恵みの雨

甦られたイエス・キリスト〈Ⅰコリント15:3-8〉

のぞみ教会 主日説教(2018年4月1日) 作成及び説教者:李鍾賢牧師

題目:甦られたイエスキリスト〈Ⅰコリント15:3-8〉

15:3 私があなたがたに最も大切なこととしてえたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、

 15:4 また、葬られたこと、また、聖書にって三日目によみがえられたこと、

 15:5 また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。

 15:6 その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多の者は今なお生きっていますが、すでに眠った者もいくらかいます。

 15:7 その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。

 15:8 そして、最後に、月足らずで生まれた者と同な私にも、現われてくださいました。

のぞみ教会 主日説教(2018年4月1日) 作成及び説教者:李鍾賢牧師

題目:甦られたイエスキリスト〈Ⅰコリント15:3-8〉

15:3 私があなたがたに最も大切なこととしてえたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、

 15:4 また、葬られたこと、また、聖書にって三日目によみがえられたこと、

 15:5 また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。

 15:6 その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多の者は今なお生きっていますが、すでに眠った者もいくらかいます。

 15:7 その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。

 15:8 そして、最後に、月足らずで生まれた者と同な私にも、現われてくださいました。

 

☞ あなたは、いったいどこから来ましたか?

神は、皆さんを愛しておられ、皆さんに素晴らしい人生を与えようとしておられます。聖書の最初には、「はじめに神が天と地を創造した」と書かれています。  この世界と、その中にあるすべてのものを造った本当の神様がいます。    

わたしたち人間は、本当の神様によって造られ、生かされているのです。 聖書はこう語ります。「私たちは神の作品であって、良い行いをするために、キリスト・イエスにあって造られたのです」聖書エペソ2:10  「わたし(神)の目には、あなたは高価で尊い。わたし(神)はあなたを愛している」 聖書イザヤ43:4 

☞ 神様はどうして地球をつくったのでしょうか。それは、人間が住むためです。また、神様は、どうして人間を造ったでしょうか。 それは、神様が人間を愛するためです。「神は、実に、そのひとり子(キリスト)を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちをもつためである」聖書ヨハネ3:16と聖書は語っています。

この世界は神様の愛であふれています。 素晴らしい家族などすべての良いものは、神様からの贈り物として人間にプレゼントされているのです。

☞ みなさんは、この本当の神さまを知っておられますか。

人間をつくり、生かしてくださる神様を信じることは、あたりまえのことです。 しかし、大勢の人は神様から離れて、家族問題、健康問題、将来問題、経済問題、人間関係の問題など心配ばかりの毎日をおくっています。  そして、最後には、罪のために地獄にいかなければなりません。

☞ 救い主イエス・キリスト

神様は、愛する人間を救うために、救い主となってこの世界に来られました。  その方が、イエス・キリストです。 イエス・キリストは、りっぱな家ではなく、馬小屋で生まれました。キリストは人間と同じように、悲しみや、いたみ、苦しみなどをうけて、30歳から3年間、ご自分が救い主であることを知らせるため、たくさんの奇跡を行いました。そして最後には、私たちの身代わりに、罪の罰を受けて、十字架上で死なれ、3日目に死人の中から甦られました。

☞ イエス・キリストは今も生きておられます。

イエス・キリストは、死の力をうちやぶり、今も生きておられます。 だれでも、イエス・キリストを信じるなら、罪が赦され、天国に行く事が出来るようになります。日本人方々が、イエス・キリストを信じ、本当の幸せを味わうようにするべきです。

 

イエス・キリストはこの世に来られた時、目的を持って来られました。

しかし、人間はどうでしょう。

私たち人間は生まれる時、イエス様のようにある目的を持って生まれたのではありません。 

 

人間は生きる事、そして死ぬ事の意味を知らずに生まれました

また、人生がいったいどういうものなのか知らずに生きてました

しかし、イエス・キリストはこの世に来られた時、目的をもって来られました。

その目的とは、私たちの問題を解決するためのことでした。

イエス・キリストは死ぬ事と生きる事が何であるかをご存知の上、この世に来られました。

 

「ヨハネ1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」

「ヨハネ1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の光を見た。父のみもとからられたひとり子としての光である。この方はみとまことにちておられた。」と書いてある通り、イエス様はこの世に人間の姿で来られましたが、しかしこの方は神様ご自身でした。

 

ヨハネ10:30 わたしと父とは一つです。」

ヨハネ4:8-9 4:8ピリポはイエスに言った。「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば足します。」

14:9 イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください。』と言うのですか。

 

イエス様は人間を救うための目的を持ってこの世に来られました。

ですから私たちの生きる事と、イエス・キリストの生きる事、又、私たちが死ぬ事と、イエス・キリストが死ぬ事とは根本的に違います。

私たちは必然的に死んでしまいますけども、しかしイエス・キリストは自ら死を選ばれました。そして予言された通り、甦られました。

 

ところがイエス・キリストのこの復活の事を始めは誰も信じようとしませんでした。

聖書を読んで見ますと、イエス様の弟子たちは皆、イエス様を裏切って逃げ去ってしまったのです。

 

又、恵みをいただいた人たちも皆、元の不信仰の状態に戻ってしまいました。

そしてペテロもイエス様が甦られたという事を耳にしたにも関わらず、魚を取るために海に出てしまいました。

マリヤもイエス様が甦られる事を信じなかったので、イエス様の遺体に油を塗るためにお墓に行きました。

 

なぜ彼らはイエス・キリストが甦られたのを信じようとしなかったでしょうか。

その理由は簡単です。人間は復活が出来ないからです。

イエス・キリストは十字架の上で完全に死んでしまったので誰もがイエス・キリストが甦られるとは思わなかったのです。

 

