恵みの雨

主日メッセージ

私に力を下さる方によって(ピリピ4:10-19)

のぞみ教会 主日説教(2019/ 12/ 1 ) 作成及び説教者:李鍾賢牧師

ピリピ4:10 私のことを心配してくれるあなたがたの心が、今ついによみがえって来たことを、私は主にあって非常に喜んでいます。あなたがたは心にかけてはいたのですが、機会がなかったのです。

 4:11 乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。

 4:12 私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。

 4:13 私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。

 

 

のぞみ教会 主日説教(2019/ 12/ 1 ) 作成及び説教者:李鍾賢牧師

ピリピ4:10 私のことを心配してくれるあなたがたの心が、今ついによみがえって来たことを、私は主にあって非常に喜んでいます。あなたがたは心にかけてはいたのですが、機会がなかったのです。

 4:11 乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。

 4:12 私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。

 4:13 私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。

 

 

私に力を下さる方によって(ピリピ4:10-19)

人はお金から解放されるのが簡単でないことを考えさせられる話です。

人は自分を取り()く環境が大変な時、不平不満の奴隷になりやすいです。

自分は被害者だと思う人もいます。

大変な環境の中に生まれた事も、貧しい事も、失敗も、病気で苦しんでいる事も、自分はただ被害者だと思って、自分の不幸を他人のせいだと思い、不平不満ばかりです。

ピリプという人はこう言いました。

「どう言う試練があっても、どう言う誘惑があってもそれを侵略者だと思ってはいけません。それを友達として受け入れるとその友達はあなたに沢山の事を教えるでしょう。」いい環境にいるからといって自由人(じゆうじん)になれるのではありません。

 

2.私に力を下さる方によって

パウロは信者たちに正しい信仰の道を教えてくれました。

特に彼は豊かな生活のための秘訣を教えてくれました。

パウロはビジョンをもっていました。

彼は私は私に力を下さる方によってどんな事でも出来るのです。と告白しています。〔ピリピ4:13〕

今日の内容は、パウロがローマの有名な別荘で書いたのではありません。

いつ死ぬか分からない、監禁された牢の中で、パウロが書いたのです。

パウロが監禁されたと聞いて、パウロを慰めようと行ったピリピの人たちは、逆にパウロに慰められました。

パウロはこう言いました。

「私の喜びはあなたがたが神様の信じる信仰によって生活をしている事にある。」と言いました。

また彼は「私の喜びは環境によって変わるのではない」と告白しています。

なぜならば「私は貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、()くことにも()えることにも、()むことにも(とぼ)しいことにも、あらゆる境遇(きょうぐう)対処(たいしょ)する秘訣を心得(こころえ)ています。それはわたしを強くして下さる方によってどんな事でも出来るからです。と彼は言いました。

「どんな事でも出来るのです。」という意味は、何でも願う事がかなえられるという意味より、どんな環境の中でも勝利するという意味です。

このパウロの勇気はどこから来たのでしょうか。

彼の喜びはただイエス・キリストでした。 

彼の生きがいはイエス・キリストで、彼の人生の目標もイエス・キリストでした。

パウロの生きる理由もイエス・キリストでした。

パウロはイエス・キリストのため幸せになり、イエス・キリストのため、喜びと感謝がありました。

ところがこの世の人々はこう言います。

信仰が現実の生活で何が役に立つのか。そして礼拝を捧げるとお金が出るのか。

聖書を読んだりお祈りをしたりすると、みんな金持ちにでもなるのか。と批判的な話をしている人もいます。

 

イエス・キリストを信じるということは神様に会うことであります。

ヨハネ14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

使徒4:12 この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」

使徒16:31 ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言った。

エペソ2:5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――

2:6 キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

コロサイ1:13 神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。

ヨハネ5:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。

ヨハネ16:24 あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。

へブル1:14 御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか。

 

