恵みの雨

三つの十字架

2021年3月14日 ・ のぞみ教会・主日礼拝 

申告告白

聖歌 417 / 418

祈り 木村喜憲牧師

聖歌 540 / 562

聖書 ルカ 23:1-12

説教 <三つの十字架>  木村喜憲牧師

聖歌 593 / 631

献金 <献金の祈り>  木村喜憲牧師

聖歌 383 / 376

祝福の祈り  木村喜憲牧師

 

お知らせ。

◆のぞみ教会のOpen Cell Leaderを建て上げることが出来るように祈りましょう。

3月の教会歴及び予定  ◆http://www.nozomich.net◆  

[2/17-4/3 : 四旬節] ― [3/29-4/3 : 受難週間] ― [4/4 : イースター]

[3/11  : 機関長祈祷会(11時に行いました。)]

[3/28 : 牧会協力委員会祈り会(礼拝後)]

◆3月14日から教会での集会礼拝を再開します。 

◆新型コロナウイルス感染拡大防止にかかる緊急事態宣言の延長に伴いまして、

非対面礼拝を2週間延長し、3月28日から教会での集会礼拝を再開します。 

◆健康回復のためにお祈りをお願いします。

礼拝のための代表祈り 【3/28:山本健太兄】

4/4:安永真一兄、 4/11:三戸貴史兄

献金のための代表祈り 【3/28:高橋文治兄】

4/4:木村喜憲師、 4/11:山本満代姉

三つの十字架

 

本文 : ルカ 23 : 1 - 12

1 そこで、彼らは全員が立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った。

2 そしてイエスについて訴え始めた。彼らは言った。「この人はわが国民を惑わし、  カイザルに税金を(おさ)めることを禁じ、自分は王キリストだと言っていることがわかり ました。」

3 するとピラトはイエスに「あなたは、ユダヤ人の王ですか」と尋ねた。イエスは答えて、「そのとおりです」と言われた。

4 ピラトは祭司長たちや群集に、「この人には何の罪も見つからない」と言った。

5 しかし彼らはあくまで言い張って、「この人は、ガリラヤからここまで、ユダヤ全土で教えながら、この民を扇動(せんどう)しているのです」と言った。

6 それを聞いたピラトは、この人はガリラヤ人かと尋ねて、

7 ヘロデの支配下にあるとわかると、イエスをヘロデのところに送った。ヘロデもその ころエルサレムにいたからである。

8 ヘロデはイエスを見ると非常に喜んだ。ずっと前からイエスのことを聞いていたので、イエスに会いたいと思っていたし、イエスの行う何かの奇蹟を見たいと考えていたからである。

9 それで、いろいろと質問したが、イエスは彼に何もお答えにならなかった。

10 祭司長たちと律法学者たちは立って、イエスを激しく訴えていた。

11 ヘロデは、自分の兵士たちといっしょにイエスを侮辱(ぶじょく)したり嘲弄(ちょうろう)したりしたあげく、はでな衣を着せて、ピラトに送り返した。

12 この日、ヘロデとピラトは仲よくなった。それまでは互いに敵対(てきたい)していたのである。

 

 

今日の本文には、まるで誰が一番罪深い者なのかを(きそ)う、競演大会(きょうえんたいかい)みたいだという思いがするほど、多くの悪人たちが登場しまうす。本文に出てくる人々の姿には、真実もなく、 正義もなく、愛も感じられません。ただみんなが、自分のためにうそをつきながら真実から目をそらすだけです。

ところで、私たちが本文の御言葉を通して見る人々の姿は、十字架につけられる前に、  イエス様が最後に見ておられた人間の姿でした。人類のために十字架を背負って行かれる イエス様が最後に見ておられた人間の姿は、愛らしい姿でもなく、かわいそうな姿でもありませんでした。十字架の前でイエス様が見られた人間の姿は、あまりにも邪悪で、利己的な姿であって、イエス様はそんな人間たちのために十字架を負わなければならなかったのです。

人間の愛には、理由が必要です。すなわち愛すべき理由があってこそ愛を施すことが人間であり、また愛される資格がある存在だけが愛されるのが、私たち人間の愛だということです。ところで、人類のために十字架を背負って行かれるイエス様が見ておられた人間の姿は、 愛すべき理由もなく、愛される資格もない、完全な罪人の姿だったということです。

