恵みの雨

無名のキリスト者 

2021年5月2日 ・ のぞみ教会・主日礼拝 

申告告白

聖歌 521 / 539

祈り 木村喜憲牧師

聖歌 570 / 604

聖書 使徒 1:8-14

説教 <無名のキリスト者>  木村喜憲牧師

聖歌 505 / 523

献金 <献金の祈り>  木村喜憲牧師

聖歌 383 / 376

祝福の祈り  木村喜憲牧師

 

お知らせ。

◆のぞみ教会のOpen Cell Leaderを建て上げることが出来るように祈りましょう。

[5/16 : 機関長祈り会(礼拝後)]

◆5月のお誕生日方々おめでとうございます。

[松本末子姉、高橋文治兄、朴恩恵姉、山本恵姉、小林よしえ姉、加藤孝昭兄、千葉清兄]

◆新型コロナウィルス感染拡大防止にかかる蔓延防止等重点措置に伴いまして、

5月9日まで非対面礼拝を実施します。 

◆毎週月曜日午後9時、オンライン祈祷会をZOOMで行います。

   [ 入場ID : 751 809 0278  / パスワード : YCv1GX ]

◆健康回復のためにお祈りをお願いします。

礼拝のための代表祈り 【5/16:小林哲雄兄】

5/23:高橋文治兄、 5/30:山本健太兄、 6/6:安永真一兄 

献金のための代表祈り 【5/16:木村喜憲師】

5/23:山本満代姉、 5/30:木村喜憲師、 6/6:高橋文治兄  

無名のキリスト者

 

本文 : 使徒 1 : 8 - 14

8 しかし、聖があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となり  ます。」

9 こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に()げられ、雲に(つつ)まれて、見えなくなられた。

10 イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。

11 そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。 あなたがたを離れて 天に()げられた このイエスは、天に(のぼ)って行かれるのを あなた がたが 見たときと同じ有様(ありさま)で、またおいでになります。」

12 そこで、彼らはオリブという山からエルサレムにった。この山は エルサレムの 近くにあって、安息日の道のりほどの距離であった。

13 彼らは町に入ると、()まっている屋上の間に上がった。この人は、ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと  熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。

14 この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念(せんねん)していた。

 

復活された後、40日間、弟子たちとともにおられたイエス様は、弟子たちに二つの命令を くださって、天に上られました。その40日間は、弟子たちにとってすばらしい経験でした。イエス様の復活を目撃して、さらにそのイエス様が天に上られることまで見たからです。 弟子たちはイエス様が天に上られた後、イエス様が上られたその空だけを見つめていました。

 

 

信仰生活をしてみると特別な恵みを体験する時があります。御言葉を通して悟りを得る時もあり、聖霊様の深い慰めを体験する時もあります。また聖霊の働きによって病気が治ったり、賜物が臨むことを経験する時もあります。

ところで神様の特別な恵みを体験するようになると、恵みを体験したその場を離れることが易しくありません。なぜなら神様がくださる恵みは、この世では経験できないとても甘くて、素晴らしい経験だからです。だから一度神様がくださる特別な恵みを味わうようになると、その場を離れたくない気がするのです。

本文の弟子たちもそうでした。目の前で素晴らしい奇跡を経験した弟子たちは、その場を 離れることができず、ただイエス様が上られた空だけをずっと見つめていたのです。

すると、本文 10節と 11節で、御使いが言いました。

10 イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。

11 そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。 あなたがたを離れて 天に()げられた このイエスは、天に(のぼ)って行かれるのを あなた がたが 見たときと同じ有様(ありさま)で、またおいでになります。」

天に上られたイエス様は、約束された通りに、再び来られるはずなのに、なぜずっと空だけ見つめているのかということです。すなわち弟子たちのすべきことは、恵みを経験したその場に留まっていることではなく、その恵みを抱きしめて、世の中でイエス様の命令に従う ことだという意味なんです。

私たちの信仰生活は、教会の中に制限されている場合が多いです。言い換えれば、私たちは教会の中でだけ、キリスト者として生きようとする場合が多いということです。しかし、 信仰生活とは宗教生活を意味することではなく、信仰によって生きて行く、信者の生き方をいうことです。だから主日一日間、教会で行う礼拝と奉仕が、私たちの信仰生活の全部に なってはいけません。また日常生活と信仰生活とが分かれてもいけません。私たちが生きて行くすべての瞬間が、信仰によって生きて行く信仰生活になるべきだということです。