また、イエス・キリストがどういう方なのかを知らなかったからです。

人間が復活するのは科学的にも、医学的にも、生理的にも、不可能な事です。 

完全に死んで三日になったから甦られることはあり得ない事だからです。

しかし、イエス様は予言通り甦られました。

 

ところが、ユダヤ人たちはイエス様の復活について変なうわさをしていました。

たとえば、“イエス様はただを失った態からってだけだ。” 

または、“イエスの弟子たちがお墓からイエスの遺体をんで行って、空っぽになったお墓を見せてイエスが甦られたとをついているんだ”など言いふらした人もいました。

そして“ある人がイエスを夢の中で見たのを言い降らしているんだ”といううわさもありました。

 

しかし、イエス様が甦られたのには証拠があります。

それは聖書に書かれてある通りだからです。

イエス様はご自分が、苦しみを受け,死者のうちから三日目に甦る事を予言しましたからです。

もし、イエス様が予言した通りにならなかったらどうなるでしょう。

しかし、イエス様の復活については空っぽになったお墓が証拠です。

 

聖書を読んで見ますと、イエス様の友人たちがその遺体を麻布につつんで石のお墓の中においたと書いてあります。

また適であった人たちもお墓の入り口を石で閉じて、かたくその墓を守っていました。あのお墓が空っぽになったのです。

この空っぽになったお墓がイエス様の復活を証しています。

 

また、実際に見た人々が証しています。

実際にイエス様が甦られたのを見た人がいます。〈Ⅰコリント15:3-8〉

15:3 私があなたがたに最も大切なこととしてえたのは、私も受けたことであって、次の事です。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、

 15:4 また、葬られたこと、また、聖書にって三日目によみがえられたこと、

 15:5 また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。

 15:6 その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多の者は今なお生きっていますが、すでに眠った者もいくらかいます。

 15:7 その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。

 15:8 そして、最後に、月足らずで生まれた者と同な私にも、現われてくださいました。

 

イエス様が甦られなかったら私たちが持っている信仰は無駄であり、私たちはいつまでも罪の中に留まっている状態になります。

キリスト教は復活の宗教です。また、命の宗教であります。

それでイースターはキリスト教にのみあります。

 

それで信者はいのちを持っているので、実は全てを持っているのです。

Ⅰヨハネ5:11 そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちをえられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。

 5:12 御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。

 5:13 私が神の御子の名を信じているあなたがたにしてこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。

 

マタイ28:18 イエスは近づいてて、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの威がえられています。

 28:19 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆるの人を弟子としなさい。

そして、父、子、聖の御名によってバプテスマを授け、

 28:20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、

彼らをえなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたと共にいます。」

 

今も、甦られて生きておられるイエス様がいつも私たちと共におられるからです。

甦られ、今も生きておられるイエス様の恵みが、信じる皆さんの上に、生活の上に、そしてお仕事の上に溢れますようにお祈りするしだいでございます。

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2018/04/02 主日メッセージ  

神の子供の喜び

神の子供の喜び。〈エペソ1:1-6〉

立派な家の子供として生まれることは誇りでもあります。

また貧しくても幸せなら、豊かで不幸な家庭で生まれるよりはいいかもしれません。

もし、私たちが再び生まれる事が出来るなら、皆さんはどんな家庭で生まれたいですか。

有名な政治家の家ですか。それとも科学者の家ですか。

のぞみ教会主日礼拝 2017年11月26日 説教者:李鍾賢牧師

<ロバートクニーブル>

ロバートクニーブルと言う人がいました。

すでに亡くなられていますが、お年を召した方々であれば、

名前は知らなくてもその人を覚えている人がいるかも知れません。

その人が何をしたかについて思い出す人はいるでしょう。

生涯で最も多く骨折をした人としてギネスブックに載っています。

 

この人はオートバイに乗る人で60代後半まで生きた人でした。

彼はアメリカにおいて障害物バイク―レースで有名でした。

1度、2度はこの人のレースをテレビで見たことがあると思います。

 

韓国でもテレビで彼の姿をよく放映<  >していました。

ラスベガスで高さのある噴水<  >をバイクで超えたり、

ロンドンでは並べられた13台のバスを超えたりしました。

 

また、アイダホ州の大変な高さのある峡谷<きょうこく>を

飛び超えようとするのですが、それは不可能なことでした。

そこでそれをどのようにして飛び越えようとしたのかと言うと、

パラシュートを背負ってバイクに乗ったニーブルをある装置<そうち>を

利用して大砲<たいほう>を発射するかのように飛ばすのです。

すると途中でパラシュート開きバイクに乗ったまま着地するという

演出<えんしゅつ>だったのですが、失敗に終わってしましました。

一歩間違えば、死んでしまうところでした。

 

成功例もありますが大変多く転び<ころび>大変多く怪我<けが>をした人であり、ギネスブックには生涯で最も多く骨折した人として載っています。

この人の人生の目標は二つでした。

有名になる事、そしてお金を稼ぐことでした。

 

そして成功しました。

現在のアメリカの若者たちはこの人の事を知りませんが、

80代ぐらいまでは、この人の事を知らない人はいませんでした。

お金も大変多く稼ぎました。

自家用機も維持するのにどれだけのお金が必要か想像もできないでしょう。

持った事がないからです。

家系の誰かが持っていれば相場<そうば>くらいは分るでしょうが、

とてつもない費用がかかる事は間違いないでしょう。

<とてつもないー당치않다. 터무니없다. 엉뚱하다.

