恵みの雨

なぜ十字架なのか

2021年3月21日 ・ のぞみ教会・主日礼拝 

申告告白

聖歌 417 / 418

祈り 木村喜憲牧師

聖歌 280 / 261

聖書 ルカ 23:13-25

説教 <なぜ十字架なのか>  木村喜憲牧師

聖歌 555 / 579

献金 <献金の祈り>  木村喜憲牧師

聖歌 383 / 376

祝福の祈り  木村喜憲牧師

 

お知らせ。

◆のぞみ教会のOpen Cell Leaderを建て上げることが出来るように祈りましょう。

3月の教会歴及び予定  ◆http://www.nozomich.net◆  

[2/17-4/3 : 四旬節] ― [3/29-4/3 : 受難週間] ― [4/4 : イースター]

[3/11  : 機関長祈祷会(11時に行いました。)]

[3/28 : 牧会協力委員会祈り会(礼拝後)]

◆3月14日から教会での集会礼拝を再開します。 

◆三戸貴史兄(賛美リーダー)のお母さんが、2021年3月17日午後、天に召されました。

 主の慰めのお祈りお願いします。

 

◆新型コロナウイルス感染拡大防止にかかる緊急事態宣言の延長に伴いまして、

非対面礼拝を2週間延長し、3月28日から教会での集会礼拝を再開します。 

◆健康回復のためにお祈りをお願いします。

礼拝のための代表祈り 【3/28:山本健太兄】

4/4:安永真一兄、 4/11:三戸貴史兄

献金のための代表祈り 【3/28:高橋文治兄】

4/4:木村喜憲師、 4/11:山本満代姉

 

 

なぜ十字架なのか

 

本文 : ルカ 23 : 13 - 25

13 ピラトは祭司長たちと指導者たちと民衆とを呼び集め、

14 こう言った。「あなたがたは、この人を、民衆を惑わす者として、私のところに連れてたけれども私があなたがたの前で取り調べたところ、あなたがたが訴えているような罪は別に何も見つかりません。

15 ヘロデとても同じです。彼は私たちにこの人を送り返しました。見なさい。この人は、死罪(しざい)たることは、何一つしていません。

16 だから私は、()らしめたうえで、釈放(しゃくほう)します。」

17 (ない)

18 しかし彼らは、をそろえて叫んだ。「この人を(のぞ)け。バラバを放しろ。」

19 バラバとは、(みやこ)に起こった暴動(ぼうどう)人殺(ひとごろ)しのかどで、牢に入っていた者である。

20 ピラトは、イエスを放しようと思って、彼らに、もう一度呼びかけた。

21 しかし、彼らは叫びけて、「十字架だ。十字架につけろ」と言った。

22 しかしピラトは三度目に彼らにこう言った。「あの人がどんないことをしたという のか。あの人には、死にたる罪は、何も見つかりません。だから私は、懲らしめた うえで、放します。」

23 ところが、彼らはあくまで主張しけ、十字架につけるよう大で要求した。そして ついにそのが勝った。

24 ピラトは、彼らの要求どおりにすることを宣告(せんこく)した。

25 すなわち、暴動と人殺しのかどで牢に入っていた男を願いどおりに放し、イエスを 彼らに引き渡して好きなようにさせた。

 

 

神様は、罪によって死ぬしかない私たちのために一人だけの息子イエス様をキリストとしてこの地に遣わされました。そしてキリストとしてこの地に来られたイエス様が、私たちを 救われた方法は、十字架でした。聖書は、十字架につけられたイエス・キリスト以外には、罪人の私たちが救われる方法がないと証言しています。

今日は、神様が一人子をキリストとして遣わされた理由、そしてイエス様が、十字架の上で死ななければならなかった理由について、皆さんと一緒に考えてみたいと思います。

人間にとって最も大きな絶望はすべての人が罪人として生まれるということです。生まれたばかりの赤ちゃんは、何の罪も犯さなかったのに、なぜすべての人が罪人として生まれるというのでしょうか。十字架と救いを理解するためには、私たちは、まず罪とは何なのかを 理解する必要があります。

初めに神様が創造された人間は、罪人ではありませんでした。創世記 1章 27節は、初めに神様が創造された人間が、どういう存在だったのかを説明します。

27 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

人間は、もともと神様のかたちとして創造された、聖なる存在でした。ところで人類の先祖であるアダムが、サタンの誘惑に陥って、神様が禁じられた、善悪の知識の木の実を取って食べてしまいました。そしてその時から人間は罪人になったのです。

