう言われたのです。

私たちがキリストに従うことを決心したからキリスト者とされたのではなく、

神が私たちをキリスト者としてくださったので、キリストに従う決心が出来たのです。

 

キリスト者はキリストを信じる事によって神が新しい被造物として創り直してくださった者たちです。

ですから、この新被造物は、良い業を行なうはずです。

 

神様はこのような者として、私たちを新しく造ってくださいました。

私たちが神によって救われたのは、神の御業によるのです。

 

その信仰すら神が賜物として与えてくださいました。

これが、行いによるのではなく、 神がキリスト・イエスの十字架によって、私たちを救って下さったという事です。

それこそ恵みほかありません。私たちはただ神をほめたたえ、神に感謝するべきです。

 

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2020/07/26 主日メッセージ   nozomich

私たちの希望

のぞみ教会 主日礼拝[2020年7月12日] 説教者:李鍾賢牧師

エペソ 2:4-

2:4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、

私たちの希望

 

 

のぞみ教会 主日礼拝[2020年7月12日] 説教者:李鍾賢牧師

エペソ 2:4-

 

2:4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、

私たちの希望

 

現代世界は、色々面で恐ろしい危機的な時代だと思います。

聖書は事実を土台として、人間はどういう者なのかを教えています。

それはまず、第一に人間が罪人であるという事実と、

霊的に死んだ者であったという事実です。

 

この事実は何を意味するのでしょうか。

生まれながらの罪人である、私たちは絶対に良い事をする事が出来ないという事です。

 

ある人々は、山上説教を守ることにキリスト教の中心があると考えています。

そしてしきりに心の貧しい人になろうとし、また悲しい者になろうとします。

また右の頬打たれたら、左の頬を向けようとします。

自分に敵対する人を愛そうと努めます。

そうすることによって、クリスチャンになりうると考え、また救われるのだと考えます。

 

しかし、聖書は決してそのような事が生まれながらの人間に出来るとは教えていません。

もしも私たちが自分の力で立派な人間になれるとしたら、

キリストの十字架の贖いは全く無用の長物と化してしまうでしょう。

私たちが自分の力で自分を救う事が出来ないからこそ、キリストの贖いがあったのです。

そのことを、聖書ははっきりと教えます。

私たちは罪過と罪の中に死んでいた者であると言っているのです。

 

死んでいるという断定は私たちが自分の力で自分を罪の中から救い出すことの出来ない者であるという事、つまり自分の力で、心の貧しい人や悲しむ者になろうとしても、

到底不可能なこと、また右の頬を打たれた時に左の頬を向けようとしても、出来ない事たとい出来たとしても、その相手を愛することは出来ない事を言ってのけているのです。

 

そして私たちがそのような有様であるのは、悪魔の支配下にある存在だからなのです。私たちは、どうして自分がこんなに善に対して弱く、悪への誘惑にすぐ負けてしまうのか不思議に思う事があります。

それは超人間的存在である悪魔が私たちのうちに働いているからです。

 

私たちはすぐに他の人と争い、戦おうとします。

人類の歴史が戦争の繰り返しの歴史であったのは、私たちがそのような存在であるという事を証しています。

そのことについて、ヤコブはその手紙の中で、次のように教えています。

 

 

私たちは、自分が決して立派な者ではなく、むしろ利己的な者であり、

どんなに根強い者であるかという事を知っています。

 

しかもそれが、ただ単に悪いというような法則性のものであるだけではなく、

悪魔という超人間的実在によって支配され、その奴隷となってしまっているという事に気付かされるべきです。

 

ですから、私たちにもしも希望があるとするならば、

それは私たち人間の内側にあるのではなく、人間とは別のところに求めるべきです。

 

神様は私たち人間をお創りになりました。

愛情を傾けて私たちをお創りになったのです。

ところが、人間はその神の愛と信頼と期待を裏切ってしまいました。

そのような者に対して、神様は何の未練がありましょうか。

 

ノラ犬に手をかまれたとしても、それはやむを得ないことです。

しかし、自分が愛情を傾け尽くして来た飼い犬に手をかまれたということになると、

もう赦すことは出来ません。   

ちょうどそれと同じように、神はたちどころに、

神への反逆者である人間をたち滅ぼしてしまってもよかったはずです。  

 

