恵みの雨

選びの恵み

のぞみ教会 主日礼拝[2020年1月12日] 説教者:李鍾賢牧師

選びの恵み

エペソ1:1 神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロから、キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ。

 1:2 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。

 1:3 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。

 1:4 すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。

 

 

のぞみ教会 主日礼拝[2020年1月12日] 説教者:李鍾賢牧師

選びの恵み

エペソ1:1 神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロから、キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ。

 1:2 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。

 1:3 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。

 1:4 すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。

 

 

うまく行っています。祈れば出来ます。

 

エペソに当てて書かれたこの手紙は、パウロの手紙の中でも、最も深い思想を示しています。

それは、キリストとその教会において明らかにされた神の深い御心を示しているからです。

ですから信仰の無い方には、この手紙の価値は少しも分からないでしょうが、信仰の深い人々にはこの手紙の素晴らしさはよく分かります。

 

パウロは、自分の事を[神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロ]と言っています。

彼はもともとサウロというユダヤの名前を持っていました。

それなのに異邦人伝道にたずさわるようになる第一回伝道旅行の際、キプロスの島で、

このユダヤの名をかなぐり捨てて、パウロというローマの名前を名乗るようになります。

 

ユダヤ人であった彼にとって、その名前は非常に深い意味を持っていました。

ベニヤミン族であった彼の先祖には、サウロと言う王がいましたし、

その意味は<求める>ということでした。

真理を追い求め、神を追い求め続ける者サウロは、その意味深い名をさえ、

異邦人伝道のために捨てたのです。

 

パウロが“キリスト・イエスにあって”という言葉は、

この手紙の中でも37回出て来ます。

 

アダムにあった人間が、キリストにあるようになる事が救いであり、

そういう意味で、パウロは「キリストにある」という言葉を使っているわけです。

この「キリスト・イエスにある」という事は、キリスト・イエスに結び合わされ、

キリスト・イエスの持っておられる豊かな祝福に与える事です。

 

それは、ちょうどぶどうの枝が幹につらなり、魚が水の中にあるのと同じです。

クリスチャンがキリストにあるのは、ちょうどそれと同じように自由があり、

恵みがあり、祝福があります。

 

そしてキリストを離れた時、幹から切り離された枝のように、

また自ら外に出た魚のように、霊的に死ぬ運命しかありません。

クリスチャンの祝福はキリストに結びついている時にのみ、キリストから受けられるものなのです。

 

ですからこのようなキリスト・イエスの祝福を得るためには、

キリスト・イエスに結び合わされることが大事です。

 

二節、パウロの手紙を見ると、祝福を捧げています。

手紙の結尾もありますが、冒頭にも記されています。

これは単なる普通の挨拶ではありません。

挨拶以上の深い意味を持っているし、相手の祝福を祈る深い思いやりを現わしています。

 

この祝福の祈りは、キリシャ式の挨拶とユダヤ式の挨拶を組み合わせたと言われます。確かにユダヤ式の挨拶は、「平安」ですが、キリシャ式の挨拶は「喜び」なのです。

パウロはこの「喜び」以上の言葉「恵み」に変えて使っています。

 

神の恵みとは具体的には、神がイエス・キリストをこの世に送って、

私たちの罪の贖いとして十字架の上に死なせる事によって、

私たちを救って下さるという救いの恵みを指しております。

 

私たちは、どう見ても神の憐れみを受ける資格はありません。

そのような者に、神は一方的な好意を示して下さいました。

 

親に捨てられてしせつに入れられていた子供が、

ある日、突然素晴らしい人の養子にされたようなものです。

どんなに大きな驚きであり、また喜びでしょうか。

聖書は、これを神の救いの「恵み」と言います。

 

聖書の教えている中心思想は、この恵みと言う救いです。

救いの恵みには、その結果として、もろもろの祝福が伴います。

その中心的なもの、最大のものは、平安です。

 

私たちは生まれながら怒りの子であって、私たちの間には、

憎しみや争いや不和があるのです。

そういう現実をまず良く認識しなければなりません。

そういうものを、私たちは自分の力で取り除く事が出来ない罪人だから、

私たちのうちにあるこのような敵意を、神様はキリストにあって、

十字架で滅ぼしてしまったのです。

 

そうする事によって、まず神様との平和を私たちに与えて下さいました。

今まで神様に敵対していた者が、神様と平和することが出来たのです。

これが神の救いの恵みによって与えられる平和の第一の祝福です。

 

しかし、神の祝福はそれだけで終わるのではありません。

さらに信じる私たちの心の中に平安を与えて下さるのです。

全てのクリスチャンにはこの平安があります。

 

