恵みの雨

今でも祈ると(創世記32:22-32)

のぞみ教会 主日礼拝<201962日> 説教者 李鍾賢牧師

今でも祈ると(創世記32:22-32)

 32:22 しかし、彼はその夜のうちに起きて、ふたりの妻と、ふたりの女奴隷と、十一人の子どもたちを連れて、ヤボクの渡しを渡った。

 32:23 彼らを連れて流れを渡らせ、自分の持ち物も渡らせた。

 32:24 ヤコブはひとりだけ、あとに残った。すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。

 

のぞみ教会 主日礼拝<201962日> 説教者 李鍾賢牧師

今でも祈ると(創世記32:22-32)

 32:22 しかし、彼はその夜のうちに起きて、ふたりの妻と、ふたりの女奴隷と、十一人の子どもたちを連れて、ヤボクの渡しを渡った。

 32:23 彼らを連れて流れを渡らせ、自分の持ち物も渡らせた。

 32:24 ヤコブはひとりだけ、あとに残った。すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。

 32:25 ところが、その人は、ヤコブに勝てないのを見てとって、ヤコブのもものつがいを打ったので、その人と格闘しているうちに、ヤコブのもものつがいがはずれた。

 32:26 するとその人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」しかし、ヤコブは答えた。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」

 32:27 その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は答えた。「ヤコブです。」

 32:28 その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。

 32:29 ヤコブが、「どうかあなたの名を教えてください。」と尋ねると、その人は、「いったい、なぜ、あなたはわたしの名を尋ねるのか。」と言って、その場で彼を祝福した。

 32:30 そこでヤコブは、その所の名をペヌエルと呼んだ。「私は顔と顔とを合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた。」という意味である。

 32:31 彼がペヌエルを通り過ぎたころ、太陽は彼の上に上ったが、彼はそのもものためにびっこをひいていた。

 32:32 それゆえ、イスラエル人は、今日まで、もものつがいの上の腰の筋肉を食べない。あの人がヤコブのもものつがい、腰の筋肉を打ったからである。

私たちはたまに自分が何を持っているかよく分からない時があります。

貴重(きちょう)なダイヤモンドをお酒と交換した昔のインディアンのように、

または百、二百円のお菓子を得るために一万円札もためらわず投げてしまう子供のような時があります。

 

神様が私たちにくださったお祈りに対する約束と言うものがどんなに大きな価値があるのかを知っているなら、自分がどんなに幸せな者であるかを分かるでしょう。

 

失敗と苦難に見舞(みま)われて、多くのものを失った時、普通多くの人は挫折(ざせつ)したり絶望したりしますが、しかし神様がくださったお祈りに対する約束は、失ったものより、より大きなものであることを知っていなければなりません。

 

偉大な信仰をもっていた人たち皆が、祈る人であったことを聖書からすぐ見つけることができます。

信仰とお祈りは非常(ひじょう)親密(しんみつ)な関係にあることが分かります。

これは信仰を持つことによってやがて祈りの価値も分かるという意味でもあります。

 

また祈ると信仰を持つようになるという意味でもあります。

ただ価値を知っている人だけがそのお祈りの価値を十分味わっているのです。

 

それで知恵ある者は、人々のうらやむ地位とコネを持っていてもまず祈ります。

苦難に見舞(みま)われてから祈らなかったことを後悔するより、

祈るのを持ち()さない

知恵の者にならなければなりません。

 

常に祈らなければなりませんでしたが、しかし今でも祈ると答えてくださると、

神様は言われます。

祈らなかったので、苦難に見舞われてしまいましたが、

しかし今、他に方法がないから祈るといっても、神様はその祈りにも答えてくださるということです。

 

兄、エサウに会わなければならなかったヤコブは恐れていました。

逃げることもできなかったので、ただ恐れているばかりでした。

他に方法がないと思ったヤコブは祈りました。

やがて彼は神様の恵みをいただきました。

 

今でも、祈ると神みをいただくことができます。

☞ ヤコブがイスラエルになります。(28

問題の解決のために祈る人たちに神様はそのお祈りに対する答えとして、

まず問題に対する自分の考え方と姿勢を変えてくださいます。

自分の子供のために祈りましたが、先に神様は祈るお母さんをまず変えてくださいます。

 

夫のためにひざをつきましたが、神様はまず変るべき自分の姿に気付くようになさいます。

それが祈りに対する答えです。

 

☞ 祈ると神みをいただくことができますが、神えます。

祈っていたヤボクの所の名前が変わりました。

神様に出会ったということでそのところの名をペヌエルと呼びました。

恐れながら、ひざをつきましたが、神様は祈っていたヤコブに会ってくださったのです。

思い(わずら)っていると意欲(いよく)もなくなります。

しかし祈ると再び立ち上がる力が与えられます。

ため息と(なげ)きの場が(あか)しの場に変わります。

 

☞ エサウがわりました。

ヤコブを殺すために追いかけてきたエサウでした。

だがヤコブを(こころよ)く迎えてくれました。

口づけし、二人は泣きました。

それからエサウが自らこれからの旅を案内してあげるとも言いました。

 

ヤコブが夜明(よあ)けまで祈ったのでエサウが変ったのです。

どんなに(かたく)な人でも、彼らのために祈ると神様は彼らの心を動かしてくださいます。悪者(わるもの)でも協力者になるようになさいます。

 

☞ 祝福してくださいました。

(さき)の見えない現実の中でヤコブはひざですがりつきました。

問題の解決のために祈るヤコブに先が(ひら)く恵みが与えられたのです。

祝福のある人生はお祈りから始まります。

お祈りなしに祝福はありません。

神様がくださる祝福は祈ることによって得られます。

 

