恵みの雨

信仰の破産

2021年2月28日 ・ のぞみ教会・主日礼拝 

申告告白

聖歌 590 / 628

祈り 木村喜憲牧師

聖歌 506 / 524

聖書 ルカ 22:54-62

説教 <信仰の破産>  木村喜憲牧師

聖歌 606 / 650

献金 <献金の祈り>  木村喜憲牧師

聖歌 383 / 376

祝福の祈り  木村喜憲牧師

 

お知らせ。

◆のぞみ教会のOpen Cell Leaderを建て上げることが出来るように祈りましょう。

2月の教会歴及び予定  ◆http://www.nozomich.net◆  

[2/17-4/13 : 四旬節]

[3/14 : 牧会協力委員会祈り会(礼拝後)]

[3/21 : 機関長祈祷会(礼拝後)]

◆3月14日から教会での集会礼拝を再開します。 

◆入木早紀子姉の姑さんが19日天に召されました。主の慰めを祈ってください。

◆健康回復のためにお祈りをお願いします。

 

信仰の破産

本文 : ルカ 22 : 54 - 62

54 彼らはイエスを捕らえ、引いて行って、大祭司の家に連れて来た。ペテロは遠く離れてついて行った。

55 彼らは中庭(なかにわ)の真ん中に火をたいて、みなすわり込んだので、ペテロも中に()じって腰をおろした。

56 すると、女中(じょちゅう)が、火あかりの中にペテロのすわっているのを見つけ、まじまじと見て言った。「この人も、イエスといっしょにいました。」

57 ところが、ペテロはそれを打ち消して、「いいえ、私はあの人を知りません」と言った。

58 しばらくして、ほかの男が彼を見て、「あなたも、彼らの仲間だ」と言った。しかし ペテロは、「いや、違います」と言った。

59 それから一時間ほどたつと、また別の男が、「確かにこの人も彼といっしょだった。 この人もガリラヤ(じん)だから」と言い張った。

60 しかしペテロは、「あなたの言うことは私にはわかりません」と言った。      それといっしょに、彼がまだ言い終えないうちに、鶏が鳴いた。

61 主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う」と言われた主のおことばを思い出した。

62 彼は、外に出て、激しく泣いた。

破産という言葉がありますね。破産という言葉の辞書的な意味は、[財産をすべて失うこと]であります。ところで信仰生活においても、破産はあります。時には私たちが信仰を失ってまるで信仰が破産されたような経験をする時があるということです。イエス様の弟子ペテロにもそんな経験がありました。それはペテロの人生において最も辛い経験でありながら、 また最も尊い経験でもありました。

今日は、本文を通して信仰が破産された時、私たちがすべきことは何かについて、皆さんと一緒に考えてみたいと思います。

イエス様の弟子たちの中で一番熱情的な人は、ペテロでした。ペテロは、イエス様を愛することだけは、誰にも負けられないと思うほどイエス様を愛しました。そして彼はイエス様といっしょになら、死ぬことまで覚悟されていると告白した人でした。それは彼の本気でした。イエス様に対するペテロの愛は本物であって彼は本当に死ぬまでイエス様に付き従うつもりでした。しかしそう話しているペテロに、イエス様がこう言われました。

ルカ 22章 33節と 34節です。

33 シモンはイエスに言った。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」

34 しかし、イエスは言われた。「ペテロ。あなたに言いますが、きょう(にわとり)()くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」

ペテロの心が本気であることをイエス様もご存じでしたが、イエス様はペテロが、三度も イエス様を知らないと言うはずだと言われました。その時までも自分に何事が起こるか全然知らなかったペテロは、イエス様のその言葉がとても寂しく感じられたかもしれません。 そしてイエス様が、自分の心と信仰を認めてくださらないと思ったかもしれません。

ところで今日の本文で、ペテロは、自分が持っている覚悟と信仰が、死という恐れの前で、粉々に砕け散ることを経験するようになります。死の恐れの前で、ペテロは、自分が持っていた信仰と意志を全部失ってしまうようになります。一言で言えば、ペテロは、信仰が破産される経験をするようになるということです。

イエス様が大祭司の家に引かれて行く時、ペテロは遠く離れてついて行きました。そして イエス様が大祭司の家で裁判を受ける時、ペテロは、人々といっしょに中庭で火に当って いました。ところでその時、そこにいた人の中には、ペテロがイエス様の弟子であることを知っている人がいました。