それまでは、罪のために、いつも心は責められており、

良心の咎めによって、平和はありませんでした。

夜の夢の中でも誰かに追われているような気持で、うなされる事さえあったのに、

罪が赦され、心の平安が与えられるようになります。

これが平安の第二の祝福です。

 

教会とは、実にこのキリストによって与えられる平和、御霊の一致を持っている唯一の団体です。

このように、この平安、平和と言うものは、神の恵みの賜物として、

クリスチャンの心の中に、またクリスチャンの交わりである教会に与えられます。

つまり、個人のクリスチャンにおいても、

群れとしての教会においてもこの祝福を味わうのです。

 

恵みと平安も神様の賜物です。

<1:1 神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロから、キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ。

1:2 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。>と聖書に書いてあります。

 

キリスト教はキリストです。キリストによる救いの恵みと、それに伴うキリストの平安こそ、

キリスト教のいろはであると共に、また奥義でもあります。

 

この祝福の中に生きる者にとって、その他のものはあってもなくてもいいくらいです。

それなのにどうして多くのクリスチャンは、この祝福で満足しないのでしょうか。

 

この祝福をただ頭の中でだけ理解しようとしているのではなく、心から信じる時、

神様のこの祝福の中に、私たちはもはや十分という気持ちになる事が出来ます。

 

1:2 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。>と聖書に書いてあります。

恵みも平安も神様の賜物です。

 

1:3 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。

1:4 すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。

 

この手紙の著者が当時、獄中にいてこれを書いたということを考える時に、このような言葉があると言う事は驚きます。

彼の肉体には制約があり、彼の身は自由を奪われていました。

しかし、彼の心はいかなるものによっても、つなぎ止められない自由がありました。

彼の心は、神を仰ぎ見て、満たされていたのです。

神の御前にあって、その素晴らしさに圧倒されていたのです。

 

1:3 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。

 

この選びは、私たちのイエス・キリストの神であり父であるお方によるものです。

神様はそのもろもろの霊的祝福を与えようとして、私たちを選んで下さいました。

それは何と驚くべき恵みでしょうか。

 

そしてこの選びは誰のためであるかと申し上げますと、私たちなのです。

全ての人ではありません。

私たちと言うのは、キリストを信じる者たちのことです。

全ての人であれば、選びと言う事は意味がありません。

 

さらに選ぶ目的とは何でしょうか。

パウロはここで<1:4 すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。>と記しています。

 

初代教会においては、クリスチャンはこの世の人々と異なっていたので、この世からの

迫害や憎しみに絶えずさらされていました。

どころが、今日のクリスチャンの間には、なるべくこの世の人々と違わないようにという考えが一般的で、清さという事は気にしないようです。

 

≫ Read More

2020/02/01 主日メッセージ   nozomich

私に力を下さる方によって(ピリピ4:10-19)

のぞみ教会 主日説教(2019/ 12/ 1 ) 作成及び説教者:李鍾賢牧師

ピリピ4:10 私のことを心配してくれるあなたがたの心が、今ついによみがえって来たことを、私は主にあって非常に喜んでいます。あなたがたは心にかけてはいたのですが、機会がなかったのです。

 4:11 乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。

 4:12 私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。

 4:13 私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。

 

 

のぞみ教会 主日説教(2019/ 12/ 1 ) 作成及び説教者:李鍾賢牧師

ピリピ4:10 私のことを心配してくれるあなたがたの心が、今ついによみがえって来たことを、私は主にあって非常に喜んでいます。あなたがたは心にかけてはいたのですが、機会がなかったのです。

 4:11 乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。

 4:12 私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。

 4:13 私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。

 

 

私に力を下さる方によって(ピリピ4:10-19)

人はお金から解放されるのが簡単でないことを考えさせられる話です。

人は自分を取り()く環境が大変な時、不平不満の奴隷になりやすいです。

自分は被害者だと思う人もいます。

大変な環境の中に生まれた事も、貧しい事も、失敗も、病気で苦しんでいる事も、自分はただ被害者だと思って、自分の不幸を他人のせいだと思い、不平不満ばかりです。

ピリプという人はこう言いました。

「どう言う試練があっても、どう言う誘惑があってもそれを侵略者だと思ってはいけません。それを友達として受け入れるとその友達はあなたに沢山の事を教えるでしょう。」いい環境にいるからといって自由人(じゆうじん)になれるのではありません。

 

