恵みの雨

心を一つにして

2021年5月30日 ・ のぞみ教会・主日礼拝 

申告告白

聖歌 232 / 201

祈り 木村喜憲牧師

聖歌 431 / 433

聖書 使徒 2:42-47

説教 <悔い改めて救われなさい>  木村喜憲牧師

聖歌  イエスが愛したように

献金 <献金の祈り>  木村喜憲牧師

聖歌 383 / 376

祝福の祈り  木村喜憲牧師

 

お知らせ。

◆のぞみ教会のOpen Cell Leaderを建て上げることが出来るように祈りましょう。

[6/6 : 機関長祈り会(礼拝後)]

献金のための代表祈り 【 6/6:高橋文治兄 】

◆新型コロナウィルス感染拡大防止にかかる蔓延防止等重点措置に伴いまして、

6月20日まで非対面礼拝を実施します。 

◆毎週月曜日午後9時、オンライン祈祷会をZOOMで行います。

   [ 入場ID : 751 809 0278  / パスワード : YCv1GX ]

◆健康回復のためにお祈りをお願いします。

礼拝のための代表祈り 【6/27:小林哲雄兄】

7/4:高橋文治兄、 7/11:山本健太兄、 7/18:安永真一兄

献金のための代表祈り 【6/27:木村喜憲師】

7/4:山本満代姉、 7/11:木村喜憲師、 7/18:高橋文治兄  

心を一つにして

-愛の実を結ぶ教会-

 

本文 : 使徒 2 : 42 – 47

42 そして、彼らは使徒たちのえを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。

43 そして、一同(いちどう)の心に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行われた。

44 信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有(きょうゆう)にしていた。

45 そして、資産(しさん)や持ち物をっては、それぞれの必要にじて、みなに分配していた。

46 そして日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと心をもって食事をともにし、

47 神を美し、すべての民好意(こうい)を持たれた。主も日救われる人を仲間に加えてくださった

 

イエス様は、十字架の死と復活を通して、この地に教会を建てられました。イエス様は、 教会がまさにイエス・キリストの体であり、イエス様を信じる者一人一人は、イエス様の 体である教会のそれぞれの機関だと言われました。すなわち、イエス様を信じて救われた 私たち信者は、イエス・キリストにあって一つの体になったということです。

今日の本文には、この地に建てられた、最初の教会である、エルサレム教会の姿に対して 記録しています。エルサレム教会は、聖霊充満になった信者たちが、イエス・キリストに あって一つになる時、教会にどれほど美しくて素晴らしい姿が現れるかを、私たちに見せてくれます。

この地上にあるすべての教会は、不完全であります。なぜなら教会は、不完全な人間たちの集まりであり、また生活環境も性格も社会的な地位も違う、それぞれの人たちが集まって 作られた共同体であるからです。

 

もちろんエルサレム教会も完璧な教会ではありませんでした。エルサレム教会も不完全な 人たちが集まった不完全な共同体でしたが、聖霊様が働かれ、またイエス様の愛によって 一つになった時、世の人々が恐れるほど、すばらしい能力が現れました。そしてエルサレム教会の姿は、イエス様が願っておられる教会の姿がどうであるか、また私たちは教会としてどんな目標を持って進むべきかに対して見せてくれます。

今日の本文に記録されたエルサレム教会の姿を一言で言えば、御霊の実が結ばれた教会だということができます。すなわち、エルサレム教会が、模範的で、理想的な教会になったのは、聖霊の働きによるのであり、また信者一人一人に御霊の実が結ばれたからだということです。

ガラテヤ 5章 22節と 23節には、御霊の実について書いてあります。

22 しかし、御は、愛、喜び、平安、寛容(かんよう)、親切、善意(ぜんい)誠実(せいじつ)

23 柔和(にゅうわ)自制(じせい)です。このようなものを禁ずる律法はありません。

御霊の実は、[愛、喜び、平安、寛容(かんよう)、親切、善意(ぜんい)誠実(せいじつ)柔和(にゅうわ)自制(じせい)]の九つ実で 現れますが、それを御霊の実、あるいは聖霊の実と言う理由は、聖霊様が私たちの心の中に  結ばせる良い性質の実であるからです。また御霊の実は、イエス様が持っておられる性質、すなわち品性でもあります。というのは私たちが聖霊に満たされると私たちからイエス様の性質が現れて、私たちがイエス様に似ている人になるということを意味します。

