恵みの雨

<悔い改めて救われなさい>

2021年5月23日 ・ のぞみ教会・主日礼拝 

申告告白

聖歌 505 / 523

祈り 木村喜憲牧師

聖歌 506 / 524

聖書 使徒 3:36-42

説教 <悔い改めて救われなさい>  木村喜憲牧師

聖歌 465 / 478

献金 <献金の祈り>  木村喜憲牧師

聖歌 383 / 376

祝福の祈り  木村喜憲牧師

 

お知らせ。

◆のぞみ教会のOpen Cell Leaderを建て上げることが出来るように祈りましょう。

[6/6 : 機関長祈り会(礼拝後)]

◆新型コロナウィルス感染拡大防止にかかる蔓延防止等重点措置に伴いまして、

5月30日まで非対面礼拝を実施します。 

◆毎週月曜日午後9時、オンライン祈祷会をZOOMで行います。

   [ 入場ID : 751 809 0278  / パスワード : YCv1GX ]

◆健康回復のためにお祈りをお願いします。

礼拝のための代表祈り 【 6/6:安永真一兄 】

献金のための代表祈り 【 6/6:高橋文治兄 】

悔い改めて、救われなさい。

 

本文 : 使徒 2 : 36 – 42

36 ですから、イスラエルのすべての人は、このことを はっきりと知らなければ なりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」

37 はこれを聞いて心を()され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちは どうしたらよいでしょうか」と言った。

38 そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そしてそれぞれ罪を赦していただくために、イエスキリストの名によって バプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖を受けるでしょう。

39 なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人えられているからです。」

40 ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って彼らに(すす)めた。

41 そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが 弟子に加えられた。

42 そして、彼らは使徒たちのえを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。

聖書は、イエス・キリストを信じる者は、誰も救われると言われます。罪のゆえに滅びる しかない私たちに人間のために、神様が備えてくださった救いの道は、イエス・キリストを信じることです。イエス様を信じると誰でも救われるから、私たちは、この恵みの御言葉を福音と言います。なぜなら、人間にとってこれより大きな祝福のメッセージはないからです。

ところが、神様がこのように条件のない愛を施してくださり、私たちを救いの恵みに招いてくださいましたが、人々はその福音を受け入れようとしません。人々は[本当にそれだけ? 本当にイエス・キリストを信じることだけで救われるのか?]と言いながら、むしろ福音を無視して、受け入れようとしません。なぜなら、救われるための条件が、あまりにも単純で、簡単だからです。

この世に存在するほとんどの宗教は、それなりに救いの道を提示(ていじ)しています。多くの善行(ぜんこう)を行ったり、修養(しゅうよう)苦行(くぎょう)を通して修練(しゅうれん)をしたり、定まっている宗教的な義務を達成(たっせい)すれば、救われると教えます。すなわちこの世にあるほとんどの宗教は、救いが人間の熱心と努力にかかっているんだと教えているということです。しかし神様が私たちにくださった救いは、私たちの熱心と努力によって得られるものではありません。

エペソ 2章 8節と 9節で、パウロは言いました。

8 あなたがたは、みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から 出たことではなく、神からの賜物です。

9 行いによるのではありません。だれも(ほこ)ることのないためです。

神様が私たちに授けてくださった救いの恵みは、ただイエス・キリストを信じる者たちに 与えられる神様の賜物だということです。だから、イエス・キリストを信じる者は、みな 救われますが、誰も自分の熱心と努力によって救われたと誇ることはできないのです。

ところで人々は、キリスト教の救いを、安いもの扱いをする時があります。なぜなら、何の努力も善い行いもなく、ただ信仰によって救われるからです。言い換えれば、代価を払わずただで救われる救いだからキリスト教の救いを安いもの扱いをするということです。そして救われるために自分の方で努力したことが全くないから、イエス様を信じた後にも、自分が本当に救われたのか、そして救いとは何なのかについて、理解できない場合が多いです。

神様が私たちにくださった福音と救いは、私たちには、ただで与えられますが、絶対に安いものでもなく、代価を払わなかったものでもありません。むしろ神様が私たちにくださった、この救いは、この世の何によっても返すことのできない最も高い救いであります。なぜなら、私たちを救うために、神様の一人子が、ご自分の命で私たちの罪の代価を払われたからです。