エペソ 2章 2節と3節で、使徒パウロは、私たち人間がどういう存在であるかを説明します。

2 そのころは、それらの罪の中にあって この世の流れに従い、空中(くうちゅう)の権威を持つ支配者として 今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。

3 私たちもみな、かつては 不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら 御怒りを受けるべき子らでした。

罪人である私たち人間は、自分では罪から逃れることも、より良い存在になる可能性もない存在だということです。一言で、罪に染まった命と腐っている心で続けて罪を犯し、一生涯悪魔に従って生きて、ついには悪魔とともに滅ぼされるしかない存在がまさに人間だということです。それがまさに聖書が言われる罪人という存在であります。

しかし感謝すべきことは、それにもかかわらず、神様は、愛される資格が全くない私たちを愛してくださるということです。

エペソ 2章 4節と 5節で、使徒パウロは、続けて証言します。

4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、

5 罪過(ざいか)の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、―あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです―

イエス様が私たちの代わりに十字架にかかって死なれたのは、私たちに少しでも愛される ような資格があったり、より良い存在になれる可能性があったからではありませんでした。神様が私たちを愛された理由は、ただ一つでした。それは神様が憐れみ深く愛が満ち溢れるお方だったからです。すなわち愛が満ち溢れる神様が、愛される資格がない私たちを愛することに決められたから、私たちが救われるようになったということです。

5節でパウロは、私たちが救われたのは、ただ恵みによるのだと証言しました。私たちが 恵みによって救われたというのは、救いに関する重要な事実を表しています。

聖書で[恵み]という言葉の定義は、[受ける資格のない者に与えられる、神様の贈り物]という意味です。すなわち私たちが恵みによって救われたという言葉は、私たちに救われる ような資格があったからでなく、ただ神様の恵みであり、また神様からの一方的な贈り物 だったということです。すなわち私たちの救いにおいて、私たちが寄与(きよ)したり、貢献(こうけん)した ことが全くないということです。

どうして神様は、愛される資格も理由もない私たちを、そんなにまで愛されて、甚だしくは私たちを愛されるために、一人子イエス様までも私たちに与えることができたでしょうか。私たちの考えと知識としては、神様の愛を理解することもできず、その恵みの深さを測る こともできませんが、使徒ヨハネは、その理由を一言で説明します。

Ⅰヨハネ 4章 16節です。

16 私たちは、私たちにする神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。

神様が私たちを、そんなにまで愛された理由は、神様は愛だからだということです。神様は愛その自体であり、愛の始めであり、愛に満たされておられるお方だから、死んで然るべき罪人である私たちまでも、ご自分の全部を与えてくださるほどに、愛されたということです。すなわち私たちが救われた唯一の理由は、神様が愛であられるからだったということです。

続けてヨハネは、神様からそんな愛を受けた私たちには、守るべき命令があると言いました。

Ⅰヨハネ 4章 21節です。

21 神を愛する者は兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。

神様の条件のない愛によって救われた私たちは、もはや私たちが神様から受けた通りに、 兄弟を愛しなければならないということです。

私たち人間は、人を愛するためには確実な理由が必要ですが、人を憎むことには特に理由が必要ではありません。韓国のことわざの中で[嫁のかかとが、卵みたいだ。]という言葉があります。ある女が自分の嫁、すなわち息子の妻をとても憎みました。それを見てある人が、いったいなぜそんなにまで嫁を憎むのか、彼女に尋ねました。すると彼女の答えがまさに [嫁のかかとが、卵みたいだから]だったそうです。ところでそれが嫁を憎むような理由になるでしょうか。かかとが卵みたいになめらかなことは、むしろ長所ですね。カメの甲羅(こうら) みたいなかかとよりは、卵みたいになめらかなかかとがいいじゃないですか。

[嫁のかかとが、卵みたいだ] ということわざは、人を憎むことには、特に理由が必要ではないという意味です。すなわち人を憎み始めると憎むような理由がなくても憎いということです。

なぜ私たちは、他の人を愛するためには条件が必要ですが、他の人を憎むことにおいては、理由と条件がなくても憎むようになるのでしょうか。それは私たちの心に残っている罪の 本姓が続けて憎みを作り出すからです。だから私たちは、私たちの心が導く通りに生きる ようになると私たちは続けて憎みと罪の実を結ぶしかないのです。

