恵みの雨

起きよ。

のぞみ教会 主日礼拝(2019年2月3日) 説教者:李鍾賢牧師

60:1 起きよ。光を放て。あなたの光がて、主の光があなたの上に輝いているからだ。

 60:2 見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸の民をおおっている。しかし、あなたの上には主が輝き、その光があなたの上に現われる。

 60:3 はあなたの光のうちにみ、王たちはあなたの輝きに照らされてむ。

 60:4 目を上げて、あたりを見よ。彼らはみな集まって、あなたのもとにる。あなたの息子たちは遠くから、娘たちはわきに抱かれてる。

 60:5 そのとき、あなたはこれを見て、晴れやかになり、心は震えて、喜ぶ。海の富はあなたのところに移され、の財はあなたのものとなるからだ

 

のぞみ教会 主日礼拝(2019年2月3日) 説教者:李鍾賢牧師

60:1 起きよ。光を放て。あなたの光がて、主の光があなたの上に輝いているからだ。

 60:2 見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸の民をおおっている。しかし、あなたの上には主が輝き、その光があなたの上に現われる。

 60:3 はあなたの光のうちにみ、王たちはあなたの輝きに照らされてむ。

 60:4 目を上げて、あたりを見よ。彼らはみな集まって、あなたのもとにる。あなたの息子たちは遠くから、娘たちはわきに抱かれてる。

 60:5 そのとき、あなたはこれを見て、晴れやかになり、心は震えて、喜ぶ。海の富はあなたのところに移され、の財はあなたのものとなるからだ

 

イザヤ60:1-5(起きよ。)

心理学者たちがネズミを(かめ)の中に閉じ込めて実検しました。

瓶の方に光を完全に(さえぎ)った時、瓶の中にいたネズミは3分後にみな死んでしまいました。ところが、ずっと光を()らされた別の瓶の中にいた一匹のネズミは36時間

生きたそうです。

 

心理学者たちの分析によりますと、真っ暗の瓶の中でいたネズミがわずか3分後に死んだのは、調子(ちょうし)が悪くなったからではなく、早くもその暗い環境を受け入れて諦めたからだそうです。

 

ある日、20歳(はたち)の青年が交通事故で入院していました。

彼は入院する時から昏睡(こんすい)状態でした。彼はただ息をするだけでした。

昏睡状態が続き、1年になってもまったく変化がなかったので、

担当医者は回復不能と諦めました。彼の家族も結局彼のことを諦めました。 

 

しかし、一人の看護婦だけはそう思っていませんでした。

彼女は何も反応がない彼の耳に何かをささやいていました。

その看護婦さんの姿を見るたびに、回りの人たちは何も言わないものの、

あざわらっていました。

 

ところがある日、その青年は奇跡的に意識がもどってきました。

そして一ヶ月後、退院することになりました。

 

その後、その青年は自分が入院していた病院に訪ねて来て、自分が病院に入院していた時の話をしてくれました。

交通事故後、昏睡状態にあった時は自分で指一本も動くことが出来ませんでした。しかし、人の話は全部聞くことが出来ました。

絶望しているお母さんの話、泣いている声、看護婦たちの冗談(ばなし)

回復が出来ないと言う医者の話、みんな聞こえてきました。

 

そんなある日、希望に満ちた声が聞こえてきました。

彼は人生を諦めたくなる時ごとに聞こえるある看護婦の話のため、諦めることが出来ませんでした,

“食事時間ですよ。薬を飲む時間ですよ。大丈夫ですよ。治るから、この薬を飲んで早く起きましょう”といつも彼女は勇気と希望を与えてくれました。

 

全身が麻痺状態になって答えることは出来ませんでしたが、彼は心で“ありがとうございます。必ず起きます。”そして“退院すると必ずお(れい)を言いに来ます。”と心で(ちか)ったのでした。

神様が私たちに起きよ。と言われます。

 

☞ 私たちは起きなければなりません。

「起きよ。光を放て。あなたの光がて、主の光があなたの上に輝いているからだ。」と言われました。

いかに山を移すほどの信仰があっても、起きあがらないと何も出来ません。

足のきかない人のように動かないと何も出来ません。

前進する人が神様の祝福を頂きます。

 

