恵みの雨

なぜ十字架なのか

2021年3月21日 ・ のぞみ教会・主日礼拝 

申告告白

聖歌 417 / 418

祈り 木村喜憲牧師

聖歌 280 / 261

聖書 ルカ 23:13-25

説教 <なぜ十字架なのか>  木村喜憲牧師

聖歌 555 / 579

献金 <献金の祈り>  木村喜憲牧師

聖歌 383 / 376

祝福の祈り  木村喜憲牧師

 

お知らせ。

◆のぞみ教会のOpen Cell Leaderを建て上げることが出来るように祈りましょう。

3月の教会歴及び予定  ◆http://www.nozomich.net◆  

[2/17-4/3 : 四旬節] ― [3/29-4/3 : 受難週間] ― [4/4 : イースター]

[3/11  : 機関長祈祷会(11時に行いました。)]

[3/28 : 牧会協力委員会祈り会(礼拝後)]

◆3月14日から教会での集会礼拝を再開します。 

◆三戸貴史兄(賛美リーダー)のお母さんが、2021年3月17日午後、天に召されました。

 主の慰めのお祈りお願いします。

 

◆新型コロナウイルス感染拡大防止にかかる緊急事態宣言の延長に伴いまして、

非対面礼拝を2週間延長し、3月28日から教会での集会礼拝を再開します。 

◆健康回復のためにお祈りをお願いします。

礼拝のための代表祈り 【3/28:山本健太兄】

4/4:安永真一兄、 4/11:三戸貴史兄

献金のための代表祈り 【3/28:高橋文治兄】

4/4:木村喜憲師、 4/11:山本満代姉

 

 

なぜ十字架なのか

 

本文 : ルカ 23 : 13 - 25

13 ピラトは祭司長たちと指導者たちと民衆とを呼び集め、

14 こう言った。「あなたがたは、この人を、民衆を惑わす者として、私のところに連れてたけれども私があなたがたの前で取り調べたところ、あなたがたが訴えているような罪は別に何も見つかりません。

15 ヘロデとても同じです。彼は私たちにこの人を送り返しました。見なさい。この人は、死罪(しざい)たることは、何一つしていません。

16 だから私は、()らしめたうえで、釈放(しゃくほう)します。」

17 (ない)

18 しかし彼らは、をそろえて叫んだ。「この人を(のぞ)け。バラバを放しろ。」

19 バラバとは、(みやこ)に起こった暴動(ぼうどう)人殺(ひとごろ)しのかどで、牢に入っていた者である。

20 ピラトは、イエスを放しようと思って、彼らに、もう一度呼びかけた。

21 しかし、彼らは叫びけて、「十字架だ。十字架につけろ」と言った。

22 しかしピラトは三度目に彼らにこう言った。「あの人がどんないことをしたという のか。あの人には、死にたる罪は、何も見つかりません。だから私は、懲らしめた うえで、放します。」

23 ところが、彼らはあくまで主張しけ、十字架につけるよう大で要求した。そして ついにそのが勝った。

24 ピラトは、彼らの要求どおりにすることを宣告(せんこく)した。

25 すなわち、暴動と人殺しのかどで牢に入っていた男を願いどおりに放し、イエスを 彼らに引き渡して好きなようにさせた。

 

 

神様は、罪によって死ぬしかない私たちのために一人だけの息子イエス様をキリストとしてこの地に遣わされました。そしてキリストとしてこの地に来られたイエス様が、私たちを 救われた方法は、十字架でした。聖書は、十字架につけられたイエス・キリスト以外には、罪人の私たちが救われる方法がないと証言しています。

今日は、神様が一人子をキリストとして遣わされた理由、そしてイエス様が、十字架の上で死ななければならなかった理由について、皆さんと一緒に考えてみたいと思います。

人間にとって最も大きな絶望はすべての人が罪人として生まれるということです。生まれたばかりの赤ちゃんは、何の罪も犯さなかったのに、なぜすべての人が罪人として生まれるというのでしょうか。十字架と救いを理解するためには、私たちは、まず罪とは何なのかを 理解する必要があります。

初めに神様が創造された人間は、罪人ではありませんでした。創世記 1章 27節は、初めに神様が創造された人間が、どういう存在だったのかを説明します。

27 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

人間は、もともと神様のかたちとして創造された、聖なる存在でした。ところで人類の先祖であるアダムが、サタンの誘惑に陥って、神様が禁じられた、善悪の知識の木の実を取って食べてしまいました。そしてその時から人間は罪人になったのです。

果物一個食べたことが、そんなにまで大きな罪なのかと思われるかもしれません。しかし 聖書を読んでみれば、アダムがそれを食べた理由は、神様のようになりたがる欲望のため だったということが分かります。すなわちアダムが神様の命令を破って、それを食べたのは、神様に対する裏切りであり、また反逆(はんぎゃく)だったということです。

ローマ 5章 12節には、こう書いてあります。

12 そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類(ぜんじんるい)に広がったのと同様に、―それというのも全人類が罪を犯したからです。

人類の先祖アダムが、罪を犯して罪人になった後、アダムを通して生まれた子孫、すなわち全人類は、みんな罪人として生まれるようになって、その罪の代価として死が世界に入ったと聖書は証言しています。一言でアダムの罪が、すべての人類に遺伝(いでん)されたということです。

アダムから罪が遺伝されて、彼のすべての子孫が罪人として生まれるようになったという ことが何を意味するでしょうか。それは、罪というのは、行いの概念でなく、命と存在の 概念だということです。すなわち人間は、罪を犯したから罪人になるのではなく、生まれ ながら罪人という存在として生まれるということです。

最近、生まれて一度も女という存在を見ることができなかった男の物語を聞きました。ある人が生まれてすぐに修道院(しゅうどういん)に捨てられました。彼は修道院中で修道士たちとともに住んで、自分も修道士になって一生涯修道院の中でだけ生きたそうです。それで彼は、82歳で死ぬ時まで、女という存在を一度も見ることができなかった男として記録されたそうです。

ところで生まれながら厳しい修道院で修道士として生きた彼も罪を犯したでしょうか。心の中では、悪い考えをしたかもしれませんが、たぶん行動では、罪を犯さなかったはずです。それなら一度も悪い行いをしたことがない彼は、罪人ではないと言えるでしょうか。

そうではありません。与えられた環境のゆえに罪を犯すことはなかったですが、もし彼も 私たちと同じ環境で生きたなら、私たちと同じく罪を犯したはずです。聖書はすべての人が罪人だとはっきりと証言しています。聖書が言われる罪人とは、罪を犯した人をいうのではなく、罪人の命を持っている存在を意味することです。

初めに神様は、人間を聖なる存在として創造されて、聖なる命を与えられました。しかし 人間が罪を犯した瞬間、人間の命の中に罪が入りました。そのように人間の命は罪によって汚れて、汚染(おせん)されました。そして心も悪魔のように邪悪になってしまいました。その時からこの世には、犯罪と戦いと苦しみと悲しみが続くようになりました。

罪人になった人間は、人間を不幸にするものが罪であることを悟って、罪の問題を解決するために続けて努力しました。良い行いを通して、教育を通して、そして哲学(てつがく)とか修行(しゅぎょう)を 通して、罪から逃れて義人になるためにいろんな努力を続けました。しかし人間のどんな 努力も罪の問題を解決することができませんでした。なぜならどんな方法でも存在を変えることはできないからです。すなわち犬を教育させて、猫に変えることが不可能であるように教育や訓練を通して罪人を義人に変えることは不可能だということです。

ある先生の青年時代の話を聞いたことがあります。その頃先生は田舎から都会に引っ越して、友人と二人で生活していたそうです。まだ仕事もなく、お金もなかったので、電気をつけることもできず、ご飯も存分に食べることができませんでした。おかずは、田舎から持って 来た醤油が全部でした。

先生は、電気が入らない真っ暗な台所に醤油の(つぼ)を置いといて、一か月間、醤油をおかずにしてご飯を食べたそうです。

ところで大掃除をしたある日、台所を掃除していた友たちが、いきなり悲鳴をあげながら、飛び出しました。それでその先生が台所に入ってみると醤油の壺の中にネズミ一匹が落ちて、死んでいましたが、もうかなり時間が過ぎて、毛も全部抜けて色も白くなっていたそうです。二人はそんなことも知らずに、一か月間、その醤油でご飯を食べたのです。

それなら、彼らは、その醤油をどうしたでしょうか。ネズミだけ取り出して、再び醤油を 食べたでしょうか。そんなわけがないでしょう。その醤油は、全部捨てなければなりませんでした。なぜならネズミを取り出すとしても、醤油が再びきよくなるのではないからです。ネズミが入った瞬間から、その醤油は、汚染(おせん)されて食べることもできず、清くすることも できなくなったのです。

罪人とは、こういう存在をいうのです。罪に汚染されて、再び清くすることも、直すこともできない命と心を持っている存在がまさに罪人だということです。

人間が罪人になった代価は、残酷(ざんこく)でした。神様との約束を破って、神様を裏切った瞬間から人間は、神様から受けたすべての良いものを失ってしまって、その代わりに、ものすごい 運命を迎えるようになりました。罪人になった代価は、大きく三つでした。

[一番目に、罪人になった代価は、死でした。]

創世記 2章 17節で、神様が言われました。

17 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、 あなたは必ず死ぬ。

神様は罪の代価が罪だと警告されましたが、その死は、アダムが神様との約束を破った瞬間ほんとうに起こってしまいました。ところで聖書には、アダムが930で死んだと書いてあります。神様は、善悪の知識の木の実を食べると必ず死ぬと言われたのに、どうしてアダムは、すぐに死なず、930年も生きて死んだのでしょうか。

神様が言われた死というのは、霊的な死を意味することでした。言い換えれば、罪を犯した代価は、神様に対して死ぬことであって、その結果、罪人になった人間は、神様との関係が、断絶されてしまいました。それで人間は、自分の知恵では神様を知ることもできず、神様と交わることもできなくなってしまったのです。

罪人になった人間は神様がご自分のことを表して、教えてくださらなければ、神様の存在を悟ることも、神様の助けを求めることもできない存在になってしまったということです。 これがまさに神様が警告された死の意味でした。そして神様から断絶された結果、人間は、肉体の死も迎えるようになったのです。

人間は、神様から命と力と知恵と幸せを供給されて生きるように創造された存在であります。しかし神様との関係が断絶された人間は、命と能力を供給されることができず自分が持っている資源だけを持って生きるようになりました。それで自分が持っている資源の限界を解決するために人間は、絶えず競争して、戦いながら生きるようになり、また幸せになることが人生の目標でありながらも、ほんとうに幸せになることができなくなったのです。

[二番目に、罪人になった代価は、呪いでした。]

神様は、人間を世界の王のような存在として創造されましたが、サタンに従った瞬間から 人間は、サタンの奴隷に転落(てんらく)してしまいました。またこの世界は、神様が人間に与えられた祝福と幸せを味わう場所として作られましたが、人間が罪人になった時から世界は呪われて災害と試練と悲しみの場所になってしまいました。

神様が人間に対して建てられた原則は、単純です。神様の律法を守って従えば、祝福を受け、律法を破ったら、呪われます。ところで罪人になった人間の問題は神様のみこころの通りに生きられる能力が全くないということです。神学者たちは、このような罪人の状態に対して全的堕落(ぜんてきだらく)道徳的無能力(どうとくてきむのうりょく)という言葉で説明します。全的堕落というのは心が完全に堕落して良いところが全くない状態を言います。そして道徳的無能力というのは、神様のみこころがなにか、そして正しいことが何かを知りながらも、それを選択することができない状態を 言います。

ローマ 1章 18節と 19節で、使徒パウロは、こう言いました。

18 というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。

19 それゆえ、神について知られることは、彼らに明らかです。それは神が明らかにされたのです。

 

 

すなわち罪人は、神様がどういう方なのか知りながらも神様を信じなく、神様のみこころが何か知りながらも神様のみこころに従わないということです。そして神様に対する敵対感のゆえに神様に従うことを断ることがまさに罪人の状態だということです。そしてその結果、罪人は、自分の選択に対する代価として、約束された呪いを受けながら、不幸せな人生を 生きるしかないということです。

[三番目に、罪人になった代価は、裁きでした。]

へブル 9章 27節は、こう言います。

27 そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、

罪人になった結果として、人間は、いつか必ず肉体の死を迎えるようになります。ところでその死の以後に、罪人は自分の罪に対する代価を払はなければなりませんが、その代価は、永遠の死または、滅亡とも呼ばれる地獄の刑罰であります。罪人は自分の罪に対する代価を地獄で永遠に払わなければならないということです。

このように人間が罪人になった代価は、死と呪いと裁きだということです。ところで問題は、人間には、自分の絶望的な運命を避けることも、変えることもできないということです。

しかし私たちを愛される神様は、私たちが罪によって滅びることを願いませんでした。

ヨハネ 3章 16節です。

16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を  信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

愛が満ち溢れる神様は、罪人の私たちをあまりにも愛されて、一人だけの息子を私たちの ためにキリストとして遣わされることにしました。そしてキリストであられるイエス様は、私たちを罪から救われるために、そして死と呪いと裁きから救われるために十字架の上で 死んでくださいました。

神様は、創造主であり、全能なるお方であるのに、代価を払わずに人間を赦されることは できなかったでしょうか。なぜ罪人を赦すために、神様の息子イエス様が死ななければならなかったでのしょうか。