神様はご自分の子供たちに必ず勝利を約束しました。

しかし、成功するまでは時には暗い所を通る時もあります。

でも途中で諦める人は神様の祝福と勝利を体験することが出来ません。

アメリカにはこういう言葉があります。

「試合の途中では点数を言うな。」という言葉です。

途中では判断してはいけないということです。

神の民にも失敗はあり得ます。しかし、結局は必ず戦いで勝利します。

私たちのために神様が働くからです。

パウロはどんな環境の中でも豊かな生活が出来ました。

人間的な目で見れば彼は幸せな人ではありません。

しかし彼は豊かな生活のための秘訣を知っていました。

自分を強くして下さる方への信仰でした。

信者たちの信仰には温度計のような信仰があるし、温度調節機のような信仰があります。

温度計は気温が上がると温度計も上がるし、気温が下がると温度計も下がります。

温度計のような信仰を持っている信者は環境によって信仰が上がったり下がったりします。

喜びも、感謝も上がったり下がったり、あったり、なかったりします。

温度調節機は寒くなると調節機で上げ、暑い時は下げます。

温度調節機のような信仰は環境に支配されるのではなく、むしろ環境を支配します。

ある信者は温度計のような信仰で、お金があれば大変喜びます。

また子供の成績が落ちると、この世の全てが楽しくありません。

温度計のような信仰は環境によって笑ったり泣いたりします。

しかし、温度調節機のような信仰は、環境に支配されるのではなく、神のみ言葉とお祈りをもって与えられた環境を克服します。すばらしい信仰です。

もう絶望に近い事でも、これからは神様の出番(でばん)だと信じて、立ち上がる人もいます。

 

3.どうしたら豊かな生活が出来るでしょうか。

まず恵まれなければなりません。

お金はないけれども信仰は豊かな人がいます。一方、暮らしは豊かですが、信仰は乞食(こじき)のような人もいます。

1808年、ビエンナで“天地創造”という演奏コンサトがありました。

そこには作曲家ハイドンもいました。

演奏が終わった時、感動された群衆は皆、起立して拍手を送りました。

その時、体が弱くなって立つ事もらくに出来なかったお年寄りのハイドンは、震える足に力を入れてやっと立ち上がって、こう叫びました。

「No! No! 私ではありません。この作品は私のものではありません。

神様から与えられたものです。神様に感謝しましょう。」

こう言って椅子に座る時、彼は倒れてしまいました。

この言葉がハイドンの最後の言葉となりました。

しかし、この一言は私たちも言うべき言葉です。

「私がやったのではありません。私のものではありません。

全てが神様の恵みです。ただ私は神様に感謝するだけです。」

神様を信じる人はこういう告白が常になければなりません。

私たちは神様の恵みの中で生きているからです。

カーネギという人はこう言いました。

「神様に捧げる時に負担になるくらい捧げた。そうしたら神様は私に管理するのに負担になるほどの祝福を与えてくださった。」と告白しました。

私たちは神様に感謝を忘れてはなりません。

 

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2019/12/02 主日メッセージ   nozomich

すでに受けたと信じる信仰(マルコ11:20―25)   

すでに受けたと信じる信仰(マルコ11:20―25)   

11:20 朝早く、通りがかりに見ると、いちじくの木が根まで枯れていた。

 11:21 ペテロは思い出して、イエスに言った。「先生。ご覧なさい。あなたののろわれたいちじくの木が枯れました。」

 11:22 イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。

 

 

のぞみ教会・主日礼拝<2019年11月17日> 説教者:李鍾賢牧師

すでに受けたと信じる信仰(マルコ11:20―25)   

11:20 朝早く、通りがかりに見ると、いちじくの木が根まで枯れていた。

 11:21 ペテロは思い出して、イエスに言った。「先生。ご覧なさい。あなたののろわれたいちじくの木が枯れました。」

 11:22 イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。

 11:23 まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。

 11:24 だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。

 11:25 また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。」

 

私たちは神様を信じると言いながらも神様についてよく知っていないような行動をする時が多いです。

まことの信仰とは何かについて聖書はこう書かれてあります。

へブル11:1には、 “信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです”と言っています。

 

1.信仰というのは、すでに受けたと信じることです。

23 “自分の言った通りになると信じるなら、その通りになります”

イエス様が言われました。

ある日、イエス様はいちじくの木が葉のほかには何もないのを見て、

その木に向かって「今後、いつまでも誰もお前の実を食べることのないように」と言われました。

翌日、朝早く、イエス様と弟子たちはそこを通りがかりに見ると、いちじくの木が根まで枯れていました。

 

それを見て弟子たちは驚きました。

その時、イエス様は22節 “「神を信じなさい」まことにあなたがたに告げます。誰でもこの山に向かって「動いて海に入れ」と言って心の中で疑わず、ただ自分の言った通りになると信じるなら、そのとおりになります。だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でもすでに受けたと信じなさい。そうすればそのとおりになります。“と、言われました。

 

真の信仰はまだ与えられていないのにも関わらず与えられたと信じることです。

病のために祈る時もすでに癒されたと信じるのがまことの信仰です。

たとえ、痛みがあるとしてももはや神様が癒してくださったと信じなければなりません。

 