2.私に力を下さる方によって

パウロは信者たちに正しい信仰の道を教えてくれました。

特に彼は豊かな生活のための秘訣を教えてくれました。

パウロはビジョンをもっていました。

彼は私は私に力を下さる方によってどんな事でも出来るのです。と告白しています。〔ピリピ4:13〕

今日の内容は、パウロがローマの有名な別荘で書いたのではありません。

いつ死ぬか分からない、監禁された牢の中で、パウロが書いたのです。

パウロが監禁されたと聞いて、パウロを慰めようと行ったピリピの人たちは、逆にパウロに慰められました。

パウロはこう言いました。

「私の喜びはあなたがたが神様の信じる信仰によって生活をしている事にある。」と言いました。

また彼は「私の喜びは環境によって変わるのではない」と告白しています。

なぜならば「私は貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、()くことにも()えることにも、()むことにも(とぼ)しいことにも、あらゆる境遇(きょうぐう)対処(たいしょ)する秘訣を心得(こころえ)ています。それはわたしを強くして下さる方によってどんな事でも出来るからです。と彼は言いました。

「どんな事でも出来るのです。」という意味は、何でも願う事がかなえられるという意味より、どんな環境の中でも勝利するという意味です。

このパウロの勇気はどこから来たのでしょうか。

彼の喜びはただイエス・キリストでした。 

彼の生きがいはイエス・キリストで、彼の人生の目標もイエス・キリストでした。

パウロの生きる理由もイエス・キリストでした。

パウロはイエス・キリストのため幸せになり、イエス・キリストのため、喜びと感謝がありました。

ところがこの世の人々はこう言います。

信仰が現実の生活で何が役に立つのか。そして礼拝を捧げるとお金が出るのか。

聖書を読んだりお祈りをしたりすると、みんな金持ちにでもなるのか。と批判的な話をしている人もいます。

 

イエス・キリストを信じるということは神様に会うことであります。

ヨハネ14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

使徒4:12 この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」

使徒16:31 ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言った。

エペソ2:5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――

2:6 キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

コロサイ1:13 神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。

ヨハネ5:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。

ヨハネ16:24 あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。

へブル1:14 御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか。

 

神様はご自分の子供たちに必ず勝利を約束しました。

しかし、成功するまでは時には暗い所を通る時もあります。

でも途中で諦める人は神様の祝福と勝利を体験することが出来ません。

アメリカにはこういう言葉があります。

「試合の途中では点数を言うな。」という言葉です。

途中では判断してはいけないということです。

神の民にも失敗はあり得ます。しかし、結局は必ず戦いで勝利します。

私たちのために神様が働くからです。

パウロはどんな環境の中でも豊かな生活が出来ました。

人間的な目で見れば彼は幸せな人ではありません。

しかし彼は豊かな生活のための秘訣を知っていました。

自分を強くして下さる方への信仰でした。

信者たちの信仰には温度計のような信仰があるし、温度調節機のような信仰があります。

温度計は気温が上がると温度計も上がるし、気温が下がると温度計も下がります。

温度計のような信仰を持っている信者は環境によって信仰が上がったり下がったりします。

喜びも、感謝も上がったり下がったり、あったり、なかったりします。

温度調節機は寒くなると調節機で上げ、暑い時は下げます。

温度調節機のような信仰は環境に支配されるのではなく、むしろ環境を支配します。

ある信者は温度計のような信仰で、お金があれば大変喜びます。

また子供の成績が落ちると、この世の全てが楽しくありません。

温度計のような信仰は環境によって笑ったり泣いたりします。

しかし、温度調節機のような信仰は、環境に支配されるのではなく、神のみ言葉とお祈りをもって与えられた環境を克服します。すばらしい信仰です。

もう絶望に近い事でも、これからは神様の出番(でばん)だと信じて、立ち上がる人もいます。

 

3.どうしたら豊かな生活が出来るでしょうか。

まず恵まれなければなりません。

お金はないけれども信仰は豊かな人がいます。一方、暮らしは豊かですが、信仰は乞食(こじき)のような人もいます。

1808年、ビエンナで“天地創造”という演奏コンサトがありました。

そこには作曲家ハイドンもいました。

演奏が終わった時、感動された群衆は皆、起立して拍手を送りました。

その時、体が弱くなって立つ事もらくに出来なかったお年寄りのハイドンは、震える足に力を入れてやっと立ち上がって、こう叫びました。

「No! No! 私ではありません。この作品は私のものではありません。

神様から与えられたものです。神様に感謝しましょう。」

こう言って椅子に座る時、彼は倒れてしまいました。

この言葉がハイドンの最後の言葉となりました。

しかし、この一言は私たちも言うべき言葉です。

「私がやったのではありません。私のものではありません。

全てが神様の恵みです。ただ私は神様に感謝するだけです。」

神様を信じる人はこういう告白が常になければなりません。

私たちは神様の恵みの中で生きているからです。

カーネギという人はこう言いました。

「神様に捧げる時に負担になるくらい捧げた。そうしたら神様は私に管理するのに負担になるほどの祝福を与えてくださった。」と告白しました。

私たちは神様に感謝を忘れてはなりません。

 