自動車一台を持つだけでも保険料や様々な諸経費がかかるので

本当に車が必要かどうか悩むのが私たちです。

 

しかし、彼は自家用機を二機も保有<ほゆう>していました。

彼は自家用機で移動するときに誰も乗ってないもう一台機の自家用機まで同時に飛行させていました。

なぜでしょうか。

もう一機の翼に書かれている自分の名前<クニーブル>人生の成功を味わうために機内で酒を飲みながら窓の向こうに見える自分の名前が書かれた飛行機を眺め<ながめ>自分がどれほど成功したかを再確認していたのです。

 

引退後はアメリカ人が夢みるフロリダに家を持ち誰もがうらやむ老後を送っている事だろうと思われました。

そのぐらい有名なお金持ちであれば多くの骨折はしてもまだ健康であり、

フロリダの浜辺<はまべ>で老後を過ごしているなんてアメリカ人の誰が見ても成功者である事に間違いありません。

 

しかし、この人の心は空しかったのです。

2003年彼が65歳になった時でした。

フロリダ浜辺で大変素敵な老後を過ごしているであろうと思われていた

彼の心は穴が開いたように空しく人生を惨め<みじめ>に感じていたのです。

 

人々は何かを成し遂げることが自分の存在価値を認める事が出来るという

間違いにはまっているのです。

何かを成し遂げても私たちの存在価値は高められる事はありません。

三万円の背広を着た後、300万円の背広を着ても自分の存在価値が変わる事は

ありません。

 

クニーブルがとても虚しい老後を過ごしていたのですが、

今までの彼の人生の何とも比べられない驚くべき出来ことが、

彼が65歳になったある春の日、浜辺を散歩していた時に起きました。

突然声が聞こえたのです。

 

何の声でしょうか。

耳に聞こえた声ではなく、心に聞こえた声だったそうです。

わたしはあなたを何度救ったのか覚えているのか。

これからはわたしの息子であるイエス・キリストを通してわたしのもとに

戻って来なさい> 彼は大変驚いたそうです。

 

彼は教会や神に対して敵対心を持ったり、批判したことはない人でしたが、

同時に神に対する関心も持っていませんでした。

実際にこのような人はイエス・キリストを信じる事は中々難しいです。

しかし、その声を聞いた彼は大変驚きイエス・キリストを信じる友人に電話をしたのです。

 

そのような声を聞いた事を話すと友人は慌てる<あわてる>ことなく、

聖書を紹介しながら聖書を最初から最後まで読むように伝えました。

聖書を読む時、彼はイエス様に出会ったのです。

彼の人生は変わりました。

これまでの彼の人生の問題を発見したのです。

 

彼は洗礼を受けたくてロボートシューラ牧師にお願いしました。

シューラ牧師がまだご健在だった時です。

シューラ牧師がクニーブルの証を聞き、シューラ牧師はご自分の教会の礼拝に招き洗礼を授け、彼は恵みの分かち合いをしたのです。

 

彼は自分の人生について語り、どのようにしてイエス・キリストに出会ったのかについて証しました。

その大きな礼拝堂にいた人の中でその証を聞いて泣かなかった人はいなかったと言われるほど聖霊に満たされました。

 

シューラ牧師はその日に礼拝者たちを見ながら、このように言われたそうです。

今日は、私は、説教はしないことにします。

皆さんの中でクニーブルがイエス様に出会ったように、今日イエス様を自分の人生の主人として迎え入れ新しい出発をしたいという人がいれば前に出て下さい。私が洗礼を授けます。

 

彼はアメイジング・グレースを伴奏<ばんそう>するように伝えました。

その賛美はアメリカ人なら誰でも知っています。

そしてその日何人が洗礼を受けたでしょうか。

700人が洗礼を受けたそうです。

そしてクニーブルはなくなりました。

彼は様々な病気を抱えていたそうです。

彼はイエス様を信じた後、数年も経たないうちに亡くなったのですが、

常にまわりに人々に言っていたことがあるそうです。

少しでも早く神を知る事が出来なければ嘆く<なげく>ことになりますよ。

後悔しないように信仰を持ってください。

神のためにしたい事が沢山あります。と叫んだそうです。

そして数年前に亡くなったのですが、

墓石には彼の様々な偉業についてではなく<イエス・キリストを信じる>

とだけ彫って欲しいと伝え、その墓の下に埋葬<まいそう>されたそうです。

 

神の子供の喜び。〈エペソ1:1-6〉

立派な家の子供として生まれることは誇りでもあります。

また貧しくても幸せなら、豊かで不幸な家庭で生まれるよりはいいかもしれません。

もし、私たちが再び生まれる事が出来るなら、皆さんはどんな家庭で生まれたいですか。

有名な政治家の家ですか。それとも科学者の家ですか。

大学の教授の家庭ですか。勿論私たちが家庭や親を選ぶことはできませんが、しかし、聖書ではもっと素晴らしくて立派に生まれ変わることについて知らせています。(ヨハネ 1:12)に書いてある通りです。

“しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子供とされる特権をお与えになった。”と記録しています。

つまりイエス・キリストを信じることによって私たちは新しくなりました。

神の子供になったからです。これこそ最高の祝福なのです。

 

(Ⅱコリント5:17)でも、“だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。”と、記録しています。

 

(使徒16:24-26)パウロとシラスが奥の牢に入れられ、足に足かせを掛けられました。

“真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人(しゅうじん)たちも聞き入って(いって)いた。ところが突然、大地震が起こって、獄舎(ごくしゃ)の土台(どだい)が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった。”と書いてあります。

 

その時代には今のような聖歌もなかったし、楽器もありませんでした。

しかし、彼らには神の子供としての喜びが溢れていました。

それで彼らは奥の牢の中でも賛美が出来たのです。 

私たちは祝福された者です。

神様を信じているし、また神様に愛されているからです。

 

1>祝福はだれがくださるのでしょうか。

3節にこう書いてあります。“神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。” 

聖書には祝福の元がどこにあるのかを教えて下さいます。

それは私たちの主イエス・キリストの父なる神です。

神様は貧しい方でもありませんし、惜しむ方でもありません。

心の広い、恵み豊かな方です。

 