しかし神はそれをなさいませんでした。神は長く待たれたのです。

その間、何も手を打たれなかったのではなく、

神はその尊い一人子イエス・キリストをこの世に遣わし、私たちを罪から救い出すために、そのイエス・キリスト十字架につけ、永遠の贖いを成し遂げるように

着々と準備をなさいました。  

 

多くの予言者を通して、そのことを語られました。

予言した通りそのことをエルサレムのゴルゴタで成し遂げられました。

ここに神の私たちに対する存分の愛が示されました。

 

私たち罪人のうちには何一つ希望もありませんし、またその可能性すらありません。

しかし、そのことによって、私たちは絶望する必要がありません。

私たち人間の側には何一つ望みはなくとも、私たちをお創りになさった神が私たちを見捨てられなかった以上、私たちにも望みは残されています。

 

現代は確かに八方<はっぽう>ふさがりの世界です。

まことに暗黒な世界です。

 

しかし、この暗世界にあっても、私たちには望みがあります。

それこそ神ご自身です。

 

 

私たちの造り主であり、私たちを罪から救い出してくださる救い主の神が

私たちを見守って下さるという事、この事以上どこに、私たちの望みがありますか。

 

この罪の世における唯一の希望は、この世界の造り主であります。

唯一の生ける真の神、またイエス・キリストにおいてご自身を表してくださったお方にあります。

 

セルマ・トムソンの「輝ける城壁」という小説があります。彼女は作家ではなく主婦でしたが、「輝ける城壁」を書き、アメリカでベストセラー作家になりました。  

彼女の話がとても興味深いです。

第二世界大戦当時20代だった彼女は軍人と結婚しました。

 

今も健在であればだいぶ年を召しているでしょう。20代で結婚した陸軍士官の夫の派遣先はカリフォルニア東部のモハーウェ砂漠の近くの基地でその近くに住まざるを得ない状況になりました。

 

今モハーウェ砂漠の近くには村が出来てレストランもあり、エアコンもありますが、1945年頃だったらエアコンもなかったし、砂漠での生活はたやすくなかったはずです。昼間は50度越え、朝晩は冷え込みます。

周囲は原住民とメキシコ人ばかりでアメリカ人はいません。

 

結婚した後でしたので、息が詰まるような状況の中で一日二日、

一か月二か月と暮らしても耐えられなくなり、父親に手紙を書きました。

「これ以上ここでは暮らせないから全部置いて家に帰りたいです」

 

父親が送った返事の手紙には二行の簡単なものでした。

「二人の男性が牢獄の中から小さな窓の外を見ていた。

一人はぬかるみをみており、もう一人は星を見ていた」

 

この手紙を受け取って20代の娘は何度も読み返し父親が伝えたかった事を悟り、

自分の間違いを悟ったのです。

 

それから彼女は考えを変え始めました。

自分はぬかるみの中にいるのではなく、ここで何かできるだろうと考え、

言葉は通じなくても源住民と関係を築き始めました。

 

そのうちに彼らは砂漠の生活に彼女を引き込んだのです。

虫を見せてくれたり、砂漠に連れて行きこれまで見ることの出来なかった美しい自然や砂漠から見る空の星などを見るようになりました。

 

彼らの生活の中に入って何かを学んだり彼らからのプレゼントをもらったりしながら

彼女に大きな変化が訪れました。

その経験をもとに小説を書くことになりました。

出版サイン会で彼女はこのように話しました。

「砂漠で生きる間<お前は不幸で孤独だ希望なんでない>というサタンのささやきと何と幸いな人だろうあなたをここに導いたのは神であるここで新しい夢を見なさい>という神の御声も聴きました。

 

でも私はサタンの声には耳を塞ぎ神の御声を聴きながら今日ここに立ているのです」

そう告白したのです。

彼女はクリスチャンでした。彼女の父親もクリスチャンだったのです。

 

自分に与えられた状況が誰のせいなのかも問うべきです。

しかし、神の前で自分の状況と時についてなぜそれが起きたのかと誰かを恨み批判する前に神が私に与えた状況からこの事を通して神が成そうとされるのかという信仰で状況を見る人でなければ神が約束されたこの上なくよい人生を歩むことが出来ません。

 

神様は私たちが喜んで幸せに生きることを願っておられます。

今皆さんの心にはどんな考えが浮かびますか。

 

「この状態で神が語るこの上ない良い人生を生きるためには余計なことは言わないで口座に百憶円入れてくだされば何の心配もせず余裕を持って人に仕えて生きるだろう」と私たちは考えます。

 