本文 56節と 57節です。

56 すると、女中が、火あかりの中にペテロのすわっているのを見つけ、まじまじと見て 言った。「この人も、イエスといっしょにいました。」

57 ところが、ペテロはそれを打ち消して、「いいえ、私はあの人を知りません」と言った。

ある女中が、人々の前でペテロはイエス様の弟子だと言いました。すると慌てたペテロは、自分はイエス様を知らないと言ってしまいました。

 

しばらくして、ほかの人がペテロを見ながらペテロは確かにイエス様の仲間だと言いました。するとペテロは、またイエス様を知らないと言いました。そして一時間ほど経って、また 別の男が、ペテロがガリラヤ人だという証拠をあげて間違いなくペテロはイエス様の弟子だと言いました。すると窮地(きゅうち)に追い込まれたペテロは、イエス様を呪いながらまで、自分は イエス様を知らないと言いました。

本文 61節と 62節です。

61 主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う」と言われた主のおことばを思い出した。

62 彼は、外に出て、激しく泣いた。

ペテロが三番目にイエス様を知らないと言い終えないうちに、鶏が鳴きました。イエス様が言われた通りに、鶏が鳴くまでに、ペテロが三度もイエス様を知らないと言ったのです。 鶏の鳴き声を聞いてこそ、初めてペテロは、自分が何をしてしまったのかを悟りました。

[自分はイエス様を知らない]とペテロが三番目に言った時ペテロは自分を見つめておられるイエス様と目が合いました。そしてペテロは、耐えられない罪責感と悲しみのゆえに、外に出て激しく泣いたと聖書は証言します。

ペテロはイエス様の弟子であって、さらに他の弟子たちよりも、もっと多くの奇跡を経験 した人でした。そしてイエス様に向う彼の愛と信仰の告白は本気でした。そんなペテロの 信仰が、死の恐れの前で破産してしまったのです。

本文の出来事は、ペテロには忘れられない記憶であり人生において最も辛い記憶でした。 ところでなぜ聖書は、ペテロの事をこんなに具体的に記録しているのでしょうか。ペテロがどんなに悪い者であるか、彼の信仰がどんなに小さかったのかを表すためなんでしょうか。

聖書はペテロを通して、私たちの姿を見せているのです。なぜなら私たちもペテロのように誘惑と試練の前で、私たちが持っている信仰を全部失ってしまう、信仰の破産を経験する 時があるからです。

聖書は、イエス様を知らないと三度も言ってしまったペテロが、外に出て激しく泣いたと 証言します。というのは、イエス様を裏切ったのは、ペテロの本気ではなかったということです。ペテロも自分に何事が起こっているのか、これから状況がどうなるか知らないままで、大祭司の家までついて行きました。ついて行きながらもし危機の瞬間が訪れたらイエス様を知らないと言おうと計画したのでもありません。

むしろペテロは、その時までも自分はイエス様といっしょになら、死ぬことまでもできると思っていました。

しかし思いがけない危機が訪れて、本当に死ぬかもしれないという恐れが訪れた瞬間、彼は生きるために、本能的にイエス様を裏切ってしまったのです。人の信仰と覚悟というのは、こんなに弱くて不完全なものだということです。

平安な時には、だれも良い信仰を持っているように見えます。そして平安な時の私たちは、自分がイエス様を裏切ったり信仰を捨てるようになるかもしれないとは思いません。しかし私たちの信仰は、誘惑と危機に会ってこそ、初めて実体が現れます。すなわち誘惑と試練が訪れたら、私たちもペテロのように信仰を失ってイエス様を裏切ることもできるし、また 自分の意志とは関係ない選択をすることもできるということです。だから私たちは、自分の信仰を自慢したり、また自分の信仰を信頼したりしてはいけないのです。

また私たちは、他の人の試練と失敗を見ながらその人の信仰に対して判断してもいけません。なぜなら結局人間は、同じ状況を経験してみないとその人の苦しみと恐れについて100% 分かることはできないからです。

私たちが思っている自分の信仰は、実際よりも大きくて、きれいに包装されている場合が 多いです。しかし自分が思う自分の信仰の大きさと深さは、試練と危機を通して証明される前には、実体がある信仰だとは言えません。