聖書では“起きなさい。”という御言葉が多いです。

イエス様は病気にかかっている人に「起きなさい。」と言われました。

寝ている人にも「起きなさい」と言われました。死んだ者に“起きなさい。”

といわれました。

今、私たちにも「起きなさい」と言われます。

イエス様の命令に従って望みを持って起きましょう。

望みはイエス・キリストにあります。

 

マタイ9章を読んで見ますと、人々が中風の人を(とこ)に寝かせたままでイエス様のみもとに来ましたが、イエス様は彼らの信仰を見て中風の人に「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦されました。」と言って「起きなさい。床をたたんで、家にりなさい。」と言われました。 

そしてヨハネ11章を読みますと、ラザロが死んだと聞いたイエス様は墓に行きましたが、墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてありました。

イエス様は「その石を取りのけなさい。」と言われました。

するとラザロの姉妹であるマルタは“主よ。もう臭くなっておりましょう。

三日目になりますから。”と断りました。しかしイエス様は彼女に言われました。「もしあなたが信じるならあなたは神の光を見る。」そこで彼らは石を取りのけました。するとイエス様は、「ラザロよ。出てなさい。」と大声で叫ばれました。

 

すると死んでいた人が手と足を長い(ぬの)で巻かれたままで出て来ました。

マルコ5章を見ますと、会堂管理者の一人でヤイロという者が来て、

イエス様の足もとにひれ伏して一生懸命願ってこう言いました。

『私の小さい娘が死にかけています。どうかおいでくださって娘の上に御手を置いてやってください。娘が直って助かるようにしてください。』イエス様は彼の家につき、ただその子ども の父と母、それにご自分の供の者たちだけを伴って、子どものいる所へ入って行かれました。

 

そしてその子どもの手を取って「タリタクミ」と言われました。すると少女はすぐさま起き上がり、歩き始めました。タリタ・クミという希望のメッセジーが死んだ者を生き返らせました。

 

ルカ7章でもイエス様がある町の門に近づかれると、やもめとなった母親のひとり息子が死んでかつぎ出されたところでした。

町の人々が大勢その母親につき()っていました。

主はその母親を見て、かわいそうに思い、「泣かなくても良い。」と言われました。

 

そして近寄って(ひつぎ)に手をかけられると、年よ。あなたに言う。起きなさい」と言われました。するとその死人が起き上がって、ものを言い始めたのでイエス様は彼を母親に返されました。

人々は“神がその民を(かえり)みてくださった“などと言って神様をあがめました。

 

本文2節を見ますと“見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国(しょこく)の民をおおっている。しかし、あなたの上には主が輝き、その光があなたの上に現れる。”と書いてあります。

今の時代はどこからみても大変な時代だと思います。

イエス・キリストを信じない人々は、やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっているのですが、しかし、神様を信じる私たちの上には主が輝き、その光が私たちの上に現れるので、私たちには望みがあります。

イエス様が言われました。「泣かなくても良い。」と言われました。

「起きなさい」と言われました。私たちは主の命令に従い、起き上がりましょう。

 

☞ ビジョンを持って起きましょう。

イギリスの有名な歴史学者であるアノルド・トインビは81歳の誕生日に、こう言いました。“人が年をとりながら、過去に捕られているなら不幸な人です。

過去に捕られている人は、体は生きていますが、すでに死んだ者です。

ビジョンを持って未来を見る勇気があってはじめて人になる”と言いました。

希望がない人は不幸な人です。

人が生きていく時、だれにでも絶望する時があります。

しかし、クリスチャンはどんな絶望の中でも解決されるという信仰を持って克服して進めます。

 

イエス・キリストは言われました。「出るものならというのか信じるものにはどんな事でも出るのです。」と言われました。

アメリカの16代大統領リンカンは数多くの困難を克服して成功した人です。

リンカンが学校に通った期間は1年もならないそうです。

しかし、彼はたった一度も希望を諦めた事はなかったそうです。

リンカンは多くの仕事をしました。労働者、農夫、漁師、弁護士、大統領など様々(さまざま)な職業を持ちましたが、その仕事がいくら(つら)くでも諦めたことはありませんでした。

