恵みの雨

みなが聖霊に満たされ

2021年5月9日 ・ のぞみ教会・主日礼拝 

申告告白

聖歌 431 / 433

祈り 木村喜憲牧師

聖歌 540 / 562

聖書 使徒 2:1-4

説教 <みなが聖霊に満たされ>  木村喜憲牧師

聖歌 573 / 607

献金 <献金の祈り>  木村喜憲牧師

聖歌 383 / 376

祝福の祈り  木村喜憲牧師

 

お知らせ。

◆のぞみ教会のOpen Cell Leaderを建て上げることが出来るように祈りましょう。

[6/6 : 機関長祈り会(礼拝後)]

◆新型コロナウィルス感染拡大防止にかかる蔓延防止等重点措置に伴いまして、

5月30日まで非対面礼拝を実施します。 

◆毎週月曜日午後9時、オンライン祈祷会をZOOMで行います。

   [ 入場ID : 751 809 0278  / パスワード : YCv1GX ]

◆健康回復のためにお祈りをお願いします。

礼拝のための代表祈り 【 6/6:安永真一兄 】

献金のための代表祈り 【 6/6:高橋文治兄 】

みなが聖霊に満たされ

本文 : 使徒 2 : 1 - 4

1 五旬節(ごじゅんせつ)の日になって、みなが一つ所に集まっていた。

2 すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような(ひび)きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。

3 また、(ほのお)のような分かれた(した)が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。

4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで 話しだした。

イエス様は、弟子たちに、エルサレムを離れないで、父の約束された聖霊を待つことを、 命じられました。そしてその命令に従った人は120名でした。120名の弟子たちはイエス様が上られたオリーブ山から下りて来て、マルコの屋上の間に集まりました。そして、そこで 彼らは、イエス様の命令を覚えながら、十日間祈りに専念しました。

そのように、120名の弟子たちが、祈りに専念する間、五旬節の日になりました。

本文 2節と 3節です。

2 すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような(ひび)きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。

3 また、(ほのお)のような分かれた(した)が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。

120名の弟子たちが、祈りに専念して、十日目になった日、突然、天から激しい風が吹いて来るような響きが起こり、また炎のような分かれた舌が現れて一人一人の上に留まりました。そしてその瞬間、聖霊を待ちながら祈っていた120名みなが、聖霊に満たされる素晴らしい奇跡が起こりました。そしてその時から、弟子たちは、死さえも恐れず、イエス様の命令に従う、イエス様の証人となり、また聖霊様の素晴らしい御業が、弟子たちを通して起こる ようになります。

聖書を読んでみれば、信じる者に現れる、聖霊の働きを表す言葉の中で、代表的に二つが ありますが、一つは聖霊のバプテスマであり、もう一つは聖霊充満という言葉であります。まず聖霊のバプテスマとは、聖霊様が私たちに臨在されて、私たちとともにおられるようになる事件を言います。

使徒 2章 38節と 39節です。

38 そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そしてそれぞれ罪を赦していただくために、イエスキリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物 として聖を受けるでしょう。

39 なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人えられているからです。」

聖霊のバプテスマは、私たちが罪を悔い改めて、イエス様を受け入れる時、神様が私たちにくださる賜物であります。特別な資格が必要でもなく、努力や熱心によって受けられるものでもありません。聖霊のバプテスマは、ただイエス様を救い主として信じる信仰によって 与えられる神様の賜物であります。また聖霊のバプテスマは、特別な体験とか感じを通して証明されるものでもありません。特別な現象がなく、私たちに感じられる変化がないとして、私たちがイエス様を 救い主として受け入れると、その瞬間、聖霊様は、私たちに臨まれ、いつも私たちとともにおられます。これがまさに聖霊のバプテスマであります。