アブラハムは神様を信じてまた愛しました。しかし一人だけの息子イサクを全勝のいけにえとして捧げなさいという命令に従った時、その信仰と愛が本物として証明されて実体のある信仰となりました。

私たちが持っている信仰もそれと同じだということです。私たちの信仰は試練を通して証明される前には、その実体を知ることができないので、自分の信仰を自慢したり自分の信仰を信頼してはいけないといことです。むしろ私たちがすべきことは、自分の信仰がどんなに 弱くて、不完全なものなのかを理解して認めることです。そしてどんな誘惑と試練の前でも信仰を守ることができるように、続けて神様の助けを求めながら神様に頼ることが私たちのすべきことであります。

聖書が見せてくれるペテロの姿は、私たちに人間の普遍的(ふへんてき)な姿であります。ペテロを通して聖書は、私たちの弱い意志と不完全な信仰について言われているのです。そして誰も試練と恐れの前でペテロのように信仰の破産を経験する時があるということを言われているのです。

それなら聖書が、ペテロの過去について記録しているのは、ただ私たちがどんなに弱くて、不完全な存在であるかを見せることだけが目的なんでしょうか。そうではありません。  これから私たちに重要なことは、試練の前で信仰の破産を経験した後、私たちはどうすればいいかということが重要なことであります。

イエス様は、ペテロを弟子とされる前から、ペテロが自分を裏切るようになることを知っておられました。それにも関わらず、イエス様がペテロを弟子として選択されたというのは、どういう意味なんでしょうか。それはイエス様に重要なことはペテロがイエス様を裏切るかどうかということではなかったということです。

信仰が破産されたペテロに、イエス様が何を願っておられたのかというのは私たちにとても重要です。なぜなら信仰を失ったペテロにイエス様が願われたのは、信仰を失った私たちに願っておられることでもあるからです。

イエス様は、復活された後、再び弟子たちにやって来られました。

ヨハネ 20章 19節です。

19 その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。  「平安があなたがたにあるように。」

[一番目に、イエス様が弟子たちとペテロに願っておられたのは、彼らの平安でした。]

復活されたイエス様が弟子たちに来られて、最初に言われた言葉は、[平安があなたがたにあるように。] という言葉でした。ここで平安という言葉には、二つの意味がありますが、一つは、平安という意味で、もう一つは、平和という意味であります。

イエス様を裏切った弟子たちにとって一番辛いことは、何だったでしょうか。弟子たちは イエス様がキリストであることを知っていました。しかしキリストであられるイエス様を 最後まで付き従うことができず、恐れのゆえに裏切ってしまいました。さらに自分たちが 裏切ったそのイエス様が復活されて目の前に現れた時、弟子たちは何を思ったでしょうか。

[私は、天国には行けないだろう。]

[私は、絶対にイエス様に赦されないだろう。]

たぶん弟子たちは、こんな思いのゆえに悲しくて、怖かったはずです。

 

しかしイエス様は、そんな弟子たちの心をあまりにもよく知っておられ、それが弟子たちをどんなに苦しめているかもよく知っておられました。それで弟子たちに来られたイエス様は、一番最初にこう言われました。

[平安があなたがたにあるように。]

イエス様は、弟子たちが過ぎた過去の過ちのゆえに苦しんでいることを願わなかったということです。罪責感につまずいて、自らイエス様を離れるようになることを望まなかったと いうことです。むしろイエス様が弟子たちに望んでおられたのは、イエス様が約束の通りに復活されたという事実のゆえに喜びながら、平安を味わうことでした。

そしてそれができるように、イエス様は弟子たちの前で平和を宣言されたのです。すなわち裏切られたイエス様が、裏切った弟子たちに来られて、先に和解の手を伸ばしてくださったということです。聖書を読んでみれば、イエス様は復活された後、天に昇られるまで40日間、弟子たちとともにおられましたが、弟子たちがイエス様を裏切ったことに対しては、一度も言われませんでした。

私たちも人生の中で訪れる試練と恐れのゆえに信仰の破産を経験する時があります。時には誘惑に陥って罪を犯す時もあり、時には試練と失敗のゆえに信仰を完全に失ってしまう時もあります。そして気が付いてみるともうイエス様から遠ざかっている自分を見つけるようになります。私たちの信仰が破産されて、イエス様から遠ざかった時、イエス様が私たちに 願われることは何でしょうか。それはまさに平安であり、また平和だということです。