ヤコブはどうやって祈りましたか。

☞ 彼は一人で祈りました。

多くの人がいるところで祈る事もありますが、他人を気にしないで、まことに、率直(そっちょく)に祈りたいなら、一人で祈る方法もあります。

 

しかしどこでどう祈っても、お祈りには(かざ)()があってはなりません。

イエス様も(つね)に人の群れの中におられました。

しかし一日も神様の前に一人でいる時間を忘れませんでした。

 

 ☞ ヤコブは夜通(よどお)し祈りました。

たくさんの時間、祈らなければ答えがないという意味ではありません。

答えがあるまで祈ったという意味です。

祈ることを実践(じっせん)するのも簡単なことではありません。

しかし失望しないで、最後まで祈るのがもっと大事なことです。

祈っても答えがないとしたら、それはもっと祈りなさいという意味であって、

(あきら)めなさいという意味ではありません。

 

☞ 彼は格闘(かくとう)しました。

受験生(じゅけんせい)たちは勉強と戦うといいます。

ヤコブはお祈りと戦いました。力を尽くした祈りです。

力ある限り、すがりつきました。

イエス様もゲツセマネという所で汗が血のしずくのようになるまで祈りました。

 

だんだんと夜が()け始めていた頃は、

ヤコブはより必死(ひっし)に祈らなければなりませんでした。

汗びっしょりになって祈っているヤコブを想像(そうぞう)してみてください。

 

なぜ神はもものつがいを打ったのでしょうか。

そこまでしてまで答えてくださる理由は何でしょうか。その理由がありました。

もものつがいが(はず)れたにもかかわらず、すがりつくヤコブの信仰をご覧になりました。

ヤコブが(くる)しい立場でも祈ることができたのは力ではなく、信仰であることをご覧になったのです。

 

つまり神様が見たかったのは信仰なのです。

本当の変化を望む人であるなら、信仰をもって祈らなければなりません。

普通苦難に見舞(みま)われてから、過去に祈らなかったことを後悔します。

 

しかし、だからといって方法がないわけではありません。

(あつ)かましいですが、しかしあいかわらず神様には愛と(あわ)れみがあります。

今でも祈ると神様の答えがあります。

 

変化があります。

自分の中で変化が起きます。

他人にも変化があります。

また神様に会う霊的な新しい経験をすることができます。

 

現在の危機から(のが)れ、見えなかった先も(ひら)かれる恵みがあります。

今でも祈りましょう。

まだ終わりではありません。

祈ることに集中(しゅうちゅう)してください。

()しみなく、信仰をもって力を尽くしてください。  

 

皆さん、神様は何度も私たちに“できる”と言われているのに、なぜ私たちが

“できない”と言うのでしょうか。

イエス様もこう言われました。(マルコ1:27)

「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。

どんなことでも、神にはできるのです。

 

神様と私たち人間は同じではありません。

神様を自分に合わせないように、自分を神様に合わせるように今週もお願いいたします。

 

 

詩篇81:10 わたしが、あなたの神、主である。わたしはあなたをエジプトの地から連れ上った。あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それをたそう。

もし、今、皆さんは自分が厳しいところにいると思っているかもしれません。

しかし、そこで神様の恵みを信じる心を諦めてはいけません。

神様の恵みがほんの少しでも与えられると全ては変わるのです。

恵みを信じて生きていれば神様は応じてくださるのです。

すぐに変化が表れなくても皆さんが求め続ければ神様の恵みは必ず表れます。

皆さんを苦しめている問題は解決されます。

 

又、恵みをいささかも疑わずに待ち望んでいなさい。と書いてあります。

今までなら望まなかったような事も望めるようになるのです。

つらい時にも、自分は神様の恵みを受ける特別な人間だと思い、信仰を持って進みましょう。

 

期待度を上げましょう。

人は自分が求めたものを手にします。

プラス考え方を持っている人は前向きの人生を送ることになります。

マイナス考え方を持っている人は後ろ向きの人生を送ることになります。

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2019/06/02 主日メッセージ   nozomich

お祈りは不可能に挑戦することである。<Ⅱ列王記20章 1-6>

のぞみ教会 主日説教(2019/5/19) 作成及び説教者:李鍾賢牧師

お祈りは不可能に挑戦することである。  <Ⅱ列王記20章 1-6>  

20:1 そのころ、ヒゼキヤは病気になって死にかかっていた。そこへ、アモツの子、預言者イザヤが来て、彼に言った。「主はこう仰せられます。『あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。直らない。』」

20:2 そこでヒゼキヤは顔を壁に向けて、主に祈って、言った。

20:3 「ああ、主よ。どうか思い出してください。私が、まことを尽くし、全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたがよいと見られることを行なってきたことを。」こうして、ヒゼキヤは大声で泣いた。

 

 

のぞみ教会 主日説教(2019/5/19) 作成及び説教者:李鍾賢牧師

お祈りは不可能に挑戦することである。  <Ⅱ列王記20章 1-6>  

20:1 そのころ、ヒゼキヤは病気になって死にかかっていた。そこへ、アモツの子、預言者イザヤが来て、彼に言った。「主はこう仰せられます。『あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。直らない。』」

20:2 そこでヒゼキヤは顔を壁に向けて、主に祈って、言った。

20:3 「ああ、主よ。どうか思い出してください。私が、まことを尽くし、全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたがよいと見られることを行なってきたことを。」こうして、ヒゼキヤは大声で泣いた。

20:4 イザヤがまだ中庭を出ないうちに、次のような主のことばが彼にあった。

20:5 「引き返して、わたしの民の君主ヒゼキヤに告げよ。あなたの父ダビデの神、主は、こう仰せられる。『わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ。わたしはあなたをいやす。三日目には、あなたは主の宮に上る。

