恵みの雨

イエス様の祈り

2021年2月21日 ・ のぞみ教会・主日礼拝 

申告告白

聖歌 607 / 651

祈り 木村喜憲牧師

聖歌 465 / 478

聖書 ルカ 22:39-46

説教 <イエス様の祈り>  木村喜憲牧師

聖歌 423 / 424

献金 <献金の祈り>  木村喜憲牧師

聖歌 383 / 376

祝福の祈り  木村喜憲牧師

 

お知らせ。

♣新型コロナウィルス感染拡大防止にかかる緊急宣言延長に伴いまして、非対面礼拝を3月7日まで延長します。

2月の教会歴及び予定  ◆http://www.nozomich.net◆  

[2/17-4/13 : 四旬節]

 

イエス様の祈り

 

本文 : ルカ 22 : 39 - 46

39 それからイエスは出て、いつものようにオリーブ山に行かれ、弟子たちも従った。

40 いつもの場所に着いたとき、イエスは彼らに、「誘惑に陥らないように祈っていなさい」と言われた。

41 そしてご自分は、弟子たちから石を投げて届くほどの所に離れて、ひざまずいて、こう祈られた。

42「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」

43 すると、御使いが天からイエスに現れて、イエスを力づけた。

44 イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に  落ちた。

45 イエスは祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに来て見ると、彼らは悲しみの 果てに、眠り込んでしまっていた。

46 それで、彼らに言われた。「なぜ、眠っているのか。起きて、誘惑に陥らないように 祈っていなさい。」

皆さんは人生の最後の瞬間が訪れたら、その最後の時間に何をしますか。誰にも死を前に して最後に残っている時間は、人生において最も大切な時間であるはずです。だからその 時間は、一番重要なことをすることに使うはずです。

本文のイエス様も十字架の死を前にしておられました。イエス様が最後の時間に何をした のかを見れば、イエス様が一番大切に思われたことが何かを知ることができるはずです。

本文 39節です。

39 それからイエスは出て、いつものようにオリーブ山に行かれ、弟子たちも従った。

イエス様は祈るために弟子たちと一緒にオリーブ山に行かれました。十字架の死を前にしてイエス様が最後になされたことは、祈りだったということです。

それは、イエス様がキリストとしてこの地におられる間、一番大切に思われたことがまさに祈りだったということです。

今日の本文は、祈られるイエス様に対して、そして祈りについて言われるイエス様に対して記録しています。今日は、本文を通して、祈りに対して一緒に考えてみたいと思います。

[一番目に、祈りは、イエス様の習慣でした。]

本文には、イエス様がいつものようにオリーブ山に行かれたと書いてあります。韓国語聖書には、イエス様が習慣に従って祈るためにオリーブ山に行かれたと翻訳されています。  すなわちオリーブ山に行って祈ることは、イエス様の習慣だったということです。聖書を 読んでみれば、イエス様は、キリストとしての働きを始められる時にも40日間断食しながら祈られました。そしてイエス様は、いかに忙しいことがあっても、いつも習慣的に祈られて、公生涯の最後の働きも祈りを通して終えられました。すなわちイエス様がキリストとしての使命を成し遂げられることができた秘訣と原動力は、お祈りだったということです。

私たちが覚えるべきことがありますが、それはこの地におられる間、イエス様は神様として生きられたのではなかったということです。そしてイエス様は、神様としての能力も全然 使いませんでした。イエス様は、私たちと全く同じ人間となってこの地に来られ、私たちと同じ弱さを持ってこの地で生きられました。それなのにどうやってイエス様は、そんなに すばらしい奇跡を起こすことができたでしょうか。それはイエス様が祈られたからです。

イエス様は私たちと同じ人間として生きられたので、いつも神様の助けと導きが必要でした。それでイエス様は、いつもお祈りを通して神様のみこころを尋ね求められました。そして 祈りを通して、神様の能力がこの地に臨むようにされました。そのようにしてイエス様は、この地におられる間、数多くの奇跡を起こされたのです。イエス様は、そのようにキリストとしての働きを果たされたのであって、それを可能にしたのがまさに習慣的な祈りだったということです。