2>祝福はだれを通して与えられるでしょうか。

“神はキリストにおいて”と書いてあります。

普通この世の中での祝福とイエス・キリストの中で与えられる祝福とは

全く違います。

イエス・キリストの中で与えられる祝福とは、

十字架の上で現れた最高の愛を通して与えられるものであって、

イエス・キリストは今も生きておられ、神の民を助けて下さり、

必要なものを満たして下さいます。

 

イエス・キリストを信じて救われた人々は実は愛の負債(ふさい)を負った者たちです。

イエス・キリストは御自分の命を捨てて私たちを救って下さったからです。

しかし、主はその理由で私たちを苦しませる方ではありません。

むしろキリストにおいて祝福を受け、喜んで生きる事を願っておられます。

 

3>祝福はどこから来るものでしょうか。

3節をもう一回見ますと、「天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福して下さいました」と、あります。

つまり、天からの祝福です。

豊かな生活をしているからといってそれが祝福であるとは言えません。

権力のある政治家だからといってそれが祝福であるとは言えません。

天からの祝福でなければ、本当の祝福であると言えないのです。

 

例えば人の笑顔からも言えると思いますが、道に落ちている一万円を拾って喜ぶ時の笑顔と、自分の問題を切実なお祈りで神様に解決してもらった時の笑顔とはまったく違います。

祝福は天からくるものであり、そのような祝福こそ、

私たちのすべてを満たしてくれます。

 

4> 神様はどれくらい祝福して下さるでしょうか。

天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福して下さいます。

神様が下さる祝福は、一つ、二つではなく、すべての霊的祝福です。 

私たちを救うために御自分の命まで捨てられた神様です。

その方が私たちに何を惜しむでしょうか。 

 

私たちが神様の子供になったのは、偶然な事ではありません。

神様は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、

御前で聖く、傷のない者にしようとされました。 

5節を読んでみますと“神はただ、みこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。”と書いてあります。

 

私たちは神の子供になりました。

私たちを救い、ご自分の子供にした理由があります。《6節》

神様がその愛する方によって私たちに与えて下さった恵みの栄光がほめたたえられるためです。

神様は私たちの賛美を願っておられます。 

 

祝福は私たちの主イエス・キリストの父なる神が与えて下さいます。

祝福はだれを通して与えるでしょうか。

“キリストにおいて”と語っておられます。

祝福はどこから来るものでしょうか。

天からであると記録されています。

神様はどれくらい祝福して下さるでしょうか。

天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福して下さると約束して下さいました。

 

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2017/12/09 主日メッセージ  

クリスチャンには恐れがない

クリスチャンには恐れがない

8:15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。

8:15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。

のぞみ教会主日礼拝 2017年11月12日 説教者:李鍾賢牧師

クリスチャンには恐れがない

8:15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。

                     

クリスチャンは誰でも人を恐怖に陥るような奴隷状態にはありません。

神の子としての霊を頂き、現に神の子とされている者たちです。

ですから、底<そこ>には自由があり、喜びがあります。

 

クリスチャンも気落ちしたり、神に見捨てられたという気持ちを抱<いだ>く事がある時もあるかも知れません。

とにかく、罪を犯した場合には、そういう気持ちになる事があるのではないかと言う疑問です。

確かにクリスチャンだからと言って、絶対に罪を犯さないという事はありません。

 

罪を犯せば、心の平安がなくなる事は、事実です。

このことは、特に内向的<ないこうせい>な性格の人に強くみられる現状です。

しかし、よく覚えなければならない事は、ひとたび神との間に平和が与えられ、義と認められた者は、絶対に裁かれることなく、従って滅びる事がないという事です。

 

罪を犯した時には、クリスチャンの心は不安で喜びがなくなることは事実です。

しかし、再び恐怖に陥れるような奴隷の霊を受けたのではないのです。

だから、その身分と状態は全く違うと言えます。

 

クリスチャンが罪を犯した場合、それは律法に対して罪を犯したのではなく、愛に対して罪を犯したのです。

つまり、神との本質的な関係が崩れてしまうのではなく、

神との愛の関係が崩れてしまうわけです。

 

クリスチャンが罪を犯した場合と、クリスチャンでない人が罪を犯した場合との本質的に違いがあります。

罪を犯したクリスチャンの場合は、神との新しい関係はそのままですが、

神の御心を痛め、悲しませたわけですから、神との愛の関係にひびが入って

しまいます。

クリスチャンは、自分で自分の罪を赦すことが出来ない事を知っています。

又、その罪の赦しが得られることを知っていますから、その罪の赦しのために、悔い改めて、神の御もとに行きます。

これが、バックスライドしたクリスチャンの取る道です。

 

しかし、クリスチャンでない人は、神との関係が崩れてしまうから、

神のところへ行くことが出来ず、ただ恐れおののいでいるにすぎません。

ですからクリスチャンが罪を犯した時、取るべき道は、罪を犯したダビデ王がとった道しかありません。

 

ダビデ王は、神を知り、神を信じながら、恐るべき二つの罪を犯してしまいました。

それは姦淫と殺人です。

その後、預言者ナタンが来て、一つの例えを話し、そのことからダビデ王の罪を指摘しますと、彼は自分の犯した罪の恐ろしさにもだえ苦しみます。

 

そして、彼は自分の罪を神に告白し、赦しを求めるのですが、その時の気持ちを詩編51編に歌っております。

彼がした最初の言葉は何であったかと言いますと、

神の元へ行っているという事です。

バックスライドしたクリスチャンが悔い改める時にすることも、

いつもそのことです。

ダビデは告白しています。

<私は誰よりも、あなたに対して罪を犯し、あなたの前に悪いことを行いました。それで、あなたの宣告<せんこく>は、正しく、あなたの裁きに誤りはありません>

彼が罪を犯しながらも、神のもとに帰っているのは、自分が神の子である事を知っていたからです。

クリスチャンは、たとい罪を犯しても、神の元へ行き、自分の罪を告白すれば、神はその罪を赦し、清めて下さることを知っています。

これは、再び恐怖に陥れるような奴隷の霊の下に帰っていたのではないからです。

 