果物一個食べたことが、そんなにまで大きな罪なのかと思われるかもしれません。しかし 聖書を読んでみれば、アダムがそれを食べた理由は、神様のようになりたがる欲望のため だったということが分かります。すなわちアダムが神様の命令を破って、それを食べたのは、神様に対する裏切りであり、また反逆(はんぎゃく)だったということです。

ローマ 5章 12節には、こう書いてあります。

12 そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類(ぜんじんるい)に広がったのと同様に、―それというのも全人類が罪を犯したからです。

人類の先祖アダムが、罪を犯して罪人になった後、アダムを通して生まれた子孫、すなわち全人類は、みんな罪人として生まれるようになって、その罪の代価として死が世界に入ったと聖書は証言しています。一言でアダムの罪が、すべての人類に遺伝(いでん)されたということです。

アダムから罪が遺伝されて、彼のすべての子孫が罪人として生まれるようになったという ことが何を意味するでしょうか。それは、罪というのは、行いの概念でなく、命と存在の 概念だということです。すなわち人間は、罪を犯したから罪人になるのではなく、生まれ ながら罪人という存在として生まれるということです。

最近、生まれて一度も女という存在を見ることができなかった男の物語を聞きました。ある人が生まれてすぐに修道院(しゅうどういん)に捨てられました。彼は修道院中で修道士たちとともに住んで、自分も修道士になって一生涯修道院の中でだけ生きたそうです。それで彼は、82歳で死ぬ時まで、女という存在を一度も見ることができなかった男として記録されたそうです。

ところで生まれながら厳しい修道院で修道士として生きた彼も罪を犯したでしょうか。心の中では、悪い考えをしたかもしれませんが、たぶん行動では、罪を犯さなかったはずです。それなら一度も悪い行いをしたことがない彼は、罪人ではないと言えるでしょうか。

そうではありません。与えられた環境のゆえに罪を犯すことはなかったですが、もし彼も 私たちと同じ環境で生きたなら、私たちと同じく罪を犯したはずです。聖書はすべての人が罪人だとはっきりと証言しています。聖書が言われる罪人とは、罪を犯した人をいうのではなく、罪人の命を持っている存在を意味することです。

初めに神様は、人間を聖なる存在として創造されて、聖なる命を与えられました。しかし 人間が罪を犯した瞬間、人間の命の中に罪が入りました。そのように人間の命は罪によって汚れて、汚染(おせん)されました。そして心も悪魔のように邪悪になってしまいました。その時からこの世には、犯罪と戦いと苦しみと悲しみが続くようになりました。

罪人になった人間は、人間を不幸にするものが罪であることを悟って、罪の問題を解決するために続けて努力しました。良い行いを通して、教育を通して、そして哲学(てつがく)とか修行(しゅぎょう)を 通して、罪から逃れて義人になるためにいろんな努力を続けました。しかし人間のどんな 努力も罪の問題を解決することができませんでした。なぜならどんな方法でも存在を変えることはできないからです。すなわち犬を教育させて、猫に変えることが不可能であるように教育や訓練を通して罪人を義人に変えることは不可能だということです。

ある先生の青年時代の話を聞いたことがあります。その頃先生は田舎から都会に引っ越して、友人と二人で生活していたそうです。まだ仕事もなく、お金もなかったので、電気をつけることもできず、ご飯も存分に食べることができませんでした。おかずは、田舎から持って 来た醤油が全部でした。

先生は、電気が入らない真っ暗な台所に醤油の(つぼ)を置いといて、一か月間、醤油をおかずにしてご飯を食べたそうです。

ところで大掃除をしたある日、台所を掃除していた友たちが、いきなり悲鳴をあげながら、飛び出しました。それでその先生が台所に入ってみると醤油の壺の中にネズミ一匹が落ちて、死んでいましたが、もうかなり時間が過ぎて、毛も全部抜けて色も白くなっていたそうです。二人はそんなことも知らずに、一か月間、その醤油でご飯を食べたのです。

それなら、彼らは、その醤油をどうしたでしょうか。ネズミだけ取り出して、再び醤油を 食べたでしょうか。そんなわけがないでしょう。その醤油は、全部捨てなければなりませんでした。なぜならネズミを取り出すとしても、醤油が再びきよくなるのではないからです。ネズミが入った瞬間から、その醤油は、汚染(おせん)されて食べることもできず、清くすることも できなくなったのです。