≫ Read More

2019/12/02 主日メッセージ   nozomich

すでに受けたと信じる信仰(マルコ11:20―25)   

すでに受けたと信じる信仰(マルコ11:20―25)   

11:20 朝早く、通りがかりに見ると、いちじくの木が根まで枯れていた。

 11:21 ペテロは思い出して、イエスに言った。「先生。ご覧なさい。あなたののろわれたいちじくの木が枯れました。」

 11:22 イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。

 

 

のぞみ教会・主日礼拝<2019年11月17日> 説教者:李鍾賢牧師

すでに受けたと信じる信仰(マルコ11:20―25)   

11:20 朝早く、通りがかりに見ると、いちじくの木が根まで枯れていた。

 11:21 ペテロは思い出して、イエスに言った。「先生。ご覧なさい。あなたののろわれたいちじくの木が枯れました。」

 11:22 イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。

 11:23 まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。

 11:24 だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。

 11:25 また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。」

 

私たちは神様を信じると言いながらも神様についてよく知っていないような行動をする時が多いです。

まことの信仰とは何かについて聖書はこう書かれてあります。

へブル11:1には、 “信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです”と言っています。

 

1.信仰というのは、すでに受けたと信じることです。

23 “自分の言った通りになると信じるなら、その通りになります”

イエス様が言われました。

ある日、イエス様はいちじくの木が葉のほかには何もないのを見て、

その木に向かって「今後、いつまでも誰もお前の実を食べることのないように」と言われました。

翌日、朝早く、イエス様と弟子たちはそこを通りがかりに見ると、いちじくの木が根まで枯れていました。

 

それを見て弟子たちは驚きました。

その時、イエス様は22節 “「神を信じなさい」まことにあなたがたに告げます。誰でもこの山に向かって「動いて海に入れ」と言って心の中で疑わず、ただ自分の言った通りになると信じるなら、そのとおりになります。だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でもすでに受けたと信じなさい。そうすればそのとおりになります。“と、言われました。

 

真の信仰はまだ与えられていないのにも関わらず与えられたと信じることです。

病のために祈る時もすでに癒されたと信じるのがまことの信仰です。

たとえ、痛みがあるとしてももはや神様が癒してくださったと信じなければなりません。

 

ローマ4:19―20ではこう記しています。

“アブラハムはおよそ百歳になって自分の体が死んだも同然であることとサラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。

彼は不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に信仰がますます強くなって神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました“

 

たとえ病が癒されるため祈る時、50%くらい信じるとしたら、

求めたものを期待出来ないです。95%くらい信じても同じです。

100%信じた時、求めたものを受けることができます。

 

自分自身を信じることは、信仰ではなく、信念といいます。

私たちの信仰は創造主である神様を信じる信仰です。ですから100%信じて、

神様にゆだねるべきです。

 

ヤコブ1:5を見ますと、 “あなたがたの中に、知恵の欠けた人がいるなら、

その人はだれでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。

そうすればきっと与えられます“と記しています。

 

2.信仰と言うのは、見えなくても信じることです。

人は目に見えないとなかなか信じようとしません。

しかし今のこの場所の空気が目に見えません。

また私の声が目には見えないのです。だからと言って空気がないとか、

声というものがないとは言えないでしょう。

 

空気と声は、見ることができないし、触ることもできませんが、

確かに存在するものです。

霊としておられる神様も現在、ここに皆さんと共におられますが、

私たちの目には見えません。

 

コリントⅡ4:18ではこう記しています。

“私たちは見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。

見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです”

 

へブル11:1  信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。

 

へブル11:27

“信仰によって彼は、王の怒りを恐れないでエジプトを立ち去りました。目に見えない方を見るようにして忍び(しのび)通したからです”

詩篇23:4でダビデはこう言います。

“たとい、死の(かげ)(たに)を歩くことがあっても、私は災い(わざわい)を恐れません”

ダビデは、自分の目には見えなくても、いつも神様が自分と御一緒におられる事を信じました。彼の信仰が私たちの信仰となりますようお祈り申し上げます。

 