そんな人を見て神様は何と言うでしょうか。

「百憶円を使い切ったらどうするんだ」「百憶円あれば死んでも残る」本当にそうですか。

 

お金さえあれば老後の問題もなく子供も立派に育てられるから余計なことは言わず十分なお金を下さるならこの上ない人生を生きられる」そう思うならすでに神を信じようとはせずにお金を神のように信じているのです。

 

もし何かを求めるなら自分のためにではなく、他人のために神のために求めるべきです。

「すべてが整えられた上に神が居れば最高だ」ではなく、何も持たないようでも神が共におられる事ですべてを持つ者のように神を喜んで生きる人生を神が私たちに教えておられます。

 

神に立てられたその場所で神によって喜び、神が許された状況に絶望し恨むのではなく、ここで成そうとされる何かがあるはずだと考え喜ぶ人になることがこの上なく良い人生に入る門となるのです。

 

環境を変えてくださいと祈る前に私を変えてくださいと祈りましょう。

のぞみ教会の信者として又自分の仕事場、今生きている場所が神の許された場所なのです。

 

 

環境が変えることよりも自分が変えることが重要です。私たちが変り、強くなれば

環境は問題になりません。

私たちが先です。

 

神様は永遠に変わらないお方です。

私たちに与えられた状況と時は、ふさわしく与えられたものであり、

その中に神の祝福が隠されているのです。

このような神を知るなら恐れるしかありません。

 

偉大な神を見る時、すべてを完璧に成し遂げる神を見る時、失敗のない神を見る時、

めちゃくちゃにした人生でもその状況さえも祝福の機会に変えてくださる神を見る時、神を敬い恐れるしかない者へと変えられる。

そんな態度を持つ者でなければ今日与えられた事に喜びこの上なく良い人生を歩むことが出来ないのです。

 

水が入ったコップを傾てれば水が出ます。コーラならコーラが出てくるように

私たちの心に何があるかによって言葉が決まるのです。

ですから、主の恵みを頂いて励ましの言葉を語り、神に愛され、これから希望のある

人生を歩みましょう。

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2020/07/12 主日メッセージ   nozomich

キリストなき人生

のぞみ教会 主日礼拝[2020年6月28日] 説教者:李鍾賢牧師

エペソ 2:1-3

 2:1 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、

 2:2 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。

 2:3 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

 

 

のぞみ教会 主日礼拝[2020年6月28日] 説教者:李鍾賢牧師

エペソ 2:1-3

 2:1 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、

 2:2 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。

 2:3 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

 

キリストなき人生

第一章において、使徒パウロは神の驚くべき祝福について語りました。

彼はまず神はキリストにあって、神のもろもろの霊的祝福を持って、

私たちを祝福してくださったと語り始めました。

 

その祝福がどのようなものであったのかという事について、

過去現在将来にわたり、父なる神と、子なる神と、聖霊なる神の三位一体の

神様の驚くべき御業について語ったのです。

 

その神の祝福の御業を、さらに具体的に語ろうとしているのが、この2章なのです。

ことに1-10節では、そのことがはっきりと語られています。

それはまた、1:19-23に述べられている、信じる者たちのうちに働く神の力、

つまりキリストを死人の中から蘇らせた力についての具体的説明でもあります。

言葉を変えて言えば、信じる者たちのうちに働く神の力は、

人を死から命に変える力なのです。

 

そしてこの1-3節においては、キリストのない人生、

神から離れた人間の姿を描いています。

これはまた、神を知らない人間の現実でもあります。

私たちが神を知らなかった時、それがどのようなものであったのかという事について、はっきりと私たちに教えている個所です。

 

そこで、今日はこのキリストなき人生の現実について教えられます。

キリストなき人生の現実の第一は、自分の犯した罪過と罪との中に死んでいるという

事です。

 

生きているように見えながら、それは死んでいるのです。

死んでいると聖書が言う場合、それは決して死滅しているというのではありません。

人間は、神によって造られ、神によって存在させられる者です。

聖書が死という場合、それは神から離れ、霊的に死んでいることを表わします。

逆に、命という場合、それは神の祝福です。

 

ですから、神を離れて生きることは出来ません。

従って神を離れた存在は結局死んでいるのであり、人間として生きているのではありません。

肉体的には生きていても、それは本当の命から離れた存在であり、

まるで糸の切れた凧のように、どこへ行くのかわからないのです。

 