次に起こって来る疑問は、クリスチャンでも悪霊の攻撃に会います。

そのために苦しめられることについて、どのように考えたら良いのかという事です。

それについては、再び恐怖に陥れるような奴隷の霊を受けた事はないという事を、まず知らなければなりません。

神の御子キリストに対しても悪魔は力を尽くして攻撃していました。

ですから、キリストに従う私たちクリスチャンに対しても、

悪魔は当然、攻撃をしかけてきます。

しかし、ペテロが勧めているようにすればよいです。

Ⅰヨハネ19

 1:9 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

 

Ⅰペテロ589

 5:8 身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。

 5:9 堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。

 

ヤコブ47

4:7 ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。

 

最後にもう一つの疑問が湧いて来ます。

それは、特別に罪を犯したわけではないのに、神に見捨てられたのではないかと思われる時があります。

ある人は心が渇き、神を見いだす事が出来ないように思われ、、以前のように祈りにおける自由がないと言います。

 

しかし、私たちはこのことを知らなければなりません。

へブル126

 12:6 主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」

という事を、聖書は明らかにしております。

私たちは、神の子とされたのです。

もう決して滅びる事がありません。

それに対する恐れがないのです。

ですから何でもできる自由を持っています。

この喜びを私たちは毎日の生活の中でどのように表して行っているでしょうか。

 

 

神の子とされた証拠

8:15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。

 

クリスチャンの救いは確かなものであり、その確かさは神が聖書の中で繰り返し保証しています。

ですから、その神の保証の下で、案じる事が出来ます。

 

私たちが神の子とされたという事は、考えて見ると、非常に驚くべきことです。

と言うのは、私たちは罪の中に生まれ、罪人として歩んで行きました。

そのような私たちが、神の子として、神の家族の一員に加えられるという事は何と素晴らしいでしょうか。

 

永遠の聖い神が、どうして私たちのような者を、神の家族の中に入れて下さったでしょうか。

ですから、このことは考えれば考えるほど驚くべきことであり、また心が踊る思いでいっぱいになります。

 

私たち罪人の運命は滅びであったのですが、神の恵みによって滅びから救い出され、もう二度と裁かれることのない身とされ、神の子として、神の家の中に加えられたので、私たちがこの素晴らしい事実に何の反応もないのは正しくありません。

神の家族に加えられたという事は何と素晴らしい事でしょう。

 

私たちが神の子供として頂いたのは、身分だけのことではなく、

神の子としての御霊を頂いたことなのです。

神の子としての御霊は私たちを子としてくださる御霊であるばかりではなく、私たちはその御霊によってお父様と呼ぶことが出来るのです。

 

神は私たちクリスチャンにとって、遠くの方におられるのではありません。

すぐ近くにおられて、私たちはいつでもお父様と言って呼ぶことが出来ます。

私たちを罪から救って下さった神は、人格を持っているお方ですから、

私たちの呼びかけに対して、すぐ答えて下さいます。

それだけではありません。

神は単に人格を持っておられるだけではなく、私たちを救い、

助けて下さる父なる神様です。

私たちの知らないお方ではなく、私たちが良く知っているお方なのです。

 

私たちが父なる神を知っています。

それは、私たちが父なる神を知っている以前に、

父なる神は私の事をご存じでした。

 

救いの確信8:15-16

8:15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。

8:16 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。

 

救いと救いの確信の違いについて知らないクリスチャンがいます。

またもう一方では、救いの確信を強調するあまり、救いの確信を持っていない人は、救われていないと主張する極端な人がいないわけではありません。

ここで救いと救いの確信について考えて見ましょう。

救いと言うのは、神が私たちをあらゆる不幸の根本的原因である罪とその結果である一切のものから救い出して下さった事実を指しております。

 

その救いは、御子イエス・キリストの十字架上の贖いに基づいてなされるものですが、救われた私たちについて言えば、それは神のなされた者なのです。

しかし、聖書は何と言っているでしょうか。

 

ヨハネは次のように言っています。

Ⅰヨハネ 5:11 そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。

 5:12 御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。

 5:13 私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。

 

私たちクリスチャンは自分が救われていることを知る事が出来るのです。

つまり、クリスチャンは自分が救われているという事を、この世の終わりにではなく、今、知る事が出来ると教えています。

ですから、クリスチャンは救いの確信を持つことが出来るという事です。

 

ところで、救いの確信を持っているクリスチャンと、救われていても救いの確信を持っていないクリスチャンの間には、どのような違いがあるでしょうか。

どちらも救われているのであれば、最後に滅びることなく、

みな天国へ行くことが出来るわけです。

しかし、救いの確信を持っているクリスチャンが着実な信仰生活を送っていけるのに対して、救いの確信のないクリスチャンの場合は、しばしば自分の感情や気分に支配されていて、信仰生活が波のように揺れ動いています。

 

全ての事がうまくいっている時には、自分は救われていると思い、

喜びにあふれていても、うまくいかなくなると、もう自分は救われていないのではないかと思ってしまいやすいです。

 

救いの確信を持っているクリスチャンは、どんなときにも落ち着いていられますが、持ってないクリスチャンは、いつも落ち着きがなく、苦しみの繰り返しです。

そこで救いの確信と言うのは非常に大切なのですが、聖書ははっきりと記しています。

イエス・キリストを自分の救い主であると信じる人は救われると聖書は教えています。

 

確かに聖書に書いてありますが、それがなかなか自分のものとしての実感が湧いてこないという人がいます。

聖書ははっきりと 1:11 この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。 1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、