3.信仰というのは、出来ないように見えても出来ると信じることです。

詩篇121:1―2には

“私は山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのだろうか。

私の助けは天地を造られた主から来る”という告白の詩があります。

出来ないと思われる時、落ち込まずに主に向かって目を上げなければなりません。

 

イエス様も言われました。

“出来るものならというのか。信じる者にはどんな事でもできるのです”

(マルコ9:23)

Ⅱ歴代誌20を見ますと、こういう記録があります。

モアブ人とアモン人、および彼らに合流したアモン人の一部がヨシャパテと戦おうとして攻めてきました。

 

その時、ユダのすべての町々から人々が出てきて、“どうすればよいか分かりません。ただ、あなたに私たちの目をそそぐのみです”と、主を求めました。

主は伏兵(ふくへい)をもうけて、ユダに攻めてきたアモン人、モアブ人、セイル山々の人々を(おそ)わせたので、彼らは()()かされたのです。

ユダが荒野に面した物見(ものみ)(とう)に昇ってその大軍の方を見渡すと、なんと死体が野にころがっていて、のがれた者は一人もないのが分かりました。

皆さん!これが神の働きです。

“どうすればよいか分かりません。ただ主に目を注ぐのみです”と言って主を求めましたが、できないことが信仰でできたのです。

どうやっても出来ないように見えても、出来ると信じるのがまことの信仰です。

 

詩篇100:3にあるように、私たちは主によって造られたものであり、私たちは主の民、また牧場(まきば)の羊であります。

このような関係にありますので、主に向かって目を上げましょう。

 

4.信仰というのは苦難を祝福として見ることです。

自分に試練が(おとず)れましたか。

ヨブを見ましょう。ヨセフを見ましょう。モーセを見ましょう。

神の祝福は苦難という(ぬの)に包まれてくるのです。

見える苦難だけを見て落ち込まないで下さい。

苦難の中にある祝福を見てください。

神様はすてきな私たちの父でいらっしゃいます。

 

私たちが絶えることのできない試練を与える神ではありません。

モーセは神に用いられるのに荒野での40年間もの訓練がありました。

ヨセフもエジプトの総理になるまで13年間の様々な試練がありました。

モーセとヨセフの祝福も試練という(ぬの)に包まれて与えられたのです。

 

皆さん。受ける前にすでに受けたと信じてください。

見えなくても見たと信じてください。

できないように見えても出来ると信じてください。

苦難の中に祝福が(かく)れているということを覚えてください。

信じると信じた通りになります。

 

≫ Read More

2019/11/29 主日メッセージ   nozomich

やベツの祈り

のぞみ教会 ・ 2019年11月3日  作成者及び説教者:李鍾賢牧師

Ⅰ歴代誌 4910(やベツの祈り) 

4:9 ヤベツは彼の兄弟たちよりも重んじられた。彼の母は、「私が悲しみのうちにこの子を産んだから。」と言って、彼にヤベツという名をつけた。

4:10 ヤベツはイスラエルの神に呼ばわって言った。「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてくださいますように。」そこで神は彼の願ったことをかなえられた。

 

 

のぞみ教会 ・ 2019年11月3日  作成者及び説教者:李鍾賢牧師

Ⅰ歴代誌 4910(やベツの祈り) 

4:9 ヤベツは彼の兄弟たちよりも重んじられた。彼の母は、「私が悲しみのうちにこの子を産んだから。」と言って、彼にヤベツという名をつけた。

4:10 ヤベツはイスラエルの神に呼ばわって言った。「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてくださいますように。」そこで神は彼の願ったことをかなえられた。

 

ヤベツについては聖書にはただ1回しか記されていません。

ヤベツという名前は9節にも書いてあるように、悲しみのうちに生まれたという事で名づけられた名前です。

 

おそらくヤベツは小さい時からいつもその暗いイメージの名前で呼ばれたので考えれば名前の意味を知っていたからは辛かったと思います。

名前が人の一生を左右するという話もあるほどですが、

こういう意味ではヤベツは不幸な人だったかもしれません。

 

人は自分のことを運命だと思い、諦める人が思ったより多いです。

聖書にはこういう内容が書いてあります。(使徒3:1-10)

3:1 ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。

2 すると、生まれつき足のきかない男が運ばれて来た。この男は、宮にはいる人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」という名の宮の門に置いてもらっていた。