どうしてそんなことになってしまうのでしょうか。

それが自分の犯した罪過と罪のためなのです。

罪過と訳された言葉は、<もともと道を踏み外す>という意味です。

 

神様は、私たちを完全な人間としてお創りになりました。

ですから、私たちは本当に愛に溢れた、りっぱな人間になろうと思えば

なることが出来たのです。

立派な夫にも、立派な妻にも、また立派な親にも、立派な子供にも、

なろうと思えば、なることが出来たのです。

 

しかし、私たちは神から離れたために、神の祝福を頂くことが出来ず、

神の呪いの下にあって、つまり死んでいる状態になりました。

死んでいることは、何も出来ないという事です。

少なくとも良いことをすることは出来ません。

 

良いことを行なうように造られた人間が、

良いことを行なうことが出来なくなったという事は死んでいるという意味です。

ですから、聖書は、キリストなき人生は、霊的に死んでいる人生であるという事です。

それは、単に霊的に痛める人生なのではなく、死んだ人生なのです。

 

キリストなき人生の第2は、それらの罪の中にあって、この世のやり方に従い、

今も、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいるという事です。 

 

空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、

歩んでいたという事は悪魔の事です。

悪魔は、今も不従順な者たちの中に働いていると言われています。

悪魔の力が不信者の中に働いているのです。

 

キリストなき人生は、悪魔の支配下にある人生なのです。

ですから、人間の内的いのちは、神の働きに従うか、

それとも悪魔の力に従うかのどちらかです。

 

キリストなき人生は、悪魔に従って歩んでいる人生です。

それは、悪魔が今支配しているこの世のやり方に従った生き方であることは言うまでもありません。

魔の支配しているこの世の人々にならうことほど恐ろしいことはありません。

 

 

2:2 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。

歩いていたと言っているのは、人間生活のことを表しています。

ユダヤ教では、生活行動に関する律法のことを、ハラカ―と呼びました。

これは歩くという意味の言葉です。使徒パウロは、クリスチャンの生活行動を、

やはり歩くという言葉で表していますが、クリスチャンの生活の仕方のことです。

 

しかし、ここでは、悪魔に従った者の生活描写に使われています。

キリストなき人生の第3は、 2:3 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、

生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

 

自分の肉欲に生き、肉とその思いのままを行なって、

生まれながら怒りを受けるべき子らでしたという事です。

神から離れた人間は、霊的に死んでおり、悪魔の支配下にあるばかりでなく、

肉欲のとりこになっております。

 

ここで言われている肉というのは、単に肉体の事ではなく、

生まれながらのいっさいのものを指しています。

生まれ変わっていない人間の思いも言葉も行いも、

すべては肉と呼ばれるものなのです。

神から離れた人間は、だれでもみなその肉の欲望と肉の思いによって行動しています。

 

そういう人間の姿は、神の目から見ると、生まれながら怒りを受けるべき子らでした。

この「怒りを受けるべき子」というのは、神の怒りに価する子らという意味です。

神の怒りは聖なる神の罪に対する裁きです。

 聖なる神は、罪を決していいかげんにはなさいません。

 

当時に神は罪を犯した罪人に対する恵みと愛とを持っておられます。

神は罪を憎まれるからこそ、罪人を憐れまれるのです。

同時に神の愛は、みじめな罪人を見放すことが出来ません。

 

すべての人は生まれながら罪人です。

ですから、生まれながら神の怒りに価するわけです。

罪は人生のある時期に人生のうちに入り込んで来たものではありません。

罪の中に生まれて来ます。

ですから、「義人はいない一人もいない」と言われるのです。

 

ここで「他の人たちと同じように、」と言われているのは、

「ほかの不信者たちと同じように」という意味です。

使徒パウロはここにキリストなき人生の特徴を三つ挙げています。

しかし、よく見ると、使徒パウロは、1,2節では「あなた方は」と言いますが、

3節では「私たちもみな」と注意深く言っています。

 

つまり、1,2節では、異邦人の姿を挙げながら、

3節では、異邦人もユダヤ人もすべて、神の怒りに価しない人生を送っていると

言っているのです。

ですから、他の人々と、この3節で言っているのは、

ユダヤ人も異邦人も含めた神から離れたすべての人間のことを指しているわけです。

 

神から離れた人生、キリストなき人生がどんなにみじめで、

つまらないものなのかわかると思います。

そこには、喜びもなく、希望もありません。

滅びの道を真っすぐに進んでいるしかありません。

 