20:6 わたしは、あなたの寿命にもう十五年を加えよう。わたしはアッシリヤの王の手から、あなたとこの町を救い出し、わたしのために、また、わたしのしもべダビデのためにこの町を守る。』」

 

お祈りは不可能に挑戦することである。  Ⅱ列王記20章 1-6     

詩篇48:14 この方こそまさしく神。世々限りなくわれらの神であられる。神は私たちをとこしえに導かれる。

 

マタイ11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

ところが、神様は私たちに要求するものがあります。それは祈ることです。

 

祈りは?―――自分を否定して、神様を認めることであります。

病気のこと、仕事のこと、子供のこと、夫のこと、経済のこと、人間関係のこと、様々な問題、自分は出来ないと認め、神様なら解決出来ると信じ、思い願う事が祈りです。

 

いつもお話しましたが、神様の法則は祈る時、与えられるということです。

祈ると言っても、疑わず、求める時こそ、答えられます。

祈りは神の子供たちに与えられた特権であります。

お祈りは父なる神様との会話であり、交わりであります。

お祈りは神様に捧げる捧げ物であります。

お祈りはイエス・キリストのお名前によって求める事です。

お祈りは聖霊の助けによってするものであります。

マルコ9:17-28

マルコ9:17 すると群衆のひとりが、イエスに答えて言った。「先生。おしの霊につかれた私の息子を、先生のところに連れてまいりました。

 9:18 その霊が息子に取りつきますと、所かまわず彼を押し倒します。そして彼はあわを吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせてしまいます。それでお弟子たちに、霊を追い出してくださるようにお願いしたのですが、お弟子たちにはできませんでした。」

 9:19 イエスは答えて言われた。「ああ、不信仰な世だ。いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。その子をわたしのところに連れて来なさい。」

 9:20 そこで、人々はイエスのところにその子を連れて来た。その子がイエスを見ると、霊はすぐに彼をひきつけさせたので、彼は地面に倒れ、あわを吹きながら、ころげ回った。

 9:21 イエスはその子の父親に尋ねられた。「この子がこんなになってから、どのくらいになりますか。」父親は言った。「幼い時からです。

 9:22 この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」

 9:23 するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」

 9:24 するとすぐに、その子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」

 9:25 イエスは、群衆が駆けつけるのをご覧になると、汚れた霊をしかって言われた。「おしとつんぼの霊。わたしが、おまえに命じる。この子から出て行きなさい。二度と、はいってはいけない。」

 9:26 するとその霊は、叫び声をあげ、その子を激しくひきつけさせて、出て行った。するとその子が死人のようになったので、多くの人々は、「この子は死んでしまった。」と言った。

 9:27 しかし、イエスは、彼の手を取って起こされた。するとその子は立ち上がった。

 9:28 イエスが家にはいられると、弟子たちがそっとイエスに尋ねた。「どうしてでしょう。私たちには追い出せなかったのですが。」

 9:29 すると、イエスは言われた。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません。」

 

マルコ9:23 するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」

 

信仰があるなら、パウロのような信仰告白が出来るのです。

パウロはこのような告白が出来ました。

ピリピ4:13 に書いてある通りです。

私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。

 

今日の本文は「死ぬ」と死形宣告されたヒゼキヤがお祈りを通して、神様の思いを変え、答えられた内容が記録されています。

 

1.お祈りは不可能に挑戦することです。

1節で「ヒゼキヤは病気になって死にかかっていた」と書いてあります。

死形宣告です。そして「あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。直らない。」

と神様が言われました。

 

そこでヒゼキヤがどうしたのでしょうか。

「はい、分かりました。今まで生きてきたのも神様の恵みです。これから家を整理し、死を迎える準備をします」と答えたでしょうか。

 

勿論そうすることもできたでしょうが、当時38歳だったヒゼキヤはそうしませんでした。

3節に書いてあるとおり、ヒゼキヤは神様に切に祈りました。

私たちにもこのような問題がないとは決して言えません。

 

先が見えない時があるかもしれません。

病気のことで、仕事のことで、子供のことで、夫のことで、経済のことで、

人間関係のことで、様々な問題にぶつかる時があるかも知れません。

しかしどんな問題でも皆さんはヒゼキヤがお会いした神様に会いますようにお祈りしつつ頑張りましょう。

 

例え、問題にぶつかった時、神様の御心だからと受け入れることもできますが、

しかし、ここでヒゼキヤはお祈りで神様の御心まで変えました。

つまり不可能なことに挑戦しました。

 

悩んでいる方、何か問題を抱えている方、信仰のお祈りで不可能なことに挑戦できますようにお祈りしつつ頑張りましょう。

 

あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。(Ⅰペテロ5:7)

 

 

2.お祈りは御言葉の上に立ってしなければなりません。

3節「主よ、どうか思い出してください。私がまことを尽くし、全き心を持って、

あなたの御前に歩み、あなたがよいと見られることを行ってきたことを。」と、

ヒゼキヤは祈っています。

神様の御心にあうことを行ったので、ヒゼキヤのお祈りは神様に聞き入れられたのです。

 

神様の御言葉とお祈りは切っても切れない関係にあります。

神様の御言葉、いわゆる聖書は人間に対する神様ご自身を表すものであります。

ところがお祈りは神様に対する人間、自分自身を表すものであります。

 

聖書と祈りはまるで電車の二本の線路のように大事な関係であります。

一本では電車が走ることが出来ないのです。

だから神様の御言葉とお祈りは切っても切れない関係にあります。

 

