恵みの雨

あなたがキリストなら

2021年3月7日 ・ のぞみ教会・主日礼拝 

申告告白

聖歌 425 / 427

祈り 木村喜憲牧師

聖歌 570 / 604

聖書 ルカ 22:63-71

説教 <あなたがキリストなら>  木村喜憲牧師

聖歌 608 / 653

献金 <献金の祈り>  木村喜憲牧師

聖歌 383 / 376

祝福の祈り  木村喜憲牧師

 

お知らせ。

◆のぞみ教会のOpen Cell Leaderを建て上げることが出来るように祈りましょう。

2月の教会歴及び予定  ◆http://www.nozomich.net◆  

[2/17-4/13 : 四旬節]

[3/14 : 牧会協力委員会祈り会(礼拝後)]

[3/28 : 機関長祈祷会(礼拝後)]

◆3月14日から教会での集会礼拝を再開します。 

◆新型コロナウイルス感染拡大防止にかかる緊急事態宣言の延長に伴いまして、

非対面礼拝を2週間延長し、3月28日から教会での集会礼拝を再開します。 

◆健康回復のためにお祈りをお願いします。

礼拝のための代表祈り 【3/28:山本健太兄】

4/4:安永真一兄、 4/11:三戸貴史兄

献金のための代表祈り 【3/28:高橋文治兄】

4/4:木村喜憲師、 4/11:山本満代姉

あなたがキリストなら

 

本文 : ルカ 22 : 63 - 71

63 さて、イエスの監視人どもは、イエスをからかい、むちでたたいた。

64 そして目隠(めかく)しをして。「言いててみろ。今たたいたのはだれか」と聞いたりした。

65 また、そのほかさまざまな悪口(あっこう)をイエスに()びせた。

66 夜が明けると、民の長老、それに祭司長、律法者たちが集まった。彼らはイエスを議会(ぎかい)に連れ出し、

67 こう言った。「あなたがキリストなら、そうだと言いなさい。」しかしイエスは   言われた。「わたしが言っても、あなたがたは決して信じないでしょうし、

68 わたしが尋ねても、あなたがたは決して答えないでしょう。

69 しかし今から後、人の子は、神の大能(たいのう)の右の座に着きます。

70 彼らはみなで言った。「ではあなたは神の子ですか。」すると、イエスは彼らに  「あなたがたの言うとおり、わたしはそれです」と言われた。

71 すると彼らは「これでもまだ証人が必要でしょうか。私たち自身が彼の口から直接  それを聞いたのだから」と言った。

イエス様は、大祭司の家で裁判を受けられました。ユダヤ人の宗教指導者たちがイエス様を訴えた内容は、イエス様が神聖冒涜(しんせいぼうとく)をしたということでした。そしてイエス様を死刑にするために、イエス様に対する偽証をする多くの人の証言を聞きましたが、確実な証拠は何も 見つかりませんでした。

マルコ 14章 55節と56節です。

55 さて、祭司長たちと全議会(ぜんぎかい)は、イエスを死刑にするために、イエスを(うった)える証拠を つかもうと(つと)めたが、何も見つからなかった。

56 イエスに対する偽証(ぎしょう)をした者は多かったが、一致(いっち)しなかったのである。

大祭司がイエス様を死刑にするためには証明するべきことが二つでした。一つはイエス様が自分を神の子だと言ったのか、もう一つはイエス様が自分をキリストだと言ったのかということでした。しかし多くの人が偽証をしてもイエス様を罪に定める証拠を見つからなかった大祭司は、イエス様に自白させるしかありませんでした。結局大祭司がイエス様に直接尋ねました。

マタイ 26章 63節と 64節です。

63 しかし、イエスは(だま)っておられた。それで大祭司はイエスに言った。「私は、生ける 神によって、あなたに命じます。あなたは神の子キリストなのか、どうか。その答えを言いなさい。」

64 イエスは彼に言われた。「あなたの言うとおりです。...