その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。>

と記しています。

 

神の約束の書物である聖書に記されているから、神の子とされた事は確実なのです。

神の子と言う身分だけではなく、神の子の御霊を頂いたのです。

神の恵みによって下さるものを、私たちは受け入れれば良いのです。

 

私たちが救われている事についての最も確かな証拠は、

聖霊ご自身が私たちの救われていることを証してくださるという事です。

私たちが滅びないのも、今、神の子供としての特権にあずかる事が出来るのも、御言葉を解き明かしてくださる聖書の働きにほかなりません。

聖書によって与えられた救いの確信によって、

さらに確かな力強い信仰生活を送り、

神の栄光を表わして行くことが出来るように願っております。

 

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2017/12/09 主日メッセージ  

神の子供とは

ローマ8:14<神の子供とは>

8:14 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。

ヨハネ 1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

ヨハネ 17:9 わたしは彼らのためにお願いします。世のためにではなく、あなたがわたしに下さった者たちのためにです。なぜなら彼らはあなたのものだからです。

のぞみ教会主日礼拝 2017年10月29日 説教者:李鍾賢牧師

ローマ8:14<神の子供とは>

8:14 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。

 

ヨハネ 1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

 

ヨハネ 17:9 わたしは彼らのためにお願いします。世のためにではなく、あなたがわたしに下さった者たちのためにです。なぜなら彼らはあなたのものだからです。

 

ヨハネ 3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 

ヨハネ 3:36 御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。

 

このように、聖書ははっきりと、人類がみな生まれながらにして神の子供である事を否定しています。

それでは、神の子供とは、どのような人々のことを言うのでしょうか。

8:14 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。

神の御霊に導かれる人は、だれの事でしょうか。

それは、すべてのクリスチャンです。

キリストと結び付けられ、クリスチャンとなった人々のうちには、いつも御霊が住んでいてくださいます。

御霊が私たちの主人なのです。

しかも、その御霊は子としてくださる御霊です。

私たちはその御霊によってお父様と呼ぶことが出来るわけです。

 

私たちは生まれながら罪人であって、神の子供ではありませんでした。

その点、御子イエス・キリストは違います。

キリストは永遠の神の御子であり、ひとり子の神なのです。

しかし、私たちはそうではありませんでした。

神の恵みによって、神の子供として頂いた者たちです。

 

神の子供の特権について考えて見たことがありますか。

まず、それは、私たちが神の子供として扱われるという事です。

ローマ 8:15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。

 

ローマ 8:17 もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。

 

このことが本当に分かると、苦しみや悲しみがあっても、それに耐える事が出来るようになります。

神の子供にまさる特権はこの世にないからです。

神は私たちを神の子供として扱ってくださいます。

私たちは自由に神に祈り、交わる事が出来ます。

 

そして、この世の終わりには、神の国を相続するのです。

この世において、たとい何億円もの財産を相続したとしても、それは朽ち<くちる>ゆくもの、死と共にこの世に残していかなければならないものです。

 

しかし、神の国は永遠にとどまるものです。

この相続は、どれほど素晴らしいものでしょうか。

そのことを信仰によってよくわかるようになった時、

私たちのゆるぎなき立場と祝福に圧倒されるのです。

 

神の子供の特権

8:14 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。

クリスチャンは罪が赦されたり、神と和解が出来たり、義と認められただけではなく、神の子供とされた者たちです。

つまり、私たちは神の子供としての自由と喜びにあふれた人生を歩むことが出来るようになりました。

これが、聖書の教えている救いの事です。

 

私たちは生まれながら怒りの子であり、アダムの子供でした。

しかし、今はそうではありません。

神の子供として神の家族の一員に加えられたのです。 

<エペソ2:19>

 2:19 こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです

 

私たちは実質的に生まれ変わって、新しいいのちが与えられました。

Ⅱコリント 5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

 

神の子供とされたという事は、まず、第一に、私たちが神に似た者とされるようになったという事を意味します。

父親と子供が似ているように、神の子供たちは神に似るのです。

地上の親子の場合を考えて見ると、よくわかると思います。

私たちは自分の父親の性質やくせをよく知っています。

 

第二に、神の子供として特権は、恐れることなく神に近づくことが出来るという事です。

次のように勧められています。

へブル 4:16 ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

私たちはもはや神の御前に来ても、裁きのために恐れるという必要はなくなりました。

 

ただ哀れみを受け、また恵みを頂くだけでよいのです。

ここに神の子供の特権があるわけです。

このことは自然的に私たちに祈りにおける大きな確信を与えます。

祈りの中で主と親しい交わりを持ち、また私たちの祈りに答えを約束してくださいました。

マタイ:7-9

 7:7 求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。

 7:8 だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。

 7:9 あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。

 7:10 また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。

 7:11 してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。

 

それでは、このような素晴らしい神の子供の特権を味わう事が出来る私たちクリスチャンは、どのようにしたらそれを私たちのものとして味わう事が出来るでしょうか。

それは、神の御霊に導かれる人になる事です。

 

全ての真のクリスチャンはみな、この特権にあずかれるわけですから、

クリスチャンは誰でも神の子供であると言ってもよかったはずです。

しかし、ここではそう言わないで、神の御霊に導かれている人は、

誰でも神の子供であると言っているのです。

真のクリスチャンは、いつも神の御霊に導かれているのです。

 

それは、昔イスラエルの民がエジプトから出て、約束の地カナンに入るまでの40年間、導かれて行きました。

何によって導かれたのかと言うと、昼は雲の柱、夜は火の柱でした。

これは、主の臨在を表すもので、主は、昼は、彼らを導くために雲の柱の中に、夜は、彼らを照らすために火の柱の中にいて、彼らの前を進まれたのです。

 