私たちが罪を犯したり、失敗したとき、最後まで私たちを赦してくれない存在がいますが、それはまさに自分自身です。しかし私たちが覚えるべきことはイエス様は私たちを呼ばれる前に、私たちがイエス様をどれほどたくさん裏切って罪を犯すようになるかをすでに知っておられたという事実です。

エペソ 1章 4節と 5節(新共同訳)で、パウロは言います。

4 天地創造(てんちそうぞう)の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者に しようと、キリストにおいてお選びになりました。

5 イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。

パウロは、神様が私たちを天地創造の前にキリストにおいて選んでくださったと証言します。ところでキリストにおいて私たちを選ばれたという言葉は、どういう意味なんでしょうか。いつかも申し上げましたが、キリストというのは、イエス様の職分であり、イエス様の役割でした。ところでキリストというのは、ひたすら人の罪を贖うために存在する職分でした。

すなわち神様が、天地を創造される前に、キリストにおいて私たちを選ばれたというのは、私たちが罪を犯すことも、また神様を裏切ることも、そして何回も信仰の破産を経験する ことも全部知っておられたということです。そしてそんな私たちを赦されて助けてくださるために、先にキリストを備えておいてから、天地を創造されたということです。

イエス様が私たちに願っておられるのは、罪責感でもなく、私たちが自ら自分を罪に定めることでもありません。イエス様はいかなる場合でも私たちがイエス様との親密な関係の中で平安を味わうようになることを願っておられます。それがまさに私たちに向うイエス様の みこころであることを、私たちは忘れてはいけません。

[二番目に、イエス様がペテロに願っておられたのは、立ち直ることでした。]

ルカ 22章 31節と 32節です。

31 シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。

32 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。

イエス様はペテロが三度もイエス様を知らないと言うことを知っておられました。ところが自分を裏切るその弟子のためにイエス様のなされたことが何だったでしょうか。イエス様は、ペテロが罪責感のゆえに信仰を失って、イエス様を離れることがないようにペテロのために祈られました。そしてイエス様は、ペテロにこう言われました。

[あなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。]

イエス様は、ペテロが信仰を失うとしても必ず立ち直らなければならないと言われました。立ち直るという言葉は、もとの所に戻ってくるというい意味があるギリシャ語です。

イエス様はしばらくの間、ペテロが自分に失望してイエス様から遠ざかるようになることを知っておられました。そして信仰を失って、さまようようになることも知っておられました。しかしイエス様は、ペテロに絶対にイエス様を裏切ってはならないとか、絶対に失敗してはいけないとは言われませんでした。

 

むしろイエス様はペテロが失敗するしかない弱い存在であることを理解してくださいました。イエス様はペテロに言われました。

[あなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。]

これがどういう意味なんでしょうか。

[あなたは、信仰を守ることに失敗するでしょう。私を裏切るしかないはずです。しかし、それでも絶対にあきらめずに、私に戻って来なさい。]という意味でした。

ペテロが人々の前で、イエス様を知らないと三番目に言った時、ペテロは自分を見つめて おられるイエス様と目が合いました。しかしペテロを見つめておられるイエス様の目つきは、冷たい目つきではありませんでした。自分を非難したり失望した目つきもありませんでした。むしろイエス様の目つきはペテロが何ども見てきたことでした。罪人に福音を宣べ伝える時、病人を憐れんでくださる時、そして絶望した人に希望を与える時、イエス様から見たその 目つきでした。イエス様は、その目つきで、ペテロに[大丈夫]と話しておられました。また絶対にあきらめてはいけないと話していました。その目つきが話しているイエス様の心を あまりにも良く知っていたので、ペテロは悲しくて激しく泣くしかなかったのです。

聖書がペテロの失敗に対して私たちに言われるのは、イエス様は、私たちがどんなに弱い 存在であるかを理解しておられるということです。そしてペテロを罪に定められなかった イエス様は、私たちの信仰が破産されて、イエス様から遠ざかった時にも、私たちを罪に 定められないということです。そして最後の瞬間にも、ペテロのために祈られたイエス様は、今も私たちのために祈っておられるということを私たちに言われているのです。

イエス様が私たちに望んでおられることは私たちが失敗しないことではありません。時には信仰を守ることに失敗して、時には信仰が破産される時もあるでしょう。しかしそれでも 再びイエス様に戻って行くこと、それがイエス様が私たちに本当に願っておられることです。