今日からは、何回に渡って、エルサレム教会に現れた、御霊の実に対して調べてみようと 思っておりますが、私と皆さんに御霊の実が結ばれ、またのぞみ教会がイエス様が喜ばれる教会になることを祈る心を持って、一緒に御言葉を調べてみたいと思います。

[エルサレム教会に現れた、一番目の聖霊の実は、愛の実でした。]

聖書は、ペテロが伝えた福音のメッセージを聞いて、三千人ほどが弟子に加えられたと証言しています。そして、イエス・キリストの弟子となった彼らは、使徒たちが教えてくれた イエス様の教えを堅く守ったと聖書に書いてあります。

弟子は、先生から教えてもらったことを、受け継いで、従う人を言います。

イエス様も、ヨハネ 13章 34節と 35節で、弟子たちに、こう言われました。

34 あなたがたに 新しい戒めをえましょう。互いに愛し合いなさい。わたしが あなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

35 もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」

イエス様の教えを実践して、イエス様の命令に従う者は、イエス様の弟子として認められるということです。

イエス様が私たちにくださった、最も大きくて大切な戒めは、互いに愛し合いなさいという戒めであります。この御言葉を聞く時、私たちは、親切で心の優しい人とか他の人をよく 助けてやる人になることを浮かべます。しかしイエス様が私たちにくださったこの戒めは、実は私たちとしては不可能なことです。イエス様が言われました。

[わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい]

イエス様は、私たちにできる愛を命令されたのではなく、イエス様が教えてくださった愛を行うことを命じられました。ルカ 6章 32節で、イエス様が、こう言われました。

32 自分を愛する者を愛したからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。罪人たちでさえ、自分を愛する者を愛しています。

イエス様の愛は、ご自分を裏切った者たちとご自分を十字架につけた者たちのために命を 捨てられた愛でした。すなわち、イエス様は、愛を施すべき理由もなく、愛される資格も ない者たちまでも愛された、完全な愛だったということです。そしてイエス様はそのようにご自分が私たちを愛されたように、私たちも互いに愛し合うべきだと言われました。

私たち人間が持っている愛は、イエス様が十字架を通して私たちに表された愛とは、違う 愛です。初めに神様が人を創造された時、神様は人をご自身の形として作られ、神様の命をくださいました。すなわち人間にも、イエス様と同じ性質をくださって、人間もイエス様のように愛することができる存在として作られたということです。

そういうわけで、もともと人間にとって愛は、自然で当たり前なことであり、努力が必要なことでもありませんでした。なぜなら神様の愛が人間にも与えられたからです。その証拠 として創世記を読んでみれば、神様が作られた最初の人、アダムが、神様が作られた最初の女エバに出会った時、アダムは、エバにこう言いました。

[私の骨からの骨、私の肉からの肉]

エバに対する知識も必要ではなく彼女と親しくなる時間も要りませんでした。エバを愛するための条件も理由も必要ではなかったということです。エバを見る瞬間、アダムは、すぐ エバを愛するようになりました。そしてアダムは、エバを自分と違う別の存在として思わず、自分の体のように愛しました。

しかし善悪の知識の木の実を食べて罪人になった以後、人間には大きな変化が現れましたが、その一つは、神様から与えられた愛が壊れて変質されたということです。

まず神様に対する愛に変化が現れました。神様が罪人になったアダムにやってこられた時、アダムが神様に対して感じた感情は、愛ではなく恐れでした。アダムが罪人になった後にもアダムに向かう神様の愛は、少しも変わりませんでしたが、アダムは神様の愛を知ることも信じることもできず、ただ神様が怖くて隠れてしまいました。自分が持っている愛が壊れて変質されると自分に対する神様の愛も信じることができなくなったのです。