イエス様がそのような人生を生きられた理由は、私たちもそのように生きさせるためでした。すなわち神様であられるイエス様が、ご自分の能力を使わずに、ただ祈りを通して父なる 神様に頼りながら生きられた理由は、信者がどのように生きるべきか、その模範を見せて くださるためだったということです。

 

 

聖書は、イエス様が習慣に従って、祈るためにオリーブ山に行かれたと証言します。習慣という言葉はあまりにも慣れてしまって自然に行われる行動を言います。ところで違う意味で習慣という言葉は、その行動が習慣になるまで、続けて練習と訓練が必要だという意味でもあります。お祈りがイエス様の習慣だったという言葉は、イエス様もこの地におられる間、祈りが習慣となるまで、努力と訓練を続けられたということを意味することです。

Ⅰテモテ 4章 7節と 8節です。

7 俗悪(ぞくあく)()にもつかぬ空想話(くうそうばなし)()けなさい。むしろ、敬虔(けいけん)のために自分を鍛錬(たんれん)しなさい。

8 肉体の鍛錬もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている  敬虔は、すべてに有益です。

信仰生活は絶対に自然にできることではありません。敬虔になる生活、すなわち信仰生活は必ず練習と鍛錬が必要だということです。練習と訓練を通して新しい習慣をつけることは 決して簡単なことではありません。なぜならそれは、今まで自分に慣れてしまった過去の 習慣を捨てて慣れてない新しい習慣を身につけることだからです。しかしそれにも関わらず、敬虔のために訓練しなければならない理由について、使徒パウロはこう言いました。

[敬虔(けいけん)のために自分を鍛錬(たんれん)しなさい。今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。]

すなわち敬虔は、私たちの命がかかっている問題であるから練習と訓練を通して必ず習慣をつけなければならないということです。祈りはイエス様の習慣であって、イエス様は死を 前にした最後の瞬間でさえ習慣に従って祈られました。そしてイエス様はキリストとしての使命を成し遂げられました。

祈りは私たちをして、神様の知恵と神様の能力によって生きさせる唯一の方法であります。そして祈りはイエス様が何よりも大切に思われたイエス様の習慣でした。私たちにも祈りが習慣になることを心から祈ります。また敬虔になる訓練を通して、イエス様のように神様の能力によってこの世を生きて行く、私たちになることを主の御名によって祝福いたします。

[二番目に、祈りは、最高の解決策でありながら、また最高の対応策であります。]

信者の私たちは、サタンの試みに陥ったり苦難に会ったら、祈り始めます。もし私たちが サタンの誘惑と苦難中で、イエス様に頼り、祈ることができるなら、それは何よりも大きな祝福であります。

詩篇 50篇 15節には、こう書いてあります。

15 苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしを あがめよう。

神様は、私たちが苦難の中で神様に頼り、神様に祈れば、私たちをすべての苦難から助け 出してくださると約束されました。

イエス様を信じて救われた後、私たちの人生は、多くの部分において変わります。ところで本当に大きな変化の中で一つは、信仰がもたらす態度の変化ではないかと思います。

人は誰も苦難に会います。それはイエス様を信じた後にも同じです。しかしイエス様を信じ救われた後に変わることがありますがそれは問題と苦難に対処する私たちの態度であります。信者はどんな苦難に会っても神様が解決してくださると信じます。そしてすべての状況の 中には、きっと神様のみこころと計画があるということを信じます。それを信じているから私たちは大変な状況の中で、神様に祈るようになるのです。

時には、祈っても状況が全然良くならない時もあります。しかし祈りながら苦難に耐えて いる信者たちと話してみれば、共通的に告白する言葉があります。それは、頼れる神様が おられるということが、そして神様に祈れるということが、どれほど大きな祝福であるか 分からないという告白です。

問題が解決されてないのに、どうしてこんな告白ができるのでしょうか。何も良くなった ことがないのに、いったい何が感謝だというのでしょうか。その理由は信仰のゆえです。 神様が自分の祈りに答えてくださり、必ず恵みを授けてくださることを信じるから、信者は苦難の中でも平安を味わうことができるのです。そして今は大変でも、ついには、神様が すべての過程を通して、きっと祝福の道へ導いてくださることを信じるから感謝ができるのです。