ローマ4:19―20ではこう記しています。

“アブラハムはおよそ百歳になって自分の体が死んだも同然であることとサラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。

彼は不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に信仰がますます強くなって神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました“

 

たとえ病が癒されるため祈る時、50%くらい信じるとしたら、

求めたものを期待出来ないです。95%くらい信じても同じです。

100%信じた時、求めたものを受けることができます。

 

自分自身を信じることは、信仰ではなく、信念といいます。

私たちの信仰は創造主である神様を信じる信仰です。ですから100%信じて、

神様にゆだねるべきです。

 

ヤコブ1:5を見ますと、 “あなたがたの中に、知恵の欠けた人がいるなら、

その人はだれでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。

そうすればきっと与えられます“と記しています。

 

2.信仰と言うのは、見えなくても信じることです。

人は目に見えないとなかなか信じようとしません。

しかし今のこの場所の空気が目に見えません。

また私の声が目には見えないのです。だからと言って空気がないとか、

声というものがないとは言えないでしょう。

 

空気と声は、見ることができないし、触ることもできませんが、

確かに存在するものです。

霊としておられる神様も現在、ここに皆さんと共におられますが、

私たちの目には見えません。

 

コリントⅡ4:18ではこう記しています。

“私たちは見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。

見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです”

 

へブル11:1  信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。

 

へブル11:27

“信仰によって彼は、王の怒りを恐れないでエジプトを立ち去りました。目に見えない方を見るようにして忍び(しのび)通したからです”

詩篇23:4でダビデはこう言います。

“たとい、死の(かげ)(たに)を歩くことがあっても、私は災い(わざわい)を恐れません”

ダビデは、自分の目には見えなくても、いつも神様が自分と御一緒におられる事を信じました。彼の信仰が私たちの信仰となりますようお祈り申し上げます。

 

3.信仰というのは、出来ないように見えても出来ると信じることです。

詩篇121:1―2には

“私は山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのだろうか。

私の助けは天地を造られた主から来る”という告白の詩があります。

出来ないと思われる時、落ち込まずに主に向かって目を上げなければなりません。

 

イエス様も言われました。

“出来るものならというのか。信じる者にはどんな事でもできるのです”

(マルコ9:23)

Ⅱ歴代誌20を見ますと、こういう記録があります。

モアブ人とアモン人、および彼らに合流したアモン人の一部がヨシャパテと戦おうとして攻めてきました。

 

その時、ユダのすべての町々から人々が出てきて、“どうすればよいか分かりません。ただ、あなたに私たちの目をそそぐのみです”と、主を求めました。

主は伏兵(ふくへい)をもうけて、ユダに攻めてきたアモン人、モアブ人、セイル山々の人々を(おそ)わせたので、彼らは()()かされたのです。

ユダが荒野に面した物見(ものみ)(とう)に昇ってその大軍の方を見渡すと、なんと死体が野にころがっていて、のがれた者は一人もないのが分かりました。

皆さん!これが神の働きです。

“どうすればよいか分かりません。ただ主に目を注ぐのみです”と言って主を求めましたが、できないことが信仰でできたのです。

どうやっても出来ないように見えても、出来ると信じるのがまことの信仰です。

 

詩篇100:3にあるように、私たちは主によって造られたものであり、私たちは主の民、また牧場(まきば)の羊であります。

このような関係にありますので、主に向かって目を上げましょう。

 

4.信仰というのは苦難を祝福として見ることです。

自分に試練が(おとず)れましたか。

ヨブを見ましょう。ヨセフを見ましょう。モーセを見ましょう。

神の祝福は苦難という(ぬの)に包まれてくるのです。

見える苦難だけを見て落ち込まないで下さい。

苦難の中にある祝福を見てください。

神様はすてきな私たちの父でいらっしゃいます。

 

私たちが絶えることのできない試練を与える神ではありません。

モーセは神に用いられるのに荒野での40年間もの訓練がありました。

ヨセフもエジプトの総理になるまで13年間の様々な試練がありました。

モーセとヨセフの祝福も試練という(ぬの)に包まれて与えられたのです。

 

皆さん。受ける前にすでに受けたと信じてください。

見えなくても見たと信じてください。

できないように見えても出来ると信じてください。

苦難の中に祝福が(かく)れているということを覚えてください。

信じると信じた通りになります。

 

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2019/11/29 主日メッセージ   nozomich

やベツの祈り

のぞみ教会 ・ 2019年11月3日  作成者及び説教者:李鍾賢牧師

Ⅰ歴代誌 4910(やベツの祈り) 