御言葉に従い、生きること、これがすなわち信仰の生き方です。

御言葉の中に生き、御言葉の約束の中でするお祈りは非常に大きな力があります。

 

3.答えられるまで祈ることです。

5節を見ますと、「私はあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ。私はあなたの寿命にもう十五年を加えよう。」と神様はイザヤを通して、ヒゼキヤの願いを聞き入れてくださったのが分かります。

 

皆さん、今も神様は皆さんのお祈りをすべてお聞きになり、全てご存知です。

ヒゼキヤのように涙が出るほど、切に祈りますと必ず神様に聞き入れられます。

ヒゼキヤはお祈りで、神様の思いを変えました。

不可能な状況でも、約束の御言葉を信じ、信仰を持って挑戦できますよう、お願い致します。

 

ヨハネ14:12「まことに、まことに、あなたがたに告げます。私を信じる者は私の行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。」

これが信仰の力です。そしてお祈りについて言われています。

13節「あなたがたが私の名によって求めることは何でも、それをしましょう」

14 あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。

 

マタイ7:7 求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。

7:8 だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。

7:9 あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。

7:10 また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。

7:11 してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。

 

信仰のお祈りは働く力が非常に大きいです。

願いが聞き入れられるまでねばり強く祈ってください。

マタイ16:19“何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。”

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2019/05/21 主日メッセージ   nozomich

回復の恵み

ハバクク3:1-3〈回復の恵み〉

3:1 預言者ハバククの祈り。シグヨノテに合わせて。

3:2 主よ。私はあなたのうわさを聞き、主よ、あなたのみわざを恐れました。この年のうちに、それをくり返してください。この年のうちに、それを示してください。激しい怒りのうちにも、あわれみを忘れないでください。

3:3 神はテマンから来られ、聖なる方はパランの山から来られる。セラ/その尊厳は天をおおい、その賛美は地に満ちている。

 

のぞみ教会 主日説教(2019/5/5) 作成及び説教者:李鍾賢牧師

ハバクク3:1-3〈回復の恵み〉

3:1 預言者ハバククの祈り。シグヨノテに合わせて。

3:2 主よ。私はあなたのうわさを聞き、主よ、あなたのみわざを恐れました。この年のうちに、それをくり返してください。この年のうちに、それを示してください。激しい怒りのうちにも、あわれみを忘れないでください。

3:3 神はテマンから来られ、聖なる方はパランの山から来られる。セラ/その尊厳は天をおおい、その賛美は地に満ちている。

 

この、再建する事が出来るか。という質問を私たちにしてみると、

自分の信仰を再建することが出来るか、また自分の健康を再建することが出来るか、家庭を再建することが出来るか。国を再建する事が出来るか。教会を再建する事が出来るか。という質問になります。

本文2節を見ますと“この年のうちに、それをくり返してください。この年のうちに、それを示してください。”と書いてあります。この言葉は生かしてください。回復してください。再建してください。という意味です。その結果は当然回復されと、聖書は言っています。

それではどうすれば回復されるでしょうか。

 

  1. 神様の哀れみを祈るべきです。

    ある宣教師の証を紹介致します。アフリカのタンザニア西側Ibuga教会での出来事です。あるイースターの朝でした。イブガ教会は信者たちが増えて800名の信者たちを一度に収容能力がなかったので屋外集会を行いました。彼らは賛美を捧げ、礼拝を捧げている間、恐ろしい事が訪れることを全然気がつきませんでした。それは、礼拝を捧げているその時、イブガ町では暴れ回る獅子に攻撃を受けていると言う事でした。その獅子はもっぱら人を殺すだけに関心がありました。その獅子は隣家を転々として手当たり次第に攻撃して殺してしまうのです。 羊や牛そしてある女性とその女性の子供たちまで噛んで殺してしましました。

    その獅子は屋外集会場に走りました。イブガ町の人々は、イブガ教会の屋外集会場には、想像できない大変悲惨な事件が起こるだろうと思っていました。

いよいよその獅子はイブガ教会の屋外集会場に表れました。その屋外集会場にいる教会の信者たちは、吠えながら、狂ったように走って来るその獅子を見て肝がつぶそうになりました。その時、宣教師が叫びました。皆さん、恐れてはなりません。獅子からダニエルを守ってくださった神様が今ここにおられます。死を破って甦られたイエス様がここにおられます。神様は私たちを守られます。信じて祈りましょう。

そして、その宣教師は神から与えられた信仰と権威をもって獅子にこう命じました。獅子よ。私は主イエス・キリストの御名によってお前を呪い。さがれ!そうしたら、信じられない事が起きました。突然、雲が一滴もない透き通った空から稲妻が走り、その獅子を打って殺してしまいました。

宣教師は、その獅子の死体の上に上がり、最後まで礼拝を捧げるようになったという証です。礼拝が終わった後、イブガ教会の信者たちは獅子の死体を地方警察に渡したそうです。

本文の2節を見ますと“激しい怒りのうちにも、哀れみを忘れないでください。”とハバククは祈りました。

ところが、この祈りの前に、1:3、1:13を読んで見ますと、そこでは“なぜ”という言葉が3回出て来ます。“なぜ”という言葉からも分かるように、ハバククは今起っている試練、苦難がなぜ起こっているのか自分には到底(とうてい)理解できないと、神様に祈りました。彼は(くや)しくてたまらなかったわけです。 

しかし、3:2節では彼の祈りが変わりました。哀れみを訴えています。

 

新約聖書を読みますと二人の人が、祈るために宮にのぼりました。一人はパリサイ人で、もう一人は取税人でした。バリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをしました。

“神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫(かんいん)するものではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。”

ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言いました。“神様。こんな罪人の私をあわれんでください。” 