いつももっと大きなビジョンを持って祈りながら最善を尽くしました。

 

本文1節を見ましょう。“起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の光があなたの上に輝いているからだ。”と言われます。

私たちクリスチャンには私たちの光となり、希望となるイエス様がご一緒におられます。イエス様は私たちが絶望を克服できる希望となります。

イエス様は死を克服する命となります。起きあがる力となります。

 

私たちにどんな問題があっても、死者を生かしたイエス様がご一緒におられるなら問題は解決されます。

死者を生かしたイエス様に解決されない問題があるでしょうか。

イエス様はどんな絶望の中でも「恐れないで、ただ信じていなさい。」と言われました。「泣かなくても良い」と言われました。

 

信仰のない人はいつも現実の中で絶望だけを見ますが、信仰の人はいつも未来のビジョンを見ながら生きて行きます。

信仰のないイスラエル民は水がない所で、のどが渇いて死にそうと呟いていましたが、信仰の人、モーセは水がない所でも水を与えてくださる神様の力を信じ、岩を打って水を民に飲ませました。

 

信仰のない人は海の前でもう終わりだ。と絶望しましたが、信仰の人モーセは神様の力を信じ、イスラエル民に海を渡らせました。

私たちも同じです。私たちにはビジョンがあります。望みがあります。

私たちの現実がどんなに大変でつらくても、私たちの光であり、希望であるイエス・キリストを信じる信仰で進まなければなりません。

 

 

☞ 神様は私たちのビジョンをすぐ成し遂げられることを約束しました。

22節を見ますと、はあなたの光のうちにみ、王たちはあなたの輝きに()らされてむ。目を上げて、あたりを見よ。彼らはみな集まって、あなたのもとにる。あなたの息子たちは遠くから、娘たちはわきに()かれてる。」と言われました。最も小さい者も氏族となり、最も弱い者も強国となる。時が来れば、わたし、主が、すみやかにそれをする。”と書いてあります。

ヘブル11:1を読んで見ますと信仰は望んでいることがらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。と言われました。

今年は神様の約束を信じてビジョンを持って起き上がり、進みましょう。

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2019/02/05 主日メッセージ   nozomich

バルテマイの信仰(

のぞみ教会 主日礼拝(2019年1月20) 説教者:李鍾賢牧師

バルテマイの信仰(マルコ104652

 10:46 彼らはエリコに来た。イエスが、弟子たちや多くの群衆といっしょにエリコを出られると、テマイの子のバルテマイという盲人のこじきが、道ばたにすわっていた。

 10:47 ところが、ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と叫び始めた。

のぞみ教会 主日礼拝(2019年1月20) 説教者:李鍾賢牧師

バルテマイの信仰(マルコ104652

 10:46 彼らはエリコに来た。イエスが、弟子たちや多くの群衆といっしょにエリコを出られると、テマイの子のバルテマイという盲人のこじきが、道ばたにすわっていた。

 10:47 ところが、ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と叫び始めた。

 10:48 そこで、彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます、「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」と叫び立てた。

 10:49 すると、イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい。」と言われた。そこで、彼らはその盲人を呼び、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている。」と言った。

 10:50 すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た。

 10:51 そこでイエスは、さらにこう言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」

 10:52 するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。

ある心理学者の話によると、この世の人々の95%が自分の弱点のことで劣等感(れっとうかん)

覚えて生きていくそうです。

しかし、自分の弱みのことで悩むより、その弱みをどう理解して受け入れるのかによってその人の人生が変るとも言いました。

 

アブラハム・リンカンは学力に劣等感を覚えていましたが、彼は弁護士、国会議員となり、また大統領にまでなりました。

ルズベルトは小児(しょうに)麻痺(まひ)で体に弱みを感じていましたが、

しかし彼は今も、大変力のあった大統領として覚えられています。

 