私たちが覚えるべきことは、神様は、愛の神様でありますが、また正義の神様だということです。神様は私たちに対するご自分の愛をあきらめることができないように、罪に対して 正義を行われることもあきらめることができないお方であります。

ところでイエス・キリストの十字架は、神様の愛と神様の正義とを両方とも成し遂げられる神様の方法でした。

ローマ 5章 8節は証言します。

8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださった ことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

神様は罪人を救われるために、一人子イエス様を十字架の上で裁かれました。そのように キリスト・イエスに、私たちの罪に対する徹底的な裁きを行われることによって、神様は 正義を成し遂げられました。またそのように私たちを救われることによって私たちに対するご自分の愛をも成し遂げられたのです。

また十字架は、私たちを罪と死と呪いと裁きから救われる神様の方法でした。人間は絶対に罪を解決することができません。しかしイエス・キリストが十字架の上で流された血潮が、私たちの罪を解決されました。

へブル 9章 12節です。

12 また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所(せいじょ)に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。

イエス・キリストが私たちのための贖いのいけにえになって私たちの代わりに十字架の上で死んでくださいました。イエス様が私たちのために流されたその血潮によって、私たちの すべての罪が完全に赦されたのです。

また黙示録 1章 5節には、こう書いてあります。

5 ...イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から()(はな)ち、

イエス・キリストが十字架で流された血潮によって、私たちは罪から解放されたということです。ここで[解き放つ]という言葉は、[破壊する]、また[無効化する]という意味を持っているギリシャ語です。すなわちイエス・キリストが十字架で、私たちの代わりに死んでくださったので、私たちを縛っていた、罪の力が破壊されて、罪の影響力が無効化されたということです。結局イエス・キリストが十字架で死んでくださったので、私たちの罪が赦され、私たちが罪から完全に解放されたということです。

このようにイエス様は、十字架を通して私たちの罪の問題を完全に解決してくださいました。

 

イエス様の十字架は、私たちが受けるべきだった、罪の代価も全部解決してくださいました。

先ほど申し上げた通りに、一番目に、罪人になった代価が、死でした。そしてその死というのは、神様に対する死であり、神様との関係が断絶されることを意味します。

ところがⅠペテロ 3章 18節は、こう証言しています。

18 キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったの です。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神の  みもとに導くためでした。

イエス様が私たちのために死なれた理由は、私たちを神様のみもとに導いてくださるためだということです。罪によって神様の敵となった私たちを神様と和解させるためにイエス様が十字架につけられました。イエス様は十字架を通して、断絶された神様と私たちとの関係を再び回復させました。さらにイエス様は、復活の命を私たちに与えてくださって、私たちに神様の子どもとされる素晴らしい特権を与えてくださいました。これがまさにイエス様が 十字架を通して、私たちに与えられた素晴らしい恵みであります。

二番目に罪人になった代価は、呪いでした。

罪人の人生は、一生涯呪いに呪いを重ねる人生であります。それがまさに罪人としての悲劇なんです。しかしイエス様は十字架を通して私たちのすべての呪いを祝福に変えてくださいました。

いつかも申し上げましたが、ユダヤ人たちにとって一番呪われた死は、木にかかって死ぬ ことでした。木にかかって死ぬことは、最も大きな恥であり、また一番大きな呪いでした。ところでイエス様がつけられたその十字架は、木で作られた十字架でした。

ガラテヤ 3章 13節です。

13 キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。

イエス様は、一番呪われて恥ずかしい死を迎えられました。人類を救われるキリストの死は、崇高(すうこう)な死でも、美しい死でもなかったということです。イエス・キリストは最も悲惨な死を迎えられました。ところで聖書は、イエス様が呪いの十字架で死なれた理由は、私たちを すべての呪いから贖い出してくださるためだったと証言しています。すなわちイエス様は 私たちの代わりに呪われるために、自ら十字架の死を選択されたということです。

もし、イエス様の死が崇高(すうこう)で、美しい死だったならば、私たちは呪いから逃れることができなかったということです。そのように十字架のイエス様を通して、罪人の私たちが受ける べき、すべての呪いが完全に解決されたのです。

また全的に堕落して、道徳的に無能力な罪人である私たちは、絶対に神様のみこころに従うことも正しい道を選択することもできない存在です。すなわち罪に汚染した命と心を持っている人間は、生きて行きながら、続けて罪を犯し、呪いに呪いを重ねるしかないということです。

ところでローマ 6章 6節で、使徒パウロは言いました。

6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、 私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知って  います。

使徒パウロは、私たちの古い人が、キリストとともに十字架につけられたと証言してます。イエス様が十字架につけられた時、罪人である私たち、すなわち罪に汚染した私たちの命と心をイエス様の十字架にともにつけてくださったということです。そしてイエス様が復活 された時、イエス様の復活の命を信じる者たちに与えてくださって、もはや信じる私たちはイエス・キリストにあって神様のみこころの通りに生きることができるようになりました。なぜなら罪人の命と心が十字架につけられて死んだからです。これがイエス様が十字架を 通して私たちに与えてくださった素晴らしい恵みであります。

三番目に、罪人になった代価は、裁きでした。

ところで、ヨハネ 5章 24節で、イエス様が言われました。

24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを  遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死から  いのちに移っているのです。

イエス様を信じてイエス様を自分の主人として受け入れた者には、永遠の命が与えられます。そしてその瞬間から私たちの運命は、死と裁きから永遠の命と祝福に移ります。なぜなら、罪人の私たちが受けるべき裁きをイエス・キリストが代わりに受けてくださったからです。イエス様の十字架は、罪人に対する神様の正義の裁きが行われる所でした。罪人に対する 神様の怒りが注がれる所であって、裁き主である神様が罪人の私たちに死刑を宣告される 所でした。そして十字架は、罪人に対して少しの憐れみや慈悲も赦されない所でした。

ところで私たちが受けるべき、その怒りの裁きを、イエス様が私たちの代わりに受けてくださったということです。そしてイエス様が私たちの代わりに、そのものすごい裁きを受けてくださったので、私たちが今日、平安の中で主の御前でその御恵を賛美することができるのです。これがまさにイエス様が十字架を通して、私たちに与えてくださった素晴らしい恵みであります。

説教をまとめます。

イエス様の十字架は、私たちをすべての罪から解放させる神様の方法でした。イエス様の 十字架は、霊的に死んでいた私たちを、神様の子どもとして生まれ変わらせる、神様の能力でした。イエス様の十字架は、私たちをすべての呪いから贖われるための神様の知恵でした。そしてイエス様の十字架は、私たちを怒りの裁きから永遠の命に移された、神様の驚くべき御業でした。このすべてのことは、十字架のイエス様を通して私たちに与えてくださった、神様の素晴らしい恵みだったということです。

イエス・キリストは、すべての人類のために、この素晴らしい恵みを授けてくださいました。しかし十字架の恵みはすべての人が味わえるものではありません。ただイエス・キリストを信じてイエス様を自分の主人として受け入れた者だけが、この恵みを味わうことができます。

また、信者だからといって、みんなが十字架の恵みを味わえることでもありません。   フィガルという先生は、こう言いました。

[十字架の恵みは、私たちが信仰を行使(こうし)する時だけ、体験できる恵みだ。]

イエス・キリストを信じて、私たちが救われたという事実は、変わらない事実であります。しかし救われた後にも私たちは罪を犯します。そしてイエス様を信じているのにも私たちは、相変わらず罪の影響力の中で生きて行きます。なぜでしょうか。それは私たちが信仰を行使(こうし)しなかったからだということです。

私たちが罪より解放されることは、私たちの古い人が死んだという事実を信じて認める時、実際になることです。自分の思いと欲望に従って生きた過去の自分は、イエス様とともに 十字架に死んだという事実を信じて認める時、そしてイエス様を自分の主人として認めて、従う時、私たちは罪の影響力から完全に解放されるということです。

 

 

多くの信者がイエス様を信じながらも、相変わらず自ら自分の人生の主人になろうとします。そして自分の思いと欲望に従って、神様と関係ない人生を生きて行きます。そういう人は、まだ自分の古い人が十字架に死んだという事実を受け入れてないことです。そして自分の 古い人が死んだことを信じない人は、信者でありながらも、依然として罪の影響力の中で、罪人のように生きるしかないということです。

十字架の恵みは、信仰を行使(こうし)する時だけ、味わえる恵みです。十字架の上で死んだのは、 イエス・キリストだけでなく私たちの古い人もともに死んだという事実を、絶対に忘れてはいけません。

イエス様の十字架は、私たちの人生の主人を変えました。もはや私たちの人生の主人は、 イエス・キリストであられることを覚え、いつも信仰の中で、十字架の恵みを豊かに味わう私たちになることを、イエス・キリストの御名によって祝福いたします。

≫ Read More

2021/03/21 主日メッセージ   nozomich

三つの十字架

2021年3月14日 ・ のぞみ教会・主日礼拝 

申告告白

聖歌 417 / 418

祈り 木村喜憲牧師

聖歌 540 / 562

聖書 ルカ 23:1-12

説教 <三つの十字架>  木村喜憲牧師

聖歌 593 / 631

献金 <献金の祈り>  木村喜憲牧師

聖歌 383 / 376

祝福の祈り  木村喜憲牧師

 

お知らせ。

◆のぞみ教会のOpen Cell Leaderを建て上げることが出来るように祈りましょう。

3月の教会歴及び予定  ◆http://www.nozomich.net◆  

[2/17-4/3 : 四旬節] ― [3/29-4/3 : 受難週間] ― [4/4 : イースター]

[3/11  : 機関長祈祷会(11時に行いました。)]

[3/28 : 牧会協力委員会祈り会(礼拝後)]

◆3月14日から教会での集会礼拝を再開します。 

◆新型コロナウイルス感染拡大防止にかかる緊急事態宣言の延長に伴いまして、

非対面礼拝を2週間延長し、3月28日から教会での集会礼拝を再開します。 

◆健康回復のためにお祈りをお願いします。

礼拝のための代表祈り 【3/28:山本健太兄】

4/4:安永真一兄、 4/11:三戸貴史兄

献金のための代表祈り 【3/28:高橋文治兄】

4/4:木村喜憲師、 4/11:山本満代姉

三つの十字架

 

本文 : ルカ 23 : 1 - 12

1 そこで、彼らは全員が立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った。

2 そしてイエスについて訴え始めた。彼らは言った。「この人はわが国民を惑わし、  カイザルに税金を(おさ)めることを禁じ、自分は王キリストだと言っていることがわかり ました。」

3 するとピラトはイエスに「あなたは、ユダヤ人の王ですか」と尋ねた。イエスは答えて、「そのとおりです」と言われた。

4 ピラトは祭司長たちや群集に、「この人には何の罪も見つからない」と言った。

5 しかし彼らはあくまで言い張って、「この人は、ガリラヤからここまで、ユダヤ全土で教えながら、この民を扇動(せんどう)しているのです」と言った。

6 それを聞いたピラトは、この人はガリラヤ人かと尋ねて、

7 ヘロデの支配下にあるとわかると、イエスをヘロデのところに送った。ヘロデもその ころエルサレムにいたからである。

8 ヘロデはイエスを見ると非常に喜んだ。ずっと前からイエスのことを聞いていたので、イエスに会いたいと思っていたし、イエスの行う何かの奇蹟を見たいと考えていたからである。

9 それで、いろいろと質問したが、イエスは彼に何もお答えにならなかった。

10 祭司長たちと律法学者たちは立って、イエスを激しく訴えていた。

11 ヘロデは、自分の兵士たちといっしょにイエスを侮辱(ぶじょく)したり嘲弄(ちょうろう)したりしたあげく、はでな衣を着せて、ピラトに送り返した。

12 この日、ヘロデとピラトは仲よくなった。それまでは互いに敵対(てきたい)していたのである。

 

 

今日の本文には、まるで誰が一番罪深い者なのかを(きそ)う、競演大会(きょうえんたいかい)みたいだという思いがするほど、多くの悪人たちが登場しまうす。本文に出てくる人々の姿には、真実もなく、 正義もなく、愛も感じられません。ただみんなが、自分のためにうそをつきながら真実から目をそらすだけです。

ところで、私たちが本文の御言葉を通して見る人々の姿は、十字架につけられる前に、  イエス様が最後に見ておられた人間の姿でした。人類のために十字架を背負って行かれる イエス様が最後に見ておられた人間の姿は、愛らしい姿でもなく、かわいそうな姿でもありませんでした。十字架の前でイエス様が見られた人間の姿は、あまりにも邪悪で、利己的な姿であって、イエス様はそんな人間たちのために十字架を負わなければならなかったのです。

人間の愛には、理由が必要です。すなわち愛すべき理由があってこそ愛を施すことが人間であり、また愛される資格がある存在だけが愛されるのが、私たち人間の愛だということです。ところで、人類のために十字架を背負って行かれるイエス様が見ておられた人間の姿は、 愛すべき理由もなく、愛される資格もない、完全な罪人の姿だったということです。

エペソ 2章 2節と3節で、使徒パウロは、私たち人間がどういう存在であるかを説明します。

2 そのころは、それらの罪の中にあって この世の流れに従い、空中(くうちゅう)の権威を持つ支配者として 今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。

3 私たちもみな、かつては 不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら 御怒りを受けるべき子らでした。