4:9 ヤベツは彼の兄弟たちよりも重んじられた。彼の母は、「私が悲しみのうちにこの子を産んだから。」と言って、彼にヤベツという名をつけた。

4:10 ヤベツはイスラエルの神に呼ばわって言った。「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてくださいますように。」そこで神は彼の願ったことをかなえられた。

 

 

のぞみ教会 ・ 2019年11月3日  作成者及び説教者:李鍾賢牧師

Ⅰ歴代誌 4910(やベツの祈り) 

4:9 ヤベツは彼の兄弟たちよりも重んじられた。彼の母は、「私が悲しみのうちにこの子を産んだから。」と言って、彼にヤベツという名をつけた。

4:10 ヤベツはイスラエルの神に呼ばわって言った。「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてくださいますように。」そこで神は彼の願ったことをかなえられた。

 

ヤベツについては聖書にはただ1回しか記されていません。

ヤベツという名前は9節にも書いてあるように、悲しみのうちに生まれたという事で名づけられた名前です。

 

おそらくヤベツは小さい時からいつもその暗いイメージの名前で呼ばれたので考えれば名前の意味を知っていたからは辛かったと思います。

名前が人の一生を左右するという話もあるほどですが、

こういう意味ではヤベツは不幸な人だったかもしれません。

 

人は自分のことを運命だと思い、諦める人が思ったより多いです。

聖書にはこういう内容が書いてあります。(使徒3:1-10)

3:1 ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。

2 すると、生まれつき足のきかない男が運ばれて来た。この男は、宮にはいる人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」という名の宮の門に置いてもらっていた。

3 彼は、ペテロとヨハネが宮にはいろうとするのを見て、施しを求めた。

4 ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい。」と言った。

5 男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。

6 すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言って、

7 彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、

8 おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮にはいって行った。

9 人々はみな、彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。

10 そして、これが、施しを求めるために宮の「美しの門」にすわっていた男だとわかると、この人の身に起こったことに驚き、あきれた。

ペテロとヨハネが祈りの時間に経験したことです。

生まれつき足のきかない男と出会うことになりました。

4:22 この奇蹟によっていやされた男は四十歳余りであった。と書いてありますが、

だぶん彼は生まれつき足のきかない人だから歩くのはすでに諦めてありのまま生きるのが自分の運命だと思い、生きた人ではないかと思います。

ところがある日、彼はペテロとヨハネが宮にはいろうとするのを見て、施しを求めたのです。

4 ペテロはとヨハネは、その男を見つめて、「私たちを見なさい。」と言いました。

6 ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言って、彼の右手を取って立たせました。

するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮にはいって行ったのです。

9 人々はみな、彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。と書いてあります。

彼の運命が変わりました。イエス・キリストを信じると全てが変わります。

Ⅰペテロ 5:7 あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。

神があなたがたのことを心配してくださるからです。

Ⅱコリント5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

 

本文に戻ります。

ヤベツは小さい時からいつもその暗いイメージの名前で呼ばれましたが

神様を知り、神様にお祈りをささげました。その内容が10節です。

4:10 ヤベツはイスラエルの神に呼ばわって言った。「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてくださいますように。」そこで神は彼の願ったことをかなえられた。

 

1.私を大いに祝福し、と祈っています。

ヤベツの祈りはただ10節の内容が全部ですけれども、彼はこの祈りによって彼の人生が変ったのです。

彼は単に“祝福してください”と言うのではなく、“大いに祝福して下さい”と祈っています。

ヤベツは天の大いなる祝福を自分に注いで下さいと祈りました。

 

これに対してある人はこう思う人もいます。

自分は罪を犯し、悪いことばかりやってきたので、神様に申し訳ないから自分に祝福してくださいというお祈りはできません。という人もいます。

 

しかしローマ5:8でこう言っています。

“私たちが罪人であった時、キリストが私たちのために死んで下さった事により、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。“

つまり私たちが義人ではなく罪人であった時に、神様はすでに私たちを愛しておられました。そして私たちを祝福して下さることをも願っておられたのです。

 

自分の今までの罪のため神様にお祈りができないという考え方は、結局私たちを神様からなるべく離してしまおうとするサタンの仕業(しわざ)です。

一方こういう人もいます。

主のためにこれから一所懸命に奉仕をしますから、また献金もしますから祝福してくださいという人です。

決心することは良い事ですが私たちはこんな条件的お祈り、計算的なお祈りは喜ばれないです。。

 