聖霊のバプテスマは、私たちがイエス様を受け入れる時起こる一回的な事件であり、絶対に変わらない事件であります。最近韓国では、リマインドウェディングということが流行(はや)っていますが、夫婦が結婚式をした時の心を思い出して、その時の愛を回復せよという意味で、再び結婚式をすることです。もちろん心は理解できますが、大きな意味はない儀式なんです。一度結婚式をしたら、愛が冷めたり関係がよくないからといって、再び結婚式をする必要はありません。なぜなら結婚式を通して夫婦になったら、いかなる場合でも夫婦という事実に変わりはないからです。聖霊のバプテスマも、これと同じです。私たちに来られた聖霊様は、絶対に私たちを離れず、いつも私たちとともにおられます。だから聖霊のバプテスマは再び受ける必要がないのです。

次に、聖霊充満というのは、現象ではなく、状態を意味する言葉です。過ぎた時間にすでに申し上げた通り、聖霊充満とは、私たちが聖霊様に支配され、治められる状態を意味します。聖霊によってバプテスマを受ける瞬間より、私たちのうちには、聖霊様がともにおられます。しかし聖霊様は、人格的な方なので、私たちに対して、強制的に働かず、私たちが聖霊様を主人として仕えて、従う時まで、ただ待っておられると申し上げました。だから聖霊様に 満たされるためには、私たちの信仰と努力が必要です。

エペソ 5章 18節で、パウロは、こう言いました。

18 また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩(ほうとう)があるからです。御霊に満たされなさい。

聖霊のバプテスマは、一回的な事件であり、絶対に変わらない事件ですが、聖霊充満は、 そうではありません。聖霊充満は、続けて維持するために、励んで努力してこそ可能であることです。すなわち聖霊様が、私たちの主人となって私たちを治めてくださるためには、 続けて聖霊様のみこころに耳を傾けて、従う努力が必要だということです。

ガラテヤ 5章 16節と 17節で、パウロが言いました。

16 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させる ようなことはありません。

17 なぜなら、肉の願うことは御霊に(さか)らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは  互いに対立(たいりつ)していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることが できないのです。

私たちの肉と心が願うものは、いつも聖霊様が願っておられることとは、反対側にあります。だから聖霊に満たされるためには、私たちの心の願いと肉の欲をあきらめて、聖霊の御心に服従しようとする信仰が必要だということです。

また申し上げますが、聖霊充満は、現象ではなく、状態をいう言葉です。すなわち激しい 風の音が聞こえたり、炎みたいなものが現れたりする、表に現れる現象が、聖霊充満の証拠ではないということです。言い換えれば、特別な現象がなくても、聖霊に満たされることができるということです。

それなら本当に聖霊に満たされると、私たちには、どんなことが現れるでしょうか。それは使徒の働きで、聖霊を受けた後、弟子たちに現れた変化を見れば分かります。

まず、聖霊充満は、罪を悔い改めることから始まります。聖霊様は、私たちを治められる 前に、まず私たちの内にある、すべての罪と悪い考えたちを悟らせてくださり、またそれに対して、深く悔い改めさせます。聖霊様が私たちを悔い改めさせる理由は、神様との関係に問題を起こす罪を解決し、その罪を赦してくださるためです。それで深い悔い改めの末には、必ず、赦された喜びと平安が与えられます。

ところで、その喜びと平安が、どれほど大きくて、素晴らしいものなのか、心の中に感謝が溢れ、完全な満足が感じられます。聖霊に満たされると状況と現実は、もはや重要なもの ではありません。状況は少しも変ったことがないとしても、自分が主の内にあり、また主が自分の内におられ、自分を守り導いてくださるという、その事実だけで完全な満足を味わうことができます。

聖霊様が私たちにくださる喜びと平安と満足は、この世にあるものによっては、絶対に経験できない、天国の完全な喜びと平安と満足であります。だから聖霊に満たされている人は、この地で住みながらも、天国を味わうことができるのです。