3 彼は、ペテロとヨハネが宮にはいろうとするのを見て、施しを求めた。

4 ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい。」と言った。

5 男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。

6 すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言って、

7 彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、

8 おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮にはいって行った。

9 人々はみな、彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。

10 そして、これが、施しを求めるために宮の「美しの門」にすわっていた男だとわかると、この人の身に起こったことに驚き、あきれた。

ペテロとヨハネが祈りの時間に経験したことです。

生まれつき足のきかない男と出会うことになりました。

4:22 この奇蹟によっていやされた男は四十歳余りであった。と書いてありますが、

だぶん彼は生まれつき足のきかない人だから歩くのはすでに諦めてありのまま生きるのが自分の運命だと思い、生きた人ではないかと思います。

ところがある日、彼はペテロとヨハネが宮にはいろうとするのを見て、施しを求めたのです。

4 ペテロはとヨハネは、その男を見つめて、「私たちを見なさい。」と言いました。

6 ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言って、彼の右手を取って立たせました。

するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮にはいって行ったのです。

9 人々はみな、彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。と書いてあります。

彼の運命が変わりました。イエス・キリストを信じると全てが変わります。

Ⅰペテロ 5:7 あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。

神があなたがたのことを心配してくださるからです。

Ⅱコリント5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

 

本文に戻ります。

ヤベツは小さい時からいつもその暗いイメージの名前で呼ばれましたが

神様を知り、神様にお祈りをささげました。その内容が10節です。

4:10 ヤベツはイスラエルの神に呼ばわって言った。「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてくださいますように。」そこで神は彼の願ったことをかなえられた。

 

1.私を大いに祝福し、と祈っています。

ヤベツの祈りはただ10節の内容が全部ですけれども、彼はこの祈りによって彼の人生が変ったのです。

彼は単に“祝福してください”と言うのではなく、“大いに祝福して下さい”と祈っています。

ヤベツは天の大いなる祝福を自分に注いで下さいと祈りました。

 

これに対してある人はこう思う人もいます。

自分は罪を犯し、悪いことばかりやってきたので、神様に申し訳ないから自分に祝福してくださいというお祈りはできません。という人もいます。

 

しかしローマ5:8でこう言っています。

“私たちが罪人であった時、キリストが私たちのために死んで下さった事により、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。“

つまり私たちが義人ではなく罪人であった時に、神様はすでに私たちを愛しておられました。そして私たちを祝福して下さることをも願っておられたのです。

 

自分の今までの罪のため神様にお祈りができないという考え方は、結局私たちを神様からなるべく離してしまおうとするサタンの仕業(しわざ)です。

一方こういう人もいます。

主のためにこれから一所懸命に奉仕をしますから、また献金もしますから祝福してくださいという人です。

決心することは良い事ですが私たちはこんな条件的お祈り、計算的なお祈りは喜ばれないです。。

 

2.私の地境を広げてくださいと祈っています。

自分の手の届く範囲を広げてください。

活動できる範囲を広げてください。

自分の影響を及ぼす範囲を広げて下さい。

自分の分野で優れるようにして下さい。という意味です。

 

勿論これは神様の栄光のためであって、自分を用いてくださいというお祈りであります。

神様はこのようなお祈りを願っておられます。

そして神様は彼の願ったことをその通り叶えて下さいました。

 

このような話があります。

ある人が天国に行き、誰かに案内してもらいました。ある倉庫に着いたのですが、そこには彼が今まで欲しがっていたものが全部積んでありました。

されに驚いたごとに、そこには全部彼の名前が書いてありました。

それで彼は怒ってその案内してくれた人に聞いてみました。

なぜこれを私にくれなかったですか。その案内の人はこう言いました。

あなたが頼まなかったからです。と答えました。

悲しみのうちに生まれたヤベツが大きな祝福をいただいたのは彼が決して偉いからではなく祈ったからです。

 

Ⅰコリント 1:26―29を読んででいただきます。

“兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えて御覧なさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。

しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、

強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。

また、この世の取るに足りない者や、見下されている者を、神は選ばれました。

すなわち、ある者をない者のようにするため、無に等しい者を選ばれたのです。“

 

3.御手が私と共にあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことの無いようにと祈りました。

サタンは私たちを常に攻撃しようとしています。

霊的に成長していく時、強くなった時などサタンはいつでも私たちを攻撃する態勢で準備万端(ばんたん)です。

これに対して私たちは絶えず祈りで準備しなければなりません。

 

サタンは霊的に成長していく人、または成長した人を攻撃するので伝導もしないし、お祈りもしないし、または信者でありながらも不信者とあまり変らない人にサタンは相手にしません。

サタンはだます霊であって、その意味で私たちの頭の水準を越えています。

無防備(むぼうび)状態にならないよう、お祈りをもっていつも覚ましていなければなりません。

災いに合わないための唯一の方法はヤベツのように祈ることしかありません。

 