罪人である私たち人間は、自分では罪から逃れることも、より良い存在になる可能性もない存在だということです。一言で、罪に染まった命と腐っている心で続けて罪を犯し、一生涯悪魔に従って生きて、ついには悪魔とともに滅ぼされるしかない存在がまさに人間だということです。それがまさに聖書が言われる罪人という存在であります。

しかし感謝すべきことは、それにもかかわらず、神様は、愛される資格が全くない私たちを愛してくださるということです。

エペソ 2章 4節と 5節で、使徒パウロは、続けて証言します。

4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、

5 罪過(ざいか)の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、―あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです―

イエス様が私たちの代わりに十字架にかかって死なれたのは、私たちに少しでも愛される ような資格があったり、より良い存在になれる可能性があったからではありませんでした。神様が私たちを愛された理由は、ただ一つでした。それは神様が憐れみ深く愛が満ち溢れるお方だったからです。すなわち愛が満ち溢れる神様が、愛される資格がない私たちを愛することに決められたから、私たちが救われるようになったということです。

5節でパウロは、私たちが救われたのは、ただ恵みによるのだと証言しました。私たちが 恵みによって救われたというのは、救いに関する重要な事実を表しています。

聖書で[恵み]という言葉の定義は、[受ける資格のない者に与えられる、神様の贈り物]という意味です。すなわち私たちが恵みによって救われたという言葉は、私たちに救われる ような資格があったからでなく、ただ神様の恵みであり、また神様からの一方的な贈り物 だったということです。すなわち私たちの救いにおいて、私たちが寄与(きよ)したり、貢献(こうけん)した ことが全くないということです。

どうして神様は、愛される資格も理由もない私たちを、そんなにまで愛されて、甚だしくは私たちを愛されるために、一人子イエス様までも私たちに与えることができたでしょうか。私たちの考えと知識としては、神様の愛を理解することもできず、その恵みの深さを測る こともできませんが、使徒ヨハネは、その理由を一言で説明します。

Ⅰヨハネ 4章 16節です。

16 私たちは、私たちにする神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。

神様が私たちを、そんなにまで愛された理由は、神様は愛だからだということです。神様は愛その自体であり、愛の始めであり、愛に満たされておられるお方だから、死んで然るべき罪人である私たちまでも、ご自分の全部を与えてくださるほどに、愛されたということです。すなわち私たちが救われた唯一の理由は、神様が愛であられるからだったということです。

続けてヨハネは、神様からそんな愛を受けた私たちには、守るべき命令があると言いました。

Ⅰヨハネ 4章 21節です。

21 神を愛する者は兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。

神様の条件のない愛によって救われた私たちは、もはや私たちが神様から受けた通りに、 兄弟を愛しなければならないということです。

私たち人間は、人を愛するためには確実な理由が必要ですが、人を憎むことには特に理由が必要ではありません。韓国のことわざの中で[嫁のかかとが、卵みたいだ。]という言葉があります。ある女が自分の嫁、すなわち息子の妻をとても憎みました。それを見てある人が、いったいなぜそんなにまで嫁を憎むのか、彼女に尋ねました。すると彼女の答えがまさに [嫁のかかとが、卵みたいだから]だったそうです。ところでそれが嫁を憎むような理由になるでしょうか。かかとが卵みたいになめらかなことは、むしろ長所ですね。カメの甲羅(こうら) みたいなかかとよりは、卵みたいになめらかなかかとがいいじゃないですか。

[嫁のかかとが、卵みたいだ] ということわざは、人を憎むことには、特に理由が必要ではないという意味です。すなわち人を憎み始めると憎むような理由がなくても憎いということです。

なぜ私たちは、他の人を愛するためには条件が必要ですが、他の人を憎むことにおいては、理由と条件がなくても憎むようになるのでしょうか。それは私たちの心に残っている罪の 本姓が続けて憎みを作り出すからです。だから私たちは、私たちの心が導く通りに生きる ようになると私たちは続けて憎みと罪の実を結ぶしかないのです。

神様が私たちを愛された通りに、私たちも他の人を愛するためには、まず私たちの心が、 神様の愛と恵みで満たされなければなりません。

いつかも申し上げたことがありますが、あるラビが弟子とともにいる時、ならず者たちが 来て彼を嘲弄(ちょうろう)しながら侮辱(ぶじょく)しました。しかしそのラビは、彼らの行いに対応せず、むしろ彼らを祝福したそうです。彼らが離れた後、ならず者たちに対するラビの対応が不満だった弟子がラビに聞きました。

[あいつらは、先生を嘲弄(ちょうろう)して侮辱(ぶじょく)を与えたのに、なぜ先生は、あいつらを祝福されたのですか。]

するとそのラビが、弟子にこう言ったそうです。

[人は誰も、自分が持っているものだけを、他の人に与えることができるのです。]

私たちは、自分が持っているものだけを他の人に与えることができます。他の人を憎んで いるというのは、現在自分の心に憎みがあるという証拠なんです。もちろん、他の人が先に私たちを憎んだり、害を与えたから、憎むようになったかもしれません。

しかし原因が誰にあるか、また誰のせいなのかということとは関係なく、私たちが誰かを 憎んでいるというのは、すくなくとも憎んでいる間は、私たちの心を憎みが満たしているということを表すということです。しかし、もし私たちの心が神様の恵みと愛で満たされて いるとすれば、私たちはあえで意識しなくても、他の人に愛と恵みを施すようになるということです。

神様の条件のない愛によって救われた私たちには、他の人を愛すべき命令が与えられました。ところで、そうするためには、まず私たちの心が神様の愛で満たされなければならないと いうことです。

それなら私たちは、どうやって自分の心を神様の愛と恵みで満たすことができるでしょうか。私たちの心が神様の愛と恵みで満たされるためには、まずすべきことがありますが、それは、もともと自分がどういう存在だったのかを覚えることです。

私の記憶によれば、私がのぞみ教会でした説教の中で、最もたくさん話した言葉は、  [私たちは、死ぬしかない罪人だ。]という言葉であります。イエス様を信じて受け入れた私たちは、すでに罪を赦され、救われました。すでにイエス様を信じて救われたのに、なぜ私たちが罪人だったという事実を思い出させるのでしょうか。なぜなら神様の恵みは自分の罪と霊的な無力さを告白するところに注がれるからです。

ローマ 5章 20節で、使徒パウロは、こう言いました。

20 律法が入って来たのは、違反が()(くわ)わるためです。しかし、罪の増し加わるところ には、恵みも満ちあふれました。

神様の律法がする役割は、私たちの罪を悟らせることです。私たちの心の中に隠されている罪を悟らせて、私たちが死ぬしかない罪人であることを悟らせることがまさに律法の役割だということです。そして律法は、自分の罪を悟った私たちを、イエス・キリストの十字架の前に連れて行きます。すなわち自分の罪のゆえにイエス様が代わりに死なれたという事実、また自分は、ただイエス・キリストの愛と恵みによって救われたという事実を思い出させることがまさに律法の役割だということです。

御言葉を通して自分がどれほど邪悪で、弱くて、不完全な存在なのかを悟るようになると 私たちはイエス様に頼るしかないし、イエス様の助けを求めるしかありません。そして  イエス様の十字架の恵みは、そのように自分の罪と霊的な無力さを認めて、イエス様に頼る者、そしてイエス様の助けを求める者の上に注がれるということです。

十字架の恵みは、ただ自分が罪人であることを覚える者にだけ与えられる恵みです。自分が死ぬしかない罪人だったという事実を覚える時、イエス・キリストが自分のために授けて くださった愛と救いが、素晴らしい恵みだという事実も覚えることができるということです。

私が10年前に見た映画の中で、印象深(いんしょうぶか)かった場面がありました。ある人が、犯罪人たちに新しい人生を生きさせるために、小さな村を作りました。そして死刑囚たちを救い出して、彼らに新しい人生を生きられる機会を与えました。

彼らは、昼には農業を営んで、夜には聖書を学びながら、新しい人生を始めました。死ぬ しかない運命から逃れて、新しい機会を得るようになった彼らの心には、感謝が溢れました。しかし時間が経ちながら、彼らは自分たちがもともとどういう存在だったのかも忘れて、 また自分たちが過去に犯した罪も忘れてしまいました。死ぬしかない死刑囚だった自分の 過去を忘れると彼らは再び罪を犯し始めました。彼らに新しい機会を与えた人が、彼らの 罪を責めながら、悔い改めることを話すと彼らはこう言いました。

[そんな話は、もうやめてください。あなたの話を聞いていれば、まるで自分が罪人にでもなったような気分になって、気持ちが良くありません。]

自分たちが死ぬしかない死刑囚だったことを覚えている間、彼らに与えられた新しい生活は、恵みと感謝が溢れました。しかし自分の過去を忘れた瞬間からは、自分に与えられた恵みも感謝も消えてしまったということです。

キリスト教の象徴が十字架である理由は、私たちが死ぬしかない罪人だったという事実を 思い出させるためです。十字架を見ながら、私たちが覚えるべき事実が二つあります。  一つは、イエス・キリストが私たちのために十字架の上で死なれたという事実、そしてもう一つは、その十字架は、もともと私たちがかかるべき十字架だったという事実です。

罪人であった過去を覚えるべきだという言葉は、罪責感を持って生きなければならないと いう意味ではありません。自分に与えられた救いと永遠の命が、イエス・キリストの恵みによって与えられたという事実を覚えるために、そして私たちの心が、十字架の愛と恵みで 満たされるために、私たちはもともと自分がどういう存在だったのかを覚えるべきだということです。今までの話をまとめます。神様の愛によって救われた私たちには、受けた通りに他の人をも愛すべき使命が与えられました。しかし他の人を愛するためには、まず私たちの心が神様の愛と恵みで満たされなければなりません。なぜなら私たちは、自分が持っている物だけを他の人に与えることができるからです。

ところで私たちの心をイエス・キリストの愛と恵みで満たすためには、もともと自分がどういう存在だったのかを忘れてはいけません。なぜなら御言葉を通して、自分の罪と霊的な 無力さを悟って、イエス様に頼り、イエス様の助けを求める時、十字架の愛と恵みが、  私たちの心に注がれるからです。

ある先生は、毎日イエス様の恵みで満たされるために、自分は、毎朝ゴルコタの丘に登ると言います。それがどういう意味なんでしょうか。ゴルコタはイエス様が十字架につけられた所であり、また罪人の私たちが死ぬべきだった所です。その先生は、神様の御言葉を通して毎日自分が死ぬべき理由、すなわち自分の心に隠されている罪を捜して、告白するそうです。なぜなら使徒パウロが言った通りに、罪の増し加わる所には、恵みも満ちあふれるからです。

私たちもゴルコタの丘に登ることから、一日を始めるようになることを祈ります。聖書の 御言葉を通して、毎日私たちが死ぬべき理由を発見し、自分の罪と霊的な無力さに対する 絶望を持って、もっと固くイエス様に頼るようになることを祈ります。それで私たちの心に十字架の愛と恵みが満ち溢れて、その愛と恵みによって、私たちも隣人を愛するようになることを、主の御名によって祝福いたします。

再び本文に戻ります。十字架につけられる前にイエス様が見ておられた人間の姿は、邪悪で利己的な姿でした。

お金をもらってイエス様を売ってしまった、イスカリオテ・ユダ。

イエス様を三度も知らないと言った、ペテロ。

自分の利益を守るためにイエス様を殺そうとした、宗教指導者たち。

イエス様を訴えるために偽証をした、ユダヤ人たち。

そしてイエス様に罪がないことを知りながらも政治的な目的でイエス様を十字架につけた、ポンテオ・ピラト。

皆さんの考えには、この中で、一番罪深い者は、誰だと思われますか。そして聖書は何を 言われるために、こんなに悪い者たちの姿を聖書に記録しているのでしょうか。本文で、 多くの悪人たちの姿を現している聖書が、結局私たちを連れて行く所はゴルコタの丘です。ゴルコタの丘には、三つの十字架が立っていました。

 

 

ルカ 23章 32節と 33節です。

32 ほかにもふたりの犯罪人(はんざいにん)が、イエスとともに死刑にされるために、引かれて行った。

33「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架に つけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。

イエス様の十字架の左と右には二人の犯罪人もともに十字架につけられました。他の福音書には、彼らが強盗(ごうとう)だったと証言しています。強盗という言葉の通りに、彼らは一生涯多くの罪を犯した人たちであり、死んで然るべき人たちでした。ところが死を目前にした、最後の瞬間に、二人の人生は、正反対に流れてしまいます。

ルカ 23章 42節と 43節です。

42 そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い 出してください。」

43 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」

左側の強盗は、最後までイエス様を非難し、人々を呪いながら死にました。そして彼は、 地獄で自分が犯した罪の代価を自分で払うようになりました。

しかしイエス様の右側の強盗は、最後の瞬間に自分の罪を悔い改め、イエス様を受け入れて天国に行きました。右の強盗も死んで然るべき罪人であり、救われる資格のない人でした。そんな彼が救われたのは、使徒パウロが言った通りに、ただイエス様の恵みによるのでした。

聖書が十字架につけられたイエス様とともに、二人の強盗の姿を、私たちに見せてくれる 理由が何でしょうか。イエス様の左と右にいた強盗の姿は、イエス様の十字架の前に立っている人類の二つの姿を意味します。

結局聖なる神様の御前では、すべての人が罪人だということです。そして誰の罪がもっと 大きいか、誰がもっと罪深い者なのかというのは、あまり重要ではないということです。 神様の御前では、ただイエス様を受け入れた罪人とイエス様を受け入れなかった罪人がいるだけなんです。