聖霊に満たされたら現れる、もう一つの変化は、罪に対する恥と拒否感を持つようになるということです。今まで、楽しんで来た、この世の快楽が恥ずかしくなり、平気で犯して来た過ちたちに対して拒否感と恐れを持つようになるということです。それで聖霊に満たされた人は、罪を犯さないだけでなく、言葉と態度にも大きな変化が現れます。

また聖霊に満たされたら、万物に対する愛が満ち溢れます。

そんなに憎んでいた人が、かわいそうに感じられます。なぜならその人に対する自分の感情よりも、その人に向かう神様の愛が、もっと大きく感じられるからです。そのように、その人に対する神様の憐れみと愛が、私たちの心を満たすようになると、その人に対する呪いが祝福に変わり、その人の魂のために、祈らざるを得ないようになります。

また聖霊に満たされたら、神様の命令に従うことが、当然なことになります。

私たちは、神様の御言葉を読みながら、その御言葉が正しいことは分かっても、御言葉の 通りに守って生きることは、難しすぎると感じます。なぜなら人間には、神様の命令に従い、神様の御言葉の通りに生きられる能力がないからです。しかし聖霊に満たされると驚くべき変化が現れますが、それは神様の命令の通りに生きることが、当たり前に感じられるということです。今までは、神様の御言葉の通りに生きることが無理だと思ったのに、聖霊に  満たされると、その無理なことができるということです。

どうやって、こんな変化が可能でしょうか。その理由は聖霊様が私たちの心と思いと意志と決定の主人となって、私たちを神様の御心の通りに導いてくださるからです。言い換えれば、私たちの意志と努力で、主の命令を守ることではなく、聖霊様が私たちを主の命令の通りに生きさせてくださるから、御言葉の通りに生きることが可能になるんだということです。

最後に、聖霊に満たされたら、大胆に福音を宣べ伝えるようになります。

ヨハネ 20章 19節です。

19 その日、すなわち(しゅう)の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、  ユダヤ人を恐れて()がしめてあったが、イエスがられ、彼らの中に立って言われた「平安があなたがたにあるように。」

イエス様が死なれた後、弟子たちは、ユダヤ人を恐れて戸を閉めて、隠れていました。  それが今日の本文の事件より、50日前の状況でした。

ところで50日後、弟子たちの姿は、どう変わったんでしょうか。五旬節の日、120名の弟子たちに、聖霊様が臨んで、彼らが聖霊に満たされると 素晴らしいことが起こりました。 それぞれの人が、聖霊が話させてくださる通りに、他国の言葉で話しだしました。すると、その姿を見たユダヤ人たちは、120名の弟子たちが甘いぶどう酒に酔っているのだと思って、あざけりました。

すると、その時、ペテロと使徒たちが起き上がって、ユダヤ人たちに、イエス・キリストの死と復活に関する福音を宣べ伝えました。そしてペテロが宣べ伝えた福音を聞いた3千名のユダヤ人たちが、悔い改めて、その場で救われました。ペテロに特別な能力があったり、 素晴らしい聖書知識があったからではありまえん。聖霊様がペテロの中で働かれる瞬間、 一生涯漁師として生きてきたペテロが、人々の前で、大胆に十字架の福音を伝えることが できたのであり、またその御言葉を聞いて3千名が救われる、素晴らしい奇跡が起こったということです。

このように聖霊に満たされると、私たちには、驚くべき変化が現れるということです。罪と悪い考えから離れるようになり、言葉と態度が変わるようになります。また状況と条件に 関係なく、イエス・キリストにあって、平安と満足を味わうようになり、愛することが  できなった人を、愛するようになります。御言葉の通りに守って生きることが当然なことになり、人々に福音を宣べ伝えることができるようになります。このすべてのことを可能に する方が、まさに私たちの内におられる聖霊様であります。だから私たちは、いつも聖霊 充満になるために励まなければならないということです。