しかしそれにもかかわらず、なお多くの人々が、そのみじめさを知らず生きるのは

どういうわけでしょうか。

心の目が雲らされており、霊的に死んでいるからです。

 

この死から生き返らせることの出来るお方は、

ただ一人、命の根源あるこの天地万物の造り主です。

イエス・キリストを死人の中から蘇らせたお方以外にはありません。

ですから、私たちの望みは、ただこのお方にかかっているのです。

 

わたしもあなたの中にいます。

ヨハネ 15:4 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。

 

クリスチャンとはイエス様を心に受け入れた人々を言います。

私達がイエス様を心に受け入れた時、イエス様は私たちの中に来られ、共におられます。

イエス様は「インマヌエル」と呼ばれます。

神様が私たちと共におられるという意味です。

福音の中の福音は、神様であるイエス様が私たちと共におられるという事です。

 

皆さんが「イエス様は私の中にいます」と告白されたら、それは正しいことです。

ならば、イエス様が皆さんの中に証拠は何だと思いますか。

多くの人は自分の中で感じる平安、愛、恩恵をその証拠だと話します。

それも証拠の一部でしょう。

 

しかし問題は、どんなに満たされているクリスチャンであっても、

常にこのような状態を維持するのは難しいです。

では、私たちが落胆し悲しみに陥っている時、

イエス様は私たちから離れているのでしょうか。

 

多くのクリスチャンは、小さな苦難に遭うだけで「神様、どうして私を苦しませるのですか」とつぶやきます。

私たちと共におられるイエス様に対して確かな確信がないからです。

私たちはイエス様が私たちと共におられることを知っています。

聖書がそのように語っているからです。

 

しかしそれを知識として知っているのと、

私と共におられるイエス様を人格的に知っていることとは別の問題です。

クリスチャンとはイエス・キリストを救い主として受け入れ、イエス・キリストと人格的に交わりをしている人です。

 

しかし多くの人々はイエス・キリストを受け入れていないから、イエス様が共におられることを知らないです。

イエス様が私たちのなかにおられることを知っているふりをし、信じているふりをしているだけです。

人格的に知ること、人格的に交わりについては知らないのです。

 

私たちはイエス様が私たちと共におられることを信じます。

この言葉を数えられないほど聞きました。

聖書も知っているし、天国も知っています。

 

しかし心に感動がありません。性質一つ変えられません。

不平、不満、恐れ、思い煩いがなくなりません。理由は一つです。

今私たちと共におられるイエス様を人格的に知らなければ、生き方に決して変化は現れないのです。

 

多くの人が一人でいる時に性的な罪の誘惑を受けます。

そしてその罪に倒されます。

その罪の力が強いからでしょうか。違います。

隣に人がいるだけでわいせつな映像を見る人はほどんどいません。

イエス様が私の中におられると本当に信じていないから、罪の誘惑になるのです。

 

多くの人は、他人の目を避ければ誰も見ていないと思います。

だから、人が見ていないと思うと、あらゆる言葉と行動をします。

でも、そうではありません。

イエス様を救い主として受け入れた人々にはイエス様がいつも共におられます。

この事実を知っている人だけが、聖なる生き方が出来るのです。

 

私たちの意志だけでは、罪に勝ち、聖なる生き方をすることは出来ません。

聖なる生き方が出来るかできないかは、私たちの意志や強弱にかかっているのではなく、本当にイエス様を見つめている者であるのか、そうでないかによるのです。

いつもイエス・キリストを見つめることによってイエス様が私の中におられると知っている人が聖なる生き方をするのです。

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2020/06/28 主日メッセージ   nozomich

キリストの主権

のぞみ教会・主日礼拝<2020年6月14日>

キリストの主権エペソ1:20-23

 エペソ1:20 神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、

 1:21 すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。

 1:22 また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。

 1:23 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

 

 

キリストの主権 <エペソ1:20-23>

 エペソ1:20 神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、

 1:21 すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。

 1:22 また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。

 1:23 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

 

ヨハネ 16:24 あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。

 

ヨハネ 14:14 あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、

わたしはそれをしましょう。

 

ヨハネ 14:27 わたしは、あなたがたに平安を残します。

わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。

わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。

あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。

 

乱気流でも大丈夫<ヨハネ14:27>

ある人がある日、飛行機に乗っていると、

今まで経験したことのないような乱気流に巻き込まれました。

乗客は泣き叫んでパニックになっていました。

そのような状況の中で、彼は客席の前方に行き、大きな声で乗客に言いました。

 