イエス様を受け入れた罪人は、自分の救いのために寄与したり、貢献したことがなくても 神様の御前で義と認められて、天国に入るようになります。なぜならイエス・キリストの 恵みによって、すべての罪が赦されて、すべての罪の代価が完全に払われたからです。

しかしイエス様を受け入れなかった罪人は、地獄で自分の罪の代価を自分で払わなければ なりません。なぜなら聖書が言われた通りに、罪の代価は死であり、死後には裁きを受けることが定まっているからです。

今日の本文には、邪悪で利己的な多くの悪人たちの姿が記録されています。その中で誰の 罪が一番大きいでしょうか。そしてその中で誰が一番罪深い者なんでしょうか。

ゴルコタの丘に立っていた三つの十字架は、この質問に対して私たちに確実に答えています。この世で一番大きな罪は、イエス様を十字架につけた罪ではありません。そしてこの世界で一番罪深い者は、イエス様を裏切った者でも、またイエス様を十字架につけた者でもあり ません。

イエス様を受け入れない罪が一番大きな罪であり、イエス様を受け入れなった者が、一番 罪深い者であります。イエス様を裏切っても、またイエス様を十字架につけて殺しても  悔い改めて、イエス様だけ受け入れると赦されて天国に行きます。しかしイエス様を受け 入れない人は、絶対に赦されることも、救われることもできません。

これがまさに、ゴルコタの丘にある三つの十字架が私たちに与えるメッセージであります。

説教をまとめます。

私たちは神様の偉大な愛のゆえに救われました。私たちには、神様に愛される資格もなく、救われるような資格も全くありませんでしたが、ただ神様の恵みによって救われました。 そのように神様から条件のない愛と恵みを受けた私たちには、新しい命令が与えられました。それは、私たちが神様に受けた通りに、私たちも兄弟に愛を施すことです。

この使命を果たすことができるように、まず毎日聖書の御言葉を通して、自分が死ぬべき 理由を捜しましょう。そして自分の罪と霊的な無力さを悟ったならそれを持ってイエス様の御前に進み、もっと固くイエス様に頼りましょう。自分の罪を悟って、イエス様に頼り、 助けを求める人の上に、イエス・キリストが十字架の愛と恵みを注いでくださるはずです。

私と皆さんを通して、より多くの人がイエス様を受け入れて十字架の恵みを悟るようになることを祈ります。イエス・キリストの恵みによって救われたすべての人が、その素晴らしい愛と恵みの中で、永遠の命を味わうようになることを、イエス・キリストの御名によって 祝福いたします。

 

≫ Read More

2021/03/14 主日メッセージ   nozomich

あなたがキリストなら

2021年3月7日 ・ のぞみ教会・主日礼拝 

申告告白

聖歌 425 / 427

祈り 木村喜憲牧師

聖歌 570 / 604

聖書 ルカ 22:63-71

説教 <あなたがキリストなら>  木村喜憲牧師

聖歌 608 / 653

献金 <献金の祈り>  木村喜憲牧師

聖歌 383 / 376

祝福の祈り  木村喜憲牧師

 

お知らせ。

◆のぞみ教会のOpen Cell Leaderを建て上げることが出来るように祈りましょう。

2月の教会歴及び予定  ◆http://www.nozomich.net◆  

[2/17-4/13 : 四旬節]

[3/14 : 牧会協力委員会祈り会(礼拝後)]

[3/28 : 機関長祈祷会(礼拝後)]

◆3月14日から教会での集会礼拝を再開します。 

◆新型コロナウイルス感染拡大防止にかかる緊急事態宣言の延長に伴いまして、

非対面礼拝を2週間延長し、3月28日から教会での集会礼拝を再開します。 

◆健康回復のためにお祈りをお願いします。

礼拝のための代表祈り 【3/28:山本健太兄】

4/4:安永真一兄、 4/11:三戸貴史兄

献金のための代表祈り 【3/28:高橋文治兄】

4/4:木村喜憲師、 4/11:山本満代姉

あなたがキリストなら

 

本文 : ルカ 22 : 63 - 71

63 さて、イエスの監視人どもは、イエスをからかい、むちでたたいた。

64 そして目隠(めかく)しをして。「言いててみろ。今たたいたのはだれか」と聞いたりした。

65 また、そのほかさまざまな悪口(あっこう)をイエスに()びせた。

66 夜が明けると、民の長老、それに祭司長、律法者たちが集まった。彼らはイエスを議会(ぎかい)に連れ出し、

67 こう言った。「あなたがキリストなら、そうだと言いなさい。」しかしイエスは   言われた。「わたしが言っても、あなたがたは決して信じないでしょうし、

68 わたしが尋ねても、あなたがたは決して答えないでしょう。

69 しかし今から後、人の子は、神の大能(たいのう)の右の座に着きます。

70 彼らはみなで言った。「ではあなたは神の子ですか。」すると、イエスは彼らに  「あなたがたの言うとおり、わたしはそれです」と言われた。

71 すると彼らは「これでもまだ証人が必要でしょうか。私たち自身が彼の口から直接  それを聞いたのだから」と言った。

イエス様は、大祭司の家で裁判を受けられました。ユダヤ人の宗教指導者たちがイエス様を訴えた内容は、イエス様が神聖冒涜(しんせいぼうとく)をしたということでした。そしてイエス様を死刑にするために、イエス様に対する偽証をする多くの人の証言を聞きましたが、確実な証拠は何も 見つかりませんでした。

マルコ 14章 55節と56節です。

55 さて、祭司長たちと全議会(ぜんぎかい)は、イエスを死刑にするために、イエスを(うった)える証拠を つかもうと(つと)めたが、何も見つからなかった。

56 イエスに対する偽証(ぎしょう)をした者は多かったが、一致(いっち)しなかったのである。

大祭司がイエス様を死刑にするためには証明するべきことが二つでした。一つはイエス様が自分を神の子だと言ったのか、もう一つはイエス様が自分をキリストだと言ったのかということでした。しかし多くの人が偽証をしてもイエス様を罪に定める証拠を見つからなかった大祭司は、イエス様に自白させるしかありませんでした。結局大祭司がイエス様に直接尋ねました。

マタイ 26章 63節と 64節です。

63 しかし、イエスは(だま)っておられた。それで大祭司はイエスに言った。「私は、生ける 神によって、あなたに命じます。あなたは神の子キリストなのか、どうか。その答えを言いなさい。」

64 イエスは彼に言われた。「あなたの言うとおりです。...

イエス様は、ご自分が神の子キリストだという事実を認められました。するとそれを聞いた人々は、神聖冒涜したイエス様は死刑に当たると叫びました。イエス様は、ご自分に対して真実を言われましたが、その代価は、死刑でした。

この裁判で宗教指導者たちが願っていたのは、イエス様から真実を聞くことではありませんでいた。彼らが願ったのは、イエス様から自分たちが願っている答えを聞くことでした。 彼らが聞きたかった答えは、イエス様がご自分は、キリストでもなく、神の子でもないと いう答えでした。なぜなら宗教指導者たちにとってイエス様は、絶対にキリストであってはいけない存在だったからです。しかしイエス様は、ご自分がキリストであることを認めて、彼らはイエス様を殺すことにしました。

結局イエス様が、その裁判で死刑判決を受けられた理由は、彼らから、キリストとして  認められなかったからです。すなわち宗教指導者たちは、イエス様をキリストであられる ことを信じなかったので、イエス様を殺すことにしたということです。

なぜ当時の宗教指導者たちは、イエス様を信じることができなかったでしょうか。彼らは イエス様の御言葉を聞いたことがなかったのでしょうか。そしてイエス様が起こさせる  素晴らしい奇跡を見たことがなかったからでしょうか。

大祭司にもそして他の宗教指導者にも、イエス様を信じる機会が与えられました。聖書を 読んでみれば、彼らも時には、イエス様が奇跡を起こさせる現場にいました。そして彼らはいつも監視人を遣わしてイエス様が何事を行われ、何を言われたのか、それを全部聞いて いました。

すなわち宗教指導者たちも、イエス様が行われた奇跡を見て、イエス様の御言葉を聞いたということです。それにも関わらず、彼らは、イエス様を最後まで信じなく、キリストとして認めることもできませんでした。なぜなら彼らの基準によれば、イエス様はキリストになるような資格がない人だったからです。

宗教指導者たちが最初にイエス様に対する話を聞いたのは、東方の博士たちを通してでした。マタイの福音書を読んでみれば、ある日、東の方から博士たちが来て、ユダヤ人の王であるキリストが生まれたことを知らせました。するとその話を聞いて、エルサレムが大騒ぎに なりました。

恐れ(まど)ったヘロデ王は、祭司長たちと律法学者たちを集めて、キリストは、どこで生まれるのかと聞きました。すると宗教指導者たちは、預言者の預言を通して、キリストがユダヤのベツレヘムで生まれることを教えてくれました。

ところでここでちょっとおかしいことは、キリストに対して誰よりも良く知っていた当時の宗教指導者たちは、驚いたのでもなく、キリストを捜しに行ったのでもなかったということです。彼らは、キリストを待ち望まなかったのでしょうか。そうではありません。彼らも 他のユダヤ人たちと同様に、キリストを待ち望んでいました。それならなぜ彼らは、東方の博士たちの話を聞いて、キリストを捜そうとしなかったのでしょうか。その理由は、彼らが博士たちの話を信頼しなかったからです。

宗教指導者たちは、自分たちよりキリストに対して良く知っている人もなく、自分たちより聖書の預言について良く知っている人もないと思いました。また自分たちより神様と親密な人もないと思いました。それで、もしキリストが来られる時には、それを一番最初に知る ようになるのは、自分たちだと思いました。

そんな彼らに、外国で来た異邦人に過ぎない博士たちの話が、信じられるはずがありませんでした。結局当時の宗教指導者たちは、信仰的な高慢のゆえにキリストの誕生を悟ることもできず、キリストを迎えることもできなかったということです。そしてその以降にも彼らはその高慢のゆえに、イエス様をキリストとして認めることができませんでした。

彼らはイエス様がキリストになる資格がないと思いました。なぜならイエス様はガリラヤのナザレという(とぼ)しい田舎(いなか)の出身だったからです。またイエス様は、権勢のある家で生まれた人でもなく、有名なラビのもとで学んだ人でもなかったからです。すなわちイエス様には、彼らが認めるような条件が、たった一つもなかったということです。

もちろんイエス様が行われた奇跡は素晴らしかったし、イエス様の教えは特別でしたが、 イエス様の出身と条件のゆえにイエス様をキリストとして認めることができなかったということです。それで彼らは、論理的に説明できないイエス様の能力は悪霊の力だと結論を下し、イエス様の教えは、律法を良く知らない人の思い違いに過ぎないと無視してしまったのです。

結局宗教指導者たちは、最後までイエス様をキリストとして認めませんでした。イエス様と同じ時代を生きながら、キリストであられるイエス様を直接見て、イエス様の御言葉を直接聞いたのにも、結局救われなかったということです。

これは私たちにとても重要な事実を表しています。それは、高慢な人は、イエス様の奇跡を自分の目で見てイエス様の御言葉を自分の耳で聞くとしても、その高慢のゆえに悟ることができないということです。高慢というのは、こんなに怖い罪だということです。

イエス様の当時にも、そして今も、人々はイエス様にしるしを求めます。イエス様を信じることができるように奇跡とか特別な霊的体験を経験させてくださることを祈ります。そして奇跡を見せてくだされば、今よりもっと熱心に信じて、良い信者になると言います。しかし奇跡や特別な霊的体験は、しばらくの間私たちの信仰を助けることはできますが、私たちをしてイエス様を信じさせることはできません。

人類の歴史上、一番多くの奇跡を経験した人たちは、荒野で生活したイスラエルの民でした。彼らは、神様が(とお)(わざわ)いを通してエジプトを裁かれて、自分たちを救い出される奇跡を 経験しました。何もない荒野で40年間マナを食べて、自分たちを守っている、雲の柱と火の柱を40年間見ながら生きました。また彼らは、目の前で(あし)(うみ)が分かれることを目撃して、神様が自分たちのために戦ってくださることを見ました。

それなら、そんなに数多くの奇跡を経験したイスラエルの民は人類の歴史上、最も信仰深い信者になったでしょうか。そうではありません。彼らは、奇跡の現場で生きながらも続けて神様の約束を疑い、不平不満を重ねながら、再びエジプトの奴隷の生活に戻って行こうと しました。奇跡は、そして特別な霊的体験は、私たちの信仰を助けることはできますが、 イエス様を信じさせることはできないということです。

結局大祭司をはじめ、当時の宗教指導者たちが、イエス様を信じなかった理由は、奇跡を 経験しなかったからでもなく、御言葉を聞けなかったからでもなかったということです。 彼らの心の高慢のゆえに、イエス様をキリストとして信じることもできず、またキリストを必要ともしなかったということです。

それならイエス様が神の子であられることを悟った人たち、そしてイエス様がキリストで あることを信じた人たちは、どんな人たちだったでしょうか。

ヨセフとマリヤを除いて、キリストがお生まれになったことを一番先に知るようになった 人たちは、羊飼いたちでした。野宿(のじゅく)夜番(よばん)をしながら羊の群れを見守っていた羊飼いたちは、御使いから、キリストがお生まれになったという知らせを受けました。すると羊飼いたちは、急いでベツレヘムに行って、飼い葉おけに寝ておられるイエス様に敬拝(けいはい)し、神様を賛美したと聖書は証言しています。ところでなぜ神様は、イエス様の誕生をユダヤの王や宗教指導者たちではなく、羊飼いたちに一番先に知らせてくださったのでしょうか。