イエス様は、ご自分が神の子キリストだという事実を認められました。するとそれを聞いた人々は、神聖冒涜したイエス様は死刑に当たると叫びました。イエス様は、ご自分に対して真実を言われましたが、その代価は、死刑でした。

この裁判で宗教指導者たちが願っていたのは、イエス様から真実を聞くことではありませんでいた。彼らが願ったのは、イエス様から自分たちが願っている答えを聞くことでした。 彼らが聞きたかった答えは、イエス様がご自分は、キリストでもなく、神の子でもないと いう答えでした。なぜなら宗教指導者たちにとってイエス様は、絶対にキリストであってはいけない存在だったからです。しかしイエス様は、ご自分がキリストであることを認めて、彼らはイエス様を殺すことにしました。

結局イエス様が、その裁判で死刑判決を受けられた理由は、彼らから、キリストとして  認められなかったからです。すなわち宗教指導者たちは、イエス様をキリストであられる ことを信じなかったので、イエス様を殺すことにしたということです。

なぜ当時の宗教指導者たちは、イエス様を信じることができなかったでしょうか。彼らは イエス様の御言葉を聞いたことがなかったのでしょうか。そしてイエス様が起こさせる  素晴らしい奇跡を見たことがなかったからでしょうか。

大祭司にもそして他の宗教指導者にも、イエス様を信じる機会が与えられました。聖書を 読んでみれば、彼らも時には、イエス様が奇跡を起こさせる現場にいました。そして彼らはいつも監視人を遣わしてイエス様が何事を行われ、何を言われたのか、それを全部聞いて いました。

すなわち宗教指導者たちも、イエス様が行われた奇跡を見て、イエス様の御言葉を聞いたということです。それにも関わらず、彼らは、イエス様を最後まで信じなく、キリストとして認めることもできませんでした。なぜなら彼らの基準によれば、イエス様はキリストになるような資格がない人だったからです。

宗教指導者たちが最初にイエス様に対する話を聞いたのは、東方の博士たちを通してでした。マタイの福音書を読んでみれば、ある日、東の方から博士たちが来て、ユダヤ人の王であるキリストが生まれたことを知らせました。するとその話を聞いて、エルサレムが大騒ぎに なりました。

恐れ(まど)ったヘロデ王は、祭司長たちと律法学者たちを集めて、キリストは、どこで生まれるのかと聞きました。すると宗教指導者たちは、預言者の預言を通して、キリストがユダヤのベツレヘムで生まれることを教えてくれました。

ところでここでちょっとおかしいことは、キリストに対して誰よりも良く知っていた当時の宗教指導者たちは、驚いたのでもなく、キリストを捜しに行ったのでもなかったということです。彼らは、キリストを待ち望まなかったのでしょうか。そうではありません。彼らも 他のユダヤ人たちと同様に、キリストを待ち望んでいました。それならなぜ彼らは、東方の博士たちの話を聞いて、キリストを捜そうとしなかったのでしょうか。その理由は、彼らが博士たちの話を信頼しなかったからです。

宗教指導者たちは、自分たちよりキリストに対して良く知っている人もなく、自分たちより聖書の預言について良く知っている人もないと思いました。また自分たちより神様と親密な人もないと思いました。それで、もしキリストが来られる時には、それを一番最初に知る ようになるのは、自分たちだと思いました。

そんな彼らに、外国で来た異邦人に過ぎない博士たちの話が、信じられるはずがありませんでした。結局当時の宗教指導者たちは、信仰的な高慢のゆえにキリストの誕生を悟ることもできず、キリストを迎えることもできなかったということです。そしてその以降にも彼らはその高慢のゆえに、イエス様をキリストとして認めることができませんでした。

彼らはイエス様がキリストになる資格がないと思いました。なぜならイエス様はガリラヤのナザレという(とぼ)しい田舎(いなか)の出身だったからです。またイエス様は、権勢のある家で生まれた人でもなく、有名なラビのもとで学んだ人でもなかったからです。すなわちイエス様には、彼らが認めるような条件が、たった一つもなかったということです。