「大丈夫。絶対大丈夫だから。心配しないで」それを聞いた人たちは

「あの人があんなに冷静なのは、きっとエンジニアか専門家に違いない。

彼が大丈夫と言うのだから、大丈夫でしょう」と思いました。

パニックは収まり、人々は静かに席に戻りました。

やがて乱気流を抜けて、飛行機は無事に着陸しました。

 

着陸後、乗客が彼のところに集まってきて、あなたのおかけで冷静になれた。

ありがとう。ところで、あなたはエンジニアですか。と尋ねました。

彼は答えました。「いや、私は牧師です。」

「私が大丈夫と言ったのは、主イエスが共にいるので、

どうあっても大丈夫だと言ったのです。」

 

イザヤ 41:10 恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。

 

イザヤ 43:2 あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。

 

イエス様は、見よ。世の終わりまでいつもあなたと共にいます。

と約束してくださいました。

イエス様が私と共におられ、私が大丈夫なら、 この飛行機に一緒に乗っている皆さんも絶対大丈夫と思い、固く信じました。

人々は複雑な顔をしましたが、彼の神が守って下さったのだ、と感じました。

主イエスが共にいるのは、どんな危険の中でも平安があるのです。

 

使徒パウロの祈りはさらに続きます。

使徒パウロはエペソを初め、アジヤ諸教会の兄弟姉妹たちが、神を良く知ることが出来るように祈っていました。

パウロの祈りは、かなえられ彼らの心の目が明らかにされました。

神の召しによって与えられた望みのすばらしさを知ることが出来るようになりました。クリスチャンが受け継ぐべき御国の栄光の素晴らしさを知ることができるようになり、

信じる者たちのうちに働く、驚くべき神の力を知ることが出来るようにと進んで行きました。

 

この神の驚くべき力とは、具体的にはどのような力なのでしょうか。

それが今日の個所に説明されているところです。

<1:20 神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、>という事です。

 

この 、キリストを死者の中からよみがえらせ、天においてご自分の右の座に着かせてくださった力は、この世界の創造主であり、生も死も、自然界も超自然界も、今の世も後の世も支配しておられる神のものです。

その神が信じる者たちのうちに、のぞみ家族に同じ力を働かせて下さるという事です。

 

キリストを死者の中からよみがえらせ、天においてご自分の右の座に着かせられた神の力とは、また私たちに栄光を着かせて下さる力でもあります。

キリストはあの地上の生涯の最後において、十字架につけられ、苦しみられたあげく、

殺されてしましました。

 

しかし、その恥から苦しみから死の中から蘇られ、天に昇られたから死から栄光と勝利に変えてくださるという事を表しているのです。

 

というのは、私たちは、キリストの体である教会の一員にされているからです。

エペソ2:19< こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。>

 

そういうわけで、すでにイエス・キリストにあって、共によみがえらせ、共に天の座に着かせていただいた私たちクリスチャンが、どうして絶望の生活を送ることがありうるでしょうか。

 

キリストにしっかりと結びついているとすれば、神の驚くべき力は、私たちのうちに働いて、私たちがキリストと同じ勝利の歩みをすることが出来るようにしてくださいます。

そのことをよく知るようになることを使徒パウロは祈っているのです。

このことを本当によく知ることが出来れば、失敗の生活はあり得ないからです。

 

こうして使徒パウロは、信じる人たちのうちに働く驚くべき神の力ということから、

私たちの目を高く挙げ、イエス・キリストを仰ぐようにしています。

確かに信仰生活というのは、自分自身を見つめて、絶望せずに信仰の創始者であり、

完成者であるイエスから目を離さないでいることが大事です。

 

ペテロがガリラヤ湖の上で、船に乗っているところへ、湖上を歩いて近づいて来られたイエス様の御姿を見た時、「主よ。身元へ行かせてください」と申し上げると、

イエス様は「来なさい」と言われました。

ペテロは主を見つめている間は、水の上を歩くことが出来たのです。

しかし、風を見て怖くなると、ブクブクと沈みかけてしまいました。

この出来事は、私たちの信仰生活を表しています。

 

イエス・キリストを見上げている限り、私達は超自然的な生活をする事が出来るのです。ですから、使徒パウロは、ここで、イエス・キリストを見上げさせているわけです。

さて、高く揚げられたキリストは、どのような立場に置かれることになったでしょうか。

 