イエス様の当時にユダヤの主要産業(しゅようさんぎょう)は、農業でした。カナンの地に定着した後にユダヤが農耕社会(のうこうしゃかい)に変わりながら、羊飼いたちは、だんだんユダヤの社会から疎外(そがい)され、無視されるようになりました。そしてイエス様の当時に至っては羊飼いたちは人々からホームレスとか浮浪者(ふろうしゃ)扱いをされたそうです。すなわちユダヤ社会で羊飼いたちは、一番無視される人たちであって最も貧しい人たちだったということです。甚だしくは当時の羊飼いたちは裁判所で証人として認められることさえもできないほどにイメージが良くなかったそうです。それ なのに神様は、ユダヤ社会で最も貧しくて、無視されていた羊飼いたちにキリストの誕生を一番先に知らせてくださったということです。

またイエス様が公生涯を始められた後、最も積極的に福音を受け入れて、救われた人たちも宗教指導者たちではなく、罪人と貧しい人、そして病気になった人たちでした。この事実が私たちに与えるメッセージは何でしょうか。結局自分に対して自慢するようなことのない 人たちが、先に福音を悟って救われたということです。

だからと言って、イエス様が貴族たちや宗教指導者たちには、福音を伝えなかったり恵みを授けてくださらなかったことではありません。羊飼いたちが、一番先にキリストの誕生に ついて聞きましたが、ヘロデ王と宗教指導者たちも、東方の博士たちを通して、キリストの誕生について聞きました。

またイエス様は収税人と罪人の友になってくださいましたが、宗教指導者たちもイエス様の御言葉を聞いて、イエス様が起こされる奇跡を見ました。すなわち、イエス様をキリスト として信じる機会は、すべての人に与えられたということです。

 

しかしそれにも関わらず、結局イエス様を信じて救われた人たちのほとんどは自分に対して自慢するようなことのない人たちだったということです。なぜなら自分に対して自慢する ようなことがない人たちには、自分の霊的な無力さを認める謙遜な心があったし、また  イエス様が自分の唯一の希望だと信じる、貧しい心があったからです。

結局私たちの信仰生活において最も必要なものは、奇跡もなく、特別な体験でもないということです。イエス様の恵みを豊かに味わうために、私たちに必要なことは、謙遜で、貧しい心だということです。

イエス様が福音書で、種を蒔く人の比喩を言われました。

ルカ 8章 5節から 8節までです。

5 「種を蒔く人が 種蒔きに出かけた。蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。 すると、人に踏みつけられ、空の鳥がそれを 食べてしまった。

6 また、別の種は岩の上に落ち、()()たが、水分(すいぶん)がなかったので、()れてしまった。

7 また、別の種は いばらの中に落ちた。ところが、いばらも いっしょに生え出て、それを()しふさいでしまった。

8 また、別の種は 良い地に落ち、生え出て、百倍のを結んだ。」イエスは、これらのことを話しながら「聞く耳のある者は聞きなさい。」と(さけ)ばれた。

種を蒔く人が蒔いた種は、良い地にだけでなく、道ばたにも、岩の上にも、そしていばらの中にも落ちました。しかし種が実を結んだ地は、良い地だけだとイエス様が言われました。

ここで四つの地は、私たちの心を意味します。すなわちすべての人に福音の恵みが与えられますが、ただ謙遜で、貧しい、良い心を持っている人だけが、イエス様の恵みを悟ることができるし、またその恵みを通して美しい実を結ぶことができるということです。

それなら種が落ちた四つの地は、それぞれ違う畑だったでしょうか。そうではありません。道ばたも、岩も、いばらも、良い地も、全部同じ畑の中にある土地でした。ただ決定的な 違いは、その地が、耕されたのか耕されなかったのかということにありました。

耕すことは何ですか。道ばたのように固くなった土は、すき起こして、やわらかい土にして、土の中にある岩とかいばらを取り除いて、良い地にすることがまさに耕すという意味です。

 

ところで預言者ホセアは、ホセア 10章 12節(新共同訳)でこう言いました。

12 恵みの(わざ)をもたらす種を蒔け愛の実りを刈り入れよ。新しい土地を(たがや)せ。主を求める時が来た。ついに主が(おとず)れて恵みの雨を注いでくださるように。

預言者ホセアは、神様が授けてくださる恵みを受けるために、新しい土地のような私たちの心を耕せと言いました。新改訳聖書には、新しい土地と翻訳されていますが、元の意味は、耕されてない、古い土地という意味であります。すなわち罪と不信仰でいっぱいとなって いる私たちの高慢な心を、耕して良い心に変えなさいということです。

それなら私たちは、どうやって私たちの心を耕すことができるでしょうか。私たちは神様の御言葉という[(すき)]を通して、私たちの心を耕すことができます。神様の御言葉は、私たちの心の中にある、不信仰の岩と思い煩いのいばらを見つけさせ、それを取り除ける信仰を与えます。また神様の御言葉は、罪によって固くなり、忙しい生活の中で鈍くなった私たちの 心を、恵みと悔い改めを通して、すき起こします。そのように私たちは、神様の御言葉を 通して、また祈りを通して、私たちの心を耕すことができるのです。

そしてそのように神様の御言葉によって私たちの心が耕されると、神様が私たちの心に  恵みの雨を注いでくださるということです。神様の御言葉を通して私たちの心を耕す作業を、デボーションと言います。そして私たちの心を耕すこの作業は、私たちが天国に行くまで、続けなければなりません。

信仰生活は、神様の御言葉によって私たちを変化させ、神様のみこころに私たちを合わせて行く過程であります。そういうわけで、神様の御前に進む時、私たちはいつも自分の変化に対する覚悟を持って行かなければなりません。

イエス様の当時の宗教指導者たちは、誰よりも聖書の御言葉を良く知っている人たちであり、誰よりも聖書をたくさん読んで、研究する人たちでした。それなのになぜ彼らはイエス様の御言葉を悟ることができなかったのでしょうか。彼らは心の畑に種はいっぱい蒔きましたが、神様の御言葉で自分の心を耕そうとはしなかったからです。神様の御言葉に対する知識は、ありましたが、その御言葉の通りに変化する覚悟はなかったということです。彼らは神様の御言葉によって自分を変化させようとはせず、むしろ神様の御言葉を、自分の状況と立場に有利な方向に解釈しました。そのように神様の御言葉の前で高慢な心と態度を捨てなかった彼らに、イエス様が宣べ伝える御国の福音が、悟られるわけがなかったのです。

 

神様は、御言葉によって耕された、謙遜な心に恵みの雨を降り注いでくださいます。そして福音の種も、耕された心に蒔かれた時、美しい実を結びます。

いつも謙遜な心で神様の御言葉を聞く、私と皆さんになることを祈ります。そしていつも 神様の御言葉の通りに変化されようという決心を持って神様に礼拝する私たちになることを主の御名によって祝福いたします。

宗教指導者たちは、高慢のゆえに、結局イエス様を神の子としても、またキリストとしても信じることができませんでした。それなら最後に一緒に考えてみたいことは、イエス様を 神の御子として、またキリストとして信じるというのは、どういう意味なんでしょうか。

聖書を読んでみれば、イエス様がどんな方なのかについて最も正確に話した人がいましたが、それはペテロでした。

マタイ 16章 16節でペテロは、こう告白しました。

16 シモンペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」

ペテロの言葉は、一言の短い告白でしたが、その中には、私たちが持つべき、重要な信仰の告白が入っていました。そしてペテロの告白は、イエス様を信じるというのがどういう意味なのかをよく表しています。

[一番目に、ペテロは、イエス様がキリストであられることを信じました。]

過ぎた時間にも申し上げましたが、イエス様の職分であるキリストというのは、ただ人類の罪を贖うために存在する職分でした。キリストという存在は、ただ罪人を救うための存在であります。そういうわけで自分が罪人であることを認めない人に、キリストという存在は、必要も意味もないということです。だからキリストを信じるというのは、自分が死ぬしか ない罪人であることを認める人にだけできることです。

ペテロがイエス様をキリストとして信じたというのは、イエス様がどんな方なのかを知っていたという事実より先に、自分が罪人であることを悟ったということを意味します。そして罪人である自分の絶望的な運命を知っていたので、彼はキリストであられるイエス様を受け入れて、自分のすべてをイエス様に委ねたのです。そしてすべてを捨てて、イエス様に付き従いました。なぜならイエス・キリストを失うことこそ、すべてを失うことだという事実を、ペテロは知っていたからです。イエス様をキリストとして信じるということは、このように自分が死ぬしかない罪人であることを認めて、ただイエス様にすべての希望をかけるという意味があるのです。

[二番目に、ペテロは、イエス様が神様の子どもであられることを信じました。]

イエス様が神の御子だという言葉の意味は、イエス様がまさに神様だという言葉と同じ意味であります。イエス様は、生きておられる神様であられます。そして今も私たちとともに おられるインマヌエルの神様であります。そのイエス様に解決できない問題はありません。イエス様は、私たちに必要なものが何かを、誰よりも良く知っておられ、またそれを折に 適って、私たちに与えられる力があるお方であります。

イエス様は、私たちを最善の道へ導いてくださるお方であり、私たちの試練と悲しみまでも、祝福に変えることのできるお方であります。イエス様は、すべてのことを働かせてご自分の計画を成し遂げられる全能の神様であられます。イエス様が神様だから私たちはイエス様に私たちのすべてを委ねることができるのです。

私たちはイエス様に何かを求める先に、私たちの祈りに答えてくださるイエス様が、どんな方であられるかを覚えなければなりません。神様であられるイエス様は全能なる神様らしく働かれます。イエス様は私たちの祈りに答えてくださいますが、私たちが願っていること よりもっと素晴らしい計画を持って働いてくださいます。それでイエス様の働きは、時には、私たちの考えとは違う時がありますが、それは、イエス様が私たちの祈りよりもっと大きな計画を持っておられるからなんです。

イエス様の当時に多くの人たちがイエス様に健康を求めましたが、イエス様が魂を救われる救い主であることは知りませんでした。大勢の人が、イエス様に来て、奇跡のパンを求め ましたが、イエス様がまさに永遠の命をくださる、命のパンであられることは知りません でした。しかしペテロは、イエス様がまさに生ける神の御子であり、また神様であられる ことを信じました。だからペテロは、自分の人生をイエス様に委ねて、イエス様に付き従うことができたのです。

人生のすべての問題の答えがイエス様にあります。そういうわけで、何が何でも、私たちが必ず受けるべきことは、イエス様の恵みであります。そしてどんな試練の中にあるとしてもイエス様だけ握っていれば、そしてイエス様に頼りながら祈れば、私たちは必ず祝福の道に行くことができます。イエス様は私たちに、問題と悩みを持って、イエス様に来いと言われました。そして求めて祈れば、与えてくださるとも約束されました。イエス様が、神様の 御子であられることを信じるというのは、私たちの人生のすべてをイエス様に委ねる信仰を意味します。すべてをイエス様に委ねて、イエス様の御言葉に耳を傾け、イエス様に従う ために努力することが、イエス様を神の御子として信じる、私たちのすべきことであります。

大祭司と宗教指導者たちは、イエス様が神の御子であることも、またキリストであることも信じませんでした。それで彼らは、イエス様の御言葉を聞いてイエス様の奇跡を見たのにも滅びました。

私たちは、イエス様が神様の御子、キリストだという事実を信じて、イエス様を私たちの 主人として受け入れました。そのように救われた私たちは、その信仰の告白にふさわしい 人生を生きなければなりません。

神様の御言葉が私たちの人生を変化させるように、毎日御言葉を通して心を耕す私たちに なることを祈ります。そして謙遜で貧しい心を持って、ただイエス様だけを自慢する、私と皆さんになることを、イエス・キリストの御名によって祝福いたします。

 

≫ Read More

2021/03/07 主日メッセージ   nozomich

信仰の破産

2021年2月28日 ・ のぞみ教会・主日礼拝 

申告告白

聖歌 590 / 628

祈り 木村喜憲牧師

聖歌 506 / 524

聖書 ルカ 22:54-62

説教 <信仰の破産>  木村喜憲牧師

聖歌 606 / 650

献金 <献金の祈り>  木村喜憲牧師

聖歌 383 / 376

祝福の祈り  木村喜憲牧師

 

お知らせ。

◆のぞみ教会のOpen Cell Leaderを建て上げることが出来るように祈りましょう。

2月の教会歴及び予定  ◆http://www.nozomich.net◆  

[2/17-4/13 : 四旬節]

[3/14 : 牧会協力委員会祈り会(礼拝後)]

[3/21 : 機関長祈祷会(礼拝後)]

◆3月14日から教会での集会礼拝を再開します。 

◆入木早紀子姉の姑さんが19日天に召されました。主の慰めを祈ってください。

◆健康回復のためにお祈りをお願いします。

 