また、人々は、キリスト教の救いは、あいまいなものだと思います。人々は、なぜイエス・キリストを信じるだけで人が救われるのか、その理由が理解できません。それは、イエス・キリストを信じるというのが、どういう意味なのかが、よく分からないからです。

イエス様を信じるという言葉の意味を理解できなければ、私たちは、イエス・キリストを 信じながらも、救いの価値も知ることができず、なぜ自分が救われなければならないのか、その理由も悟ることができません。またイエス様を信じるという意味を知らなければ、人は、自分が救われたことについて、続けて疑うしかありません。

それでイエス様を信じるということが、どういう意味なのかを理解できなければ、適当に 信仰生活をしながら、昔の生活を離れず、続けて罪を犯すしかありません。また別に願ったこともなく、必要だとも思わなかった救いを、ただで受けたと思うから、救われたことに 対する喜びもなく、信仰生活に生命力(せいめいりょく)も現れません。

それでこれからは本文の御言葉を通して、イエス様を信じるというのが何であり、救いとは何なのかについて、一緒に聖書を調べてみたいと思います。

新約聖書に出る言葉の中で、ギリシャ語でケリュグマという言葉があります。ケリュグマは神様より受けた 福音のメッセージを意味する言葉でもあり、またその福音のメッセージを宣べ伝える行為を意味する言葉でもあります。聖書には、いろんな人たちのケリュグマが 記録されていますが、それぞれの人たちによって宣べ伝えられましたが、彼らが宣べ伝えたケリュグマは、すべて同じ内容でした。それは[悔い改めてイエスを信じなさい、あるいは悔い改めて洗礼を受けなさい。]という内容のメッセージでした。

今日の本文でペテロも聖霊を受けた後、そこに集まったユダヤ人たちに福音のメッセージを宣べ伝えました。ペテロが宣べ伝えた福音のメッセージとそれを受け入れた人たちに現れた反応は、イエス様を信じるというのは、どういう意味であり、また救いは、どのように  行われるかを、私たちにみせてくれます。

まず、イエス様を信じるというのは、

[一番目に、御言葉を通して、自分の罪を悟ることから始まります。]

本文 36節と 37節です。

36 ですから、イスラエルのすべての人は、このことを はっきりと知らなければ なりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」

37 はこれを聞いて心を()され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちは どうしたらよいでしょうか」と言った。

ペテロが、ユダヤ人たちの前に立って、十字架につけられたイエス様がまさに、まことの キリストであったことを表しました。ペテロの話を聞いて、イエス様を殺せと叫んだ人たち、そしてイエス様は死んでしかるべき罪人だと思っていた人たちは、心を通され、[私たちはどうしたらよいでしょうか] と言いながら苦しみました。

ユダヤ人たちは、自分たちのせいで、キリストであるイエス様が、十字架につけられたと いう事実のゆえに、心に耐えられない辛さを感じました。なぜなら救い主であるキリストを自分の手で殺したということは、裁きを避けることができないという意味だったからです。彼らは、(わら)にもすがる思いで、弟子たちに尋ねました。

[私たちはどうしたらよいでしょうか]

ユダヤ人たちは、裁かれるしかない自分たちの罪を悟ってこそ、神様の赦しと救いの恵みを慕い求めるようになったのです。

イエス様が、マタイ 9章 12節で、言われました。

12 イエスはこれを聞いて言われた。「者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。

病気にかかった人だけが、医者を必要とするように、自分が裁かれるしかない罪人である ことを悟った人だけが、救い主、イエス・キリストを必要とし、その恵みを求めることが できるということです。

だからイエス様を信じるというのは、自分が罪人であることを悟ることから始まるという ことです。というのは、自分が罪人であることを悟れない人は、イエス様を信じることが できないという意味でもあります。

本文 38節です。

38 そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そしてそれぞれ罪を赦していただくために、イエスキリストの名によって バプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖を受けるでしょう。

イエス様を信じるというのは、

[二番目に、悔い改めのバプテスマを通して行われます。]

自分の罪と裁きの運命を悟って、辛がっているユダヤ人たちに、ペテロが言いました。

[悔い改めなさい。そしてそれぞれ罪を赦していただくために、イエスキリストの名に よってバプテスマを受けなさい]