ここで、使徒パウロは、キリストが二つの関係に入られたことを教えています。

一つは被造物の世界との関係であり、

もう一つは、新創造によって生まれた教会との関係です。

被造物の世界との関係については、次のように述べています。

「1:21 すべての支配、権威、権力、主権の上に、

また、今の世ばかりでなく次に来る世においてもとなえられる、

すべての名の上に高く置かれました。」

 

使徒パウロがここで過去、現在、将来にわたり、また自然界、超自然界をすべて含めた全世界の上にキリストの支配権を示しているという事は、キリストを離れては、

いかなるものも存在しえないのだという事を明らかにしている事なのです。

キリストの御手の中に全てのものがあるのです。

 

イエス・キリストこそ王の王、主の主でいますという事です。

ですから、悪霊の力に対して、キリストの僕たちが戦う時にも、

すでに勝負は決してしまっているのだという事を覚えるべきです。

悪霊さえも、神はイエス・キリストの足のもとに従わせているのです。

 

すべての支配、権威、権力、主権に対して「神の豊かな知恵」を示すために

建てられていると使徒パウロは言っています。

さてキリストと教会との関係はどうかと言いますと、これはさらに重要です。

神はすべてのものの上に立つかしらとして、キリストを教会に与えられたのです。

 

イエス・キリストが教会のかしらであるという事は、

イエス・キリストが全被造物のかしらであるという事の当然の帰結です。

キリストの教会の事を、イエス・キリストの体として、

比喩的に述べているのは、必ずしも使徒パウロの独創なのではありません。

 

キリストは教会の中に満ち満ちておられます。

そうなれることによって、教会を完成してくださるのです。

しかもイエス・キリストは全被造物界の王として、

あらゆるものを御手の中に支配しておられます。

 

私たちは教会に満ち満ちていてくださるイエス・キリストを

決して忘れないようにしなければなりません。

キリストなしに、教会は無力なのです。

しかしキリストは勝利者として、教会にかしらであるお方としておられるだけではなく、教会の中に御霊として生きておられます。

 

私たちが信頼と従順をもって、いっさいの事を頼めば、

イエス様は御心を成してくださいます。

しかし、同時に、教会がキリストの体であるという事から、

その体の完成無しにはキリストの完成もないという事です。

 

勿論体である教会を完成してくださるのは、かしらであるキリストご自身であることは、言うまでもありません。

イエス・キリストが私たちの救いについて、その御心を示し、

その御業をなさるのは、教会を通してなのです。

ですから、教会こそ、この世のあらゆる人々に対して、

イエス・キリストの救いのみ心とその御業とを延べ伝えなければなりません。

 

キリストはそれを教会に委ねられたからです。

ですから教会こそ、神の永遠の救いの大事なことを主は私たち弱い者たちによって

成り立っている教会に委ねられました。

私たちは、この栄光ある責任と使命とを痛感して、ふるいたたないわけにはいきません。

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2020/06/16 主日メッセージ   nozomich

祝福の確信

のぞみ教会・主日礼拝<2020年5月31日>

祝福の確信 ローマ5:8

 5:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

 

 

のぞみ教会・主日礼拝<2020年5月31日>

祝福の確信 ローマ5:8

 5:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

多くの人々は、神様の愛と恵みを自分の人生で起きている様々な事柄の中で判断します。物事が上手くいくと「神様に愛されていると感じ」環境が悪くなると神様の愛を疑い始めるのです。このような人はまだ、十字架の力によってイエス様を信じている人ではありません。神様の愛は、環境を通してその時その時に確認しなければならないものではなく、すでに確証された真理です。

5:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

 ローマ8:35-39を読んでみると、初代教会の信者たちが大変な迫害に直面していることがわかります。彼らは迫害され、飢え、死の危機が迫っています。状況だけを考えると神様の存在を否定するしかない状態でした。このような現実の中で彼らは「しかし、これらすべての事において、私たちは、私たちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。」と告白しました。彼らが愛の実態であるイエス様をいつも見つめていた確かな証拠です。

十字架は神様の愛を表す最もふさわしい象徴です。この驚くべき愛が一切のものを変えます。私たちが過去にどのような人生を生きたとしても、いかなる罪を犯したとしても現在大変な問題を抱えていたとしても、この愛によって新しくされるのです。