イエス様はパリサイ人のお祈りではなく、取税人のお祈りをお受けになりました。

神様は私たちがハバククのように、そして取税人のように神様の哀れみを求めることを願っておられます。神様は憐れみを求める者に決して顔をそむける方ではありません。

イエス様は義人を呼ぶために来られたのではなく、罪人を呼ぶために来られたからです。

 

2.神様に戻るべきです。

私たちが今、味わっている全ての祝福は神様のプレゼントです。

私たちは今も神様の祝福の中で暮らしています。

しかし、私たちはつい神様がプレゼントとして下さった祝福に心を奪われてしまって、その祝福をくださった神様をすっかり忘れてしまう時があります。

貧しいときは、信仰がよかったのに、豊かになってからは神様から遠く離れてしまう人がいます。自分の夢をかなえる前は、神様に一生懸命お願いし、祈った人が、夢がかなうと、仕事で忙しいことで礼拝にも来なくなる人もいます。

それで私たちは祝福された時、特に注意しなければなりません。

祝福してくださった神様を忘れてはなりません。神様が見えなくなると危険です。

 

マタイ16:24ではこうおっしゃっています。

“だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについてきなさい。”と言われました。

世の中で自分の命より大事なものがあるでしょうか。この命も神様が与えてくださったプレゼントです。しかし神様は私たちが何よりも神様のことを愛することを願っておられます。

つまり命というものはもっとも大事なものですが、しかしこの命をくださった神様はもっと大事です。

どんなプレゼントであれ、与えてくださった神様を忘れてしまうと危険です。

 

アブラハムとイサクの事を考えて見てください。99歳に息子、イサクを得ました。

目に入れても痛くない息子です。神様が与えてくださったプレゼントです。 

ところが神様は、アブラハムをテストしました。つまりあいかわらず神様を愛しているか、息子イサクより愛しているかを(ため)すためです。

それで神様はアブラハムに“あなたの子、あなたの愛している一人子イサクを連れて,モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしに奉げなさい。”とおっしゃいました。

アブラハムは子供を与えてくださった神様を思い、神様の命令に従うため、(かたな)で息子をほふろうとした時、神様が止めました。アブラハムの信仰を神様がご覧になったのです。

アブラハムは受けた祝福のため、与えてくださった神様を忘れませんでした。

 

ヨブ記を見ても、ヨブは苦しみの中でも“与えられた方が主であり、取り上げる方も主だから、神様は賛美を受けるべきだ”と告白しました。その時、ヨブのすべてが回復されました。

 

ホセア書6:1を見ますと“さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き()いたが、また、いやし、私たちを打ったが、また、包んでくださるからだ。“と書いてあります。

 

本文3:17節でハバククはこう祈っています。

“そのとき、いちじくの木は花を()かせず、ぶどうの木は実を(みの)らせず、オリーブの木も実りがなく、(はたけ)食物(しょくもつ)を出さない。羊は(かこ)いから()え、牛は牛舎(ぎゅうしゃ)にいなくなる。

しかし、私は主にあって喜びいさみ、私の救いの神にあって喜ぼう。”

私たちもこの祈りができる信仰を持たなければなりません。

 

これからは与えられた祝福より、与えてくださった神様に視線を合わせなければなりません。

与えられた物のためではなく、その神様のために神を愛し、喜ばなければなりません。

神様に返って来ると、私たちが神様を愛したより、神様は私たちをもっと愛してくださいます。そしてすべてが回復されます。

 

3.ビジョンを持つべきです。

3;1はお祈りで始まりましたが3:19節では賛美で終わっています。

お祈りが戦いであるなら、賛美というのは戦いが終わったという意味でもあります。

自分がいくら大きな苦しみの中で悩んでいてもお祈りをやめてはいけません。

仕事のために、健康のために、子供のためにつらくても、 

“私は神様を信じます。頼ります。祈ります。”と神様を見上げなければなりません。

そのお祈りがハバククの祈りです。

 

人間はだれでもビジョンがあります。

そのために神様は私たちをこの世に生まれるようにして、また、ここに生きるようになさいました。

それで今、私たちが受けている試練の中でも神様を信じ、祈りますと、アドナイ・イルエ、つまり備えてくださる神様が私たちのビジョンを成し遂げるよう恵みを用意してくださいます。

現在の試練のために未来のビジョンを(あきら)めてはいけません。

ビジョンを(あきら)める時、すべてが終わります。

 

ビールゲイトの書いた本を読んだことがありますが、その本の中で大変感動を受けたところがあります。

その内容を申し上げますと、こうです。

“私はこれから社員を選ぶ時、失敗の経験がある人を選びます。失敗と言うものは、決して誇りではありませんが、しかし失敗を通して大事なレスンを受けるからです。失敗から得るものは人生の財産になるからです。失敗の教訓を得た人こそ、すべての失敗から立ち上がることができる人であるからです。”と言いました。失敗と失敗者とは違います。失敗はだれでもしますが、しかし失敗したからといって諦めると完全に失敗者になります。

 

1940年、エベルト山頂上(ちょうじょう)征服(せいふく)に失敗して帰ってきた二人の青年がいました。

彼らは“山よ。きみは成長しない。しかし、私たちの知恵は成長する。 知識も成長する。経験も成長する。アイデアも成長する。必ずもどって来て君を征服するから。”と言ったそうです。失敗して帰って来た二人の青年は13年後、1953年5月29日、エベルト山 頂上(ちょうじょう)を征服しました。その人の一人がサル・エドモルヒリで、もう一人がノル・ゲイという人です。

 