信仰の破産

本文 : ルカ 22 : 54 - 62

54 彼らはイエスを捕らえ、引いて行って、大祭司の家に連れて来た。ペテロは遠く離れてついて行った。

55 彼らは中庭(なかにわ)の真ん中に火をたいて、みなすわり込んだので、ペテロも中に()じって腰をおろした。

56 すると、女中(じょちゅう)が、火あかりの中にペテロのすわっているのを見つけ、まじまじと見て言った。「この人も、イエスといっしょにいました。」

57 ところが、ペテロはそれを打ち消して、「いいえ、私はあの人を知りません」と言った。

58 しばらくして、ほかの男が彼を見て、「あなたも、彼らの仲間だ」と言った。しかし ペテロは、「いや、違います」と言った。

59 それから一時間ほどたつと、また別の男が、「確かにこの人も彼といっしょだった。 この人もガリラヤ(じん)だから」と言い張った。

60 しかしペテロは、「あなたの言うことは私にはわかりません」と言った。      それといっしょに、彼がまだ言い終えないうちに、鶏が鳴いた。

61 主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う」と言われた主のおことばを思い出した。

62 彼は、外に出て、激しく泣いた。

破産という言葉がありますね。破産という言葉の辞書的な意味は、[財産をすべて失うこと]であります。ところで信仰生活においても、破産はあります。時には私たちが信仰を失ってまるで信仰が破産されたような経験をする時があるということです。イエス様の弟子ペテロにもそんな経験がありました。それはペテロの人生において最も辛い経験でありながら、 また最も尊い経験でもありました。

今日は、本文を通して信仰が破産された時、私たちがすべきことは何かについて、皆さんと一緒に考えてみたいと思います。

イエス様の弟子たちの中で一番熱情的な人は、ペテロでした。ペテロは、イエス様を愛することだけは、誰にも負けられないと思うほどイエス様を愛しました。そして彼はイエス様といっしょになら、死ぬことまで覚悟されていると告白した人でした。それは彼の本気でした。イエス様に対するペテロの愛は本物であって彼は本当に死ぬまでイエス様に付き従うつもりでした。しかしそう話しているペテロに、イエス様がこう言われました。

ルカ 22章 33節と 34節です。

33 シモンはイエスに言った。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」

34 しかし、イエスは言われた。「ペテロ。あなたに言いますが、きょう(にわとり)()くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」

ペテロの心が本気であることをイエス様もご存じでしたが、イエス様はペテロが、三度も イエス様を知らないと言うはずだと言われました。その時までも自分に何事が起こるか全然知らなかったペテロは、イエス様のその言葉がとても寂しく感じられたかもしれません。 そしてイエス様が、自分の心と信仰を認めてくださらないと思ったかもしれません。

ところで今日の本文で、ペテロは、自分が持っている覚悟と信仰が、死という恐れの前で、粉々に砕け散ることを経験するようになります。死の恐れの前で、ペテロは、自分が持っていた信仰と意志を全部失ってしまうようになります。一言で言えば、ペテロは、信仰が破産される経験をするようになるということです。

イエス様が大祭司の家に引かれて行く時、ペテロは遠く離れてついて行きました。そして イエス様が大祭司の家で裁判を受ける時、ペテロは、人々といっしょに中庭で火に当って いました。ところでその時、そこにいた人の中には、ペテロがイエス様の弟子であることを知っている人がいました。

本文 56節と 57節です。

56 すると、女中が、火あかりの中にペテロのすわっているのを見つけ、まじまじと見て 言った。「この人も、イエスといっしょにいました。」

57 ところが、ペテロはそれを打ち消して、「いいえ、私はあの人を知りません」と言った。

ある女中が、人々の前でペテロはイエス様の弟子だと言いました。すると慌てたペテロは、自分はイエス様を知らないと言ってしまいました。

 

しばらくして、ほかの人がペテロを見ながらペテロは確かにイエス様の仲間だと言いました。するとペテロは、またイエス様を知らないと言いました。そして一時間ほど経って、また 別の男が、ペテロがガリラヤ人だという証拠をあげて間違いなくペテロはイエス様の弟子だと言いました。すると窮地(きゅうち)に追い込まれたペテロは、イエス様を呪いながらまで、自分は イエス様を知らないと言いました。

本文 61節と 62節です。

61 主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う」と言われた主のおことばを思い出した。

62 彼は、外に出て、激しく泣いた。

ペテロが三番目にイエス様を知らないと言い終えないうちに、鶏が鳴きました。イエス様が言われた通りに、鶏が鳴くまでに、ペテロが三度もイエス様を知らないと言ったのです。 鶏の鳴き声を聞いてこそ、初めてペテロは、自分が何をしてしまったのかを悟りました。

[自分はイエス様を知らない]とペテロが三番目に言った時ペテロは自分を見つめておられるイエス様と目が合いました。そしてペテロは、耐えられない罪責感と悲しみのゆえに、外に出て激しく泣いたと聖書は証言します。

ペテロはイエス様の弟子であって、さらに他の弟子たちよりも、もっと多くの奇跡を経験 した人でした。そしてイエス様に向う彼の愛と信仰の告白は本気でした。そんなペテロの 信仰が、死の恐れの前で破産してしまったのです。

本文の出来事は、ペテロには忘れられない記憶であり人生において最も辛い記憶でした。 ところでなぜ聖書は、ペテロの事をこんなに具体的に記録しているのでしょうか。ペテロがどんなに悪い者であるか、彼の信仰がどんなに小さかったのかを表すためなんでしょうか。

聖書はペテロを通して、私たちの姿を見せているのです。なぜなら私たちもペテロのように誘惑と試練の前で、私たちが持っている信仰を全部失ってしまう、信仰の破産を経験する 時があるからです。

聖書は、イエス様を知らないと三度も言ってしまったペテロが、外に出て激しく泣いたと 証言します。というのは、イエス様を裏切ったのは、ペテロの本気ではなかったということです。ペテロも自分に何事が起こっているのか、これから状況がどうなるか知らないままで、大祭司の家までついて行きました。ついて行きながらもし危機の瞬間が訪れたらイエス様を知らないと言おうと計画したのでもありません。

むしろペテロは、その時までも自分はイエス様といっしょになら、死ぬことまでもできると思っていました。

しかし思いがけない危機が訪れて、本当に死ぬかもしれないという恐れが訪れた瞬間、彼は生きるために、本能的にイエス様を裏切ってしまったのです。人の信仰と覚悟というのは、こんなに弱くて不完全なものだということです。

平安な時には、だれも良い信仰を持っているように見えます。そして平安な時の私たちは、自分がイエス様を裏切ったり信仰を捨てるようになるかもしれないとは思いません。しかし私たちの信仰は、誘惑と危機に会ってこそ、初めて実体が現れます。すなわち誘惑と試練が訪れたら、私たちもペテロのように信仰を失ってイエス様を裏切ることもできるし、また 自分の意志とは関係ない選択をすることもできるということです。だから私たちは、自分の信仰を自慢したり、また自分の信仰を信頼したりしてはいけないのです。

また私たちは、他の人の試練と失敗を見ながらその人の信仰に対して判断してもいけません。なぜなら結局人間は、同じ状況を経験してみないとその人の苦しみと恐れについて100% 分かることはできないからです。

私たちが思っている自分の信仰は、実際よりも大きくて、きれいに包装されている場合が 多いです。しかし自分が思う自分の信仰の大きさと深さは、試練と危機を通して証明される前には、実体がある信仰だとは言えません。

アブラハムは神様を信じてまた愛しました。しかし一人だけの息子イサクを全勝のいけにえとして捧げなさいという命令に従った時、その信仰と愛が本物として証明されて実体のある信仰となりました。

私たちが持っている信仰もそれと同じだということです。私たちの信仰は試練を通して証明される前には、その実体を知ることができないので、自分の信仰を自慢したり自分の信仰を信頼してはいけないといことです。むしろ私たちがすべきことは、自分の信仰がどんなに 弱くて、不完全なものなのかを理解して認めることです。そしてどんな誘惑と試練の前でも信仰を守ることができるように、続けて神様の助けを求めながら神様に頼ることが私たちのすべきことであります。

聖書が見せてくれるペテロの姿は、私たちに人間の普遍的(ふへんてき)な姿であります。ペテロを通して聖書は、私たちの弱い意志と不完全な信仰について言われているのです。そして誰も試練と恐れの前でペテロのように信仰の破産を経験する時があるということを言われているのです。

それなら聖書が、ペテロの過去について記録しているのは、ただ私たちがどんなに弱くて、不完全な存在であるかを見せることだけが目的なんでしょうか。そうではありません。  これから私たちに重要なことは、試練の前で信仰の破産を経験した後、私たちはどうすればいいかということが重要なことであります。

イエス様は、ペテロを弟子とされる前から、ペテロが自分を裏切るようになることを知っておられました。それにも関わらず、イエス様がペテロを弟子として選択されたというのは、どういう意味なんでしょうか。それはイエス様に重要なことはペテロがイエス様を裏切るかどうかということではなかったということです。

信仰が破産されたペテロに、イエス様が何を願っておられたのかというのは私たちにとても重要です。なぜなら信仰を失ったペテロにイエス様が願われたのは、信仰を失った私たちに願っておられることでもあるからです。

イエス様は、復活された後、再び弟子たちにやって来られました。

ヨハネ 20章 19節です。

19 その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。  「平安があなたがたにあるように。」

[一番目に、イエス様が弟子たちとペテロに願っておられたのは、彼らの平安でした。]

復活されたイエス様が弟子たちに来られて、最初に言われた言葉は、[平安があなたがたにあるように。] という言葉でした。ここで平安という言葉には、二つの意味がありますが、一つは、平安という意味で、もう一つは、平和という意味であります。

イエス様を裏切った弟子たちにとって一番辛いことは、何だったでしょうか。弟子たちは イエス様がキリストであることを知っていました。しかしキリストであられるイエス様を 最後まで付き従うことができず、恐れのゆえに裏切ってしまいました。さらに自分たちが 裏切ったそのイエス様が復活されて目の前に現れた時、弟子たちは何を思ったでしょうか。

[私は、天国には行けないだろう。]

[私は、絶対にイエス様に赦されないだろう。]

たぶん弟子たちは、こんな思いのゆえに悲しくて、怖かったはずです。

 

しかしイエス様は、そんな弟子たちの心をあまりにもよく知っておられ、それが弟子たちをどんなに苦しめているかもよく知っておられました。それで弟子たちに来られたイエス様は、一番最初にこう言われました。

[平安があなたがたにあるように。]

イエス様は、弟子たちが過ぎた過去の過ちのゆえに苦しんでいることを願わなかったということです。罪責感につまずいて、自らイエス様を離れるようになることを望まなかったと いうことです。むしろイエス様が弟子たちに望んでおられたのは、イエス様が約束の通りに復活されたという事実のゆえに喜びながら、平安を味わうことでした。

そしてそれができるように、イエス様は弟子たちの前で平和を宣言されたのです。すなわち裏切られたイエス様が、裏切った弟子たちに来られて、先に和解の手を伸ばしてくださったということです。聖書を読んでみれば、イエス様は復活された後、天に昇られるまで40日間、弟子たちとともにおられましたが、弟子たちがイエス様を裏切ったことに対しては、一度も言われませんでした。

私たちも人生の中で訪れる試練と恐れのゆえに信仰の破産を経験する時があります。時には誘惑に陥って罪を犯す時もあり、時には試練と失敗のゆえに信仰を完全に失ってしまう時もあります。そして気が付いてみるともうイエス様から遠ざかっている自分を見つけるようになります。私たちの信仰が破産されて、イエス様から遠ざかった時、イエス様が私たちに 願われることは何でしょうか。それはまさに平安であり、また平和だということです。

私たちが罪を犯したり、失敗したとき、最後まで私たちを赦してくれない存在がいますが、それはまさに自分自身です。しかし私たちが覚えるべきことはイエス様は私たちを呼ばれる前に、私たちがイエス様をどれほどたくさん裏切って罪を犯すようになるかをすでに知っておられたという事実です。

エペソ 1章 4節と 5節(新共同訳)で、パウロは言います。

4 天地創造(てんちそうぞう)の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者に しようと、キリストにおいてお選びになりました。

5 イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。

パウロは、神様が私たちを天地創造の前にキリストにおいて選んでくださったと証言します。ところでキリストにおいて私たちを選ばれたという言葉は、どういう意味なんでしょうか。いつかも申し上げましたが、キリストというのは、イエス様の職分であり、イエス様の役割でした。ところでキリストというのは、ひたすら人の罪を贖うために存在する職分でした。

すなわち神様が、天地を創造される前に、キリストにおいて私たちを選ばれたというのは、私たちが罪を犯すことも、また神様を裏切ることも、そして何回も信仰の破産を経験する ことも全部知っておられたということです。そしてそんな私たちを赦されて助けてくださるために、先にキリストを備えておいてから、天地を創造されたということです。

イエス様が私たちに願っておられるのは、罪責感でもなく、私たちが自ら自分を罪に定めることでもありません。イエス様はいかなる場合でも私たちがイエス様との親密な関係の中で平安を味わうようになることを願っておられます。それがまさに私たちに向うイエス様の みこころであることを、私たちは忘れてはいけません。

[二番目に、イエス様がペテロに願っておられたのは、立ち直ることでした。]

ルカ 22章 31節と 32節です。

31 シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。

32 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。

イエス様はペテロが三度もイエス様を知らないと言うことを知っておられました。ところが自分を裏切るその弟子のためにイエス様のなされたことが何だったでしょうか。イエス様は、ペテロが罪責感のゆえに信仰を失って、イエス様を離れることがないようにペテロのために祈られました。そしてイエス様は、ペテロにこう言われました。

[あなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。]