ベートベンは耳が聞こえないので音楽家としては致命的(ちめいてき)な弱点を持っていましたが、彼は自分の弱点を克服し、今日の人に音楽の聖者(せいじゃ)として呼ばれています。

 

聖霊様は私たちが弱いということで、見捨てたり、用いなかったりする方ではありません。私たちの弱いところを助けてくださる方です。

私たちの弱みは神様に会うチャンスにもなります。

 

どうすれば私たちの弱みが強みとなるでしょうか。

神様に会わなければなりません。

主を呼ぶ時、主の関心を引く事ができるし、主の足を止まらせる事ができます。

 

今日の本文を見ますと、イエス様は群れと一緒にエリコに来られた時、

急に足を止めました。イエス様は大勢の群れの中で叫ぶ声を聞いたのです。

イエス様の耳は切実に叫ぶ声に(かたむ)きました。

イエス様の目は切実に叫んでいる人に向かっていました。

イエス様の心は切実に願う声に止まっていました。

 

ダビデの子、イエス様!私を哀れんでください。

この一言がイエス様の心を捕らえたのです。

この叫びがイエス様の足を止まらせました。

 

バルテマイのように皆さんが叫ぶところに、イエス様は足を止めます。

又、皆さんの弱みのあるところにイエス様の関心があります。

どんな人がイエス様の足を止まらせることができるのでしょうか。

 

①    イエス様を必要とする人です。バルテマイは盲人であり、乞食(こじき)でした。

(ほどこ)しで生きていく貧しい人でした。彼の心も貧しかったです。

彼は自分にはイエス・キリストが必要であることを知っていました。

噂を聞き、イエス・キリストを知っていたバルテマイは、イエス様に会う事を願っていました。

 

イエス様はご自分を必要とする者のところにおられます。

心の貧しい人のところにおられます。

美容師は人の髪型(かみがた)に関心があります。

また(くつ)の商売をやっている人は人の靴に関心があります。

 

イエス様は人の心に関心があります。

盲人であり、乞食であったバルテマイは、ナザレのイエスだと聞くと、

「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と叫び始めました。

バルテマイは自分の不幸を克服するためにイエス様に向かって叫んだ勇気のある人でした。

 

盲人バルテマイの叫びを聞いてイエスは立ち止まって「あの人を呼んで来なさい」と言われました。

そこでイエス様は、さらにこう言われました。「わたしに何をしてほしいのか。」

すると、盲人は言いました。「先生。目が見えるようになることです。」

するとイエス様は、彼に言われました。

「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエス様の行かれる所について行ったと書いてあります。

 

聖書にはこう書いてあります。あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。(ヨハネ14:14

今も、イエス様は私たちに聞いておられます。「わたしに何をしてほしいのか。」

その時、皆さんは何と答えますか。

盲人は「先生。目が見えるようになる事です。」と自分の願いを確かに求めました。

皆さんがイエス様に向かって求めますと、イエス様は足をとめ、皆さんの願いを聞き、かなえてくださいます。

 

②    叫ぶ人がイエス様の足を止まらせることができます。

通りかかるイエス様の関心を引くため、どう叫ぶかを考えませんでした。

ただ、“ダビデの子、イエス様、私を哀れんでください”と叫びました。

盲人バルテマイはイエス様を呼びました。イエス様も彼を呼んでくださいました。

これは盲人バルテマイにとっては最上(さいじょう)の祈りだったのです。

 

今日もイエス様はイエス・キリストの御名を呼ぶところに足を止めます。

イザヤ58:9では“あのとき、あなたがたが呼ぶと、主は答え、あなたが叫ぶと、わたしはここにいる。”と約束しておられます。

 

イザヤ55:6を読んでみますと主を求めよ。おい出る間に、近くにおられるうちに、呼び求めよ。”と書いてあります。

盲人バルテマイが、私を哀れんでください。と求めた時、

イエス様は足を止めました。

 

自分が偉いと思っている人、それで自分こそが祝福を受けるべきだと思う人には

イエス様は関心がありません。

なぜならイエス様は義人を呼ぶために来られたのではなく、

罪人を呼ぶために来られたからです。

 