もちろんイエス様が行われた奇跡は素晴らしかったし、イエス様の教えは特別でしたが、 イエス様の出身と条件のゆえにイエス様をキリストとして認めることができなかったということです。それで彼らは、論理的に説明できないイエス様の能力は悪霊の力だと結論を下し、イエス様の教えは、律法を良く知らない人の思い違いに過ぎないと無視してしまったのです。

結局宗教指導者たちは、最後までイエス様をキリストとして認めませんでした。イエス様と同じ時代を生きながら、キリストであられるイエス様を直接見て、イエス様の御言葉を直接聞いたのにも、結局救われなかったということです。

これは私たちにとても重要な事実を表しています。それは、高慢な人は、イエス様の奇跡を自分の目で見てイエス様の御言葉を自分の耳で聞くとしても、その高慢のゆえに悟ることができないということです。高慢というのは、こんなに怖い罪だということです。

イエス様の当時にも、そして今も、人々はイエス様にしるしを求めます。イエス様を信じることができるように奇跡とか特別な霊的体験を経験させてくださることを祈ります。そして奇跡を見せてくだされば、今よりもっと熱心に信じて、良い信者になると言います。しかし奇跡や特別な霊的体験は、しばらくの間私たちの信仰を助けることはできますが、私たちをしてイエス様を信じさせることはできません。

人類の歴史上、一番多くの奇跡を経験した人たちは、荒野で生活したイスラエルの民でした。彼らは、神様が(とお)(わざわ)いを通してエジプトを裁かれて、自分たちを救い出される奇跡を 経験しました。何もない荒野で40年間マナを食べて、自分たちを守っている、雲の柱と火の柱を40年間見ながら生きました。また彼らは、目の前で(あし)(うみ)が分かれることを目撃して、神様が自分たちのために戦ってくださることを見ました。

それなら、そんなに数多くの奇跡を経験したイスラエルの民は人類の歴史上、最も信仰深い信者になったでしょうか。そうではありません。彼らは、奇跡の現場で生きながらも続けて神様の約束を疑い、不平不満を重ねながら、再びエジプトの奴隷の生活に戻って行こうと しました。奇跡は、そして特別な霊的体験は、私たちの信仰を助けることはできますが、 イエス様を信じさせることはできないということです。

結局大祭司をはじめ、当時の宗教指導者たちが、イエス様を信じなかった理由は、奇跡を 経験しなかったからでもなく、御言葉を聞けなかったからでもなかったということです。 彼らの心の高慢のゆえに、イエス様をキリストとして信じることもできず、またキリストを必要ともしなかったということです。

それならイエス様が神の子であられることを悟った人たち、そしてイエス様がキリストで あることを信じた人たちは、どんな人たちだったでしょうか。

ヨセフとマリヤを除いて、キリストがお生まれになったことを一番先に知るようになった 人たちは、羊飼いたちでした。野宿(のじゅく)夜番(よばん)をしながら羊の群れを見守っていた羊飼いたちは、御使いから、キリストがお生まれになったという知らせを受けました。すると羊飼いたちは、急いでベツレヘムに行って、飼い葉おけに寝ておられるイエス様に敬拝(けいはい)し、神様を賛美したと聖書は証言しています。ところでなぜ神様は、イエス様の誕生をユダヤの王や宗教指導者たちではなく、羊飼いたちに一番先に知らせてくださったのでしょうか。