理性と論理では理解も説明もできませんが、これがまさに信仰の力であり、またこの信仰があるから私たちは苦難の中で祈ることです。そして私たちがその信仰を持って祈れば神様は、約束の通りに私たちを助け出して、必ず私たちを最善の道へ導いてくださるはずです。  だから祈りは、最高の解決策になるのです。

ところで私たちにとって苦難を解決するための祈りより、もっと重要な祈りがありますが、それは苦難に対比する祈りであります。

 

イエス様が本文 40節で言われました。

40 いつもの場所に着いたとき、イエスは彼らに、「誘惑に陥らないように祈っていなさい」と言われた。

イエス様は弟子たちに誘惑に陥らないように祈ることを言われました。

誘惑と苦難の中で、イエス様に祈れる信仰があるというのは、私たちにとって素晴らしい 祝福と特権であります。しかし信者にとってそれよりもっと重要な祈りは、誘惑と苦難が 訪れる前に、前もって祈りながら対比することであります。

もちろん私たちが前もって祈ったからといって誘惑と苦難が訪れないことではありません。しかし祈りによって対比されないまま誘惑と苦難に会えば、私たちは、あまりにも多くの ものを失うかもしれません。神様に失望して信仰を失うかもしれないし心に深い傷を受けるかもしれません。また準備されない私たちに、突然訪れる苦難は、私たちの心から平安を 奪い去って、その場に恐れを植えます。そして誘惑と苦難の中で心の余裕を失えば私たちの内に隠れていた荒い本姓が出て来て、人間関係に問題が起こったり、罪を犯すようになる こともできます。

ところが、もし私たちが祈りを通して前もって誘惑と苦難に対比することができるなら、 どうなるでしょうか。祈りを通して対比することができれば、誘惑と苦難を通して受ける 衝撃を最小化(さいしょうか)することもできるし、また苦難の中でも心の平安を保つことができるはずです。そして神様のみこころと摂理を信じる信仰が準備されているから、いかなる場合でも信仰が揺るいだり、絶望することがないはずです。そして祈りを通して対比されていれば、苦難の中で、ただ苦しんでいるのではなく、霊的な分別力を持って霊的な状況を見分けながら、 苦難の過程を過ぎることができます。そういうわけで誘惑と苦難が訪れる前に目を覚まして対比しながら祈ることは、最高の対応策になるのです。

ところで誘惑と苦難がいつ訪れるか分からないのに、どうやって前もって対比することが できるでしょうか。だから私たちに必要なことが祈りが習慣になることです。祈りが習慣になれば、私たちは、いつも誘惑と苦難に対比することができるということです。

残念ながらイエス様の弟子たちは、誘惑と苦難に対比することができませんでした。

本文 45節と 46節です。

45 イエスは祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに来て見ると、彼らは悲しみの 果てに、眠り込んでしまっていた。

46 それで、彼らに言われた。「なぜ、眠っているのか。起きて、誘惑に陥らないように 祈っていなさい。」

弟子たちは、自分たちに訪れる誘惑に対比することもできませんでした。誘惑に陥らない ようにイエス様と一緒に祈るべきだったですが、それができませんでした。その結果がどうだったでしょうか。十字架の前で弟子たちはみなイエス様を捨てて逃げ出してしまいました。もちろんイエス様は、復活された後、弟子たちにやって来られて、彼らを慰め、励まして くださいました。それで彼らは、結局偉大な使徒になることができました。

しかしそうなるまで弟子たちは、深い悲しみと絶望に落ちました。イエス様を裏切ったと いう罪責感のゆえに苦しんで、自分たちはイエス様に赦されないだろうと思いました。そのようにすべての希望を失って、イエス様がくださった約束も忘れたまま、再び漁師の生活に戻ろうとしました。このように対比誘惑と苦難は、対比されない弟子たちからあまりにも 多くのものを奪い去って、あまりにも深い傷を残してしまったということです。

今日の本文でイエス様は、誘惑に陥らないように祈ることを弟子たちに二回も言われました。それなら今の私たちはどうですか。私たちは、どんな誘惑と苦難にも対比されているほどに毎日目を覚まして祈っていますか、さもないと苦難に会い、誘惑に陥ってこそ、初めて  祈らなければならないと思いますか。