悔い改めというのは、ただ単に、私たちが犯した罪に対して、反省することを言うのでは ありません。悔い改めにおいて、それよりもっと根本的で重要なことは、自分が罪人であることを認めることにあります。

すでに何回か比喩を通して申し上げましたが、リンゴの木にリンゴが結ばれるのは、実りの問題ではなく木の問題です。すなわちリンゴの木だから、リンゴが結ばれるのだということです。それと同じく、人間は、罪を犯したので罪人になるのではなく、本質的に罪人だから、罪という実を結ぶようになるのです。だから人間は罪人という存在の問題を解決しない限り、罪から逃れることができません。リンゴの木を切り倒さなければリンゴが結び続けるように、罪人の私たちが死ななければ、私たちは罪を犯し続けるしかないということです。

そういうわけで、私たちの罪の問題を解決して、救いを得るためには、必ず悔い改めが必要です。なぜなら悔い改めというのは罪人の自分に対して死刑宣告をくだすことです。一言で言えば、自分が死んで然るべき罪人だという事実を悟って、認めることがまさに悔い改めだということです。

ところが、悔い改めは、自分の意志でできることではありません。まことの悔い改めは、 神様の御言葉を通して、自分がどれほど邪悪で、汚れている存在なのかを悟る時できます。本文のユダヤ人たちもペテロが伝えた御言葉を聞いて、自分たちの罪を悟りました。そして自分たちが神様の裁きを避けることのできない罪人であることを悟りました。

そんな彼らにペテロが言いました。

[悔い改めなさい。そしてそれぞれ罪を赦していただくために、イエスキリストの名に よってバプテスマを受けなさい]

悔い改めが自分に対して死刑宣告を下すことであれば、バプテスマ、すなわち洗礼は、葬式だということができます。

コロサイ 2章 12節です。

12 あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた 神の力を信じる信仰によって、キリストとともに よみがえらされたのです。

今の洗礼儀式は、牧師が手を()らして、人の頭に押し付ける形で行われますが、もともと 洗礼は、川で行いました。まず、洗礼を授ける人が、洗礼を受ける人の頭に手を置いて按手(あんしゅ)します。そして洗礼を受ける人の全身を水に浸します。

これは罪人であった私たちの古い人の死を宣言することです。

 

そして彼が再び、水から出る時、彼はイエス・キリストにあって、新しい人として生まれ 変わることです。これがまさに洗礼、すなわちバプテスマという儀式の意味であります。

どうやって水の中に入って、出ることだけで、人が生まれ変わることができるのでしょうか。それは、イエス様が行われた救いの御業とそれを信じる私たちの信仰によってできるのです。イエス様は、十字架につけられる時、罪人であった私たちの古い人もともに十字架につけてくださいました。そしてイエス様は、復活されて、イエス様の復活の命を私たちにくださいました。

そして私たちが信仰で洗礼を受ける時、信仰によって私たちの古い人はイエス様の十字架に死んで、また信仰によって私たちは、イエス様の復活の命で生まれ変わるようになるのです。これがまさに洗礼の意味であります。そういうわけで、私たちは、罪人であった私たちの 古い人の葬式である洗礼を通して、罪から逃れるようになり、また神の御子の命によって 生まれ変わったので、神様の子どもとなる素晴らしい特権を得るようになるのです。そしてその時から、生まれ変わった私たちの内に神様の霊である聖霊様が来られ、私たちとともにおられるようになるのです。これを救いと言います。

ところで、ペテロは、ユダヤ人たちに、こう言いました。

38 そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そしてそれぞれ罪を赦していただくために、イエスキリストの名によって バプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖を受けるでしょう。

[それぞれ罪を赦していただくために、イエスキリストの名によって バプテスマを受けなさい]

ペテロは、自分の罪を悟ったユダヤ人たちに、悔い改めて、洗礼を受けることを言いながら[それぞれ] という言葉を強調しました。それが何を意味するでしょうか。信仰生活は、 教会という信仰の共同体を通して行われますが、悔い改めて救われることは、あくまでも イエス様と自分自身の間に行われる、個人的な体験だということです。