イエス様の当時にユダヤの主要産業(しゅようさんぎょう)は、農業でした。カナンの地に定着した後にユダヤが農耕社会(のうこうしゃかい)に変わりながら、羊飼いたちは、だんだんユダヤの社会から疎外(そがい)され、無視されるようになりました。そしてイエス様の当時に至っては羊飼いたちは人々からホームレスとか浮浪者(ふろうしゃ)扱いをされたそうです。すなわちユダヤ社会で羊飼いたちは、一番無視される人たちであって最も貧しい人たちだったということです。甚だしくは当時の羊飼いたちは裁判所で証人として認められることさえもできないほどにイメージが良くなかったそうです。それ なのに神様は、ユダヤ社会で最も貧しくて、無視されていた羊飼いたちにキリストの誕生を一番先に知らせてくださったということです。

またイエス様が公生涯を始められた後、最も積極的に福音を受け入れて、救われた人たちも宗教指導者たちではなく、罪人と貧しい人、そして病気になった人たちでした。この事実が私たちに与えるメッセージは何でしょうか。結局自分に対して自慢するようなことのない 人たちが、先に福音を悟って救われたということです。

だからと言って、イエス様が貴族たちや宗教指導者たちには、福音を伝えなかったり恵みを授けてくださらなかったことではありません。羊飼いたちが、一番先にキリストの誕生に ついて聞きましたが、ヘロデ王と宗教指導者たちも、東方の博士たちを通して、キリストの誕生について聞きました。

またイエス様は収税人と罪人の友になってくださいましたが、宗教指導者たちもイエス様の御言葉を聞いて、イエス様が起こされる奇跡を見ました。すなわち、イエス様をキリスト として信じる機会は、すべての人に与えられたということです。

 

しかしそれにも関わらず、結局イエス様を信じて救われた人たちのほとんどは自分に対して自慢するようなことのない人たちだったということです。なぜなら自分に対して自慢する ようなことがない人たちには、自分の霊的な無力さを認める謙遜な心があったし、また  イエス様が自分の唯一の希望だと信じる、貧しい心があったからです。

結局私たちの信仰生活において最も必要なものは、奇跡もなく、特別な体験でもないということです。イエス様の恵みを豊かに味わうために、私たちに必要なことは、謙遜で、貧しい心だということです。

イエス様が福音書で、種を蒔く人の比喩を言われました。

ルカ 8章 5節から 8節までです。

5 「種を蒔く人が 種蒔きに出かけた。蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。 すると、人に踏みつけられ、空の鳥がそれを 食べてしまった。

6 また、別の種は岩の上に落ち、()()たが、水分(すいぶん)がなかったので、()れてしまった。

7 また、別の種は いばらの中に落ちた。ところが、いばらも いっしょに生え出て、それを()しふさいでしまった。

8 また、別の種は 良い地に落ち、生え出て、百倍のを結んだ。」イエスは、これらのことを話しながら「聞く耳のある者は聞きなさい。」と(さけ)ばれた。

種を蒔く人が蒔いた種は、良い地にだけでなく、道ばたにも、岩の上にも、そしていばらの中にも落ちました。しかし種が実を結んだ地は、良い地だけだとイエス様が言われました。

ここで四つの地は、私たちの心を意味します。すなわちすべての人に福音の恵みが与えられますが、ただ謙遜で、貧しい、良い心を持っている人だけが、イエス様の恵みを悟ることができるし、またその恵みを通して美しい実を結ぶことができるということです。

それなら種が落ちた四つの地は、それぞれ違う畑だったでしょうか。そうではありません。道ばたも、岩も、いばらも、良い地も、全部同じ畑の中にある土地でした。ただ決定的な 違いは、その地が、耕されたのか耕されなかったのかということにありました。

耕すことは何ですか。道ばたのように固くなった土は、すき起こして、やわらかい土にして、土の中にある岩とかいばらを取り除いて、良い地にすることがまさに耕すという意味です。

 

ところで預言者ホセアは、ホセア 10章 12節(新共同訳)でこう言いました。

12 恵みの(わざ)をもたらす種を蒔け愛の実りを刈り入れよ。新しい土地を(たがや)せ。主を求める時が来た。ついに主が(おとず)れて恵みの雨を注いでくださるように。