今までどうやってきたかはあまり大事ではありません。

大事なのはこれからです。現在と未来です。

神様は過去にこだわる神様では有りません。

祈る人には神様の大きな祝福が待っています。

ヤベツはただお祈りを捧げた事で人生が変わった人です。

皆さん! ヤベツのことを他人のことのように思わないで、ヤベツのお祈りを皆さんのご自分のお祈りにしてください。

神様は次のような約束を私たちに下さいました。

マタイ11:12を読んで見ますとこう書いてあります。

“バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。”

詩篇81:10です。“私が、あなたの神、主である。

私はあなたをエジプトの地から連れのぼった。

あなたの口を大きくあけよ。私がそれを満たそう。“

 

私を大いに祝福してください。私の地境を広げてください。

御手が私と共にあり、災いから遠ざけて私が苦しむことの無いようにして下さい。最後に神様の栄光のために私を用いてください。

と、今週も祈りましょう。

≫ Read More

2019/11/04 主日メッセージ   nozomich

顧みておられる神様(出エジプト記4:10~17)

のぞみ教会・主日礼拝・2019年10月20日 説教:李鍾賢牧師  

顧みておられる神様(出エジプト記4:10~17)

4:10 モーセは主に申し上げた。「ああ主よ。私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。」

 4:11 主は彼に仰せられた。「だれが人に口をつけたのか。だれがおしにしたり、耳しいにしたり、あるいは、目をあけたり、盲目にしたりするのか。それはこのわたし、主ではないか。

 4:12 さあ行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたの言うべきことを教えよう。」

 

 

のぞみ教会・主日礼拝・2019年10月20日 説教:李鍾賢牧師  

顧みておられる神様(出エジプト記4:10~17)

4:10 モーセは主に申し上げた。「ああ主よ。私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。」

 4:11 主は彼に仰せられた。「だれが人に口をつけたのか。だれがおしにしたり、耳しいにしたり、あるいは、目をあけたり、盲目にしたりするのか。それはこのわたし、主ではないか。

 4:12 さあ行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたの言うべきことを教えよう。」

 4:13 すると申し上げた。「ああ主よ。どうかほかの人を遣わしてください。」

 4:14 すると、主の怒りがモーセに向かって燃え上がり、こう仰せられた。「あなたの兄、レビ人アロンがいるではないか。わたしは彼がよく話すことを知っている。今、彼はあなたに会いに出て来ている。あなたに会えば、心から喜ぼう。

 4:15 あなたが彼に語り、その口にことばを置くなら、わたしはあなたの口とともにあり、彼の口とともにあって、あなたがたのなすべきことを教えよう。

 4:16 彼があなたに代わって民に語るなら、彼はあなたの口の代わりとなり、あなたは彼に対して神の代わりとなる。

 4:17 あなたはこの杖を手に取り、これでしるしを行なわなければならない。」

 

 神様はモーセに三つのしるしを見せて下さいました。

しかし、このような奇跡をいただいたモーセは、

それでもエジプトには行けませんと答えています。

その理由は自分の個人的な問題があったからです。

 

まず、モーセは自分の言葉の問題を理由としてあげています。

この時、神様は十分納得がいくようにモーセを説得しましたが、

しかしモーセはそれでも行けないと言っています。

 

 モーセにはそれまでヘブライ人と触れる機会がほとんどありませんでした。

小さい時に母のふところにいた時と、40歳の時、自分の民族を助けるため労役の現場へ出たことがすべてです。

 

そうなると、彼のヘブライ語がそんなにうまくないだろうと思われるし、

また、口が重くて舌の重い者であると言っているのが私にとっては、

十分理解できます。

 

彼は子供の時から親の下を離れ、エジプトで教育を受け、

またミデヤンの荒野で40年以上をいたのでヘブライ語に自信がないのを恐れていました。

特に彼の使命は神の約束を知らずに暮らしているイスラエル人を説得し、神様の所へと連れ出すことでした。

それで彼は、口が重いし舌も重いのにどうやってその多くのイスラエル人を説得し連れ出すことができますかと何度も逃れようとしていたのです。

 

イスラエル人はエジプトで生まれ、そこで育った人々です。

イスラエル人たちにとって問題であったのはエジプトの迫害であって、

エジプトを離れることではありませんでした。

 

しかし、モーセに与えられた使命はそのイスラエル人をエジプトから連れ出し、神様を正しく知り、神様に仕える所へと導かなければなりませんでした。

 

モーセがエジプトへと行けないと言っている理由のもう一つは、

自分の過去を問題にしていることです。

12節を見ると神様はモーセに「さあ、行け。私があなたの口と共にあって、あなたの言うべきことを教えよう」とモーセの言葉の問題に対しては答えを下さいました。

 