 

神の導かれる人

8:14 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。

私たちクイスチャンのうちには、神の御霊が住んでいてくださいます。

その神の御霊を悲しませることがないように私たちは心しなければなりません。

それだけではなく、私たちは次の事実に良く心を留める必要があります。

 

ヤコブ 4:5 それとも、「神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる。」という聖書のことばが、無意味だと思うのですか。

この事が分かると、私たちは神が喜ばれる生活をする事が出来ると思います。

これが、神の御霊に導かれる人であり、聖化の生活です。

 

それでは、神の御霊に導かれるクリスチャンの生活の特徴はどのようなものでしょうか。

神の御霊に導かれる人の生活は、まず、第一に、霊的であるという事です。

<肉の思いは神に敵対する>と言われているように、生まれながらの性質が、霊的な事柄に関心を持ち、霊的な雰囲気を持っています。

 

それは内におられる御霊が外に表す様相(ようそう)であります。

ノンクリスチャンと比べて、何か聖い雰囲気を持っています。

それは、御霊の御心に従った霊的思いを持っているからです。

 

第二に、神の御霊に導かれる人の生活の特徴は、神の栄光のために生きるという事です。

生まれながらの人間は、いつも自分のために生き、自分の欲望を成し遂げようとします。

 

ガラテヤ 5:16 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。

 

Ⅰコリント 10:31 こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。

 

第三に、神の御霊に導かれる人の生活の特徴は、神と救い主イエス・キリストをさらに深く知りたいと言う願いをいつも持っているという事です。

 

 

8:14-15 祈りによる聖化

 8:14 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。

 8:15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。

どんなクリスチャンでも、その人が本当のクリスチャンである限り、その人の内には御霊が宿っているので、うちにおられる御霊によって導かれた生き方をするはずです。

本当のクリスチャンとは、御霊によって生まれ変わった人のことであり、

その人の内には御霊が宿っていてくださいます。

 

ところで、神の御霊に導かれるということを間違って理解する人がいないわけではありません。

私たちクリスチャンは聖霊によってキリストと結び付けられた者たちです。

ですから、キリストと交わりを通して、キリストの聖さにあずかる事が出来、聖くされていくのです。

 

聖化における成長は、聖い神との絶えざる交わりによってなされます。

ですから、祈りは重要です。

勿論、神との交わりは祈りだけとは限りません。

けれども、その代表的なものは祈りです。

神の言葉である聖書を通しても、私たちは神との交わりを持つことが出来ます。

又、神の事を心の中に思い続ける事もそうです。

しかし、それらの中で最も代表的なものが祈りです。

 

しかも、その祈りは誰にでも出来るものではなく、

神の子供としての御霊を与えられた者たちだけに出来るものです。

クリスチャンはみな神の御霊を与えられています。

その御霊こそ<お父様>と呼ぶことの出来る、神の子供として神の御霊です。

クリスチャンは、実にその特権にあずかる事が出来る者たちです。

 

 

祈りの特権

8:15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。

人は誰でもクリスチャンになる前には、恐怖をも持っていました。

この世の権力や、世の中の人々の評判や、人の顔や、貧しさや病気や死に対する恐れを持っています。

 

それ以上に罪とその裁きに対する恐れを持っています。

けれども、罪やその裁きについては充分に分かっていない人もいるかもしれません。

しかし、たといそうであるとしても、罪や裁きの真相(しんそう)を知ったら、

いったい誰がそれを恐れずにいられるでしょうか。

 

それをここでは<恐怖に陥れるような、奴隷>と言っています。

<恐怖に陥れるような、奴隷>というのは、未信者の姿であって、

私たちは、そのような者になったのではなく、

クリスチャンはみな神の子供とされました。

使徒パウロは<主の御霊のあるところには自由があります。

と教えます。

 

私たちが神の救いの素晴らしさを味わう時、私たちの心は感謝と喜びで溢れ、私たちの生活は神の子としての特権に甘えてしまうのではなく、

ますます主の恵みに答える生活に進んで行きたいという願いに満たされると

思います。

それが、具体的には祈りの生活なのです。

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2017/12/09 主日メッセージ  

復活の約束

のぞみ教会主日礼拝 2017年10月15日 説教者:李鍾賢牧師

ローマ8:11-14

8:11 もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。

 8:12 ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。

 8:13 もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。

 8:14 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。

 

 

のぞみ教会主日礼拝 2017年10月15日 説教者:李鍾賢牧師

ローマ8:11-14

8:11 もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。

 8:12 ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。

 8:13 もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。

 8:14 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。

 

復活の約束

8:11 もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。

 

クリスチャンの勝利の秘訣は、うちに御霊が宿っているところにあります。

クリスチャンもノンクリスチャンと同じように困難や患難にぶつかりますが、それを乗り越え勝利を持つことが出来るのは、クリスチャンのうちに住んでいてくださる御霊の力によります。

 

ですからクリスチャンは今のこの世の生活においてばかりではなく、のちの世界においても勝利を得続けることが出来るのです。

さてクリスチャンはその霊が救われていますが、体はまだ罪が残っています。

ですから、体はまだ救われていないと言えます。

 

ここで使徒パウロが教えていることは、この世の終わりにおける私たちの体の復活、つまり栄化の事でなければなりません。

 

それで、ここで教えられていることは、何かと言いますと、第一に、イエス・キリストの体の復活という事です。

主は私たちの罪を身代わりに背負って、十字架上で死なれました。

しかし三日目にその体は死人の中から復活したのです。

 

第二に、ここで教えられている事は、私たちクリスチャンのうちには御霊が宿っていてくださり、私たちの体をコントロールしていて下さるという事です。

私たちの体は、もはや自分のものではなく、聖霊の住まわれる宮とされたのです。

 