次に罪人になった後人間には、人に対する愛においても変化が現れました。初めに出会った瞬間から、エバを自分自身のように愛して、一つの体として思っていたアダムでしたが、 罪人になった後、アダムは、エバを自分と違う別の存在として認識し始めました。そして 神様の御前で、自分の罪に対する責任をエバに()してしまいました。さらにアダムは自分にエバをくださった神様まで恨みました。

始めに神様がアダムにくださった愛は、自然に行われる愛であり、条件も努力も要らない 完全な愛でしたが、罪人になった後、その愛が壊れて、変質されてしまったということです。なぜなら、神様の命令を破って罪を犯す瞬間、人間は神様の命と神様の形を失ってしまったからです。

愛というのは、愛の源であられる神様の命と神様の形から溢れ出るものであります。だから、神様の命と形を失った瞬間、人間は完全な愛までも失ってしまったことであります。それで、その時から人間は、誰かを愛するためには、条件と理由と資格が必要になってしまいました。

人間にとって、最も絶対的で、無条件的な愛は、子どもに対する親の愛であるはずです。 しかし子どもに対する親の愛も、完全な愛ではありません。第二列王記を読んでみれば、 イスラエルがアラムの軍隊に包囲(ほうい)された時、()えを(しの)ぐことができなかったイスラエルの 民が、自分の子どもを煮て食べたという記録があります。そしてこんな現象は、何年前に 北朝鮮に大飢饉があった時にも同じく起こりました。

また自分の娘に、してはならないことをした父に対するニュースは、こんにち珍しくもないことになってしまいました。結局、子どもに対する親の愛も、完全な愛にではないという ことです。

 

これがまさに人間が持っている愛なんです。人間の愛は、条件的で、計算的であり、また 状況と立場によって変わり続ける、不完全な愛であります。そしてイエス様も私たちの愛が不完全であることと、また私たちには、イエス様のように愛する能力が、全くないという こととをよく知っておられます。それなのになぜイエス様は、イエス様が私たちを愛されたように、私たちも互いに愛し合うことを命じられたのでしょうか。

個人的に、愛がとても足りないと感じている私は、この御言葉を見る時、負担を感じます。人が憎い時は、特別な理由がなくても憎いですね。それだけでなく、人が憎い時には、その人が使う品物までも憎いです。愛することが、イエス様の御心であることを知ってはいるが、それが自分の力では不可能だということを、私たちは経験を通してよく知っています。

それならイエス様の命令の通りに、私たちが他の人を愛するためには、いったい私たちは、どうすれば良いでしょうか。人を愛することができるように祈れば、私たちは憎い人までも愛することができるでしょうか。もちろん、祈りを通して聖霊の助けを求める時、私たちは人を愛することができます。しかし祈りだけでは、人を愛することができません。

それなら、他の人の悪い所は、見ようとせずに、良い所だけを見ようとすれば、私たちは 人を愛することができるでしょうか。いい態度ではありますが、それでもイエス様のように愛することはできません。なぜなら条件による愛は、結局まことの愛になれないし、また いつでも条件によって変わってしまう可能性があるからです。それなら、私たちは、どう すれば、イエス様のように愛せよという命令を守ることができるでしょうか。

Ⅰヨハネ 4章 12節で、使徒ヨハネは、こう言いました。

12 いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、 神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。

この御言葉を読んでみれば、順番がどうなっていますか。神様の愛が私たちのうちに全う されたら、その時から愛しなさいと言いませんでした。

むしろ聖書は、もし私たちが、イエス様の命令に従って、互いに愛し合うなら、その時から神様の愛が私たちのうちに全うされると言います。すなわち、自分ではできなくても、一応イエス様の命令だから、その命令の通りに従おうとする人には、聖霊様がイエス様の命令を守ることができるように、恵みと愛を注いでくださるということです。そして、聖霊様が 私たちに注いでくださる完全な愛によって、私たちはイエス様のように愛することができるようになるということです。

いつかも申し上げたことがありますが、私が大好きな映画の中で、エバン・オールマイティという映画があります。この前に紹介した、ブルース・オールマイティの続編(ぞくへん)映画ですが、その映画で主人公の妻が、神様に自分の家族の親密な(きずな)のために祈ります。するとある日、神様が人の姿を取って、彼女に現れてこう言います。

[もし、ある人が、家族の(きずな)のために神様に祈れば、神様は、あったかい(ぬく)もりをくれるでしょうか? それとも愛し合うチャンスをくれるでしょうか?]