2.私の地境を広げてくださいと祈っています。

自分の手の届く範囲を広げてください。

活動できる範囲を広げてください。

自分の影響を及ぼす範囲を広げて下さい。

自分の分野で優れるようにして下さい。という意味です。

 

勿論これは神様の栄光のためであって、自分を用いてくださいというお祈りであります。

神様はこのようなお祈りを願っておられます。

そして神様は彼の願ったことをその通り叶えて下さいました。

 

このような話があります。

ある人が天国に行き、誰かに案内してもらいました。ある倉庫に着いたのですが、そこには彼が今まで欲しがっていたものが全部積んでありました。

されに驚いたごとに、そこには全部彼の名前が書いてありました。

それで彼は怒ってその案内してくれた人に聞いてみました。

なぜこれを私にくれなかったですか。その案内の人はこう言いました。

あなたが頼まなかったからです。と答えました。

悲しみのうちに生まれたヤベツが大きな祝福をいただいたのは彼が決して偉いからではなく祈ったからです。

 

Ⅰコリント 1:26―29を読んででいただきます。

“兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えて御覧なさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。

しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、

強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。

また、この世の取るに足りない者や、見下されている者を、神は選ばれました。

すなわち、ある者をない者のようにするため、無に等しい者を選ばれたのです。“

 

3.御手が私と共にあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことの無いようにと祈りました。

サタンは私たちを常に攻撃しようとしています。

霊的に成長していく時、強くなった時などサタンはいつでも私たちを攻撃する態勢で準備万端(ばんたん)です。

これに対して私たちは絶えず祈りで準備しなければなりません。

 

サタンは霊的に成長していく人、または成長した人を攻撃するので伝導もしないし、お祈りもしないし、または信者でありながらも不信者とあまり変らない人にサタンは相手にしません。

サタンはだます霊であって、その意味で私たちの頭の水準を越えています。

無防備(むぼうび)状態にならないよう、お祈りをもっていつも覚ましていなければなりません。

災いに合わないための唯一の方法はヤベツのように祈ることしかありません。

 

今までどうやってきたかはあまり大事ではありません。

大事なのはこれからです。現在と未来です。

神様は過去にこだわる神様では有りません。

祈る人には神様の大きな祝福が待っています。

ヤベツはただお祈りを捧げた事で人生が変わった人です。

皆さん! ヤベツのことを他人のことのように思わないで、ヤベツのお祈りを皆さんのご自分のお祈りにしてください。

神様は次のような約束を私たちに下さいました。

マタイ11:12を読んで見ますとこう書いてあります。

“バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。”

詩篇81:10です。“私が、あなたの神、主である。

私はあなたをエジプトの地から連れのぼった。

あなたの口を大きくあけよ。私がそれを満たそう。“

 

私を大いに祝福してください。私の地境を広げてください。

御手が私と共にあり、災いから遠ざけて私が苦しむことの無いようにして下さい。最後に神様の栄光のために私を用いてください。

と、今週も祈りましょう。

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2019/11/04 主日メッセージ   nozomich

顧みておられる神様(出エジプト記4:10~17)

のぞみ教会・主日礼拝・2019年10月20日 説教:李鍾賢牧師  

顧みておられる神様(出エジプト記4:10~17)

4:10 モーセは主に申し上げた。「ああ主よ。私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。」

 4:11 主は彼に仰せられた。「だれが人に口をつけたのか。だれがおしにしたり、耳しいにしたり、あるいは、目をあけたり、盲目にしたりするのか。それはこのわたし、主ではないか。

 4:12 さあ行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたの言うべきことを教えよう。」

 

 

のぞみ教会・主日礼拝・2019年10月20日 説教:李鍾賢牧師  

顧みておられる神様(出エジプト記4:10~17)

4:10 モーセは主に申し上げた。「ああ主よ。私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。」

 4:11 主は彼に仰せられた。「だれが人に口をつけたのか。だれがおしにしたり、耳しいにしたり、あるいは、目をあけたり、盲目にしたりするのか。それはこのわたし、主ではないか。

 4:12 さあ行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたの言うべきことを教えよう。」

 4:13 すると申し上げた。「ああ主よ。どうかほかの人を遣わしてください。」

 4:14 すると、主の怒りがモーセに向かって燃え上がり、こう仰せられた。「あなたの兄、レビ人アロンがいるではないか。わたしは彼がよく話すことを知っている。今、彼はあなたに会いに出て来ている。あなたに会えば、心から喜ぼう。