第三に、私たちの体もやがて御霊によって救われるという事です。

私たちの霊はすでに救われています。

しかし、私たちの体も救われています。

それは、この世の終わりに、キリストがおいでになった時、栄光の体に変えて下さるときです。

 

私たちは主イエス・キリストを信じることが出来るように御霊が働いて下さいました。

御霊の神は私たちの死ぬべき体に宿っていて下さり、聖霊の宮としてくださいます。

しかも、この箇所で教えられているように、私たちクリスチャンのうちに宿っていて下さる御霊は、神の御子であるイエス・キリストのうちに宿っていられるのと同じ御霊なのです。

 

これは、使徒パウロがよくクリスチャンの事をキリストにある者と言いますが、

そのことから理解することが出来ると思います。

私たちはクリスチャンになる前は、みなアダムにある者でした。

アダムにある者がキリストにある者とされたのです。

 

アダムにある者にあった時には、アダムに起こった事はみな、私たちにも起こる運命にありました。しかし、キリストにある者とされ、キリストと結び付けられた事によってキリストに起こっている事がすべて、私たちのものとなったのです。

 

ですから、キリストが死人の中から甦られたように、私たちも確かに復活するのです。

霊だけが救われて、おしまいではありません。

しかし、私たちが、今持っている体は

これは永遠に存在することは出来ません。

やがて死によって、滅びてしまいます。

そこで、この世の終わり、キリストが再臨される時、この体が永遠に存在できる形で、つまり霊的な体として甦り、霊と結び付けて、永遠に生きるのです。

8:23 そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。

 

 ピリピ3:20 けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。

3:21 キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。

 

私たちの霊はキリストの贖いによって自由になりました。

しかし、体はまだ自由ではありません。

衰え(おとろえ)もしますし、病気にもなります。

しかし、やがて主が再び来られる時、この体も霊的な体、栄光の体に変えられ、全く自由になるのです。

 

その時が必ず来るのだという約束が与えられているので、私たちは今も勝利の先取りして歩んで行くことが出来ます。

御霊になる神がその保証として私たちに与えられており、私たちのうちに住んでいてくださいます。

 

12-13御霊に従って生きる

8:12 ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。

 8:13 もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。

 

私たちクリスチャンの救いは、イエス・キリストを自分の罪からの救い主であると信じ、信仰生活における成長があります。

私たちはキリストを信じることによって、御霊が私たちに命を与え、御霊が私たちのうちに住んでいてくださいます。

 

そうであるとすれば、肉に従って生きることなど出来ません。

と言うのは、肉に従って生きる生活は死んだからです。

私たちはその死から命に移された者たちです。

私たちに命を与えて下さったのは、御霊ですから、私たちは御霊に従って生きるべき責任を、御霊に対して負っているのです。

そういうわけで、私たちは私たちン新しいいのちを脅かすものを、御霊の力によって殺していかなければなりません。

体の行いと言われているものがそれです。

体の行いを殺すことによってのみ、御霊が私たちに与えて下さった命が生き生きとするのです。

 

私たちはクリスチャンになる前は、肉にあるものでした。

つまり、私たちはキリストを信じることによって、キリストと結び合わされ、キリストの御霊がうちに住んでくださるようになりました。

私たちは肉に対してではなく、御霊に対して責任を負っているのです。

 

そこで、私たちクリスチャンの聖化には、二つの面があると教えられます。

一つは、禁欲と呼ばれるものです。

ここでいう禁欲とは、この箇所で教えられている御霊によって体の行いを殺すという事です。

それは、毎日悔い改める事であり、習慣や生活や心の思いの中にある罪で、主から示されているものから離れる事です。

目や耳などを通して入って来る誘惑を、堅く退ける事です。

生まれながらの肉に対する唯一の態度は、このこの御霊の力によって殺すという事以外にはありません。

 

しかし、もう一つの面があります。

それは御霊の事を思う事です。

ピリピ 4:8 最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。

それを求める事です。

 

私たちのうちに住んでいて下さる御霊を悲しませることのないために、

私たちは御霊に従って歩む者となりたいものです。

 

主との交わりによる成長

8:12 ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。

 8:13 もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。

 

信仰生活において、誘惑の力は強く、しばしば私たちはその誘惑に負けてしまいます。

時には、こんなに弱いのは、自分がまだ救われていないかと言う思いが湧いている場合があります。

しかし、決してそうではなく、悪霊は未信者信者に強く働いて来る事を知らなければなりません。

神の側についた者を、悪霊は決して放っておかないからです。

ですから誘惑を強く感じるのは、私たちが神の側についているクリスチャンである証拠であると言えます。

この誘惑に打ち勝ち、私たちは聖化の過程を進み、成長して行くのです。

 

つまり、体を通して私たちの心に働きかけて来る悪霊の誘惑に対して、私たちは決して<エペソ4:27 悪魔に機会を与えないようにしなさい。>悪魔に機会を与えてはいけないのです。

悪魔に機会を与えるような愚かな事をするとき、私たちのうちにおられる聖霊を悲しませるようなことをすることになります。

 

この戦いについては、使徒パウロは次のように語ります。

Ⅰコリント9:27 私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。

このように厳しい戦いと同時に、誘惑されやすいものを避ける事も大事です。

 

ヤコブは次のように教えています。

ヤコブ1:13 だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。

 1:14 人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。

 1:15 欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。

 

聖化においては私たちの心がいつも主に向かっている時、主は私たちを成長させてくださいます。

成長して行くことは、私たちの義務であり、主の計画の中にある事です。

いつも主であり、救い主であるイエス・キリストの恵みを味わい、イエス・キリストをさらに深く知る必要があります。

結局私たちの聖化は、イエス・キリストを人格的に深く知ることにあります。

キリストとの深い人格的交わりの中に行き続ける事なのです。

 

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2017/10/16 主日メッセージ