120名の弟子たちは、聖霊のバプテスマと聖霊充満が同時に起こったケースであります。 すなわち弟子たちは、聖霊様が臨まれることと同時に聖霊様に満たされたということです。それなら120名の弟子たちは、どうやって聖霊に満たされることができたでしょうっか。 今日の本文には、聖霊充満に対する神様の御心がよく表れています。

本文 1節です。

1 五旬節(ごじゅんせつ)の日になって、みなが一つ所に集まっていた。

 

 

聖書は、五旬節の日になったと言います。ここで「日になった、日が来た」と 翻訳されている言葉は、ギリシャ語で、[いっぱいとなった。あるいは、すべてが完成された。] いう意味を持っています。言い換えれば、「五旬節の日になった」という言葉は、聖霊を 注いでくださるために、神様が約束され、計画された その歴史的な日がついに来たという意味なんです。

それなら神様の約束と計画とは、何でしょうか。預言者ヨエルは、聖霊様が臨まれる、その日について、こう予言しました。

ヨエル 2章 28節と 29節です。

28 その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。

29 その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。

神様は、誰に聖霊を注いでくださると約束されましたか。

[わたしは、わたしの霊をすべての人に、またあなたがたの息子と娘に、年寄りと若い男に、そしてしもべと はしために注ぐ。]

神様は天地創造の前に、すべての人に聖霊を注いでくださり、また聖霊に満たしてくださることを計画され、それをヨエルを通して約束されました。そして今私たちは聖霊を与えようとされる、神様の計画がいっぱいとなって、完成された時代を生きているということです。というのは、イエス様を信じる者なら、聖霊充満になれない人は誰もいないということです。すなわち私たちに向かう神様のみこころは、私たちみなが、聖霊に満たされることだということです。

本文 1節と 2節です。

1 五旬節(ごじゅんせつ)の日になって、みなが一つ所に集まっていた。

2 すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような(ひび)きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。

五旬節は、イスラエルの3大祭りであって、五旬節になるとイスラエルのすべての男は、 宮に来て、この祭りを守るべき義務がありました。聖霊様がこの地に臨在されたその日も、エルサレムには五旬節を守るために200万名の人たちが集まっていました。しかし聖霊様は屋上の間に集まって祈っていた120名の弟子たちの上に臨まれました。

これが何を意味するのでしょうか。神様は、すべての人のために、聖霊を約束されましたが、だからといって、みなが聖霊を受けることでもなく、またみなが聖霊に満たされることでもないということです。

それなら、120名の弟子たちは、どうやって神様の約束された聖霊を受けて、また聖霊に 満たされることができたのか、これから考えてみます。

使徒 1章 14節と 15節です。

14 この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。

15 そのころ、百二十名ほどの兄弟たちが集まっていたが、ペテロはその中に立ってこう 言った。

父の約束された聖霊を待ちなさいという命令を受けた、120名の弟子たちはマルコの屋上の間に集まりました。そしてみな心を合わせて祈りに専念したと聖書は証言します。すなわち120名の弟子たちは、みな同じ心を持っていたということです。その心は、どんな心だったでしょうか。イエス様が言われたその聖霊様が、約束の通りに自分に臨まれること、そして自分を治めてくださることを慕い求める心で、みな祈りに専念したということです。ここで私たちは、120名の弟子たちを通して、聖霊に満たされる秘訣を学ぶことができます。

聖霊に満たされるためには、一番目に、聖霊充満になることを信じるべきであります。

120名の弟子たちは、イエス様の約束と命令を信じてみな集まって祈りました。イエス様の命令の通りに、祈りながら待っていれば、約束された聖霊が臨まれ、また聖霊に満たされるようになることを信じたということです。そして約束を信じて祈った120名の上に、約束の通りに聖霊様が臨まれたのです。

神様は約束の通りに私たちにも聖霊様を送ってくださいました。そして神様は約束の通りに私たちを聖霊に満たされるはずです。聖霊充満は、この事実を信じる者にだけに起こると いうことです。神様の約束を信じて、聖霊充満になることを祈り続ける私たちになることを主の御名によって祝福いたします。

