恵みの雨

私たちの希望

のぞみ教会 主日礼拝[2020年7月12日] 説教者:李鍾賢牧師

エペソ 2:4-

2:4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、

私たちの希望

 

 

のぞみ教会 主日礼拝[2020年7月12日] 説教者:李鍾賢牧師

エペソ 2:4-

 

2:4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、

私たちの希望

 

現代世界は、色々面で恐ろしい危機的な時代だと思います。

聖書は事実を土台として、人間はどういう者なのかを教えています。

それはまず、第一に人間が罪人であるという事実と、

霊的に死んだ者であったという事実です。

 

この事実は何を意味するのでしょうか。

生まれながらの罪人である、私たちは絶対に良い事をする事が出来ないという事です。

 

ある人々は、山上説教を守ることにキリスト教の中心があると考えています。

そしてしきりに心の貧しい人になろうとし、また悲しい者になろうとします。

また右の頬打たれたら、左の頬を向けようとします。

自分に敵対する人を愛そうと努めます。

そうすることによって、クリスチャンになりうると考え、また救われるのだと考えます。

 

しかし、聖書は決してそのような事が生まれながらの人間に出来るとは教えていません。

もしも私たちが自分の力で立派な人間になれるとしたら、

キリストの十字架の贖いは全く無用の長物と化してしまうでしょう。

私たちが自分の力で自分を救う事が出来ないからこそ、キリストの贖いがあったのです。

そのことを、聖書ははっきりと教えます。

私たちは罪過と罪の中に死んでいた者であると言っているのです。

 

死んでいるという断定は私たちが自分の力で自分を罪の中から救い出すことの出来ない者であるという事、つまり自分の力で、心の貧しい人や悲しむ者になろうとしても、

到底不可能なこと、また右の頬を打たれた時に左の頬を向けようとしても、出来ない事たとい出来たとしても、その相手を愛することは出来ない事を言ってのけているのです。

 

そして私たちがそのような有様であるのは、悪魔の支配下にある存在だからなのです。私たちは、どうして自分がこんなに善に対して弱く、悪への誘惑にすぐ負けてしまうのか不思議に思う事があります。

それは超人間的存在である悪魔が私たちのうちに働いているからです。

 

私たちはすぐに他の人と争い、戦おうとします。

人類の歴史が戦争の繰り返しの歴史であったのは、私たちがそのような存在であるという事を証しています。

そのことについて、ヤコブはその手紙の中で、次のように教えています。

 

 

私たちは、自分が決して立派な者ではなく、むしろ利己的な者であり、

どんなに根強い者であるかという事を知っています。

 

しかもそれが、ただ単に悪いというような法則性のものであるだけではなく、

悪魔という超人間的実在によって支配され、その奴隷となってしまっているという事に気付かされるべきです。

 

ですから、私たちにもしも希望があるとするならば、

それは私たち人間の内側にあるのではなく、人間とは別のところに求めるべきです。

 

神様は私たち人間をお創りになりました。

愛情を傾けて私たちをお創りになったのです。

ところが、人間はその神の愛と信頼と期待を裏切ってしまいました。

そのような者に対して、神様は何の未練がありましょうか。

 

ノラ犬に手をかまれたとしても、それはやむを得ないことです。

しかし、自分が愛情を傾け尽くして来た飼い犬に手をかまれたということになると、

もう赦すことは出来ません。   

ちょうどそれと同じように、神はたちどころに、

神への反逆者である人間をたち滅ぼしてしまってもよかったはずです。  

 

しかし神はそれをなさいませんでした。神は長く待たれたのです。

その間、何も手を打たれなかったのではなく、

神はその尊い一人子イエス・キリストをこの世に遣わし、私たちを罪から救い出すために、そのイエス・キリスト十字架につけ、永遠の贖いを成し遂げるように

着々と準備をなさいました。  

 

多くの予言者を通して、そのことを語られました。

予言した通りそのことをエルサレムのゴルゴタで成し遂げられました。

ここに神の私たちに対する存分の愛が示されました。

 

私たち罪人のうちには何一つ希望もありませんし、またその可能性すらありません。

しかし、そのことによって、私たちは絶望する必要がありません。

私たち人間の側には何一つ望みはなくとも、私たちをお創りになさった神が私たちを見捨てられなかった以上、私たちにも望みは残されています。

 

現代は確かに八方<はっぽう>ふさがりの世界です。

まことに暗黒な世界です。

 

しかし、この暗世界にあっても、私たちには望みがあります。

それこそ神ご自身です。

 

 

私たちの造り主であり、私たちを罪から救い出してくださる救い主の神が

私たちを見守って下さるという事、この事以上どこに、私たちの望みがありますか。

 

この罪の世における唯一の希望は、この世界の造り主であります。

唯一の生ける真の神、またイエス・キリストにおいてご自身を表してくださったお方にあります。

 

セルマ・トムソンの「輝ける城壁」という小説があります。彼女は作家ではなく主婦でしたが、「輝ける城壁」を書き、アメリカでベストセラー作家になりました。  

彼女の話がとても興味深いです。

第二世界大戦当時20代だった彼女は軍人と結婚しました。

 