すなわち、私たちが人を愛することができるように祈っても、突然人を愛するようになる 奇跡は起こらないということです。むしろ私たちが、愛のために祈れば、神様は、私たちに愛をくださるのではなく、愛を実践するチャンスをくださるということです。そして、そのチャンスを通して、私たちがイエス様の命令の通りに愛を施せば、聖霊様が私たちの内に、イエス様の愛を注いでくださるということです。

エルサレム教会の弟子たちは、互いに愛し合いなさいと言われた、イエス様の命令に従って、そのようにして人々からイエス様の弟子として認められました。エルサレム教会に集まった三千名の人たちは、初めから親しい関係でもなく、いろんな面でよく合う人でもありませんでした。出身も違って、社会的な地位も違いました。また教育水準も生きて来た生活環境も違う人たちが、三千名も集まりましたが、彼らは、聖霊様の恵みの中で、一つの体になって、互いに愛し合うことができ、結局イエス様の弟子として認められました。

どうやってそれができたんでしょうか。それは、彼らがイエス様の命令の通りにすることを決心したからです。自分にできるかできないかを考えず、イエス様の命令に従って、互いに愛し合うために努力した彼らに、聖霊様がイエス様のまことの愛を注いでくださり、また 御霊の実を結ばせたということです。

このようにイエス様が命じられた愛は、ただ聖霊様の恵みによってだけできるものなんです。なぜなら、愛は、御霊の実であるからです。しかし御霊の実である愛が、私たちに結ばれるためには、まずイエス様の御言葉に従おうとする、私たちの信仰が必要だということです。

すべての信仰生活がこれと同じです。イエス様が私たちに願っておられるのは、できるか、できないかという事実ではありません。イエス様は、イエス様の御言葉の通りに従うことを命じられましたが、私たちに、必ず成功しなければならないとか、失敗してはいけないとは言われませんでした。

時には、御言葉の通りに従っても、良い結果を得ることができない時があります。時には、御言葉に従いながら、長い間頑張ったのに、どうしても状況が良くならなくて、あきらめるようになる時もあります。しかし、イエス様は、私たちの失敗と結果に対して責めたり、 怒られたりする方ではありません。

過ぎた時間にも申し上げましたが、私たちには、初めから主の御言葉の通りに生きていける力が全くありません。それを知っておられるイエス様が、私たちに願っておられるのは、 ただ私たちが従うことであります。主の御言葉の通りに従うことまでが、私たちにできる ことだということです。私たちが主の御言葉に従えば、すべての結果は、イエス様が責任を負ってくださいます。すなわち、私たちには力がないですが、主の御言葉に従おうとすれば、御言葉の通りに生きさせることも、また主の約束を成し遂げられることも、主が行われるということです。

イエス様は、私たちにも、互いに愛し合うこと、そして主の御言葉に従うことを、命じられました。それなら今私たちにできることは何ですか。私たちにできることは、ただ従うことだけなんです。私たちが主の御言葉に従えば、すべての責任は、イエス様が負ってくださり、すべてのことを聖霊様が成し遂げてくださいます。

のぞみ教会が、主の御言葉に従う教会になることを祈ります。それで、美しい御霊の実が のぞみ家族一人一人の内に結ばれることを、主の御名によって祝福いたします。

エルサレム教会が、イエス様の命令に従って、互いに愛し合うことができた、もう一つの 理由があります。それはペテロが宣べ伝えた福音を通して、罪人であった自分たちの存在を悟って、悔い改めたからです。

イエス様が教えてくださった主の祈りで、イエス様は私たちに、こう祈ることを教えてくださいました。

[我らに罪を犯す者を、我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したたまえ]