預言者ホセアは、神様が授けてくださる恵みを受けるために、新しい土地のような私たちの心を耕せと言いました。新改訳聖書には、新しい土地と翻訳されていますが、元の意味は、耕されてない、古い土地という意味であります。すなわち罪と不信仰でいっぱいとなって いる私たちの高慢な心を、耕して良い心に変えなさいということです。

それなら私たちは、どうやって私たちの心を耕すことができるでしょうか。私たちは神様の御言葉という[(すき)]を通して、私たちの心を耕すことができます。神様の御言葉は、私たちの心の中にある、不信仰の岩と思い煩いのいばらを見つけさせ、それを取り除ける信仰を与えます。また神様の御言葉は、罪によって固くなり、忙しい生活の中で鈍くなった私たちの 心を、恵みと悔い改めを通して、すき起こします。そのように私たちは、神様の御言葉を 通して、また祈りを通して、私たちの心を耕すことができるのです。

そしてそのように神様の御言葉によって私たちの心が耕されると、神様が私たちの心に  恵みの雨を注いでくださるということです。神様の御言葉を通して私たちの心を耕す作業を、デボーションと言います。そして私たちの心を耕すこの作業は、私たちが天国に行くまで、続けなければなりません。

信仰生活は、神様の御言葉によって私たちを変化させ、神様のみこころに私たちを合わせて行く過程であります。そういうわけで、神様の御前に進む時、私たちはいつも自分の変化に対する覚悟を持って行かなければなりません。

イエス様の当時の宗教指導者たちは、誰よりも聖書の御言葉を良く知っている人たちであり、誰よりも聖書をたくさん読んで、研究する人たちでした。それなのになぜ彼らはイエス様の御言葉を悟ることができなかったのでしょうか。彼らは心の畑に種はいっぱい蒔きましたが、神様の御言葉で自分の心を耕そうとはしなかったからです。神様の御言葉に対する知識は、ありましたが、その御言葉の通りに変化する覚悟はなかったということです。彼らは神様の御言葉によって自分を変化させようとはせず、むしろ神様の御言葉を、自分の状況と立場に有利な方向に解釈しました。そのように神様の御言葉の前で高慢な心と態度を捨てなかった彼らに、イエス様が宣べ伝える御国の福音が、悟られるわけがなかったのです。

 

神様は、御言葉によって耕された、謙遜な心に恵みの雨を降り注いでくださいます。そして福音の種も、耕された心に蒔かれた時、美しい実を結びます。

いつも謙遜な心で神様の御言葉を聞く、私と皆さんになることを祈ります。そしていつも 神様の御言葉の通りに変化されようという決心を持って神様に礼拝する私たちになることを主の御名によって祝福いたします。

宗教指導者たちは、高慢のゆえに、結局イエス様を神の子としても、またキリストとしても信じることができませんでした。それなら最後に一緒に考えてみたいことは、イエス様を 神の御子として、またキリストとして信じるというのは、どういう意味なんでしょうか。

聖書を読んでみれば、イエス様がどんな方なのかについて最も正確に話した人がいましたが、それはペテロでした。

マタイ 16章 16節でペテロは、こう告白しました。

16 シモンペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」

ペテロの言葉は、一言の短い告白でしたが、その中には、私たちが持つべき、重要な信仰の告白が入っていました。そしてペテロの告白は、イエス様を信じるというのがどういう意味なのかをよく表しています。

[一番目に、ペテロは、イエス様がキリストであられることを信じました。]

過ぎた時間にも申し上げましたが、イエス様の職分であるキリストというのは、ただ人類の罪を贖うために存在する職分でした。キリストという存在は、ただ罪人を救うための存在であります。そういうわけで自分が罪人であることを認めない人に、キリストという存在は、必要も意味もないということです。だからキリストを信じるというのは、自分が死ぬしか ない罪人であることを認める人にだけできることです。