キリスト者はこの世から隔離(かくり)されて生きる人ではありません。むしろこの世の真ん中で、 キリストを信じる者として生きる人をキリスト者と言います。イエス様が上られた空を  見つめていた弟子たちに、御使いがした話は、こんな意味を持っているのです。

しかしサタンが支配している世の中で、イエス様を信じる者として生きることは、決して 簡単なことでもなく、弱い私たちとしては不可能なことです。すなわち私たちの力では、 この世の中で信仰を守ることも、御言葉に従うこともできないということです。

11節で、御使いは、弟子たちをこう呼びました。

11 そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。 あなたがたを離れて 天に()げられた このイエスは、天に(のぼ)って行かれるのを あなた がたが 見たときと同じ有様(ありさま)で、またおいでになります。」

[ガリラヤの人たち]

ガリラヤの人たちという言葉は、一言で、[田舎者たちよ]という意味でした。御使いは、弟子たちに、イエス様がくださった使命を果たすべきだと言いながら、一方では弟子たちがどんな存在なのかを、覚えさせているのです。イエス様の復活を経験して、使徒としての 素晴らしい使命が与えられましたが、元々自分たちはガリラヤの人であることも忘れては いけないということでした。

イエス様は、ガリラヤの田舎者に過ぎない弟子たちに、どうしてそんなに素晴らしい使命をくださったのでしょうか。それは、イエス様がくださった使命は、弟子たちが成し遂げる ことではなく、弟子たちを通して聖霊様が成し遂げられるものだからです。そしてそういうわけで、イエス様は弟子たちに、まず父の約束された聖霊を待つことを命じられたのです。なぜならこの世で信仰を守りながらキリスト者として生きることは、ただ聖霊様の恵みと 力によってだけできるからです。

私たちもガリラヤ人であります。出身をいうのではなく私たちも自分の力では何もできない無力な存在であることを忘れてはいけないということです。だから私たちにも聖霊様の力と恵みが必要です。

私たちはイエス様を信じて受け入れた瞬間、すでに聖霊を受けました。しかし過ぎた時間に申し上げた通りに、ただ聖霊様が私たちの内におられることだけでは、十分ではありません。聖霊様が私たちの人生の主人にならなければ、私たちの生活には、何の変化も現れません。だからガリラヤ人の私たちがすべきことは、聖霊様が私たちの主人になって私たちの人生を治めてくださるように、すべてを聖霊様に委ねて、そのみこころに従うことであります。

 

イエス様は、キリスト者になった私たちを、教会の中ではなく、この世の中で生きさせます。キリスト者がこの世の中で生きるべき理由が何でしょうか。イエス様を信じないこの世界の絶対多数(ぜったいたすう)の人々の中で、キリスト者一人の存在が、何の意味があるでしょうか。

今日の本文には、イエス様も命令に従って聖霊様を待っていた人が、120名だったと書いています。しかしその中で名前が記録された人の数は、20名もなりません。あまりの100名の人たちは、死の日まで無名のキリスト者として生きて死んだはずです。

こんにち、この時代を生きて行くキリスト者たちも同じです。ほとんどのキリスト者たちは、この世が記憶してくれることもなく、歴史に記録されることでもない、無名のキリスト者 として人生を終えるはずです。しかし私たちが覚えるべきことは聖霊を受けたその120名のキリスト者たちを通して、この世界の歴史が変わって、またこの場にいる私たちにまで、 福音が伝われたということです。そしてこの世界は記憶してくれないとしても、イエス様は彼らのすべての労苦と信仰と献身を覚えておられるということです。

神様の御国は、そして宣教の歴史は、このように無名のキリスト者たちを通して、今まで 休まず進行されて来たのです。

19世紀にイギリスのリバイバルを(ひき)いた、チャールズ・ スポルジョン先生は、世界的に 有名な説教者であり、数多くの人たちを影響を及ぼした偉大な信仰の人です。ところが彼は、青年時代に自分の罪に対する罪責感と信仰的な苦悶のゆえに自分が不幸だと感じていました。ところである日、彼は礼拝するために新しい教会を行きましたが、大雪で説教者が教会に 来られませんでした。それで教会の信者の中で人が、御言葉を伝えましたが、スポルジョン先生の話によれば、その人は、神学教育を受けた人でもなく、平凡な労働者でした。さらに彼は言葉が下手な人で、なまりもひどかったそうです。彼は、準備された説教ではなく、 ただ自分が恵まれた聖書の御言葉を読んでから、自分の感想を話しました。ところで彼が 伝えた御言葉を聞いて、青年スポルジョンは、真理を悟って、心が変わりました。そして イギリスのリバイバルを率いた偉大な信仰の人になったそうです。しかしその日、御言葉を伝えたその人の名前は、伝われていません。