神様が私たちを愛された通りに、私たちも他の人を愛するためには、まず私たちの心が、 神様の愛と恵みで満たされなければなりません。

いつかも申し上げたことがありますが、あるラビが弟子とともにいる時、ならず者たちが 来て彼を嘲弄(ちょうろう)しながら侮辱(ぶじょく)しました。しかしそのラビは、彼らの行いに対応せず、むしろ彼らを祝福したそうです。彼らが離れた後、ならず者たちに対するラビの対応が不満だった弟子がラビに聞きました。

[あいつらは、先生を嘲弄(ちょうろう)して侮辱(ぶじょく)を与えたのに、なぜ先生は、あいつらを祝福されたのですか。]

するとそのラビが、弟子にこう言ったそうです。

[人は誰も、自分が持っているものだけを、他の人に与えることができるのです。]

私たちは、自分が持っているものだけを他の人に与えることができます。他の人を憎んで いるというのは、現在自分の心に憎みがあるという証拠なんです。もちろん、他の人が先に私たちを憎んだり、害を与えたから、憎むようになったかもしれません。

しかし原因が誰にあるか、また誰のせいなのかということとは関係なく、私たちが誰かを 憎んでいるというのは、すくなくとも憎んでいる間は、私たちの心を憎みが満たしているということを表すということです。しかし、もし私たちの心が神様の恵みと愛で満たされて いるとすれば、私たちはあえで意識しなくても、他の人に愛と恵みを施すようになるということです。

神様の条件のない愛によって救われた私たちには、他の人を愛すべき命令が与えられました。ところで、そうするためには、まず私たちの心が神様の愛で満たされなければならないと いうことです。

それなら私たちは、どうやって自分の心を神様の愛と恵みで満たすことができるでしょうか。私たちの心が神様の愛と恵みで満たされるためには、まずすべきことがありますが、それは、もともと自分がどういう存在だったのかを覚えることです。

私の記憶によれば、私がのぞみ教会でした説教の中で、最もたくさん話した言葉は、  [私たちは、死ぬしかない罪人だ。]という言葉であります。イエス様を信じて受け入れた私たちは、すでに罪を赦され、救われました。すでにイエス様を信じて救われたのに、なぜ私たちが罪人だったという事実を思い出させるのでしょうか。なぜなら神様の恵みは自分の罪と霊的な無力さを告白するところに注がれるからです。

ローマ 5章 20節で、使徒パウロは、こう言いました。

20 律法が入って来たのは、違反が()(くわ)わるためです。しかし、罪の増し加わるところ には、恵みも満ちあふれました。

神様の律法がする役割は、私たちの罪を悟らせることです。私たちの心の中に隠されている罪を悟らせて、私たちが死ぬしかない罪人であることを悟らせることがまさに律法の役割だということです。そして律法は、自分の罪を悟った私たちを、イエス・キリストの十字架の前に連れて行きます。すなわち自分の罪のゆえにイエス様が代わりに死なれたという事実、また自分は、ただイエス・キリストの愛と恵みによって救われたという事実を思い出させることがまさに律法の役割だということです。

御言葉を通して自分がどれほど邪悪で、弱くて、不完全な存在なのかを悟るようになると 私たちはイエス様に頼るしかないし、イエス様の助けを求めるしかありません。そして  イエス様の十字架の恵みは、そのように自分の罪と霊的な無力さを認めて、イエス様に頼る者、そしてイエス様の助けを求める者の上に注がれるということです。

十字架の恵みは、ただ自分が罪人であることを覚える者にだけ与えられる恵みです。自分が死ぬしかない罪人だったという事実を覚える時、イエス・キリストが自分のために授けて くださった愛と救いが、素晴らしい恵みだという事実も覚えることができるということです。

私が10年前に見た映画の中で、印象深(いんしょうぶか)かった場面がありました。ある人が、犯罪人たちに新しい人生を生きさせるために、小さな村を作りました。そして死刑囚たちを救い出して、彼らに新しい人生を生きられる機会を与えました。