イエス様は、ペテロを赦されて、彼を罪に定めなかったですが、ペテロは自分を赦すことができませんでした。それでペテロは、再び漁師の生活に戻るために、他の弟子たちと一緒にガリラヤ湖に行きました。

ペテロは、相変わらずイエス様を愛していましたが、もはや誰の前でも自分がイエス様を 愛しているとは言えませんでした。そしてイエス様の右の座に座ろうという期待は、なく なってしまって、やはり自分は、漁師にふさわしい存在だと思いました。

そのようにペテロは自ら自分を罪に定めて、イエス様に付き従うことをあきらめましたが、イエス様はそんなペテロに再びやって来られました。弟子たちが舟から降りて地に着くと イエス様が火を()いて、その上に魚とパンを焼いておかれました。

大祭司の中庭で、火にあたっていたペテロは、三度もイエス様を知らないと言いました。 そして火にあたっているペテロに、イエス様が尋ねられました。

[あなたは、この人たちの以上に、わたしを愛しますか。]

するとペテロが、イエス様に答えました。

[主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。]

イエス様は、ペテロに三度同じ質問をされて、ペテロはイエス様に三度同じく答えました。なぜイエス様は、三度も同じ質問をされたのでしょうか。

イエス様を三度も知らないと言ったペテロは、本当に自分がイエス様を愛しているか自信もなく、もはや人の前でイエス様を愛すると言うこともできませんでした。しかしそれでも 明らかな事実は、もはやペテロは、イエス様がなければ生きていけない存在になったということでした。

イエス様は、そんなペテロの心をしっておられました。それでペテロのために同じ質問を 三度も言われたのです。イエス様はペテロの告白を通して、ペテロの愛が本物であることをみんなの前で認めてくださったのです。そしてイエス様がペテロにこう言われました。

[私の小羊を飼いなさい。私の羊を牧しなさい。私の羊を飼いなさい。]

[イエス様がペテロに願っておられたこと三番目は、信仰の兄弟たちを顧みることでした。]

ペテロはイエス様と一緒に十字架にかかることはできませんでした。しかし結局ペテロは、イエス様のように十字架にかかって死ぬようになります。

私たちの信仰は、誘惑と試練を通して実体が現れます。しかし私たちが信仰を失って信仰が破産されるとしても、再びイエス様に戻って行けば、イエス様は、私たちの弱くて不完全な信仰が、実体のあるまことの信仰になるように助けてくださるはずです。そのように多くの信仰の危機と試練と失敗を通して、私たちの信仰はますます成長して、鍛錬されるのです。

 

 

そして私たちは、立ち直った後、私たちが経験したその失敗と回復の経験を通して、試練の中にいる兄弟たちそしてさまざまな理由によって信仰が破産された兄弟たちを助けなければなりません。失望した人は慰めて、倒れた人を支えながら、彼らを立ち直らせることが、 私たちのすべきことです。そして彼らに向うイエス様のみこころが何なのかを教えてくれることが、イエス様が私たちに願っておられることであります。

イエス様の愛によって立ち直ったペテロは、Ⅰペテロ 1章 6節と 7節で、こう告白します。

6 そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、

7 あなたがたの信仰の試練は、火で精錬(せいれん)されつつなお()ちて行く金よりも(たっと)く、イエス・キリストの現れのときに称賛(しょうさん)光栄(こうえい)栄誉(えいよ)になることがわかります。

私たちに訪れる試練と危機は、私たちを恐れさせ、時には失敗させます。しかしペテロは、それでも喜びなさいと言います。なぜならそんな試練と危機の瞬間を通して私たちの信仰は成長して、精錬されるからです。そしてそのように成長した私たちの信仰は、イエス様が 来られる日、称賛と光栄と名誉になるからだとペテロは言います。

そして最後にペテロは、Ⅱペテロ 3章 18節で、こう言います。

18 私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。このキリストに、栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。アーメン。

私たちは、イエス・キリストの恵みと知識において成長しなければなりません。イエス様がどんな愛によって私たちを愛しておられるか、私たちはもっと深く知っていかなければなりません。

イエス・キリストの恵みと知識において、この一週間も喜びと平安を味わうのぞみ家族に なることを主の御名によって祝福いたします。

2021/02/27 主日メッセージ   nozomich
≪ イエス様の祈り     あなたがキリストなら ≫