すらすら祈りができなくてもいいです。長く祈りが出来なくてもいいです。

イエス様に求めるのには罪を悔い改め、哀れみを求める祈りがまず大事です。

皆さん、弱点があってもイエス様に会いますと、その弱点が強みに変ります。

 

ただ、忘れてはならないのは、イエス様に会うのには、時には障害物(しょうがいぶつ)があるということです。 バルテマイには周りの人々が彼にとって障害物でした。

うるさいと(だま)らせる人々が障害物でした。

しかし、盲人バルテマイはますます大きく「ダビデの子、イエス様、私を哀れんでください」と叫びたてました。

 

私たちも神様に会おうとする時、障害物があります。

恵まれることを妨げるサタンの働きがあります。

しかし、それでも諦めずにイエス様が足を止めるまで、叫ばなければなりま せん。これを超えないと神様の祝福と恵みはいただけません。

 

 ある日の事です。イエス様は、エリコにはいって、町をお通りになりました。そこには、ザアカイという人がいましたが、彼は取税人のかしらであり、金持ちでした。彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができませんでした。それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登ったのです。 イエス様は、そこに来られて、上を見上げて彼に言われました。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」 ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエス様を迎えたのです。

ここでも見るように、自分の背が低く、人々が多いのがザアカイにとっては障害物でした。

しかし彼はそれを乗り越え、いちじく桑の木に登ってイエス様を見たのです。

環境と状況の障害物や弱点を乗り越え、主を呼び求める時、

主の注目を引くことができます。

バルテマイはイエス様に呼ばれた時、あまりにも嬉しくて自分の上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がり、イエス様の所に行きました。

勿論その上着は臭くて(きたな)かったかもしれませんが、彼にとって全財産でした。

上着は普段自分の着るものですが、夜にはフトンとして使う物でもあります。

 

しかし、彼はあまりにもうれしくて自分の上着を脱ぎ捨て、

すぐ立ち上がってイエス様のところに走っていきました。

皆さんはバルテマイを見ながら何か感じたことがありませんか。

私たちも聖霊に満たされるために、また恵まれるためには邪魔(じゃま)となるものは脱ぎ捨てなければなりません。

 

皆さん、皆さんの弱みはなんですか。

今日神様は皆さんの弱みを強みに変えてくださることを願っておられます。

自分の弱みを隠さなければならなった偽善を脱ぎ捨てるのがイエス様に会うための優先すべきことです。

そして立ち上がって、イエス様の所に走っていきましょう。

 

この世は弱い人が見捨てられがちですが、神様はむしろこういう人を愛します。

自分の弱みを肯定的に受け入れましょう。

神様に自分の弱みのことで祈る時、神様は答えてくださいます。

バルテマイは盲人で乞食でした。彼は自分の弱点を通してイエス様に会いました。彼はその弱点のため肉体的な目だけでなく、霊的な目も開かれました。

神学者エミルブルンナはこう祈ったそうです。

“私が直すことが出来るものは直す勇気を下さり、私が直すことが出来ないものは受け入れる平安を与えてください。私が直すことが出来るものと直すことができないものを分別する知恵を与えてください。と祈ったそうです。

自分の弱みの中に隠れている神様の御旨(みむね)を見つけましょう。

 

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2019/02/05 主日メッセージ   nozomich

信者のニックネーム

のぞみ教会 主日説教(2019//) 作成及び説教者:李鍾賢牧師

信者のニックネーム〈ローマ8:16―17〉     

ある日、 “目を与えてほしい”という新聞の記事をある信者さんが読みました。

始めは何も気にせずに過ぎてしまいましたが、ある日突然その記事を思い出しては頭から消えませんでした。

いろいろ考えているうちに彼は、神様が自分に二つの目を与えて下さったのだから、一つを人に与えてその人が見えるようになったらどんなに嬉しいことかを考えました。

        