このように祈ることを教えてくださった、イエス様の御心は何でしょうか。それは、誰かを憎む前に、私たちも死ぬしかない罪人だったという事実、そして、私たちにもイエス様の 赦しの恵みが必要だという事実を、忘れずに覚えなさいということです。なぜなら私たちが死ぬしかない罪人だったという事実、そして、イエス・キリストの恵みによって救われたという事実を覚える時、私たちは、他の人をイエス様の愛によって 愛することができるからです。

罪を赦された恵みと感激で満たされたら、自分が死と裁きから救われた、その恵みと感激があまりにも大きいから、他の人の欠点とか短所などが見えません。

むしろ人に対する憐れみが溢れます、なぜなら、彼らも自分のように死ぬしかない罪人で あったこと、また彼らも自分のようにサタンに騙されて罪の中で生きるしかなかったことを知っているからです。そして、イエス様が自分を愛しておられることのように、イエス様はあの人も愛しておられるという、その事実のゆえに、結局他の人を赦し、また愛するようになるのです。

エルサレム教会の信者たちは、みな福音を聞いて、死ぬしかない自分たちの罪を悟りました。そして彼らは、イエス・キリストを信じて救われ、罪を赦された喜びに満たされていました。三千名の人が、罪と救いに対する、同じ経験と同じ証を持っていたので、彼らは、互いに 赦し合い、また愛し合うことができました。

Ⅰヨハネ 4章 10節と 11節には、こう書いてあります。

10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの 供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた 互いに愛し合うべきです。

愛は、神様から始まりました。私たちがまだ罪人であった時、神様が私たちの罪のために 一人子イエス様を遣わされて、私たちに対する神様の愛が成し遂げられました。真の愛は、ここから始まるのです。自分の罪に対する絶望を悟って、イエス・キリストの恵みによって救われた体験と証がある人だけが、イエス様の愛によって、他の人を愛することができるということです。そういうわけで、私たちは自分の過去を忘れてはいけません。罪責感を持つべきだ言う話ではなく、自分に与えられた赦しと救いが、どれほど大きくて素晴らしい恵みであるかを忘れてはいけないということです。そしてその愛によって救われた私たちは、 またその愛を持って、互いに愛し合うべき使命があるということです。

エルサレム教会は、このように罪に対する絶望と救われた恵みに対する喜びが満ち溢れる 教会だったので、三千名の人たちが、一つになって、互いに愛し合うことができたのです。

説教をまとめます。

エルサレム教会は、聖霊に満たされている教会でした。聖霊に満たされた信者たちが一つの体になって互いに仕える時、素晴らしい奇跡が現れ、また美しい御霊の実が結ばれました。

エルサレム教会には、聖霊が結ばせた、愛の実が現れました。彼らは、同じところよりは、違うところが、もっと多い人たちでしたが、イエス様が互いに愛することを命じられたので、互いに愛し合うことにしました。そしてイエス様の命令に従って、互いに愛し合おうとした彼らに、聖霊様が、神様の内にあるまことの愛を、エルサレム教会に注いでくださいました。

イエス様の愛によって救われた人だけが、イエス様のように愛することができます。

エルサレム教会が、互いに愛し合うことができた、もう一つの理由は、彼らに罪を赦されて、救われた証があったからです。

それと同じく、のぞみ教会の中で、一つになった私たちは、みな死と裁きを避けられない 罪人でしたが、今は、イエス様の恵みによって救われたという共通点があります。

私たちは、誰かを罪に定めて、憎む前に、もともと自分も死ぬしかない罪人だったという 事実、そして今もイエス様の赦しの恵みが必要だという事実を覚えるべきであります。

また、イエス様が私たちを愛しておられるように、イエス様は他の人をも愛しておられ、 彼らのために喜んで命を捨てられたという事実を、私たちは忘れてはいけません。

のぞみ家族みなが、心を一つにして、互いに愛し合いなさいと言われた、主の命令に励む ことを心から祈ります。それでのぞみ教会に愛の実が結ばれて、毎日イエス様に似ていく 一人一人になることを、イエス・キリストの御名によって祝福いたします。

2021/05/30 主日メッセージ   nozomich
≪ <悔い改めて救われなさい>