私たちの失敗、試練、苦しみがいくら大きくて、重くても神様の民は心配してはいけません。天と地を造った神様が出来ない事があるでしょうか。

神様に対して信仰を持ち、ビジョンを諦めてはいけません。

神様は生きておられ、必ず回復してくださいます。

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2019/05/11 主日メッセージ   nozomich

甦られたイエス・キリスト〈Ⅰコリント15:3-8〉

題目:甦られたイエスキリスト〈Ⅰコリント15:3-8〉

15:3 私があなたがたに最も大切なこととしてえたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、

 15:4 また、葬られたこと、また、聖書にって三日目によみがえられたこと、

 15:5 また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。

 15:6 その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多の者は今なお生きっていますが、すでに眠った者もいくらかいます。

 15:7 その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。

 15:8 そして、最後に、月足らずで生まれた者と同な私にも、現われてくださいました。

のぞみ教会 主日説教(2019年4月21日) 作成及び説教者:李鍾賢牧師

題目:甦られたイエスキリスト〈Ⅰコリント15:3-8〉

15:3 私があなたがたに最も大切なこととしてえたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、

 15:4 また、葬られたこと、また、聖書にって三日目によみがえられたこと、

 15:5 また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。

 15:6 その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多の者は今なお生きっていますが、すでに眠った者もいくらかいます。

 15:7 その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。

 15:8 そして、最後に、月足らずで生まれた者と同な私にも、現われてくださいました。

 

アメリカのオクラハマ大学の研究員が、動物の知能がどこまで発達しているかを調べるため、動物の中で知能が最も発達していると言われるチンパンジーに手話を教えました。苦労のあげく、やっと140個の単語を教えました。

さらに、チンパンジーにこの単語を自由に表現できるようにも教えました。

教えられたそのチンパンジーが初めて表現した言葉は何だと思いますか。

Let me out! お願いだから、私を自由にして!という事でした。

 

このように動物も何かに囲まれていたり、とらわれていたりするのを嫌います。

まして、人間はどうでしようか。

私たちは罪の奴隷になっていては、真の自由を味わうことが出来ないのです。

罪の問題を解決し、束縛からまず抜け出なければなりません。

 

ローマ 5:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。と書いてあります。その御言葉通り、私たちの罪の問題はイエス・キリストだけが解決することが出来、イエス・キリストだけが私たちを自由にすることが出来ます。

 

イエス・キリストはこの世に来られた時、目的を持って来られました。

しかし、私たち人間は生まれる時、イエス様のようにある目的を持って生まれたのではありません。 

人間は生きる事、そして死ぬことへの意味を知らずに生まれました

また、人生がいったいどういうものなのか知らずに生きてました

 

しかし、イエス・キリストはこの世に来られた時、目的をもって来られました。

その目的とは、私たちの罪の問題を解決して自由を与えるためのことでした。

イエス・キリストは死ぬ事と生きる事が何であるかご存知の上、この世に来られました。

 

ヨハネ1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

ヨハネ1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の光を見た。父のみもとからられたひとり子としての光である。この方はみとまことにちておられた。

と書いてある通り、イエス様はこの世に人間の姿で来られましたが、しかしこの方は神様ご自身でした。

 

ヨハネ10:30 わたしと父とは一つです。」

ヨハネ4:8-9 4:8ピリポはイエスに言った。「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば足します。」

14:9 イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください。』と言うのですか。

 

イエス様は人間を救うための目的を持ってこの世に来られました。

ですから私たちの生きる事と、イエス・キリストの生きる事、

又、私たちが死ぬ事と、イエス・キリストが死ぬ事とは根本的に違います。

私たちは必然的に死んでしまいますが、しかしイエス・キリストは自ら死を選ばれました。そして予言された通り、甦られました。

 

ところがイエス・キリストのこの復活の事を始めは誰も信じようとしませんでした。

聖書を読んで見ますと、イエス様の弟子たちは皆、イエス様を裏切って逃げ去ってしまったのです。

 

又、恵みをいただいた人たちも皆、元の不信仰の状態に戻ってしまいました。

そしてペテロもイエス様が甦られたという事を耳にしたにも関わらず、

魚を取るために海に出てしまいました。

 

マリヤもイエス様が甦られる事を信じなかったので、

イエス様の遺体に油を塗るためにお墓に行きました。

なぜ彼らはイエス・キリストが甦られたのを信じようとしなかったでしょうか。

 

その理由は簡単です。人間は復活が出来ないからです。

イエス・キリストは十字架の上で完全に死んでしまったから誰もがイエス・キリストが甦られるとは思わなかったのです。

 

また、イエス・キリストがどういう方なのかを知らなかったからです.

人間が復活するのは科学的にも、医学的にも、生理的にも、不可能な事です.

しかし、イエス様は予言通り甦られました。

 

ところが、ユダヤ人たちはイエス様の復活について変なうわさをしていました。

たとえば、“イエス様はただを失った態からってだけだ。” 

または、“イエスの弟子たちがお墓からイエスの遺体をんで行って、

空っぽになったお墓を見せてイエスが甦られたとをついているのだ”など言いふらした人もいました。

そして“ある人がイエスを夢の中で見たのを言い降らしているのだ”という

うわさもありました。

 

しかし、イエス様が甦られたのには証拠があります。

それは聖書に書かれてある通りだからです。

イエス様はご自分が、苦しみを受け、死者の内から三日目に甦る事を予言したからです。

もし、イエス様が予言した通りにならなかったらどうなるでしょう。

 

しかし、イエス様の復活については空っぽになったお墓が証拠です。

聖書を読んで見ますと、イエス様の友人たちがその遺体を麻布につつんで石のお墓の中においたと書いてあります。

 