のぞみ教会 主日説教(2019//) 作成及び説教者:李鍾賢牧師

信者のニックネーム〈ローマ8:16―17〉     

ある日、 “目を与えてほしい”という新聞の記事をある信者さんが読みました。

始めは何も気にせずに過ぎてしまいましたが、ある日突然その記事を思い出しては頭から消えませんでした。

いろいろ考えているうちに彼は、神様が自分に二つの目を与えて下さったのだから、一つを人に与えてその人が見えるようになったらどんなに嬉しいことかを考えました。

 

しかし、それは思った通り、簡単なことではありませんでした。

かなりの時間が経って、彼は人のために何かをしようと思い、

それから彼は結局片目を与えることを決心したのです。

ところが、自分の妻が気になりました。妻がどう受け入れるのかが、

気になりました。

 

臓器<ぞうき>寄贈<きぞう>

 

それで彼は妻に一々説明しながら片目を与える事を決心したと言って、これに同意(どうい)して欲しいと話しました。その話を聞いていた彼女は何も言わずに(ふる)えていました。自分の夫は一度決めた事に関しては(つらぬ)くタイプであることを誰よりもよく知っていたからです。 貫く<관철하다.일관하다>

 

結局妻の同義を得た彼は又、年寄りの親が気になりました。

彼は自分の親にも自分が決心したことについて丁寧(ていねい)に説明をしました。

親はショックを受け、一言も言わずに沈黙しましたが、結局親もどうすることもできませんでした。

 

彼はいよいよ新聞に乗せてあった電話番号を探し、電話をかけました。

“目が必要だという新聞の記事を読みましたが、今も必要でしょうか。

必要なら私の片目を与えたいですが、どうすればいいですか。”

電話に出た人が驚きながら言いました。眼球<がんきゅう>角膜<かくまく>

“私たちが欲しかったのは亡くなる時に、眼球(がんきゅう)角膜(かくまく)をお願いしたのです。

生きている人の目をもらうのは法律的にも禁止(きんし)されています。”と言いました。

 

私はこの内容を読んで、この人こそ本当の信仰を持っている人だと思いました。

それで私はこの人に“本当の信仰者”というニックネームをつけてみました。

 

アンテオケ教会の信者たちには、クリスチャンと言う二ックネームが名付けられました。 皆さんの中にはニックネームがある方も、ない方もおられると思いますが、信者である私たちにはどのようなニックネームが付けられるべきかを考えてみたいと思います。 

 

1.信者なら常に“笑う人”というニックネームが付けられるべきです。

人間だけが笑うことができます。これは神様が人間だけに与えられた宝物でもあります。

不思議なことに人は、自分は笑わなくても、他人が笑わずに怒っている顔をしていると、きらいます。自分はできなくても、笑うのはみんなが好むことです。特に赤ちゃんの笑う顔はまるで天使のようです。

 

最近フランスの保健専門紙サンテによりますと、フランスの医者たちが一番多くとる処方法の一つが笑うことだそうです。

笑うのは人のストレスを解消する最高の方法だということです。

一回笑うのは30分間運動した効果があるそうです。

 

しかし、笑うのは自然に出来るものではありません。

しかし神様の子供で、聖霊に満たされていれば笑えます。

神の子の特徴は何でしょうか。

ガラテヤ5:22にあるように、御霊の実は、愛、喜び、平安,寛容、親切、善意(ぜんい)誠実(せいじつ)柔和(にゅうわ)自制(じせい)です。

 

またテサロニケ5:16にもあるように、いつも喜んでいなさい。と記録しています。

神の子であるクリスチャンはいつも喜んで生きて行くのが神様の御心です。

喜びがあふれ、笑いながら生きて行くのが神様の御心です。

 

信者なら知恵の人というニックネームが付けられるべきです。

人は何を勉強するのかによって進む道が変わります。

科学を勉強するなら科学者になりますし、文学を勉強すると文学者になります。医学を勉強すると医者になります。

 

ところがもっとも大事な学問があるなら、それは人間についての勉強です。

人がとこから来て、何のために生きるのか。結局人間はどこに行くのか。

人間はいったい何者なのかを良く知っていると、人生の価値について分かるようになりますし、やっている仕事にも以前とは違う価値観をもつことができます。

 