ペテロがイエス様をキリストとして信じたというのは、イエス様がどんな方なのかを知っていたという事実より先に、自分が罪人であることを悟ったということを意味します。そして罪人である自分の絶望的な運命を知っていたので、彼はキリストであられるイエス様を受け入れて、自分のすべてをイエス様に委ねたのです。そしてすべてを捨てて、イエス様に付き従いました。なぜならイエス・キリストを失うことこそ、すべてを失うことだという事実を、ペテロは知っていたからです。イエス様をキリストとして信じるということは、このように自分が死ぬしかない罪人であることを認めて、ただイエス様にすべての希望をかけるという意味があるのです。

[二番目に、ペテロは、イエス様が神様の子どもであられることを信じました。]

イエス様が神の御子だという言葉の意味は、イエス様がまさに神様だという言葉と同じ意味であります。イエス様は、生きておられる神様であられます。そして今も私たちとともに おられるインマヌエルの神様であります。そのイエス様に解決できない問題はありません。イエス様は、私たちに必要なものが何かを、誰よりも良く知っておられ、またそれを折に 適って、私たちに与えられる力があるお方であります。

イエス様は、私たちを最善の道へ導いてくださるお方であり、私たちの試練と悲しみまでも、祝福に変えることのできるお方であります。イエス様は、すべてのことを働かせてご自分の計画を成し遂げられる全能の神様であられます。イエス様が神様だから私たちはイエス様に私たちのすべてを委ねることができるのです。

私たちはイエス様に何かを求める先に、私たちの祈りに答えてくださるイエス様が、どんな方であられるかを覚えなければなりません。神様であられるイエス様は全能なる神様らしく働かれます。イエス様は私たちの祈りに答えてくださいますが、私たちが願っていること よりもっと素晴らしい計画を持って働いてくださいます。それでイエス様の働きは、時には、私たちの考えとは違う時がありますが、それは、イエス様が私たちの祈りよりもっと大きな計画を持っておられるからなんです。

イエス様の当時に多くの人たちがイエス様に健康を求めましたが、イエス様が魂を救われる救い主であることは知りませんでした。大勢の人が、イエス様に来て、奇跡のパンを求め ましたが、イエス様がまさに永遠の命をくださる、命のパンであられることは知りません でした。しかしペテロは、イエス様がまさに生ける神の御子であり、また神様であられる ことを信じました。だからペテロは、自分の人生をイエス様に委ねて、イエス様に付き従うことができたのです。

人生のすべての問題の答えがイエス様にあります。そういうわけで、何が何でも、私たちが必ず受けるべきことは、イエス様の恵みであります。そしてどんな試練の中にあるとしてもイエス様だけ握っていれば、そしてイエス様に頼りながら祈れば、私たちは必ず祝福の道に行くことができます。イエス様は私たちに、問題と悩みを持って、イエス様に来いと言われました。そして求めて祈れば、与えてくださるとも約束されました。イエス様が、神様の 御子であられることを信じるというのは、私たちの人生のすべてをイエス様に委ねる信仰を意味します。すべてをイエス様に委ねて、イエス様の御言葉に耳を傾け、イエス様に従う ために努力することが、イエス様を神の御子として信じる、私たちのすべきことであります。

大祭司と宗教指導者たちは、イエス様が神の御子であることも、またキリストであることも信じませんでした。それで彼らは、イエス様の御言葉を聞いてイエス様の奇跡を見たのにも滅びました。

私たちは、イエス様が神様の御子、キリストだという事実を信じて、イエス様を私たちの 主人として受け入れました。そのように救われた私たちは、その信仰の告白にふさわしい 人生を生きなければなりません。

神様の御言葉が私たちの人生を変化させるように、毎日御言葉を通して心を耕す私たちに なることを祈ります。そして謙遜で貧しい心を持って、ただイエス様だけを自慢する、私と皆さんになることを、イエス・キリストの御名によって祝福いたします。

 

2021/03/07 主日メッセージ   nozomich
≪ 信仰の破産     三つの十字架 ≫