メソジスト教会の創始者でありジョン・ウェスレー先生は、宣教のために船に乗って海を 渡っている途中、嵐に会いました。ウェスレーを始め、船に乗っていたすべての人たちが 死の恐怖の中で恐れていました。ところでウェスレーは、死を恐れず、賛美して祈っているある青年たちを見ました。

彼は、嵐の中でも恐れないその青年たちの姿を見て衝撃を受けました。そして真の信仰とは何なのかについて、再び考えるようになりました。そしてその経験がきっかけになって、 彼は結局、世界的な霊的指導者になりました。しかしウェスレーにまことの信仰とは何かについて悟らせたその青年たちの名前は、知られていません。

韓国の信者たちが一番尊敬する日本の宣教師がいますが、その方は曾田嘉伊智(そだかいち)という方です。曾田先生は、若い頃酒と快楽に陥っていました。ある日も酔っぱらった彼は、意識を失って道に倒れていました。ところが彼を発見したある人が、彼を旅館に連れて行って、治療してすべての費用を出してくれました。青年曾田嘉伊智の意識が戻った時には、すでにその人はそこにいませんでした。

命を救ってくれた恩人(おんじん)なのに名前も顔も知ることができませんでした。旅館の主人に聞いたのは、彼が韓国人であり、またキリスト者だったということが全部でした。その以後、曾田嘉伊智は、自分が受けた恵みを返すために韓国に行きました。そしてそこでイエス様を受け入れて、韓国の孤児たちを育てました。彼は、死ぬ瞬間まで、1000名以上の孤児たちの父になってくれて、韓国の宣教師墓地(ぼち)に葬られました。

この世界に、スポルジョンとウェスレーと曾田嘉伊智の名前は、知られていますが、彼らを変化させ、彼らの信仰に影響を及ぼした人たちの名前は、誰も記憶していません。しかし イエス様の命令を実践しながら、無名のキリスト者として生きた彼らは、結局、世界を変化させる神様の御業に用いられました。

彼らが、誰かを変化させたり、影響を与えるために、そうしたでしょうか。そうではあり ません。彼らはただ自分に与えられた一日を信仰によって生きただけであり、また聖霊様の導きに従っただけでした。しかし聖霊のみこころに従うその小さな信仰を通して、聖霊様は、世界を変化させる素晴らしい御業を行われたということです。

たぶん彼らは、自分が神様の御国のために何をしたのかを死ぬ時まで知らなかったはずです。そして天国に行って初めて、神様が自分たちを通して行われた 素晴らしい御業を悟って 感激したでしょう。そして無名のキリスト者として生きて来た、彼らの人生に対する報いをイエス様から受けたはずです。

 

 

イエス様を信じてキリスト者になった私たちは、イエス様から偉大な使命を委任されました。しかし私たちは、相変わらずガリラヤ人に過ぎません。すなわち私たちの力でできることは何もないということです。しかし私たちが大きなことをする必要はありません。私たちは ただ自分に与えられた一日を、聖霊様の導きに従って、信仰によって生きて行くことで十分です。それがガリラヤ人であり、無名のキリスト者である、私たちにとって最善のことです。それだけができれば、聖霊様が、キリスト者として生きて行く私たちを通して、この世界に必要なことを行われるはずです。

キリスト者は、パン種のような存在です。

パンとお菓子の決定的な違いが何でしょうか。それはパン種が入っているか入ってないかの違いであります。ほんの少しのパン種が入っていることだけで生地(きじ)(ふく)らんで、固い菓子がふんわりパンに変わるということです。このように生地がパンになることにおいて決定的な役割をするパン種ですが、パン種がパンの主材料だという人は、誰もいません。

キリスト者も同じです。まことのキリスト者一人は、家庭を変化させ、グループを変化させ、社会を変化させます。キリスト者は、世界の主流(しゅりゅう)でもなく、主役(しゅやく)でもありません。しかしキリスト者には、留まっている所を変化させる力があります。なぜならキリスト者の内には聖霊様が働いておられるからです。聖霊様の導きに従って聖霊様のみこころに従いながら 生きる時、私たちは、パン種のように、私たちが留まっている所と 出会った人たちを変化させる存在になるということです。

何年前に、主任牧師先生がコーヒー講座をする時、キリスト者をコーヒーに例えた時があります。コーヒーの主成分は、水です。しかし誰もコーヒーを水だと言いません。なぜなら コーヒーと水は全然違うものだからです。それなら水をコーヒーに変えたのは、何ですか。1%しか入ってないコーヒー豆の成分が、水をコーヒーと変えたのです。すなわち水を  コーヒーとすることには、1%のコーヒー成分で十分だということです。