罪人とは、こういう存在をいうのです。罪に汚染されて、再び清くすることも、直すこともできない命と心を持っている存在がまさに罪人だということです。

人間が罪人になった代価は、残酷(ざんこく)でした。神様との約束を破って、神様を裏切った瞬間から人間は、神様から受けたすべての良いものを失ってしまって、その代わりに、ものすごい 運命を迎えるようになりました。罪人になった代価は、大きく三つでした。

[一番目に、罪人になった代価は、死でした。]

創世記 2章 17節で、神様が言われました。

17 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、 あなたは必ず死ぬ。

神様は罪の代価が罪だと警告されましたが、その死は、アダムが神様との約束を破った瞬間ほんとうに起こってしまいました。ところで聖書には、アダムが930で死んだと書いてあります。神様は、善悪の知識の木の実を食べると必ず死ぬと言われたのに、どうしてアダムは、すぐに死なず、930年も生きて死んだのでしょうか。

神様が言われた死というのは、霊的な死を意味することでした。言い換えれば、罪を犯した代価は、神様に対して死ぬことであって、その結果、罪人になった人間は、神様との関係が、断絶されてしまいました。それで人間は、自分の知恵では神様を知ることもできず、神様と交わることもできなくなってしまったのです。

罪人になった人間は神様がご自分のことを表して、教えてくださらなければ、神様の存在を悟ることも、神様の助けを求めることもできない存在になってしまったということです。 これがまさに神様が警告された死の意味でした。そして神様から断絶された結果、人間は、肉体の死も迎えるようになったのです。

人間は、神様から命と力と知恵と幸せを供給されて生きるように創造された存在であります。しかし神様との関係が断絶された人間は、命と能力を供給されることができず自分が持っている資源だけを持って生きるようになりました。それで自分が持っている資源の限界を解決するために人間は、絶えず競争して、戦いながら生きるようになり、また幸せになることが人生の目標でありながらも、ほんとうに幸せになることができなくなったのです。

[二番目に、罪人になった代価は、呪いでした。]

神様は、人間を世界の王のような存在として創造されましたが、サタンに従った瞬間から 人間は、サタンの奴隷に転落(てんらく)してしまいました。またこの世界は、神様が人間に与えられた祝福と幸せを味わう場所として作られましたが、人間が罪人になった時から世界は呪われて災害と試練と悲しみの場所になってしまいました。

神様が人間に対して建てられた原則は、単純です。神様の律法を守って従えば、祝福を受け、律法を破ったら、呪われます。ところで罪人になった人間の問題は神様のみこころの通りに生きられる能力が全くないということです。神学者たちは、このような罪人の状態に対して全的堕落(ぜんてきだらく)道徳的無能力(どうとくてきむのうりょく)という言葉で説明します。全的堕落というのは心が完全に堕落して良いところが全くない状態を言います。そして道徳的無能力というのは、神様のみこころがなにか、そして正しいことが何かを知りながらも、それを選択することができない状態を 言います。

ローマ 1章 18節と 19節で、使徒パウロは、こう言いました。

18 というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。

19 それゆえ、神について知られることは、彼らに明らかです。それは神が明らかにされたのです。

 

 

すなわち罪人は、神様がどういう方なのか知りながらも神様を信じなく、神様のみこころが何か知りながらも神様のみこころに従わないということです。そして神様に対する敵対感のゆえに神様に従うことを断ることがまさに罪人の状態だということです。そしてその結果、罪人は、自分の選択に対する代価として、約束された呪いを受けながら、不幸せな人生を 生きるしかないということです。

[三番目に、罪人になった代価は、裁きでした。]

へブル 9章 27節は、こう言います。

27 そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、

罪人になった結果として、人間は、いつか必ず肉体の死を迎えるようになります。ところでその死の以後に、罪人は自分の罪に対する代価を払はなければなりませんが、その代価は、永遠の死または、滅亡とも呼ばれる地獄の刑罰であります。罪人は自分の罪に対する代価を地獄で永遠に払わなければならないということです。

このように人間が罪人になった代価は、死と呪いと裁きだということです。ところで問題は、人間には、自分の絶望的な運命を避けることも、変えることもできないということです。

しかし私たちを愛される神様は、私たちが罪によって滅びることを願いませんでした。

ヨハネ 3章 16節です。

16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を  信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

愛が満ち溢れる神様は、罪人の私たちをあまりにも愛されて、一人だけの息子を私たちの ためにキリストとして遣わされることにしました。そしてキリストであられるイエス様は、私たちを罪から救われるために、そして死と呪いと裁きから救われるために十字架の上で 死んでくださいました。

神様は、創造主であり、全能なるお方であるのに、代価を払わずに人間を赦されることは できなかったでしょうか。なぜ罪人を赦すために、神様の息子イエス様が死ななければならなかったでのしょうか。