また適であった人たちもお墓の入り口を石で閉じて、かたくその墓を守っていました。そのお墓が空っぽになったのです。

その空っぽになったお墓がイエス様の復活を証しています。

また、実際に見た人々が証しています。

 

実際にイエス様が甦られたのを見た人がいます。〈Ⅰコリント15:3-8〉

15:3 私があなたがたに最も大切なこととしてえたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、

 15:4 また、葬られたこと、また、聖書にって三日目によみがえられたこと、

 15:5 また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。

 15:6 その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多の者は今なお生きっていますが、すでに眠った者もいくらかいます。

 15:7 その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。

 15:8 そして、最後に、月足らずで生まれた者と同な私にも、現われてくださいました。

 

イエス様が甦られなかったら私たちが持っている信仰は無駄であり、

私たちはいつまでも罪の中に留まっている状態になります。

キリスト教は復活の宗教です。また、命の宗教であります。

それでイースターはキリスト教にのみあります。

それで信者は命を持っているので、実は全てを持っているのです。

 

Ⅰヨハネ5:11 そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちをえられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。

 5:12 御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。

 5:13 私が神の御子の名を信じているあなたがたにしてこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。

 

マタイ28:18 イエスは近づいてて、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの威がえられています。

 28:19 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆるの人を弟子としなさい。そして、父、子、聖の御名によってバプテスマを授け、

 28:20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らをえなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

 

 

人生は戦いであります。今も、世界のどこかでは戦いが絶えず続いています。領土を奪い取る戦い、政治的な戦い、経済的な戦い、入試の戦い、交通の戦いなど私たちは常に、何かと戦って生きているのです。

ところが、私たちの人生の中で一番大きな戦いは霊的な戦いなのです。私たちはこの霊的な戦いにおいて、必ず勝利しなければなりません。すべての戦いには勝敗があります。勝利者には栄光と報いが保障されますが、敗北者には恥と苦痛が伴います。

サッカーのワールドカップでも勝利すると、全国民が喜ぶのではないでしょうか。このように戦いも、勝てば喜びと平安が与えられます。そしたら、勝利の秘訣はいったい何でしょうか。

 ヨハネ16:33 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」

すでに世に勝ったイエス・キリスト、 聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれ、葬られ、また、聖書に従って三日目によみがえられたイエス・キリストを通して勝利が出来るのです。

 

今も生きておられるイエス・キリストは十字架にかかって亡くなりましたが、神様の力によって死から甦られました。救い主のイエス・キリストはが、人の罪を赦すために死んで、甦ることは、神様のご計画だったのです。

そしてイエス・キリストは、今も生きておられ、いつも私たちのそばにいて、

お祈りを聞いてくださるお方です。

 

福音書には、イエスが死者を生き返らせる奇跡が幾つか記されています。しかし、その人たちは、再び生きてもまた死にました。イエス様の復活はそのような復活とは違います。死に打ち勝って、肉体の命とは違う、まったく新しい命に生きておられるのです。

 

イエス様を死から甦らせた神は、イエスを信じる者に、同じように新しい命を与えられることを約束してくださいました。ですから、私たちは死んで終わるのではありません。神と神の家族と共に永遠に生きるのです。

 

今も、甦られて生きておられるイエス様がいつも私たちと共におられるからです。

甦られ、今も生きておられるイエス様の恵みが、信じる皆さんの上に、生活の上に、そしてお仕事の上に溢れますようにお祈りするしだいでございます。

 

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2019/04/23 主日メッセージ   nozomich

人間的な方法〔創世記16:1-9〕

のぞみ教会主日礼拝<2019年4月7日> 説教者:李鍾賢牧師

人間的な方法〔創世記16:1-9〕

今日の本文では私たちの信仰のモデルであるアブラハムが悩んでいる様子が出て来ます。その時、もっともつらい悩みといえば子供もないままふけて行くのでした。

私たちが今日の本文を通して幾つかを教わる事が出来ます。

その一つは信仰の深いと言われるアブラハムさえも乗り越えにくい問題があったと言う事です。

のぞみ教会主日礼拝<2019年4月7日> 説教者:李鍾賢牧師

人間的な方法〔創世記16:1-9〕

今日の本文では私たちの信仰のモデルであるアブラハムが悩んでいる様子が出て来ます。その時、もっともつらい悩みといえば子供もないままふけて行くのでした。

私たちが今日の本文を通して幾つかを教わる事が出来ます。

その一つは信仰の深いと言われるアブラハムさえも乗り越えにくい問題があったと言う事です。

 

人々はとても簡単に“信仰をもって乗り越えればいいよ”と言うかもしれませんが、しかし、その本人自身にはそう簡単に受け入れられません。

 

もう一つはアブラハムがこの問題を信仰ではなく、人間的な方法に頼った時、その問題は泥沼に入り込んでしまい結局つらい目にあってしまう事が

分かります。

神様を知らない者にはそう言った人間的な方法が通じるかも知れません。

 

しかし、神の民であるアブラハムにはそれが赦されませんでした。

神様はご自分の民が最後まで神様の働きを待たずに人間の意志でやって行くのを喜ばれません。

 

この世の神様を知らない人々の間では通じると言い、それでだれもがやっている方法だとしても、しかし、神の民たちがその人間的な意志に頼る時には、

うまくいかない時があります。それは自分に対する神様の特別な計画が別にあるという意味です。

 

三つ目は私たちが様々な苦しみの中でうまくいかずにつまずいたり、

又は、大きな間違いを起こした時も神様はご自分の意志で私たちを導きます。

神様は時々試練を通して私たちの信仰を図る時もあります。

私たちを苦しめる問題を通してはたして自分の信仰がどれほどであるかを確かめる機会を与える時もあります.