日本宣教について話す時、一番難しい部分が、キリスト者の比率です。日本のキリスト教 比率は、1%しかなりません。ところがその1%の中で、健全な神学を持っている福音的な 教会の比率を計算すれば、比率は0.6%になり、また生まれ変わったキリスト者の比率だけ計算すれば、日本のキリスト教比率は、0.2%になってしまいます。比率だけを見れば、 サウジアラビアと北朝鮮よりも、福音を受け入れない、霊的な荒地(あれち)のようなところがまさに日本だということです。

しかし私たちが覚えるべきことは、まことのキリスト者が一人でも存在する所なら、そこに希望があるということです。キリスト者の力は、数にあるのではなく、教会の力は大きさにあるのではありません。ほんの少しのパン種がお菓子をふんわりパンに変えるように、また1%のコーヒー成分が水をコーヒーと変えるように、まことのキリスト者一人だけいれば、家庭とグループと社会は変化が起こるに決まっています。そしてそのためにイエス様が、 私と皆さんを選択され、呼び寄せてくださったということを私たちは忘れてはいけません。

私たちのすべきことは、大きなことでもなく、複雑なことでもありません。スポルジョンとウェスレーと曾田嘉伊智を変化させた、無名のキリスト者たちがしたように、信仰によって自分に与えられた一日を生きればいいということです。そうすれば、変化と奇跡は聖霊様が起こされるはずです。

キリスト者は、塩のような存在です。

マタイ 5章 13節で、イエス様が言われました。

13 あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるの でしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。

イエス様は、私たちがこの地の塩だと言われました。塩には、二つの役割がありますね。 一つは、塩けをつけることであり、もう一つは、腐敗(ふはい)(ふせ)ぐことです。

曾田嘉伊智先生が生きた時代は、戦争の時代であり、貧困の時代でした。人が人として  扱われなかった時代であって、現実の問題があまりにも厳しくて、他の人を顧みるような 余裕がない時代でした。

そんな時代に一人のキリスト者が、酔っぱらって倒れている、曾田嘉伊智を救いました。 そして自分のお金と時間を出して、彼にイエス様の愛を施しました。人生の意味と楽しみを失ってしまった曾田嘉伊智のまずい人生に塩けをつけて、意味と楽しさを回復させた人が まさに一人の無名のキリスト者だったということです。そして曾田嘉伊智は、1000名の孤児たちの父になって、彼らの人生に塩けをつけて、人生の意味と目的と喜びを回復させてくれました。これがまさに、地の塩のようなキリスト者の存在だということです。

また無名のキリスト者は、イエス様の愛を実践することによって、曾田嘉伊智の人生が罪に陥って腐敗していくことを、(ふせ)いでくれました。

 

イエス様は、私たちがこの地の塩だと言われました。聖霊様の導きに従うキリスト者一人の存在は、世の中で塩のような役割をします。塩は、表に現れたり、目に見える材料ではありませんが、存在だけでその役割を十分に成し遂げます。それと同じく目に立つ存在でなく ても、キリスト者一人は、存在だけでも、重要な役割をするということです。

私たちは、世界を変えることはできません。しかし私たちは、福音を通して、一人の人生を変えることはできます。そして福音は、それを悟った人にとって、世界が変わるみたいな 素晴らしい事件であります。そういうわけで、私たちが福音を伝えることによって、また イエス様の愛を実践することによって、誰かが福音を受け入れるとすれば、それはその人の世界を変えることと同じことであります。

私たちが聖霊様の導きに従って、まことのキリスト者として生きれば、私たちを通して、 第2のスポルジョン、第2のウェスレー、第2の曾田嘉伊智が現れるはずです。

最後に本文 14節を読んで、説教をまとめます。

14 この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念(せんねん)していた。

私たちは、自分がガリラヤ人だという事実を忘れてはいけません。

私たちをまことのキリスト者として生きさせる方は、ただ聖霊様だけです。だから私たちは聖霊様の恵みを得て、聖霊様の導きを受けるために、祈りに励まなければなりません。

新しく始まる一週間も、与えられた状況、与えられた所で、キリスト者として生きて行く、私たちになることを心から祈ります。そして聖霊様の恵みによって、私たちの家庭と職場と生活のすべての現場の中で、パン種と塩になる、私と皆さんになることをイエス・キリストの御名によって祝福いたします。

 

2021/05/02 主日メッセージ   nozomich
≪ 失う者と得る者     みなが聖霊に満たされ ≫