祈りは最高の解決策です。誘惑と苦難を祈りによって乗り越えようとする人は。すばらしい祝福を受けた人であります。ところで祈りは、最高の対応策でもあります。祈りを通して 誘惑と苦難に対比されている人は、最も賢い人であり、またどんな苦難も乗り越えられる 最も強い人でもあります。

神様が私たちに与えてくださったこの素晴らしい祈りの特権を積極的に使う私と皆さんに なることを主の御名によって祝福いたします。

[三番目に、祈りは、神様のみこころを実現させる道具であります。]

本文 42節です。

42「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」

この御言葉を通して私たちはイエス様の祈りの目的が何かを知ることができます。イエス様にも願い事がありました。イエス様はできれば、十字架の道を避けたいと思われでした。 それが人間としてイエス様が願っておられることでした。

しかしイエス様は、ご自分の願いではなく神様のみこころの通りになることを祈られました。なぜならそれがみんなのための最善の事であり、また人類を罪から救える唯一の方法であることを知っておられたからです。

ある先生が、祈りについてこんな話をしたことがあります。

[お祈りとは、私たちが神様のみこころに説得されることだ。]

祈りの目的は、私たちの願いが叶うことではなく神様のみこころが行われることにあります。なぜなら神様のみこころの通りに行われることが、みんなのための最善のことだからです。

2003年度に上映した、ブルース・オールマイティというコメディ映画があります。ブルースという人が失敗を重ねるようになると神様を恨み、つぶやきました。すると神様は彼の前に現れて、しばらくの間、彼が神様の役割を代行するように神様の仕事を任せました。

その日からブルースには世界中の人々から祈りのメールが届きますが、彼はすべての祈りを叶えてくれることにします。すると40万名の人が宝くじに当たるようになります。しかし 宝くじに当たったのに、当選金(とうせんきん)を17ドルしかもらえなかった人々は、暴動(ぼうどう)を起こしてしまいます。単純なコメディ映画ですが、私たちの願いの通りに行われることが果たして私たちに最善のことなのかを考えさせる映画です。

信者にとって祈りとは、すばらしい恵みであり、また特権であります。イエス様が私たちに祈りという特権をくださったのは、ある面では神様がブルースに神様の仕事を任せたことと同じことであります。

ヨハネ 14章 14節で、イエス様がこう言われました。

14 あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれを   しましょう。

イエス様は、私たちがイエス様の御名によって求めるなら、それをしてくださると約束されました。ところでこの約束は、私たちの願いは何でも叶えてくださるという意味でしょうか。この御言葉で私たちが注目すべき部分は、[わたしの名によって] という部分であります。イエス様の御名によって祈るというのは、どういう意味なんでしょうか。それは、私たちがイエス様の権限代行(けんげんだいこう)として、イエス様の権威を持って、イエス様の仕事を代行するという 意味があります。すなわちイエス様は、私たちが祈りという特別な能力を通してこの地で イエス様の仕事をして、イエス様のみこころを行うことを願っておられるということです。

もちろんこれは個人的な願いのために祈ってはいけないという意味ではありません。ただ 神様が私たちに祈りの特権をくださった目的、そして私たちの祈りの一番目の目的は、  イエス様のみこころがこの地に行われるようにすることだという話であります。

祈りには必ず信仰が必要です。どんな信仰が必要なのかと言えば、神様を神様として信じる信仰が必要です。神様を神様として信じる信仰が何なのかを三つに分けて申し上げます。

一番目に、神様の正しさと愛に対する信仰であります。

神様は正しい方です。そして神様は私たちを愛しておられます。祈りを捧げる私たちには この信仰が必要です。時には、私たちが祈った通りに答えられない時があり、また長い間 答えられない時もあります。しかし神様の正しさと愛に対する信仰があれば私たちは神様が必ず最善の道へ導いてくださるという信仰の中で、平安を保つことができます。

だからある願いを持って祈る時、私たちには、自分が祈った通りになることを信じる信仰も必要ですが、そうならないとしても、今この状況は、神様が自分のために許された最善だということを信じる信仰も必要です。どんな場合でも神様のみこころが正しくて神様の選択が最善だと信じることがまさに神様を神様として信じる信仰だということです。そして神様に祈る私たちには、この信仰が必要だということです。