Q ルカ15:11-24に出てくる父の愛はどんな愛ですか。

私たちはこの記事を「放蕩息子」というタイトルで認識しています。弟は父の生前に自身の分け前の遺産を下さいとひどく親不孝なことを言いました。今の時代はこの話を受けいれられるかもしれませんが、当時のユダヤ人の立場によると、この話は父が早く死んでくれないかなと願っているとしか思えないのです。遺産の分け前を与えずに追い出すことも出来ますが、父は弟の願うとおりに遺産の分け前をくれました。放蕩息子の話は弟に集点を合わせたタイトルです。しかし私は父に集点を合わせなければならないと思っています。なぜならこの話は放蕩をしている私たちを罰しないで、戻ってくることを切に待っておられる父なる神様の姿を描いているからです。この父親の姿は私たちがいかに父なる神様の大きな愛を受けているかを教えてくださいます。私たちがこの愛を悟るとき、本当の悔い改めが出来るのです。怒られることを恐れて悔い改めることは全き悔い改めるとは言えません。父なる愛の前に自分の罪を悟って戻ってくることが真の悔い改めです。父は放蕩息子が完全な廃人、完全な失敗者の姿で帰って来た時、彼を抱き、豚のエサまみれの服を着ていた息子にキスをしてくれました。この瞬間放蕩息子罪と苦痛の重荷は取り払われたのです。十字架の力は、私たちに対する神様の偉大な愛を悟らせます。本当の回心は神様の愛を悟るときから始まるのです。十字架に隠されている神様の愛を知れば、不平、不満、落胆、熱心ではなかった信仰生活、もっと献身しなかったことが罪であったと悟るようになります。また、これらの悔い改めようとする心が与えられます。

放蕩生活をしている息子がいる牧師がいました。息子のせいで牧会(牧師)することが出来ず、アメリカに移住しました。しかし、アメリカでも息子の放蕩生活は続きました。ある日、その息子が酔いつぶれて夜遅く家に帰ってきてベッ‐トの上で寝ていると、熱いものが手と腕に落ちてくるのです。酔っている状態で目を開けてみると、黒い影が自分の横にいました。驚いて起きて見ると、父が横で祈っていたのです。「神様、もう息子が帰ってくるようにしてください。

私の命を捧げますので息子を救ってください。」涙を流しながら祈っておられました。この祈りを聞きながら息子も泣きました。「私が悪いことをしているのに、なんでお父さんが死のうとしているのだろう」と、この日以来、息子は本当に回心したのです。後にアメリカのシカゴ大学を卒業して牧師になって自分と同じ放蕩生活をしている悩みを持っている2世たちのために奉仕するようになりました。

十字架の力で神様の恵みを頂いている人々は、回心とともに祝福の確信も生じます。神様の愛を頂きながら、劣等感、挫折感、落胆に因われている人が多いです。罪の赦しと救いの信仰はあるけれど祝福の信仰を持っていない人が多いです。確かに知らなければなりません。祝福の信仰を持つようになって初めて、その信仰は力となり、奇跡となります。恐れも思い煩いもなくなります。この信仰から本当の感謝が溢れます。

クリスチャンが 等感、挫折感、落胆に陥るのは、条件や状況が良くないからではありません。神様に祝福されることを本当に信じていないからです。イエス様が十字架にかかり死んで下さり、「完全にあなたの罪を赦す」 「わたしの目には高価で尊い」と言ってくださるのに、私自身が「いいえ。私は私の事を赦しません。私は価値のない人間です」と言っていることが罪です。罪にまみれ、みじめな状態から自分の力では立ち上がることが出来ずに絶望した時、イエス様の救いと癒しが私には必要だとわかる時、イエス様のところに行くことが出来るのです。

皆さんは「私は最も大きな祝福を受けた。環境に関係なく神様は私を愛しておられる」という確信がありますか。この点が確か確かな人はイエス様と人格的に会った人であり、十字架の力を知っている人です。

ルカ 15:11 またこう話された。「ある人に息子がふたりあった。 15:12 弟が父に、『おとうさん。私に財産の分け前を下さい。』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。 15:13 それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。 15:14 何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。 15:15 それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。 15:16 彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。 15:17 しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。 15:18 立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。 15:19 もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』 15:20 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。 15:21 息子は言った。『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』 15:22 ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。 15:23 そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。 15:24 この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。

Q/A

Q ルカ15:11-24に出てくる父の愛はどんな愛ですか。

適用と祈り。

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2020/05/31 主日メッセージ   nozomich