私たちが覚えるべきことは、神様は、愛の神様でありますが、また正義の神様だということです。神様は私たちに対するご自分の愛をあきらめることができないように、罪に対して 正義を行われることもあきらめることができないお方であります。

ところでイエス・キリストの十字架は、神様の愛と神様の正義とを両方とも成し遂げられる神様の方法でした。

ローマ 5章 8節は証言します。

8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださった ことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

神様は罪人を救われるために、一人子イエス様を十字架の上で裁かれました。そのように キリスト・イエスに、私たちの罪に対する徹底的な裁きを行われることによって、神様は 正義を成し遂げられました。またそのように私たちを救われることによって私たちに対するご自分の愛をも成し遂げられたのです。

また十字架は、私たちを罪と死と呪いと裁きから救われる神様の方法でした。人間は絶対に罪を解決することができません。しかしイエス・キリストが十字架の上で流された血潮が、私たちの罪を解決されました。

へブル 9章 12節です。

12 また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所(せいじょ)に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。

イエス・キリストが私たちのための贖いのいけにえになって私たちの代わりに十字架の上で死んでくださいました。イエス様が私たちのために流されたその血潮によって、私たちの すべての罪が完全に赦されたのです。

また黙示録 1章 5節には、こう書いてあります。

5 ...イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から()(はな)ち、

イエス・キリストが十字架で流された血潮によって、私たちは罪から解放されたということです。ここで[解き放つ]という言葉は、[破壊する]、また[無効化する]という意味を持っているギリシャ語です。すなわちイエス・キリストが十字架で、私たちの代わりに死んでくださったので、私たちを縛っていた、罪の力が破壊されて、罪の影響力が無効化されたということです。結局イエス・キリストが十字架で死んでくださったので、私たちの罪が赦され、私たちが罪から完全に解放されたということです。

このようにイエス様は、十字架を通して私たちの罪の問題を完全に解決してくださいました。

 

イエス様の十字架は、私たちが受けるべきだった、罪の代価も全部解決してくださいました。

先ほど申し上げた通りに、一番目に、罪人になった代価が、死でした。そしてその死というのは、神様に対する死であり、神様との関係が断絶されることを意味します。

ところがⅠペテロ 3章 18節は、こう証言しています。

18 キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったの です。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神の  みもとに導くためでした。

イエス様が私たちのために死なれた理由は、私たちを神様のみもとに導いてくださるためだということです。罪によって神様の敵となった私たちを神様と和解させるためにイエス様が十字架につけられました。イエス様は十字架を通して、断絶された神様と私たちとの関係を再び回復させました。さらにイエス様は、復活の命を私たちに与えてくださって、私たちに神様の子どもとされる素晴らしい特権を与えてくださいました。これがまさにイエス様が 十字架を通して、私たちに与えられた素晴らしい恵みであります。

二番目に罪人になった代価は、呪いでした。

罪人の人生は、一生涯呪いに呪いを重ねる人生であります。それがまさに罪人としての悲劇なんです。しかしイエス様は十字架を通して私たちのすべての呪いを祝福に変えてくださいました。

いつかも申し上げましたが、ユダヤ人たちにとって一番呪われた死は、木にかかって死ぬ ことでした。木にかかって死ぬことは、最も大きな恥であり、また一番大きな呪いでした。ところでイエス様がつけられたその十字架は、木で作られた十字架でした。

ガラテヤ 3章 13節です。

13 キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。

イエス様は、一番呪われて恥ずかしい死を迎えられました。人類を救われるキリストの死は、崇高(すうこう)な死でも、美しい死でもなかったということです。イエス・キリストは最も悲惨な死を迎えられました。ところで聖書は、イエス様が呪いの十字架で死なれた理由は、私たちを すべての呪いから贖い出してくださるためだったと証言しています。すなわちイエス様は 私たちの代わりに呪われるために、自ら十字架の死を選択されたということです。

もし、イエス様の死が崇高(すうこう)で、美しい死だったならば、私たちは呪いから逃れることができなかったということです。そのように十字架のイエス様を通して、罪人の私たちが受ける べき、すべての呪いが完全に解決されたのです。

また全的に堕落して、道徳的に無能力な罪人である私たちは、絶対に神様のみこころに従うことも正しい道を選択することもできない存在です。すなわち罪に汚染した命と心を持っている人間は、生きて行きながら、続けて罪を犯し、呪いに呪いを重ねるしかないということです。