彼らは、昼には農業を営んで、夜には聖書を学びながら、新しい人生を始めました。死ぬ しかない運命から逃れて、新しい機会を得るようになった彼らの心には、感謝が溢れました。しかし時間が経ちながら、彼らは自分たちがもともとどういう存在だったのかも忘れて、 また自分たちが過去に犯した罪も忘れてしまいました。死ぬしかない死刑囚だった自分の 過去を忘れると彼らは再び罪を犯し始めました。彼らに新しい機会を与えた人が、彼らの 罪を責めながら、悔い改めることを話すと彼らはこう言いました。

[そんな話は、もうやめてください。あなたの話を聞いていれば、まるで自分が罪人にでもなったような気分になって、気持ちが良くありません。]

自分たちが死ぬしかない死刑囚だったことを覚えている間、彼らに与えられた新しい生活は、恵みと感謝が溢れました。しかし自分の過去を忘れた瞬間からは、自分に与えられた恵みも感謝も消えてしまったということです。

キリスト教の象徴が十字架である理由は、私たちが死ぬしかない罪人だったという事実を 思い出させるためです。十字架を見ながら、私たちが覚えるべき事実が二つあります。  一つは、イエス・キリストが私たちのために十字架の上で死なれたという事実、そしてもう一つは、その十字架は、もともと私たちがかかるべき十字架だったという事実です。

罪人であった過去を覚えるべきだという言葉は、罪責感を持って生きなければならないと いう意味ではありません。自分に与えられた救いと永遠の命が、イエス・キリストの恵みによって与えられたという事実を覚えるために、そして私たちの心が、十字架の愛と恵みで 満たされるために、私たちはもともと自分がどういう存在だったのかを覚えるべきだということです。今までの話をまとめます。神様の愛によって救われた私たちには、受けた通りに他の人をも愛すべき使命が与えられました。しかし他の人を愛するためには、まず私たちの心が神様の愛と恵みで満たされなければなりません。なぜなら私たちは、自分が持っている物だけを他の人に与えることができるからです。

ところで私たちの心をイエス・キリストの愛と恵みで満たすためには、もともと自分がどういう存在だったのかを忘れてはいけません。なぜなら御言葉を通して、自分の罪と霊的な 無力さを悟って、イエス様に頼り、イエス様の助けを求める時、十字架の愛と恵みが、  私たちの心に注がれるからです。

ある先生は、毎日イエス様の恵みで満たされるために、自分は、毎朝ゴルコタの丘に登ると言います。それがどういう意味なんでしょうか。ゴルコタはイエス様が十字架につけられた所であり、また罪人の私たちが死ぬべきだった所です。その先生は、神様の御言葉を通して毎日自分が死ぬべき理由、すなわち自分の心に隠されている罪を捜して、告白するそうです。なぜなら使徒パウロが言った通りに、罪の増し加わる所には、恵みも満ちあふれるからです。

私たちもゴルコタの丘に登ることから、一日を始めるようになることを祈ります。聖書の 御言葉を通して、毎日私たちが死ぬべき理由を発見し、自分の罪と霊的な無力さに対する 絶望を持って、もっと固くイエス様に頼るようになることを祈ります。それで私たちの心に十字架の愛と恵みが満ち溢れて、その愛と恵みによって、私たちも隣人を愛するようになることを、主の御名によって祝福いたします。

再び本文に戻ります。十字架につけられる前にイエス様が見ておられた人間の姿は、邪悪で利己的な姿でした。

お金をもらってイエス様を売ってしまった、イスカリオテ・ユダ。

イエス様を三度も知らないと言った、ペテロ。

自分の利益を守るためにイエス様を殺そうとした、宗教指導者たち。

イエス様を訴えるために偽証をした、ユダヤ人たち。

そしてイエス様に罪がないことを知りながらも政治的な目的でイエス様を十字架につけた、ポンテオ・ピラト。

皆さんの考えには、この中で、一番罪深い者は、誰だと思われますか。そして聖書は何を 言われるために、こんなに悪い者たちの姿を聖書に記録しているのでしょうか。本文で、 多くの悪人たちの姿を現している聖書が、結局私たちを連れて行く所はゴルコタの丘です。ゴルコタの丘には、三つの十字架が立っていました。

 

 

ルカ 23章 32節と 33節です。

32 ほかにもふたりの犯罪人(はんざいにん)が、イエスとともに死刑にされるために、引かれて行った。

33「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架に つけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。