イエス様は、ペテロが信仰を失うとしても必ず立ち直らなければならないと言われました。立ち直るという言葉は、もとの所に戻ってくるというい意味があるギリシャ語です。

イエス様はしばらくの間、ペテロが自分に失望してイエス様から遠ざかるようになることを知っておられました。そして信仰を失って、さまようようになることも知っておられました。しかしイエス様は、ペテロに絶対にイエス様を裏切ってはならないとか、絶対に失敗してはいけないとは言われませんでした。

 

むしろイエス様はペテロが失敗するしかない弱い存在であることを理解してくださいました。イエス様はペテロに言われました。

[あなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。]

これがどういう意味なんでしょうか。

[あなたは、信仰を守ることに失敗するでしょう。私を裏切るしかないはずです。しかし、それでも絶対にあきらめずに、私に戻って来なさい。]という意味でした。

ペテロが人々の前で、イエス様を知らないと三番目に言った時、ペテロは自分を見つめて おられるイエス様と目が合いました。しかしペテロを見つめておられるイエス様の目つきは、冷たい目つきではありませんでした。自分を非難したり失望した目つきもありませんでした。むしろイエス様の目つきはペテロが何ども見てきたことでした。罪人に福音を宣べ伝える時、病人を憐れんでくださる時、そして絶望した人に希望を与える時、イエス様から見たその 目つきでした。イエス様は、その目つきで、ペテロに[大丈夫]と話しておられました。また絶対にあきらめてはいけないと話していました。その目つきが話しているイエス様の心を あまりにも良く知っていたので、ペテロは悲しくて激しく泣くしかなかったのです。

聖書がペテロの失敗に対して私たちに言われるのは、イエス様は、私たちがどんなに弱い 存在であるかを理解しておられるということです。そしてペテロを罪に定められなかった イエス様は、私たちの信仰が破産されて、イエス様から遠ざかった時にも、私たちを罪に 定められないということです。そして最後の瞬間にも、ペテロのために祈られたイエス様は、今も私たちのために祈っておられるということを私たちに言われているのです。

イエス様が私たちに望んでおられることは私たちが失敗しないことではありません。時には信仰を守ることに失敗して、時には信仰が破産される時もあるでしょう。しかしそれでも 再びイエス様に戻って行くこと、それがイエス様が私たちに本当に願っておられることです。

イエス様は、ペテロを赦されて、彼を罪に定めなかったですが、ペテロは自分を赦すことができませんでした。それでペテロは、再び漁師の生活に戻るために、他の弟子たちと一緒にガリラヤ湖に行きました。

ペテロは、相変わらずイエス様を愛していましたが、もはや誰の前でも自分がイエス様を 愛しているとは言えませんでした。そしてイエス様の右の座に座ろうという期待は、なく なってしまって、やはり自分は、漁師にふさわしい存在だと思いました。

そのようにペテロは自ら自分を罪に定めて、イエス様に付き従うことをあきらめましたが、イエス様はそんなペテロに再びやって来られました。弟子たちが舟から降りて地に着くと イエス様が火を()いて、その上に魚とパンを焼いておかれました。

大祭司の中庭で、火にあたっていたペテロは、三度もイエス様を知らないと言いました。 そして火にあたっているペテロに、イエス様が尋ねられました。

[あなたは、この人たちの以上に、わたしを愛しますか。]

するとペテロが、イエス様に答えました。

[主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。]

イエス様は、ペテロに三度同じ質問をされて、ペテロはイエス様に三度同じく答えました。なぜイエス様は、三度も同じ質問をされたのでしょうか。

イエス様を三度も知らないと言ったペテロは、本当に自分がイエス様を愛しているか自信もなく、もはや人の前でイエス様を愛すると言うこともできませんでした。しかしそれでも 明らかな事実は、もはやペテロは、イエス様がなければ生きていけない存在になったということでした。

イエス様は、そんなペテロの心をしっておられました。それでペテロのために同じ質問を 三度も言われたのです。イエス様はペテロの告白を通して、ペテロの愛が本物であることをみんなの前で認めてくださったのです。そしてイエス様がペテロにこう言われました。

[私の小羊を飼いなさい。私の羊を牧しなさい。私の羊を飼いなさい。]

[イエス様がペテロに願っておられたこと三番目は、信仰の兄弟たちを顧みることでした。]

ペテロはイエス様と一緒に十字架にかかることはできませんでした。しかし結局ペテロは、イエス様のように十字架にかかって死ぬようになります。

私たちの信仰は、誘惑と試練を通して実体が現れます。しかし私たちが信仰を失って信仰が破産されるとしても、再びイエス様に戻って行けば、イエス様は、私たちの弱くて不完全な信仰が、実体のあるまことの信仰になるように助けてくださるはずです。そのように多くの信仰の危機と試練と失敗を通して、私たちの信仰はますます成長して、鍛錬されるのです。

 

 

そして私たちは、立ち直った後、私たちが経験したその失敗と回復の経験を通して、試練の中にいる兄弟たちそしてさまざまな理由によって信仰が破産された兄弟たちを助けなければなりません。失望した人は慰めて、倒れた人を支えながら、彼らを立ち直らせることが、 私たちのすべきことです。そして彼らに向うイエス様のみこころが何なのかを教えてくれることが、イエス様が私たちに願っておられることであります。

イエス様の愛によって立ち直ったペテロは、Ⅰペテロ 1章 6節と 7節で、こう告白します。

6 そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、

7 あなたがたの信仰の試練は、火で精錬(せいれん)されつつなお()ちて行く金よりも(たっと)く、イエス・キリストの現れのときに称賛(しょうさん)光栄(こうえい)栄誉(えいよ)になることがわかります。

私たちに訪れる試練と危機は、私たちを恐れさせ、時には失敗させます。しかしペテロは、それでも喜びなさいと言います。なぜならそんな試練と危機の瞬間を通して私たちの信仰は成長して、精錬されるからです。そしてそのように成長した私たちの信仰は、イエス様が 来られる日、称賛と光栄と名誉になるからだとペテロは言います。

そして最後にペテロは、Ⅱペテロ 3章 18節で、こう言います。

18 私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。このキリストに、栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。アーメン。

私たちは、イエス・キリストの恵みと知識において成長しなければなりません。イエス様がどんな愛によって私たちを愛しておられるか、私たちはもっと深く知っていかなければなりません。

イエス・キリストの恵みと知識において、この一週間も喜びと平安を味わうのぞみ家族に なることを主の御名によって祝福いたします。

≫ Read More

2021/02/27 主日メッセージ   nozomich

イエス様の祈り

2021年2月21日 ・ のぞみ教会・主日礼拝 

申告告白

聖歌 607 / 651

祈り 木村喜憲牧師

聖歌 465 / 478

聖書 ルカ 22:39-46

説教 <イエス様の祈り>  木村喜憲牧師

聖歌 423 / 424

献金 <献金の祈り>  木村喜憲牧師

聖歌 383 / 376

祝福の祈り  木村喜憲牧師

 

お知らせ。

♣新型コロナウィルス感染拡大防止にかかる緊急宣言延長に伴いまして、非対面礼拝を3月7日まで延長します。

2月の教会歴及び予定  ◆http://www.nozomich.net◆  

[2/17-4/13 : 四旬節]

 

イエス様の祈り

 

本文 : ルカ 22 : 39 - 46

39 それからイエスは出て、いつものようにオリーブ山に行かれ、弟子たちも従った。

40 いつもの場所に着いたとき、イエスは彼らに、「誘惑に陥らないように祈っていなさい」と言われた。

41 そしてご自分は、弟子たちから石を投げて届くほどの所に離れて、ひざまずいて、こう祈られた。

42「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」

43 すると、御使いが天からイエスに現れて、イエスを力づけた。

44 イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に  落ちた。

45 イエスは祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに来て見ると、彼らは悲しみの 果てに、眠り込んでしまっていた。

46 それで、彼らに言われた。「なぜ、眠っているのか。起きて、誘惑に陥らないように 祈っていなさい。」

皆さんは人生の最後の瞬間が訪れたら、その最後の時間に何をしますか。誰にも死を前に して最後に残っている時間は、人生において最も大切な時間であるはずです。だからその 時間は、一番重要なことをすることに使うはずです。

本文のイエス様も十字架の死を前にしておられました。イエス様が最後の時間に何をした のかを見れば、イエス様が一番大切に思われたことが何かを知ることができるはずです。

本文 39節です。

39 それからイエスは出て、いつものようにオリーブ山に行かれ、弟子たちも従った。

イエス様は祈るために弟子たちと一緒にオリーブ山に行かれました。十字架の死を前にしてイエス様が最後になされたことは、祈りだったということです。

それは、イエス様がキリストとしてこの地におられる間、一番大切に思われたことがまさに祈りだったということです。

今日の本文は、祈られるイエス様に対して、そして祈りについて言われるイエス様に対して記録しています。今日は、本文を通して、祈りに対して一緒に考えてみたいと思います。

[一番目に、祈りは、イエス様の習慣でした。]

本文には、イエス様がいつものようにオリーブ山に行かれたと書いてあります。韓国語聖書には、イエス様が習慣に従って祈るためにオリーブ山に行かれたと翻訳されています。  すなわちオリーブ山に行って祈ることは、イエス様の習慣だったということです。聖書を 読んでみれば、イエス様は、キリストとしての働きを始められる時にも40日間断食しながら祈られました。そしてイエス様は、いかに忙しいことがあっても、いつも習慣的に祈られて、公生涯の最後の働きも祈りを通して終えられました。すなわちイエス様がキリストとしての使命を成し遂げられることができた秘訣と原動力は、お祈りだったということです。

私たちが覚えるべきことがありますが、それはこの地におられる間、イエス様は神様として生きられたのではなかったということです。そしてイエス様は、神様としての能力も全然 使いませんでした。イエス様は、私たちと全く同じ人間となってこの地に来られ、私たちと同じ弱さを持ってこの地で生きられました。それなのにどうやってイエス様は、そんなに すばらしい奇跡を起こすことができたでしょうか。それはイエス様が祈られたからです。

イエス様は私たちと同じ人間として生きられたので、いつも神様の助けと導きが必要でした。それでイエス様は、いつもお祈りを通して神様のみこころを尋ね求められました。そして 祈りを通して、神様の能力がこの地に臨むようにされました。そのようにしてイエス様は、この地におられる間、数多くの奇跡を起こされたのです。イエス様は、そのようにキリストとしての働きを果たされたのであって、それを可能にしたのがまさに習慣的な祈りだったということです。

イエス様がそのような人生を生きられた理由は、私たちもそのように生きさせるためでした。すなわち神様であられるイエス様が、ご自分の能力を使わずに、ただ祈りを通して父なる 神様に頼りながら生きられた理由は、信者がどのように生きるべきか、その模範を見せて くださるためだったということです。

 

 

聖書は、イエス様が習慣に従って、祈るためにオリーブ山に行かれたと証言します。習慣という言葉はあまりにも慣れてしまって自然に行われる行動を言います。ところで違う意味で習慣という言葉は、その行動が習慣になるまで、続けて練習と訓練が必要だという意味でもあります。お祈りがイエス様の習慣だったという言葉は、イエス様もこの地におられる間、祈りが習慣となるまで、努力と訓練を続けられたということを意味することです。

Ⅰテモテ 4章 7節と 8節です。

7 俗悪(ぞくあく)()にもつかぬ空想話(くうそうばなし)()けなさい。むしろ、敬虔(けいけん)のために自分を鍛錬(たんれん)しなさい。

8 肉体の鍛錬もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている  敬虔は、すべてに有益です。

信仰生活は絶対に自然にできることではありません。敬虔になる生活、すなわち信仰生活は必ず練習と鍛錬が必要だということです。練習と訓練を通して新しい習慣をつけることは 決して簡単なことではありません。なぜならそれは、今まで自分に慣れてしまった過去の 習慣を捨てて慣れてない新しい習慣を身につけることだからです。しかしそれにも関わらず、敬虔のために訓練しなければならない理由について、使徒パウロはこう言いました。

[敬虔(けいけん)のために自分を鍛錬(たんれん)しなさい。今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。]

すなわち敬虔は、私たちの命がかかっている問題であるから練習と訓練を通して必ず習慣をつけなければならないということです。祈りはイエス様の習慣であって、イエス様は死を 前にした最後の瞬間でさえ習慣に従って祈られました。そしてイエス様はキリストとしての使命を成し遂げられました。

祈りは私たちをして、神様の知恵と神様の能力によって生きさせる唯一の方法であります。そして祈りはイエス様が何よりも大切に思われたイエス様の習慣でした。私たちにも祈りが習慣になることを心から祈ります。また敬虔になる訓練を通して、イエス様のように神様の能力によってこの世を生きて行く、私たちになることを主の御名によって祝福いたします。

[二番目に、祈りは、最高の解決策でありながら、また最高の対応策であります。]

信者の私たちは、サタンの試みに陥ったり苦難に会ったら、祈り始めます。もし私たちが サタンの誘惑と苦難中で、イエス様に頼り、祈ることができるなら、それは何よりも大きな祝福であります。

詩篇 50篇 15節には、こう書いてあります。

15 苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしを あがめよう。

神様は、私たちが苦難の中で神様に頼り、神様に祈れば、私たちをすべての苦難から助け 出してくださると約束されました。

イエス様を信じて救われた後、私たちの人生は、多くの部分において変わります。ところで本当に大きな変化の中で一つは、信仰がもたらす態度の変化ではないかと思います。

人は誰も苦難に会います。それはイエス様を信じた後にも同じです。しかしイエス様を信じ救われた後に変わることがありますがそれは問題と苦難に対処する私たちの態度であります。信者はどんな苦難に会っても神様が解決してくださると信じます。そしてすべての状況の 中には、きっと神様のみこころと計画があるということを信じます。それを信じているから私たちは大変な状況の中で、神様に祈るようになるのです。