 4:15 あなたが彼に語り、その口にことばを置くなら、わたしはあなたの口とともにあり、彼の口とともにあって、あなたがたのなすべきことを教えよう。

 4:16 彼があなたに代わって民に語るなら、彼はあなたの口の代わりとなり、あなたは彼に対して神の代わりとなる。

 4:17 あなたはこの杖を手に取り、これでしるしを行なわなければならない。」

 

 神様はモーセに三つのしるしを見せて下さいました。

しかし、このような奇跡をいただいたモーセは、

それでもエジプトには行けませんと答えています。

その理由は自分の個人的な問題があったからです。

 

まず、モーセは自分の言葉の問題を理由としてあげています。

この時、神様は十分納得がいくようにモーセを説得しましたが、

しかしモーセはそれでも行けないと言っています。

 

 モーセにはそれまでヘブライ人と触れる機会がほとんどありませんでした。

小さい時に母のふところにいた時と、40歳の時、自分の民族を助けるため労役の現場へ出たことがすべてです。

 

そうなると、彼のヘブライ語がそんなにうまくないだろうと思われるし、

また、口が重くて舌の重い者であると言っているのが私にとっては、

十分理解できます。

 

彼は子供の時から親の下を離れ、エジプトで教育を受け、

またミデヤンの荒野で40年以上をいたのでヘブライ語に自信がないのを恐れていました。

特に彼の使命は神の約束を知らずに暮らしているイスラエル人を説得し、神様の所へと連れ出すことでした。

それで彼は、口が重いし舌も重いのにどうやってその多くのイスラエル人を説得し連れ出すことができますかと何度も逃れようとしていたのです。

 

イスラエル人はエジプトで生まれ、そこで育った人々です。

イスラエル人たちにとって問題であったのはエジプトの迫害であって、

エジプトを離れることではありませんでした。

 

しかし、モーセに与えられた使命はそのイスラエル人をエジプトから連れ出し、神様を正しく知り、神様に仕える所へと導かなければなりませんでした。

 

モーセがエジプトへと行けないと言っている理由のもう一つは、

自分の過去を問題にしていることです。

12節を見ると神様はモーセに「さあ、行け。私があなたの口と共にあって、あなたの言うべきことを教えよう」とモーセの言葉の問題に対しては答えを下さいました。

 

しかし、それにもかかわらず、彼は「ああ、主よ。どうか外の人を遣わして下さい」といっています。これは自分の過去、つまり人を殺した、忘れられない過去がモーセの中にはあったからです。しかし、いくらどえらいことをしでかしたとしても神様に赦しを求めたなら、神様はそれ以上問いません。イエス様も「わたしか来たのは義人を呼ぶためではなく、罪人を呼ぶためです。」と言われました。

 

 二つの理由をあげ、エジプトへ行けませんと答えているモーセに

神様はどんな答えをくださったのかをもっと具体的に見てみましょう。

神様は口が重くて舌も重いので行けませんと言っているモーセの口を治したのではありません。

 

そう言っているモーセに力の神を見上げるようにしたのです。

勿論、神様は何でも出来る方なので、

モーセの口を治してよく話せるようにすることもできます。

 

しかし、神様はモーセの口を治したのではなく、人に口をつけた方がだれなのか、この全てを作った方がだれなのか、全てにおいての主人はだれなのかを教えて下さいました。

 

つまり、何事においても問題を解決するためには力の神様を見上げなければならない事を教えて下さいました。

 

 二番目に自分の過去に捕らわれているモーセに神様はどう答えて下さったのでしょうか。

モーセは自分が人を殺したことを考えると、きっと辛かったに違いありません。

それでモーセはもし自分がイスラエル人の所へ行って、もしだれかが自分を見て“殺人者”だと()り立てたら、自分はどうしたらいいかと心配していたでしょう。

 

それで神様は彼の心配をもうご存知だったので19節にあるように「あなたの命を求めていたものはみんな死んだ」といちいち教えて下さいました。

罪から自由にして下さる神様がモーセを赦したのは、ただ40年間という長い時間が経ったので、つまり時効期間(じこう期間)が過ぎたからではありません。それは神様の約束を信じる信仰があったからです。

 

ですから神様が私たちを赦したなら私たちも自分自身を赦すべきです。

すでに過ぎ去ってしまった過去に捕らわれ、前へと進むことができないなら、その人は愚かな人です。  

 

神様は赦しの神様であり、そして癒しの神様です。

40年前のモーセの罪の意識をいやした神様は私たちの傷ついた心も癒して下さいます。

 