今も健在であればだいぶ年を召しているでしょう。20代で結婚した陸軍士官の夫の派遣先はカリフォルニア東部のモハーウェ砂漠の近くの基地でその近くに住まざるを得ない状況になりました。

 

今モハーウェ砂漠の近くには村が出来てレストランもあり、エアコンもありますが、1945年頃だったらエアコンもなかったし、砂漠での生活はたやすくなかったはずです。昼間は50度越え、朝晩は冷え込みます。

周囲は原住民とメキシコ人ばかりでアメリカ人はいません。

 

結婚した後でしたので、息が詰まるような状況の中で一日二日、

一か月二か月と暮らしても耐えられなくなり、父親に手紙を書きました。

「これ以上ここでは暮らせないから全部置いて家に帰りたいです」

 

父親が送った返事の手紙には二行の簡単なものでした。

「二人の男性が牢獄の中から小さな窓の外を見ていた。

一人はぬかるみをみており、もう一人は星を見ていた」

 

この手紙を受け取って20代の娘は何度も読み返し父親が伝えたかった事を悟り、

自分の間違いを悟ったのです。

 

それから彼女は考えを変え始めました。

自分はぬかるみの中にいるのではなく、ここで何かできるだろうと考え、

言葉は通じなくても源住民と関係を築き始めました。

 

そのうちに彼らは砂漠の生活に彼女を引き込んだのです。

虫を見せてくれたり、砂漠に連れて行きこれまで見ることの出来なかった美しい自然や砂漠から見る空の星などを見るようになりました。

 

彼らの生活の中に入って何かを学んだり彼らからのプレゼントをもらったりしながら

彼女に大きな変化が訪れました。

その経験をもとに小説を書くことになりました。

出版サイン会で彼女はこのように話しました。

「砂漠で生きる間<お前は不幸で孤独だ希望なんでない>というサタンのささやきと何と幸いな人だろうあなたをここに導いたのは神であるここで新しい夢を見なさい>という神の御声も聴きました。

 

でも私はサタンの声には耳を塞ぎ神の御声を聴きながら今日ここに立ているのです」

そう告白したのです。

彼女はクリスチャンでした。彼女の父親もクリスチャンだったのです。

 

自分に与えられた状況が誰のせいなのかも問うべきです。

しかし、神の前で自分の状況と時についてなぜそれが起きたのかと誰かを恨み批判する前に神が私に与えた状況からこの事を通して神が成そうとされるのかという信仰で状況を見る人でなければ神が約束されたこの上なくよい人生を歩むことが出来ません。

 

神様は私たちが喜んで幸せに生きることを願っておられます。

今皆さんの心にはどんな考えが浮かびますか。

 

「この状態で神が語るこの上ない良い人生を生きるためには余計なことは言わないで口座に百憶円入れてくだされば何の心配もせず余裕を持って人に仕えて生きるだろう」と私たちは考えます。

 

そんな人を見て神様は何と言うでしょうか。

「百憶円を使い切ったらどうするんだ」「百憶円あれば死んでも残る」本当にそうですか。

 

お金さえあれば老後の問題もなく子供も立派に育てられるから余計なことは言わず十分なお金を下さるならこの上ない人生を生きられる」そう思うならすでに神を信じようとはせずにお金を神のように信じているのです。

 

もし何かを求めるなら自分のためにではなく、他人のために神のために求めるべきです。

「すべてが整えられた上に神が居れば最高だ」ではなく、何も持たないようでも神が共におられる事ですべてを持つ者のように神を喜んで生きる人生を神が私たちに教えておられます。

 

神に立てられたその場所で神によって喜び、神が許された状況に絶望し恨むのではなく、ここで成そうとされる何かがあるはずだと考え喜ぶ人になることがこの上なく良い人生に入る門となるのです。

 

環境を変えてくださいと祈る前に私を変えてくださいと祈りましょう。

のぞみ教会の信者として又自分の仕事場、今生きている場所が神の許された場所なのです。

 

 

環境が変えることよりも自分が変えることが重要です。私たちが変り、強くなれば

環境は問題になりません。

私たちが先です。

 

神様は永遠に変わらないお方です。

私たちに与えられた状況と時は、ふさわしく与えられたものであり、

その中に神の祝福が隠されているのです。

このような神を知るなら恐れるしかありません。

 

偉大な神を見る時、すべてを完璧に成し遂げる神を見る時、失敗のない神を見る時、

めちゃくちゃにした人生でもその状況さえも祝福の機会に変えてくださる神を見る時、神を敬い恐れるしかない者へと変えられる。

そんな態度を持つ者でなければ今日与えられた事に喜びこの上なく良い人生を歩むことが出来ないのです。

 

水が入ったコップを傾てれば水が出ます。コーラならコーラが出てくるように

私たちの心に何があるかによって言葉が決まるのです。

ですから、主の恵みを頂いて励ましの言葉を語り、神に愛され、これから希望のある

人生を歩みましょう。

2020/07/12 主日メッセージ   nozomich
≪ キリストなき人生     キリストと共に生かされた恵み ≫