聖霊に満たされるためには、二番目に、聖霊充満になることを慕い求めるべきであります。

聖書は、120名の弟子たちが、十日間祈りに専念して、結局聖霊を受けたと証言しています。

 

ところが、この御言葉は、聖霊を受けるために、そして聖霊に満たされるためには、少なくとも、十日間は祈らなければならないという意味ではありません。神様の計画は、五旬節に聖霊を注いでくださることでした。すなわち弟子たちの祈りの熱心が神様の心を感動させて聖霊を受けたのではないということです。

それなら弟子たちが十日間、祈りに専念したということは、何を意味するのでしょうか。 それは、彼らが、そんなにまで聖霊を慕い求めていたという意味であります。十日間祈りに専念したというのは、聖霊を受けることを慕い求めていた弟子たちの心が、祈りという  積極的な行動を通して現れたのです。

聖霊に満たされることは、祈りの量にかかっていることではなく、聖霊充満を慕い求める 心にかかっているのです。そしてその心は、祈りという最も積極的な信仰の行動を通して 現れるに決まっています。聖霊に満たされることを慕い求めながら、祈り続ける人は、必ず聖霊に満たされるはずです。これを覚えて、いつも聖霊充満が第一の祈りの課題になる、 私たちになることを主の御名によって祝福いたします。

聖霊に満たされるためには、三番目に、聖霊充満になるまで待つべきであります。

イエス様は弟子たちに父の約束された聖霊が臨まれるまで待っていることを命じられました。そして弟子たちは、聖霊様が臨まれるまで、集まって祈りながら待ちました。

もしその中で、待つことをあきらめて、家に帰った人がいたなら、その人は、どうなった でしょうか。少なくともその日には、聖霊を受けることができなかったでしょう。五旬節の日に、120名の弟子たちが聖霊を受けた理由は、神様が聖霊を注いでくださるまで、彼らが待っていたからです。それと同じく私たちを聖霊に満たしてくださることは神様の喜ばれるみこころであり、約束でありますが、それでも、それが私たちに行われるためには、神様が聖霊に満たしてくださるまで、待たなければならないということです。

弟子たちは、このように、聖霊を受けることを信じました。また聖霊を慕い求めながら祈りました。そして聖霊様が臨まれるまで待ていたので、聖霊様の臨在を経験し、また聖霊に 満たされるようになったということです。

説教をまとめます。

私たちに向かう神様のみこころは、私たちがみな聖霊に満たされることです。すでに神様は、約束された通りに、イエス様を信じる私たちに聖霊様を送ってくださいました。聖霊様は、すでに私たちとともにおられますが、それだけでは十分ではありません。

これから私たちに必要なことは聖霊様が私たちの命と人生との主人になるように、聖霊様に主人の権利を捧げることです。そして聖霊様のみこころに従いながら聖霊充満になるために信仰の努力を続けるべきであります。

聖霊に満たされることは、聖霊充満を約束された神様の約束を信じることから始まります。そして私たちは、その約束を握って、聖霊充満を慕い求めながら、切に祈るべきであります。いつまで祈るべきなんでしょうか。聖霊に満たされるまで祈るべきであります。もちろん、120名の弟子たちのように、何もせず、ただ祈りに専念しなければならないという意味ではありません。聖霊充満になりたがる、私たちの願いと祈りが、決して止まってはいけないということです。

今日の本文で、120名の弟子たちに起こった聖霊の働きが、のぞみ教会にも起こることを 心から祈ります。聖霊充満の約束を信じて、慕いながら、待ち続ける人は、必ず聖霊に  満たされることを信じます。のぞみ家族みなが聖霊に満たされて、イエス様の弟子として、生きるようになることを、イエス・キリストの御名によって祝福いたします。

 

 

2021/05/09 主日メッセージ   nozomich
≪ 無名のキリスト者      主の名を呼ぶ者は ≫