 今日の本文を見ますと、神様はご自分の民を苦しみの中にそのまま見捨ててしまう方ではないことが分かります。

時期が来ると苦しみの中にいるご自分の民を救うため、自らその民のところへと訪ねてきます。

 

神様はモーセを通してエジプトで苦しめられているイスラエル人に救いのメッセージを伝えました。

それでモーセを通して救いのメッセージを伝えてもらったイスラエル人は自分たちを見捨てない神様について改めて分かりました。

 

それでは彼らが改めて知った神様はどんな姿の神様だったでしょうか。

31節に書いてある通りご覧になる神様でした。

イスラエル人は自分たちが苦しめられていることを、迫害されていることを神様がご覧になったと、そして神様に向けての叫びが無駄ではなかったことが分かりました。

 

皆さん! 私たちにも時々胸のつぶれる苦しみもあり、絶望する時もあります。

その度ごとに私たちはよく、本当に神様っているのか、はたして私を顧みているのかと疑ったりします。

 

それは私たちだけではなく、子供がなくて苦しんでいたサライの経験でも、

そして、ザカリヤの経験でもありました。

しかし、私たちが覚えなければならないことは、神様は時期を待っていることであって、決して苦しんでいる者の叫びに無関心な方ではないということです。

 

もしかして神様が私を忘れたのではないか、もしかして神様が私を見捨てたのではないかと思った時がありますか。

 

干からびた骨のような問題、到底希望のなさそうに見える問題も神様が働きますと生き返ります。

問題があるとしたら、それは私たちの信仰です。環境ではありません。

どんな環境であっても、神様に会って、神様の御言葉を信じると聖霊によって生き返り、回復される祝福を味わえます。

 

何か問題をかかえていますか。

祈ってください。必ず解決されます。

神様には出来ないものは一つもありません。

神様だけを信じ、頼って祈りましょう。

必ず解決されます。

 

しかし、これからはそういった疑いは振り捨てて下さい。

絶対的な信仰を持つようにして下さい。

神様は皆さんをいつも顧みています。

神様は皆さんをいつもご覧になっています。たとえ、私たちが神様を忘れてしまうことがあるにしても、しかし、神様は私たちをいつも覚え、顧みておられます。

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2019/10/21 主日メッセージ   nozomich

顔を壁に向けて主に祈りましょう。(イザヤ38:1~8) 

のぞみ教会主日礼拝 2019年10月6日  作成者及び説教者:李鍾賢牧師

顔を壁に向けて主に祈りましょう。(イザヤ38:1~8) 

 

ゾン・ワナメイカという人が祈りについてこう定義しました。

お祈りは神の手をつかむことだと言いました。

神様の手をつかむと、すなわち神様が共にしてくだされば、すべての問題は解決されます。神様はお祈りを通して働くからです。

お祈りを多くすればするほど神様もたくさん働きますが、

しかしお祈りを少しすれば神様も少し働きます。

信者さんの中ではお祈りを通して神様の祝福をいただき、神様の栄光を現す人も大勢(たいせい)います。

 

のぞみ教会主日礼拝 2019年10月6日  作成者及び説教者:李鍾賢牧師

顔を壁に向けて主に祈りましょう。(イザヤ38:1~8) 

ゾン・ワナメイカという人が祈りについてこう定義しました。

お祈りは神の手をつかむことだと言いました。

神様の手をつかむと、すなわち神様が共にしてくだされば、すべての問題は解決されます。神様はお祈りを通して働くからです。

お祈りを多くすればするほど神様もたくさん働きますが、

しかしお祈りを少しすれば神様も少し働きます。

信者さんの中ではお祈りを通して神様の祝福をいただき、神様の栄光を現す人も大勢(たいせい)います。

 

1>お祈りは神様を(うご)かします。

ジミ・デランテというアメリカの有名なタレントさんがいました。

ある日彼は、第2次世界大戦に参加した人たちのための番組に出演(しゅつえん)しました。

彼はあまりにも忙しいスケジュールのため、たった5分だけを出演することになっていました。

彼が番組に出て、拍手が送られ、約束どおり彼の順番は終わりました。

 

ところが彼は舞台を離れずにその番組を続けていたのです。

30分後、彼が舞台から降りてきました。

番組の企画者は彼に時間を延ばした理由を聞いて見ました。

 

すると彼はこう答えました。

『私もそのつもりでしたが、一番前に座っていた二人のためでした』と

彼は答えました。

それで企画者がその二人を見ると、二人とも片腕(かたうで)しかない人でしたが、

その片腕で互いに手を合わせ、一生懸命に拍手をしているのが見えました。

それでジミ・デランテは5分間のショーを30分間延ばしたのです。

 