イエス様の十字架の左と右には二人の犯罪人もともに十字架につけられました。他の福音書には、彼らが強盗(ごうとう)だったと証言しています。強盗という言葉の通りに、彼らは一生涯多くの罪を犯した人たちであり、死んで然るべき人たちでした。ところが死を目前にした、最後の瞬間に、二人の人生は、正反対に流れてしまいます。

ルカ 23章 42節と 43節です。

42 そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い 出してください。」

43 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」

左側の強盗は、最後までイエス様を非難し、人々を呪いながら死にました。そして彼は、 地獄で自分が犯した罪の代価を自分で払うようになりました。

しかしイエス様の右側の強盗は、最後の瞬間に自分の罪を悔い改め、イエス様を受け入れて天国に行きました。右の強盗も死んで然るべき罪人であり、救われる資格のない人でした。そんな彼が救われたのは、使徒パウロが言った通りに、ただイエス様の恵みによるのでした。

聖書が十字架につけられたイエス様とともに、二人の強盗の姿を、私たちに見せてくれる 理由が何でしょうか。イエス様の左と右にいた強盗の姿は、イエス様の十字架の前に立っている人類の二つの姿を意味します。

結局聖なる神様の御前では、すべての人が罪人だということです。そして誰の罪がもっと 大きいか、誰がもっと罪深い者なのかというのは、あまり重要ではないということです。 神様の御前では、ただイエス様を受け入れた罪人とイエス様を受け入れなかった罪人がいるだけなんです。

イエス様を受け入れた罪人は、自分の救いのために寄与したり、貢献したことがなくても 神様の御前で義と認められて、天国に入るようになります。なぜならイエス・キリストの 恵みによって、すべての罪が赦されて、すべての罪の代価が完全に払われたからです。

しかしイエス様を受け入れなかった罪人は、地獄で自分の罪の代価を自分で払わなければ なりません。なぜなら聖書が言われた通りに、罪の代価は死であり、死後には裁きを受けることが定まっているからです。

今日の本文には、邪悪で利己的な多くの悪人たちの姿が記録されています。その中で誰の 罪が一番大きいでしょうか。そしてその中で誰が一番罪深い者なんでしょうか。

ゴルコタの丘に立っていた三つの十字架は、この質問に対して私たちに確実に答えています。この世で一番大きな罪は、イエス様を十字架につけた罪ではありません。そしてこの世界で一番罪深い者は、イエス様を裏切った者でも、またイエス様を十字架につけた者でもあり ません。

イエス様を受け入れない罪が一番大きな罪であり、イエス様を受け入れなった者が、一番 罪深い者であります。イエス様を裏切っても、またイエス様を十字架につけて殺しても  悔い改めて、イエス様だけ受け入れると赦されて天国に行きます。しかしイエス様を受け 入れない人は、絶対に赦されることも、救われることもできません。

これがまさに、ゴルコタの丘にある三つの十字架が私たちに与えるメッセージであります。

説教をまとめます。

私たちは神様の偉大な愛のゆえに救われました。私たちには、神様に愛される資格もなく、救われるような資格も全くありませんでしたが、ただ神様の恵みによって救われました。 そのように神様から条件のない愛と恵みを受けた私たちには、新しい命令が与えられました。それは、私たちが神様に受けた通りに、私たちも兄弟に愛を施すことです。

この使命を果たすことができるように、まず毎日聖書の御言葉を通して、自分が死ぬべき 理由を捜しましょう。そして自分の罪と霊的な無力さを悟ったならそれを持ってイエス様の御前に進み、もっと固くイエス様に頼りましょう。自分の罪を悟って、イエス様に頼り、 助けを求める人の上に、イエス・キリストが十字架の愛と恵みを注いでくださるはずです。

私と皆さんを通して、より多くの人がイエス様を受け入れて十字架の恵みを悟るようになることを祈ります。イエス・キリストの恵みによって救われたすべての人が、その素晴らしい愛と恵みの中で、永遠の命を味わうようになることを、イエス・キリストの御名によって 祝福いたします。

 

2021/03/14 主日メッセージ   nozomich
≪ あなたがキリストなら     なぜ十字架なのか ≫