ところでローマ 6章 6節で、使徒パウロは言いました。

6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、 私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知って  います。

使徒パウロは、私たちの古い人が、キリストとともに十字架につけられたと証言してます。イエス様が十字架につけられた時、罪人である私たち、すなわち罪に汚染した私たちの命と心をイエス様の十字架にともにつけてくださったということです。そしてイエス様が復活 された時、イエス様の復活の命を信じる者たちに与えてくださって、もはや信じる私たちはイエス・キリストにあって神様のみこころの通りに生きることができるようになりました。なぜなら罪人の命と心が十字架につけられて死んだからです。これがイエス様が十字架を 通して私たちに与えてくださった素晴らしい恵みであります。

三番目に、罪人になった代価は、裁きでした。

ところで、ヨハネ 5章 24節で、イエス様が言われました。

24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを  遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死から  いのちに移っているのです。

イエス様を信じてイエス様を自分の主人として受け入れた者には、永遠の命が与えられます。そしてその瞬間から私たちの運命は、死と裁きから永遠の命と祝福に移ります。なぜなら、罪人の私たちが受けるべき裁きをイエス・キリストが代わりに受けてくださったからです。イエス様の十字架は、罪人に対する神様の正義の裁きが行われる所でした。罪人に対する 神様の怒りが注がれる所であって、裁き主である神様が罪人の私たちに死刑を宣告される 所でした。そして十字架は、罪人に対して少しの憐れみや慈悲も赦されない所でした。

ところで私たちが受けるべき、その怒りの裁きを、イエス様が私たちの代わりに受けてくださったということです。そしてイエス様が私たちの代わりに、そのものすごい裁きを受けてくださったので、私たちが今日、平安の中で主の御前でその御恵を賛美することができるのです。これがまさにイエス様が十字架を通して、私たちに与えてくださった素晴らしい恵みであります。

説教をまとめます。

イエス様の十字架は、私たちをすべての罪から解放させる神様の方法でした。イエス様の 十字架は、霊的に死んでいた私たちを、神様の子どもとして生まれ変わらせる、神様の能力でした。イエス様の十字架は、私たちをすべての呪いから贖われるための神様の知恵でした。そしてイエス様の十字架は、私たちを怒りの裁きから永遠の命に移された、神様の驚くべき御業でした。このすべてのことは、十字架のイエス様を通して私たちに与えてくださった、神様の素晴らしい恵みだったということです。

イエス・キリストは、すべての人類のために、この素晴らしい恵みを授けてくださいました。しかし十字架の恵みはすべての人が味わえるものではありません。ただイエス・キリストを信じてイエス様を自分の主人として受け入れた者だけが、この恵みを味わうことができます。

また、信者だからといって、みんなが十字架の恵みを味わえることでもありません。   フィガルという先生は、こう言いました。

[十字架の恵みは、私たちが信仰を行使(こうし)する時だけ、体験できる恵みだ。]

イエス・キリストを信じて、私たちが救われたという事実は、変わらない事実であります。しかし救われた後にも私たちは罪を犯します。そしてイエス様を信じているのにも私たちは、相変わらず罪の影響力の中で生きて行きます。なぜでしょうか。それは私たちが信仰を行使(こうし)しなかったからだということです。

私たちが罪より解放されることは、私たちの古い人が死んだという事実を信じて認める時、実際になることです。自分の思いと欲望に従って生きた過去の自分は、イエス様とともに 十字架に死んだという事実を信じて認める時、そしてイエス様を自分の主人として認めて、従う時、私たちは罪の影響力から完全に解放されるということです。

 

 

多くの信者がイエス様を信じながらも、相変わらず自ら自分の人生の主人になろうとします。そして自分の思いと欲望に従って、神様と関係ない人生を生きて行きます。そういう人は、まだ自分の古い人が十字架に死んだという事実を受け入れてないことです。そして自分の 古い人が死んだことを信じない人は、信者でありながらも、依然として罪の影響力の中で、罪人のように生きるしかないということです。

十字架の恵みは、信仰を行使(こうし)する時だけ、味わえる恵みです。十字架の上で死んだのは、 イエス・キリストだけでなく私たちの古い人もともに死んだという事実を、絶対に忘れてはいけません。

イエス様の十字架は、私たちの人生の主人を変えました。もはや私たちの人生の主人は、 イエス・キリストであられることを覚え、いつも信仰の中で、十字架の恵みを豊かに味わう私たちになることを、イエス・キリストの御名によって祝福いたします。

2021/03/21 主日メッセージ   nozomich
≪ 三つの十字架     失う者と得る者 ≫