時には、祈っても状況が全然良くならない時もあります。しかし祈りながら苦難に耐えて いる信者たちと話してみれば、共通的に告白する言葉があります。それは、頼れる神様が おられるということが、そして神様に祈れるということが、どれほど大きな祝福であるか 分からないという告白です。

問題が解決されてないのに、どうしてこんな告白ができるのでしょうか。何も良くなった ことがないのに、いったい何が感謝だというのでしょうか。その理由は信仰のゆえです。 神様が自分の祈りに答えてくださり、必ず恵みを授けてくださることを信じるから、信者は苦難の中でも平安を味わうことができるのです。そして今は大変でも、ついには、神様が すべての過程を通して、きっと祝福の道へ導いてくださることを信じるから感謝ができるのです。

理性と論理では理解も説明もできませんが、これがまさに信仰の力であり、またこの信仰があるから私たちは苦難の中で祈ることです。そして私たちがその信仰を持って祈れば神様は、約束の通りに私たちを助け出して、必ず私たちを最善の道へ導いてくださるはずです。  だから祈りは、最高の解決策になるのです。

ところで私たちにとって苦難を解決するための祈りより、もっと重要な祈りがありますが、それは苦難に対比する祈りであります。

 

イエス様が本文 40節で言われました。

40 いつもの場所に着いたとき、イエスは彼らに、「誘惑に陥らないように祈っていなさい」と言われた。

イエス様は弟子たちに誘惑に陥らないように祈ることを言われました。

誘惑と苦難の中で、イエス様に祈れる信仰があるというのは、私たちにとって素晴らしい 祝福と特権であります。しかし信者にとってそれよりもっと重要な祈りは、誘惑と苦難が 訪れる前に、前もって祈りながら対比することであります。

もちろん私たちが前もって祈ったからといって誘惑と苦難が訪れないことではありません。しかし祈りによって対比されないまま誘惑と苦難に会えば、私たちは、あまりにも多くの ものを失うかもしれません。神様に失望して信仰を失うかもしれないし心に深い傷を受けるかもしれません。また準備されない私たちに、突然訪れる苦難は、私たちの心から平安を 奪い去って、その場に恐れを植えます。そして誘惑と苦難の中で心の余裕を失えば私たちの内に隠れていた荒い本姓が出て来て、人間関係に問題が起こったり、罪を犯すようになる こともできます。

ところが、もし私たちが祈りを通して前もって誘惑と苦難に対比することができるなら、 どうなるでしょうか。祈りを通して対比することができれば、誘惑と苦難を通して受ける 衝撃を最小化(さいしょうか)することもできるし、また苦難の中でも心の平安を保つことができるはずです。そして神様のみこころと摂理を信じる信仰が準備されているから、いかなる場合でも信仰が揺るいだり、絶望することがないはずです。そして祈りを通して対比されていれば、苦難の中で、ただ苦しんでいるのではなく、霊的な分別力を持って霊的な状況を見分けながら、 苦難の過程を過ぎることができます。そういうわけで誘惑と苦難が訪れる前に目を覚まして対比しながら祈ることは、最高の対応策になるのです。

ところで誘惑と苦難がいつ訪れるか分からないのに、どうやって前もって対比することが できるでしょうか。だから私たちに必要なことが祈りが習慣になることです。祈りが習慣になれば、私たちは、いつも誘惑と苦難に対比することができるということです。

残念ながらイエス様の弟子たちは、誘惑と苦難に対比することができませんでした。

本文 45節と 46節です。

45 イエスは祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに来て見ると、彼らは悲しみの 果てに、眠り込んでしまっていた。

46 それで、彼らに言われた。「なぜ、眠っているのか。起きて、誘惑に陥らないように 祈っていなさい。」

弟子たちは、自分たちに訪れる誘惑に対比することもできませんでした。誘惑に陥らない ようにイエス様と一緒に祈るべきだったですが、それができませんでした。その結果がどうだったでしょうか。十字架の前で弟子たちはみなイエス様を捨てて逃げ出してしまいました。もちろんイエス様は、復活された後、弟子たちにやって来られて、彼らを慰め、励まして くださいました。それで彼らは、結局偉大な使徒になることができました。

しかしそうなるまで弟子たちは、深い悲しみと絶望に落ちました。イエス様を裏切ったと いう罪責感のゆえに苦しんで、自分たちはイエス様に赦されないだろうと思いました。そのようにすべての希望を失って、イエス様がくださった約束も忘れたまま、再び漁師の生活に戻ろうとしました。このように対比誘惑と苦難は、対比されない弟子たちからあまりにも 多くのものを奪い去って、あまりにも深い傷を残してしまったということです。

今日の本文でイエス様は、誘惑に陥らないように祈ることを弟子たちに二回も言われました。それなら今の私たちはどうですか。私たちは、どんな誘惑と苦難にも対比されているほどに毎日目を覚まして祈っていますか、さもないと苦難に会い、誘惑に陥ってこそ、初めて  祈らなければならないと思いますか。

祈りは最高の解決策です。誘惑と苦難を祈りによって乗り越えようとする人は。すばらしい祝福を受けた人であります。ところで祈りは、最高の対応策でもあります。祈りを通して 誘惑と苦難に対比されている人は、最も賢い人であり、またどんな苦難も乗り越えられる 最も強い人でもあります。

神様が私たちに与えてくださったこの素晴らしい祈りの特権を積極的に使う私と皆さんに なることを主の御名によって祝福いたします。

[三番目に、祈りは、神様のみこころを実現させる道具であります。]

本文 42節です。

42「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」

この御言葉を通して私たちはイエス様の祈りの目的が何かを知ることができます。イエス様にも願い事がありました。イエス様はできれば、十字架の道を避けたいと思われでした。 それが人間としてイエス様が願っておられることでした。

しかしイエス様は、ご自分の願いではなく神様のみこころの通りになることを祈られました。なぜならそれがみんなのための最善の事であり、また人類を罪から救える唯一の方法であることを知っておられたからです。

ある先生が、祈りについてこんな話をしたことがあります。

[お祈りとは、私たちが神様のみこころに説得されることだ。]

祈りの目的は、私たちの願いが叶うことではなく神様のみこころが行われることにあります。なぜなら神様のみこころの通りに行われることが、みんなのための最善のことだからです。

2003年度に上映した、ブルース・オールマイティというコメディ映画があります。ブルースという人が失敗を重ねるようになると神様を恨み、つぶやきました。すると神様は彼の前に現れて、しばらくの間、彼が神様の役割を代行するように神様の仕事を任せました。

その日からブルースには世界中の人々から祈りのメールが届きますが、彼はすべての祈りを叶えてくれることにします。すると40万名の人が宝くじに当たるようになります。しかし 宝くじに当たったのに、当選金(とうせんきん)を17ドルしかもらえなかった人々は、暴動(ぼうどう)を起こしてしまいます。単純なコメディ映画ですが、私たちの願いの通りに行われることが果たして私たちに最善のことなのかを考えさせる映画です。

信者にとって祈りとは、すばらしい恵みであり、また特権であります。イエス様が私たちに祈りという特権をくださったのは、ある面では神様がブルースに神様の仕事を任せたことと同じことであります。

ヨハネ 14章 14節で、イエス様がこう言われました。

14 あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれを   しましょう。

イエス様は、私たちがイエス様の御名によって求めるなら、それをしてくださると約束されました。ところでこの約束は、私たちの願いは何でも叶えてくださるという意味でしょうか。この御言葉で私たちが注目すべき部分は、[わたしの名によって] という部分であります。イエス様の御名によって祈るというのは、どういう意味なんでしょうか。それは、私たちがイエス様の権限代行(けんげんだいこう)として、イエス様の権威を持って、イエス様の仕事を代行するという 意味があります。すなわちイエス様は、私たちが祈りという特別な能力を通してこの地で イエス様の仕事をして、イエス様のみこころを行うことを願っておられるということです。

もちろんこれは個人的な願いのために祈ってはいけないという意味ではありません。ただ 神様が私たちに祈りの特権をくださった目的、そして私たちの祈りの一番目の目的は、  イエス様のみこころがこの地に行われるようにすることだという話であります。

祈りには必ず信仰が必要です。どんな信仰が必要なのかと言えば、神様を神様として信じる信仰が必要です。神様を神様として信じる信仰が何なのかを三つに分けて申し上げます。

一番目に、神様の正しさと愛に対する信仰であります。

神様は正しい方です。そして神様は私たちを愛しておられます。祈りを捧げる私たちには この信仰が必要です。時には、私たちが祈った通りに答えられない時があり、また長い間 答えられない時もあります。しかし神様の正しさと愛に対する信仰があれば私たちは神様が必ず最善の道へ導いてくださるという信仰の中で、平安を保つことができます。

だからある願いを持って祈る時、私たちには、自分が祈った通りになることを信じる信仰も必要ですが、そうならないとしても、今この状況は、神様が自分のために許された最善だということを信じる信仰も必要です。どんな場合でも神様のみこころが正しくて神様の選択が最善だと信じることがまさに神様を神様として信じる信仰だということです。そして神様に祈る私たちには、この信仰が必要だということです。

二番目に、神様を神様として信じる信仰とは、神様の能力と摂理を信じる信仰であります。

神様は全知全能のお方であられます。神様は、すべてのこと知っておられ、またすべての ことをご自分のみこころと計画の通りに行うことのできる方だということです。

私たちが祈った通りにならない時、私たちは(あわ)てます。私たちの祈りが失敗したと思われ、状況が悪くなったと思われる時もあります。いったい神様がどんな思いを持っておられるか理解できない時もあります。

しかし目の前で行われている状況がいかに最悪だとしても、神様が働き始める瞬間、状況は完全に逆転されます。ヤコブの息子ヨセフは、夢とビジョンを持っている人であって神様の御前で正しい人でした。しかし彼は、突然エジプトの奴隷になってしまい、さらにそこでも()(ぎぬ)を着せられて監獄(かんごく)に入られてしまいます。

ヨセフの人生を見ながら希望や祝福という言葉を浮かべる人がいるでしょうか。彼の人生を見ながら神様が働いておられると考える人がいるかということです。誰が見てもヨセフの 人生は、完全に失敗した人生であって、最も呪われた人生でした。

しかしヨセフの主人であられる神様は、全能の神様でした。神様はヨセフを監獄から救い 出されて、彼をエジプトの総理とならせました。

結局神様の働きと計画は、神様が表されるまでは、誰も悟ることができないということです。そういうわけで私たちは、目の前で行われている状況を見ながら、簡単に成功と失敗を判断してはいけません。私たちの目には見えなくても、神様は私たちのために今も休まず働いておられ、私たちを最善の道へ導いておられるという事実を私たちは忘れてはいけないのです。

神様を神様として信じるというのは、神様の知恵と能力を信じることです。そして私たちはこの信仰を持って神様に祈らなければならないということです。

三番目に、神様を神様として信じる信仰とは、神様が主人であられることを信じる信仰で あります。

最近、早天祈祷会で士師記の御言葉を読みましたが、その時代のイスラエルの民を一言で 言えば、信仰生活に失敗した信者だということができます。なぜ彼らは、信仰生活に失敗 したでしょうか。その理由について聖書はこう証言しています。

士師記 21章 25節です。

25 そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを  行っていた。

すなわちイスラエルの民が信仰生活に失敗した理由は、イスラエルに王がなかったからだということです。ところでイスラエルには、ほんとうに王がなかったでしょうか。そうでは ありません。イスラエルに王は、いつも神様でした。神様がイスラエルの王であり、また 彼らの主人であられました。

しかしイスラエルの民は、神様を自分たちの王としても、また主人としても認められませんでした。むしろ自分たちが自分の人生の主人になって、神様を自分の願いを叶えてくれる 道具として利用しようとしました。その結果、彼らは罪を犯して堕落してしまいました。 彼らが堕落した理由を一言で言えば、神様が主人だという事実を忘れたからです。

神様を神様として信じるというのは、神様が自分の主人であり、自分はその方のみこころに従うべきしもべであることを覚えることです。神様が主人であって、私たちはしもべだから祈りにおいて一番重要なことは主人であられる神様のみこころが行われることだということです。すなわち私たちの主人であられる神様のみこころと計画の前で私たちの願いと思いをあきらめることができなければならないということです。

これがまさに神様を神様として信じる信仰であります。そして私たちの祈りにはこの信仰が必要だということです。

説教をまとめます。

祈りは神様が私たちにくださった最も素晴らしい能力であります。私たちにこの素晴らしい特権が与えられた一番目の目的は、私たちがイエス様の御名によってイエス様の仕事をするためであります。だから私たちは、祈りの目的が何かを忘れてはいけません。そして祈りの特権をうまく活用するために、祈りが習慣となる必要があります。

私たちが祈りの特権をよく使えば、私たちは神様の力と知恵によってこの世を生きることができます。そして私たちが行うすべてのことが神様の働きになるはずです。

新しく始まるこの一週間も祈りを通して勝利し、信仰によって神様のみこころを行う私と 皆さんになることを、主の御名によって祝福いたします。

 

≫ Read More

2021/02/21 主日メッセージ   nozomich