大きくて、熱情的な教会に通っていることが、私たちの信仰の水準を証明してくれません。有名な牧師先生の素晴らしい説教を聞いたからといって、その牧師の信仰が自分の信仰に なるのでもありません。また信者の家庭で生まれた子どもだからと言って、自然に信じる者として育つことでもないということです。

 

信じる者には、それぞれ死ぬしかない自分の罪を悟り、それぞれ悔い改め、それぞれ洗礼を受けて救われる信仰の体験が必要だということです。なぜなら救いは、イエス・キリストに対するそれぞれの信仰によって受けることだからです。

本文 40節です。

40 ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って彼らに(すす)めた。

悔い改めと洗礼に対して、ユダヤ人たちに勧めた後、続けてペテロは、こう言いました。

[この曲がった時代から救われなさい。]

私たちに必要な救いは、裁きと刑罰からの救いだけではないということです。

イエス・キリストの御名によって罪と裁きから救われた私たちは、この曲がった時代からも救われなければなりません。

ローマ 6章 4節で(新共同訳)、パウロは、こう言いました。

4 わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって 死者の中から復活させられたように、わたしたちも 新しい命に生きるためなのです。

洗礼とは罪人であった私たちの古い人の葬式だと申し上げました。ところで葬式が何ですか。葬式は、一人の人間としての人生が完全に終わったという事実を公式的に宣言する儀式です。だから洗礼というのは、イエス様を信じる前に罪人だった私たちの人生、木村喜憲あるいは、自分の名前で生きて来た、私たちの人生が終わったという事実を、公式的に宣言する儀式がまさに洗礼だということです。だから洗礼を受けた瞬間から、もはや木村喜憲という存在は存在しなく、ただ私たちの内におられる、イエス様が私たちの内に生きておられるのです。

それで、パウロは、ガラテヤ 2章 20節で、こう告白しました。

20 私はキリストとともに 十字架につけられました。もはや 私が生きているのではなく、キリストが 私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し 私のために ご自身をお捨てになった 神の御子を信じる 信仰によって いるのです。

 

 

この御言葉はパウロの信仰が深くてこう告白したのではありません。洗礼を受けたすべての信者の人生がこうなるべきだということを語っている御言葉であります。私たちが洗礼を 受けたのは、自分の人生の主人としての権利を、イエス様にささげたことです。

アメリカの映画を見れば、もう死んだのに死なない存在をアンデッド、あるいはゾンビと 言います。ところで教会の中にも多くのゾンビがいます。多くの人たちが洗礼を受けた後も相変わらず、自分のための人生をあきらめようとしないということです。

しかし聖書は私たちが洗礼によってキリストとともに葬られたと宣言します。もはや自分のために生きて来た私たちは死んで、自分の名によって生きて来た人生は、公式的に終わったということです。人生の目的も、人生の目標も、また生き方も、すべてがイエス・キリスト中心に変わるべきだということです。それがまさにイエス・キリストを信じるという言葉の意味であります。ペテロは言いました。

[この曲がった時代から救われなさい。]

私たちは今まで、この曲がった時代の中で、この曲がった時代の人々と同じ道を 歩いて 来ました。しかしペテロは、救われた私たちに、この時代の人々の思いと価値観から、また彼らが生きていく姿から離れて、この曲がった時代から救われなさいと言います。なぜならこの曲がった時代の人たちが歩んでいる、その道の終わりには、裁きと滅亡が待っている からです。

ローマ 14章 8節と 9節です。

8 もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。

9 キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、 死んで、また生きられたのです。

イエス様が十字架で死んで、復活された理由は、私たちの主となるためだということです。そして主のものになった私たちは、生きるのも、主のために生き、死ぬのも、主のために 死ぬ存在だということです。

私たちは、何の努力もせず、神様の賜物として救われました。しかし救いを味わうことも ただではありません。イエス様がご自分の全部を与えて私たちをくださったので、私たちも私たちの全部を捧げて、イエス様を主人として仕えるべきであります。

これがまさにイエス様を信じるという意味なんです。

最後に今日の本文42節にはそのようにイエス様を信じて救われた者の変わった生活に対して書いてあります。

42 そして、彼らは使徒たちのえを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。

その日ペテロが宣べ伝えた福音のメッセージを聞いて、3千名のユダヤ人たちが悔い改めて、洗礼を受け、救われました。聖書は、イエス様を信じて救われた彼らが、使徒たちの教えを堅く守ったと証言します。