しかし、それにもかかわらず、彼は「ああ、主よ。どうか外の人を遣わして下さい」といっています。これは自分の過去、つまり人を殺した、忘れられない過去がモーセの中にはあったからです。しかし、いくらどえらいことをしでかしたとしても神様に赦しを求めたなら、神様はそれ以上問いません。イエス様も「わたしか来たのは義人を呼ぶためではなく、罪人を呼ぶためです。」と言われました。

 

 二つの理由をあげ、エジプトへ行けませんと答えているモーセに

神様はどんな答えをくださったのかをもっと具体的に見てみましょう。

神様は口が重くて舌も重いので行けませんと言っているモーセの口を治したのではありません。

 

そう言っているモーセに力の神を見上げるようにしたのです。

勿論、神様は何でも出来る方なので、

モーセの口を治してよく話せるようにすることもできます。

 

しかし、神様はモーセの口を治したのではなく、人に口をつけた方がだれなのか、この全てを作った方がだれなのか、全てにおいての主人はだれなのかを教えて下さいました。

 

つまり、何事においても問題を解決するためには力の神様を見上げなければならない事を教えて下さいました。

 

 二番目に自分の過去に捕らわれているモーセに神様はどう答えて下さったのでしょうか。

モーセは自分が人を殺したことを考えると、きっと辛かったに違いありません。

それでモーセはもし自分がイスラエル人の所へ行って、もしだれかが自分を見て“殺人者”だと()り立てたら、自分はどうしたらいいかと心配していたでしょう。

 

それで神様は彼の心配をもうご存知だったので19節にあるように「あなたの命を求めていたものはみんな死んだ」といちいち教えて下さいました。

罪から自由にして下さる神様がモーセを赦したのは、ただ40年間という長い時間が経ったので、つまり時効期間(じこう期間)が過ぎたからではありません。それは神様の約束を信じる信仰があったからです。

 

ですから神様が私たちを赦したなら私たちも自分自身を赦すべきです。

すでに過ぎ去ってしまった過去に捕らわれ、前へと進むことができないなら、その人は愚かな人です。  

 

神様は赦しの神様であり、そして癒しの神様です。

40年前のモーセの罪の意識をいやした神様は私たちの傷ついた心も癒して下さいます。

 

 今日の本文を見ますと、神様はご自分の民を苦しみの中にそのまま見捨ててしまう方ではないことが分かります。

時期が来ると苦しみの中にいるご自分の民を救うため、自らその民のところへと訪ねてきます。

 

神様はモーセを通してエジプトで苦しめられているイスラエル人に救いのメッセージを伝えました。

それでモーセを通して救いのメッセージを伝えてもらったイスラエル人は自分たちを見捨てない神様について改めて分かりました。

 

それでは彼らが改めて知った神様はどんな姿の神様だったでしょうか。

31節に書いてある通りご覧になる神様でした。

イスラエル人は自分たちが苦しめられていることを、迫害されていることを神様がご覧になったと、そして神様に向けての叫びが無駄ではなかったことが分かりました。

 

皆さん! 私たちにも時々胸のつぶれる苦しみもあり、絶望する時もあります。

その度ごとに私たちはよく、本当に神様っているのか、はたして私を顧みているのかと疑ったりします。

 

それは私たちだけではなく、子供がなくて苦しんでいたサライの経験でも、

そして、ザカリヤの経験でもありました。

しかし、私たちが覚えなければならないことは、神様は時期を待っていることであって、決して苦しんでいる者の叫びに無関心な方ではないということです。

 

もしかして神様が私を忘れたのではないか、もしかして神様が私を見捨てたのではないかと思った時がありますか。

 

干からびた骨のような問題、到底希望のなさそうに見える問題も神様が働きますと生き返ります。

問題があるとしたら、それは私たちの信仰です。環境ではありません。

どんな環境であっても、神様に会って、神様の御言葉を信じると聖霊によって生き返り、回復される祝福を味わえます。

 

何か問題をかかえていますか。

祈ってください。必ず解決されます。

神様には出来ないものは一つもありません。

神様だけを信じ、頼って祈りましょう。

必ず解決されます。

 

しかし、これからはそういった疑いは振り捨てて下さい。

絶対的な信仰を持つようにして下さい。

神様は皆さんをいつも顧みています。

神様は皆さんをいつもご覧になっています。たとえ、私たちが神様を忘れてしまうことがあるにしても、しかし、神様は私たちをいつも覚え、顧みておられます。

≫ Read More

2019/10/21 主日メッセージ   nozomich