神様は私たちが弱くても、そして()るに足りないものであっても、

与えられた自分の環境の中で最善をつくし、そして祈りますと、

必ず神様は助けてくださいます。

 

問題は私たち自分にあります。祈らずに、またやって見ようともしないで、

神様が助けてくれないと、すぐ呟いてしまうくせがあります。

神様は私たちが祈りながら進みますと、積極的に助けてくださいます。

 

本文に出て来るヒゼキヤは病気になって死にかかっていました。

そこでヒゼキヤは顔を壁に向けて、主に祈りました。

『ああ、主よ。どうか思い出してください。私がまことを尽くし、(まった)き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたがよいと見られることを(おこな)って来たことを。』

ヒゼキヤは大声で泣きながら祈りました。それは神様だけを見上げますという彼の告白です。

 

きっと彼の住んでいた(みや)には、最高のお医者さんがいたはずなのに、

ヒゼキヤはイザヤ預言者が伝えてくれた神の声に耳を(かたむ)け、

すぐひざまずく態度を見せました。

 

宗教改革者であるルテルはある日、友たちであるピリピが死にそうになったのを聞いて、彼のところに行きました。

友達がおかれた状況は非上に絶望的でしたが、ルテルはそこで顔を壁に向けて自分の友たちのために祈りました。

その後、神様の助けによってルテルの友たちは奇跡的に癒されました。

この顔を壁に向けたという意味は、神様だけを見上げたという意味です。

 

人間の力ではとうてい解決出来ない危機に出会いましたか。

どうしても納得いかない試練のため苦しんでいますか。

これ以上進むことが出来ない限界を感じていますか。

ただ神様だけを信じて、神様だけに頼って祈りましょう。

 

大変な時、問題があまりにも大きくて、先が見えない時も、

人に頼らないでまず神様だけ見上げ祈りましょう。

私たちが頼るべき対象は人ではありません。頼るべき対象は神様です。

 

この世の中には人の力では解決できないものがたくさんあります。

ですから、私たちはもっともっと神様だけを信じて、頼らなければなりません。

お祈りを通して神様の働きをお願いしなければなりません。

 

お祈りは奇跡をもたらします。

1970年アポロ13号の宇宙飛行士みながあやうく命を失うところでした。

宇宙船が発射され、205,000マイル上空に至るまではすべてが正常で、

うまく進みましたが、途中異常(いじょう)が発生したのです。 

宇宙センターもどうすることもできず、ただ戻って来るように命じました。

しかし戻ってくるのも無理な状況でした。

 

その時、アメリカの大統領は宇宙飛行士たちが無事に帰って来るように、

祈ってくれる事を国民に頼みました。 

当時、無事に帰ってきた3人の宇宙飛行士は、迎えに来た牧師さんと一緒にお祈りをした後、記者会見で、自分たちは皆様のお祈りで、無事に帰ってくることができたと言いました。

 

お祈りだけが力になります。それで詩篇118編には、こう書いてあります。

『主に身を()けることは、人に信頼するよりもよい。

主に身を避けることは、君主(くんしゅ)たちに信頼するよりもよい。』

 

どんなに有能(ゆうのう)な人に頼っても、人間の問題が全て解決されるのではありません。

イエス様はこう言われました。

『出来るものならと言うのか。信じる者にはどんなことでも出来るのです。』

神様には出来ないものは一つもありません。

 

お祈りには、想像できない驚くべき力があります。

サタンはだれも(こわ)がりませんが、しかし祈る人を一番怖がります。

それはその祈りを神様が聞いておられるからです。

ですから信者は問題にぶつかった時、絶望する必要がありません。

お祈りで解決の奇跡を味わえるからです。

 

お祈りは人生を変えます。

コカコラの創業者(そうぎょうしゃ)であるアサ・ジ・カンドラはアルコル中毒者でした。

彼はいつもよっぱらっていました。

しかしそういった彼のために後ろで祈っている人がいました。奥さんでした。粘り強い奥さんのお祈りによって、お酒をやめることが出来たのです。

 

彼は神に立ち返り、収入の10分の一を神様に奉げました。

今私たちが見るコカコラ会社は、お祈りでアルコル中毒者が信仰者に変った奇跡をもとにしています。 

 

一人のお祈りには考えられない力があって、人の人生までも変化させます。

お祈りの力は家族、社会、国までも変化させます。

 

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2019/10/21 主日メッセージ   nozomich