[交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。]

交わりをするというのは、ともに共有して、分かち合うという意味を持っている言葉です。イエス様を信じて救われた者たちは、キリストにあって一つの体になった存在です。だから喜びも悲しみもまた栄光も苦難もともに共有して、分かち合う存在になるべきであります。イエス・キリストが十字架を通してこの地に教会を建てられた理由は、イエス・キリストを信じる者たちが一つの体になって、互いに顧みながら、助け合い、支え合わせるためであります。だから教会の中で信者たちが交わることは、イエス様が命じられ、使徒たちが教えてくれた、信者としての義務だということです。

次に、パンを裂くというのは、礼拝を意味します。今は特別な時に聖餐式を行いますが、 当時のすべての礼拝は、聖餐式を中心にして行われました。信じる者たちが一緒に集まってパンを食べて、ぶどう酒を飲みながら、イエス様の救いの恵みを記念することが礼拝だったということです。そしてイエス・キリストの肉を食べ、イエス・キリストの血を飲む、この聖餐式を通して、すべての信じる者が、キリストにあって一つになったという事実を覚えることが礼拝でした。

礼拝に励むことは、信者としての当然な義務であります。礼拝しない信者は、信者という ことができません。今私たちは、それぞれの所で、オンラインで礼拝を捧げています。誰もオンライン礼拝は、教会に集まって礼拝することより、もっと自由で、楽な心で礼拝する ことができるはずです。ところが私たちが覚えるべきことは今それぞれの所で礼拝を捧げている、私たちの心と態度が、現在私たちの信仰の水準と状態を表しているという事実です。オンラインで礼拝するほど、私たちはもっと心を尽くし、力を尽くし、精神を尽くして、 私たちの礼拝が神様に受け入れられるように励まなければなりません。なぜなら礼拝は、 イエス様を信じる者として、私たちの守るべき使命であるからです。

 

最後に救われたユダヤ人たちは、祈ることに熱心でありました。彼らが祈りに励んだ理由は信仰によって生きるためでした。祈りを通して聖霊様の恵みと助けを受けなければイエス・キリストの弟子として生きることができなく、またこの曲がった時代から逃れることができないからです。私たちがイエス様を信じる者として生きることも、またこの曲がった時代で罪を犯さず、主の御心の通りに生きることも、ただ祈りにかかっています。祈りによって 聖霊様の助けを求め、聖霊様の導きを受ける時、可能になるということです。

このようにペテロが宣べ伝えた福音のメッセージを聞いて救われた3千名のユダヤ人たちは、使徒たちの教えを守って、交わりと礼拝と祈りに励みながら、イエス様を信じる者として 生き始めたということです。イエス様を信じるということ、そしてイエス様を信じる者の 生活とは、こういうものだということです。

説教をまとめます。

イエス様を信じるというのは教会に通っているという意味ではありません。またイエス様の存在を認めるという意味でもありません。イエス様を信じるというのは、罪人であった、 私たちの古い人が、イエス様とともに死んだことを信じること、そしてイエス様の復活の 命によって生まれ変わったことを信じることを意味します。そしてイエス様を主人として 仕え、その命令に従って生きることをイエス様を信じることだと言います。

神様がイエス・キリストを通してくださった救いは、決してあいまいなものではありません。この世の何よりも明確な真実であります。

私たちはイエス・キリストを信じて救われました。そしてイエス・キリストの御名によって洗礼を受けました。それならもはや私たちには救われた者のように、またイエス様を信じる者らしく生きるべき責任と使命があります。

このためにイエス様が私たちをのぞみ教会に呼び寄せてくださいました。のぞみ教会の中で、我らはイエス様の愛で交わり、イエス様の命で礼拝し、イエス様の御名によって祈りながら、私たちに与えられた、信じる者としての使命を果たすべきであります。

私たちが祈りを通して聖霊様の助けを求め、そのみこころに従えば、聖霊様が私たちを助け、恵みを授けてくださるはずです。この一週間も、私たちに与えられたすべての時間を信じる者として生きていく、私と皆さんになることを、主の御名によって祝福いたします。

2021/05/22 主日メッセージ   nozomich
≪ 主の名を呼ぶ者は     心を一つにして ≫