二番目に、神様を神様として信じる信仰とは、神様の能力と摂理を信じる信仰であります。

神様は全知全能のお方であられます。神様は、すべてのこと知っておられ、またすべての ことをご自分のみこころと計画の通りに行うことのできる方だということです。

私たちが祈った通りにならない時、私たちは(あわ)てます。私たちの祈りが失敗したと思われ、状況が悪くなったと思われる時もあります。いったい神様がどんな思いを持っておられるか理解できない時もあります。

しかし目の前で行われている状況がいかに最悪だとしても、神様が働き始める瞬間、状況は完全に逆転されます。ヤコブの息子ヨセフは、夢とビジョンを持っている人であって神様の御前で正しい人でした。しかし彼は、突然エジプトの奴隷になってしまい、さらにそこでも()(ぎぬ)を着せられて監獄(かんごく)に入られてしまいます。

ヨセフの人生を見ながら希望や祝福という言葉を浮かべる人がいるでしょうか。彼の人生を見ながら神様が働いておられると考える人がいるかということです。誰が見てもヨセフの 人生は、完全に失敗した人生であって、最も呪われた人生でした。

しかしヨセフの主人であられる神様は、全能の神様でした。神様はヨセフを監獄から救い 出されて、彼をエジプトの総理とならせました。

結局神様の働きと計画は、神様が表されるまでは、誰も悟ることができないということです。そういうわけで私たちは、目の前で行われている状況を見ながら、簡単に成功と失敗を判断してはいけません。私たちの目には見えなくても、神様は私たちのために今も休まず働いておられ、私たちを最善の道へ導いておられるという事実を私たちは忘れてはいけないのです。

神様を神様として信じるというのは、神様の知恵と能力を信じることです。そして私たちはこの信仰を持って神様に祈らなければならないということです。

三番目に、神様を神様として信じる信仰とは、神様が主人であられることを信じる信仰で あります。

最近、早天祈祷会で士師記の御言葉を読みましたが、その時代のイスラエルの民を一言で 言えば、信仰生活に失敗した信者だということができます。なぜ彼らは、信仰生活に失敗 したでしょうか。その理由について聖書はこう証言しています。

士師記 21章 25節です。

25 そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを  行っていた。

すなわちイスラエルの民が信仰生活に失敗した理由は、イスラエルに王がなかったからだということです。ところでイスラエルには、ほんとうに王がなかったでしょうか。そうでは ありません。イスラエルに王は、いつも神様でした。神様がイスラエルの王であり、また 彼らの主人であられました。

しかしイスラエルの民は、神様を自分たちの王としても、また主人としても認められませんでした。むしろ自分たちが自分の人生の主人になって、神様を自分の願いを叶えてくれる 道具として利用しようとしました。その結果、彼らは罪を犯して堕落してしまいました。 彼らが堕落した理由を一言で言えば、神様が主人だという事実を忘れたからです。

神様を神様として信じるというのは、神様が自分の主人であり、自分はその方のみこころに従うべきしもべであることを覚えることです。神様が主人であって、私たちはしもべだから祈りにおいて一番重要なことは主人であられる神様のみこころが行われることだということです。すなわち私たちの主人であられる神様のみこころと計画の前で私たちの願いと思いをあきらめることができなければならないということです。

これがまさに神様を神様として信じる信仰であります。そして私たちの祈りにはこの信仰が必要だということです。

説教をまとめます。

祈りは神様が私たちにくださった最も素晴らしい能力であります。私たちにこの素晴らしい特権が与えられた一番目の目的は、私たちがイエス様の御名によってイエス様の仕事をするためであります。だから私たちは、祈りの目的が何かを忘れてはいけません。そして祈りの特権をうまく活用するために、祈りが習慣となる必要があります。

私たちが祈りの特権をよく使えば、私たちは神様の力と知恵によってこの世を生きることができます。そして私たちが行うすべてのことが神様の働きになるはずです。

新しく始まるこの一週間も祈りを通して勝利し、信仰によって神様のみこころを行う私と 皆さんになることを、主の御名によって祝福いたします。

 

2021/02/21 主日メッセージ   nozomich
≪ 御国の価値観と秩序     信仰の破産 ≫