箴言9:10には、“主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。”と書いてあります。神様について知るのが知恵です。

知恵の人であるソロモンは神様について良く知っていた人です。

 

トレイシ・ベイリという人がいました。

彼はアメリカのインデアナ州コンセンという地域の高等学校に通っていました。

彼はレスリング選手として活躍していまして、

毎年全国大会で金メダルを取りました。学校の成績も優秀でした。

彼は友達にも、先生にも認められました。

 

しかし、残念な事に彼は悪い人と付き合って、以前とはすっかり変わりました。

学校に(しの)び込んで、ガラスを割ったり、見える物は壊してしまったり、

悪いことばかりして周りの人を苦しませました。

 

結局彼は刑務(しょ)に入る身になって、高校生ですが、5年の刑を受けました。

刑務所に閉じ込められたベイリは反省どころか、これから5年後、刑務所から出たら、このやつも、あのやつも殺してしまうと歯軋(はぎし)りをしながら毎日を送っていたのです。

 

一か月が過ぎ、半年(はんとし)が過ぎ、一年が過ぎましたが、

あいかわらず殺すことばかり考えていました。

ある日、彼は刑務所にある鏡をみました。

鏡に映った自分の顔を見て驚きました。自分の顔がものすごくいびつな、

怖い顔をしていたからです。

 

自分の目には殺気(さっき)のようなものが流れているのを感じました。

自分が自分を見ても怖かったです。

毎日誰かを殺す事ばかり考えていたので、自分の顔がまるで悪魔のようでした。

自分の姿を見て驚いた彼はショックでした。

 

一々ここではお話することはできませんが、

彼はその後、刑務所にある教会に行って、神様に会って新しくなりました。

彼は完全に変わりました。一年後には刑務所から釈放(しゃくほう)されました。

刑務所から出た彼は以前とはまったく違う道を歩み始めました。

 

彼は一生懸命に勉強して、高校の数学先生になりました。

その学校で問題のある学生はベイレ先生が担当することになりました。

過去に自分も(あやま)った道を歩んだことがあったので、

彼は一生懸命カウンセリングに当たり、学生たちを指導しました。

 

1993年、アメリカ全地域で、たった一人の模範(もはん)先生が選ばれましたが、

その時、べイリ先生が選ばれました。

そしてアメリカ大統領の賞をもらいました。

彼が神様を知らなかったら、どうなったでしょうか。

彼は神を知る知恵の人になって、神様には栄光を、そして人々には影響を与える人になりました。

 

3.信者なら“変わった人”というニックネームが付けられるべきです。

ここでいう変った人とは、悪い意味での変った人ではありません。

神様に出会って、以前とは変ったことをいいます。

神様は私たちが変わる事を願っておられます。

 

ジドラという人がいました。彼は青年の時にこう祈りました。

“主よ。私にこの世を変化させる力をお与えください。”

しかし神様から答えがありません。彼は中年になって、また祈りました。

“主よ。私に会うすべての人が変わるように。”

彼はだんだん年をとって年寄りになりました。

やっと彼は自分が(おろ)かだったのを悟りました。 

その後、彼の祈りが変わりました。

これからは自分が変わるようにと祈りました。

 

自分が変わらないのにどうやって他人を変化させることが出来るでしょうか。まず自分が変わるべきです。自分が変わると自分に会う人が変わるでしょう。

歴史の偉い人たちは、まず自分が変ることによって、

人に、社会に変化をもたらしました。

まず自分が変わらなければなりません。

 

自分が変わる時に、自分の家族が変わります。

自分が変わる時、(ぞく)している教会が変わります。

神様はまず、私たち自分が変わることを願っておられます。

信者には笑う人、知恵の人、変わった人というニックネームが付けられるべきです。

 

自分を一度振り返って見て、このようなニックネームがつけられそうかどうか考えてみましょう。

そして自分を神様の御ことばで常に(ととの)えるようお願い申し上げます。

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2019/02/05 主日メッセージ   nozomich