 

アブラハムとイサクがカナン地に来て11年目に向かう時までも子供がいませんでした。

その時,彼らは神様に対する信仰が揺れ初めました。

神様ご自分が自ら空の星のように数えられないほどの子供を約束したのに10年が過ぎた今もまだ一人も与えられていません。

 

彼らにとっては約束をまだ行っていない神様が分かりませんでした.

後になって神様が約束した息子が並みの息子ではない事が分かりました。

特に彼らから生まれた息子はイエス・キリストの象徴でありました。

また、この息子を通して生まれる星のような多くの子孫と言うのは肉体からの子孫ではなく信仰の子孫だったのです。  

 

神様はアブラハムとイサクがもっと衰えるのを待っていました。

そうなると神様の方法で息子を産むことが出来るからです.

しかし、この夫婦はだんだん不安になり、神様に対する信仰が薄くなっていきました。

 

このような不安な様子はサライからもっと現れました.

人間的な方法を用いるのに主役あったのはサライでした。

サライはアブラハムがもっと衰えるまえに何とかしてでも息子を産まなければならないと思っていました。

 

一方、アブラハムはサライのそう言った考えが正しくないのを知っていながらもその提案に賛成しています。

ここで私たちは神様の御言葉を正しく理解しなければならない事を改めて分かります。

つまり神様がアブラハムに息子を与えるとの約束はめかけではなく、サライを通してであると言う意味です。

 

2.人間的な方法がもたらした結果

神様に頼りながら待っているのに、どんな証拠もない時、頭をもたげるのは人間的な手段であります。

10年を待っても何も証拠もないのでサライは自分のもとにいる若い女奴隷をアブラハムに妻として与え、息子を得ようとしました。

 

このような方法は今の時代は非難されますが、しかし、その当時は一般的な方法の一つでした。

私たちがこの世に生きて行きながら人間的な手段をまったく使わない事はあり得ません。もし、人間的な全ての要素を捨てるべきだとしたら学校も行ってはいけないし、電話も勿論、病院へも行ってはいけません。

しかし、ある部分においては神様が人間的な方法を強く拒む時があります。

すなわち、神様からの救いと関わりのある所がそうです。

救いは人間側から成し遂げられるものではありません。

 

結局、サライの女奴隷を通して息子を得るのは神様の喜ばれることであったらこのような事は起きなかったでしょう。

これは神様の計画といわゆる神様の時を待たずに結局人間的な手段を用いたサライに与えられた報いでした。

 

また、サライはアブラハムに対してひどく怒っています.。

サライがアブラハムに怒られた時、アブラハムの反応はどうでしたか。(6)

アブラハムは自分の位置を明らめています。勿論、アブラハムはサライが心理的にどんなに苦しめられているのかを知っていたし、これ以上この問題でサライを苦しめたくなかったとおもいます。“あなたの好きなようにしなさい。”と言いました。

 

しかし、それは問題への解決には全く役に立ちませんでした。

サライの女奴隷ハガルが妊娠したまま逃げてしまいました。

アブラハムの家庭は崩れて行きました。

信者の家庭が聖霊により満たされないと神様を知らない家庭と同じです。

アブラハムの家庭はめちゃくちゃになってしまいました。

 

その時、神様が御手を延ばされました。

神様はサライやアブラハムを叱られませんでした。

なぜならば今までの苦しみで彼らは十分それに当たる罰を受けたからです。

神様の民にとって一番つらいのは聖霊様の働きがない時です。

 

ハカルは逃げるとどうなるかを知らずに逃げてしまったのです。

逃げたハガルを待っているのは荒野の激しい寒さと飢えでした.

ハガルが家を出たのはもっと大きな問題をもたらす恐れがありましだ。

 

ハガル、“あなたはどこから来てどこへ行くのか.尋ねました。

神様のハガルに対するこの質問が全ての問題を元に戻しました。

神様はハガルに“あなたが今、行くと死んでしまう。

あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして彼女のもとで身を低くしなさい。これがあなたにとって最善の道である。”と言われてハガルの相談者になって

下さいました。

 

今日の御言葉の中で私たちは信仰の先祖と言われるアブラハムとサライも神の時を待つ事が大変だったと言う事が分かります。

私たちは神様の時が来る前にも疲れ果ててしまいます。

 

神様が一人一人を呼ぶ時はわけもなく呼んだのではありません。

皆さんに対する大事な計画を持ってお呼びになりました。

他の人々はみんなうまく行くのになぜ私だけうまく出来ないのか。

 

イエス・キリストを信じればうまく行くと思ったのにそうではないと疑問があるかも知れません。 

それは神様が特別な計画を持っておられ、他の人と自分を異なった目で見守っていると言う意味であります。

 

今日の本文では怒りと言うものが全てを破壊する事を知らせています。

怒りは美しいものを破壊します。サライの怒りは御言葉の力と神様の小さな国である家庭をだめにしてしまいました。

神様の命令に従い、ハガルが元へ戻る事によってこの問題は解決されました。

 

自分自身は完璧であると思っている人がいるなら、その人は多くの人をつまずかせる人であります。

私たちは完全な人ではありません。私たちはまだ足りないものであります。

みなさん、怒りが込み上がる時、質問を自分自身にして見て下さい。

自分はだれなのか。〔神の子〕であることを忘れてはいけません。

 

今、私が怒っているのが正しいのか。私がなぜ怒っているのかを質問して見て下さい。もし、自分が怒っている対象が人であるなら、いくらその理由があるとしてもそれは罪を犯しているのです。

私たちのすべての問題を主に委ねましょう。アブラハムの家の問題を解決して下さった神様が私たちの問題も解決して下さいます。

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2019/04/07 主日メッセージ   nozomich